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2007/11/13

長かったインタビューも今回が最終回。下地さんの話の中でとても印象的だったのは、「自分は生かされている」という言葉でした。

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後援会員(以下、後):ここまで聞いていると、下地さん自身が多くの人に助けられている・・・というか、周りの人があっての人生のような気がします。
下地(以下、下):そうですね・・・。大学まではバスケだけやっていればいいみたいなところがあったんですけど、今は「自分がいなくなると悲しむ人がいる」というのを実感した気がしますね。人は支え合って生きていると言いますけど、人と人との結びつきが、生きる力を与えてくれると思います。その意味でも、人に見返りを求めることなく与えてあげる事ですね。僕は会社(チーム)でも言うんですけど、僕らは生かされているんだよ、と。僕らはブースターや周りの皆さんのおかげで生きていけるんだよ、と。その事を忘れちゃいけないと思うんですよ。僕が伝えたいのはその事ですね。だから、一日も早くお世話になった人達に、恩返しをしたいと思っています。
後:今日は長い時間ありがとうございました。
下:こちらこそ、ありがとうございました。

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当初、私はインタビューをやりたいとは思ったものの、そのノウハウもないし、全くの下準備もないまま下地さんと話し始めました。その結果、「1~2時間で十分だろう」と思った下地さんの話は実に3時間以上に及び、途中、下地さんに「こんなに話していいんですか?」と何度も心配される始末。

時間を区切ること、自分の聞きたい話をあらかじめ整理することなどが今回の反省点なのですが、一方で、「下地さんが話したいこと、伝えたいことを聞く」という意味では大きな収穫がありました。

インタビュー形式で文章に起こしたためこのような形になっていますが、実際には下地さんがほとんど1人で話し続ける状態でした。それも、大半が笑顔で。

とにかく、下地さんはバスケが大好きなのです。人生の大半をバスケに費やし、そして、自分の大好きなバスケについて心から楽しそうに話してくれる。当時は大変だったこと、苦労したことも今となっては笑い話となり、笑顔でそれを話してくれる。それはまさに、下地さん自身が心からバスケを楽しみ、そんな自分の人生の一瞬一瞬を楽しんでいるからのように思えてなりません。

私自身、それなりにバスケを好きだという自負がありましたが、下地さんの前ではお話にならないというか。しかし、そんな人だからこそ、頑張ってもらいたい。そんな人がいるチームだからこそ、応援したい。心からそう思える話を聞けて、本当に良かったと思いました。

実は、今回のインタビューでは書き切れなかった話もたくさんあります。文章化するにあたってカットした部分も少なくないし、現役時代の話、例えば全日本ジュニアでの経験や大学時代の話はもっとあるそうです。更に、アルビBBに加わってからについてはいくらでも面白い話があるとか。

そんな話については私も是非、聞いてみたいと思いますのが、それはまた次の楽しみにしたいと思います。

最後に、長い長いインタビューに付き合ってくれた下地さん、そしてこのインタビューが出来上がるまで協力して頂いた皆さん。本当にありがとうございました。

2007/11/10

病院の人に励まされ、訪れるチーム関係者や友人達に励まされ、下地さんは着実に回復していきます。先生の予想よりもずっと早く。そして、下地さんにとってリハビリの大きな目標が出来ました。アルビレックスBBが、2月に再び所沢を訪れるのです。

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後援会員(以下、後):お正月には選手や会社のスタッフがお見舞いに来てくれたそうですね。
下地(以下、下):はい、大晦日と元旦に中野社長(当時)が来てくれたんですよ。「下ちゃんに会いたかったんだよ~!」なんて言ってくれたんですけど、「中野さん、ホントは僕と一緒にいたいんじゃなくて、家族から離れたかったんじゃないですか~?」なんて冗談言ってましたね(笑)。でも、中野さんには本当にお世話になりましたね。リハビリが始まった頃には安里先生も来てくれたんですけど、先生が来たとたんに泣いちゃいましたね。いろんな話をしましたけど、安里先生の言葉は本当に心強かったです。
後:廣瀬HCも来てくれたとか。
下:これが時間を見計らったかのようなんですが、中野さんが帰ってすぐに廣瀬さんが来てくれたんですよね。別々だったそうなんですが。廣瀬さんは家族で来てくれたんですよ。中野さんと話して大笑いして、「よし、また頑張ろう」と思った矢先に廣瀬さんが来たものだから、僕はまた泣いてしまって(笑)。廣瀬さんには、「いいか下地、朱鷺メッセの最終戦には絶対にスーツ着てベンチに入るんだぞ」って言われましたね。そして、4月のプレイオフには間に合わせろって。実は僕はリハビリの先生と話していて、4月のプレイオフには車いすで行ければ十分と思っていたんですよ。でも、廣瀬さんに言われたからにはやるしかないな、と思って(笑)。リハビリの先生に相談して、また頑張ることにしましたね。
後:選手も来てくれたそうですね。
下:はい、テラなんかは2回も来てくれましたね。わらじ、テラ、小菅、公威の4人で来てくれたんですけど、あの時はあいつらが延々と話し続けたせいでリハビリ中止ですよ(笑)。あいつら4時間も話し続けましたからね(笑)。
後:その後のリハビリはかなりのハイペースだったとか。
下:車いすから立ち上がる練習も、まだ無理だって言われたんですけど、やってみたらスッと立てたんですよ。先生が「まだこれは出来ない」ってのも次々と一発でクリアしていきましたね。先生も驚いていたんですけど、実は僕、内緒で練習してたんですよ(笑)。リハビリは朝の9時半から12時、午後は2時から5時くらいまでやってるから、それ以上やると体に負担になるんですよね。でも病室で内緒にスクワットやったり歩く練習したり。先生はそれを知らないから不思議がってましたけどね(笑)。
後:歩くのは苦労したそうですね。
下:はい、これは正直自分でも出来ないと思ってました。普通に歩くことが出来ないんですよ。でも、平行棒を掴んで歩く練習をしたとき、5歩だけ進むことが出来たんですよね。これだけで凄く疲れたんですけど、先生は「たとえ掴んだ状態でも、5歩も歩けるなら可能性があるな」って言ってくれて。
後:実際には、予定よりかなり早いペースで回復したそうですね。
下:歩くだけで奇跡って言われたくらいなので、看護士さんも泣いてくれたし、リハビリの先生には感謝ですね。いろいろ調べてくれたし、おかげで歩けるようになりましたから。予定より早まって2月の所沢を目標にしてから、またリハビリの先生と頑張りましたね。午前中より午後は少しでも長く歩くようにしたり。で、リハビリ頑張りすぎて、体重が減るくらい(笑)。
後:減っちゃダメじゃないですか(笑)。
下:だから病院の人に相談したんですよ。病院の最初の食事は1,800キロカロリーだったんですよ。一般の成人男性が必要なのが多分、2,000キロカロリー位だと思うんですけど、さすがに僕にはそれだけでは足りなかったんで、3,000キロカロリーくらいにしてもらいました。ご飯も山盛りにしてもらって。ご飯を食べると力が付くんですよね。それからは回復のぺースも上がりました。リハビリを1時間頑張ったらそれ以上疲れないようにちゃんと休憩したり、もしかしたら人生で初めてかもですね、あんなに自分の体を大切にしたのは。そして、病院の人たちには本当に感謝ですね。トイレ一つから頭を洗う事まで、全て面倒見てもらいましたから。若い看護婦さんもベテランの方も、みんな良くしてくれて、ありがたかったですね。
後:所沢の試合に行ったときはどんな気持でしたか?
下:いや、もう・・・感動ですね。アルビとか埼玉とかじゃなくて、バスケを見ることが出来るだけでも感動でしたね。病室のテレビでオールジャパンの放送を見たり、アルビの試合のDVDを送ってもらっては見たりはしてたんですよ。廣瀬さんなんか「試合を見て今のアルビに必要なものを報告しろ」なんて宿題まで出して(笑)。でも、実際に試合会場に行ったら・・・。まずは選手達が出迎えてくれたんですよね。みんなに会えて安心して、さらにわざわざブースターの人たちも新潟からたくさん来てくれたって聞いたら嬉しくて。本当に感動しましたね。
後:新潟へ帰ったのも予定より早かったそうですね。
下:そうですね、本当は埼玉の病院を離れるのが寂しかったんですよ。埼玉にずっといようかな~と思うくらいで(笑)。リハビリの先生は泣くし、書いた事のない手紙を僕のためにわざわざ書いてくれたりして。病院の皆さんとも写真をたくさん撮りましたし。最後は寂しかったですね・・・。それから、僕の為に毎日、病院に足を運んでくれた埼玉の大親友2人には本当に感謝の気持ちで一杯ですね。「たくさんの希望をありがとう」と伝えたいです。
後:松葉杖についてはいずれ頼らなくてもよくなりそうですか?
下:はい、埼玉の先生も「君は大丈夫だよ、歩けるようになる」って言ってくれて。たぶん跳んだり走ったりといのは無理ですけど、普通に歩けるようになるとは思います。

※後援会員より注・・・下地さんは現在、長距離の移動などを除けば、ほとんど松葉杖を使っていません。

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2007/11/08

3度目の大手術を受けた下地さん。しかし、3回目となるこの時は、過去にないほどリハビリに苦労することになります。症状が胴体の下部まで及んでいたので、歩けなくなる可能性があったからです。

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後援会員(以下、後):体調が落ち着いてくるとリハビリですね。
下地(以下、下):目が覚めたのが12月の19日で、22日からリハビリが始まりましたね。リハビリの先生が来てくれたんですけど、最初は、「こんなの意味ないですよ」なんて思ってたんですよね。ところが腕を数回動かすことすら出来ない。自分でも「え?」と思いましたね。足のリハビリもやりたかったんですけど、先生には「まだ早いから」って言われて。実際には自分で動かせるのは足首だけだったんで、ずっと自分で動かしてましたね。
後:その頃は何をするのも大変だったでしょうね。
下:足のむくみが凄かったですね。太股とふくらはぎが同じくらいの太さになっていて、それが痛むので夜になっても眠れないんですよ。そしたら二人の男性看護士の方が毎日、足のマッサージしてくれて。3時間とかやってくれるんですよね。その看護士さん達にも約束したんですよ。「絶対に歩いて退院するから、お願いします」って。毎日のようにマッサージやストレッチしてくれましたね。
後:リハビリは順調でしたか?
下:フラストレーションが溜まりまくりですね。リハビリ2日目でまずは「ベッドから起きて座りましょう」って事になったのですが、起きられないんですよ。腹筋がなくなってるから。以前は腹筋を連続600回とかやったんですよ。で、体を起こしただけでめまいがしてきて、白目をむいて吐いちゃったんですよ。もう呆然として、「自分はもう終わった」と思いました。
後:リハビリの先生にもお世話になったそうですね。
下:はい、この先生じゃなければ僕は2度と歩けなかったかもしれませんね。リハビリは本来1日1回なんですが、この先生は1日2回、僕のリハビリに付き合ってくれたんですよね。
後:寝たきりの状態からのリハビリの大変さは「リアル」(※1)でも描かれていますが、本当に大変なんですね・・・。
下:3日目も起きあがったんですが、5分もすると気持ち悪くなってきて。一度横になってからまた起きあがって。そこで僕が「立ってみたいです」と言うと、先生にこう言われたんですよ。「下地さん、申し訳ないけどこれだけは言っておくよ。あなたは歩けるかどうかも分からないし、もう立てないかもしれないんだ」って。「なんスかそれ?」って思いましたね。「僕は立つし、歩くんですけど」って思って、「とりあえず立たせてください」って言いました。
後:ところが実際に立ってみると・・・。
下:感覚がないんですよ。裸足で床に立っているのに、冷たい感覚がない。自分で足を触ってみると、冷たいんですね。「もうダメだ・・・」って思って、午後からのリハビリの予定も自分で断りました。リハビリなんて意味ないんで、「もういいです」って。翌日、4日目のリハビリの時に僕が先生にこう言ったんですよ。「もうリハビリなんて意味がないからやめます」って。僕自身、相当イライラしていたんですよね。そしたら先生に初めて怒られましたね。「下地さん、何を言ってるんですか!苦しいのは自分だけだと思ってるんですか?苦しんでいるのはあんただけじゃないんですよ!」って。それで目が覚めましたね。ちょうどその時ですね、みなさんに折ってもらった万羽鶴とメッセージが届いたのは。それを見たらもう大泣きしましたね。主治医の先生も「下地さん、これだけ心配してくれる人がいるじゃないか」って言ってくれて。でも、主治医の先生は分かっていたんですよ。もう僕の足が動かないって。でも僕は絶対に歩くつもりだったんですよ。だから、万羽鶴の数が1万8000羽と聞いたので、毎日足首を1万8000回動かしましたよ。これが良かったみたいなんですよね。「動かそう」という意識が、神経に刺激を与えたみたいで。毎日、動かないなりに「動け!動け!動け!」ってやってました。これが結構苦痛なんですよ。苦痛というか、泣きたくなるんですよね。ほとんど動かないのに、こんなの意味あるんだろうかって。それでも毎日続けましたね。汗だくになって看護婦さんに怒られたりしながら(笑)。
後:そして、やっと集中治療室を出ることが出来たんですね。
下:一般病棟に行くのは不安だったんですよ。集中治療室みたいに看護婦さんとかが付きっきりじゃないんで。でも、ここでも皆さんによくしてもらって。担当の看護婦さんがいたんですけど、毎日のように同じ質問をしてましたね。「僕、大丈夫ですよね?」、「下地さんなら絶対に大丈夫だって!」って、これを毎日のように繰り返して(笑)。
後:立つことは出来たんですか?
下:5日目からですね、先生に「1日1回立たせてください」ってお願いして。「僕は必ずこれを治して、同じ症状の人に勇気を与えたいんです」って言ったら、先生も分かってくれて、リハビリに付き合ってくれましたね。その日の朝ですね、立ってみたら足の感覚があるんですよ。床が冷たいって感じる。先生に言ったら驚くんですよね。「ホントか?」、「ホントです、冷たいって感じます!」って言ったら看護婦さん達がみんな拍手してくれて。先生に「明日から歩く練習をしましょう!」って言ったら、「いや、それはさすがにまだ無理」って(笑)。
後:そりゃそうですね(笑)。
下:10日も経つと3分くらい立てるようになったんですよ。物に捕まってフラフラしながらですけどね。次は歩きたいんですけど、足が前に出ないんですよ。でも、横には動かせる。先生に、「先生、僕歩いてますよ!」って言うと、先生も驚いていて。「じゃあこれを左右5回ずつ、10回やってみよう」ということで「イチ、ニ、・・・」ってやってみたんですけど、これが疲れるんですよ。これだけで息が切れるくらいですね。
後:10日で歩けるようになったんですね・・・。
下:ところがこれが結構負担だったみたいで、次の日は高熱を出して寝込んだんですよ。僕は「なんで?」ってかなりへこんだんですけど、これが逆にいい休養になったみたいなんですよ。そこから回復のペースが上がりましたね。10分くらい立てるようになったし。お正月はリハビリも3日間お休みだったんですけど、自分でいろいろ動かしたりして。リハビリの先生も宿題を出してくれたので、それを頑張ったりしてましたね。

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※1 ・・・ 「リアル」、井上雄彦の描く車いすバスケット漫画。障害者を取り巻く厳しい環境や、リハビリの過酷さなどが克明に描かれている。

2007/11/06

トップチームのアシスタントコーチとなり、指導者として更なるステップアップを重ねる下地さん。ところが、またしても下地さんは生死の狭間をさまようことになります。下地さんにとって3度目の発症は、過去にない苦しみを伴うものでした。

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後援会員(以下、後):そして、3度目の発症はチームに帯同していた所沢で。11月18日の事でした(2006年)。
下地(以下、下):今回は自分でもヤバイと思いましたね。前回と痛みが全然違うんですよ。激震ですね。胸もお腹も背中も痛いし、耳鳴りもする。「なんだこれは?俺、死ぬんちゃうか?」と思いました。自分でホテルのロビー行って救急車呼んで、平岡さんと圓山さん(※1)に連絡して、「チームには絶対に話さないでくれ」と伝えて。圓山さんに付き添ってもらって病院まで搬送されたんですが、痛みが痛みなんで冷静に考えられないんですよね。もう覚悟決めて「俺、もうダメだな・・・」なんて思ったんですけど、一方では、「いや、俺には運が付いているから大丈夫かもしれない」とか思ったり。で、いろいろと検査してもらうと、「これはもう大変だ」という状態らしくて。話を聞くと、「もう歩けなくなるかもしれない」と。先生に「治りますよね?」と聞いても「いや、分からない」。「命は助かりますよね?」と聞いても「いや、分からない」としか言ってくれない。「たぶん大手術になるから、覚悟はしておいてくれ」と言われました。
後:中野社長(当時)も駆けつけてくれたとか。
下:中野さんは泣きながら、「心配するな、俺が全部面倒見るから」って言ってくれましたね。手術室に運ばれると時に、僕は中野社長にVサインしながら笑顔で運ばれいったんですよ、「また会いましょう」って。でも、いざ麻酔をかけるときになると、麻酔が効かないんですよ。もう怖いんですよ、今回ばっかりは自分でもヤバイって感じているんですね。このまま2度と目が覚めないかもしれないって思うと、眠れないんですよ。先生に「麻酔のかかりが悪い」って言われたんですけど、自分では「そうだろうな~」って思ってましたね。それでも徐々に麻酔が効いてきて・・・そこからは覚えてないです。
後:今回の手術は15~16時間に及んだそうですね。
下:はい。で、僕自身は3日しか寝てないと思ってたんですよ。今回は自分がアシスタントコーチなんで、早くチームに戻ってみんなに教えたくてしょうがないんですよね。早く退院して復帰することしか考えてなかったんですよ。でも、目が覚めると何かおかしいんですよ。「今日は何日ですか?」と聞いてみたら、「12月19日」って言うんですね。「はぁ?」と思ってもう1回聞いても、「12月19日だよ」って。「僕が入院したのいつでしたっけ?」と訪ねると、「11月の19日だね」って。「僕は1ヶ月も寝てたんですか!」って。
後:その間も大変だったみたいですね。
下:僕は覚えてないんですけど、昏睡状態の時にかなり暴れてたらしいんですよ。それで、人工呼吸器を外さないように手足を縛られて・・・。これは目の覚める2日くらい前の話なんですけど、その時も凄く暴れたらしくて、看護婦さんが僕を押さえつけながら「下地さん!あんた死んでもいいの!」って怒鳴りつけたそうなんですよ。目が覚めた後にその話を看護婦さんから聞いたんですけど、僕もなんか怒られたの覚えてたんですよね(笑)。
後:深層意識の中に残ってたんですかね。
下:目が覚めた後はとにかく体が動かないんですよ。タンも自分で取れないし、特に足が全然動かなくて。自分でも「情けないな~」って思ってました。自分で動けないからストレスもたまるし、僕は時間つぶすのとか大っ嫌いなんですけど何も出来ないし、もう自暴自棄になってバスケもやめようかと思ったりしましたね。

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※1 ・・・ 圓山剛、新潟県出身。設立当初から新潟アルビレックスBBのトレーナーを努める。1967年9月1日生まれ。

2007/11/03

A2では着々と実績を残してきたた下地さん。そんな下地さんに、ステップアップの時が訪れました。トップチームのベンチ入りです。

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後援会員(以下、後):翌シーズンはA2のメンバーも少なくなり、下地さんはスクールとA2という兼務が続いた訳ですが、その次の年から正式にアシスタントコーチとしてアルビBBのベンチに入ることになりました。
下地(以下、下):アルビに来た最初は廣瀬さんとあまり接する機会がなかったんですけど、徐々に話すようになっていて、廣瀬さんにも「下地は自分と違った考え方を持っている」って伝わってきたと思うんですよね。廣瀬さんは自分でも言っているんですけど、熱くなると視野が狭くなってしまう。そんな時に必要なのは「はい、そうですね」と言うことではなくて、きちんと自分の意見を言ってくれる事だと言うんですね。僕はベンチではお客さんというか、第三者としての客観的な視点を忘れないようにしているんですよ。だから廣瀬さんも受け入れてくれて、延々と話し合うことも多いですね。そういったきっかけから廣瀬さんに声をかけられて、アシスタントしてベンチに入ることになりました。前後してニックを教えていたというのもありますね。
後:実際には、廣瀬さんの他にアシスタントコーチとして浦上さん(※1)、平岡さんの両氏がすでにベンチ入りしていた訳ですよね。
下:なので、アシスタントコーチになる前は自分でも考えましたね。でも、ベンチに入ってすぐに思ったのは、遠慮する必要はないなって事ですね。選手達にも自分の思ったことはどんどん伝えていきました。もちろん浦上さんにも平岡さんにも、そして自分にもいい所はあると思うんですよ。それをそれぞれ出していけばいいし、ただ、考え方は統一させておかないといけないから、意見はしっかり聞いて自分の中でまとめておこうと思いました。いい連携が取れていたと思いますよ。
後:下地さんは外国人選手の指導にも熱心でしたね。
下:はい、廣瀬さんには「今年はニックを見させてください」と言いました。ニックも最初は半信半疑なんですよ。でも、練習を重ねていくうちにだんだん自分で気づくんですね。「俺、こんな事できたっけ?」って。それからですね、ニックから「シモジ!」って声をかけてくれるようになって。マット(※2)やジャック(※3)も含めて、シーズン前半はみんなで練習してましたね。

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※1 ・・・ 浦上幸二郎、新潟県出身。新潟工業高校から順天堂大学へ。日本リーグの住友金属でプレー。2004年から新潟アルビレックスのアシスタントコーチを努める。1968年3月19日生まれ。

※2 ・・・ マット・ギャリソン、ミネソタ出身。バイオラ大学の出身で、卒業後はアメリカマイナーリーグの他、オーストラリアNBLなどでもプレー。2004年、ニック・デービスと同時に新潟アルビレックスに入団した。正確なアウトサイドシュートが武器だが、チームを引っ張るメンタルの強さもある。来日して4年目となる今季も新潟アルビレックスBBでのプレーする。彼の外向的な性格はアメリカ国内を点々とした少年時代に由来していると自身が語っており、新潟でもその人柄の良さからファンが多い。1973年7月5日生まれ。身長203センチ。

※3 ・・・ ジャック・ハートマン、アメリカ出身。マットと同じバイオラ大学出身で、マットの後輩にあたる。2005年はbjリーグ大分ヒートデビルズでプレーしたが、2006年から新潟アルビレックスBBに入団したアスレティックなフォワード。マット同様に明るい性格で、バイオラコンビとしてチームメイトにいたずらをすること多数。多く場合、その被害者はチーム最年少である佐藤公威だった。1975年10月3日生まれ。208センチ。

2007/11/01

A2の道のりは決して平坦ではありませんでした。しかし、その苦労は最後になってついに報われます。そして、それを掴み取ったのは、間違いなく彼ら自身の努力でした。

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下地(以下、下):屈辱はこの次ですね。クラブ選手権の北信越大会決勝、富山グラウジーズ戦(※1)での敗戦です。これは言い訳しません。勝つつもりだったし、この試合のために準備してきただけに、あの点差で負けたのは自分自身もへこみましたね(69-98で敗戦)。吉田(※2)も寺下(※3)も水町(※ 4)も大輔(※5)もみんなよく戦ってくれたんですが、誤算は須貝(※6)でしたね。彼は戦うことが出来なかった。酒匂(※7)にあれだけやられましたからね。試合後、彼は泣いていたんですけど、彼にはこう言いましたよ。「今は泣いてもいい。いずれこの成果は出るから。でも、絶対に見返りを求めるな。人は見返りを求めたらうまくいかないから。それを絶対に忘れるな」って。
後援会員(以下、後):約1ヶ月後、全国クラブチーム選手権の全国大会が東京体育館で開催されました。
下:ここまでの準備期間もしばらくあったんですが、この頃には僕もあまり怒らなくなってましたね。笑う機会が増えたというか。彼らにも僕の気持ちが通じてきたと思うんですよね。僕は、彼らが上手くなったのは彼ら自身の努力だと思うんですよ。僕は確かに教えたけど、お前らが頑張ったからここまで上手くなったんだろう、と。
後:トーナメントを見ると、2回戦でファミリー・テンス(※8)が。前年度のクラブ選手権全国大会(三重県)で1点差で敗れている相手ですね。
下:これは1回戦をクリアしないとだな、と思いましたね。しかし1回戦で当たる松江工業クラブ(※9)は伝統あるチームだし、サイズはないけど粘り強いバスケをやる。しかもA2のメンバーは当日に自家用車で新潟から移動してくるから、これは手こずるなと思いましたね。
後:この試合は全く体が動いてませんでしたよね。
下:これは檄を飛ばして気合いでやるしかなかったですね(笑)。そうでもしないと体が動かないなと思ったので、試合中はず~っと怒鳴り続けてました。僕はこの大会は優勝するチャンスがあると思ってたんですよ。でも怖かったのはこの1回戦だけですね。どんな選手も初戦ってのは緊張するし。
後:案の定、ハーフでビハインド(笑)。
下:こりゃマズイな~と(笑)。この時だけは言いました、「ここは勝たないとダメだ、ここで勝たないと次はないぞ!」って。そして「ここで頑張らないとお前ら、成長するチャンスを失うことになるんだぞ!」って言ったら、彼らは「あ、そうだ!」って(笑)。ここから踏ん張って、なんとか勝ってくれましたね。この日はこの1試合だけでしたけど、もし2試合あったら負けていたかもしれません(笑)。
後:この試合だけ見ると、なんだかな~って感じでしたからね。
下:ホテルに帰って選手と試合のビデオを見ながら「お前ら、やれって言われたこと出来てるか?」って聞いたら、みんな「いや~・・・」って感じで。なのでこの日は早く寝かせましたね。翌朝は早めに起きてみんなで散歩して、いいムードで試合を迎えられたと思います。
後:そして2回戦はファミリー・テンスとのリベンジマッチ。
下:僕は絶対に負ける気はしなかったですね。だから普通に、いつもどおりにやれって言いましたね。ここで成長したければ遠慮するなよって。そして、思い切ってやってくれたのが水町でしたね。前半から大きくリードして勝ちましたからね(99-62で勝利)。すると彼らは調子に乗るわけですよ。「俺たち強いんじゃないか?」って。だからこう言ったんですよね、「お前らは強いんじゃなくて、上手くなったんだ」って。「お前らスーパーリーグとか日本リーグのチームとやったら間違いなくボロ負けするんだよ。でもファミテンだって、少なくとも関東の大学でプレイしていた選手がいるんだから、お前らはそれだけ上手くなったんだよ、だから次も大丈夫だよ」って言ってやりましたね。
後:3回戦は青森の鶴田クラブ(※10)です。
下:予想通り苦戦しましたけど、勝てましたね。この試合は大輔に助けられて。大輔はファミテンの試合は全然ダメで、一人だけ取り残されたみたいになってたんですよ。だから大輔に「お前は元々固いんだから、固くなる必要ないだろ?」って言ったら、「あ、そうッスね」って笑ってくれて。この試合はリラックスしてのびのびやってくれましたね。試合も楽しめたし。だからその夜はみんな笑顔でしたね。みんなで風呂入って。「いや~、下地さん、嬉しいッス。去年は1回戦負けだったのに。明日が楽しみです」って言うから、「お前ら明日の何が楽しみだ?」って聞いたんですよ。そしたら「バスケです」って答えるので、これはもう大丈夫だと思いましたね。
後:しかし大会最終日の3日目、準決勝で対戦するのはエクセレンス(※11)です。
下:正直言って、勝てないと思いましたね。大西(※12)がいて、稲野辺さんがいて、ワイス団(※13)ですからね。強いんですよ。でも前の晩、僕は寝ないで彼らが力が発揮できるようにずっと考えていたんですよ。相手がこう来たらこうしよう、と。試合は一進一退だったんですけど、なんとかうちのディフェンスが機能してくれて、最後は10点差で勝つことが出来ました(68-58)。この時は優勝したみたいに嬉しかったですね。いい試合でした。
後:決勝は福太郎クラブ(※14)ですが、須貝選手がすでに手首を痛めてましたね・・・。
下:もうやれる選手でやれるだけやろうって感じでしたね。須貝はボールを握れない、キャッチできないって状態だったので(後の検査の結果、彼の手首は骨折していました)。でも、もし須貝が元気だったら十分勝てたと思いますよ。須貝なら三友(※15)を抑えられたと思うし。なんと言っても竹田謙(※16)を8点に抑えた男ですからね(笑)。
後:ハーフではリードしてたんですよね。
下:いい試合でしたけど、実質A2は全員で8人しかいませんでしたからね・・・。8人で5試合は相当、ハードだったと思います。
後:最終的にA2はクラブチーム全国2位という結果を残したんですが、正直に言うと、最初にこのメンバーを見たときにこの結果は予想できましたか?
下:いや、思ったより上でしたね。ここまでやってくれると思いませんでした。僕にとって嬉しかったのは、彼ら自身が「真剣に取り組む」という事に気づいてくれた事ですね。僕はそのきっかけを与えはしましたけど、実際にやったのは彼らですから。

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※1 ・・・ 現在はbjリーグに所属する富山グラウジーズだが、その前身は2000年の富山国体に向けて強化された同名のクラブチーム。富山国体で優勝し、その後も北信越地区では圧倒的な力を誇っていた。クラブ選手権で全国制覇の実績もあり(第29回沖縄大会)、bjリーグ加入初年度の富山グラウジーズでプレーした石橋貴俊(北海道出身、ジャパンエナジーや全日本選手としても活躍。身長210センチ)と黒田祐は同クラブチームからのメンバー。

※2 ・・・ 吉田平、大阪府出身。初芝橋本高校から大阪産業大学へ。トライアウトで新潟アルビレックスBBのA2でプレーした後、bjリーグドラフトで仙台89ersに指名される。今季は琉球ゴールデンキングスに移籍。1981年5月21日生まれ。身長190センチ。

※3 ・・・ 寺下太基、和歌山県出身。和歌山工業から大阪産業大学へ。卒業後、JBL松下電器で1年プレーした後、新潟アルビレックスのトライアウトを受ける。A2で2年のプレー後、トップチーム入り。1980年2月25日生まれ。身長190センチ。

※4 ・・・ 水町亮介、佐賀県出身。学習院大学卒業後、新潟アルビレックスA2に入団。1年後、bjリーグのドラフトを経て大分ヒートデビルズへ。1981年9月10日生まれ。身長185センチ。ニックネームはA2時代にチームメイトに付けられた「まっちょ」。

※5 ・・・ 田村大輔、大阪府出身。北陽高校から大阪体育大学へ。卒業後、新潟アルビレックスのトライアウトを受験し、A2として2年間プレーした。現大阪エヴェッサ。1981年1月22日生まれ。身長181センチ。

※6 ・・・ 須貝智、新潟県出身。新潟大学卒業後、A2で2年間プレーした。現在は新潟県内のクラブチームでプレーするが、新潟県の青年国体メンバーでもある。1980年9月25日生まれ。身長180センチ。

※7 ・・・ 酒匂博臣、日本体育大学出身のシューター。当時のグラウジーズはインサイドの石橋、アウトサイドの酒匂が両エースとも言える存在だった。身長182センチ。

※8 ・・・ ファミリー・テンス、東京都代表のクラブチーム。

※9 ・・・ 松江工業クラブ。島根県代表のクラブチーム。

※10 ・・・ 青森県代表のクラブチーム。当時は長谷川聖(193センチ。その後bjリーグの埼玉ブロンコスでプレーし、今季はJBL2栃木へ移籍)が在籍していた。

※11 ・・・ NPO社団法人エミネクロススポーツワールド(代表:辻秀一)のトップチーム、エクセレンス。東京都のチームだが、同大会は開催地枠として出場。

※12 ・・・ 大西裕之、東京都出身。国立高校から電気通信大学。エクセレンスでプレー後、bjリーグドラフトを経て仙台89ersでプレー。今季からJBLレラカムイ北海道。1981年9月2日生まれ。身長195センチ。

※13 ・・・ ワイス団、カリフォルニア出身。1996年には日本国籍に帰化し、トヨタ自動車などでプレーする他、全日本選手としても活躍した。1966年2月28日生まれ。身長206センチ。

※14 ・・・ 福太郎クラブ、福岡県。三友康平らを擁し、同年のクラブ選手権で優勝した。

※15 ・・・ 三友康平、福岡県出身。鞍手高校から鹿屋体育大へ。福太郎クラブでプレー後、bjリーグ大分ヒートデビルズにドラフト指名される。1980年3月19日生まれ。身長179センチ。

※16 ・・・ 竹田謙。國學院久我山高校から青山学院大学へ。卒業後は日本リーグの東京海上でプレーしたが、新潟アルビレックスのトライアウトを経て同チームへ入団。現在はJBLパナソニック。1978年10月5日生まれ。身長187センチ。文中の「8点に抑えた」というのは、アルビトップチームとA2の練習試合での事だそうです。

2007/10/30

たとえ子供達が相手であっても、誰が相手であっても、真剣に向き合う。下地さんのそんなスタンスは、若き挑戦者達であるA2の選手に対しても何ら変わりませんでした。

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後援会員(以下、後):その「真剣に向き合う」という意味では、A2に対するスタンスに共通のものがあるような感じがしますね。
下地(以下、下):そうですね、彼らも最初は挨拶さえ出来なかったんですよ。練習で使う体育館は厚意で使わせてもらったんですけど、練習前と練習の後に、選手と全員で先生に挨拶に行くんですよ。毎回、必ずですね。最初なんてみんな、「なんでこんな事を」って顔してたんですよ。本人達はそう思ってないかもしれませんけど。でもそれを半年続け、そして1年経ったら、もう逆なんですよ。自分達から挨拶行くようになりましたから。そしたらその先生も言ってくれたんですよね、「下地さん、最初はあんな顔してた選手達が、ここまで変わったんですね」って。あいつらには厳しく接してきましたけど、それくらいしないと分からないと思うんですよね。よく「1年」って言いますけど、彼らと僕が実際に接している時間はせいぜい1日数時間、そのうち直接その選手と話しているのなんて数分ですよ。だからこそ、その中でいかに真剣になれるかなんですよね。だから僕はあんなに怒るし、褒めるときは褒めるし、「この一瞬を大切にしろ」って言ってきたんですよ。最初なんかゴミもちゃんと捨てられなかったんですよ。お前ら今まで何を教わってきたんだ、と(笑)。
後:私もA2の試合は何試合か見させてもらいましたけど、下地さんのスタンスはいつも同じでしたね。常に真剣に、全力を尽くす。
下:その積み重ねが2年目のA2、県選手権(※1)の決勝で出たと思うんですよね。
後:新潟教員戦(※2)ですね。
下:僕はこの大会では勝てないと思ってたんですよ。むしろ、勝たなくていいと。確かに勝つことは大切だけど、僕に求められているのは彼らを育てることであって。もし勝つだけであれば、もっといろんなフォーメーションを考える事が出来たけど、でも、彼らの能力をいかに発揮させるかを考えているから、複雑なフォーメーションは作らなかったんです。フォーメーションに関して言えば、たくさんノウハウはあるんですよ。ジェリコにしても和さんにしても、今まで私が学んだ事は全て手元にまとめてありましたから。でも、それをやったがために彼らの能力を発揮できなかったら意味がないんですよ。もちろん、あるフォーメーションの中で彼等自身が自分の力を最大限に発揮してくれることが理想なんですが、それはまだ彼らのレベルでは難しいんですね。だから、彼らの能力を発揮できるようなシンプルなフォーメーションにするんですよ。
後:試合をする以上、勝つか負けるかは避けて通れない話ですもんね。
下:これは僕の考え方なんですが、スポーツというのは勝つか負けるか分からないから面白いと思うんですよね。どうなるか分からない、目に見えない紙一重の戦いがあるから面白いんじゃないかと。ブースターやファンだけでなく、コーチだってドキドキする。これがスポーツの面白さだと思うんです。でも、今はこの考え方が少し変わってきている部分があると思うんですよね。「勝たなければいけない」、「プロなんだから勝って当たり前」だって。でも、やるのは人間じゃないですか。人間だからこそ、このドキドキ感を味わうことが出来ると思うんですよね。もちろん結果として勝てば最高ですが、負けても最高って言える事があると思うんですよね。たとえ負けたって、そこにも財産はあるわけだから。だから僕は一概に「勝つことが全て」とは思わないし、だからこそ、この一瞬、1分、1秒を大事にしたいんですよね。これこそが、スポーツの面白さじゃないかと思うんですよ。
後:新潟教員戦、確かに苦戦が予想されました。
下:準決勝の新潟工短戦(※3)にも苦戦していたし、たぶん勝てないだろう、と。「でも、俺はお前らがどれだけやれるかが見たいし、ドキドキ感を味わいたいよ」と選手達には言いましたね。そしたら彼らは・・・たぶん勝つつもりで行ったんでしょうね。最初ガチガチになってしまって。マコ(※4)は分かってたと思うんですけどね。だからハーフタイムに怒りましたよ。「お前らいいよ、責任は俺が取るから。勝たなくていいから。お前ら一流になりたいんだろ?トッププレイヤーになりたいんだろう?なら思い切って自分を出してこい!」って。失礼かも知れませんが、彼らは三流なんですよ。たとえトップチームに入ったとしても、一流とは限らないですよ。その三流の選手達に勝ちを求めたら、絶対に勝てる訳がないですから。結果、彼らの後半のプレーは変わったんですよね。戦術的な事じゃないですよ。だから点差もあそこまで迫ったし。結果、試合には負けましたけど、彼らは自分たちを見つめ直すことが出来たんですよ。
後:後半の追い上げは凄かったですよね。
下:その試合の翌日から1週間、練習を休みにしたんですよ。これはわざとなんですけどね。でも、彼らは翌日から練習やりたいって言ってたんですよ。それは、彼らが上手くなっている事を実感していたからだと思うんですよね。でも、敢えて1週間休みにして、後で聞いたら、やっぱりみんな練習してたんですよ。それを聞いたら、「こいつらは絶対に逞しくなる」って思いましたね。
後:みんなバスケに飢えていたんですね。
下:練習を再開してからの1週間は徹底的にやりましたね。今また教員とやれば勝てる。でも、この時はとにかく追い込みましたね。もうボロボロの状態で、新潟商業(※ 5)と練習試合して負けたんですよ。でも、それは負けていい、と。選手達はみんなフラストレーション溜まりまくりですよ。だから選手に言いましたよ。「お前らは今、上手くなってるんだよ。あと2ヶ月待ってみろ。凄いことになるから見てろ」って。ここからまた徹底的に基礎を教え込みましたね。体力はついていたから、その次にテクニックの使い方ですね。
後:次は・・・クラブ選手権の県大会。これは優勝しましたね。
下:ずっと練習は続いてたんですけど、僕としてはこの大会だけに焦点を絞っていた訳じゃないので、「点差に関係なく思い切ってやれ」って言ってたんですよ。試合内容に関係なく徹底的に走らせて。その時、廣瀬さんと「これが終わったら、正月にトップチームとA2で練習試合をやろう」という話になったんですよ。前の年は60~70点差で負けていたことを聞いていたので、今回の試合がとても楽しみでしたね。そしたら、今回は20点差ですよ。選手達は半信半疑ですよね。ここでまた1週間の休みですね。ここで練習すると彼らは天狗になるから。敢えて、自主性を与えてみました。
後:その意味では、彼らも順調に育ってきた訳ですね。

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※1 ・・・ 当時のA2には大きな目標が2つあった。1つは新潟県バスケットボール選手権を勝ち抜いて、全日本総合選手権大会(オールジャパン)に出場すること。もう1つは、同じく新潟県のクラブ選手権を勝ち抜き、全国クラブバスケットボール選手権大会で優勝すること。

※2 ・・・ 新潟県においては、優秀な選手が大学卒業後に教員として県内に戻ってくる事が多いので、教員チームが常に優勝候補の一角を占める。

※3 ・・・ 新潟工業短期大学。短期大学ながら、北信越地区では常にトップクラスの成績を残す強豪校。短大として唯一、インカレに出場した実績がある。新潟アルビレックスBBの佐藤公威の出身校。

※4 ・・・ 喜多誠、奈良県出身。大商学園高校から大阪商業大学へ。卒業後、日本リーグのデンソー、豊田通商でプレー。2004年、新潟アルビレックスのトライアウトを経てA2入り。その後、bjリーグドラフトで高松ファイブアローズに指名される。1978年2月15日生まれ、身長169センチ。

※5 ・・・・ 新潟商業高等学校。新潟県を代表するバスケットの強豪校。1999年にはインターハイで優勝。同校の出身選手としては、池田雄一(新潟アルビレックスBB)、日下光(仙台89ers)らがいる。

2007/10/27

ジェリコの下でコーチングを学んだ1年はあっという間に過ぎ、下地さん自身はしばらくバスケから離れようと考えていたようです。ところが、思いがけない人から連絡が来ます。それは、大学の先輩からの電話でした。

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後援会員(以下、後):全日本の一員として働いた1年も一段落し、その後はどうしたんですか?
下地(以下、下):実は沖縄に帰ったんですよ。もう一生、沖縄で暮らそうかと思って。安里先生と一緒にバスケ教えながら、半年くらいかな、いろいろ調べたりしてたんですよね。普通に就職して、高校生にバスケ教えるだけでもいいかなって。その時に声をかけてもらったのが中央大の先輩でもある岐津さんです(※ 1)。
後:ここでアルビと繋がる訳ですね。
下:岐津さんに「スクールやってみないか?」と言われて、「子供たちか、面白そうだな」って思ったんですけど、聞いてみたら対象が年中さんからなんですよ。よく考えてみたらこれは難しいぞ、と。それまでクリニックとかはやった事ありましたけど、そんなに小さい子には教えたことなかったし。でも、教えるのは大変そうだけど、子供たちなら大丈夫かなと思って決めましたね。で、翌日には新潟に行きました(笑)。新潟に行ってみたら「A2(※2)というチームがあるから、こいつらにも教えてもらえないか?」って言われたんですよね。
後:A2についてはご存じでしたか?
下:聞いてはいましたが、詳しい話は知りませんでしたね。そういった夢を追いかけている若者達がいるというのは。なので、スクールとA2と両方を教えることになりました。
後:スクールで子供達に教えるというのは、実際にやってみてどうでしたか?
下:最初は凄く大変でしたね・・・。戸惑いましたし。子供達というのはとても純粋で素直だし、好き嫌いが激しいんですよね。で、子供達の立場で考えようと思って、私が最初にやったのは子供達の名前を全部覚えることですね。スクールの子供達の名簿を見て、全部覚えました。でも、初めてスクールに行った時は「うわ~、こりゃ俺には無理だな」って思いましたよ。最初はすべてが手探り状態でしたね。子供達に伝えることが出来なかったんで。「これじゃあかんな、子供の事を本当に考えてあげないと」と思って、やっと慣れてきたのは1ヶ月くらいしてからですかね。子供達も僕のことを「しもコーチ」って呼んでくれるようになったし、僕も真剣でしたね。相手が子供でも怒るし、泣かせるし、褒めるし。子供でもダメなものはダメって言いました。生徒の親御さん達にも一人一人挨拶しましたね。今回、埼玉で倒れたときもスクール生のみんなから寄せ書きが来て、写真や手紙もいっぱい頂いたんですよね。ホントに嬉しくてありがたくて、頭が上がらない思いでしたね。なので、スクール生280数人全員に色紙を書きましたね。一人一人全部コメント書いて。それが終わるまでは廣瀬さんHCにもチームの話は待ってくれって言ったくらいで。みんなに気持ちが伝わっているって思うと凄く嬉しかったですね。だから、新潟に来て自分にとって一番大きかったのは、こうやって子供達と接して、親御さん達と接して、そしてA2の若い選手達と接して・・・これら全てのおかげで、今の自分があるのかな、と。この出会いがなければ自分はここまで変わってなかったと思いますよ。
後:子供達と接していく時に、下地さんが一番大切にしていたことは何ですか?バスケを通して何を教えようとしていましたか?
下:そうですね、やはり1番大事なのは、「真剣になれるかどうか」だと思うんですよ。怒ることも真剣に、褒めることも真剣に。そして、子供達だからどうしても「私が、私が」ってなってしまうんですよね。でも、その気持ちを全部受け止めてあげてあげないと子供達はついてこないと思うんですよ。もしかしたら、親御さんにとっては「下地さん、厳しすぎるんじゃないですか?」と思うかもしれませんけど、実際、怒られて僕のことを嫌いになった子はいないし、次の週にはもっと好きになってくれるんですよ。子供だから分からない、子供だから感じないんじゃなくて、子供だからこそ感じることがあると思うんですよね。大人だと変なしがらみがあったりしますけど、子供だからこそ「本当に怒ってくれているんだ」って感じてくれると思うんですよね。だから、怒ってスクールの生徒を泣かせたことは何回もあるし、その代わり、帰りには必ず「今日のことは忘れるなよ」ってきちんと声をかけたし。やはり中途半端に怒ると敏感な子供は直ぐに分かると思うんですよ、真剣さが。大人でも子供でも関係なく、同じ人間として接してあげること。真剣に向き合うことですね。

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1997年5月5日、拓殖大学戦での下地さん

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※1 ・・・ 岐津知平、福井県出身。北陸高校時代は庄司和広と同期。その後、中央大学へ。卒業後、大和証券バスケットボール部のマネージャーを務めていたが、同チームの廃部から新潟への譲渡、そして日本初となるプロバスケットボールチームの設立に河内敏光、廣瀬昌也らと尽力する。アルビレックス新潟(Jリーグ)の池田弘とプロバスケチーム設立のきっかけを作った張本人。新潟アルビレックスではチーム運営でも常に最前線に立つなど活躍してきたが、2006年からは同じbjリーグの埼玉ブロンコスへ。現在は同チームのGM補佐を務める。1974年6月28日生まれ。

※2 ・・・ 新潟アルビレックスのサテライトチーム、通称A2。このチームの出身者には寺下太基(新潟アルビレックスBB)、勝又英樹(仙台 89ers)、吉田平(琉球ゴールデンキングス)、田村大輔(大阪エヴェッサ)、水町亮介(大分ヒートデビルズ)、喜多誠(高松ファイブアローズ)らがいる。

2007/10/25

選手としての道が完全に絶たれてしまった下地さん。結局、OSGでの3年目のシーズンはアシスタントコーチとしてベンチに入ることになります。その後、下地さんのコーチとしてのキャリアに転機が訪れます。それは、世界トップレベルのコーチングを学ぶという事でした。

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後援会員(以下、後):結局、下地さんはこの3年目のシーズンが終わった後にOSGを去る事になるのですが、それは、全日本のアシスタントコーチとしてジェリコ・パブリセビッチヘッドコーチ(※1)の元に行くのと時を同じくしていますね。これはどういった経緯だったのでしょうか?
下地(以下、下):これも話すと長くなるんですけどね。最初、佐藤久夫先生(※2)がジェリコの下でアシスタントをやっていたみたいなんですけど、佐藤先生くらいのキャリアだと間違いなくヘッドコーチですよね。そこで佐藤先生から電話がかかってきて、「下地。お前、全日本でやらないか?」って。僕は最初、高校生だと思ったんですよ。ジュニアで佐藤先生にいろいろ教えてもらうのもいいな、と。ところが聞いてみたらナショナルチームなんですよね。「え?ナショナルなんて無理に決まってるじゃないですか!」って思ったんですけど、「いいから来てみろ」って言われて。で、メンバー表を見てみると、先輩では古田さんや節政さん、あとは直人や青野やイートンとか、知っている選手ばっかりなんですよ。だから、最初は「俺なんて何も出来ない」と思ったんですけど、逆に「彼らなら俺の事も理解してくれるかもしれない」とも思えたんですよね。
後:全日本の一員として活動するとなると、OSGとの兼ね合いがいろいろ出てくるわけですよね・・・。
下:そうなんです。会社でもいろんな意見があったんですよね。ごく普通のサラリーマンが全日本のアシスタントコーチになるってのは凄い事だし、でも、なぜそこまで社員がバスケのために会社以外で時間を費やすのかというのもあって。で、会社でも結構もめたし、私もこれ以上会社に迷惑かけたくなかったんで、退社することにしたんですよ。
後:そこから1年間、全日本チームの一員として活動した訳ですね。
下:はい、ジェリコには感謝してますね。ジェリコは凄いですよ、僕よりもっとしゃべりますから(笑)。6時間でも7時間でも延々と話し続けますからね。
後:日本やアジアのバスケ、そしてアメリカのバスケにはそれまでにも接したことはあったと思いますが、下地さんにとってもヨーロッパのバスケというのは初めての体験だったと思います。ジェリコから学ぶヨーロッパ流のバスケにはどんな印象を受けましたか?
下:緻密ですね。よく考えられているというか。アメリカのバスケはどうしても最初に「能力」の部分があると思うんですよね。でも、ヨーロッパの選手はそれほど能力がないから、だからこそ細かくいろんな事を考えているんですよ。ジェリコも細かい性格してますからね。
後:そんな感じですよね(笑)。
下:たとえば試合に負けるじゃないですか。練習試合でもいいですけど、選手が情けないプレーをしたら、食事を取らないんですよ。3時間も4時間も。そして、ずっと選手をにらみ続けてるんですよ。
後:それはまた・・・(笑)。
下:ジェリコは喜怒哀楽がはっきりしているんですが、そんな時は怒りにふるえてるんですね。ジェリコと同じテーブルにいる僕らスタッフも食べられないんですよ。ずっと無言で。この無言というのがまたキツイんですよね。クロアチアとか食べ物が美味しいのに。生ハムとか。あ、トレーナーさんとかは食べますけどね。選手にマッサージしなきゃいけないんで。
後:ジェリコといえば同じクロアチアのオシム監督と似ているという話を聞きますが。
下:似てますね、そのものですよ。理屈っぽい部分があるし、よく「あなたはどう思いますか?」と聞いてきますからね。僕ははっきり自分の意見を言いましたけどね。だからジェリコにも可愛がってもらいましたし、「下地は若いのに自分の意見をしっかり持っている」って言ってもらいましたね。
後:下地さんは誰が相手でもはっきり言うんですね(笑)。
下:はい。だから僕もジェリコに自分の気持ちをよくぶつけていましたね。ジェリコもその気持ちに、本当に親身になって応えてくれました。
後:ジェリコとのコミュニケーションは英語なんですか?
下:クロアチア語なんで通訳さんですね。あと、ジェリコはクロアチア語、スペイン語、ドイツ語、英語とか話せるし、地元じゃ会社の社長やってますからね。頭いいし、賢いんですよ。セルビア・モンテネグロに行った時は過去の紛争について詳しく教えてくれましたし、もちろんバスケについても多くのことを学びましたね。私自身、ジェリコと過ごしたおかげで自分自身が変われたような気がしますね。人としての生き方というか、人のありがたみを教えてもらったと思うし。ジェリコとの時間は本当に楽しかったですね。
後:ジェリコとの印象的なエピソードはありますか?
下:そうですね・・・。全日本とアルビが新潟で試合をやりましたよね?
後:えーと、2003年の9月ですね。新潟市体育館で2試合やりました。
下:その時、僕は試合に行かなかったんですよ。というのは、メンバーと一緒に新潟に到着したその日に、ジェリコが「下地さん、フィリピンで大会があるので、偵察に行って来てください」って。新潟に到着して、ホテルに着いてすぐにですよ(笑)。
後:罰ゲームみたいですね(笑)。
下:「今からですか?」、「はい、今からです」って、アホかと(爆笑)。僕はそのまま東京に戻って、次の日からフィリピンに行って1週間ず~っと偵察ですよ。ま、これもジェリコならではですかね。
後:ある意味「プロ」ですね(笑)。
下:クロアチア遠征から戻ってすぐにスペイン合宿にも行きましたね。あの時は相手にガソルとバルボザ(※3)がいたんですよ。試合は凄いですよ、94対31だったかな。もう話にならないですね。そしたらジェリコは激ギレでしたね(笑)。
後:それは相手がねぇ(笑)。
下:あと、ジェリコはヨーロッパじゃ有名人だし、もう英雄なんですよ。クロアチアを優勝させた名将なんで。ジェリコが来ただけでテレビ局は来るわ新聞社は来るは、新聞には1面に載るわ全日本の記事だけで3面も載るわ。
後:思ってた以上に凄い人なんですね・・・。
下:ジェリコにはいろんな事を教えてもらったし、感謝していますよ。僕自身も全日本メンバーにはいろんな事を伝えましたし。直人にしても青野にしてもイートンにしても。山田大治(※4)にしても五十嵐圭にしてもそうだし、柏倉(※5)なんかもそうですね。カッシーとは仲がいいんですよ。よくこの頃の思い出話するし。この時の直人とのエピソードはいっぱいあるんですよ~。

※後援会員より注・・・ここから下地さんと仲村直人の楽しい話がしばらく続くのですが、割愛させていただきます。お二人ともお酒大好きなんですね~(笑)。

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※1 ・・・ 佐藤久夫、宮城県出身。16年間に渡って指揮した仙台高校のキャリアの中で3度の全国制覇を達成し、その後、全日本ジュニアの指導など日本バスケの強化に専念。現在は仙台の明成高校で監督を務める。

※2 ・・・ ジェリコ・パブリセビッチ、クロアチア出身。若くしてコーチとしてのキャリアをスタートさせ、NBAシカゴなどで活躍したトニー・クーコッチを育てた事で知られる。ヨーロッパでは英雄的な実績を残し、2003年から全日本男子ナショナルチームの指揮を執る。2006年、初の地元開催となった世界選手権日本大会でグループリーグ(予選リーグ)を突破できず、その後解任された。1951年3月23日生まれ。

※3 ・・・ パウ・ガソルとレアンドロ・バルボザ。いずれもNBAで活躍するスペイン出身のバスケット選手。

※4 ・・・ 山田大治、大阪府出身。大阪高校から日本大学へ。その後はトヨタ自動車、今季よりパナソニック。1981年6月8日生まれ。身長200センチ。

※5 ・・・ 柏倉秀徳、宮城県出身。仙台高校から筑波大学へ。卒業後は三菱電機。1980年8月6日生まれ。身長173センチ。

2007/10/23

最初の発症から3年が経ち、もはや諦めかけていたバスケ選手としての道に再び光明が差し込もうとしていました。しかし、そんな下地さんの希望は夢と消えてしまいます。

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後援会員(以下、後):ところが、ここで2度目の発症ですね。
下地(以下、下):はい、だから僕のOSGとしてのキャリアは5~6試合で終わりましたね。愛知のチャレンジマッチ(※1)というのに出て、それで引退です。日本リーグでは選手登録はしてありましたけど、公式戦には出ませんでした。
後:やはり大学の時と同じパターンだったんですか?
下:そうですね。自分で気づいたんですよ、「あ、やばい」って。すぐにハートセンターの鈴木先生に電話して、そのまま手術ですね。この時は体に負担をかけないために部分麻酔だったんですけど、人工血管に入れ替える手術ですね。僕は普通の人より血管が薄いんですよ。弱いというか。だから、大動脈とかが破れたら即死なんですよね。そうならないように、人工の血管に入れ替えたりするんです。この時は2週間くらいで退院しましたね。
後:再び発症したということは・・・。
下:ここで選手の道は諦めました。これからはコーチに専念しようと。でも、その後もバスケは遊びでやってましたよ。だから言われましたね、「アイツは2回死にかけてもまだ分からないんだ」って(笑)。
後:そりゃそうだ(笑)。
下:この時ですね、竹原さんに「お前はコーチに向いているから頑張れ」って言ってもらって。なので、OSGの3年目はアシスタントコーチとしてベンチに入りました。和さんも「下地は選手の気持ちが分かるから、どんどん思ったことを言いなさい」って言ってくれましたね。

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1993年9月18日、沖縄高校バスケットボール選手権にて、中部工業との試合での下地さん。

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※1 ・・・ 愛知実業団チャレンジマッチ。愛知実業団バスケットボール戦の中で、JBL、WJBLのチームが実業団チームとリーグ戦を行う。

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