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2014/11/21

スラムダンク勝利学が実質上の処女作になり、
おかげ様で35万部のベストセラーになりました。

そして、集英社インターナショナルから
痛快シリーズで『痛快みんなのスポーツ学』を
出版させてもらいました。

もともと論文を書くのが好きでした。
医者の頃や慶應大学スポ研にいる頃も論文はたくさん書いていて、
日本語論文だけでも90本、英語は6本くらいあります。

アイディアを出して検証して
過去のエビデンスを調べてまとめて書くというわけです。
論文は起承転結がしっかりしているので
モノを書くための頭の使い方には最適です。

そういえば、慶應病院の研修医の頃は
入院患者のサマリーを決められたスペースに
先輩のドクターにOKと言われるまで赤を入れられて
泣きながら書いたことも書く力を養えたのだと思います。

その後はアイディアはどんどん湧き出てくるし、
訴えたいことや書きたいことがあるのですが、
どうしたら出版できるかわからず、
いつも本屋に行って考えていました。

私の書きたい分野に興味を持ちそうな出版社はどこなのか?
その出版社からすでにあまり被りすぎるものは出てないのかなど、
書籍の傾向と出版社の関係を考えるのです。

当時はまだ出版社の方から声を掛けてもらえる
というようなことはなかったので、
出版したい書籍のアイディアをまとめて
出版社の方にプレゼンに行っていました。
よく断られていました(笑)。

どの出版社さんに断られて、
どの出版社さんからどんな本を出したか今では忘れていますが、
少しずつ書籍が世の中に出るようになりました。

もちろんスラムダンク勝利学のようなベストセラーは出せませんが、
ほぼどの書籍も少ないながら重版がかかるような感じでした。

音楽関係の分野にメンタルの素材で
書かせていただいた書籍は6冊くらいありますが、
どの書籍も無茶売れました。

渇望していたのでしょうね、音楽分野の方々が。

弱さを強さに変えるセルフコーチングや
ゾーンに入る技術もよく売れました。

書籍はその出版社の営業の方がこれは行けると
思ってもらえることが鍵のような気がします。

最近ではありがたいことに出版社の方から
出版のアイディアを持って依頼に来られます。

この数年はだいたい年に3から5冊ですね。
4から2か月に1冊書いていることになります。

書籍はどのようにして書くのかといえば、
アイディアの芽をまず仮タイトルで表現します。
その後、そのイメージを目次に反映して枠組みと棚を創ります。

この時に編集とのやり取りを盛んにして両者納得のものを創ります。
その時点でいろいろ他の書籍を読んだり調べものをします。
これが確定したら、執筆の時間を取ります。

昔は少しずつ書いたりしていましたが、
最近は忙しいのでそのためだけの時間を
ホテルに籠ってやらないと書けません。
大体3日で1冊を一気に書きます。

そのたたき台原稿を編集にあげて編集と再び揉みます。
これに時間がかかる書籍もあればすんなり進む場合もあります。
編集の方との共同作業ですね。
夜中までよく打ち合わせします。

その間に表紙や帯の案が出てきてそれも話合います。
新しい目次と原稿が上がってきて、それを2回くらいやりとりします。

その頃にはじめにとかおわりにとかプロフィを送り、
書籍に近い形のものが最後にやってきて目を通して完成。

書くのは早いのですが、読み直すのが好きではありません(笑)。

昔の書籍は忘れてしまっていますが、
最近ではサンマーク出版の「自分を「ごきげん」にする方法」、
フォレスト出版の「禅脳思考」、
大和出版の「一生ブレナイ自分のつくり方」がわたしのお気に入りです。

2015年もまだ4冊くらい出版する予定がすでに決まっています。
お楽しみに。

▼書籍のご紹介はこちら
http://www.doctor-tsuji.com/activities/writing/books/

2014/09/23

講演会は徐々にスポーツだけでなく、学校、企業、行政などに少しずつではありますが、広がりはじめ依頼を受けるようになりました。講演会の営業は一切することなく、口コミとホームページで拡散していきました。ありがたいことです。

そんな中で週刊ダイヤモンドにスポーツ心理学をビジネスに活かすという連載をいただきました。1ページのコラム的な記事ですが、半年間ほど毎週掲載いただき、全部で26回掲載していただきました。

その記事をジャパネットたかたの髙田明社長がご覧になり人事を通じて連絡をいただきました。「スポーツ選手はメントレをするのになぜビジネスマンはしないのか!」という疑問からでした。

長崎の佐世保に伺い、まずは全員に講演会をさせていただき、教育担当の人事の方々と毎月打ち合わせをさせていただきながら、ビジネスマン向けの継続的メンタルトレーニングが始まりました。

企業は単発の講演依頼が多い一方で、継続的トレーニング依頼が少ないです。本来は企業こそ継続的にするべきだと思っています。いまでこそトレーニング依頼の企業が増えてたくさんになってきましたが、当時はまだありませんでした。

リーダー向け、部署単位、新人向け、営業向け、テレビ担当者向けなどいろいろな対象の方に工夫を凝らしたトレーニングをやるようになりました。

伝えたいことが上手く伝えられなかったり、効果が見えにくかったり、理解してもらえなかったりなどなどこちらも学ぶことが多々あります。

私の遺伝子はまずドクター。1回の対策よりも、継続的に結果に責任を負う。

わたしのもう1つの遺伝子はスポーツ。スポーツをサポートするに当たりやはり継続的に結果に対して責任を負う。

単発の講演会よりも、変化を感じ結果責任を負いながら対応するトレーニングが大好きです。6回の内容が決まったセミナーをやるのでもありません。あくまでも企業の方の現状と反応を感じながら、持っているものを出しトレーニングをしていくのです。

ジャパネットたかたさんを契機にさまざまな企業からのトレーニング依頼が次第に来るようになりました。心から感謝申し上げます。

今ではコンサルやメーカー、金融や外資などからの依頼に対応してトレーニングを行っています。個人1人1人に焦点を当てて、個人の内部環境を整えるために、脳の思考習慣を磨いて行きます。

個の強化に伴い、企業がタフになってきます。

変化に強いしなやかな組織創りをお手伝いしていきます。

 

▼トレーニングの詳細はこちら

http://www.doctor-tsuji.com/activities/mental/

2014/07/29

独立して数年した頃、講演会やメントレの依頼も徐々に増えて軌道に乗ってきました。

その頃、とある2日間の通いのセミナーを知人に勧められて受けたことがあります。メントレの幅を広げたいと思っていたのが主な理由ですが、信用ある知人からの薦めだったので参加したというのが本当の理由でした。

さまざまな講義やワークを体感して知識的には学ぶこともあったのですが、何よりもそのワークショップ形式のセミナーのやり方が気に入りました。というよりも、わたし自身の方がもっと楽しく、効率的にできると感じたのです。

そのセミナーに参加した翌週にスタッフのみんなに、この半年以内に準備してエミネクロスオリジナルなワークショップをすると宣言しました。スタッフの数名は何となく怪しいのではないかと反対しました。メンタル関係のセミナーは、とかく当時はまだ怪しいイメージがあったのでスタッフも危惧したようです。

しかし、わたしは確信していました。絶対にわたしたちのオリジナルなワークショップができるし、今後たくさんの方々のお役にたてると。

それから半年準備をして第1期生開催。知り合いを中心に声を掛けて20人ほどが来てくれました。ありがたいです。一生懸命にやらせてもらいましたが、そのほとんどの方がワンデーコース(ワークショップは現在、ベーシックコース、ステップアップコース、ワンデーコース、フォローアップコースの4段階あります)まで来てくれて、もちろん今でも仲良しです。

その後、ワークショップの内容も年々変化成長しています。先日はついに6年目に入り16期生まで開催することができました。

全国はもとよりタイからも経営者、ビジネスマン、コンサルタント、主婦、美容師、社労士、カメラマンなどなど多彩な方が真剣にライフスキル脳、禅脳思考を学びに来られました。ありがとうございます。

これまで500名近くの方がすでにこのワークショップを受けてくださっています。ステップアップ、ワンデー、フォローアップコースまでで完成のプログラムです。

心より感謝申し上げます。

そして、いよいよ私の夢だった学生ワークショップを2014年8月2日(土)に初めて開催することになりました。今から楽しみです。

▼人間力ワークショップの詳細はこちら

http://www.doctor-tsuji.com/activities/workshop/

▼8月2日(土)の学生向けワークショップはこちら

http://www.doctor-tsuji.com/lp/student_workshop20140802/

2014/05/19

わたしのメンタルトレーニングは最初はモントリオールオリンピックの射撃の金メダリストのラニーバッシャムさんのメンタル・マネジメントから始まりました。

射撃はメンタルの要素が多く、オリンピックの2年前の世界選手権でバッシャム氏は優勝候補でありながら敗れたそうです。そこでメンタルに興味を持ち、自分独自の理論を創りマネジメントするようになり見事金メダルをゲットすることになったのです。

彼のマネジメント理論はセルフイメージが中心で、心の揺らぎに関してのメソッドです。この揺らぎがパフォーマンスの揺らぎに直結するので、セルフイメージを如何に大きく安定させるかというのがポイントになります。したがって、私のメントレの考えを最初に執筆したスラムダンク勝利学にはこのセルフイメージ論を中心に語られています。

その後、メンタルは揺らぎだけではなく囚われの要素もあると気づき、セルフコンセプトという心理学の概念に出会いました。思い込みや固定概念のことです。実はこの心の囚われの状態を克服していかないと本当の意味でパフォーマンスを発揮できないのです。囚われずの状態をセルフコンセプトの柔軟性として表現し、その重要性を私のメントレで取り入れるようになりました。

メントレをはじめたのが16年ほど前。セルフイメージだけでなくセルフコンセプトも取り入れるようになったのが9年年ほど前になります。この揺らぎと囚われの両方を同時に表現できる概念はないかと模索していたところ、8年ほど前にチクセントミハイ博士のフロー理論に出会ったのです。これだとひらめき、以後わたしのメントレの中心は揺らがず・囚われずのフロー状態になりました。

しかし、厳密にはチクセントミハイ博士のフロー状態はゾーンに近い状態ですが、私がメントレで目指しているのはもう少しライトな感じの心で、今に至ります。

メントレも進化しているので今後も楽しみにしていただきたいと思います。

▼メンタルトレーニングについてはこちら!

http://www.doctor-tsuji.com/activities/mental/

2014/02/17

少しずつエミネクロスの仕事が形になってきました。講演会、メンタルトレーニング、この2つを軸として、チームエミネクロスのキッズスポーツ塾です。それに加えて、わたしオリジナルの活動として企業の産業医の依頼があり、仕事に結びついていきました。産業医は50人以上の従業員の会社には法的に置かないといけないといけません。

そこで、どの会社も産業医の資格を持っているドクターを探します。法的なルールを守るためだけに契約している会社もありますし、ドクターのほとんどは掛け持ちで開業しながら、また、病院にいながら産業医をされている場合が少なくありません。ドクターも病気の専門家が中心で企業が求める健康づくりまでを実施している先生方はまだまだ少ないと言わざるをえません。

そのような背景の中で私の売りは、

1)もともと慶應病院で内科医をしていたということもありメタボをはじめ様々な身体の病気が起これば対処ができる、

2)メンタルの問題が起これば精神科のように精神疾患の治療まではできないが企業における鬱の始まりとなるストレスや弱ったメンタルのカウンセリングも対応できる、

そして何よりも3)スポーツドクターとして身体づくりのトレーニングメニューの提案や、ライフスタイルマネージメントの栄養・休養・運動の処方を通じて健康的な身体づくりができる、

4)一番の専門のメンタルトレーニングでメンタルヘルスではなくメンタルタフネスを作ることで鬱の予防が可能となるような対応ができる、即ち心と体のマイナスからプラスまでを対応できることです。

会社や社長が健康ということを財産と考え、減ったら治療、減らないように予防、さらにはそれを増やして増進ということを進める会社とご縁ができるようになりました。医師免許が唯一活かせるわたしのオリジナルの仕事です。内科医だったことも、スポーツ医学研究センターにいたことも、そして専門にしている応用スポーツ心理学としメンタルトレーニングしていることも、すべてが活かされている仕事だということで誇りに思ってやりはじめました。

徐々にわたしの考えに賛同してくださる会社で産業医契約を結び、オリジナルの辻メソッドで社員の方々の健康づくりができるようになっていきます。

健康はただ病気じゃないということでもなく、健康はただ症状がないということでもありません。あくまでもその人の人生の質を高めるために重要な1つの財産と考えることが重要です。それをある会社では健康一級と表現したりしています。今もより多くの考えを同じくする企業にて、健康一級の会社づくりをサポートしていきたいと思っています。

▼Dr.辻の産業医に関する情報はこちら!

http://www.doctor-tsuji.com/activities/industry/

2013/04/23

仕事が段々増えてきました。
秘書的な役割をしてくれる方が重要で、最初は家内の知りあいの他でも秘書業務を経験したことのある50代以降の、しっかりものの方を曜日を分けてお2人来ていただきました。最初の頃のメントレやチームのデータなどをまとめてもらったりしていました。懐かしいです。

少しずつ外でやることが増えて、対応や時間のマネージメントが必要になってきたので、わたしが学生時代にメントレをしていた成蹊ラクロスのOGや慶應ゴルフのOGなどがその後2代目としてサポートしてくれました。そのうち2人とも、それぞれ秘書よりもスポーツコーディネーターやメンタルトレーニングなど事業そのものへの関わりが高まり、さらに新しい秘書に来ていただくことになりました。

その後本格的に秘書業務を確立してくれたのは、もともと大学時代はチアリーディングをやっていた女性で、わたしのキッズのチアのコーチをやりながら秘書的仕事を整理してくれました。その後、彼女がやはりチアで忙しくなってきたので、もう1人ヘルプで他の企業で広報をやっていた女性が助けてくれるようになりました。
チアの女性は夢を叶えるために、確か今は沖縄かどこかでダイビングの仕事をしています。その他の若い女性たちはみな結婚して子育てが忙しいようです。ちょうどその頃、秘書が結婚などでいなくて困っているとき来てもらったかたもいますが、残念ながら辞められたかたもいました。

そして、クラブエクセレンスのマネージャーになりたいと言ってエミネクロスに6年ほど前に来てくれた石川さんが今の秘書の基盤を創ってくれました。一緒に苦労しながらエミネクロスを支えてくれました。昨年、昔からやりたかった夢を実現するために辞められました。本当に助かりました。石川さんが辞めて、その分の秘書業務を2人の秘書が今はやりくりしてくれています。私が忙しいので大変だとは思いますが、佐藤さんと奥田さんがやってくれています。本当にありがたいです。
2人とも他社で働いていたのですが、講演会などの出会いでエミネクロスに来てくれました。奥田さんがわたしの個人のつてで来てくれる前に、FBやHPで秘書の公募を昨年しました。50人ほどの応募がありましたが、残念ながらそのときはご縁が繋がりませんでした・・・。

歴代の秘書の方々ありがとうございます。みなさんのおかげで仕事ができています。

2013/02/21

エミネクロスがまだビジネス的にも不安定な独立翌年の夏に大事件が勃発し、それに巻き込まれました。その秋、1999年9月11日にあのワールドトレードセンターに自爆テロの飛行機が突っ込むという歴史的大事件が起きる、わずか1か月半ほど前の7月末のことです。
乗務員が亡くなるという世界初のハイジャック事件をご存知ですか?
日本でそれが起こり、私はそれに乗っていたんです。
羽田発の千歳行きのANA便でハイジャックに遭遇したのです。

全日本の車椅子バスケの合宿で札幌に向かう最中でした。飛び立っても一向に水平飛行にならずおかしいと思っていたら、機内放送でハイジャックをつげられ、機内は凍りつきました。わたしはコーチと一緒に1Fの後方席に座っていたのですが、明らかに大きく揺れて落ちていくのがわかりました。外の景色を見ているともうすぐそこに民家が見えて、あくまで印象ですが庭にいる人の顔がわかり目があってもおかしくないくらいの感じだったように思います。離陸と着陸以外の時にジャンボ機であんなに地面に近い経験などありません。本当に大丈夫なのかと思った瞬間に、大きく揺れながら急上昇。シートベルトをしてなかった人は座席から転げ落ちるほどの衝撃。

そして、その瞬間に機内放送でドクターコール。ハイジャック機の中でのドクターコール、いい状況であるはずありません。誰か他にドクターがいないか願っていましたが誰もいないようでどうしようか迷っていたら、隣に座っていたコーチがここにいますと手を挙げてしまいました。(超焦り…)スチュワーデスの方がすぐに飛んできて彼女に連れられてコックピットのある2F席へ。1階席のお客さんの中には拍手で見送る人もいました。まるで映画のようでした。

2Fに向かう間は私の頭の中は起こりうるさまざまな可能性、怪我による出血や負傷、心筋梗塞や脳梗塞などの急変、妊婦さんの産気づいた状態、子供の何か病気、などなどがよぎりました。2Fには犯人たちがいてピストルや刃物を持って立てこもっているんだと覚悟を決めながらスチュワーデスさんについて行きました。ハイジャックなど映画でしか知りませんし、その時間がとても長かったように今は思います。

ところが、2Fに行ってみると、わたしが想像していた光景ではありませんでした。コックピットのすぐ前で2人の男たちが1人は刃物を持ってもみ合っていました。どちらが犯人なのかよくわかりませんでした。訳もわからずにコックピットに案内されると、今度は私服の中年の男が1人で操縦管を握っていました。こいつが犯人の主犯格だなと思いました。そして、そのすぐ横のコックピットの床に血まみれになって倒れている機長らしき人物がいました。機長を挟んでそこにいたスチュワーデスさんはパニックでした。全面のガラス窓には血が飛び散り床も血の海でした。倒れた機長を蘇生しようと試みましたが、診察するとすでに亡くなっていることがわかりました。死亡診断を私がすることになり、この事件にいろいろと巻き込まれることになったのです。

わたしの役目は終わったと、まだドキドキしながらコックピットを出ると、1人の若い男の方がネクタイとベルトでぐるぐる巻きにされ一番前の座席に縛り付けられていました。2階席にはANAの方たちと、スーツの年配の男性と、先ほどもみくちゃになっていたもう1人の若い男性だけがいました。わたしは事情聴取その他があるため、その場に居残る必要があるとANAの方に言われ残されました。疑問は今操縦している私服の男性はいったい誰なのか?そこにいたスーツの男性に思い切って「何があったのですか」と尋ねてみました。

すると、離陸後すぐに今縛り付けられている若い男性が刃物でCAを脅し、副操縦士を外に出して、コックピットに機長と2人切りで籠ってしまったと。2階席にいた乗客は分かれて1階の空いている席に降ろされる中、自分は死んでもいいのでここに残ると言いはり残ったと。さらに他の乗客が1階に下りていくなかで、若い男性がいないといざというときに困ると判断し、声ではなく目で1人の若者に残ってくれと訴えたところその意味が通じその若者は友達がみな1階に下りていく中、1人だけ自分は残ると言って残ったそうです。

その彼が今、すぐ横に座っている先ほど格闘していてた今縛り付けられてない方の若い男性です。その状況でしばらく待っていたところ、飛行機の揺れは益々ひどくなり落ちて行ったと。そこに突然1階席から1人の中年の男性が2階に上がってきたそうなんです。そして、その男性が「あと2分以内にこの飛行機が落ちる!」「何があったのかわからないがとにかくコックピットに突入して操縦管を握って上昇させる」と。あとでわかったのですが、その方はたまたま休みでお客さんとしてこの飛行機に乗っていた全日空の機長さんだったのです。
1階の席から周りの景色の状況や落ちていく感じなどからあと2分しかないと判断したそうです。その年は長い梅雨でその日から晴れたのですが、もし雨が降っていたら外の景色が見えず、100%落ちていたと言われました。

その彼が2階にあがり、そこに残った若者に「2人で突入だ!」。お前が犯人、俺は操縦管、それだけ確認して突入したのです。そして犯人を引きずりだし、操縦管を引いて飛行機は急上昇。コックピットには血だらけの機長が倒れているのでドクターを大至急呼べと叫び機内アナウンス。

つじつまがやっと合いました。後でわかったのですが、飛行機が操縦不能になって地面すれすれの時にはいきなり操縦管を引いても、ジャンボ機くらいでかいと飛行機は上を向くものの落下していくそうです。急上昇と思ったのは勘違いで上を飛行機が向いただけで実はまだ落下していたのだと聞いて恐ろしくなりました。
さらに操縦管を引くのと同時にエンジン全開のボタンを押すのだそうですが、1人だったので操縦管を引き上げるのに精いっぱいでそのボタンを上手く手動では押せずに、オートで入るのを祈っていたと聞いて益々怖くなりました。
結局、あと数十秒のところでオートでエンジン全開となり墜落が回避されたとのことなのです。あの頃、飛行機は立川の住宅街の方だったと聞きました。墜落したら世紀の大惨事になっていたでしょう。

いろいろな奇跡のおかげで機長以外は全員無事、わたしもこうして生きているのです。まずはそのスーツの方が残ると言う判断をされたこと(無理やり降ろされていてもおかしくありません)、若者が目のメッセージに気づき残ってくれたこと(普通そんなの気づかないです…)、休みの日の機長が偶然にも乗っていたこと(まず乗ってないでしょ…)、その機長さんの判断が的確だったこと(感謝!)、その日の天気が晴れていたこと(奇跡!)、そしてエンジン全開ボタンがぎりぎりで作動したこと(ありえないでしょ…)。ありがたいを通り越して何でしょうか…。今の若者用語でしたら、やばいですね!

世間では1999年の大事件といえば、9.11ですが、私の人生の大事件もこの年に起こっています。エミネクロスを独立してまだまだ大混乱している頃の、本当の大事件でした。

2012/12/25

エミネクロスは当初、乃木坂駅から徒歩3分の閑静な住宅街の中にあるビルの1階にありました。青山斎場の前です。有名人の葬儀がある時だけにぎわう場所です。家内が見つけて来た隠れ家的なよい場所でした。
しかし、人通りはなく、一元さんは絶対に来ないような場所です。私の活動もクリニックではなく、知り合いの方々しか来ないのでちょうど好都合でした。そのビルの1階はチャック・ウィルソンさんのオフィスだったところだそうです。2階に建築事務所、3,4階が大家さんというこじんまりとしたビルでした。

そこに私、チームエミネを動かすスタッフが常勤と非常勤で3名、事務のアルバイトの女性1名、そしてスポーツクリニックをサポートするトレーナーなどが非常勤で3名、そして講演会の担当1名の感じで狭いオフィスをわけて使っていました。当時は大学体育会のチームメントレとかも多く、いま思うとホント狭いところにぎゅうぎゅうの状態でやっていました。

オフィス周辺はその後、六本木ヒルズが建設され、ミッドタウンができあがり、国立新美術館などが開設され、まわりはどんどんと様変わりしていきました。近所のお寿司屋さんとフランス料理屋さん、そして喫茶ウエストと仲良くさせてもらい、ほぼ10年間滞在しましたが、周辺にできた会社や店はほとんどが潰れていきました。今いる代官山のオフィスも好きですが、実はエミネクロスが誕生したあの乃木坂の南青山は一生忘れられない素敵な場所として今でも記憶に残ります。

手狭になってきた頃、2階の建築会社が丁度都合よく出ていきまして、2階を改装し、セミナールームとして使用できるようになり、少しお客さんが増えてきたオフィスには好都合でした。それにしても懐かしいです。

しかし、依然としてさまざまな苦労や事件は続きます。その時々の素晴らしいスタッフたちに恵まれていたのだと改めて感じます。

引き続き、まだまだ続く辻秀一物語をお楽しみに。

2012/10/30

立ち上げた当初はこれまでにつてのあった慶應大学の体育会やラクロス協会を中心にメンタルトレーニング、新しく立ち上げたチームエミネクロス、そしてそれに加えてぼちぼちと単発的に依頼のくる講演会を行っていました。
当時の講演会はスポーツドクターとしての健康に関すること、ライフスタイルに関するものやスラムダンク勝利学に関するもの、スポーツ心理学に関するもの、教育に関するものなどが、忘れた頃にたまに来ていました。プラス書籍を含めたこれもたまの執筆依頼。
これら4つを主なる生業で活動していましたが、なかなか軌道に乗るには時間がかかり大変だった思い出があります。
営業などしたこともなく、広告・宣伝も興味がなく、ただやっていれば来ると根拠なく信じていたのです。世の中そんな甘いものではなく、家賃やわずかなスタッフの給料などの支払いに追われていたことを思い出します。

そんな時代を支えてくれたのが妻で、そんな状況から抜け出すきっかけは1人の青年の出現でした。妻の話はまた折をみてしたいと思いますが、この難局を打破してくれた青年について話をします。

彼は学習院大学のラグビー部時代にわたしのメンタルトレーニングを聞いていました。
学生の時はそんなに印象深く付き合いがあったわけではないのですが、就職して数年後にちょうど私が独立して2年目になろうと苦労している頃に、連絡がありました。
UNISISという会社に勤めているが、今仕事で最も役立っているのは学生時代にメントレで私から習った心のつくり方だと。会社や社会ではそれができなくて困っている人がたくさんいるから、もっとこの考えをいろいろな人に広めていきたいと考えていますと。
嬉しい連絡でした。それからしばらくして、それを本格的にわたしのところで仕事としてやっていきたいと申し出てくれたのです。メントレをしたいのではなく、この内容を多くの人に講演会とかで聴いてもらえるようにすることに興味があると・・。

たしかにそうだけど、この申し出には困りました。なぜなら、そんなやる気のある優秀な青年を雇うお金もなく、ありがたいがどうしたものかと。すると彼が半年くらいは給料はいらない、半年もあれば先生の講演会で自分の給料くらいは出せる状態にできると言ってくれたのです。その申し入れを果たして受けていいものなのかわかりませんでしたが、現状打破しないといけないことは確かです。
そこで彼と話した結果、今のUNISISを退職してエミネクロスに来てもらうことになったのです。

優秀な彼が退職して転職するということで、上司の方の引き留めに強くあいました。彼の会社の取締役の方がどうしてもわたしに会って引き留めのお願いをしたいと面談したのを今でも覚えています。そのとき取締役の方がどんな条件で引き抜いたのかと聞かれ、いいえ給料なしのタダで来てもらいますと言ったことで決まったのです。
向こうとしては条件次第でより良い条件で引き留めようと思っていたらしいのですが、タダと聞いて、わたしと彼の思いがお金ではないということが伝わり転職可能となったのです。

それから半年わたしは一切営業など行くこともなく、彼が懸命につてをたどって営業してくれるようになったおかげで、給料を払ってもあまるほどに講演会の依頼が徐々にではありますが舞い込んでくるようになったのです。エミネクロスが生き残ってこれた1つの大きな要因は彼の登場だったことを否定する人はいません。今でも感謝しています。

今彼は結婚して義理のお父さんと新たな事業をすることになりエミネクロスは退社しましたが、今でも付き合いのある心から信用できる人材です。
人が人生を変えるのだと心から思います。

2012/08/21

子供たちのためのバスケ塾をはじめようとスタートしました。
バスケのスキルのための塾ではなくて、バスケを通じて人間が育つ人間塾的なものです。コーチはもちろん東野コーチ、コーディネーターには当時成蹊大学の4年生でラクロス部にいた高橋結城ちゃんと日本大学のバスケ部OBで埼玉ブロンコスの選手だった北村良くんで始めました。どうやって集客していいのかもわからず、とりあえず港区の区報に載せてもらったりしながらスタートしました。

第1回目は、私が勤めていた港区の北里研究所病院の体育館に、数名の子供たちが来てくれました。感謝です。涙が出るほど嬉しかったです。数名の子供のために、親やコーチやJBLの選手や外人などを呼んで、大人が3倍くらいいました。バスケをやりながら様々なものを学ぶというコンセプトを持ってスタートを切ることができました。

そして、子供たちに学んでほしいことを、ルールにして言葉化することを目指した結果、 チームエミネクロスのルールは
1)一生懸命にやる
2)楽しくやる
3)人の話を聞く
4)返事をする
5)「ありがとう」を言う
に決定しました。これからさまざまなチャレンジを子供たちのためにやっていくのですが、子供たちに伝えたいことは、すべてこのルール、5つの理念を貫いていくことになります。

中学校のバスケットボール部に所属している子やミニバスをやっている子供たちだけでなく、人間的成長を目指して預けられるお父さんやお母さんもいました。必ず、入塾の前に説明会を開いて我々のコンセプトや理念を理解してもらって共有しながら活動していきました。
バスケに関してもこだわりがあり、
1.どんな小さな子供でも7号ボール
2.全員にマイボールをわたす
3.リングは全員3メートル5センチ
4.対外試合はしない
勝つためのバスケでなく、バスケを通して人間的成長をあくまでも目指すことにこだわり続けて活動していました。

当時はコーチ、コーディネーターのスタッフたちと毎日夜中までどうやって運営するのか?どうやって子供たちに伝えていくのかなどを模索し続けていたのを思い出します。
しかし、このときにやってきた思いや活動が今私たちの糧になって、2013年よりスタートするバスケのプロチーム“東京エクセレンス”の理念の基盤となっていると思います。今もそのためにたくさん苦労していますが、その頃から苦労は始まっていたのだと笑えてきます。

▼東京エクセレンスの運営母体、
一般社団法人カルティベイティブ・スポーツクラブのHPはこちら。
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みなさん、応援よろしくお願いします!

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