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2008/01/26

ドイツ留学より帰国して数年経ち、私はある事から東京シティフィルハーモニック管弦楽団に呼んで頂くようになりました。

日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会に当時シティフィルの首席だった方が客演されており、私は同じプルトで一緒に演奏する機会に恵まれ「ウチでも弾いてみないか」とお誘いを受けたのです。早くもその翌週にはお仕事の依頼を頂き、その後私はしばしば客演する事になりました。

初めてのお仕事は音楽鑑賞教室で、曲目も少なく簡単なものばかりだったので「何とかなるだろう」と気楽な気持ちでホールに向かいましたが、その日トップサイドで演奏するはずだった奏者が手違いにより未到着とのこと。

この日コントラバスは2本だけで演奏する曲があり、ステージ係のアドバイスで、席順やセッティングの都合上プルトの表に座る団員さんが前にズレるよりも、裏に座るエキストラがそのまま前にスライドしたほうが良いだろうという話になりました。

首席の方はエキストラに来ていた3人の顔を見てから

「じゃあ一緒に弾いた事あるし、鷲見君よろしく」

とおっしゃったのです。

私は

「ちょっと待って!今日初めて来たオーケストラで、いきなり首席と2人きりですか?しかも弾かないと聞いてたから練習してませんけど!」

という心の叫びを押し隠し「これは自分をアピールするチャンスだ、大丈夫簡単な曲だ俺はやれる」と自分に言い聞かせながらかすれるような声で「よろしくお願いします」と返事をしたのでした。結局本番は何とか乗り切り、これを機にたびたびお声をかけていただくようになったのです。

それから半年後のある冬の日。

その月、シティフィルのほとんどのお仕事に出演させていただいていた私は、いつものように朝食を取り、当時大井町にあった練習場に向かいました。

その日のシティフィルは朝から昼過ぎまでが音楽鑑賞教室のリハーサル、夜は翌日本番予定のモーツァルト「レクイエム」(以下モツレク)合唱合わせというスケジュール。音楽鑑賞教室のリハーサルは順調に進み、予定より遥かに早く終了。私は他のエキストラ奏者たちとランチに行き、余った時間はカフェでコーヒーを飲みながら本を読んだりして過ごしました。

さて、15時からはモツレクのリハーサル。少し早めに練習場に戻り楽器を弾いていた私は、微妙な体調の異変に気づきました。

身体が妙に寒く、胸が締め付けられるような苦しさ。「風邪でもひいたかなあ」と思いながらその時は特に気にもせず、そのままリハーサルに突入。合唱が来るのは18時半、それまではオーケストラだけの箇所をみっちりとやります。しかし、体調は悪化するばかり。耳は遠くなり徐々に腕に痺れも感じるようになってきます。

それでも演奏を止める訳にはいかない、と根性だけで合唱団の合流まで弾き続けた私。ところが、いざ合唱団と合わせる段階になり、酷い吐き気に襲われ始めたのです。そして、合唱が歌ったその瞬間、私は胃から喉を通り何かが逆流してくるのを感じました。

私は隣りの奏者に

「吐いてきます!」

と呟き、楽器を置いてひたすら走りました。

トイレの個室に入り、身体の感覚に任せて嘔吐します。ひとしきり排出して戻ろうとすると、全身を脱力感と痺れが襲い、なかなか立ち上がれません。結局30分以上私は嘔吐し続け、トイレの個室から出られませんでした。やがてリハーサルが休憩に入り、心配したコントラバスの団員さんが駆けつけてくれ、首席の「顔色も悪いし帰ったほうが良い」とのお言葉に甘えさせていただく事にしました。

「救急車呼ぼうか?」とのステージスタッフからの申し出を断り、私はヨロヨロ歩きながら大井町駅へ向かいました。ところが、数分おきに訪れていた痺れと吐き気の間隔はどんどん短くなり、自覚出来るほど高熱を発し始めた身体が危険信号を知らせ、このままではヤバいと判断した私は、どこか大きな病院に行こうと品川で途中下車しました。

タクシー乗り場へ向かおうと歩き始めたものの身体はここでついに限界に達し、高熱から逃れたい一心でアスファルトに身を横たえた私は、そのまま意識を失ったのです。

意識が回復すると私はどこかの建物のソファーに寝かされており、見知らぬ男性が心配そうに覗き込んでいました。話してみると彼はタクシーの運転手さんで、いきなり路上に倒れた私を抱え車で病院まで運んでくれたのだそうです。場所を聞くと、そこは都内某有名病院でした。

数分待ってから診察室に通された私は医師からいくつかの質問と診察を受け、

「食中毒だね」

と診断を下されました。

よくよく記憶を辿れば、今朝私が仕事に向かう前に食べたのは牛丼。そこに生卵をかけながら「微妙な臭いだなあ」と思っていたのですから、体調管理の甘さにもほどがあるというか・・・・医師にそれを話すと「危ないなあ、サルモネラ菌は危険なんだから!」と多少厳しい口調。そして「じゃあ注射打って薬出しますからね、帰って薬飲んで大人しくしててね」とのこと。

「あの、入院は…?」と訊ねると「食中毒くらいで入院もないでしょう、大丈夫!」と冷たく突き放されます。身体中が痺れ動けず、とても自宅まで耐えられそうにないと伝えましたが「大丈夫、帰宅中に良くなります」と突っぱねられました。

診察室を出た私でしたが、何しろ全身に力が入らず鞄すらまともに持てない状態。これで1時間以上かかる自宅にどうやって帰れと言うんだ…と受付前のソファーに倒れこみ途方に暮れていると、何と先ほどのタクシーの運転手さんが再び病院に入ってきて「大丈夫?ご自宅までお送りしますよ!」と荷物を持ち私に肩を貸してくれました。

聞けばこの病院は、運転手さんが私を運び入れた際にも、意識を失った私を放置し救急車優先で対応していたので、ちょっと先行き不安で様子を見ていたのだと。運転手さんの対応に大変感謝し、自宅住所を告げた私は、そのまま深い眠りについたのでした。

自宅に到着し運転手さんに再三お礼を述べた私は、携帯に残るシティフィルの方々からの数多い着信履歴に気づきました。慌ててかけ直すと「明日の本番は出られそうか?」と心配そうに聞かれ、鞄すら持てない状況を伝えると「分かった、無理をするなよ、今から代わりを手配するから」と仰っていただきました。

深い感謝の気持ちを抱きながら布団に入った私でしたが、それから朝までは地獄絵図。上から下から水分を排出し、最後には嘔吐する物も無くなり胃液を流し、吐き過ぎたのか胃から出血するありさま。よやく深い眠りについたのは朝方のことでした。

お昼過ぎに目を覚まし、一日ゆっくり身体を休めたところでその翌日からは再びシティフィルのお仕事。もう休むわけにはいかないと疲弊しきった身体に鞭打って到着した練習場、最初に会ったトランペット奏者からは「大丈夫か?」というような心配の言葉ではなく

「あ  当たり屋だ」

という、何とも切ない一言をいただいたのでした・・・
 
 

2008/01/06

演奏家に「演奏旅行」は付き物です。オーケストラの演奏旅行、バレエ団やアーティストのツアーなどその機会は非常に多く、旅先は日本全国から海外にまで広がります。今回は、私が音楽大学時代に体験したアメリカ演奏旅行の思い出を。

あれは私が大学2年生のときでした。

私が通っていた音楽大学の学生オーケストラによるアメリカ(シカゴ、ニューヨーク、ワシントン)三都市へのツアーが企画され、その為のオーディションが開催されました。私は必死に練習を重ね、何とか選抜メンバーに入る事が出来たのです。

さて、いざアメリカに向かうにあたり、セキュリティの関係という名目でメンバーはグループ分けされ、私は1・2年生のヴィオラ・チェロ・コントラバスの学生から編成される8人のリーダーに指名されました。

この8人、現在では読売日本交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団、群馬交響楽団に在籍する演奏家であったり、イタリアやエクアドルに渡り活動を続けていたりするのですが、とにかく大変個性的なメンバーでした。もちろんまとめるのも一苦労。

アメリカ到着直後の夕食では私を含めたこのグループがホテル到着と同時に昼寝してしまい、まんまと寝坊で全員遅刻。食堂に入ったときの先輩方の冷たい視線は忘れられません。

とにかく夜は治安が良くないという事でホテルからは外出禁止、22時には部屋に先生から在室確認の連絡が入るという徹底ぶりでしたが、わがグループは目当ての女の子の部屋に行ってしまい一人も部屋にいません。それも予測していた私は予め事前に彼らが狙っていた相手の女性たちの部屋番号を調べてそこに連絡を入れて在室を確認し、先生には「全員居ます」と知らせていました。さらに気づくと同室のコントラバスの同級生は一人で居なくなってしまい、後で尋ねると「ちょっと外のバーへ行っていた」と。

まあこんな愉快なメンバーではありましたが、上級生を抑えオーディションを通り、今も現役で演奏を続けているだけあって当時から実力は認められており、音楽に対しては真摯な姿勢で向かっていました。リハーサルでは積極的に話し合いを行い、毎晩のように仲の良かった指揮者広上淳一さんの部屋に顔を出し酒を煽りながら音楽談義をしたものです。ただ、BGMは常に有料チャンネルの喘ぎ声でしたが…。

さて、演奏旅行はシカゴ→ニューヨーク→ワシントンの順番に周り、シカゴではシカゴ交響楽団の本拠地シンフォニーホールで実際に楽屋を使って興奮し、ニューヨークのカーネギーホールでは音楽の殿堂の雰囲気に酔いしれ、ワシントンでは演奏旅行の最後を惜しむような熱演。
演奏曲は今やドラマ「のだめカンタービレ」で大ヒット曲となったベートーヴェンの交響曲第7番をメインに、前半は巨匠チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケル氏によるドヴォルザーク作曲「チェロ協奏曲」や海外向けに「三味線協奏曲」を準備していきました。

我々がこの旅行で何を得たかと言えば、何より指揮者・広上淳一さんやチェロ奏者シュタルケル氏と触れた経験ではないでしょうか。
当時70歳になっていたにも関わらず美しい姿勢で完璧な演奏をするシュタルケルの姿はある種の感動すらありました。

一方広上さんの凄さは、音楽を言葉に変えるその引き出しの豊さにあります。「そこはもっと重たく、汚い感じで」などという安易な表現は使わず

「酒を飲み過ぎた翌朝、吐くのをギリギリでこらえていたが、ついに出てしまったその瞬間のような感覚で、『ぐしゃっ』と潰れた音をお願いします!」

などプレイヤーを笑わせ場を和ませると同時に、その音楽を見事に言葉にしてしまう。直後、オーケストラの音が見事に変化する辺りは感心するばかり。

大学を卒業しフリーとなってから、いくつかのオーケストラで広上さんの指揮のもと再び演奏する機会に恵まれましたが、近年ますますその表現力は増し、オーケストラからの信頼は絶大なものになっています。

酒を飲みふざけながら交わした会話の中にも、大学の先輩でもあり、既に世界で活躍していた広上さんの言葉は実に重く、そして分かり易く胸に突き刺さっています。

こうした素晴らしい指揮者、素晴らしい仲間と共に過ごした二週間のアメリカ演奏旅行は、実に濃密なひとときでした。
ただ、帰国後メンバー達が女性関係を整理するのに一苦労だった事は言うまでもありませんが…
 

2008/01/03

昨年末、のだめオーケストラのクリスマススペシャル11日間14公演に出演した事は何度か書きましたが、その期間は私にとって幸せ極まりないひとときとなりました。

私が最年長ではありましたが、ほぼ同年代の日本各地から集まった優秀な演奏家たちと楽屋で、舞台上で、そして打ち上げのお店で過ごした濃密な時間は、もう一度楽器を弾きたい、そう強く思わせるに十分な後押しとなりましたし、音楽に浸っている時間が自分にとって最も幸せな時間なのだと再認識するに余りある経験でした。

自分の思うように演奏出来たとき、他のメンバーとの意志の疎通やアンサンブルが上手くかみ合い音楽を共有出来たとき、聴衆から拍手をいただく瞬間など演奏家が幸福を感じる場面は数多いと思いますが、私はこの一年間で「演奏する機会に恵まれる事の幸福」を強く感じました。

どんなに優秀な演奏家でも、どれだけ音楽を愛していても、演奏する場が無い事には何の意味も為さない。そして演奏する場に聴衆が居なければ、それは自己満足に過ぎません。

演奏者と聴衆の集まった演奏会場で音楽を表現出来る空間に居られる事の幸せ、そういった一番基本的な部分を私は忘れていたような気がします。

そして、同年代だからこそ感じられる演奏中の「楽しさ」、これものだめオーケストラならでは。日本全国見渡しても、あそこまで全公演手を抜かず全力で演奏し、かつ演奏中の表情が豊かなオーケストラは他に無いと断言が出来ます。
笑顔とアイコンタクトが飛び交い、音楽を心底楽しんでいる様子が聴衆にも伝わったのでしょう、ご来場された方々のブログを拝見すると「クラシックは弾く側も聴く側も難しい顔をしていなければいけないと思っていたが、そんな概念を覆してくれた」とか「演奏者が笑顔だとこちらまで楽しくなってしまう」との嬉しい感想を目にする事が出来ました。こうしてクラシックに興味を持ってもらうきっかけとして、のだめオーケストラは大きな役割を果たしています。

のだめをきっかけにまた演奏の依頼を頂けるようにもなってきました。これからは「演奏出来る事の幸せ」を忘れる事なく、音楽に向かい合ってみたいと思います。

2007/11/29

某オーケストラの演奏会でのこと。

その日は現代曲ばかりを何曲も演奏し、私もリハーサル初日は全く弾けず楽譜を自宅に持ち帰って研究したほどの難曲揃いだったのですが、その中にバスドラム(以下バスドラ、大太鼓の事です)の霞むような一発のピアニッシモ(小さく、弱い音)で終わる曲がありました。

クラシック界では名前を知らぬ者がいないような有名な指揮者のもとリハーサルは進み、マエストロ(指揮者)はそのバスドラに対して限りなく小さく弱く、しかし美しい音色で曲の最後を締めるように要求し続けました。

「そうじゃないんだなあ、もう少し柔らかいバチ(太鼓を叩くもの)は無い?」
「バチの先が触れたか触れないか、くらいの圧力だけどステージに音が響き渡るように」

など、何度も叩かせてはかなりキツめの注文を繰り返しました。

この部分、難しいのは音量だけではなく叩くタイミングも実に微妙。
幾重にも重なった和音が少しずつ消えていき、最後のバスドラムは指揮者が7秒数えた後に出す合図によって発音するように楽譜に指示がされているのです。その打楽器奏者にとっては緊張が頂点に達する瞬間。

一方の打楽器奏者も何とか作曲者の意図した音楽を再現しようと必死に食らいつき、本番前のゲネプロでついに理想の音が出たと判断した指揮者は左手でOKサインを出しました。

さて本番。

前半の曲目を無事に終え、いよいよメインへ。
難解なリズム、複雑な構成を何とかこなしながら曲は緊張のラストへ向かいます。
弦楽器の和音が少しずつ消えていき、舞台が静寂に包まれてから7秒間。

1、2、3、4………..

我々も心の中でカウントし、指揮者が目を開け、静かに振り下ろしたその刹那、小さく美しいバスドラムは…

聴こえませんでした。

何と指揮者に注目し過ぎるあまり、彼の右手のバチは太鼓の皮に触れることなく、その手前で止まってしまったのです。みるみる真っ青になる彼の顔色、笑いをこらえ真っ赤になる我々。

指揮者は一瞬、究極のピアニッシモだったのか発音しなかっただけなのか戸惑ったようでしたが、そのまま指揮棒を降ろして演奏会の終了を示しました。

沸き起こる拍手のなか、、指揮者が各セクションを讃えて立たせるカーテンコールで、立つように促された彼が最後まで首を横に振って立たない姿には、何ともいえない哀愁が漂っておりました。
 

2007/11/13

 

 T響に呼んでいただくようになったのは、フリー奏者としてだいぶ経験を積んでからだったような気がします。

当時T響のカリスマ首席奏者だったAさんがあるオーケストラにゲスト首席としていらっしゃって、たまたま私がエキストラで出演していたのがそのご縁となりました。なぜか私は正式な楽団員でもないのにAさんとモーツァルトのピアノ協奏曲をコントラバス2本で演奏する事となり、そのリハーサル後のランチの際に「ウチのオーケストラに来てみないか」とお声をかけていただいたのです。

このオーケストラのコントラバスセクションのプレイヤーはそのほとんどが私と同じドイツ系統の方々。

師匠や学んだ環境が同じという事は、自然と奏法や音符の扱い方、音楽や響きに対する感覚も似てくるということ。私はこれまで数多くのオーケストラで演奏させていただきましたが、最もストレスを感じず楽しく演奏する事が出来たオーケストラの一つだと思っています。

オーケストラ全体を見ても「響き」を大事にする楽団だと思いますが、特にコントラバスセクションの響き、鳴り方はそれまでの日本のオーケストラには無い、透明感がありながらも重厚で柔らかいサウンドを誇ります。

基本的に毎回素晴らしい演奏を聴かせてくれるますが、私も参加させていただいた演奏会でこのセクションの素晴らしさを肌で感じた瞬間があります。

それは東京文化会館でバルトーク作曲「管弦楽の為の協奏曲」(以下オケコン、オーケストラ=オケ、協奏曲=コンチェルト=コンの略)をメインに演奏した定期演奏会でのことでした。

リハーサルは3日間。

一流との共演の経験が多いオーケストラですから、リハーサル初日には棒の技術、音楽性に人間性、さらに時間を有効に使っているかなど、あっという間に指揮者の力量や性格を見抜きます。

通常の人間であれば練習に無駄がなく、完成度が高ければ早く練習を終えて有意義な時間の使い方をしたいと考えるのは当然ですし、なお態度が柔らかければ協力しようとも考えるものですが、たまたまこの時のマエストロは几帳面な方で、練習時間をきっちりと最後まで使い、何度も同じ箇所を繰り返す事で演奏に正確性を求め、かつ指揮者の威厳を保つためか厳しい口調で練習を進めていきました。

結果微妙な空気が生まれてしまいましたが、そこは大人のオーケストラ。態度に表す事もせず、きっちり練習に付き合いました。

バルトーク「オケコン」の冒頭はコントラバスの緊張感ある重々しい序奏から始まります。

リハーサルではこの序奏部分のコントラバスの音程がなかなか合わず、指揮者に何度も繰り返しての練習を求められました。音程が合わないといってもそこはプロですから、おそらく客席にはそれほど伝わらない程度の誤差。後は本番での個々の技術、緊張感と集中力を以てすれば解決するであろうと誰もが感じたような内容でしたが、マエストロは妥協せず。

そしてリハーサル初日、二日目と繰り返し弾かされていると、ついに首席が振り返り

「何回も弾かせるからますます考え込んでズレるんだよな、プロなんだから本番はキメて見せるよなあ」

と一言。

その言葉が聞こえたのかセクションの顔つきから何か感じとったのか、指揮者はそれ以上その箇所を取り上げるような事はしなくなりました。

 

そして本番当日。

ゲネプロでも冒頭部分はイマイチ精度が上がらず、セクションは首を捻りつつのリハーサル。しかし指揮者はもうあえて何も言わずゲネプロ終了となりました。

さて、演奏会は前半をたっぷり聴かせて休憩、その後はいよいよメインのバルトークです。

指揮者は入場し聴衆の拍手が静まるのを待ち、ゆったりと棒を振り上げました。集中力を高め、緊張感を伴った状態でコントラバスセクションによる序奏は流れ始めました。

その瞬間、私は自らの耳を疑いました。

    
音が一つしか聴こえない。

 
8人いるはずのコントラバスの音色は、綺麗に溶け合い完全に一つの音になったのです。

プロですから、単純な音符ならかなりの割合で合って当たり前。しかし、この時は異空間でした。何しろ、自分一人で演奏している気すらしたほど。オーケストラで演奏していて、ピアニッシモ(非常に小さな音)の場面で自分の音だけしか聴こえないような瞬間が来ると通常は怖くなるんですが、この時はむしろそれが気持ち良いと感じるほどの溶け合い方でした。

結局最高のクオリティを保ったままバルトークは終わり、拍手の渦に包まれるステージで、首席が振り返り、

「凄かったな…」

と呟きました。

 
カーテンコールが終わり、まばらになった客席を見ながら楽器を拭いていると、セクション内ではいつしか自然とバルトーク冒頭部分の話になりました。あるベテランの方が「長くやってるけどあんな体験した事無いな~!」と言えば、若き女性奏者も「弾きながら鳥肌立っちゃった~!」と感動を隠せません。

私はその会話を聞きながら、やはりそう感じたのは自分だけではなかったのだ、と密かに喜んだものです。

リハーサル中に首席が発した強烈なプロ意識を感じさせる一言、そしてそれを実際に証明する形となった、本番で見せたコントラバスセクションの痺れるような集中力による演奏は、今思い出しても鳥肌が立ちます。

この空気が聴衆にどこまで伝わったか分かりません。しかしながら、こうして演奏家が高い技術と集中力により空間を共有したとき、そこには間違いなく「ホンモノの音楽」が存在します。

演奏会に足を運ぶとき、あなたにそんな空間を共有出来る瞬間が訪れることを期待してはいかがでしょうか。
   

  

2007/11/09

身内の話で恐縮ですが、私の父は偉大な演奏家です。

今でこそ父は東京芸術大学教授として後進の指導に邁進していますが、私が産まれた当時、父はベルリン・ドイツオペラのホルン奏者でした。

まず当時海外に留学を試みる管楽器奏者がほとんど居なかった中ドイツに飛び出した行動力も讃えられて然るべきだと思うのですが、日本人ホルン奏者初のAクラスオーケストラ入団(海外ではオーケストラをランク分けしています)を果たした事は日本の歴史に残る成功と言えます。その後日本人管楽器奏者がこぞって海外へ留学し始めた影には、父の影響が少なからずあったでしょう。

私が今でも憧れ続けるベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏会にもエキストラとして度々出演していたような、まさに一流の演奏家でした。

両親は私と妹を日本で育てたいという考えから帰国、父は新日本フィルハーモニー交響楽団の首席ホルン奏者に就任。そして現在は指導者として数多くのホルン奏者を世に輩出しています。

私はプロとして演奏活動を始め、すぐに両親そして祖父の偉大さに気づき「これは絶対に越えられない」と感じたものです。

そんな父と、たった一度同じステージで演奏する機会がありました。

広上淳一さん指揮、日本フィルハーモニー交響楽団(以下日フィル)の演奏会でリヒャルト・シュトラウス作曲の交響詩「英雄の生涯」を演奏したときのこと。

当時私は月の仕事の半分ほどを日フィルに伺っており、管楽器の楽団員の方ともかなり交流がありました。特にホルンセクションには父の生徒さんが多く、何かと気を遣っていただいていました。

そんなある日、ホルンの首席が「お前来週の『英雄の生涯』乗ってるよな」と確認してきました。突然何だろうと思いながら「居ますよ~」と答えると、彼は「そうか、よしよし」などと呟き、ニヤニヤしながら立ち去っていきました。意味が分からず、呆然と取り残された私がそのニヤつきの原因を理解したのは翌週、練習場に父が現れた瞬間のことでした。

どうやらホルンセクションの方々は親子共演の場を提供してくれたようだったのです。
さて、この「英雄の生涯」はとにかくスケールの大きな曲。通常8本のコントラバスで演奏するところを指揮者広上さんの希望で10本まで増やす事になり、都内でも活躍中だったフリー奏者が呼ばれました。現在神奈川フィル首席のYN君、NHK交響楽団副首席のNY君など、いま考えると大変豪華なエキストラ陣。それに現在日フィル副首席のTY君もいる訳ですから、この日のコントラバスの充実度が伺えます。

ただ、いつもより人間が多いという事は楽器が足りないということ。私は事前に連絡を受け、自分の楽器を運ぶ事になっていました。

するとリハーサル初日前夜、TY君から電話が入りました。

「鷲見さん、明日楽器運ぶの大変でしょうから、俺が今から車で引き取りに行って、明日運びますよ」

なんという男気、持つべきものは良き友人などと思いながら私はその言葉に甘え、彼の愛車に楽器を積んだのでした。

安心して弓だけの身軽な格好でリハーサル会場のセシオン杉並へ向かった私。ところが、リハーサル開始30分前になっても、TY君が来ません。何となく嫌な予感に襲われた私は、彼の携帯に電話をしてみました。

すると、繋がるや否や

  
「すいません、今起きました~!!」

  
という叫び声。

「今すぐ出ます!」

の言葉を最後に携帯の通話は切れ、それからリハーサル開始2分前に彼が姿を見せるまで、私の胸はドキドキしっ放しでした。

何しろ、ホールにいるのに楽器が無い。コントラバスセクションが猛烈に練習をするなか私はぶんぶん弓を振り回しながら所在なさげにウロウロするばかり、格好悪い事この上ない。リハーサル開始ギリギリに楽器が到着したものの、午前中の練習に全く集中出来なかったのは仕方ないと帰り道自分を慰めたものでした。

そんなハプニングがありながらも楽しく3日間のリハーサル後、帰り道には父と二人食事をしたりもしたのですが、気恥ずかしさや緊張もあって練習中は一度も父を見る事が出来ませんでした。

さて、サントリーホールでの本番の日。

この日の前プロ(前半の曲目)が何だったのか全く思い出せませんが、メインの「英雄の生涯」は忘れられない演奏となりました。

魔法使いのようなタクトでオーケストラをリードする広上さんの指揮によって確実にオーケストラのテンションが上がり、それに伴って聴衆が舞台に引き込まれていく空気を感じるようになりつつありました。

曲も半ばにさしかかったとき、突然私の胸に、感無量な気持ちが込み上げてきました。

両親が離婚してから音楽を始めるまでほとんど会わなくなった父、自分がプロとして演奏するようになって初めてその偉大さを思い知らされた父と同じステージに立っているという万感の思い。

その思いが頂点に達したのは曲の後半、同じリヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩「ドン・ファン」から引用された、ホルンセクションの一瞬ながら壮大なテーマが鳴り響いた時でした。

幼い頃家での練習を聴いた記憶はあっても、本番では初めて耳にした父の音。セクションが4人いるとはいえ、紛れもなくその音は父の演奏。そしてこの瞬間、私は涙が止まらなくなったのです。

幸い周囲が演奏に集中していた事で涙はおそらく誰にも気づかれずに済み、曲が終わるまでには気持ちを落ち着ける事が出来ました。

終演後はホルンセクションの方々に誘われてサントリーホール近くの居酒屋での打ち上げに参加させていただきました。

弟子やホルン奏者たちに囲まれる父を誇らしげに見ていると、あるベテラン奏者が話しかけてきました。

  
「オヤジさん、凄いだろ?」

  
私はただ頷き、ホロ酔いの心地良さに任せてビールを流し込むばかりでした。
 

2007/10/30

その日はNHK交響楽団のサントリーホール特別演奏会でした。

演奏曲目は交響詩「海」をメインに、フランスの作曲家ドビュッシーの作品が並べられました。

指揮はドイツ生まれでハーフの準メルクル氏。今でこそしっかりと地位を確立していますが、この時が日本デビューで、恥ずかしながら私も「え、誰?」という認識しかありませんでした。そんな彼も、2日間のリハーサルを重ねる間に、非常に明確な指示と分かりやすいタクトでオーケストラの気持ちを掴んだのでした。

そして本番の日、夜公演という事で本番は19時から。

この場合通常ゲネプロ(本番当日の最終リハーサル)は15時くらいからで、17時に終わって軽い腹ごしらえをして本番、のパターンが慣例。しかしこの日はゲネプロが11時からで、しかも完成度の高いオーケストラに満足したメルクルは1時間ほどでゲネプロを終了しました。と、まあゲネプロは疲労の蓄積を控え、ほとんど演奏せずホールの響きだけをチェックして終わるのはプロならよくある話。

この頃私は「程良い緊張を保ちつつ、本番に集中のテンションを最高の状態に合わせる方法」を探っており、この日は友人のコントラバス奏者が行っていた方法を試したのでした。

それは、ゲネプロ終了後軽い腹ごしらえをしたら、ホールのロビーにあるソファーで昼寝をするというもの。それから本番1時間ほど前に起きて軽食を取り舞台に上がると、体調・緊張感とも良い感覚で曲に入れるというのです。

だいたいどこのホールも、ロビーには聴衆が開演前や休憩時にリラックスして歓談出来るようなソファーを設置しています。特にこのサントリーホールには、まるで「寝てくれ」と云わんばかりにセミダブルサイズのベッドのようなソファーがあります。靴を脱ぎ、完全に横になった私の意識が遠ざかるのにそれほどの時間を必要とはしませんでした。

  
そして数時間後、私はある女性の声で目を覚ましました。

  
「出演の方でいらっしゃいますか、間もなく開場でございます」

  
声の主はレセプショニスト(会場の案内係)の女性でした。慌てて女性にお礼を言いながら起き上がり、時計を見るとすでに開演30分前。

私は急いで楽屋に戻りましたが、もうのんびり食事をする時間はありません。仕方なく燕尾服に着替えて舞台に向かい、軽く音を出しチューニング(音を合わせる)して開演3分ほど前に舞台袖へ戻りました。眠り過ぎた上に軽食も取れず、私の計画はこの時点で台無し。

さて本番です。1曲目はドビュッシー作曲「牧神の午後への前奏曲」。フルートのソロが美しい、全体的に静かで癒される曲です。当然コントラバスはフルートの旋律を支える訳ですが、曲が始まって間もなく、私のお腹から
  

くぅ~

  
という子犬の鳴き声のような音。

長すぎた昼寝により、早めの昼食以降本番まで食事を取れなかった事で、身体が空腹を訴えはじめたのであります。

音が子犬のうちはまだ良かったんですが、「これはマズい」という気持ちになればなるほど、逆に音量は上がるもの。しかも非常に静かな曲で、さらにサントリーホールはステージを囲むように客席が配置されており、聴衆を身近に感じる為、ますます緊張感が高まります。

そのうち何度か鳴いた子犬は

  
ぐるるっ

  
と、野犬の唸り声にその姿を変化させていきます。

  
こうなると周辺のコントラバス奏者はみんな気づき始め、こちらをチラチラ見ながら微笑み始めます。そんな状況のなか必死にそれ以上の音が鳴らぬようお腹に力を込め、何とか曲は最後の小節へ。

実に美しく溶け合ったサウンド、そしてメルクルのタクトが止まり会場は静寂へ…私も何とか役割を果たしたと安堵し力を抜いたそのとき

 

ぐるるる、ぎゅる、ぐるるるっ

  

野に放たれた数頭の野犬が、自由きままに咆哮した瞬間でした。

  
幸い客席までは届かなかったと思いますが、その瞬間コントラバスセクションは全員視線を落とし肩を震わせ、湧き上がった拍手と共に大爆笑。その後、前半が終わると同時に「なんか腹に入れてこい!」と声が飛び交った事は、言うまでもありません。

そんな私のお腹の音が収録されている「かも」しれないこの演奏会のCDが発売されています。

  

   

準メルクル/NHK交響楽団

Altus 2CD ALT-006~7
1997年6月23日サントリーホール 東京
1998年4月29日NHKホール 東京
(ともにライヴ録音)

・ドビュッシー:『牧神の午後への前奏曲』
・R・シュトラウス:『死と変容』
・ドビュッシー:『海』
・モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』序曲
・ブラームス/シェーンベルク編:『ピアノ四重奏曲』