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2008/11/10

地球の舳先から vol.98
世界の家族のこと vol.6
インド編

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インドに行くときは、ホームステイで。なぜか、そう決めていた。
が、年とともに戦闘能力を失っていたわたしは(体力を要する旅は10代のうちにすべきである)、
日本でステイ先をさがしてから出国。

出国後の、デリーでの恐怖体験や、聖地ガンジス川沿いのバラナシでの戦いの記録は
またいつかにまわすとして、最後に訪れた西の地、コルカタでのこと。
コルカタは、英語名をカルカッタ。こちらの地名のほうが慣れ親しまれているかもしれない。
新興国、IT大国などと言われるインドだが、それは一部の都市。
コルカタでは、車線を無視して走る獰猛な車と、その人口、噴煙に驚かされた。

人口密度は東京の2倍。
人口の半分がスラム民、ハンセン患者などで占められ、街のいたるところで
観光客が落とした、水溜りに浮かぶポテトチップスを無我夢中で追う
もう死んでいるであろう赤子を背中にしょったまだ7~8歳の女の子の姿が見られる…
それが、わたしのコルカタの印象だった。
足が杖のようになった老人が、四つんばいの動物のような格好で飛びながら近づいてくる。
思わず後ずさりしてしまう、そんな光景があった街だった。

わたしが滞在させてもらったのは、とある中産階級の家だった。
毎日、バイトで都市部に勤める医師がわたしの部屋に通って英語を教えてくれた。
その先生から、いろんなことを教わった。一緒にドライブもしてもらった。
一番印象的というか、この街を顕著に表していると自分でも思ったのが、
わたしが「国会議事堂かなにかですか?」と聞いた大きな建物に、彼が答えた
「金持ちの“家”です」という台詞だったろう。

インドにはヒンドゥー教という古くから親しまれた宗教があるが
中流以上の貴族は自らの子どもをミッション系(=キリスト教)の学校に通わせ、
毎日お手伝いさんの車で送り迎えをさせている。
そのすぐ隣の道路では、前述の子どもが言葉もろくに喋れないまま観光客から
わずかな小銭や食べものを恵んでくれと訴えるのだった。

貧富の差がある国など、いくらでもある。
しかし、そういう国は住む場所、暮らすコミュニティからして貧富によって分かれていた。
これほどまでに、壁1枚を隔てただけで恐ろしいほどの差がある国は、見たことがなかった。

わたしのステイした中産階級の家庭は、とても平和だった、ように見えた。
ひとり息子は学校には行かず、毎日家庭教師が勉強を教えに来る。
お父さんは昼すぎに仕事から帰ってくるとすぐにシャワーを浴び、それからは
ふんどしがわりのバスタオル1枚。
お母さんは3食を手作りしてくれる。

…が。
否定も肯定もわたしはしないが、ひとり息子はヒトラー信奉者(苦笑)
未だに、毎年お正月になると「今年1年があなたにとって高貴で幸せな年でありますように」
というひとことつきの、しかしヒトラーの敬礼の姿を全面にあしらった
年賀状ならぬWebグリーティングカードを送ってくれる。
かならずそこには「I respect him」と添えられているのだった。

10歳のくせして(くせして、というのは勿論負け惜しみである)英語ぺらぺらの彼と語り
わたしはそれでも毎日、マザーテレサの施設に通っていた。
ボランティア登録をすると全員にもらえるマザーのペンダントを何度彼は馬鹿にしたことか。
しかし、霊的といってもいいほどの体験を多数マザーテレサの施設でしたわたしは
すっかりキリスト教というものに、感化はされないまでも怯えに近い感情を抱いていた。

ちなみに、食事は毎日カレーだった。いや、カレーだったというのは語弊がある。
日本人がいろんな料理に醤油を入れるような感覚で、インドの方々はカレーなのだ。
だから毎日、肉料理、魚料理、タマゴ料理…でも全部カレー味。というだけの話。
見方を変えれば、毎日毎食、献立は違うものを用意してくれていた、ともいえる。

加えて「ナン」はインド特有の伝統料理かと思っていたのだが、
実は高級品で、一般の家庭には食卓にのぼったりなどしないとのこと。
ナンは生地をねかせて発酵させてから作るので、パンのようにふわっふわ。
一方、これの代わりに毎日の食卓に上がるチャパティはクレープの生地のようにぺらぺら。
銀のアルミ容器に、カレー、いや、カレー味の料理が3品ほど。
それをチャパティで辛さを紛らわしながら食べるのである。

毎日サリー姿のお母さんといっしょに、チャパティをこね、
コンクリートのリビングにあぐらをかいて座る。
いろんなことがわからなくなるインド滞在であった。
いや、世界に出るたびに、世界をひとつ知るたびに、
わからないことがひとつずつ増えていく、そういう実感があった。

2007/11/16

地球の舳先から vol.30

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インド旅行記 vol.7(最終回)

コルカタを離れる日。
庶民(といっても私が触れ合えるのは中流階級なのだが)の生活にすっかり馴染んでいた。
床に座って、バナナの葉っぱをお皿にしていただくカレー味の料理も。
風呂上りが一番機嫌よく、トランクス一丁でふんふん鼻歌を歌うお父さんにも。

出発は夜だったので、マザーハウスへ寄って挨拶をしていくことにした。
そこで私ははじめて、マザーが今もそこに眠る礼拝堂に入った。
だれでももちろん無料で入ることは出来るのだが、無宗教の私が足を踏み入れるのは、何かが違う気がしていたからだ。

靴を脱いで、足を踏み入れる。
目の合ったシスターがにっこり微笑みかけてくる。
マザーテレサの棺が綺麗にバラで飾られている。
淡い光が差し込むその場所で、私はゆっくり歩いて近づいた棺の端っこのほうに、唇を触れさせる。
控えめに光を放つろうそくが綺麗だった。
姿勢をもとに戻し、しばし礼拝堂のなかを歩いていると、訪れた人が皆、棺にキスをして敬愛を示している。

そのとき初めて、わたしは自分の異変に気付いた。
人々の礼をあらわす仕草を見ながら、なぜわたしはついさっき、あれと同じことをしたのだろうと思ったのだ。
礼拝堂の中は空いていて、前の人を見習ったというわけではなかった。
加えて、教会に行ったこともないわたしが、キリスト教なりのルールや慣習マナーを知っているはずもない。

でもなぜかあのときは、それがあらかじめ知っていることであるかのように、自然に起きた行動だった。
不思議に思う気持ちはしかし動揺することもなく。
それが普通であると思えるだけの、雰囲気があった。

礼拝堂を出て、初日にボランティア登録をしたときに貰った、マザーハウスのペンダントトップを取り出す。
極力原価の安い、アルミでできた薄い薄い楕円形に、マザーの像が彫られている。
この軽さを、彼女たちは清貧と呼んだのだろう。

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ステイ先に戻り、部屋の掃除をして、初めてここへ来たときにあったチェスとの位置にマザーテレサの伝記を戻す。
スーツケースに鍵をかけると、お母さんがやってきて、チャパーティーを紙に包んでくれた。
「インドの飛行機は、何時間遅れるかわからないからね」
そう言って、笑う。

がらんどうな空港へ行き、案内ボードを見て驚いた。
12時間前に経っているはずのエア・インディア機が、まだ空港にも到着していない。
私はクアラルンプール経由の、マレーシア航空。
出発前は、直行便のエア・インディアを取りたいと希望を出していたのだが、
「う~ん…かかる時間は、結局同じだと思いますけどねえ」
と言った旅行代理店の担当者の言葉が蘇る。

私を乗せたマレーシア航空は、ほとんど定時で飛び立った。

帰国後数日して、渋谷で偶然、マザーの施設の証である青い三本線のサリーを着た女性を見た。
どこか神々しいそのオーラとすれ違いながら、どこかで宗教をすべて一緒くたに胡散臭いと嫌悪していた自分の、狭さを知った。
end

2007/11/09

地球の舳先から vol.29

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インド旅行記 vol.6(全7回)

こちらは、午前中に通っていたシャンティダンという施設。
女性のみの施設で、ボランティアも女性のみ。
主にバングラディシュからの難民や、強制売春・人身売買(あるんです、未だに)から逃れてきた人、精神障害者、知的障害者、妊婦など。

妊婦と言っても、普通のお母さんのことではない。
望まれない妊娠の多いインドで、カトリックが人工中絶を禁止しているため、
マザーハウスでは病院に掛け合って中絶を希望する人がいたら
マザーハウスで育てるから産んで欲しいと頼んでいるのだ。
そうやって生むだけは生むと決めたものの満足な衛生・医療・産前産後の環境が整っていない人たちもここで生活する。

ちなみに日本にあるマザーテレサの施設もこれと似たような活動をしていて、
主に日本在住の外国人が出産をする手助けをしているそうだ。

ここの人たちは体は健康な人が多いので、だいたいのことは自分でできる。
洗濯、掃除、食事なども、たまに自力でできない人もいるのだが、
そういう人は施設の人たちが助けてあげてやっている。

ここでは精神障害のある人が多いため、話し相手になってあげるのが一番の仕事。
生活そのものを手伝うというよりも、ちゃんと渡した薬を飲んでいるかどうかの監視や、
だいたいの人が文字を理解しないのでアルファベットのゲームで遊んだり絵を描いたりする。
人々は本当に懐っこく、毎朝行くと赤い花をくれたり、私の足に額をつけてお祈りをしてくれたりするし、
掃除や洗濯を手伝ってあげるよりも、髪を結ってあげたり爪を磨いてあげたりするほうが喜ばれるのだ。
どんな状況にあっても、やはり女性は女性。
だから逆に、マニキュアや石鹸などを巡った争いが絶えなかったりもする。

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コルカタの中心街から離れていることもあり、ボランティアも少なく、私の滞在中は4人だった。
毎朝施設に行くとあっという間に10人くらいの女性に取り囲まれ、
わからない言葉で話しかけられてここでもやはりわからない言葉で返しつつ、
だいたい手を引かれて施設内を散歩しながら1日が始まる。

一軒家のDAYADANに比べここの敷地は非常に広大。
何十棟もの建物に池、舗装された道路、公園、病院とひとつの町を形成している。
平和は平和だが、もと難民のお母さんの中には一日中外を見つめて
口を開けば交通手段のことや地名の話しかしない人もいる。
家族のいる地をずっと思っているのだろう。
確実に潜む闇が、そこにはある。

ここでは、最近シスターに昇格したばかりの方とも話をした。
シスターは、見習いから初めて、だいたい8~10年で一人前。
マザーテレサの修道会のサリーは青い3本線の入ったもので、見習い生たちの憧れなのだという。
シスターになれば当然家族とも友達とも会えない。
持ち物も、洗い替えのサリーと洗面器ひとつ。
しかし今でも、シスター志願者はほとんどが中流階級以上のお嬢さんなのだそうだ。
裕福なのに、なんでなんだろう、とわたしが言うと、彼女は考えて、言った。
「純粋なんだと思う。汚い世界を知らないから、尚更」

2007/11/02

地球の舳先から vol.28

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インド旅行記 vol.5(全7回)

私がコルカタ滞在時に毎日午後通っていたのが、DAYADANという施設。
1・2階が健常孤児、3階が障害孤児の施設になっている。

障害児の病気は主に小児麻痺、まれに知的障害やダウン症などで、
10歳~15歳の男女が50名ほど、ここで生活している。
ほとんどの子が自分で動くことはできず、重度の小児麻痺の子は
体が曲がったまま生まれてきていて、生まれてから一度も口をきくこともできない子たちだ。

逆を言うなれば、だからオトナのすることに抵抗ができないばかりか
不満や痛みを訴えることも、できない。
それを知って、というわけではないと思うのだが、
マーシーと呼ばれるインド人スタッフ(ソーシャルワーカーでありシスターとは別。ただカトリック教徒)たちは、子どもに対して結構ひどい扱いをすることもある。

入浴時には、顔も足も関係なく、泡が口に入るのも気にせずに
無造作に洗い、モノをすすぐように水をぶっかける、という光景も日常茶飯事。
それでも体の動かない子どもは泣くこともできず、目を開けたり閉じたりするので精一杯だ。
体の障害はあれど、恐らくは多くがその障害が主な原因で親に捨てられた子どもたち。
口がきけなくても感情はあるだろうに、彼らの体の問題より心の問題が気にならざるを得ない。

しかしマーシー達はシスターの前でも同じことをするので、
それがここのやり方だということなのだろう。

私が初日にその光景を見て絶句していると、
なぜか大学をやめてチベットに渡り、チベットからインドに来てもう2ヶ月も
午前・午後ずっとDAYADANで働いているという日本人男性に声をかけられた。
「ここで人間観察してるとおもしろいよ。
欧米人とか、絶対汚れ仕事せえへん。
そういうのやっとんのみんな韓国人とか日本人とかや」

周りを見渡せば確かにその通りで、私はまた二重に驚く。
子どもの遊び相手はするが、おもらしの始末はしない。
洗濯物は干すが、洗わない。
着替えはさせるが、脱がせない。
一方、韓国人の団体やまれにいる日本人は逆。
というか人の足りてないところに自然に散っているだけだ。

国民性というものは、本当にあるのかもしれない。

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ここでの仕事は主に、トイレの介助、入浴介助、着替え、歯磨き、食事の介助、遊んであげる、洗濯。
とくに洗濯はシーツなどもあるので物凄い量。
ボランティアは日替わりレベルで入れ替わるが、子どもの方もそれには慣れているらしくすぐに仲良くなる。

そして、やはり身体障害の子どもが多いとはいえ、多かれ少なかれ心にも闇を抱えている子が多い。
彼らに話しかけたり相手してあげたりするんですが、おもしろいことに世界各国のボランティア達は、みんな母国語で喋る。
無理にベンガル語とかで「元気?・・・・えと・・・・」と言うより、
日本語だろうが英語だろうがタガログ語だろうがノンストップで話しかけてあげる方が喜ぶのだそうだ。
そんなわけでそこらじゅうでワイワイ会話が途絶えないが、誰もほんとに会話はしていなかったりする。

仕事の合間には甘い紅茶と施設で作っているビスケットが出る。
しかしボランティアルームでくつろいでいると子どもがドアをガンガン叩いて
「あそんで・・・・」と言うので、あんまりゆっくりもしていられない(笑)。

私がDAYADANで一番感動的だったのは日曜日午前中のミサ。
ミサのときだけはみんなおそろいの綺麗な服に着替えて参加する。
障害児はひとりひとりボランティアが抱いてゆく。
私も何人か抱いて階段を降り、子どもを運んでいたらマーシーに
「あんたここに残って子どもがミサの道具に触らないように見張ってろ」
とご指示を受ける。マーシーは大抵巨体で怖い。

そして牧師さんも到着。
牧師さんと一緒の格好をしてミサの手伝いをする男の子は施設の子だ。
目が片方見えなくて、左足も不自由なその10歳くらいの男の子が、
慣れた手つきで次々と牧師さんにミサの小道具を手渡していく姿には、感慨深いものがあった。

2007/10/26

地球の舳先から vol.27

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インド旅行記 vol.4(全7回)

コルカタ(英国植民地化は「カルカッタ」)。
人口、1千万人。
人口密度、東京の2~3倍。
人口の1割、スラム民。
もう1割は、路上生活者&ハンセン病患者。

目の前の光景は、そんな統計を実感として伝えてくる。
寝ているのか、死んでいるのかわからない老人。
その体に、虫がわき、死体だと思ってネズミがかじる。
家族がいる様子もなく、小さな赤ちゃんを抱いて途方にくれる少女。
観光客が捨てた水たまりの中のポテトチップスめがけて飛び込み、水ごと吸い上げる子供。

一方、インドの上流階級は、日本の「お金持ち」とは比べ物にならない。
国会議事堂みたいな家に住み、何十人の住み込みメイドを抱え、子供は専用車・専用ドライバーでミッションスクールへ通う。
ワードローブには何千枚のサリー。

インドといえばマザー・テレサ抜きには語れず、私も滞在中マザーハウスでボランティアに通ったのだが、マザー・テレサがまずこの国でしたことは、「ニルマル・ヒリダイ(死を待つ人の家)」を作ったことだった。

といっても、瀕死の人を看病する施設ではない。
瀕死の人を「看取り、死なせてあげる」施設。

「路上に生まれ、路上で死ぬ運命かもしれない。
でも、死の瞬間くらい、ごみ溜めの中で排泄物にまみれてではなく、
人間として死なせてあげたい」(M.テレサ)

インドでは、労働力として期待できなくなった老人は、血がつながっていても家族から捨てられてしまうことも多いという。
実際、「死を待つ人の家」に運ばれてきた人たちは、誰からも無視され続けてきた中で、言えなかった思いを沢山抱えていて、薬をあげるより話を聞いてあげるほうが喜ばれるのだという。
私たちは「健康が一番」なんて簡単に言うけれど、人の幸せって何なんだろうと考えてしまう。

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日本を発つ前、最初はこの言葉の意味がわからなかったけど、ここでいろんな人たちを見ていてなんとなくわかった気もすこしだけする。
正直な話をするならば、もう人間の形をとどめていない老人を、ほんとうに「自分と同じ人間」と思えるかどうか、というのはかなり怪しい。
言葉として、知識として、また「そうあるべき」としては、もちろん思えるだろう。
でも実際そういう人を目の前にした時、私は正直どうしていいのかわからず「彼も私たちと同じ人間」と言うシスターに重い違和感を感じずにいられなかったことも、事実だ。

同時にこのとき私は、マザーの言う
「豊かな人は、貧しい人を軽蔑しているのではない。
貧しい人がいるということを(実感として)知らないだけ。
知ったら必ず何かしてくれる」
という言葉の意味がなんとなくわかった気もした。

つづく

2007/10/19

地球の舳先から vol.26

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インド旅行記 vol.3(全7回)

コルカタでは、一般家庭にホームステイをさせていただいた。
10歳の男の子(なぜかヒトラーを信奉している)のいる3人家族。
人々の渦巻く通りをぬって歩き、路地裏の2階。

ちなみに「3食カレー」と言われていた食生活は、やっぱり3食カレーだった。
というか、日本人がなんにでも醤油をかけるように、インド人はなんにでもカレー味をつけるのだろう。
料理は「カレーライス」ではなく、卵や野菜や魚がすべてカレー味になっているのである。

初日は、日本人を受け入れることが多いからなのだろうか、ベッドに設置されていたマザー・テレサの日本語版伝記を読んですごす。

そのあと、ステイ先のお母さんに、一通りの交通手段のレクチャーをしてもらった。
もちろん、実戦形式で。
車線のない広い道路を蛇行し追い越す無数の車は24時間渋滞で、常にクラクションを鳴らしながら走る。

おもしろかったのは、おもちゃみたいな丸い形の「リクシャ」というオートバイ。
後部座席には2人ほど乗れるスペースがあり、渋滞の中風を切って進む。
が、ドアも無ければつかまるところも無い上、せっかちな客が定員2人のところ次々乗ってくるので、相当がんばらないと振り落とされる。

バスを降りる場所も教わったが、日本のようにバス停があるわけではないので何百メートルか前で、小銭と切符を入れたバッグをかけているドア係に「降りる」というと、
ドア係が銀の板(といっても車体の一部)をガンガンガンガン叩いて、運転手に降りる人がいることを知らせてくれる。
バスはそれでも止まらず、失速しながら人を振り落とす。
後続の車がすかさずクラクションを鳴らしてくる。まさに戦争だ。

私はコルカタ滞在中、午前中は8時~12時の間ダヤダンという障害孤児の施設で、
午後はシャンティダンという女性薄弱者(バングラデシュ難民や、人身売買・強制売春から逃れてきた人達)の施設で手伝いを始めた。
活動の前にマザーハウスという本部に皆集合し、毎日6時からミサ→7時から朝食という超規則正しい生活。
私はクリスチャンではないのでミサには出ず、7時にマザーハウスへ行っていた。
チャイ、バナナ、食パンの粗食で世界各国のボランティアたちと話が弾む。

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マザーハウスに隣接する孤児院「シシュババン」の中庭ではこの時間、毎日貧困家庭に約7000~8000人分の給食をしていて、その列をぬってゆく。
マザーが「死を待つ人の家」の次に作ったのが、この「シシュババン」だった。
飢えで泣くこともできなくなった子供を拾ってきたのが始まりだったという。
シシュババンの子供たちは、義務教育のないインドでも学校に通わせてもらえ、技能を身につけて一流とされる会社に就職する子も少なくない。
また、イタリアやアメリカ、スイスの資産家などとの養子縁組にも積極的だ。

昔、タイピングの技能を身につけてインドの会社の就職試験を受けようとした女の子が、エントリーシートの両親の名を書く欄を見て悲しそうな顔をしたらしい。
そのとき、当時存命だったマザーは母親の欄に「マザーテレサ」と書いたのだという。

シシュババンでは孤児院のほかに毎朝、飢える人々のために給食(炊き出し)をしており、その数はコルカタだけで2000世帯、8000人分にも及ぶのだという。
これを担うため、寄付金の他に、機内食の余りや、欠航になった便の機内食を回してもらっているのだそうだ。
だから、インドの空港では、欠航便が出ると、
「今日もマザーのとこの子供たちがお祈りしてるから飛行機が飛ばなかったよ」
なんてジョークが飛び交うらしい。なんとも微笑ましいエピソードである。

シシュバハンには、養子縁組で子供を引き取った家族からの手紙が貼ってあった。
「When I adopted her, I thought I would gave her a home.
But it was she that gave me a home. 」
「 ‘ Where was I from? ‘ The child said to Mother.
She answered, ‘ You were hidden in my heart! ‘」

こんな場所で、あんな時代に。
マザーテレサは活動を始めたのだ。

2007/10/12

地球の舳先から vol.25

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インド旅行記 vol.2(全7回)

バラナシを出て、夜行列車で16時間。
今回の旅の目的地、東の首都コルカタまで移動する日が来た。

意外と使えない『地球の歩き方』によれば、この列車が犯罪のデパートらしい。
びりびり痺れる正体不明の銀粉をかけられて荷物を盗まれたなどの武勇伝が掲載されている。
鞄は席についたらすかさずチェーンで固定しろとの事で、私も太いロック付きのチェーンを用意し、一定の緊張感を持って駅へ向かう。

ちなみにインドの列車や飛行機は、平気で半日や一日遅れる。
この日も駅についた時点で1時間遅れの表示があったが、反対方面のアグラ行きはすでに4時間遅れとのこと。
駅で知り合った日本人のお兄さんが「タージマハル危うしですよ~」と、トホホな顔で嘆いた。
この列車でたいそうお世話になったのが、オーストラリア人のネイサンと、妻で日本人のエリカさん。
ネイサンはオーストラリアで指圧師をやっている21才の若者で、1ヵ月インドにいてアーユルヴェーダの勉強をしていただけあってすっかりインド人だ。
駅のマネージャーとも「uncle!」とか言って友達になってしまう。
偶然同じ電車同じ車輌の向かいのベッドということがわかり親しくなる。

待ち時間の間、私たちが乗っ取ったステーションマネージャーのオフィスルームには、
いつの間にか10人以上のバックパッカーが集まり、皆それぞれ同じ電車に乗る仲間を見つけては今までの旅の話に花が咲く。
さすがバックパッカーの聖地、インド。
途中で誰かが買ってくるミカンやらチャイやらでお腹をごまかしながら
何時間かの待ち時間はしかしあっという間に過ぎていた。

列車は2段ベッドが2つある4人用コンパートメントで、カーテンがついている。
私は「フンッ」という掛け声と共にアッパーベッドに荷物を上げると、ぶんぶん首を振って左右を警戒しながらチェーンでスーツケースを固定した。
我ながら、どっちが犯罪者なんだかわからない怪しさであり。

車内は意外にも暖房で温かく、清潔で(ゴキブリとネズミはいたが)、安全そのもの。
駅に停車するたびにチャイを売りに来る人が乗って来る。
ネイサンは働き者で、ごみが出るとすぐに捨てに行き、何か売りに来ると必ず人数分買ってくれ、あやしい物乞いやチャリティーの話も真剣にひとつひとつ聞き、ゴキブリのコドモを捕まえて「MY FRIEND!!」とニッコリ。
パソコンで南インドの写真を見せてもらっていると、警備員らしきライフル銃を背負った制服のガタイのいい男性が立ち止まって一緒に見ていた。

寝ることは諦めていたのだが、ベッドロールが配られセットして横になると心地良い揺れに爆睡。

朝、チャイを売る「チャーイ」という声で起こされる。
眠っているところを起こされ、なんだこんな早朝に…とぶつぶつ文句を言いながら時計を見るとすでに7時になっていた。
出発時の遅れを夜のうちに取り戻していれば着いている時間である。
荷物も自分も無事なのを確かめ、カーテンを開き、チャイ売りをつかまえる。

「チャーイ?」
「コルカタ?」
「ノー。チャーイ」

…会話が通じない。
…お互いさまか。

車掌を捕まえて同じことを聞いてみると頷いて答える。
「5min」

急いでパッキングをしているとネイサンが「ユウ、ユウ、朝ごはん」と呼ぶので「5分で着くって…」と言うとにやっと笑って「ないない」とのこと。
結局コルカタに到着したのはそれから3時間後の午前10時だった。

当初のスケジュールからは2時間遅れ。ネイサンと顔を見合わせて「早~い」と喜ぶ。

やっとメインの目的地、コルカタに着いた。
ここで滞在の3分の2を過ごす。
すごい数の人と車、耳がおかしくなるようなクラクションの音にくらくらする。
沢木耕太郎の「深夜特急」そのもののような風景。

ようやくインドにやって来た。そんな実感が沸く。

2007/10/05

地球の舳先から vol.24

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インド旅行記 vol.1(全7回)

一度は行ってみたかったインドへ行ったときのこと(2005年)。
なんでもインドは行くと「大好きになるか大嫌いになるかどちらか」といわれていて、どちらにしろ凄いカルチャーショックを受けるのだという。
また、当時国境なき医師団に今更行こうとしていた私はマザーテレサに感化されきっていたのだ。

首都のある西部の都市ニューデリーから入り、東のコルカタから出る行程。
その間、飛行機や列車を乗り継いでの、横断の旅。

身の危険を空気と肌で感じ取ったデリーをすぐに飛び立ち降り立ったのは、バラナシ。ヒンドゥー教徒の聖地だ。
ここで火葬をし、ガンジス川に流すことで有名な地。
子供や僧侶、また妊娠したまま死んだ人や蛇にかまれた人などは、火葬はせずにそのまま沈めるうえに、
コレラ菌が瞬間的に死滅するという聖なる(?)川。
淡水イルカも棲息しており、あまり食べたくはないがここの魚は美味しいらしい。

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水深は最も深いところで40メートルもあり、流れもとても速いため、危険行為はご法度。
帰らぬ人となった日本人観光客だっているのだ。
インド人にけしかけられるまま、とりあえず太ももまで沐浴体験はしておいた。
二度目の沐浴で、慣れからか調子こいて階段で滑り、ガンジス川に落ちたことはすこし置いておこう。

ボートに乗って、80以上あり増水しても沐浴できるよう階段状になった「ガート」を見て回る。
沐浴する人、洗濯する人、僧侶に、市場で花を売る子供。
目の前に広がる川に無数の死体が沈んでいるなんて、想像もできない。
疲れたらガートの階段に座れば、商売強欲なインド人がすぐにチャイを売りにきてくれる。

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ほかの国だったら絶対に泊まれないスイートルームの値段を見て、私は滞在を決めた。
リビングソファと広いバルコニーからは、大きなプールが見えている。
この日も私がガンジス川の人間観察から帰ってくると、「ちょっと」とホテルマンに呼び止められた。

「明日はイスラム教徒とヒンドゥー教徒との争いがあるから、準外出禁止だよ」

暴動の前は、みんなで集まって相談なぞを始めるので、事前にわかるものらしかった。
朝10時以降は出歩かない方がいい、と言われたので早朝の朝日だけ見に行くことにする。

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ボートから見るガンジス川の夜明け…はロマンチックだが、インド人とはかなり交戦。
「僕の船はメッチャ安い」などとスレた日本語を話す男の子に、値段を聞くと50ルピー。(130円程度)
前日は日本語ガイドつきで300ルピーだったので、何か裏があるのだろうと思いつつもついて行く。
多少ぼったくられる、というか、「日本人価格」があってもよいと思っている人間なので、そうそう怒りはしないのだが、騙しのセオリーを知っておいてこれから先に損はない。
ガンジス川という聖地で、まだ「つ」のつく年齢の少年に人生勉強というのも、悪くない。

というわけで、ボートへ。
岸を離れた瞬間、来た。
「ボート代が50ルピー。僕が漕ぐのに50ドル(7500円くらい)」
なるほどそういう手口か、と感心しつつもカチンとくる。
「じゃああたしが漕ぐ。どけ」
と言い、席を無理矢理チェンジさせ、オールを握る私。

しかしボート漕ぎは意外と重労働。
10漕ぎもすれば疲れるので、私は休み休みに、かつ漕がなくても進む下流に向けボートを進める。
けっこうぜいぜい言っているが、ここで引いてなるものか。
そして1番下流のマニカルカーガートという火葬場に着くと、私は満面の笑顔で右手を出し、言ってみた。
「漕いだ。50ドルくれ」

最初は笑っていた男の子も、私が
「ギャグじゃないよ。あんたがそう言ったんでしょ。漕いだら50ドル」
と引かないのを見るとだんだん動揺し始め、「No,No!! I have no money」などと言う。

まあ、取らなかったけど、男の子はボート代の50ルピーすら回収せず、ガートに船をくくりつけると人ごみに消えていった。
こうして、インド1の観光地で軽い洗礼(?)を受けた私の旅は続いていく。

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つづく