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2011/10/20

震災後の反原発デモから始まり、フジテレビへの反韓流デモやら花王への不買運動デモやら、
最近ではウォール街のデモに触発されて日本でも「格差反対デモ」が起こりました。
2011年は日本のデモ元年なのでしょうか?嫌ですね。

僕もこうしたコラムやTwitterなどで数々の社会に対する提言や改革を叫んではおりますが、
端的に言ってそういったデモの類は大嫌いです。本日はそんな理由を語りましょう。

まずもって日本のデモの参加者たちは、何を思ってデモを行なっているのでしょうか。

一口に「デモ」と言っても、今年中東で巻き起こっているデモと日本のデモではわけが違います。
僕は中東の一部の国でのデモは「全然アリ」だと思っています。

彼らには表現の自由も、民主的に政治に参加する権利もありません。
そんな中でのデモというのは表現の最終手段であり、ある種「決死の覚悟」を伴った政治行動なのです。

翻って日本はどうでしょうか?
僕らには表現の自由もあれば、成人であれば誰でも一人一票という参政権を持っています

社会を変えたいと願うなら、まず真っ当な手段で社会に変化を訴えるべきです。
僕は賭けてもいいですが、デモ参加者の半分以上はロクに選挙にも行ったことがない人たちでしょう。
(そして恐らく本当に生活が困窮している方は、逆にデモになど参加する余裕がありません。)

まあこういうことを書くと、「デモはその権利が憲法で保証された、真っ当な手段です!」
とか言われそうですが、基本的には日本のように国家がまともに機能している国では
デモに参加する時間を労働や勉強に当てた方がよっぽど有意義だと思います。

日本のデモの最大の問題点は

・明確な問題意識がない
・ゆえに明確なイグジット(ゴール、目的)もない

という点につきます。要は、ヴィジョンも覚悟もないんです。だから色んな主張や怪しげな団体が混じる。
ちなみにこれは日本に限った話しではなく、ウォール街のデモも迷走しているようですが。
所詮、先進国の(世界的に見れば)富裕層に位置する人々のお遊びの域を出てないのですね。

特にイグジット(EXIT)を設定せず「反対!反対!」と叫ぶデモでは
自己満足の謗りを免れることはできないでしょう。

自由主義経済や民主的政治が機能している国でのデモ行為の行き着く先は、8月のロンドン暴動です。
デモは一種の「暴力行為」ですから、安易なパフォーマンスは暴動すら巻き起こす可能性があります。
つまり、百害あって一利なし。

ここまで読んでもデモに参加したいという方。

「自分には明確なヴィジョンもイグジットも、覚悟もある!」

という方がいらっしゃるなら、デモを主催されると良いでしょう。
しかしながら、その覚悟が本物であれば、おそらくそのデモで誰かが命を落とします。

それでも、デモをやりますか?

2011/07/26

先日twitterにこんなポストをしたところ、結構な反響がありました。

「これまでの日本は放蕩に電気や資源を使い過ぎた。これからは節制して、清く貧しく慎ましく生きましょう。借金も増えるけど、返済よろしくね。」と60過ぎのおっちゃんに思いつきで決められることに、若者はもっとブチ切れていいと思う。僕は怒ってます。

これは主に電気(エネルギー)問題について投げかけた意見です。僕は脱原発とは距離を置く立場の人間ですが、原発がなくても実は(埋蔵電力とかで)電力が足りたり、自然エネルギーで代替が本当に効くというのならそれはそれでいいんじゃないかと思います(無理だと思いますけど)。

ただ懸念しているのは、脱原発チックな発言の中には時として

「現代社会は放蕩に資源を使って環境を傷つけてきた。自然に還ろう」
「これからは自然とともに歩む循環型の社会を目指そう」
「経済成長や科学技術の過剰な追求は慎むべきだ」

という「反近代」「反テクノロジー」とも言える思想が混じっていることです。とか思っていたら、我が国の首相がトンデモない発言をしてやがりました。

首相「「神が人に知恵を与えて科学技術が蓄積された。それが良かったのかどうか
http://s.nikkei.com/njmb8O

知識や経験の乏しい少年少女たちが平和・平等・自然などの「ハッピー」な思想に染まるのは成長過程における熱病・通過儀礼だと思いますが、こういう

「自分たちは散々経済成長とテクノロジーの発達で恩恵を授かってそこそこ豊かになり、蓄えもできたので老後までほぼ確実に逃げ切れる世代」

は半ば本気でこういうことを信じ込んでいるので本当にタチが悪いです。(今日は敢えて「怒れる若者」風に書きます)

僕はコレ系の「もう日本は十分豊かになったから、経済成長(もしくは技術開発)の追求はやめて自然体で暮らしましょう」という意見にまったく賛同できません。

社会派ブロガーのちきりんさんもおっしゃっていましたが、経済成長を諦めて船が沈み始めたら、真っ先に海に浸かるのはその底辺に位置する人々だからです。

昭和(30年前くらい?)に戻ればいいと平気で言い放つ人がおりますが、そのころの水準(人口や食糧事情、治安や安全保障など)にソフトランディングするまでに、どれだけの経済的弱者が地獄をみることになるでしょう。現在裕福でそこそこ蓄えのある方には、ちょうどいいレベルになるのかもしれませんけどね。

そしてこの「弱者」には、ほぼすべての若者や子どもたちが該当します

貯蓄もなく(ないどころか、GDP2倍以上の国債を先送りされている!)これからまだまだ経済成長が必要な世代が、それをストップされたら待っているのは絶望的な貧困です。

いままで放蕩に資源を使い尽くし環境を傷つけてきた既得権益世代の贖罪意識に、なぜ将来世代が犠牲にならなければならないのか?

安易に「自然」や「環境」(もしくは「人の命」)などという美辞麗句を弄ぶ人々の眼中には、こうした社会的弱者や将来世代のことなど入っていません。

そんな人々(≒富裕高齢層)が大きな政治力を持ち、時に国の未来の舵取りに影響を与えていたのが我が国の現状なのですが、とうとう首相の口からおおっぴらに語られるまでになってしまいました。

これからのエネルギー施策を含む「成長戦略」を描く土台に、こうした「反近代」「反成長」「反テクノロジー」という思想が流れることは、将来世代にとってかなり危機的な状況です

「将来にツケを回さない」「10万年後の安全」を本当に求めるならば、若者たちが強く危機感を持ち、より大きく声を上げていくことが求められる…そんなことを考える毎日なのです。

2011/07/17

「脱原発」、政府方針でない=菅首相が表明、野党は批判
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&rel=j7&k=2011071500803

13日に菅総理が突然の記者会見をして「脱原発」宣言、個人の意見だの政府の方針ではないだのと、にわかに周囲は活気づきまたも本質から外れたところに議論が突入している感があります…

そんな中、突然ですが今日は「菅直人と鳩山(前総理)が似ているんじゃないか」というお話しをします。

鳩山前総理退陣の最終的なトリガーは、「最低でも県外」と思いつきで言い放った沖縄普天間基地問題がこじれにこじれ、元の自民党案に戻ったことに住民の理解を得られず、政権運営がにっちもさっちも行かなくなったことに起因します。

そして今回、菅総理の7月上旬の突然の「ストレステスト」方針発表から、「脱原発」宣言(元をたどればその前の浜岡原発の停止からですが)。原発の再稼働に前向きだった玄海村関連の住民たちは猛反発し、世論としても「国民(≒住民)が納得しない限り、原発は再稼働できない」という空気が完成しました。

そう。ここに、原発問題が『普天間化』したのです。

これは大変危険な状態だと、僕は思います。手続き上の話しで言えば、原発の再稼働に「地元自治体の首長や住民の理解を得る」というフローは必要ではありません。国がイニシアチブを取って決定すれば、決定事項として進めることができる類のものです(これは普天間も同様)。それを菅さんは一連の行動で、住民の理解という要素を決定のフローにねじ込んでしまった。

なぜこれが危ない状態なのでしょうか。僕とて「住民の理解など不要だ、国策として進めることなんだから黙って我慢しろ!」などと思っているわけではありません。しかしながら、こうした国全体に関わる施策に住民・市民というファクターを過度に入れることは、

・指導者の求心力を低下させる
・問題をむしろ(その地域、争点に)矮小化させる

という2点で非常に由々しき問題です。

まず前者。国民、住民、市民の視点はもちろん大事ですが、欠点もあります。残念ながら一般的な生活者は、目の前にあることを優先します。ゆえに、単一争点(シングルイシュー)でyes/noを問えば、結論はおのずと見てきます。

しかしながら、国を運営することは時に、全体最適のために一部を犠牲にする必要があります。これは事実です。それを行うために存在するのが指導者であり、政治家であるはずです。鳩山さんも菅総理も、本来手続き上不要とされていたものをねじ込んでその役割を放棄し、自らのリーダーシップを低下させてしまいました。

本当に国民目線で意思決定する覚悟があるというなら、法律を改正してそうした手続き(国民投票など)を取るべきです。それもせずに議論のみを巻き起こし、調整ができず一歩も前に進めなくなるのは、壮絶なリーダー・政治家の自殺と言っても良いでしょう。

そして後者の、問題の矮小化。

歴史的に見て、反対運動(市民運動)はだいたい、このパターンにハマってなし崩し的に崩壊します。成田闘争も、住民の反対とそれを応援する世論、という図式で始まりましたが、矮小化された問題への関心は時間と共に薄まります。最後の「一坪地主」たちの抵抗は、むしろ世間から冷ややかな視線を送られ、成田闘争は終わりを迎えました。

安全保障や外交、エネルギー政策など、多岐にわたる領域を横断する政治問題を、「安全性」「地域住民への配慮」という狭い範囲に限定すれば、長期的には国民の関心・理解を得ることをはますますできないでしょう。長期的なエネルギー政策や経済政策を含めた国策を、地域住民に転嫁することは逆に残酷な処置なのです。

国防、安全保障の問題を、住民との対立にすり替えて退陣を余儀なくされた鳩山前総理。
エネルギー、経済の問題で同じことを繰り返そうとしている菅総理。

二人の行く末に同じものを感じると同時に、民主党から出た二代の総理が政治家・リーダーというものの存在価値を著しく低下させてしまったことに、絶大なる失望を感じざる得ない今日この頃なのです。

2011/07/05

昨日からニュースをご覧になっていない皆さま、まずはこちらを御覧ください。
(youtubeに飛びます。短い動画なので、面倒臭がらずにぜひ!)

【松本復興相、宮城県知事を叱責】
http://t.co/WTHFS4V

「コンセンサス取れよ、そうでないと我々は何もしないぞ」
「長幼の序がわかってる自衛隊ならやるぞ」
「今のはオフレコです、書いたらその社は終わりだから」

…さて、というわけで松本龍復興担当大臣の失言(暴言?)がそれなりにニュースを賑わせ始め、またこれで失言による辞任騒動が起こるかと思うと、発言への怒りとも相まって本当に暗い気分になるものです。

なんですが、落ち込んでいてもしょうがないので、今日は「なぜ、政治家は失言をするのか?」ということについて少し考えを述べたいと思います。少々観念的なお話しですが、個人的な見解なのでご容赦を。

「核兵器はしょうがなかった」
「女性は産む機会」「法務大臣は二つだけ言葉を知っていればいい」

等々、うかつな発言でその地位を追われたり、支持率を急落させる政治家は枚挙に暇がありません。ではなぜ、彼らはこんな失言を繰り返すのでしょうか?バカで人の気持ちがわからないからでしょうか??

そういう人もいないとは言いませんが、それほど単純なものではないと思います。僕の考えを結論から申し上げますと、政治家が失言をするのは、時に彼らが失言することを 社会が構造的に必要としているからです。

「日本は神の国」
「核兵器はしょうがなかった」
「あの戦争は正しい戦争だった」
「女性はたくさん子どもを産むべきだ」

等々、昨今の世の中では普通の人がこうした意見を おおっぴらに述べることは困難です(袋叩きに遭うから) 。しかし、こうした「過激」な意見の持ち主というのは 常にかなりの数が社会に潜在的に存在しています。

そうした人々は普段自分の意見が抑圧されている分、 ときに漏れ出る政治家の失言に

「あれは言いすぎだよなー」

と周りに調子を合わせながらも、 大いに溜飲を下げるのです。 そしてそうした人の数がいかに多いかは、失言した政治家が大抵次の選挙でも当選することからもよくわかりますね。

また昨今ではこうした失言がウェブ上やリアルでの議論が沸きあがるきっかけになることも、 見逃せない社会的要因ではないでしょうか。

さらにラディカルな意見を付け加えれば、僕は国民は潜在的に政治家に「バカであって欲しい」と願っていることも見逃せない社会力学ではないかと思っています。失言を繰り返す政治家をみて

「政治家はバカばっかりだ」
「俺達は頑張ってるのに、政治家があれだから日本はダメなんだ!」

と思い込む。こうした思考回路は短期的には心の平穏をもたらしますが、国民が政治家をまったく尊敬しなくなり、優秀な人が政治家にならなくなり、長期的には国の衰退を招きます。非常に危険な構造でしょう。

政治家は常に、国民を写す鏡です。僕も松本某の発言は最低最悪のものだったと思います。おそらく、これからしばらくは辞任騒動が続いて政治が停滞し、結果としては辞任ということになるのではないでしょうか。

しかし彼に限らず、失言をしてその地位(役職)を追われた政治家(国会議員)は、多くの場合次の選挙でまた当選を果たし、国会議員をのうのうと続けます。真にその失言を社会問題として追求するならば、国民はその政治家を再選させてはいけないはずです。

失言政治家に大物が多く組織票が固いことを差し引いても、この事実が「国民は実は、その失言を構造的に必要としているのではないか」と考えられる大きな理由の一つです。

今回の復興担当相の失言から、我々が学ぶ・心に留めることがあるとすれば2つ。

・「復興が進まないのは、国(政治家)がしっかりしないからだ」と、どこかに責任を押し付けたい気持ちはなかったか?
・失言をした事実とその政治家の資質をしっかりと心に止め、次の選挙で「落選」という現実を突きつけるべきではないか?

今回の失言も政治家個人の責任と割り切るだけでなく、その国会議員を選んだ国の有権者の一人として、少しでも良い未来を築くための教訓にしていきたいと、僕は思っています。

…いや、「選挙区が違うから、俺は票を入れてないし関係ないな!」なんて冷たいことは言わないでぇぇ!「国の有権者の一人」としてね、うん。

2011/06/01

「脱原発は巨大なチャンス」独メルケル首相
http://www.asahi.com/international/update/0531/TKY201105300650.html

昨日、ドイツのメルケル首相(♀)が原発保有国で
唯一「脱原発」の施策を明言し、話題を呼びました。

ドイツ国内のみならず、世界中から賛否が巻き起こっている決断ですが、
これを行ったのが女性首相のメルケル氏だったことが興味深いです。

今日は少し政治の世界から離れて、
この事実から少し想像を働かせてみようと思います。

男性脳(男性的な価値観)と女性脳(女性的な価値観)の違いを示すもので、
個人的に説得力を感じている「リスクとデインジャー」という理論があります。

ここでは、「子育て」を例に論を進めましょう。

女性と男性では(母性と父性では)本能的に
子育てに明確な方針の違いが出るそうです

女性の子育てはまず、「子どもは脆弱である」という
前提からスタートします。その上で、「生き残るためにはどうするか」
という生存戦略を第一に考える。

結果どうなるかというと、子どもを
「なるべく集団の中で目立たなくさせる」そうです。
周りと同じことをさせ、集団の中に敢えて埋没させる。

これがなぜ生存戦略上有利か。
サバンナのシマウマの群れを例に取ります。

シマウマの群れの中になんの特徴もないシマウマとして
存在していれば、たとえばライオンなどの猛獣に襲われたとき、
死ぬ確率は十頭の群れなら十分の一、百頭の群れなら百分の一になるからです。

群れの中に存在して日々暮らしながら、
この群れが外敵に襲われ非常事態が訪れたとき、一体どうなるか。
こうした危険を常に考え続けているのが女性の生存戦略なのだそうな。

これに対して父親の子育てとは、
同じく「子どもは弱い」という前提からスタートするものの、
「いかに集団の中で抜きん出るか(強くなるか)」を目指します。

群れの中で埋没することを良しとせず、如何に優位に立ち、
群れのリーダーシップを取るか。群れの中の優位が
有利な生存につながるという発想なのですね。まさに闘争本能。

しかしこの生存戦略は、通常時は確かに優位に働くものの、
猛獣のような「外敵」が現れたときに負の方向に作用します。

シマウマの群れの中にただ一匹、
目立つサラブレッドがいたらどうなるか。
猛獣が狙うのはどのターゲットか、火を見るよりも明らかです。

何が言いたいかというと、女性というのは常に
群れというシステム・ルールの中に存在しながら

「この群れ(システム)が崩壊したとき(猛獣に襲われる等)、
 一体どうしたら有利に生き残ることができるか」

という所謂『最悪の事態』を想定しているのです。
こうした予測不可能な危険性のことを
デインジャー(danger)と言います。

一方の男性は群れの中、
システム・ルールの中での闘いには非常に敏感です。

これをしたら不利になるとか、
ある程度予測可能な危険性(リスク:risk)には女性以上に気を配る。
しかし一方で、デインジャーをまったく想定しない。

同類が争うシステムの中での競争には気をやっても、
システムそのものが崩壊することは考えもしない。
これが男性的マインドの特徴だそうな。

こんな「リスクとデインジャー」という考え方からみると、
今回の原発に対する対応は、ちょっと面白いと思いませんか。

男性と指導者たちは現行の経済競争に囚われ、
「いかに電力を安定供給し、国際競争に打ち勝つか」に夢中となり、
エネルギーという「枠組み」自体の崩壊を見抜いた女性指導者は、いち早く舵を切る…。

メルケル首相の決断が
こうしたマインドに拠るものかは測りかねますが、
もし彼女が女性として『デインジャー』を想定した決断を下していたら…。

「あの時が、女性指導者が著しい力を発揮した歴史の転換点だった」

そう言われる日が、ひょっとしたらくるのかもしれませんね。
そんな僕は、まだ原発に夢を抱いていたりするのですが(苦笑)。
ああ、男性マインド。

それでは、また来週。

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