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2009/07/26

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。第2回目のゲストは、DJ・歌手の西任白鵠(にしとあきこ)さんの記事をお届けします。(今回の聞き手・文責/須藤優)

「トントン拍子」――彼女のDJとしてのキャリアを見れば、誰もがそんな言葉を思い浮かべる。
慶応義塾大学1年生在学時、全くの未経験で挑戦したDJコンテストでの入賞をきっかけに、現在の事務所の社長にスカウトされる。後に在籍中にFM802のレギュラーに。卒業後は、FM 802の他、TOKYO FM、NACK5、FM yokohama、FM-FUJI、JFNなどのラジオ番組のほか、NHK BS2やGyaOなどのテレビでもアカデミックからアート、ビジネス、スポーツまで幅広くキャリアを積んできた。
おまけにご覧のとおりの美女で、仕事の傍ら歌手としての活動もこなす――まさに「スーパーウーマン」という肩書きが似合う彼女だが、一見華やかで非の打ち所のない女性に思える彼女の根幹を支えていたのは、「自らの存在意義」への自問という、誰もが一度は立ち向かい、そして彼女にとってはその生き方ゆえか一時のものではなく常時抱える葛藤であった。
ガラス一枚向こうの「ラジオDJ」という普段の姿を脱ぎ、等身大の「にしとあきこ」を語ってくれた。

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■「DJ」と出会った大学時代
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス。通称SFCで、彼女は大学生活をスタートさせた。入学から半年も経たない大学1年の秋、西任さんは突如、友人から「学園祭のDJコンテストに出ないか」と誘われる。友人は学園祭の実行委員をつとめていたのだ。しかしDJなど、当然未経験。それどころか、放送部や放送研究会といったサークルともまったく無縁だった西任さんは「なんで!?」と問うが、友人の答えは「だって喋るの好きじゃん」という至極単純、かつ無邪気なもの。
西任さんも気軽な気持ちで参加を決めたものの、当日、出番の前のコンテスト応募者のプロフィールとパフォーマンスを見て驚愕する。準備も練習も万端で臨んでいる他の出演者たちに、「ほとんどプロですよ」と当時の感想を語る。対する西任さんは箇条書きでメモをまとめた程度の準備しかしていない。急遽、トイレで鏡の前で練習をすることに。
だが持ち前の才能もあってか、優勝は逃すものの入賞。その場で現在の事務所の社長にスカウトされ、オーディションを受けるようになる。この間も、いわゆるアナウンサー学校のようなものには一切通わなかったというから驚きだ。そして大学3年時、3000人の応募者を勝ち抜いてFM802のレギュラーを獲得する。当然大学3年といえば、周りは絶賛就職活動中。西任さんも悩んだ。
「昔から、歌手になりたかったんですよね。DJの仕事なら、普通のサラリーマンよりは、やりたかった音楽に近いし、サラリーマンはやろうと思えばこの先いつでもできるから。」と、このチャンスに乗り、就職活動をしないことを決める。当時の西任さんは、DJの仕事をそんなに長くできるものでもないだろうと予想していたというのだが、予想に反し、それから15年に至る今日までDJとして活躍することになるのだった。
「DJとして必要な、“感じたことを言語化してアウトプットする”という基本的なことが、苦にならなかったんです。以前はDJなんて選択肢を考えたこともなかったから自分でも意外でしたが、今思えば、そういう自分の特技に気づかせてくれたのも、学園祭直前に会った実行委員の友人や、事務所の社長、そして仕事先の人たち。彼らとの出会いがなかったら、一生自分でも気づかずにDJという仕事とも出会っていなかったと思うから。タイミングって凄いな、と本当に思います。」

■目標達成、そして突然の通告
スポット的な出方の多いDJという仕事のなかで、月曜日から金曜日まで決まった時間をレギュラーで任される、通称「帯番組」。DJとしてひとつの目標、段階とされるものがこの帯番組でもある。東京FMというFM界の最高のステージで、西任さんはこの帯番組を手に入れた。
ところが1年半後。西任さんは番組プロデューサーから、通告を受ける。
「来月で番組、終わるから。」
突然の打ち切りだった。それまで、ほぼフルタイムで仕事をしていたのが、来月からいきなり無職になるという状況に、今までがトントン拍子だっただけにはじめて「なんて不安定な立場だったんだろう」ということにも気づいた。
これまでは、じっとしていても仕事のほうがやってきた。ところがもうそれはない。自らを「器用貧乏」と称する西任さんだが、「これからは何でもやっていい。じゃあ何がやりたい?」とあらためて自問したとき、最初はまったく答えが出てこなかったという。
そして仕事への見方も変わった。与えられた枠のなかで、いかに「プロフェッショナル」を見せるかに躍起になっていたことに気づいたという。自らのストイックなまでの完璧主義が、周りにも完璧を無言のうちに強要していたことにも初めて気がついた。
「それに気がついて最後の1ヶ月の放送を、すごく自由にやってみたんです。そうしたら自分もすごく楽しくて、周りの空気も本当に変わって。すごく反省しましたね。“プロフェッショナル”の意味を、はき違えていたんだなって。」

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■本を書きたい。
「今、やりたいこと」――それを自問した西任さんなりの答えは、「本を書くこと」だった。DJ業ではなく、歌手業を続ける中で、西任さんには長年の疑問があった。それは、歌謡ポップス界における「習ったということを積極的に公表しない」という風潮。舞踊でも芸術でも、あるアーティストのプロフィールには「○○氏に師事」など、習った人間のことが書かれるが、ポップス界ではほぼ皆無。しかしその世界には錚々たるアーティストたちに指導をする有名教師というものが存在していて、西任さんの師匠も多くのアーティストに指導をした高名な人物。その教えを広めるべく、西任さんはその師匠についての本を書きたい、と思ったのだという。
そして、とある出版プロデュース会社が主催する講座に入学するのだが、「どうせなら師匠のことじゃなくて、西任さんのことを書いてください」といきなり当初の野望を軌道修正されることに。これも縁、と思って取り組むことにした西任さんだが、何せ周りの受講者の面々が凄い。著名な人物や会社の経営者たちに混じって、西任さんも、講師に「ほかのDJにはできなくて、西任さんにしかできないことって何ですか?」「西任さんが日本一のことって何ですか?」とブランディング確立を迫られる段階で「…そんなものありません…」と落ち込むことも多々。しかしその過程で、あらためて自分の弱み、強さといった部分を見直すきっかけになったのだという。

■「話す」ことを教える立場に
最後まで納得の行くことはできなかったというが、各出版社のプロデューサーも出席する、講座の卒業プレゼンテーションのとき、西任さんにはひとつの発見があった。それは、「喋りの技術」。錚々たる受講者のプレゼンテーションを次から次へと聞きながら、ものすごい経歴と才能を持っているにも関わらず、喋りの部分で損をしている人が少なくないと強く感じたのだという。西任さんは、(逆に「喋りだけで」と本人は振り返るが)審査員特別賞を受賞してしまう。そのときの西任さんのプレゼンテーションを聞いた同期からも、「喋り方を教えてほしい」と言われた。「教えるなんて、そんな」とその場では辞退するものの、翌日にフリーアナウンサーの講演会があると知った西任さんは早速行ってみた。会場で、「自分だったらこうする」というポイントを書き留めていたらA4の用紙が5枚ほどになり、自分にも、喋ることについてなら教えることができるかもしれない、と考えるようになった。元々幼少から「教育」というものが一番重要であると考えながらも、自分には他人に教えられるものなどないと思っていた長年の思いも手伝って、西任さんは一念発起。その3週間後には、自らの手で区民センターを予約して講習会をスタートさせたのだった。今では、講師として数々のイベントに招致されるまでにもなり、喋りの技術を題材にしたビジネス書の出版準備も進めている。
「番組が終わると聞いたときは物凄くショックでした。でもそれがあったからこそ、自分の生き方を考えることができた。いま自分が“やりたいこと”が一番の正解ではないし、“自分に起こることを全て受け止めていく”っていうことが、これまでも頭ではわかっていたけれども、はじめて心でわかった気がします。」

ではこれからの中心は、自分がプレイヤーになることよりも教える立場で?と問う私に、「私にとって、教育ってすごく特別なものだったんです」と一転して表情を曇らせた西任さん。「私、少年院で篤志(とくし)面接員のボランティアをしていたんです」と、またしても意外な経験を語ってくれた。

後編へつづく

2009/07/26 04:47 | yuu, ・世界を変える女性たち | No Comments

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