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5月も終わりに近づいて、そろそろ尻に火がついてきた頃にこのコラムを書くわけですが、どうも最近意欲がわきません(苦笑)
こういうときは、連載物に限ります(爆)。
というわけで、久々にこれをお送りいたしましょう。
忘れた頃にやってくるストリップのネタですが(原爆)、時系列的には昨年11月に書いた1995年時点から再開する形になるかと思います。
さて、私がパソコン通信で開設していたストリップファンの集まり(BBS)ですが、参加しているメンバーはおおむね2つに分かれていました。
片方は、特定の踊り子の「追っかけ」をやっている方々で、BBSでも主導権を握っていた皆さんでした。
そしてもう片方は、特定の踊り子にのめり込むことはなくストリップそのものを楽しんでいる、いわゆる「一般客」の皆さんでした。
別の表現をするなら、前者は「踊り子ファン」で後者が「ストリップファン」と言ってもいいかもしれません。
さらに細かくいえば同じ「ストリップファン」の間でも、ストリップを「風俗」としてとらえる人と「choreography」として理解する人と分かれていたかもしれません。
そして私自身はといえば、「ストリップファン」でストリップは基本的に「choreography」と考えていましたが、「風俗」としての一面も否定しないというのが、当初のスタンスだったと思います。
しかし、BBSの主導権を握っていた「踊り子ファン」の皆さんとの交流が深まるにつれて、私の考えも変わってきてしまったようでした。
それにつれて、BBSは「踊り子ファン」のほぼ独壇場と化した感があり、「ストリップファン」の肩身が狭くなってしまったのではないかと思っています。
といいますのは、「ストリップファン」は自分の楽しみが最優先ですが、「踊り子ファン」にとってはそれ以上に踊り子のことを優先する傾向が強く、踊り子が不快に感じるような楽しみ方を否定することが、しばしばありました。
そのため、自分の楽しみ方を否定された「ストリップファン」の多くは「沈黙」を選ぶようになり、ますます「踊り子ファン」の勢力が強くなっていったのでした。
今振り返って思うに、「ストリップファン」と「踊り子ファン」はどちらもストリップ劇場からみれば「客」には変わりないのですが、そこに求める楽しみが異なるために互いに反目しあうことになってしまったのかもしれません。
それでも、劇場の中ではそれほど露骨な対立はなかったと思うのですが、ネット上のBBSという場で図らずも、両者の対立の構図が露呈してしまった感じでしょうか。
今では私はこういう場(BBS)を設けたことが、そういう「対立の場」になってしまったことを、率直なところ後悔しております。
とまあ、暗い話になってしまうのであまり書く気が進まなかったのですが、なんとか次回で締めくくりたいと思います。
4月も、早くも3分の2が過ぎてしまいました(苦笑)。
私事ではありますが、このたび転勤し新しい職場での生活が始まりました。
3月までの職場とは違って、男ばかりではありますが雰囲気も明るく、自分を取り戻しつつあることを実感しています。
また、先日母方の祖母が99歳で亡くなり通夜・葬儀などあって、その点でも忙しくてコラムに手が回らなかったことをお許しください。
さて、この数ヶ月の間は、ライター仲間のたかはしういかさんのステージを、いくつか拝見することができました。
そこで、その観賞記録をこちらで書かせてもらおうと思いました。
もちろん、ういかさんご本人も承諾済みです(笑)。
ういかさんは、歌だけでなく演劇やパントマイムなども手がけていて、これらはまさに「choreography」と言うべきものです。
よって「番外編」ではなく、本編として今回のコラムを書かせていただく次第です。
3月16日には、東京は赤坂のジャズバー「杜のうた」で、ミニオペラライブがありましたので、こちらは夫婦で鑑賞させていただきました。
こじんまりとしたジャズバーでオペラというのが、なんか新鮮ですよね。
当日会場に到着すると、なんとういかさん自らお出迎えしてくださいました。
昼食付きでなんと3000円という、破格のコストパフォーマンスを誇るこのライブ、しかも最前方の席でしたので、これは実にこたえられません。
なにしろ、わずか1メートルばかりの距離で、ういかさんはじめとする歌手の皆さんの、生の歌が聴けるのですからね。






今回のメンバーは、歌手3人とピアニスト1人という構成で、歌手はソプラノのういかさんにテノールの佐藤慈雨さん、そしてバスの吉田拓人さんでした。
佐藤さんは、昨年3月に見たオペラ公演の「リタ」で「自由だ!」と日本語で叫んだ、リタの夫を演じていた人で、今回は進行役も務めていました。
また吉田さんは「拓人(たくと)」のお名前通り、本業は指揮者だそうです(爆)。
なおピアニストは、現役音大生の石川花蓮さんでした。
ライブは2部構成で、1部・2部とも最初にオペラのとあるシーンを再現した寸劇が演じられ、そこから歌に入っていくのですが、ここでういかさんの演技力が生き、アドリブとは思えない絶妙な受け答えを見せてくれました。
歌の方も、オペラ歌曲だけではなく日本の歌もしっかり歌いあげていましたね。
個人的に印象に残っていたのは、佐藤さんの「フニクリ・フニクラ」で、途中でなぜか歌詞が「鬼のパンツ」になってしまいました(原爆)。
(「鬼のパンツ」は「フニクリ・フニクラ」にコミカルな日本語の歌詞を付けたもので、NHKの「みんなのうた」でも放送されていたのです)
「リタ」でも笑いを取っていた佐藤さん、さすがこちらでもしっかり笑いをとっていきましたね(笑)。
今回初めての試みだったそうですが、今後もぜひ続けてほしいと思います。
そして4月6日には、雨の中代官山の「シアター代官山」に出かけてまいりました。
ここはかの「劇団ひまわり」の本拠地で、その専用劇場が「シアター代官山」というわけです。
こちらでは、ういかさんは「Bouquet-たえまなくねがうしあわせに-」と銘打たれたお芝居に出演していたのです。
タイトルから想像できるかと思いますが、舞台は結婚披露宴会場となったとあるレストランで、その披露宴を巡って起きる様々なトラブルに、頭を抱えながらもなんとか披露宴を成功させようという、ブライダルプランナーたちの奮闘ぶりをコミカルに描いたものでした。
ういかさんが演じていたのは、そのブライダルプランナーにスタッフの1人で小道具係の「戸川」さんでしたが、なんと披露宴の演出で派手な衣装で踊るシーンもあり、ういかさんの持ち味が実によく出ていたのではないかと思います。
こちらは撮影禁止ということで、写真で雰囲気をお伝えできないのがちょっと残念ですが、参考までに昨年の12月14日に同じシアター代官山で観賞した、パントマイム発表会の写真をご紹介してしまいましょう(笑)。
それにしても、ういかさんの「引出し」の多さには本当に驚かされます。
歌ってよし、踊ってよし。演じてよし。
そのうえ、しゃべると笑いも取れる(爆)まさに「マルチタレント」という表現がぴったりの人だと思いました。
そして、これほどの人材がJunkStageのライター仲間のお一人であることは、大変すばらしいことだと思います。
というわけで、これをお読みの皆さんにも一度ういかさんの舞台をご覧になることを、お勧めしたいと思います。
伸びゆく「初花の芽」が花を開かせるまでを、見届けようではありませんか。
さて3月ももうおしまい、相変わらずぎりぎりで申し訳ありません(苦笑)。
ただ、実は4月から職場を変わることになりました。
いわゆる「人事異動」というやつですが、このためにここのところ忙しくて、こちらまで手を回す余裕がなかったことをご容赦ください。
仕事のことはこちらでは書くまいと思っておりましたが、率直に申し上げてこの1年間は26年間にわたる私の地方公務員生活の中でも、ワースト3に入るであろうひどい年でした。
上司・同僚に仲間外れにされ、いくら仕事をしても報われない、ただ職場にいるだけでも苦痛な日々でしたね。
明日から出向く新しい職場に何が待っているかはわかりませんが、なにより自分に正直に生きることを最優先に、気持ちを新たに臨みたいと思います。
さて。前置きが長くなってしまいましたが、前回「番外編」をお送りすると予告させていただきましたが、なにぶん今月まだ1回しか更新していないので、とりあえず本編を一本お送りしておきましょう。
最近お送りしてきたシリーズの、続編です。
さて、前回はカメラをデジタルカメラを切り替えたところまでお話しさせていただきましたが、2006年以降ははデジタルビデオカメラに切り替えておりました。
といいますのは、choreographyの「瞬間」だけでなく「動き」も記録して残しておきたいという気持ちが前からあったのですが、デジタルビデオカメラで静止画も同時に記録することにより、その両立が可能になったからでした。
しかも、ハイビジョンならば静止画も写真として必要十分な画質を得ることができることもあって、昨年まではこの路線で撮影していました。
しかし実は、最近になって再びデジタル一眼レフカメラに回帰する動きがあったのです。
確かに、ビデオカメラなら写真とビデオを同時に撮影できるメリットはあるのですが、その画質は専用のデジタルカメラに比べるべくもなく、また縦長の写真は取れないという落とし穴がありました。
最近ボディビルの方で撮影仲間もできたのですが、彼もデジタル一眼レフを駆使して、私が恥ずかしくなるくらい見事な写真を撮っていました。
そこで私も、昨年末にキヤノンの「EOS 7D」というデジタル一眼レフを購入してしまいました。
以前愛用していた、「EOS Kiss Digital」に比べて画素数は3倍の約1800万、連写性能も1秒間に8枚というマシンガンみたいな「馬力」を誇り、頑丈なボディとあいまって実に頼りになる「相棒」といえるでしょう。
このEOS 7Dを使って撮影したchoreographyの実例は、こういう感じです。
お気づきの方も多いと思いますが、今年1月13日にさいたま市で観賞した大道芸のパフォーマンスの写真です。
まだこのカメラで撮影したchoreographyは、これしかないのです(苦笑)。
4月になれば、地元横浜での「ヨコハマ大道芸」及び「野毛大道芸」で、遺憾なくそのパワーを発揮してくれることと思います。
そして、5月から始まるボディビル大会シーズンでも、活躍してくれることでしょう。
というわけで、私がchoreographyを残すために使ってきたカメラの変遷をお伝えしてまいりました、このシリーズをこれにて締めくくらせていただこうと思います。
ご高覧、ありがとうございました。
今月も早くも月半ばとなりました。
やはり年度末は公私ともに忙しく、なかなかこちらの方まで手が回りませんでしたが、今回はなんとか書いてみましょう(笑)。
今回も、前回の続きでカメラについて書かせていただきます。
1990年代ではもっぱらコンパクトのフィルムカメラでchoreographyを撮影してまいりましたが、21世紀に入って大きな変化がありました。
そう、デジタルカメラがこの頃から手の届く値段になってきたのです。
初めて買ったデジタルカメラはオリンパスの「C-100」で、2001夏に買いました。
わずか130万画素(1280×960ドット)でズームもありませんでしたが、けっこう撮ろうと思えば撮れるものなんですね。
このカメラでの作品例は、こちらです。
これは2001年の7月から9月の夏休みシーズンにかけて、東京・池袋の屋内型テーマパーク「ナムコナンジャタウン」で行われていた、中国雑技のパフォーマンスを撮影したものです。
この頃のデジタルカメラは、画素数の少なさもさることながら画質も今とは比べ物にならないほど低く、また次の撮影が可能になるまでの時間もかなりかかったため、動きのあるchoreographyの撮影にはまだとても耐えられるものではありませんでした。
ですので、当時はフィルムカメラも並行して使っていました。
上と同じパフォーマンスをフィルムカメラで撮ると、こうなります。
こちらは、現像後のネガフィルムをスキャナで読み取ってデジタル化したものですが、やはりこちらの方が質の高い画像ではないかと思います。
私が完全にフィルムカメラからデジタルカメラに乗り換えたのは、2004年にキヤノンのデジタル一眼レフカメラ「EOS Kiss Digital」を入手してからのことでした。
しかしながら、ご覧いただきましたように当時の性能の低いデジタルカメラであっても、どうにか観賞に耐える写真を撮影することは不可能ではありません。
また、このJunkStageのライターの方で、携帯電話で芸術的な写真を撮影する方もかつておられました。
もちろん、携帯電話のカメラの性能も向上著しいものがありますが、あのおまけのような小さなレンズを通して、本格的な一眼レフカメラで撮った写真にも劣らない、見事な写真をコラムに掲載されていたことを、今でも記憶しています。
ここで私は、あるひとつのことわざを思い出すのです。
「弘法筆を選ばず」
これは、弘法大師(空海)のような優れた書家ならば、どのような筆を使ってでも立派な書が書けるという意味ですが、写真撮影についても同じことが言えるのではないかと、私は思っております。
すなわち、優れたカメラマンであるならば、どんなカメラでも芸術的な写真を撮ることができるものなのだと。
それこそ携帯電話のカメラや使い捨てカメラであっても、「いい写真」が撮れないということは決してないんだと思うわけです。
私もカメラに関しては、できるだけシンプルな構成で撮影に臨むようにしていますが、その中でchoreographyの魅力を十分に切り取れるような写真を撮りたいと、常に思って撮影に臨んでいるつもりです。(あくまで「つもり」ですが・・・)
今回はなんか、偉そうなことを書いてしまいましたね(苦笑)。
さて次回は、まことに勝手ながらしばらく封印してきた「番外編」を、書かせていただこうと思います。
え、フィギュアスケートの世界選手権はどうしたって?
まだ録画も見ておりません(爆)。
まあ、男女とも来年のソチ五輪の出場枠を3つづつ確保できたのですから、よろしいのではないでしょうか。
さあ、2月も今日でおしまいです。
尻に火がついてきたところで、もうひとつコラムをお届けいたしましょう。
今回は、前回の続きということでカメラのお話をまたさせていただきます。
そういうわけで、1990年代のchoreography撮影はコンパクトカメラ+高感度フィルムという組み合わせで、もっぱら行っておりました。
しかしご存知のとおり、カメラのフィルムは長くても36枚撮りまでで、フィルム交換の間にいいシーンを撮り逃すこともよくありました(苦笑)。
お金に余裕があれば、カメラを2台用意してかわりばんこに撮影すればよいのですが、あいにくそこまでの余裕はありませんでしたしね。
こうして、choreographyの撮影にいそしんできたわけですが、フィルムカメラというものは一瞬を切り取るものなので、動きのあるchoreographyの撮影では「ここぞ」という一瞬にタイミングを合わせてシャッターを切ることが、実に難しいものです。
これは数十年続けていても、自分でもまだまだだなあと感じております(苦笑)。
だいたい、ファインダーからのぞいて「あ、これだ!」という瞬間を見てからシャッターを切っても、もう遅いのです。
ですから、何十枚何百枚と写真を撮ってもそのうち観賞に値するショットは、せいぜい数枚程度といったところが実情でした。
そして私は、自分なりの格言らしきものを作って自戒するようになりました。
「シャッターチャンス!と思ったときには、もう遅い」
ではどうすればよいかというと、「正解」といえるものがまたないんですよね(苦笑)。
ある程度場数を踏めば、演技の流れから「ここらへんなら」という部分がなんとなくわかってはくるのですが、結局は「カン」が頼りということになりますか(爆)。
しかしまあ、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という言葉もあるように、何枚も撮っておけばいくつかは使えるショットも偶然撮れたりするもので、これを地道に積み重ねていくということではないでしょうか。
というわけで、1990年代後半の私の作品からもう少しご紹介してみましょう(笑)。
こちらは、1995年に今はなき横浜プリンスホテルで撮影した、新彊ウイグル自治区雑技団のコントーションのパフォーマンスです。
横浜プリンスホテル内の中国料理レストラン「李芳」で、当時は毎晩中国雑技の公演があり、料理を楽しみながらchoreographyを観賞できたのです。
このときは燭台のロウソクの光を際立たせるために場内を暗くした演出だったのですが、ここで高感度フィルムが活躍してこのような写真を撮ることができました。
中国雑技にしては、衣装がなかなかセクシーだったのも魅力的でした(笑)。
少数民族であるウイグル族によるパフォーマンスだったからこそ、でしょうか。
よし、これで今月のノルマはなんとか果たしたぞ(爆)。
3月はもう少し、間隔を整えましょう(苦笑)。
今月も下旬になって、まだコラムを書いていませんでした(苦笑)。
いや本当に最近は、choreographyを全然見ていないものですから・・・
で、苦し紛れに今回はこういうネタでやろうかと思います。
前に、昨年末中古のデジタル一眼レフカメラを買ったお話をしたかと思いますが、今回はchoreographyの撮影に欠かせないカメラのお話をさせていただきます。
演じられたその場限りのchoreographyを記録し、いつでもその魅力を見返すことができるようにしたいという気持ちは、常に私の中にありましたが、私がchoreographyの写真を本格的に撮影するようになったのは、1990年代に入ってからのことだったと思います。
といいますのは、それまで一般に体操・新体操やサーカス・ダンスなどのchoreographyは、カメラで撮影するには暗い場所で行われていて、当時一般大衆が写真を撮影することはたとえ禁止されていなくても、技術的にほぼ不可能なことだったからです。
せいぜい、屋外で行われた大道芸が撮影できるくらいだったでしょうか。
もっとも、当時の私は大道芸でchoreographyが見られることを、まだ知らず興味を持っていませんでしたが(苦笑)。
しかし1990年代に入ると、感度が普通のフィルム(ISO100)の16倍(ISO1600)という高感度フィルムが手軽に入手できるようになってきました。
また、コンパクトながらオートフォーカスでピント合わせの手間が省け、しかも3,4倍のズーム機能もついた便利なカメラが、手軽な価格で入手できるようにもなりました。
このフィルムとカメラの組み合わせにより、暗い屋内で行われていたサーカスでもなんとか撮影できるようになり、その魅力を残しておくことができるようになったのです。
そんな私の初期の写真は、こういう感じでした。
これは1992年秋に神奈川県相模原市で行われていたイベントに来演していた、フランスのミニサーカスのパフォーマンスの模様です。
もっとも、演じていた彼女自身はは中国の出身で、主に中国雑技の皿回しなどやっていたわけですが(爆)。
もうひとつ、この時期のchoreographyをご覧いただきましょう。
あらゆるchoreographyの中でも私が最も好きなのが、体の柔らかさと美しさを「これでもか」というほど見せてくれる、「コントーション」というアクロバットです。
こちらは、1994年の秋に愛知県のリトルワールドで初めて見た、モンゴルサーカスのコントーションです。
屋外で行われたこともあって枚数もかなり撮りましたし、これを見るために横浜から何度も出向いたものです。
驚異的な体の柔らかさだけではなく、体の美しさも大きな魅力でしたが、これ以降見るモンゴルサーカスではその体全体を衣装で包んでしまい、魅力を半減させてしまっているのが残念です。
うん、苦し紛れに書き始めたネタでしたが、一旦書き出すとこれはなかなか行けそうな気がしてきました(笑)。
これも今後、シリーズ化してみようかな。
さしあたっては、今月中にもう1回コラムを書かなくちゃいけないし(爆)。
おまけ
24日にはJunkStage総会に出席してまいりました。
しかし、出席したメンバーで頭が白いのって私だけでした(苦笑)。
寄る年波には勝てず、懇親会も途中で失礼せざるを得ませんでした。
新しいライターの方も増えてきたし、やっぱり潮時かなあ(原爆)。
2013年は早くも1か月が過ぎようとしています。
考えてみれば、私は今年まだコラムを1回しか書いておりませんでした。
前回(1月13日)以降、choreographyをまったく観賞していなかったもので・・・(苦笑)
ネタに困ったところで、苦し紛れに久々にこの連載を復活させるわけです(爆)。
お話は、確か結婚したことまででしたが、それは1995(平成7)年のことでした。
当時は仕事で心身ともに疲弊した状態でして、ストリップを見に行くことは当時に私にとっては、もっとも有効なストレス解消手段でもあったのです。
しかし問題は、それが結婚後も続いたことでした(原爆)。
本当にカミさんには悪いことをしたなあと反省しておりますが、自由にさせてくれたことには感謝しています。
あ、もちろん休みのときにはよく夫婦で一緒に、いろんなところに出かけましたよ(笑)。
ストリップ劇場にも、2回ほど連れて行きましたが(水爆)。
さて、当時はいわゆる「アイドルストリッパー」の全盛期で、テレビ番組でもよく取り上げられていましたし、雑誌のグラビアを飾ったりもしていたものです。
そして彼女たちのステージはまさに「choreography」としても、かなりいい線いっていたのではないかと思います。
しかしその一方で、「風俗」としてのストリップも1990年代にはまだ健在でした。
これまではっきりとは書きませんでしたが、すでに今世紀には「過去の遺物」と化したので、書いてしまいましょう。
私がストリップを見始めた1980年代半ばの頃、ほとんどのストリップ劇場のメインの演目は「本番生板ショー」というものでした。
これは要するに、ステージの上でダンサーと観客代表がある「行為」を行うというものでした(中性子爆)。
そして、その代表になる権利を得るための「ジャンケン合戦」の熱気と殺気は、それはすさまじいものでした(苦笑)。
ですから、形は「ショー」でも中身は正直見られたものではなかったものが、正直大多数でしたね。
少数ながら、踊りもきっちりこなすダンサーもいましたが・・・
そんな中で、黎明期のアイドルストリッパーやアクロバットを見せるダンサーは、「見せる」だけで観客を満足あるいは納得させなければならなかったわけですから、当然質の高い「choreography」を見せなければならなかったのです。
逆に1990年代後半、「風俗」としてのストリップの影が薄くなっていく一方で、「choreography」としてのストリップの質が落ちてきたと感じられるようになりました。
「昔はよかった」という言葉は古い人間が言う言葉なのでしょうが、ことストリップに関して言わせてもらうなら、まさにこの一言に尽きると思います。
まあ、私ももう古い人間の1人なんでしょうけどね(苦笑)。
と、今回は横道にそれてしまいましたが、ここらへんでなんか書いておかないと、次いつ書くかまたわからなくなっちゃいますからね(爆)。
こんな感じで、しばらくゆっくりさせていただこうと思っております。
今更ですが、あけましておめでとうございます。
今年の年末年始は風邪をこじらせておりまして、choreographyを観賞しておりませんでした。
ようやく今日、観賞することができましたので、さっそくレポートさせていただき今年のコラムの幕開けにしたいと思います。
今日行ってきたのはさいたま市のさいたま新都心駅で、例年この時期に駅周辺で大道芸のパフォーマンスを行っているのです。
この「さいたま大道芸フェスティバル」と銘打たれたイベントに、出向いてきた次第です。
もっとも屋外のパフォーマンスだけに寒さも半端ではなく、私もなかなか横浜から足を運ぶだけの気合いが入りませんでした(苦笑)。
しかし今回は、先月初めて拝見したポールダンスの「めりこ」さんが登場し、また中国雑技のパフォーマンスがあるということで、何年かぶりに出向くことにしたのです。
今回見たパフォーマンスは、他分野のアーティストとのコラボレーションでした。
5人組の管楽器ユニット「Cocochi-kit」の奏でる音楽をバックに、めりこさんが「熊男」を鞭で打ちながら登場するという、インパクトの強いオープニングでした。
実はこの「熊男」は、ジャグリングアーティストの森田智博さんで、沢入国際サーカス学校出身の筋金入りです。
このメンバーによって、「奇想天外な話」が展開されたというわけですね。
それにしても、めりこさんのコスチュームはかなり過激でしたね(爆)。
そしてもうひとつ、おなじみ在日中国雑技芸術団のパフォーマンスを見てまいりました。
こちらは男女1人づつによるわりとこじんまりとした内容で、鞭の芸と足芸それと写真には撮りませんでしたが以前にもご紹介したローリングバランス、といった構成でした。
この「さいたま大道芸フェスティバル」も、今回で10回目を数えるそうで寒い中人出もかなりありました。
私が見なかったパフォーマンスの中でも、アクロバットありダンスありで魅力的なchoreographyが数多くあった模様です。
とまあこんな感じで、今年も大道芸を見る機会が多くなりそうです。
さて、2012年も残すところ数時間となってまいりました。
今日は一日中家にいて、ゆっくりこのコラムなど書くつもりでいたのですが、家族から年賀状と電気ストーブの買い出しを頼まれたのをよいことに、東京ビッグサイトまで「コミックマーケット83」のコスプレ撮影に出かけてしまいました(爆)。
といいますのは、一昨日(12月29日)に中古でデジタル一眼レフカメラの「EOS 7D」(Canon)本体が、6万円弱で出ていたので思わず衝動買いしてしまい、さっそくその性能を試してみたかったからです(原爆)。
というわけで、当初は「私とストリップ」の完結編を書くつもりでいたのですが、予定を変更して今日は簡単に済まさせていただきます(笑)。
(年内に「卒業」するつもりだったので、そこまでに決着をつけるつもりでしたが、その必要もなくなったので・・・)
この季節で「choreography」といえば、そうフィギュアスケートですね。
今年はこれで早くも3回目となりますが、またも将棋ファンを釣る(爆)「羽生ネタ」を使わせていただきます(笑)。
なにしろフィギュアスケートはあまり私の「得意分野」ではないのですが、かといってこのシーズンはほかにあまりchoreographyネタがありませんので、なにとぞご容赦くださいませ(苦笑)。
まず12月上旬には、2014年に冬季オリンピックが行われるロシアのソチで、「ISUグランプリファイナル」が行われました。
日本からは、男子が高橋大輔選手・羽生結弦選手をはじめなんと4人、女子も浅田真央選手と鈴木明子選手の2人が参戦しましたが、男女あわせて出場選手わずか12人のうち半分を日本の選手が占めたのは、それだけでもすでに快挙と言えるのではないでしょうか。
さらに男子は高橋選手、女子は浅田選手が優勝して日本勢の「アベック優勝」という、これまた空前の快挙が達成されました。
これまでグランプリファイナルでは、日本勢では女子は過去3回優勝していますが、男子は優勝がなく今回が初めてだったとのことです
ちなみにこのとき羽生選手は、高橋選手に次ぐ2位でした。
しかし、「羽生ネタ」の本番はここからです(爆)。
そう、今月下旬に札幌市で行われた全日本選手権において、ついに羽生選手が高橋選手を降して優勝したのです。
ついに、フィギュアスケートの世界において「羽生名人」が誕生しました(笑)。
(ちなみに将棋の方は現在「羽生名人」ではなくて「森内名人」です)
今月7日に18歳になったばかりの羽生選手ですが、すでに「王者の風格」も感じられますね。
ソチ五輪はもちろん、2018年の平昌(韓国)五輪までは日本男子勢を引っ張って行ってくれそうな気がしています。
2位の高橋選手は順当ですが、3位には無良崇人(むら・たかひと)選手が入り、この3人で来年の四大陸選手権(大阪)及び世界選手権(カナダ)に臨むことになります。
小塚崇彦選手が5位と不調だったのが思えましたが、男子も女子に劣らぬ激戦区になったことは確かでしょう。
それが、さらなるレベルアップになることを期待しています。
一方女子は、浅田選手の優勝そして村上佳菜子選手の2位は順当に決まった感じですが、3位にジュニア世代の14歳、宮原知子(さとこ)選手が割って入り、鈴木明子選手は4位に押し出された格好となりました。
宮原選手は昨年も注目していた存在でしたが、1998年3月生まれということで実はソチ五輪にも出場可能だったことは、つい最近知りました。
ただ、来年の世界選手権にはまだ出られないので、浅田選手・村上選手・鈴木選手の3人で四大陸選手権及び世界選手権に臨むことになりました。
地元日本の大阪で行われる四大陸選手権は、おそらく世界選手権に向けてのいわば「壮行会」という感じになるのでしょう。
来年の世界選手権は、カナダはオンタリオ州の「ロンドン」というまぎらわしい場所で行われますが(爆)、ソチ五輪の出場選手枠を決める大事な大会でもあります。
男女ともぜひ好成績を挙げて、それぞれ3人づつの出場枠を確保してほしいと思います。
以上をもちまして、今年の私のコラムを締めくくらせていただきたいと思います。
読者の皆様方をはじめとして、JunkStageスタッフの皆さんそしてライター仲間の皆さんには、今年も大変お世話になり感謝しております。
本当にありがとうございました。
一時期は、今年いっぱいで「卒業」しようと考えたこともありますが、来年もできるかぎりがんばってコラムを書き続けようと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
それでは、皆さんどうぞよいお年をお迎えください。
この2012年も、残すところわずかとなりました。
少し間が空いてしまいましたが、ここらへんで一発書いておかないといけませんね(笑)。
さて今回は、初めての試みになりますが、もう一つ私がやっているボディビルのブログとの「連動企画」といいますか、同一内容でお送りさせていただきます。
またの名を「手抜き」とも言います(爆)。
その私のブログですが、ご存知のとおり「行動派のI love muscle beauty!」と銘打っております。
「行動派」というのはボディビル関連の活動における私のハンドルネームで、「行動派musclle beautyファン」の略でもあります。
そしてその「muscle beauty」なのですが、私流の定義では「ボディビル大会に出場している現役の女性ボディビル選手」ということになります。
ここでいう「ボディビル」には、ボディビルのほかに健康美・フィットネス・ボディフィットネスも含まれます。
私はここで、「大会に出場している」ということにこだわっています。
といいますのは、私はボディビルとは無関係の「部外者」であり、muscle beautyの皆さんを拝見する機会は、ボディビル大会を除いてほかはないからです。
どんなに鍛え抜かれて魅力的な体を持っている女性でも大会に出てくれなければ、私はその体の魅力を知ることはできません。
ですから大会に出ていない人は、私にとっては「いない」ことと同じで「muscle beauty」とは言うことはできないのです。
逆に言えば極端な話、ボディビルの競技歴がまったくなく鍛えられていない体の女性であっても、選手としてボディビルの大会に出てきた以上は、私的には「muscle beauty」であるということになります。
なぜこういう話を切り出しかと言いますと、例年のことではあるのですが今年も数多くのmuscle beautyの方々が大会から姿を消していき、それを非常にさびしく思ったからであります。
率直なところ、ボディビル競技において女子選手の入れ替わりはかなり激しいものがあります。
10年以上の長期にわたって活躍を続けている選手がいる一方で、1年間活躍してそれっきりという選手も少なくありません。
中にはたった1回大会に出て、以降姿を見ない選手もしばしば見かけます。
せっかく魅力的に鍛えた体を勇気をもって披露しながら、それが長く続かないことはとても残念に思えてなりません。
だから私は、muscle beautyの皆さんとは常に「一期一会」の出会いであるとの心構えをもって、真剣に観戦及び撮影に臨むよう心掛けているつもりです。
また、4つあるカテゴリーのうち「健康美」に関しては、他の3つのカテゴリーよりも一段低いものと考えている人が、選手や関係者の中に多く見られることを感じています。
たとえば役員の方が健康美で優勝した選手に、「健康美は一度優勝したら、その後はボディビルやフィットネス・ボディフィットネスに専念すべきだ」というようなことを言ったという話を聞いたりします。
これも考えてみれば、とんでもない話だと思います。
といいますのは、日本の女子ボディビルの歴史は実はその健康美から始まっているからです。
ボディビルで女子の日本選手権が始まったのは、1983(昭和58年)年のことでした。
そして、オールジャパンミスフィットネスが始まったのはさらに遅く、1996年(平成8年)に第1回が開催されています。
さらにオールジャパンミスボディフィットネスに至っては、第1回が行われたのは2007年(平成19年)のことでした。
一方健康美ですが、現在開催されているミス21健康美こそその名の通り、21世紀に入った2001年(平成13年)からのスタートですが、その前身である「全日本実業団ボディビルコンテスト」の「ミス健康美」部門は、1977年(昭和52年)に始まっています。
つまり、ボディビルの日本選手権よりも長い歴史を誇るのが、健康美なのです。
そして健康美から、ボディビル・フィットネス・ボディフィットネスと枝分かれしていったわけですね。
ですので、日本におけるの女子ボディビル競技のいわば「源流」でもある健康美をないがしろにすることは、けしからんと憤慨している次第です(爆)。
もし仮に、ボディビルの日本選手権とミス21健康美が同じ日に違う場所で開催されたとしたら、私はミス21健康美を観戦することを選択するでしょう。
というわけで、今回は私のmuscle beauty及び女子ボディビル競技についての考え方を、披露させていただきました。
もうあと2日しかありませんが、年内にもう1回書かせていただこうと思います。











































































