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年末には、パラナ州の州都クリチーバで年越しを迎えます。
今年の年末は、ポルトアレグレを離れパラナ州の州都クリチーバに来ておりここで新しい年を迎えることになります。
JUNKSTAGEの末席に加えて頂き長い間、お世話になっていますが、何時も月末に駆け込み投稿をして除籍を免れている落第坊主で本当は末席処分を受ける前に潔く退会すべきなのかも知れませんが、私なりに愛着を感じていることからしがみついている状況です。
今年死後の投稿は、オリジナルの投稿としてクリチーバでの写真を紹介して置きたいと思います。
州立公園VILA VELHA内のシャトルバスに乗り遅れロードを我が物顔に闊歩する平均年齢68歳?の和田、徳力夫妻です。
カメラマンの石田さんに指導されてのヤラセに近い写真ですが、年末の楽しい雰囲気の演出写真です。
自然妙味、風化現象による奇岩が造成されたVILA VELHAのTACA(杯=cup)の前での記念撮影。今年のご自慢の写真の一つです。
年末の歓談。クリチーバでの井戸端会議の一景です。
5月15日に末娘小百合の結婚式がありミナス州のヴィソーザの町まで出掛けましたが帰路、ブラジルで最初に世界遺産に指定された古都オーロ・プレット(黒い金)の街に立ち寄りましたので写真を何枚か紹介して置きましょう。
1600年代の終わりに初めて金塊が発見され一躍注目されヴィラ・リカ(VILA RICA=豊かな村)と呼ばれた町は急速に発展し、1700年代後半には4万人の人口を数える当時としてはラテンアメリカ最大の都市に成長。ブラジルの独立運動発祥の地としても有名で、ミナス州の英雄チラデンテスの生家も残っています。
1698年にサンパウロから奥地の金を目指したバンデランテスのアントニオ・ジアスが同行するジョアン・デ・ファリア・フィリオ神父に最初のミサを上げさせたのがこの地の始まりと言われており、大きな金塊が見つかった土地、ヴィラ・リッカと名付けられたが、1711年にオーロプレット(OURO PRETO)と改名されました。町は見る見るうちに発展し、30年後には4万人の人口を擁し、18世紀後半には当時のラテンアメリカ最大の都市に発展したが、さすがのオーロプレットの町も1750年代から金の産出が鈍り始めその発展は止まりました(ジアマンチーナ=DIAMANTINA=他の都市に移動していたようです)。
ブラジル独立後の1823年にはミナス州最初の州都に指定され、1897年に計画都市のベロオリオンテに州都が遷都されるまでミナス州の中心都市として栄えました。1933年にはブラジル国民記念都市に指定され、1980年にはブラジルで最初の世界文化遺産に指定され世界中の観光客が押し寄せています。
昨今、地球温暖化と関係があるかないかは別にして各地で異常天候に見舞われているようですが、リオの大雨は異常としか言えない自然現象だったようです。リオに住んでいる山下さんの報告をお借りすると下記になります。
山下@リオです(4月6日)
昨夕から大雨が振り出し、ガレオン空港が閉鎖になりましたが、その後も降り続き、18時間以内に250ミリ降ったところがあり、死者34名、1日で今の時期の一ヶ月の平均雨量を超えました。本日は、方々が浸水でバスも止まり、停電で役所と学校は休みとなっています。 山下@リオです(4月7日) 雨は止みましたが、方々に水が50cmから1m溜まって引かず、交通止めです。学校は昨日から今日も休みです。飛行便はすべて混乱しています。死者104名、行方不明30名に増えました。
山下@リオです(4月8日)
ニテロイで再び土砂崩れが起き70人の死者、リオ市内で確認された75人と死者は145人になりました。今回は驚いたことにLagoaがあふれて、Ipanemaなどに行けなくなりました。マラカナン競技場が水につかりました。両空港が閉鎖になった上に、リオ-ニテロイ橋が通行止めになりました。市内の13の区で停電今月に入って7日までの降雨量は4月の月平均雨量を6割上回っています。
山下@リオです(4月10日)
リオのRECREIOにCFZというジーコ監督のフットボール・クラブがあるのですが、青空のもどった10日現在まだ水びたしです。下部が光ってみえるのは普段は池ではありません。念のため
火曜日から始まったリオの集中豪雨は交通麻痺、地崩れ等の被害で200人以上の死者を出し対岸のニテロイでも大きな地崩れで200名以上が現在も生き埋めになっていると伝えられており、2016年のリオオリンピックへの影響も心配され国際オリンピック委員会から特別調査隊が派遣されている。今年に入り1月のハイチの地震、2月のチリ地震と続き不気味な様相を呈している。写真は地元紙に掲載されたリオの集中豪雨の混乱模様を伝えるものです。
私の住んでいるブラジル南部のポルトアレグレは、3月26日金曜日に238年を迎え週末を挟み色々な行事が行われました。ポルトアレグレとは≪愉快な港≫と云う意味で1742年にアソーレス群島からポルトガル人が移り住んで来てポルト ドス カザイス(夫婦の港)と呼ばれたそうです。
2008年の国勢調査で143万人を数え現在は優に150万を超えポルトアレグレ近郊都市を含めたメトロポリタンの大ポルトアレグレ圏には1000万の州民の40%近くが住んでいるブラジル南部の雄都です。80%がヨロッパ系の白人で黒人が7.4.%と少なく黄色人種アジア系は僅か8000人(0.2%)しか住んでいません。
帝政時代は中央政府に立て付き10年間独立国を樹立したり最近では労働党政権が続き2001年、2002年、2003年、2005年、2010年と5度に渡り世界社会フォーラムを開催しダボスの世界経済フォーラムの向うを張り世界的に社会進歩的な街として認知されています。
2014年のワールドカップの開催都市のひとつで日本の選抜軍が我がポルトアレグレで試合をすることを夢見ているのですが実現するでしょうか?写真は、238年を迎えたポルトアレグレの誕生日の日の新聞1面にあった写真とステッカーです。街の入り口にあるシンボルのラッサドール(カーボイ)の像も貼り付けて置きます。
前回、サントスの港町にあるブラジル移民関係の3点スポットを紹介しましたが、先週ポルトアレグレからサンパウロに飛んだ時に何時もと違う右側の窓際に座っていた所、サントスの港が眼下に見えブラジル最大のコンテナー港、化学品の積み下ろし港、観光船まで見下ろす事が出来ました。何枚か飛行機から見下ろしたサントス港の写真を貼り付けて置きます。
サントスの【日本移民ブラジル上陸記念碑】を紹介しましたが、この像はサントスの海浜を背にブラジル内陸に向かって建っていますが、神戸のメリケン波止場の【希望の船出】の像は六甲山を背に海外に向いて立っています。神戸の像も番外として並べて一緒に紹介して置きます。