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2014/12/18

■幼稚園

ドイツから帰国し、両親が選んだ住まいは東京都国立市。当時母の実家があった事が理由だと思います。現在でこそセレブを気取るよな雰囲気の街になりつつありますが、当時は谷保駅から自宅が見通せるほどの農地だったようです。

僕はここから幼稚園に通うことになるのですが、ドイツではドイツ語・日本語を織り交ぜて話していたため、日本語の発音がおかしかったようで、かなり激しいイジメに遭うことになります。「ガイジン」なんて呼ばれた事もうっすら記憶していますし、休み時間や遊びの時間になると半泣きで園庭の土管に隠れていた事はハッキリと脳裏に刻まれています。それでも「親に悲しい思いをさせたくない」と、帰宅したら「楽しかったよ!」と笑顔を見せるようにしていました。両親は気付いていないと思っていましたが、最近になって父が僕の妻に「あいつは幼稚園で良い思い出が無いだろうから」と話したと聞き、「気付いていたんだ」と少し嬉しくなったものです。

そんなことが理由なのか、僕には幼稚園の記憶がほとんどありません。

■小学校

小学校は慶應義塾幼稚舎を受験し合格。

実はこの時、同時に地元の音大附属幼稚園も受験したのですが、面接で「他にどこか受けていますか?」と聞かれ、事前に「受けてません」と答えるように練習させられたにも関わらず「慶應です」と返答、さらに「両方受かったらどちらに入りたい?」と聞かれ、再び「慶應です」と元気よく答え、帰宅して母にこっぴどく叱られた思い出があります。僕としてはどうしても嘘をつくのが嫌だったんです。結果、音大附属を落ちて慶應に合格するという、摩訶不思議な結果と相成りました。慶應は子供の個性や両親の職業を見るといいますから、両親が音大の先生で父がオーケストラ所属という点に注目したのでしょう。

慶應義塾幼稚舎は港区にあります。自宅のある国立からは

バスで国立駅⇒中央線で吉祥寺⇒井の頭線で渋谷⇒バスで天現寺

と片道1時間半の道のり。今自分が親の立場になって思うと、よくまあ幼い子供が往復3時間通ったなあと我ながら感心してしまいます。通学が始まって最初の数日、さすがに心配になった両親は吉祥寺までこっそり付いてきていたようですが、僕も息子の幼稚園初登園にこっそりついていきましたから、気持ちはよく理解出来ます。

しかし、何しろ通学に時間がかかるうえ、高学年になると部活も始まるので、帰宅する頃には夕刻になっており、近所に友達が出来なかったのが今となっては寂しいところです。休日は塾やレッスンに行くか、妹とサッカーやプロレスごっこばかりしており、地元での楽しい思い出がほとんありません。

小学校高学年になるとプロレスにハマりました。当時は全日本がジャイアント馬場、新日本はアントニオ猪木が引っ張るプロレスブームで、初代タイガーマスクやミル・マスカラス、ザ・ロード・ウォリアーズ、さらにはハンセンやブロディ、アンドレといった魅力的なレスラーも多く、自分がどちらかというと弱い性格だった事も相まって、中学生までは憧れを含む熱狂的なプロレスファンでした。

小学生で往復3時間も電車に乗るとなるとさすがに時間があるので、僕は通学時間をずっと読書に充てていました。小学校の図書室で本を借りては返しを繰り返した結果、「どの本を見ても貸出カードにアイツの名前がある」と言われるほど多くの本を読破しました。よく読んでいたのは星新一、ルパンやホームズなどの探偵・泥棒もの、恐竜関連の書籍など。当時から何となく夢見がちな少年だったと思います。

ちなみに漫画はずっと親から禁止されていたのですが、こっそり読んだ手塚治虫の「ブラックジャック」「鉄腕アトム」でハマってしまい、あまりに勉強せず漫画ばかり読んでいたことで母が激怒し、二階の僕の部屋から教科書や漫画本を投げ捨てられたことがあります。

学校でも給食で出たミカンや饅頭をロッカーに入れっぱなしにし、学期末の大掃除で先生に見つかって大目玉を喰らった事が何度かあります。基本、当時は片づけの苦手な、だらしない性格でした。

慶應義塾幼稚舎は1学年K、E、Oの3クラスしかありません。確か1クラス男子32、女子12の合計44人でした。6年間クラス替えが無く、何かというとクラス対抗があるので仲間意識が強くなります。陸上や水泳のリレー、百人一首など文武両道を謳う学校ならではのイベントが頻繁に行われていました。ただ、僕は凡庸な少年だったので、体育系も文科系も特に目立った活躍はなく、いつもクラスでは目立たない存在だったと自覚しています。

担任の先生は背が小さく、髪の毛の薄い熱血ベテラン教師でした。礼儀を欠いた行動には容赦なく鉄拳を振う人でしたから、昨今の教育現場であればすぐに問題になるような先生だったかもしれません。それでも生徒は先生を大好きでしたし、親も「それくらいじゃないと」と黙認でした。

小学校4年生からは部活動もあるのですが、僕は顧問の先生の人柄に魅かれ、3年間焼き物部に所属し陶器などを作っていました。部活としてはマイナーも良いところで、小学校6年の時には部員が僕だけになってしまい、合宿は先生とのマンツーマン。「好きな物への集中力」はこの3年間で培われたような気がしています。

初恋も小学校でした。最初は体育の先生。水泳の授業でクロールを教えてくれた先生の胸に指先が当たってときめくという下劣なきっかけでした。次に同じクラスの女子、卒業前には隣のクラスの女子と移り変わりましたが、当時「付き合う」などという概念はなく、いずれも片思いで終わっています。修学旅行の写真で好きな子の写真を注文して親に見つかり、頬を赤らめるような、本当におとなしい少年でした。

小学校も半ばに差し掛かったころ、両親が別居。もともと父は僕が学校に行く時間は寝ていたし、僕が学校から帰ると仕事に行っていたし、眠るまで帰宅する事は無かったので、ほとんど家で顔を合わせたことが無く、生活そのものは大して変わらなかったというのが正直なところではあります。

そんな父ですが、きっと帰国してオーケストラや音大の先生を務め猛烈に忙しかったであろうこの時期、川原でホルンの門下生を集めたバーベキューに連れて行ってくれたり、公園でキャッチボールをやったりと僅かな休みに僕ら子供と遊ぶ機会を作ってくれていました。この頃の体験が元で、僕は自分の子供たちに出来るだけ時間を作って付き合うように心がけています。

父との一番の思い出は、僕が修学旅行から帰ってくると東京駅まで迎えに来てくれて、「今から雑誌の取材があるから一緒に編集部に行こう」と出版社に連れて行ってくれた日のこと。道中「これは食べられるな」と言いながら道端の雑草を引っこ抜く父を見ながら不思議に思っていたら、父は出版社に着くなり「鍋とコンロある?」と言って調理を始め、編集部の人たちに雑草を食べさせ始めたのです。この様子が「PIPERS」という管楽器の雑誌に掲載され、僕はなんと高校で楽器を始めた際、吹奏楽部の棚で偶然この雑誌を発見することになります。後に分かることですが、父は何処に行ってもその辺の雑草や木の実を食べてしまう野生児で有名だったようです。

この時期両親からはいろんな楽器をやらされました。最初はヴァイオリン、次にピアノ、そしてホルン・・・どれも嫌がってすぐに辞めてしまい、結局一番続いたのはトランペットでした。当時桐朋学園大学の先生の自宅までレッスンに通い、3年ほど続けました。小学校のホールで全校生徒を前にシューベルトを演奏し、生まれて初めて「緊張」という現象を知ったのも小学校です。ただ、自分では最後まで「良い音で吹けた」と思った事はありませんでした。

小学校6年になると、中学の進路を決定しなければなりません。エレベーター式にそのまま進学出来るので、日吉にある男子校(普通部)か、三田にある共学(中等部)か選択をするのですが、男子校は勉強のレベルも高く非常に厳しいと聞き、のんびり屋だった僕は中等部を選択したのでした。

・・・・続く・・・・

2014/12/04

こんにちは。

2014年も残り1か月を切りましたね。

僕が高校を転校して吹奏楽部に入り、コントラバスという楽器を始めてから来年で25年目になります。いや、1年半音楽から離れた事を含めると正確には24年目でしょうか。

今回から数回に渡り、自分の音楽との関わりを整理する目的で、これまでの人生を振り返ってみようと思います。

■家系

まずは僕の誕生から、という事になると思いますが、その前に家系を説明する必要があるでしょう。

僕の両親はどちらも音楽家です。父はホルン奏者で、ベルリン交響楽団、ドゥイスブルグ交響楽団、ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団などで活動したのち帰国し、新日本フィルハーモニー交響楽団を経て東京芸術大学教授として後進の指導にあたりました。母はピアニスト。ドイツでの演奏活動から帰国、東京音楽大学の教授として世界的なソリスト・小菅優さんをはじめ数多くの演奏家を輩出しています。

そんな両親だけではなく、母の父、つまり僕の祖父はヴァイオリニストとして日本音楽コンクール第1回・第2回で優勝を果たし、NHK交響楽団での演奏活動から引退後は国立音楽大学の教授として指導もしていました。他にも祖父の兄(つまり大叔父)は日本ヴァイオリン界に名を残す指導者ですし、現在も僕の親戚にはヴァイオリニストやピアニストが数名居ります。クラシックの世界で、祖父や両親の名前を知らない人は居ないと言っても過言ではありません。

そんな家庭状況ですから、僕は生まれた時から音楽に囲まれていたと云えるでしょう。僕がプロになっていろいろなオーケストラに伺うようになり、自己紹介で名前を名乗ると「『あの』鷲見一族には関係ありますか?」と聞かれたものですし、しばらくの間自分の名前に苦しめられる事になります。

■誕生

さて、僕はドイツに生まれました。

当時ドイツのオーケストラで演奏活動していた父とピアノ留学した母が知り合って結婚し、僕が誕生したのです。家庭ではドイツ語と日本語を使っていたようで、当時の親子の会話を録音したテープを聞いてみると、幼き日の僕が流暢なドイツ語を話している形跡があります。その様子からは、後に音楽大学でドイツ語の単位を落とす事が想像出来ません。

幼少期の頃の僕は実に明るくて愛嬌があり、誰にでも愛想を振りまく子供だったようです。ドイツに来て面倒を見てくれた祖母の話によると、デパートのレジで店員さんに投げキッスをしてチョコレートを貰うような出来事は日常茶飯事で、公園では遠くから走ってきた人が僕を抱き上げ「連れて帰りたい!」と叫び、誘拐されると思った祖母が慌てたというようなエピソードもありました。

昔「人の人生には数年周期で春夏秋冬が訪れる」というような話を何かの文献で読みましたが、この頃の僕はきっと太陽も眩しい夏真っ盛りだったのではないかと思います。

この頃父はベルリンを拠点に活動しており、あのベルリンフィルにも客演していたようです。僕は母に連れられてリハーサルを見学しに行くことも多く、客席で静かに聞き入って、帰宅するとレコードをかけて指揮者の真似をしていました。今でも、下着姿で指揮棒を振りまわす僕の写真が残っています。

両親は「子供は日本で育てたい」と考えていて、僕が4歳の時に帰国を決断します。

こうして僕は日本に移り住むことになったのです。

・・・続く・・・