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トンガに戻ってきた鈴木です。お元気ですか?
前回の投稿で書いた通り、2週間ほどソロモン諸島に行ってきました。
旅程は
8月15日トンガ→ナンディ(フィジー) (Fiji Airways)
8月16日ナンディ→(バヌアツただし機内待機)→ホニアラ (Solomon Airlines)
8月25日ホニアラ→(バヌアツただし機内待機)→ナンディ (Fiji Airways)
の予定が、ダブルブッキングで乗れず(笑)
8月29日ホニアラ→(バヌアツただし機内待機)→ナンディ (Solomon Airlines)
8月30日ナンディ→スバ(バス移動)
8月31日スバ→トンガ (Fiji Airways)
と、こんな感じ。ダブルブッキングのお陰でフィジーの予定がキャンセルで
まるまるソロモン諸島満喫コースになってしまいました。
宿泊は以前所属していた修道会、サレジオ会にお世話になりました。
最初の一週間はヘンダーソン国際空港そばのDon Bosco Technical Institute。
僕が2004年から2007年にかけて活動拠点だった場所。
学校職員たちも殆ど総入れ替えで、僕の知っている人は数名のみ。
あと、工業学校でして、いろいろと拡張されてまして、
殆ど知らない学校になってました…。
実際、その一週間何をしていたかというと、主に、知人巡り。
JICAさん、大使館さん、ソロモン警察音楽隊さん、在留邦人さんなどなど…。
当時、携帯電話もメールも殆ど普及しておりませんで、
その後全く音信不通になっていましたので、
直接訪問すること以外方法がなく、
そして、訪問すると、一瞬固まって思い出してくれるのが面白い。
あれから8年経ってるんですね。
実はRAMSIという平和維持警察みたいなのがまだ続いてまして、
少数ですがトンガ警察からも派遣されております。
ので、ソロモンから帰国してきた警察官が、僕にピジン語で話しかけてきても、
もうすっかり忘れてしまってまして、
今回どんなものかと心配していましたが、
実際に行ってみると、出るわ出るわ(笑)
ブロークン英語のピジン語なので、トンガ語よりも断然スムーズに。
全然問題なかったです。
訪問先で、ちゃっかりと自分の会社の宣伝もしてきました。
なにか引っかかってくれるかなぁ…と期待しつつ。
ホニアラの街はどうなってたかというと、
どうやら中国人やアジア諸国の商人たちが入ってきて、
結構建物も乱立し、車は月100台以上のペースで入ってきて、
ものすごい大渋滞と雑踏の街でした。
この辺は8年前とは比べ物にならない。
2週目はテテレというヘンダーソンから田舎側に15kmほど進んだ場所。
僕も3回ほど引率をしたことのあるDBVG(ドン・ボスコ海外ボランティア)が
こちらに来るということでしたので、DBVGに乱入。
基本的にホニアラ市内からヘンダーソン空港辺りまでは電気が通っており、
そこから更に進むと電気なし。
ジェネレーターで発電するか、ソーラーパネルでバッテリーに充電して使うか…。
明かりは灯油ランプとか…。
こちらサイドに行くと、僕の見知ったソロモンの世界が広がります。
それでも、「勝手に」建てた住居なども増えており、若干発展しております。
そして、テテレのDon Bosco RTC(Rural Training Centre)という
農業、畜産系の職業訓練校。
ホニアラの変貌っぷりにはびっくりしましたが、
RTCの変貌っぷりには度肝を抜かされました。
僕の知ってるテテレはもはやありません。
街中の発展は勝手にそれぞれやっているような無秩序的な印象ですが、
こちらの学校は、美しく、きちっと、計画的な発展という印象。
学生も全寮制で、雰囲気もよい。
DBVGメンバーと一緒に作業をしつつ、生徒と交わり、
僕が担当した時の作業物を眺め、
周りに広がる美しいソロモンの風景を楽しんできました。
2週間でスッキリリフレッシュして帰ってきました。
ソロモン以外は行きにナンディで一泊、
帰りにナンディとスバで一泊しております。
これで、今年の有給は使いきって、
恐らく来年末帰国すると思うので、
まるまる一年以上連続休暇はお預けです。
あ、あと、今回利用した4つの空港
トンガ、フィジー(ナンディとナウソリ)、ソロモンそれぞれで
友達に出会いました。大体トンガ人ですが。
オセアニアは、恐ろしく狭い世界です。
さて、9月になりました。
有給も使いきってしまいました。
あとは働くのみ。
一年以上トンガから出国することはたぶんもうないでしょう。
遊びに来てください。
お盆休みという響きを全く聞くことがなくなったこの10年ですが、
明日土曜日(8月15日)より、2週間ほどバカンスを取ることにしました。
有給2週間を一気に使いますので、今年は日本帰国なし…。
で、どこに行くかと言うと、古巣の
ソロモン諸島
2007年9月に去って以来なので、ほぼ8年ぶり。
ソロモン諸島は2001年より何度か行き来があって、2004年から3年過ごした場所で、
ソロモンを出国する際、「どうせ戻ってくることがある」
とどこかで思っていて「じゃ、ちょっと行ってくるわぁ!」
的な雰囲気で帰ってしまった。
正直ね、ソロモン諸島とかそんなに行く場所じゃないんですよね(笑)
ノニジュースの生産ピークは日本で言うと冬から春。
年越してから気温が上がり始め、4月辺りでピークを迎えます。
ノニは夏の果物なので、
今の時期は正直なところ、閑散期。
というわけで、有給をこの時期に頂きました。
予定では8月15日午後、トンガからフィジーへ。(飛行時間約1時間半)
翌日朝、フィジーからバヌアツを経由してソロモンへ(飛行時間約4時間)
意外と遠い…。
ちなみに飛行機はその後パプアニューギニアへ向かう。
パプア―フィジー間の国際エアバスと言った位置づけかな?
滞在場所は元職場の修道院の一角。
お客さんが泊まれる場所があるんです。
元々そこに住んでたので、修道院長に連絡を入れてすんなりOK。
出発する明日は、その修道院(サレジオ会)の創立者(ドン・ボスコ)(1815-1888)の生誕200周年記念式典の真っ最中。
生誕地イタリアのトリノでは盛大なお祝いがなされているようで、
世界各地に広がったサレジオ会の事業所では、同じくそれぞれイベントがなされる予定。
僕が行くソロモンのサレジオ会の学校でも同じ。
ちょうど到着時刻付近はイベントの真っ最中で迎えに行けないかも…
と連絡があった。
まぁ、そうでしょうね。
でも、いいんですよ。
空港から徒歩5分ですから。
果たして8年ぶりになるソロモンはどんなに変化しているんでしょうか?
(してなかったりして…)
2001年初めてソロモンに行った時は国内民族紛争明けで
2回目の2003年はRAMSIという治安維持部隊の1次隊が入った翌日で、
2004年移行は治安とともに道路補修など結構一気に整備された。
2004年辺りまでサレジオ会のもう一つの支部に行くのに1時間車でかかってたのが、
2007年あたりでは15分で。
たった10kmの距離なんですけどね。
という訳で、明日より2週間楽しんできます。
元トンガ在住の鈴木です。
タイトルを「古今東西音巡り」と変えて、全く「音」に触れてないのが心苦しいのですが…
12月1日のJUNKSTAGEパーティー、ついに参加でき、スタッフさん、他ライターさん方と初めてお目にかかることが出来ました。いろんな刺激も受けました。大分からはるばる出かけていった甲斐がありました。一流の皆さん方の中に「何故自分が???」という思いが一段と強くなってしまいました(笑)そして、数日後、「11月は更新が一回だったため」と月ごとに格下げされました。頑張ってネタを探さなければ…。
さて、先週大分の別府にある立命館アジア太平洋大学(以下APUとします)の太平洋諸国からの留学生を中心にオセアニアウィークが開催されました。APUは学生総数の半分以上が留学生で、授業のすべて日本語と英語の両方で開講され、大学構内の公用語は「日本語か英語で」という決まりがあるという、メッチャクチャ国際色豊かな大学でして、世界中から学生が集まってきています。(ちなみに就職率95%以上という脅威の数字を残してたりもします。)なので、秋から年明けにかけて、一週間単位で地区や国別のイベントを行なって、異文化紹介を常としています。で、先週からオセアニアウィークを皮切りに始まりました。ちなみにオセアニアからはトンガから10人、フィジーから5人、あとはパプアニューギニア、オーストラリア、ニュージーランドから。以前はサモアとかクック諸島、タヒチ、ソロモン諸島、ヴァヌアツと言った国からも来てたそうですが、今現在は在籍していないとのこと。
僕が参加、鑑賞したのは、水曜日と金曜日の2日だけ。
水曜日はオセアニア、特にポリネシア(ハワイ、ニュージーランド、イースター島の3点を結んだ三角形の中にある国々)固有の文化であるカヴァセレモニー。僕がトンガにいる時に毎晩やってたあのカヴァです。僕にとっては日常的で、当たり前のことなんですけど、やはり日本、しかも大分ではかなりレアな催し物。参加者は大学生ばかりですけど、サラッと入ってきました。ちなみにトンガ人10人ですけど、トンガ在住時会ったことあるのは一人だけで、後は知らない人たちだったんですけど、とりあえずサラッと入って、サラッとトンガ人とトンガ語で挨拶交わした所、初対面のトンガ人たちが「えっ?なんで????」「あの人俺の国の言葉喋ってるよ!!!」みたいな感じで寄ってきて、更に初めて会ったくせに、その他の留学生や日本人学生に「この人は〜」みたいにあたかもずっと前から知ってるかのごとく紹介しまくってる(笑)。その辺さすがオセアニア人だなぁって。おかげでなんの違和感もなく入ってきましたけど、さすがに大学生、若いね。おじさんは中々ついていけませんわ…。
ソロモン諸島に行く前に、ボランティアで3週間ほどパプアニューギニアの結構山奥に行ったことがありまして、パプアの留学生がいたので、喋りかけた所、なんと自分が行った地区にほど近い場所出身だったとかで、その留学生曰く「その地名を出して、話が通じたのは、日本で初めて!!!」と喜んでました。こういうことってあるんですねぇ。ちなみにシンブ州と行って、標高1500mほどで、赤道に近い国でありながら椰子の木が存在しない地区だったりします。朝10度以下まで下がって寒かったなぁ…。
これはカヴァセレモニーのカヴァです。カヴァボウルという木製のボウルの中でカヴァを作り、ココナツの殻で作ったカヴァカップで回し飲みします。ちょっと日本の茶道に通じるものもあるかも。
こちらはトンガ人留学生と。一人オーストラリア人が混じってますけど。最近の学生はドッカ〜ン!!!と大きい人が減ってきたなぁ…。ラグビー留学生じゃないからかな?
翌日木曜日は取り立てて特別なイベントはなく(昼間学校のカフェテリアなどで民芸品の紹介、販売などやってたらしい)、鹿児島からわざわざやってきた元JOCV(海外青年協力隊です)で、トンガでも交流のあった人、APUの卒業生で、そのまま大学事務に残ったトンガ人とその奥さんと4人でディナー。別府でインドネシア、バリ料理店に行ってきました。当然APUの卒業生。
金曜日がオセアニアウィークのハイライト、グランドショー。
歌、踊り、ファッションショーといったステージパフォーマンスを披露してくれました。7年前にオセアニアウィークが行われ、今回は7年ぶり。7年前、丁度ソロモンから一時帰国してた時で、その時も見に行きました。その時はオセアニアの学生だけのパフォーマンスでして、ステージの上で一人もしくは少人数で踊り、歌うという感じだったのですが、今回は日本人をはじめ、オセアニアと関係ない学生たちも巻き込んでの一大イベントとなっており、予想以上に盛り上がり、予想以上にハイレベルなパフォーマンスとなり、かなり驚かされました。ステージ上の学生だけでなく、裏方も含めて協力者を求めたら、初日だけでなんと250人に達し、初日で募集を撃ち切ったとのことです。オセアニアが日本に知られてないので興味がある現れ、そして、オセアニア学生が大学内で存在感ある現れですかね。これらを文章でうまく伝えることは不可能なので、実際に見てもらいましょう!
実はUstreamで生中継されまして、その録画を見ることができます。結構面白いので、是非見てください。オセアニアのいろんな踊りが見られます。
しかし、トンガの学生が多かったせいか、なんとトンガ色の濃いことか!!!(笑)きっとわからないと思いますが。結構トンガトンガしてました。
中々オセアニアのイベント映像を見ることができませんし、特に一つのイベントの中で多くの地区の様々な違いを一度に見ることができないので、こういうイベントは中々意味の濃いものだと思います。でもやっぱり会場での臨場感は超えられません。知り合いがいなくても、是非来年以降開催されるようでしたら、別府までお越しいただけると嬉しいのですが。その価値はあると思います。
というわけで、今週やたらとトンガ語と英語三昧で、寒くても暖かい週でした。やっぱりオセアニアはいいですね。
あ、今週12/9からはスリランカウィーク、12/16からアフリカウィーク、年明け1/6からネパールウィーク、1/14から台湾ウィーク、そして最後は日本ウィークと続くそうです。興味のある方は是非大分別府のAPUまでどうぞ。
7月に入りましたね。もう2012年も下半期に突入です。日本は梅雨真っ最中というところでしょうか?
さて、僕はオセアニア生活が8年目を迎えました。というわけで、僕が勝手に考えている生活スタイルを書いてみようと思いまして。ちなみに僕が滞在したのはパプアニューギニアが1ヶ月半、ソロモンが3年、そしてトンガ王国に来て5年目です。なので、パプアはほんとに短期滞在で、ほとんど旅行者レベル。
さて、僕が海外で長期滞在する際に、心に留めていることがあります。
1)なるべく現地の共同体に入り込む。
2)なるべく日本を持ち込まない。
3)自分が楽しむ。
他にもいくつかありますけど…。
1)に関して。
これは、ソロモン、パプアの生活が基準になってます。ソロモン、パプアにはワントクシステムという社会構造があります。ワントクシステムとは、部族、村ごとに言葉が違うという社会の中にあって、お互いの関係を保つためのものです。ワントクとは、one talkで、母国語が同じであるという人間関係を指します。このワントクという状態は、ほぼ家族、親戚に近い関係にあり、何か助けを必要な状況にあると、徹底的に援助するという社会構造。普通は経済的理由がメインですがね。なので、なにか経済的に問題があったりするとワントクのもとに転がり込めば、なんとかなるし、転がり込まれた側は拒否できない訳です。そんなわけで、ソロモンなどには貧しくても、ホームレスといったものが「基本的には」存在しません。なんと人に優しい社会構造!!!
でも、それだけでなく、怖い面もあります。もしワントクの誰かが危害を加えられた場合、報復も考えられるのです。しかも「加害者」が報復対象になるのでなく、「加害者のワントク全体」が被害者のワントク全体からの報復対象になります。なので、例えば日本人が誰かを傷つけた場合、日本人全体が、「無差別に」狙われることも十分考えられるわけです。
もっと軽い意味で「友達」という意味合いでも使われます。
というわけで、外国人であれ、彼らのワントクとなることができ、一度そうなれば、徹底的に守られるというか…。
トンガには「トンガ人同士」のワントクシステムは存在しませんが、日本人からすると、やっぱりワントクかなぁ。
さて、海外で生活する上で、恐らく最も大切なことは「安全管理」。やっぱり自分で色々と考えなくてはなりません。安全で、楽しい生活を送るためには。家のセキュリティを上げるのも当然ですが、それ以上に地域での人間関係を作り上げること。これが先決だと思います。そういう理由から、僕はなるべくトンガ人の共同体に足を運ぶようにしています。カヴァクラブ、教会、ブラスバンドに聖歌隊、等々…。こういうところに顔を出していると、その地域に顔が割れ、その結果、自分の安全確保に繋がります。実際、この5年、いや、ソロモンも含めて8年、お陰で身の危険を感じたことは一度もありません。ココナツ爆弾の危険や犬に追いかけられて噛まれたことなどは何度かありましたがwww。
僕はJICAや大使館職員といった、いわゆるオフィシャルな立場でないし、任期が決まっているわけではありません。そして、一匹狼。なので、あまり日本人のグループには属さないようにしているというか…。あっ、決して日本人を敬遠しているわけでもないし、仲が悪いわけではありませんので…。
というわけで、なるべく現地の人の集まる場所に顔を出すようにしています。
と、偉そうに書いてますけど、そういう意味合いもありますが、やっぱり自分の趣味?その辺のトンガ人との関わりが一致しているというのが大きいんでしょうね。
というわけで、海外で長期滞在をする場合、現地の人と共有できる趣味を持つというのが有効なのかもしれませんね。楽しく、かつ、安全な海外生活を。
段々と涼しくなってきたトンガからお便り申し上げます。今がちょうどいい感じですね。快晴日だとそりゃ暑いですけど、夜とかホント過ごしやすくなりました。お元気ですか?
ソロモンに三年住んで、それからトンガで四年目を迎えています。日本からすると、まぁ、似たような常夏の島国ですが、当然トンガの方が季節感が若干ありますし、日本人にとってはトンガの方が過ごしやすい国だと思います。
さて、この二つの国で生活して、ソロモンでよく見かけて、トンガでは一度も見たことのないものがあります。それは「カブトムシ」。一年を通して蒸し暑い国のソロモンでは結構日常的に見る機会がありました。というか、カブトムシ多すぎ!ソロモン人たちは、よく蹴っ飛ばして遊んでました(爆)
日本にもカブトムシがいます。ということはその中間くらいの気候のトンガにいてもおかしくないのですが、不思議なことに一度も見かけない。
「何でだろうなぁ???」
という疑問をこの間、学校長とお茶をしているときに聞いてみました。「ソロモンではカブトムシがたくさんいたけど、トンガで見たことないんだけど…いないの?」と。
すると校長は「以前はたくさんいたんだけどね。駆除したんだよ。害虫だからね。カブトムシがヤシの実とかフルーツをダメにしてしまうんだよ。」
あ、そう言えばソロモンでも似たようなこと聞いたことあるなぁ…。そっか、害虫扱いか…日本だとクヌギの木だから、さして問題はないけど、こっちでヤシの実がやられたら、そりゃ害虫になるわなぁ…。
「だから、何年か前に農林水産省(日本で言うところの)がカブトムシ撲滅キャンペーンを展開して、今じゃほとんど見なくなったね。カブトムシ10匹捕まえて持ってきたら、謝礼を少々出して、トンガ人にとっては、ちょっとした小遣い稼ぎだな。俺もやったけど(笑)そうやって少なくなったね。何だ?お前、カブトムシ欲しいの?今度見つけたら持ってきてやるよ」
いや、別にいいんですけどね、持ってこなくても…。ただの疑問だったから。
で、「日本ではカブトムシは子供に人気だから、田舎はいいけど都会では デパートとかで売ってるんだよ」と言うと、ソロモンでも、トンガでも同じリアクションが返ってきました。
「えっ?日本人はカブトムシ食うのか?」
いやいや、食べないって。
疑問が一つ解決しました。カブトムシをカゴに入れて飼う日本人をトンガ人やソロモン人はどういう目で見るんでしょうね。
「うゎ!コイツら、害虫飼ってるよ!」
かな?
先週末より全くインターネットに接続しておりませんでしたので、今更ながら今回の地震、津波の被害の恐ろしさを覚えておりますトンガの鈴木です。こちらでも津波警報および避難勧告が出されまして、一応避難しましたが、幸いトンガは無傷でした。
まずは何よりも、被災された方々へ、心よりお悔やみ申し上げます。トンガでは、日曜日のミサ(キリスト教の礼拝)では特別に日本の地震、津波被災者のための祈りが行われました。日本から離れて生活する人間にとって、今できることは祈ることだけ。極力無関心にならないよう祈りつづけたいと思います。
さて、私は、今年でオセアニア生活7年目に入ります。2004年から2007年までソロモン諸島に、2008年からは今いるトンガ王国。実は両国共に地震大国でして、自分は体験してませんが、滞在中、国内はマグニチュード8越えを2回体験しております。そして、国内津波被害が2回。(ついでに海底火山噴火一度)そして、スマトラ島の大地震と、この間のNZでの大地震。一昨年はサモアとトンガの北部で地震と津波の被害もありました。
実はインドネシア、PNG、ソロモン諸島、フィジー、サモア、トンガ、NZという一連の南太平洋諸国は、オーストラリアプレートと太平洋プレートの境目に、インドネシアはユーラシアプレートとの境に位置しておりまして、単純にその境目付近では地震が多発するそうです。(逆にプレートのど真ん中は地震が通常起きない…)日本などは、ユーラシア、フィリピン海、北アメリカといった三つのプレートの境目になってるみたいです。
ま、そういうことは専門的なページに任せるとして、地震で思い出すことを一つ書いて見たいと思います。
2007年4月、ソロモンのウエスタン州をマグニチュード8強の地震が起きました。僕はガダルカナル州に住んでまして、飛行機で4、50分ほどの距離。ガダルカナルでの体感はほとんどなかったですが、ただ、ものすごくゆっくりとした、船に乗っているような長い揺れでした。というわけで、何も気に留めていなかったのですが、「ギゾ(ソロモンのリゾート地)を津波が襲ってダメージ受けてる」という話をきき、まったく驚いた次第でした。 僕が勤務していた学校は、経営母体(本部イタリア)からの緊急援助を受けまして、被災地に救援物資を運ぶプロジェクトをたて、船をチャーターして被災地に向かいました。
で、そこで目にした風景は、とんでもない津波の傷跡。日本からの津波専門家と会いまして話を聞いて見たところ、最大のウォーターマークは9mとか…。僕が被災地に入ったのは3日目でしたが、崩壊した村々は当たり前として、何より被災した人々の心を襲うダメージでした。そんな中、僕等は救援物資の第一弾として、直接村人の手元へ届けることが出来たのはまずまずの機動力だったと思います。後から話に聞くと、赤十字などのオフィシャルな団体の機動力の悪さ、そして何より救援物資の不均衡な分配方法に対する不満の爆発でした。日本では決してそういうことが起こらないことを望みます。
さて、僕はその後10日ほど一人でその地に残り、カトリックの修道会に当時所属していましたので、カトリック教会関係のところでお世話になりまして、当地を回りました。
で、何をしていたかというと、実はその頃手品に興味持ち始めたころで、一人部屋の中で手品の練習に明け暮れてまして、船の中で、生徒に見せてやろう程度に手品グッズを持参してましたら、これがいきなり被災地で実力を発揮。非常に多くの方に喜んでいただきました。一度など人があふれて、道路封鎖近くなり、警察官たちがビックリして飛び出してきて…。というわけで手品を止めようと思ったら警察官が「交通の方はこっちでやるから手品やってろ!後から警察で手品しろよ!」と(爆)そんなわけで、ちょっとその町で有名になってしまいまして、道路から始まり、マーケット、病院、学校、警察、避難所、教会と人が集まりそうな場所で、勝手に「ガンバレ、ギゾ!ガンバレ被災者!マジックショー」を一人で展開してました。
別にそのことを自慢するわけではありませんが、ふと思ったことは、こういうボランティアもあっていいのではないか?。行政面から、医療から、教育からと様々なサポート(主に物的に)が入りますが、こういったエンタメ的なものも必要なのではないか?物理的に被害を受けているのは確かだし、その必要も確かです。でも、同時に彼らの心にも深いダメージを受けています。ギゾの村の避難民たちは「命からがら逃げてきた。自分の村は海岸沿いで津波に持っていかれた。とても海が怖くて戻れない!」とトラウマを抱える人々がいました。なので、内面、「不謹慎では???」と自問もしましたが、実際にその時だけでも、辛いことを忘れてくれることが出きるんなら、それもあり!とやってましたし、結果、いろんな人の顔に笑顔が見れたのはよかったです。
現在僕はトンガにいまして、歯痒いくらいどうすることも出来ませんが、これから日本の皆さんは全力で復興への道を歩み始めるのでしょう。遠く南の島から全力で応援します。毎日応援します。
ガンバレ、日本!
ガンバレ、東北!
気持ち涼しくなってきたかなぁと思う今日この頃ですが、いかがお過ごしですか?トンガの鈴木です。
日本は気持ち暖かくなってきたかなぁという感じでしょうが、こちらは南半球なので日本と正反対です。
僕は今トンガ王国に住んでいますが、2007年までソロモン諸島で活動してました。ちなみにソロモン諸島はパプアニューギニアの東、オーストラリアの北東に位置する島国です。以前「ソロモン諸島に行くことになった」と友達に話した所、「えぇ!?ソロモン行くんだ!知ってるよ!カリブ海だよね!」とか、「アフリカだよね?」とかかなり頓珍漢な答えが返ってきて爆笑しましたが、南太平洋にあります。オーストラリアのちょい北、赤道のちょっと南あたりを探してください。
今回はそのソロモン諸島の話を少し思い出しながら書いてみようかと思います。
ソロモン諸島の首都はホニアラと言いまして、ホニアラはソロモン諸島最大の島ガダルカナル島という島にあります。日本史を勉強された方は「ガダルカナル」といえば第二次世界大戦で、日本が初めて負けを決した場所。ガダルカナル海戦とか言ってますが、そのガダルカナル島です。ガダルカナルの戦いは日本がひそかに上陸し、ひそかに空港を作った所、アメリカに発見され、奪われ、それを再び日本軍が取り返すべくゲリラ戦を展開し惨敗した戦いです。歴史に疎いもので詳しいことを書けずに申し訳ありません。日本軍はこの戦いを機に敗戦へと転じていくわけで、第二次世界大戦のピークというか分岐点となるわけです。その空港はガダルカナル島北部にあるヘンダーソンという場所であり、現在、同じ位置に「ホニアラ国際空港」があります。ちなみに私の住んでた場所、仕事場の学校は同じヘンダーソンにあり、空港から徒歩5分という場所にありました。もちろん今は全く平和でのどかな場所ですが、60数年前はこの場所の争奪戦が繰り広げられていました。戦争の舞台のど真ん中です。
ガダルカナルのことを「ガ島」と略して言って、さらに「餓島」と漢字を当てていたそうです。話によると戦いそのものよりも餓死するケースがたくさんあったそうです。実際にその場所に住んだものとして「ソロモンで餓死?ありえないでしょ?何で?」と思ってしまいます。ココナツ、バナナ、パパイヤといったトロピカルフルーツは年中絶えることがありませんからね。それでも餓死していく。その原因は「マラリア」にありました。ゲリラ戦でジャングルにもぐりこみ、マラリアになり高熱にうなされ、体力をどんどん落として行き、食べる体力さえ無くしてしまい、結果餓死…。恐らくそういうことなんでしょう。マラリアになると40度の熱が数日から1週間位続きます。現在でもマラリアで亡くなる方がたくさんいます。そういうひどい状態に日本軍は置かれていたのでしょう。
さて、戦争は60数年前に終了致しました。僕は35年前に日本で生まれました。当然戦争というものは歴史の教科書でしか知りません。正直「大変だっただろうなぁ…」と無責任に思う程度でした。空から爆弾が降ってくるという実感など当然ないわけで、爆弾にどれだけの威力があるかなど想像すら出来ませんでした。まぁ、僕に限らず、戦争を知らない世代のほとんどがそうなのではないかなと思いますけど。そんな僕がソロモン諸島で体験したことは、その爆弾の威力でした。
日本軍がガダルカナルを撤退した後、米軍は武器その他をガダルカナルの土に埋めて破棄したそうです。それが今わんさか発掘され(うちの学校の建設の際にも不発弾やら、銃の薬莢やら、当時のコーラビン、ネームプレートなど出てきたらしい)、RAMSI (Regional Assistant Mission of Solomon Islands)とソロモン警察の共同で発掘された爆弾の処理が行われております。(多分今もやってると思いますが、少なくとも1年半前まではやってました。)不発弾処理は日本のように、発見場所から半径数キロ以内の住民を避難させ、特殊部隊が信管を抜き取り、起爆しないようにする…というようなものではなく、人里離れた海岸で爆発させてしまうというものです。首都ホニアラから10数キロ離れた海岸でその爆破処理が行われていたのですが、うちはホニアラから10kmほど離れている。つまり爆破処理現場から数キロという場所。まぁ、安全ですよ。実害はありません。(あったら困るけど…)警察、RAMSI軍人の管理下で行われてますので。ですが、音は防げませんので当然よく聞こえてきました。ただ、そのよく聞こえるというレベルが違う。ものすごい爆音です。雷が1m隣に落ちたような(ってそういう体験もしたことありませんが)音、そして、爆発から生じる衝撃波。数キロ離れた家、学校の窓がビリビリと震えるくらい。最初は何のことか分からずホントにびっくりしました。びっくりするなんていうレベルをはるかに超えてまして、到底文章などでは表現できません。とにかくすごい衝撃でした。
今は管理の下でこういった作業が行われてます。しかし、60数年前、こういうものが無差別に空から何百、何千も降ってきたとは…。そして、同じことを日本もしてきた…。戦争って心底恐ろしいものだと思いました。当然実際に体験された方にとっては僕の体験など体験に含まれないのでしょうが…。そして、今世界中で起こってる戦争、内紛…はこれが現実なのでしょう。
と、いかにも分かったように書いていますが、僕が体験したのは数キロ先の爆発音とその衝撃波だけで、正直何にも分かってないんでしょうね。体験された方がこれを読んで「ふざけるな!そんなことで判ったふりするな!」と怒鳴られそうですが、戦争を知らない僕がほんのちょっとだけ体験した「戦争のかけら」。でも、体験してよかったと思いますね。戦争体験の話や本に、ほんの少しでもリアルに想像することが出来るようになったし、表面的に「戦争はよくない!」と偽善ぶることもなくなったと思います。もちろん、全面的に戦争反対ですよ、理由がどうであれ。戦争になったらこういうものが空から降って来ると思うと、何がどうあっても戦争に対してYESとは言えない。映画の戦闘シーンでも、あの音と衝撃波がリアルに感じてしまいます…。
全世界が武力を放棄したら、恐らく平和になるはずなのに、平和のための武力ってなんなのでしょう?RAMSIたちもライフルとか常時もってました。特にオーストラリアとニュージーランド。先進国です。逆にトンガやフィジーの警官、軍人は丸腰でした。理由は「銃の必要ないでしょ?」だからか、ソロモン人たちはRAMSI、特に白人に警戒してましたが、丸腰のフィジー人トンガ人とは結構友達感覚で仲良くやってたように見えました。武器は警戒を生みます。そこがそもそもの始まりなのではないかな?と思いますがどうでしょう?お互いを信じてもいいのでは?お互いのためには、まず自分が相手を信じる姿勢が大切なのかな?信頼は信頼を生みます。信頼から戦争は生まれないと思うし…。
う~ん、やっぱり平和ボケしてるのかな?それでも相手を信じる自分になりたいと思う今日この頃です。
さ、まずは僕のかわいく、時に憎たらしい生徒から(爆)
こんにちは、トンガの鈴木です。
今週で今年一年の授業が終了しました。後は授業がなく、細々とした行事およびその練習のために学校にいくだけです。なんとか、今年一年無事に教員生活送れそうです。
さて、前回はソロモンでの出会いを中心に書いてきましたが、今回は、いきなりですがソロモンを出国する話です。
2004年9月にソロモン諸島に渡り、2007年9月末にソロモン諸島を去りました。修道院に属しておりましたが、常々思うことがありまして、修道院を去るつもりでソロモン諸島を後にしました。ソロモンを去って日本に帰国するわけですが、帰国する前にちょっとだけ寄り道。
その名も「ソロモン諸島で出会ったRAMSIの警察官、軍人に会っていこう計画」
行き先は、フィジーとトンガ。いろいろな国の人達と出会いましたが、このふたつの国の警察官、軍人と非常に仲が良かったので、是非とももう一度会っておきたかった。でないと、彼らと会うことはもう一生ないだろうと思ったし、日本に一度戻ってしまうと、もう2度とオセアニアに戻って来れることはないだろうと思いましたので。
前述の元相撲取りの警察官と何度かメールのやりとりがありましたので、彼を拠点に旅程を決定。彼の奥さんがフィジーで大学院生をしていたのでフィジーの滞在は彼女の家、トンガの滞在は警察官のお宅でそれぞれホームステイをすることになりました。
フィジーに到着してまず向かった先は、やはりトランペットを持って警察本部にある音楽隊の練習場。ソロモン諸島で出会った警察官と再会したのはおよそ2年ぶり位ですかね。残念ながら、練習のない日で、翌日は重要な式典で…と行事続きの忙しい日だったため、一緒に演奏することはできませんでしたけれど…。
翌日は、仲のよかったもう一人の警察官のお宅を突撃訪問!するつもりでしたが、名前しか知りませんでしたので、とりあえず町にある警察署で彼の所在を聞き出しました。どうやらPolice Mobile Unitにいるらしい…。
「あのイカツイ顔して、通信班か…。見掛けによらないなぁ…。もっと前線にいそうな気がしたんだけど」
Mobile→ケータイ→通信という脳内イメージ。
早速バスを乗り継いでPolice Mobile Unitに向かい、無事到着しましたが、なんかここ、広い演習場みたいなんですけど…。
はい、ここにきてようやく分かりました。Police Mobile Unit=「機動隊」だったんです。やっぱり僕の予想は的中!警察最前線です!
夕方おじゃまして、そのまま夜中まで彼のお宅でカヴァというポリネシアの飲物を飲みながらまったりとゆっくりとした一時を過ごせました。
お互い全然関係ない国の人間が「ソロモン諸島」を通して結び付く不思議さを改めて体感してました。
さて、驚くのはこれから。トンガに渡ります。
巨人の国トンガ。ガリバー旅行記のモデルになったと言う説もあるトンガ。
トンガにきて、最初に向かった場所は、やっぱり警察。当然ですね、トンガ人の知り合いは警察官しかいませんから…。ソロモンもゆるゆるな警察でしたが、トンガも負けてません。警察本部のくせに無警戒すぎませんか?
僕:「警察音楽隊にいきたいんだけど〜」
セキュリティー:「いいよ〜、場所知ってる?このまままっすぐ行って、右に曲がって…」
あの、名前とか所属とか聞かなくていいの?まぁ、いいか、トンガだし…。
音楽隊に到着したとき、彼らは練習中でして、知り合いが僕を見つけると、挨拶する前に楽器が手渡され、そのまま合奏に…。いいですねぇ、この気楽さ。合奏後ようやくみんなに紹介してもらい、それから結局連日警察で過ごすことになります。
ソロモン、フィジー、トンガとやってきまして、やっぱりオセアニアが好きだなぁと言うことを実感してましたので、なんとかこっちで就職先が見つからないかなぁ、今でなくても可能性位は…と若干思っておりましたら、音楽隊の警察官の一人が「俺の従兄弟が学校のブラスバンドの顧問やってるから連れていってやるよ」とトンガの私立中学高校に連れて行かれ、そのまま学校のバンドに放りこまれてしまった!そして、その日はトンガで大きな行事がある日で、その練習の後、そのまま本番を迎えることになり、なぜかいきなりやってきた僕も生徒と一緒に演奏する羽目に…。生まれて初めて聞く曲ばかりの本番初見大会の始まり始まり〜。
結局これがよかったのか、その学校の校長先生とコンタクトをとることができまして、可能性を探ろうと思い話を振ってみました。
ボク:「ボクは音楽大学出てるんですが、この学校で音楽の先生になる可能性とかないですか?」
校長:「いいよ〜。来年1月から始まるから〜、日本に帰ったら、履歴書FAXして。」
って、オイ!これで決まるのか!?校長にあって5分も経たないうちに内定もらっちゃいました。
ソロモンを経って一週間、「オセアニアには、もう戻って来れないのかぁ〜。僕の精神的バカンスも終わりだなぁ〜。もう戻るチャンスはなかなかないだろうなぁ…」という淋しい思いは、あっという間に解消されました。
そして、僕はトンガを後にし、日本に帰国しまして、東京でマンスリーマンションを借り、一ヶ月ほど生活しておりましたが、まさかのオセアニアのつながりはここ東京でも広がって行きます。
それは、帰国の飛行機で始まります。たまたま隣に座ったフィジー人で機内でビールを飲みまくった陽気なおじさんのつながりから、フィジー大使館経由で呼び出されました。そこに行ってみると、なんとソロモン、ヴァヌアツ、PNG(パプアニューギニア)と言ったメラネシア人(ピジン英語が通じる)、フィジー人、トンガ人が…!なんなんでしょう?この異常なまでのオセアニアつながりは!日本ですよ?ここは!と驚きながらも東京でオセアニアを体験できる喜びを感じておりました。
「来年からトンガの学校で教えることになった」と知り合ったトンガ人に伝えた所、「そこの学校、俺の息子が通ってるぞ!」と。なんと言う世界の狭さ!ちなみに、その彼の家と今僕が住んでいる家は、徒歩3分というご近所さんになるんですよねぇ。トンガつながりがいくら狭い世界とはいえ、この偶然は恐ろしい!そして、彼のほかに、僕が就職する学校にはソロモンで知り合ったトンガ警察官の娘も通っていることが後に発覚。しかも僕が副顧問をすることになるブラスバンドに!!
と、偶然が偶然を呼びまくった1ヶ月でした。こういうこともあるんですね。
そして、僕は今、トンガで楽しく生活しています。
あぁ、やっぱりオセアニアはいいなぁ!
やっぱり、長くなってしまいました、では、このへんで。
みなさんこんにちは、トンガの鈴木です。暑いです。陽射しが痛い!サンダル焼けが日に日に濃くなってきてます
前回はソロモン諸島での音楽活動を綴ってみました。その続きです。今回は主にソロモンで出会った警察官たちの話です。
と、その前に簡単にソロモン諸島の治安状況を書かないと話がつながりませんので、その辺を少しお話します。
基本的にのんびりとしていまして、少なくとも僕がいた3年間は「自分」が危険な目にあうことはありませんでした。なんですが、実は1998年〜2000年の3年間は、ソロモン諸島内の民族紛争が勃発しておりました。そのため、私が属していたボランティア活動DBVG(ドンボスコ海外青年ボランティアグループ Don Bosco Volunteer Group)はソロモン諸島の派遣を見合わせておりました。
ソロモン諸島は小さな部族がたくさんあります。そして、その部族ごとに自分の言語を持っているという国です。正式ではないですけど、ソロモン諸島内の言語は130位あるのではないか?という話を聞いたことがあります。ちなみに隣のPNG(パプアニューギニア)には850位の言語が存在するそうです。そのため、「自分と同じ言葉を話す」=「同部族」=「家族」という図式が成立ち、この関係にある人達は自分の家族として、実際に知らない人でも受け入れてしまうという「ワントクシステム」が存在します。
「ワントクwantok」つまり「one talk」一つの言葉を話すということ。このワントクシステムがソロモンの根本的なルールとなっております。なので、いくら食べるものがなくなって、家がない状況でも、ワントクの所に行けば受け入れてもらえるわけです。そういう相互扶助関係が確立していますので、国、生活は貧しくても、ホームレスは、ほぼ存在しない。素晴らしい!このワントクシステムに則れば、僕は日本人ですので、全ての日本人がワントクです!あと、「友達」という意味合いで使う場合もありますね。一度知り合えば旧知の親友みたいに仲良くしてくれるので、その友達を通じて、自分もそのワントクの仲間入りすることも十分あります。
しかし、恐い面もあります。もし、相手を傷つけてしまったら?報復があります。例えば僕、日本人がソロモン人の誰かを傷つけてしまったとします。そうすると、個人vs個人でなく、ワントクvsワントクという報復となり、関係のない相手のワントクが、全然関係ない日本人をボコボコにしてしまう可能性もあるわけです。つまり、部族間の報復です。幸いソロモンは超親日ですので、僕はかわいがってもらい、そういう目にあうことはありませんでしたが。
そしてもう少し広く見て、「島」もワントクと見る場合もあります。ソロモン諸島は無人島も含めて1000近い島が存在します。なので、「俺はこの島出身だ」「おぉぉ、俺も一緒だ!兄弟!!」と意気投合する場合も多々。そして、もっと大きくみれば「国」もその対象。例えば日本でソロモン人に会ったとします。そこで、僕が「僕もソロモン諸島にいましたよ〜」と言うと「おぉぉぉ!ワントク!!!」と抱きあって喜ぶわけです。喧嘩している島どうしでも、海外に出ればワントクに…。
このワントクシステムは、ソロモン諸島の他、お隣のPNGにも存在します。ヴァヌアツもそうなのかなぁ?ちょっとヴァヌアツは分かりません。そして、PNG、ソロモン、ヴァヌアツの3ヶ国はピジン英語という言葉がほぼ共通しているので、メラネシア全体がワントクになってしまったり…。
さて、冒頭に述べた民族紛争は、この島vs島の対立でした。首都ホニアラのあるガダルカナル島と、第二の町アウキのあるマライタ島の対立。実はその首都ホニアラの住民の80%はマライタ島民が占めており、ガダルカナル島民は島内に離散している。このふたつの島が民族も気質も全然違い、仲が悪いらしい。それが最終的に民族紛争に発展していったわけです。
この民族紛争で警察、行政がすっかり麻痺してしまい、自力復興が不可能とみたソロモン政府は国連に救援を頼み、2003年にオーストラリア、ニュージーランドを中心とした警察、軍人、文人たちがやってくるようになりました。Regional Assistant Mission of Solomon Islands の略でRAMSIと言います。ちなみに、2003年のRAMSIの第一陣の到着日の翌日、われらDBVGはソロモン入りしました。空港の中には軍の迷彩テントが広がり、町の至るところにライフルを持った軍人が歩きまわり、なかなかものものしかったです。現在もRAMSIは活動を継続中です。日本からも文人(行政部門かだったかな?)がRAMSIに加わることが決定したと言う話を聞きましたが…。
さて、僕はいつも通り、ソロモン警察音楽隊に行って、練習していたところ、音楽隊の隊長から「さっき、お前が来る前にトンガの警察官が探してたぞ!あとでオフィスに行ってみな」と言われた。ちなみにトンガ人の知り合いなど誰一人いない。知り合いどころか、いままで「トンガ人」に会ったこともない。誰だろう?と思いながらもオフィスに顔を出してみると、デカい警察官がのそっと出てきた。
「うぉっ、でけぇ!なんなんだ?その腕の太さと胸板の厚さは!?」
とちょっとビビリながら挨拶。手が大き過ぎて握手できない…。
「あっ、こんにちは。アラニと申します。よろしく。」と完璧な日本語で挨拶されて更にびっくり。
僕:「こんにちは。鈴木です。日本語めちゃくちゃうまいですね。日本に行ったことあるんですか?」
トンガ人:「30年位前、日本で仕事してました。」
僕:「そうですか。何してたんですか?」
トンガ人:「相撲とってました。」
僕:「Σ (゚Д゚;)相撲…ですか?」
トンガ人:「はい、相撲ですよ。一度幕下優勝したこともありますよ!」
生まれて初めて相撲取りと話しました。それもソロモンで!まさかこんな出会いがあるとは思ってもみませんでした。どおりでデカいわけだ!日本つながり、それからお互いの住所も同じ通りということで、すっかり仲良くなってしまいました。僕の最強のボディーガード(笑)。彼の働くオフィスは音楽隊と同じ敷地内にありましたので、練習の後は、彼のオフィスに顔を出してしばし歓談。いいのかなぁ?勤務中の警察署の中でこんなにまったりして…。当然彼一人ではなく、同じ席にいるソロモン人警察官も別に問題なく「スズキ!よく来た!なんか飲むか?」とこんな感じ。実はその警察官が、ソロモン警察のNO3だったりするから、驚きもの。これで、何か警察沙汰になっても絶対大丈夫だ!幸いそういうことはなかったですが。
また、彼と一緒にソロモンに派遣された警察官の一人がトンガ警察音楽隊で、時々ソロモン警察でも演奏するようになり、トンガ警察とも親交を深めることが出来ました。トンガの他、フィジー警察音楽隊の警察官も派遣されていたこともありましたので、ソロモン、フィジー、トンガの警察に行けば、そこの音楽隊に乱入できることは確実!
音楽の他、僕はちょっと地元のクラブチームでラグビーをしておりましたが、そこではRAMSIのフィジー人警察官たちが一緒に汗を流しておりましたので、そこではフィジー警察と仲良しに。こういうわけで民間日本人の僕は、警察音楽隊にいたおかげでフィジー警察、トンガ警察と仲良しになって行くわけです。世の中いろんな出会いがあるものですね。この出会いの連続は自分でも呆れるほど。でも、このおかげで、今僕は、トンガにいます。こういうことを思い出しながら書いてましたら、無性にソロモンで出会った人々に会いたくなってきました…。僕にとってソロモンは楽園です。
話が長くなってしまいますので、続きはまた来週。
では、また。
みなさんこんにちは。トンガの鈴木です。段々日が長くなり、陽射しも強くなってきました。トンガの夏はすぐそこまできてます。
さて、前回に引続きソロモンのお話で、僕がしてきた活動について綴ってみたいと思います。
僕は、ソロモンにあるキリスト教系の工業学校で音楽を教えることになりました。ソロモン諸島の学校教育の中に、実は「音楽」という科目は存在せず、赴任した学校は、「僕が音楽を勉強して、音楽の教員資格を持っている」ということで特別に設けて頂きました。つまり、ソロモン諸島の学校の中で「音楽」を教えているのは、僕、ただ一人。当然カリキュラムはないし、教材もない。全くのゼロからのスタートでした。幸い、日本を出国する前に、修道院の知人を通して、リコーダー、ピアニカといった楽器の寄付があり、それを用いることができました。
音楽の授業がない。当然、音楽室もない。しかも、歌、楽器の練習など、当然騒音問題がでますので、音楽の授業は体育館で行うようになりました。黒板もなく、教材もないので、A4のコピー用紙に太字の油性マジックで楽譜を書き、紙芝居の要領で授業を展開。なんですが、最初のうちは、興味持ってくれたんですが、見慣れないというか、初めて見る音楽の五線譜に戸惑いを見せ、次第に倦怠期に突入…。
なかなか難しいものですね。僕自身、日本で音楽を勉強したわけで、例えば四分音符を英語でどういうのかすら知らなかったし、調べてみると、アメリカ英語とイギリス英語では音符の呼び方がちがうし、どっちで導入した方がいいのか迷ってしまう。両方同時に教えると、間違いなく混乱させるし…。ん〜、困った。あと、音名で教えるのか、階名で教えるのか、つまりギターのコードに代表されるようなABCDEFGで教えるのか、ドレミファソラシドで教えるのか。僕は音楽が好きだったので、楽譜を読むと言うことに関して、ほとんど苦労したことがなかったので、正直、ゼロの状態の記憶がほとんどありません。なので、どこが分からないのか、どこが引っかかっているのかと言うことを理解するまでが一苦労でした。
でも、ソロモン人は日頃教会の中で聖歌をよく歌っておりまして、そのため合唱は非常にうまい。楽譜は一切読めないのに、耳で聞いた音楽を覚えて、2、3回歌うと集まっているメンバーで、自然と4部合唱(?)にハモッていく。このハモリがまた絶妙で、思わず聴き入ってしまうことがしょっちゅうありました。そうなると、もう僕には自己嫌悪しかない。一生懸命音楽を教えても、そういうことを抜きに、自然と音楽を愛している。僕は音楽を「勉強」してきたけれど、彼らは音楽を「音楽」している。日本語としておかしいですけど、彼らの音楽には、何か純粋に、惹かれるものがありました。それを西洋音楽に当てはめて、和音を取り出したり、リズムを書きとったりしても、単純素朴。飾りっけは全くない。それでも、人を引き付けるには十分なものを持ってました。
そういえば、クラス対抗で「合唱コンクール」もしましたね。課題曲は僕が指定しまして、音楽の授業の中で練習してきました。自由曲は基本的になんでもいいよ、と入ったところ、8割のクラスが自ら作詞作曲をし、自作自演でコンクールに臨んできた。びっくりしました。音楽を勉強してきた人間と、音楽のタレントのある人間の差を見せつけられた気分でした。
あと、僕はトランペットを演奏します。ブラスバンドが好きなのですが、ソロモン諸島にはブラスバンドと呼べるものがソロモン警察音楽隊しかありませんでした。日頃、学校の放課後などを利用して、一人でトランペットを吹いてましたが、一人で吹くのはつまらない。やっぱり誰かと一緒に演奏したいと思いまして、なんのコネもない状態で、トランペットを持ち、ソロモン警察本部に単身で乗り込み、音楽隊の隊長に自己アピールをし、音楽隊に混ぜてもらうことに成功しました。非常に簡単に入れました!!演奏レベルは決して高くはありませんけど、やっぱり人と一緒の演奏するのは楽しい!!う〜ん、自己満足に浸ってるなぁ…。練習だけでも十分だったのですが、ことある毎に呼んでもらい、国の式典(独立記念日やエリザベス女王の誕生日など)で一緒に演奏したり、僕の学校の行事に招待したり、演奏旅行で隣の島まで行ったり、そして大抵最後は一緒に酔っ払う(笑)
学校の音楽の授業はこちらが一方的に教えるものでしたが、警察音楽隊は一緒に音楽を作り上げていくもの。この両方を同時に体験することが僕にとっての一番の収穫だったかも知れない。そして、この警察バンドにいたことが、現在のトンガ生活を始めるきっかけとなるわけです。
写真はエリザベス女王の誕生日の記念式典での演奏風景です。さて、私はどこで吹いているでしょうか?
長くなりますので、ソロモン諸島からトンガ王国に移る経緯は次に回すことにします。
では、また来週。