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ジャンクステージの皆さんへ!!
この名誉あるジャンクステージにスペースを頂きながら何時も月末の掛け込みでノルマを果たす落第生ですが、新年からはもう少し時間を割いてオリジナルの記事を送るように努めたいと願っていますが、現在『私たちの40年!!』と云う326万回のアクセスを記録するHPの管理運営に400名弱のメンバーを抱えるメーリングリスト、関連BLOGを毎日更新しており思うに任せません。せめて年末に当たり皆さんへのご挨拶と新年への新たな気持ちお伝えして置きたいと思い『明けましておめでとう!!』を送って置きたいと思います。
来る年も宜しくお願いします。
『私たちの40年!!』メーリングリスト管理運営者
ブラジル国、南大河州ポルトアレグレ市在住
wada@sawayaka.com.br
こんな写真が見つかりました。
あるぜんちな丸第12次航は、途中オランダ領のキュラサオ島に寄港しました。船内ニュースでもバナナが安いが余り食べ過ぎないようにとの注意事項を掲載しましたが、このキュラサオに下船して町を探索の途中、バナナの1房10本を購入し吉田和子さん(旧性)、龍川いく子さんと私の三人でこの10本のバナナを3本と3分の一づつ一度に平らげたそうです。私は覚えていないのですが見つかった写真を見ながらのいくちゃんの説明ですので間違いはなさそうです。キュラサオの町でバナナをたらふく?食べたあとの記念撮影らしいのですが如何にも若々しい両手に花の幸せ一杯の『こんな時も本当にあったのか』と自分でも不思議がる写真です。青春の思い出大事にしたいですね。
(注)左側の龍川いく子さんは、昨年5月11日、私たちがサントスに到着した日に着伯46年で乳癌で亡くなられました。藤間流の名取藤間芳嘉師匠を名乗りブラジルに置ける日本舞踊の普及に人生を掛けて居られた龍川さんの余りにも早すぎる他界に深い悲しみを覚えます。何れ私たちも召されることに成りますが残されたものが先に逝った同船者を悼み残された日々を力強く生き抜くことが供養と成るのではないかと思います。ご冥福を祈ります。合掌
1962年3月30日に横浜港を出て翌日神戸港に到着、名古屋以西の移住者を乗せ4月2日神戸港より681名の移住者を乗せて南米に向かうあるぜんちな丸第12次航に早稲田大学3年終了で休学手続きをして意気揚々と東京都の農業移住者として潜りこみました。早稲田大学の海外移住研究会に入部ブラジル移住を目指してから1年半が経過していました。準備期間としては順調に進んだと云えましょう。一番の問題点は、東京都の農業移住者として渡航費の10万千円の貸付を受ける為の農業従事証明書取得と南伯雇用の呼び寄せ状取得でしたが確か南米旅行社で山本勝三さんのカッポン・ボニートの農場で雇用農として呼び寄せて貰う手続きをしてサントス到着後は好きなように勝手にして良いとの条件でした。若い学生に人生の選択としてのブラジル移住への道を開いて下さった山本勝三さんにお礼を述べて置きたいと思います。
東京都の農業移住者の資格での乗船でしたので横浜の移住センターに終結し横浜から出港、神戸に寄稿して神戸の移住センターより乗船する同船者を迎え4月2日に神戸港を発ちました。再度房総半島沖まで北上し一路ロスに向けて走りだしましたが良く覚えていないのですが相当船が揺れて船酔い者が出たり蚕棚のベッドの下に置いて置いた荷物が遠くに行ってしまい探すのに苦労したとの話もありました。
確か神戸を出て2日目位に船内の自治会が組織され私は船内新聞『さくら』のニュース班の責任者を仰せつかり7人程のニュース班を形成し活動を開始しました。原稿は私と北田隆夫さん、川上尚武さんが書き吉田美智子さん、佐藤昭子さん、吉田洋子さん、龍川一恵さん達がガリ版を切り船内で一番若かった藤岡和弘さんが中心になりガリ版刷りを遣って呉れました。創刊号は、太平洋上の4月8日で『私たちの40年!!』HPには下記記載があります、
1962年4月8日の創刊号には、次のような文が掲載されています。
『皆さん今日は!今日8日より毎日昼食時に船内ニュースを配布することに成りました。これでは船内における新聞とも云うべきもので、故国日本の国内ニュースを中心に船内での出来事、ちょっとしたニュース、お知らせ等をまとめて皆さんに読んで頂く事になりました。この種の新聞にありがちな無味乾燥さをなくしお年寄りから子供さん迄、楽しく読んで頂けるよう努めたいと思います。その為にも読者の皆さんからのご投稿をお待ちしております。御意見、御希望、身近に起こった日々のちょっとした出来事、感想等なんでも結構ですからニュース係迄お寄せ下さい。暫時取り上げて記事にさせて頂きます。我々ニュース係三名は、これ迄新聞作り等の経験なく不備な点、不満な点にお気付きになるでしょが暫時立派なものとするよう努力しますからごかんべん下さい。ニュースの少ない日は希望訪問として船長さんその他できるだけ多くの方にインタビュウーし面白いお話をお聞かせします。又船内での将棋大会、囲碁大会をニュース班主催で催す計画も持っています。退屈な船内での生活に少しでも楽しみと潤いをもたらすことを第一の使命としまして、皆様の新聞として全航海を通じて発行して行きたいと思います。皆さんの御協力を切に御願いします。つたない編集ですが、“論より証拠”皆さんのお手元に第1号をお届けします。』
あるぜんちな丸第12次航海は、ロスに4月15日着(神戸から13日間)キュラサオ4月23日(21日間)、クリストバル4月24日(22日間)、ラグアイラ4月27日(25日間)、べレン5月2日(30日間)、サルバドール5月7日(35日間)、リオ5月9日(37日間)、サントス5月11日(39日)、ブエノスアイレス5月17日(45日間)との各寄港地の到着日が記録されています。太平洋の大海原、中米カリブ海、パナマ運河を超えて大西洋に入りブラジルのべレン、サルバドール、リオを経由Santosに5月11日に到着しました。船内新聞さくらは船が港に寄港中も発行現存する船内新聞では5月7日の31号が最後に成っていますが、多分サントス到着の日まで続いていれば35号が最終号になっているのではないかと思います。船内のニュース班に与えられた部屋は結構大きく何時も若い人たちで賑わっていました。40年後にこの新聞班の部屋に立ち寄っていて呉れた仲間と40年後の船内新聞さくらの号外として再発行しようと云うのが趣旨で生まれたのが『私たちの40年!!』のHPです。2002年5月12日に初めてあるぜんちな丸第12次航の同船者会を開催出来たのもこの船内ニュース班の仲間の御蔭です。充実した船内生活を過ごすことが出来たのもこの仲間達の存在が大きかったと感謝しています。
写真説明 横浜出港時の私、 名簿の表紙と裏書き、 ニュース班のメンバー、赤道祭りの一コマ、あるぜんちな丸の雄姿。
私が早稲田大学の第1政経学部、政治学科を目指したのは、矢張り赤い絨毯への憧れでブラジル移住と云う人生の選択をしていなければ国会議員は無理だったかも知れませんが多分県会議員か市会議員程度にはなっていたのではないかと思います。早稲田ではESSに入り1年目の夏季合宿までは参加しましたが合宿先の野尻湖で先輩が30分以上英語でしゃべり続けると云う練習を見ていてこれは付いていけないと諦めてしまった。現在はポルトガル語で一日中生活しているのですから語学は、コミュニケーションの手段であり目的ではないと思うのですが。。。政治学会と云うサークルで理論付けをして雄弁会で実戦活動として淡路島を中心とした関西遊説に参加したり、新宿駅で伊勢湾台風の犠牲者への義捐金集めを大きな酒樽を並べて遣ったりしていました。
60年安保が強硬採決された晩に国会議事堂前に泊まり込んだ事は前回触れましたが、安保闘争後は、良い意味で政治への挫折感も感じ在学中に海外に行こうとの気分が目覚め世界地図を広げて「さてどこにするか?」と迷いました。ビジネスの世界ならアメリカ、芸術の世界ならヨーロッパ、水があればアフリカ(政治学会の先輩がエジプトに出向いていた)とか選択肢があるが何と言っても日本以外で日本人が一番沢山住んでおり移住と云う形で比較的簡単に行け且安全性に富むブラジルと云う選択が自然な帰結として浮かび上がって来たのは矢張り中学2年生の時にテープ拾いに神戸の埠頭に移民船を見送りに出掛けた時の事が頭に残っていたのでしょうか?
2年の秋の早稲田祭で海外移住研究会と云う泥臭い名前のサークルの存在を知り「これだこれだ」とばかりに入会、汚い部室に入り浸りすることになりブラジル移住関係の書物を読み漁った。翌年の春休みには前述の予備校から一緒だった九州出身の谷 広海君、坂本 翼君に加藤 広文君、黒木 麓君、田辺 重徳君を誘い九州7県を各3日づつ合計21日間を掛けて『移住思想啓蒙遊説』を実施した。各弁士がどうすれば移住出来るか?海外移住の意義、移住の形態とその手続き方、沢庵貿易と移住の経済効果、各国の移住の歴史、ブラジルの見所(観光案内)等書籍から得た知識の受け売りの話を大きな講堂で丸刈りの目を輝かせて聞いている農業高校、漁業高校、商工業高校等の高校生の中から何人かは移住した者もいたかも知れないと思うとその罪滅ぼしとしても谷君や私はブラジルに移住せざるを得なかった次第です。
早稲田の3年目の生活は、ブラジルへの移民船に東京都の移住者として乗り込む為の農業従事証明書を取得する為に保谷にあった酪農農家の桜井牧場に住み込みで入り千葉県の農家出身で夫婦で牛の乳絞りを遣っている方の役に立たない助手として毎朝、早く起きて乳絞りを手伝った。移住研の仲間や学生移住連盟のメンバーの拓大の松田潤一郎君等が面白がって泊まりがけで良く手伝いに来て呉れた。夜遅く良く冷えた牛乳を勝手に取りだして飲んでいる所を主人の桜井さんに見付けられてこっぴどく叱られたり凍てつく寒い日に近くの銭湯に行くと下駄をはいて満天の空を仰ぎながら戻る道で手拭いが凍りついて棒に成ったのに驚いた事があった。当時はまだ東京の空も星が輝き綺麗な空だと感心したのを覚えている。
ブラジルに渡るのに東京都の農業移住者として『南米旅行社』を通じて南伯の農業移住者としての呼び寄せ状を取り寄せて貰った。幾ら手数料を払ったか記憶がないがそれ程高額ではなかったと思う。コロニアで結構有名な佐渡金工業という豆電球を作っている会社の山本勝造社長のカッポン・ボニートと云う町にある農場で働くと云う名目の呼び寄せ状でサントスに到着後は自由に遣って良い(働きたければ農場で使っても良いし豆電球工場で仕事をしても良い)との事でしたが農場には行かなかった。山本さんが存命中に何かのレセプシオンでお会いした時に呼び寄せて頂きブラジルへの道が開けた事に対し感謝しているとお礼を述べた時にブラジルに来たい若い人たちに門戸を開けた事は大変幸せだったと屈託なく答えて居られたのを覚えています。
昔は、若い者に夢を与え人生の選択として移住と云った道を渡航費の10万2千円を貸し付けて移民船に乗せて呉れる海外協会連合会と云う県単位の組織があり移住者の窓口を扱っていた。学生の身分で潜り移住者として早稲田を3年で休学2年間の予定で南米を回る計画を経て趣意書を回し金まで集めて勇躍あるぜんちな丸の第12次航に乗り込む事になった。
簡単にと思っていたが結構長く成ってしまったが、次回は、やっとあるぜんちな丸での船内生活に入れる見込みとなった。写真は、早稲田在学当時参加していた政治学会の夏季合宿の写真、雄弁会の関西遊説の写真、樺美智子さんを悼むとのプラカードを持っての抗議デモの写真と下記URLで紹介されている『早稲田大学海外移住研究会実習研修生派遣。』掲載の写真です。http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=75
雑用も多く思うような更新が出来ておらず気にはなっているのですが焦らずに少しづつ書き続けて行きたいと思います。
私の卒業した神戸高校は、戦前は神戸一中としてカキ色の制服を来てゲートルを巻いた豪の者が運動場で風に舞う砂を噛み締めながら立ち弁当をしていたそうですが戦後新制10回生の私達の頃は県立第一高女と合併した男女共学の新制高校で男子生徒は、普通の学生服に帽子姿で女子生徒も普通のセーラ服にスカート姿のいとも優しい進学校でした。
前回書いたように進学クラスから外れた就職クラス?のスポーツ選手の集中する特殊クラスで英語、国語(古文)社会しか勉強しない早稲田受験を目指しましたが見事失敗。1年の東京での予備校生活を余儀なくされました。早稲田大学の大隈講堂の裏隣りにあった早稲田ゼミナールと云う予備校に通い英語、社会、国語の3科目だけを必死に勉強しました。予備校の1年間の事は余り覚えていませんが今も親交がある友達は地方から出て来ていた予備校の仲間で谷 広海君(宮崎県大宮高校卒)は、早稲田を卒業後ブラジルに移住、現在日本語センターの理事長を遣っておりブラジル文化福祉協会の副会長として立候補して選挙戦を戦っています。もう一人は坂本 翼君(佐賀県佐賀高校卒)で彼は八幡鋼管から新日鉄に勤務、もう35年も前に100万円を掛けてブラジルまで陣中見舞いに来て呉れて毎年帰国時には千葉県の大網の彼の所に立ち寄っています。
1年の猛勉強の成果があり無事我々3人は早稲田大学第1政経学部に無事入学した。昭和34年4月のことで丁度、皇太子殿下の美智子妃とのご成婚が4月10日にあり入学式に神戸から親父が出て来ており一緒に御成婚式の行列に立ち会った。あれから丁度50年の日が過ぎ去った。親父は現在97歳で大阪の茨木の養護施設に入っている。我々3人は、それぞれ満69歳。昔風に云えば古稀に当たる。
早稲田では、早慶戦と60年安保デモに洗礼される。早慶戦で優勝し神宮球場から新宿経由高田馬場、戸塚のキャンパスまであるいて行進したこともある。新宿に大きなライオンと云うビアホールがあり良く皆で繰り出した。貯金箱の硬貨を掻き集めて新宿ガード下の爆弾と云う安い焼酎を飲みに行ったこともある。学生服に角帽、確か下駄を履いて歩いていた。神戸からチッキで布団袋に布団と僅かな下着、本等を入れて高田馬場止まりで送り早稲田の学生会の看板で下宿を探し西武新宿線界隈を中心にその内に東武池袋線、小田急線等の沿線にも足を伸ばし半年ごとに下宿を換えていた。今は宅急便とか便利なものがあるが昔の国鉄では、汽車の切符を買うとチッキと云う別送荷物を切符の目的地まで送って呉れる。しっかりした布団袋も年2回の神戸―高田馬場間の往復で最後の方になるとボロボロになっていた。
60年安保では、国会議事堂前で徹夜の座り込みをしたり首相官邸乱入事件では、電話線を傘の柄で引きちぎったり大いに暴れていた。清水谷公園に集結してスクラムを組んでデモリ出すのだがアジルのは東大のオルグ連中で機動隊と直接接触する頃にはどう云う分けか早稲田か明治が一番先頭に出ておりど付かれる図式。神戸高校の先輩で東大生だった樺美智子さんが警察隊にもみくちゃにされ圧殺された事件がある。次のデモの際に【樺美智子さんの死を悼む!!】神戸高校稲門会との大きなプラカードを持って参加していたらNHKのニュース班に撮られ高校生の政治参加(デモ)をどう思うかとかの番組で紹介されていたとかで有名になる。
さて私のブラジルへの道に話を戻す必要がありそうですが、続きは次回にさせて下さい。
写真は、神戸高校の卒業アルバムより(右から3人目が私)、早慶戦で谷 広海君と、 早慶戦のニュース、当時の早慶戦入場券、山手線の切符、仲間達と(前列左端が私)
昭和27年に神戸の山手小学校(廃校に成り現在は存在しない)を卒業、元町駅から兵庫県庁を上がって相楽園の前にあった山手小学校は神戸小学校と合併したそうです。家からは妹と手を繋いで?通っていたのを思い出します。途中に昔の中華街後の廃墟がありました。昭和30年に卒業した生田中学も廃校になり今はなくなってしまったそうですが近くに熊野神社があり堀割筋を隔てて神戸海洋気象台がありました。家からは墓の近くの階段を上がれば直ぐでほんの5分も掛からなく昼飯に家に帰り昼寝が出来る程で却って遅刻ばかりしていたようです。学級で4–5人、生田中学から40人前後が神戸高校に入学出来るとかで高校入試の試験を受けたことを覚えていませんがそれ相応勉強はしていたのではないかと思います。
神戸高校には緑の市電で加納町3丁目経由原田まで行き王子公園横の地獄坂を駆け上るのですが何時も時間的に間に合わないとの判断で加納町3丁目から市バスに乗り換えて布引の滝経由、上野7丁目でおり地獄坂の残りを掛け上がる毎日でした。神戸高校では勉強はあまり出来ない癖に目立ちたがり屋で兵庫高校(神戸2中)との野球、ラグビー、サッカー等の対抗戦の応援団長をしたりクラス代表の協議会委員になったり3年卒業の時はアルバム委員長等を遣っていました。
神戸高校は進学校で神戸大学、大阪大学、京都大学等に大量に入学生を出し私立大学への進学は、少ないし蔑視される風潮があり東京への進学は東大、東工大、一橋程度で私立では早稲田、慶応もいましたが関西の関学、同志社、甲南等が中心の進学方針を立てており私は早稲田1本で解析、幾何、物理、化学を嫌い歴史、地理、人文化学等を選択した所、就職コースと云うか運動部の連中が多い面白い学級に配属されました。神戸高校でスポーツでは一応、名を成した猛者が揃ったクラスで余り勉強に力を入れない仲間が多くいました。当時の様子を級友の山本啓詔君が下記に書き残して呉れています。
<<好司・17才・神戸>>http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=87
40年前の奉加帳が見つかったと思えば、今回は45年前の神戸高校時代2年と3年生の二年間机を並べて勉強?した同級生の一人山本啓詔君からの暴露記事が寄せられました。彼は昨年休暇を取り南伯及びアルゼンチンに旅しており、数日ポルトアレグレ近郊を一緒に旅をしながら昔話を聞いたがその記憶力には、驚嘆した。その抜群の記憶力を誇る彼が思い出す事もなかった高校時代のエピソードを綴って呉れている。自分でも記憶が定かでない半信半疑の気持も強く作り話ではないかと思う事しきりですが青春の一コマとして記録して置くのも無駄ではないかとの判断から敢えて掲載して置きます。写真は大震災後新しく立て替えた神戸高校の昔のまま残した正面玄関の部分で撮った筆者山本啓詔君です。来年度には神戸高校卒業45周年の記念同窓会をイグアスの滝を見ながら開催しようと企画しておりもし実現すればその受け入れ準備に忙しくなりそうです。
あるぜんちな丸に乗り込むまでの生活を簡単に1回で書き込む予定でしたが昭和33年の神戸高校卒業までしか到達しませんでした。次回もう一度予備校、早稲田入学後の生活を続けることにします。写真は、<<好司・17才・神戸>>を書いて呉れた山本君の神戸高校正門前での写真を使用することにしました。高校時代演劇部長として活躍していた山本君は、元気に遣っているでしょうか?最近連絡が途絶えているので気にしています。
ブラジルと私と云うテーマで私を通じてのブラジルを紹介して行きたいと思います。全12回程度で私の47年に成らんとするブラジルとの繋がりを書き残して置くことにします。その第1回は、私の生い立ちとブラジルとの出会いです。
私は紀元2600年(1940年、昭和15年)1月2日のおめでたい日に神戸で生まれました。4人兄弟の典型的な二男坊で生まれたら既に兄がおり、直ぐに妹と弟が生まれ追いかけられる立場にあり何時も【何糞】との気持ちを持ちながらそれでも比較的のんびりと港町、神戸に育ちました。子供の頃の思い出は余りないのですが、一時里子に預けられたり残っている小学校のクラス写真は、苦虫を噛み殺したような顔をしておりあまり目立たないと云うか苛められる方だったのかも知れません。どんぐり眼できかん坊だったので今西郷さんとか云ってからかわれていたそうです。
良く働く母親と余り働かない父親と4人兄弟の商家に育ち経済的には困った覚えがない自由闊達と云うよりこれと云った教育方針のないほったらかし的な育て方を受け継いで来たようです。
確か中学2年生の時に社会科の女の先生(どうしても先生のお名前を思い出しません)に課外授業として(自由参加だったと思う)戦後移民が再会され神戸からアマゾンのトメアスー移住地に向かう移住者の見送り(テープ拾い)に出かけたことがあります。その当時は地球の裏のアマゾンの地にピメンタと云う黒胡椒を作りに出掛けるとの話を聞き『大変だろうな』程度の気持ちしかなかったのですが、これが後日私の人生の選択としてブラジル移住の道を選ぶ伏線になろうとは知る由もなかった。私のブラジルとの繋がりはこうして中学生の頃のアマゾン移民として神戸港を離れる方のテープ拾いから始まったと言えそうです。
次回は、移住船あるぜんちな丸に乗り込むまでの高校、予備校、大学生活に簡単に触れる事にします。
当時の関係写真は、見つかりませんので戦前、戦後の多くの移住者が御世話になり関西・淡路大震災にも耐え、今年5月に改装工事が完成する神戸の旧移住センターに咲くブラジル国花イッペーの花とブラジルの地図を配した移民発祥の地の碑を貼り付けて置きます。(昨年4月に立ち寄った時に撮影)