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2009/12/07

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。
第4回目のゲストは、「やすらぎの別邸 四季亭」の経営者であり、「ふじさん牧場」の牧場主でもある鷲野珠里さんの記事をお届けします。
自然豊かな山梨の山間に2006年純和風のプライベートヴィラ「やすらぎの別邸 四季亭」をオープンさせた鷲野さん。東京でのOL生活から一転、牧場主となるまでのお話を伺いました。

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■さて前半ではプライベートヴィラ「やすらぎの別邸 四季亭」を中心にお話を伺って来ましたが、後半では昨年2008年にオープンされた「ふじさん牧場」についてお聞きしていきたいと思います。四季亭のオープンから2年。宿だけでなく牧場を始められたきっかけはなんだったのでしょうか?

— 以前よりお泊り頂いたお客様から「自然を触れ合える場所を紹介してほしい」という要望が多かったのですが、近隣になかなか紹介できる施設がなくて。それであれば自分たちで何かできないかなと考えたのがきっかけです。
四季亭のまわりは自然しかないので、その自然を生かした何かができればお客様の満足度アップにつながる、と同時に新しいお客様にも来て頂けると思いました。DASH村のように自然体験みたいなことができればよかったのですが、○○の里や果樹園、農園などいうとイメージが伝わりにくいので、誰もが想像しやすい牧場という名前にしました。牧場というと動物がいて、触れ合えて…なんとなく遊びに行きやすい雰囲気があるのと、富士五湖地域に牧場がなかったので、新しい観光地になると思いました。

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■ OLから宿の経営者、そして牧場主へ。牧場オープンのまで道のりは平坦なものではなかったと想像できますが、いかがでしたか?

— どうやったら牛や馬、羊を飼うことができるのか…という初歩的なところからスタートしました。当たり前ですが、牧場で飼う動物はペットショップにいるような動物ではないので、まず山梨県の畜産課に突然電話をして「牛って飼うことができるんですか?」ということを聞きました。それが2008年3月のこと。それからわずか半年後の8月には牧場をオープンしました。
わずか半年で牧場をスタートさせるという急ピッチな作業でしたが、四季亭のオープン時同様、さまざまな方の協力があってできました。その中で一番大変だったのは自分たちで山の木をチェーンソーで伐採して整地をしたこと。業者まかせではなく、できることはすべて自分たちでやったので、とても大変な作業でした。山の木を切るには伐採許可というものも必要でその許可が下りるまでに1ヶ月近くもかかり、作業工程がさらにタイトなものになりました。また、山梨県の畜産関係の方々には本当にお世話になりました。犬も飼ったことのない素人が牛や馬を飼うという無謀な試みに快く力を貸していただき、様々な方に声をかけて下さったおかげで牛は清里の牧場、馬は河口湖の牧場の方からお借りできました。羊は県営の八ヶ岳牧場から購入しました。
自分たちだけの力では何もできず、皆様のお力があってこそ、オープンにこぎつけられたと思っています。オープンで一応一区切りをつけましたが、これからが本当のスタートでまだまだ毎日手探りの状態です。

■ 鷲野さんのほっそりした様子からはチェーンソーを持って木を伐採される姿が想像できませんが、本当に手探りの道のりだったんですね。これからが本当のスタートということですが、ふじさん牧場でのこだわりなどはありますか?

— こだわりのポイントはいろいろあるのですが…食、遊び、動物とのふれあいには特にこだわっています。
まず食のこだわりですが、なるべく地元でオーガニックのものにこだわった食材をそろえています。例えば、「美味しんぼ」という漫画にも登場する地元の武藤さんという農家の方が作った日本一の有機米「みずほ米」や、抗生物質を一切使用しないで育てた忍野村産の地卵など、ふじさん牧場にいらっしゃった方には安心安全で美味しいものが食べられるというようにしています。
次に遊びのこだわりですが、遊園地のように作られた遊具設備ではなく、自然をいかした遊びを楽しんでもらいたいと思っています。竹馬や木のブランコ、竹で作ったすべり台などがお楽しみいただけます。今後はツリーハウスなども作る予定です。
最後に牧場ならではの動物とのふれあいですがなるべく自然体の動物の姿を見せたいと思い、羊は放し飼いにしています。馬や牛も動物小屋に行けば簡単に触れあえます。畜産経験のない私たちだからこその触れ合い体験を提供できればと思っています。

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■ さまざまな経験を通して、いろいろな角度からお客様に楽しんでいただけるようにと努力されているのをとても感じます。新しいことの連続で充実した日々を過ごされていると思いますが、今一番楽しいことはなんですか?

— 四季亭も牧場もまだまだスタートラインにたったばかり。これからいろいろな企画をやるにつれ、どんどん盛り上がっていくと思います。ここに石釜をつくってピザを焼こう…とか、ツリーハウスと作ろう!とか、水田を作ってみたら…などと妄想しているときが今は一番楽しいです。

■ まだまだやりたいこと、やれることがたくさんあってお話を伺っているだけでワクワクします!これから四季亭、ふじさん牧場を通してどんなことに挑戦していきたいですか?

— 大きな目標は「富士五湖地域のブランド力アップ」。
日本一の山、富士山や富士五湖という素晴らしい自然遺産があるのに、軽井沢や箱根のようなブランド力が足りないので、観光地としてもっともっと発展させていきたいですね。そのために、自分たちが発信源となることが重要と考えています。
四季亭・ふじさん牧場から発信していく“何か”を作り上げたいと思っています。
第1弾として、山梨版の日経新聞に取り上げていただきましたが、ワインかすを食べて育った「富士山ワインラム」の販売を12月に予定しています。ワインの名産地、山梨県勝沼のワイナリーからぶどうの絞りかすと地元の豆腐店からもらったおからを使ってえさをつくり、それを支給することによって、ワインラムを作ります。いまは飲食スペースが全て屋外なのですが、いずれ屋内の建物をつくり、そこでワインラムを使った料理を出せればいいなと思っています。

■ ワインラムの販売もいよいよ目前ですね!山梨の豊かな自然を肌で感じるだけでなく、舌でも感じられるのはとてもうれしいですね。四季を通して楽しめそう!
それでは最後にJunk Stageの読者に一言お願いします!

— 東京生まれ東京育ちの本当に普通のOLが、なぜかいまは牧場と宿の運営に携わっています。人生どんなことが起こるかわかりませんが、今まで経験したことはひとつもムダなことはなかったと思います。この経験も次につながると信じて、前向きに進んで生きたいと思います☆山梨へいらっしゃる際には四季亭&ふじさん牧場へぜひ足をお運びくださいね!

■ ありがとうございました!今後も鷲野さんの挑戦を期待しています。
(聞き手:蜂須賀彩)

2009/11/15

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。第4回目のゲストは、「やすらぎの別邸 四季亭」の経営者であり、「ふじさん牧場」の牧場主でもある鷲野珠里さんの記事をお届けします。自然豊かな山梨の山間に2006年純和風のプライベートヴィラ「やすらぎの別邸 四季亭」をオープンさせた鷲野さん。東京でのOL生活から一転、牧場主となるまでのお話を伺いました。

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■「やすらぎの別邸 四季亭」。2006年8月にオープンということで3年目を迎えましたね。東京で生まれ育った鷲野さんが山梨で宿業を始められるまでの経緯をお聞かせ下さい。

ー2002年に夫が仕事の都合で富士山麓の山梨県富士吉田市に移住しました。当時、マーケティング会社の立ち上げに参加していた私は東京に残り、週末だけ山梨に通うという週末婚をスタート。3年経ち、仕事が一段落したところで2005年の秋に山梨へ移住しました。東京で忙しく働いていたので「自然とともに生きる」という初めての田舎生活がとても新鮮で、こういった生活は都会の人たちにはきっと楽しんでもらえるのではないか、と考え宿業を始めることを決意しました。自宅の周りにあった空き家となっていた別荘6棟を自分たちで半年かけリノベーションし、四季亭をオープン。貸別荘としてお客様にご利用いただいています。

■OL生活から一転、宿の主人として切り盛りされるのはとても苦労が多いのでは?と思いますが、オープン後に大変だったことは何かありますか?

ーオープンが8月だったため、いきなりのトップシーズンでのスタート。おかげさまでオープン当初から連日満室が続き、慣れない中で無我夢中の毎日でした。その中で一番大変だったのは、オープン2週間目のお盆の最中に起きた井戸の故障!落雷により井戸が故障してしまって宿の全ての水道がストップしてしまったんです。夜中の12時にお客様から一斉にお電話がきて初めて気付くという状況。すぐに全てのお部屋に事情を説明に行き、水を買いに走って、翌朝一番でペットボトルのお水を届けました。幸いどのお客様も「天災だから仕方ないわね」と、逆に気を遣っていただき、励まされたのをとてもよく覚えています。お盆の最中ということで、業者の方も全てお盆休みだったのですが、私たちのためにお休みを返上して、夜中から翌日にかけて直して下さった電気屋さんや水道屋さんには頭が上がりません。けれど、このような事故があった中でも、一日も宿を閉じることなく営業し続けられたことが、大きな自信につながりました。

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■オープン2週間目でのピンチ!くじけてしまいそうだけど、逆にバネになっていよいよ宿業に専念されるきっかけになったのではないでしょうか。四季亭の女将として表へ出られるので苦労とともに嬉しいことも多いのではないでしょうか?

ーそうですね。お客様に「とてもよかったわ。ありがとう。」との言葉をいただけた時はとても嬉しかったです。お客様と直接やりとりしているので、お客様の反応がわかりやすくやりがいを感じます。例えば、お出迎えで失敗してしまっても、その後の応対によってプラスの評価をいただけることもよくあります。意外と厳しいご意見をおっしゃるお客様がリピートして下さる確率が高かったりして、とても面白いですね。

■鷲野さんのこだわりももちろん、お客様とのやりとりからよりよいサービスを発見されることも多そうですね。四季亭のこだわりや、ご自慢、オススメのポイントはどんなところでしょうか?

ーお部屋の清掃やアメニティ、リネン類などホテルや旅館と同じようなクオリティを維持しながら自由度の高いサービスをしている点でしょうか。お食事に関しては基本的に宿泊にはついていませんが、ご希望の方には朝と夜とそれぞれお部屋食を用意したり、近隣の美味しいレストランを紹介させていただいたりと、お泊まりになる方にはご自身の別荘のようにご利用いただける点が好評をいただいています。また、お客様のご要望にお応えしていく中で、一番の富士五湖滞在をご一緒に作り上げていく、ということを目標にしています。そのため、どんな些細なことでもお調べするコンシェルジュサービスもご提供させていただいています。本当にいろいろなことをご質問されるお客様が多いので、他のお宿と比較しても、ご宿泊前のやりとりがとても多いのが特徴だと思います。ご宿泊当日だけでなく、事前にさまざまなやり取りをする親切さが四季亭の評価につながっているのかなと思います。

■そうですね。お宿に限らず事前に多くやり取りしていると安心して利用できるな、という経験はよくありますね。ところで、東京から山梨への移住で戸惑われたことも多いのでは?と思いますが、いかがでしたか?

ー戸惑ったことは全て(笑)四季亭での仕事に限らず、山の中での田舎暮らしが初めてだったので虫の多さや自然の厳しさなど、当たり前のことにびっくりすることが多かったです。けれど、日が昇ると同時に一日が始まって日暮れとともに家へ帰る…という人間らしい生活ができることに感動しました。以前は忙しい毎日を過ごしていましたが、今は1日24時間がとてもゆったり流れているなと感じます。都会での刺激的な生活はもちろん楽しくて捨てがたいけれど、田舎での暮らしが人間本来の姿かなと思います。四季亭がある場所は東京から90分の距離なので、両方のいいとこ取りをしつつ過ごしていきたいですね。

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後半へ続く

鷲野珠里

「ふじさん牧場」(http://www.fujiboku.com)の牧場長と「やすらぎの別邸 四季亭」(http://www.fuji-shikitei.com)の女将を兼任。大手都市銀行の窓口業務と女性向けマーケティング会社の設立を経て、2006年に山梨へ。同年8月に「やすらぎの別邸 四季亭」をオープンする。

2009/10/08

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。第2回目のゲストは、ポールダンサーのATSUMI(あつみ)さん。
ポールダンスに出会うまでを伺った前回に引き続き、今回の後編はスタジオ設立、すぐに起こった一大ブームとその後についてお伺いしました。

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■スタジオ開設からブームを経て

ースタジオが開設されて、ポールダンス自体の注目度がもの凄く上がったと思うのですが、そのころと今とでポールダンスを取り巻く環境というのは変わりましたか?

それまでは、取材といってもいかがわしい内容のものもあったのですが、そういういったものはお断りして、フィットネスとしての部分を前面に出していった結果、この頃には一般紙や TVでのニュース番組、バラエティ番組、ラジオなどからも取材が来るようになりました。
あの時はもうほんとうに忙しかった!幸いなことに沢山のメディアが注目してくださって…その頃は、ポールダンスの地位を上げたいという思いでがむしゃらだったので、とにかく沢山仕事をしました。

ークラブシーンでも、ポールを設置してくれてレギュラーでポールダンサーが出るというイベントも一気に増えた時期でしたね。

そうですね。当時、私も出演・監修した大手ランジェリー企業のイベントや、その他にもフジロック、サマーソニック等の音楽フェスなどの大きなイベントでも、ポールダンスを取り入れるオーガナイザーが増えていきました。同時期に持ち運びできる、つっぱり型のポールの販売が始まったのも大きかったと思います。
最近はファッションフォトや、ポップアーティストのPVなんかでもずいぶん目にするようになりました。

ーまさに、ご自身が目標とされてきた地位の向上が行われてきたのですね。その当時の目標は叶ったとお考えでしょうか。

確かに、その当時目標としていたことは予想よりもずっと短い時間でクリアすることができました。私が始めたころは、ほんとうにストリップのことだと思われていた位だったので、そこから考えたら、かなり変わったと思います。

ただ、現在の状況についていえば、今は、やりたい!という子が沢山いるけれど、受け皿は結局深夜イベントや夜のお店が多かったりしていて、、、私は以前から、ポールとお酒はもう少し切り離しても良いのではないか、という意識があるんですね。

もちろんショウの現場の数自体はどんどん増えていますが、そういった方向性のままだと、全体としてはやはりいかがわしいイメージを抜けきれなくなってしまうのではないかと思っていて、その辺りにはジレンマを感じています。

ポールダンスというのはそれ自体でやっぱりとても美しくて、主役になれるダンスですしね。
たとえば音楽イベントなどに出演させて頂いての経験談なのですが、バックダンスという位置づけでもポールを始めるとお客さんは結構こっちを見てしまうんですね。

それだけ強烈なものだと思うし、だからこそやりたいと思ってくれる人が多いのだと思います。

■スタジオについて、経営者として

ーポールダンスの美しさ、アクロバティックな凄さなどはだいぶ浸透してきましたが、実際に習いにくるのはどういう方々が多いのでしょうか?

そうですね、もちろんショウに出たい、プロになりたいという方や、既にアーティストとして何らかの活動をしていて芸域を広げたい方もいらっしゃいますが、うちのスタジオでは8割くらいが「習い事」として初められる方です。
「ちょっと人とちがうこと」をしてみたいという動機でいらっしゃる方が多いみたいですが、中には「ショウに出るなんてとんでもない!」と仰る方も居ます。

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ーそういう方でも続けられるのでしょうか?

続けてくださるかたは、ずっと通ってくださっていますね。
あと意外と、やってみると結構無邪気に楽しかったりもするんです。小さい頃、登り棒や回るジャングルジムに夢中になったような感覚だったり(笑)。それとやっぱり「主役になれる」感があるのだと思います。

ー女性らしさを表現するのにも、ポールダンスはとても有効な気がします。

以前はフィットネスという方向で売出していたのですが、最近になって思うのは、やはりポールダンスは「踊り」なんだなということ。

私は男女問わず「踊り」=「色気」が大事だと思っているので、そういった部分が発揮し易いダンスかなと思います。
最近はレッスン内容も、より振り付け部分を多くしたり、技と技のつなぎを意識してもらったりしています。

ースタジオ運営にあたってのモットーなどはありますか?

それは当初から変わっていません。「楽しく、長く踊れる身体づくり」です。生徒さんを見ていても、身体ができてきたら自分のやりたい技も、表現もどんどん決まるようになっていくんですよ。それが素晴らしいな、と。

ー大変だった事などはありますか?

まさか物件が借りられると思っていなかったので、スタジオ開設当時は、経営に関しては全くの素人で、やっぱり大変でした。最初は手探りで、同じく個人事業主の美容師さんやスタイリストさんなどに相談したり、経営者向けの堅い内容のセミナーに通ったりもしました。

また、スタッフが増えるにつれて、代表として振る舞う難しさに悩んだ事もありましたし、つい最近までは株式会社にするかどうかでかなり迷っていましたね。会計士さんなどに何度も相談しに行きました。そんなふうにして試行錯誤してきて、いまは自分のなかでは経営者としてのスイッチが80%を占めています。なんというか、もう、お母さん気分ですね。スタジオが子供、そんな感覚でいます(笑)。

■ダンサーとして、また女性として

ーATSUMIさんご自身は今後はどのような活動をされていく予定でしょうか。

私は自分はとてもラッキーだったと思っています。色んな方との出会いがあって、また色んな方の協力があって、おかげさまで比較的短い時間のなかで、ポールダンスをメジャーにするという当初の目標は叶ってきたように思います。

ポールダンサーATSUMIとしてのいまの私に今後できることは、後進を育てる、ということなのかなと感じています。

ありがたいことに、今、生徒さんの中から地方から通って下さっている方が何人かいて、

「地元でスタジオを開きたい、教え方を教えてほしい」という声があるんですね。まずはそいういった声に答えていければと考えています。

また、私本人の活動としては…私は年齢を重ねてもずっと踊っていきたいと思っているので、実はポールダンスという形にはこだわっていないんです。踊っていけるのであれば、ポールダンスでなくても良いかもしれない、と思っています。

実は去年の夏、練習中に腕を痛めてしまって…しばらく活動を控えていたんですね。ちょうどそれがやっと完治したところで、昨日、治った腕で自主練習をしていたら、とてもわくわくしてきて想像力が湧いてきて…

やはり私の人生の優先順位は「ダンス」が一番なのだなと実感したところだったんです。でもちなみに、昔とはちょっと変化した部分もあって…今まではダントツで1位・ダンス、2位・ダンス、3位・ダンス……10位・恋とかだったんですが、

30歳をこえて、少し意識が変わってきました。今はちょうど、その変化も含めて、表現者としても女性としてもネクストレベルを模索しているという感じです。

ーエポックメイキングな存在だったATSUMIさん。どんな道程でそこに至ったのかを伺ったのですが、ご本人は鮮やかな笑顔が印象的な、気さくな女性でした。

ポールダンスを世に出した女性はどんな方だろうと思っていたのですが、試行錯誤しながら「ダンス」という軸を離さなかったら辿り着いた、というお話が印象的でした。

今後のご活躍をお祈りしています!

(聞き手:照山怜奈)

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<ATSUMI(高倉 温味) 略歴>

日本初ポールダンススクール「HYPE POLE WORKS」の講師を経て、2007年1月に自身のスタジオPole&Dance studio 『grace a』を東京・三軒茶屋に設立。日本で数少ないプロ・ポールダンサーとして活動。これまでに日本、韓国、上海、台北などでショーを行う他、多くのメディアを通じてもポールダンスを普及してきた第一人者の一人。→http://www.poledance.jp/media_2007.html

2006.12よりGOLD FINGER ポールダンスショー監修、指導を担当。現在は、ダンサー、インストラクター、スタジオ経営、ショーステージ監修などを基盤に、各種メディアにも露出。

2009/10/01

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。
第3回目のゲストは、ダンサー・ポールダンススタジオ主催のATSUMI(あつみ)さんの記事をお届けします。
9歳からダンスを始め、2007年1月、都内で初のポールダンススタジオを設立。
一大ブームとなったポールダンスについて、日本ポールダンスシーン第一人者のATSUMIさんにお話を伺ってまいりました。

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ー(スタジオにお邪魔して)こんにちは、今日は宜しくお願いたします。
とても明るいスタジオですね。

ありがとうございます。こちらこそよろしくおねがいします。(と言いながら、ポールから降りてくるATSUMIさん。)

■ポールダンサー・ATSUMIになるまで

ーダンス自体を始められたのはいつごろですか?また、本格的にダンスを職業にと思ったのはいくつくらいのときですか?

最初は部活だったんですよ。9歳のときに、ダンス部に入りました。小学校3年生のときかな。職業として意識したのは11歳のとき。部で、だんだん代表グループに入ってやるようになって…11歳・小5のときに群舞の主役に抜擢されて、小6の時に独舞で賞をとったんですね。
そのころから、将来の夢を書くときには「舞踊家」って書いてたみたいです。たぶん、ほかに思いつかなかったんですよ(笑)。

ーすごく小さいときからですね、ではその後もダンス一本だったのですか?

いえ、高校生くらいのときに、いわゆる夜遊びを覚えてしまって(笑)。おかあさんのお化粧品を使って、バッグとか勝手に借りたりして、こっそり家を抜け出して…っていう。 最初は雑誌でみたクラブに電話をかけて、オープン時間を聞いて、18時だっていうから、18時きっかりに行ったりしてました。

ー当時はまだいわゆるクラブは少なかったのでは?

そうそう、ちょうどディスコ世代のジュリアナが下火になって、その後HipPopが流行る前だったから、ちょうど谷間の時期でしたね。でも、通っているうちに顔見知りができて…その店が、カウンターをお立ち台にしてたんですね、で、行くと皆が「あつみちゃん、踊りなよ」って、場所を空けてくれるようになったんです。

ー携帯電話とかもまだないような頃ですね。

そう!だからそのお店に行かないと皆には会えなかったし、今となってはどこの誰だったのかわからない。でも、小娘だった私にもすごくあたたかく接してくれて。このころは、本格的に習ったりっていうのはお休みしていた時期だったんですが、それがきっかけで、またダンスが楽しくなったっていうのはありますね。

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ーではそれでストリートダンスに傾倒していったという感じしょうか。

傾倒というか…そうこうしているうちにちょうど進路を考える時期になって、進学か、就職かと迷っていたんです。…就職活動もして、NHKに面接に行ったりとかしてたんですけれど、なんか違うなと。就職じゃない、進学じゃない、じゃあ、やっぱりダンスをやろう、と。実は、結構消去法で決めたんです。

ーそれは意外な…。

でも、やるからには徹底的にやろう、と思っていろんな活動をしました。ちょうどブームと重なった事もあって、ずいぶんお仕事をさせて頂きました。 就職活動で行ったNHKなんかも、紅白歌合戦のバックダンサーとして行かせて頂いたし。
ー順調にキャリアを重ねられていたのですね。
でもね、25歳のときに腰と足首を痛めてしまって…。いわゆるぎっくり腰と捻挫ですね。それで、そのとき来ていた色んなお仕事も泣く泣く断って…実家に帰ったんです。
ーええっ、でもそこからすぐ復帰されたんですよね、比較的軽い怪我だったんでしょうか?
いえ、結局仕事は全面的にお休みして、2年半ほど実家に住んで居ました。でもまた東京に出てくるつもりだったから、営業の仕事をしたり、アルバイトをしたりしてお金を貯めてたりとかしていました。

ーそこからポールダンスの現場に至る、というのはどういう経緯があったのでしょう?

身体が治ってからリハビリという意味もかねて、フィットネスクラブでと、カルチャーセンターでキッズクラスを教えるというのを始めたんですね。
それが、フィットネスクラブというのは女子大生から、ご年配の方も同じクラスで教えるんです。キッズクラスは、3歳~中学1年生までが同じクラスだったり。それが衝撃的でした。人に教える方法は、そのときにずいぶんと勉強させてもらいました。
前後して、ダンサーとしての現場にも徐々に復帰していったんですが、その仲間のうちの一人が、たまたまショークラブでポールダンスをやってたんですね。初めて見たときに感動して、これは凄い、もっと世に出すべきだ!と思って。 その使命感に突き動かされた感じです。

ーその後、クラブシーンやインディーでの活躍を経て、東京で初めてのスタジオを設立された訳ですね。スタジオ設立にかける思いなどがあれば教えてください。

当時はショークラブを借りてレッスンをしていたのですが、そこが潰れてしまうという話があって…。とにかく、練習場所が欲しかったんです。 で、ラッキーなことに物件が見つかったんですね。ここのスタジオの窓が大きくて明るい雰囲気にひとめぼれしたので、載った雑誌とかの資料と、生徒さん達に書いてもらっていたアンケートを持って、ダメもとで申し込みました。大家さんも、よくこんなその当時まだ世間では怪しげと思われていた業種に貸してくださったなと思うんですけれども(笑)。生徒さんたちのおかげだな、と思ってます。

—後編へつづく—

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<ATSUMI(高倉 温味) 略歴>
日本初ポールダンススクール「HYPE POLE WORKS」の講師を経て、2007年1月に自身のスタジオPole&Dance studio 『grace a』を東京・三軒茶屋に設立。日本で数少ないプロ・ポールダンサーとして活動。これまでに日本、韓国、上海、台北などでショーを行う他、多くのメディアを通じてもポールダンスを普及してきた第一人者の一人。→http://www.poledance.jp/media_2007.html
2006.12よりGOLD FINGER ポールダンスショー監修、指導を担当。現在は、ダンサー、インストラクター、スタジオ経営、ショーステージ監修などを基盤に、各種メディアにも露出。

2009/07/30

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。第2回目のゲストは、DJ・歌手の西任白鵠(にしとあきこ)さん。
経歴や仕事への思いを伺った前回に引き続き、後編の今回では彼女がFM802のDJをしながら行っていたという、少年院での面接員のボランティア活動について伺いました。 nishito4.jpg

■少年院「篤志面接員」という仕事
西任さんが25歳、FM802の仕事で東京と大阪を往復していたときのこと。木曜日の夕方と金曜日の夜にDJの仕事が入っていたため、金曜日の昼間が空いていた。その時間を使って西任さんは、少年院でのボランティアを始めた。
新聞記事をきっかけに知った、「篤志面接員」の存在。それは、法務省が設営した制度で、少年院の少年少女たちと、刑務員のような「評価」が発生しない利害関係のない立場から悩みを聞いたり話をしたりするもの。新聞記事の中では、現在は篤志面接員は、校長先生や牧師さんなどの高齢者が多く、若手が求められていると書いてあった。
その頃西任さんは、かねてから考えていた「なぜ自分はここにいるのか」「どうして生きているのか」という答えを見つけられずにいたという。誰もが一度は思い悩むことであるが、西任さんはその育った環境や人一倍の完璧主義から、とくにその悩みは大きく、何をしていてもいつも心のどこかに漠然とした不安があったという。
「DJとして一定の評価はされていたのかもしれないけれど、ラジオは、言ってしまえばエンターテイメント。医療や福祉のように直接的に誰かの役に立つ類のものではない。勿論ラジオを聴いて元気になりましたとか、登校拒否が直りましたとか、泣くほど嬉しいお便りもあったんですが、それでは足りない気がしていました。ずっと自分に自信がなかったから、直接的に役立てると生かされている気がして、安心できるじゃないですか。」
DJとしての経験を生かし、点字図書館に寄付するための朗読書を制作するボランティアを検討したこともあったが、余りに多い研修などのシステムに挫折。そんな折に、この篤志面接員の新聞記事に出会ったのだった。西任さんは片っ端から少年院に電話をするものの、「募集はしていない」と全滅。未成年犯罪者ということもあり、厳重にプライバシーを守れるという保障のある、身元の確実な人間しか採用できないため、紹介制になっていたのだった。
しかしまた縁があり、読売新聞で西任さんが取材を受けた記事をきっかけに少年院の側からアプローチがあり、西任さんは特例的にこの篤志面接員に採用されることになったのだった。

■子どもたちへの共感
西任さんが担当したのは、「出院準備寮」の少年たち。少年院は、出院までの期間を3つに分けており、出院を目前に控えた出院準備寮の少年たちは、生活する寮も変わり、驚くほどに人柄も変わっているのだという。
勢いで応募してみたものの、心理学の勉強経験などもなく、当時25歳の西任さんに、ほかの篤志面接員のように人生を語れるほどの引き出しもない。何ができるだろうか、と不安にもなったというが、篤志面接員の仕事は説教や薀蓄を垂れることではない。西任さんは、仕事でインタビューをしたアーティストの話や、仕事で行った旅行の話、見た映画のことなど、本当にとりとめもないことを話した。しかし西任さんは彼らと接しながら、驚くほどに違和感を感じなかったのだという。
「心のやり場がないんですよね。私が彼らくらいの年のときに感じていた、“自分はどうしたらいいのか、どう生きればいいのか”という悩みはまったく同じだった。彼らと私とでは、結果は違ったけれども、原因は一緒なんです。私の場合も、周りには話せない大人しかいなかったし、親も先生もそうだった。学校がすべてじゃないよって言ってくれる大人がひとりでもいたら違っただろうなって思ったんです。もう大きい子になると当時の私と5歳くらいしか違わないのですが、あなたたちの生きている世界は本当に狭い世界で、本当はステキな大人もたくさんいてこれからどんどんそういう人に出会えるんだよ、っていう、私自身が感じて救われてきたことを少しでも伝えられれば、と思ってやっていました。」
彼らにとって、西任さんのような人は「周りにいなかった人種」。『母親はずっと刑務所で、彼女はヤク中で売春の毎日。女なんて最低な生き物だと思っていたけれども、女の人は守るものなのだと感じた。すぐには無理でも、これからは少しでも早く、守れる男になっていきたい』という手紙を貰ったこともあったという。
西任さんが彼らに向けて紡いだ言葉は、まさに西任さん自身が彼らの歳のときに誰かに言って欲しかった言葉だった。このボランティアは、「誰かのため」と思って始めたことながら、結果的には西任さん自身の痛みが癒えることとなったのだった。

■生かされて、生きる。
西任さんのお気に入りだという、故マイケル・ジャクソンの『Man in the Mirror』には、こんな歌詞が出て来る。
『世の中を変えようと思ったら、まず鏡の中に映っているその人(=自分)から始めよう』
DJの仕事をする中で、ビジネス界、アート界の第一線の人々をゲストに招くことも多かった西任さんだが、彼ら「成功者」に共通していたことは「命が有限であるということを常に考えている」ということだったという。常に、今晩死んでも悔いはない生き方をしているから、毎日が輝くのだ、と。
「輝いている彼らを見ながら、学ぶ、毎日を生きるっていうのはそういうことなんだと思いました。毎日、昨日の自分とは違う、そういう自分でありたい。」
自分に自信がないからなんですが、と繰り返しながら、西任さんはしきりに「何かを残したい」と繰り返す。
「いいものを持っている人はたくさんいるけれども、それを“伝える”ことができたら、その人だけのものではなくて社会の財産になる。私のもつ“喋ること”の技術を広く伝えることによって、そういった社会の財産をひとつでも多く作ることができれば。肉体は滅びていつかなくなってしまうけれど、生きていく中でいろんな人と出会って、もらった知恵を次の世代につなげていくことが、命をつなぐっていうことなんじゃないかな…」

でもまだ、なんのために生きているのかはわからないけど――と付け加える西任さんに、それがわかっちゃったら、逆に生きている意味がなくなってしまうのかもしれないな、と思った私。
悪く言えば「なりゆきまかせ」ということになるのかもしれないが、それは1人ではなく、周りの影響力を一身に受けて生きていくほうを取った彼女の選択。これから何人分もの人生を吸収しながら生きるのであろう西任さんに、僭越ながらすこしだけ、やっぱり多くの“他人”との出会いによって目の前の世界が拓け、JunkStageを立ち上げた頃の自分の初心を重ねてみた。

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西任白鵠(にしと・あきこ)
大阪生まれ、福岡県育ちの女性DJ、歌手。歯切れの良い話し方と堪能な英語を生かした番組進行には定評があり、ラジオ番組のDJや各種イベントの司会・進行で活躍。慶應義塾大学総合政策学部卒業。所属プロダクションはFM BIRD。FM 802の他、TOKYO FM、NACK5、FM yokohama、FM-FUJI、JFNの全国ネットの番組などでラジオ番組を担当。NHK BS2やGyaOなどのテレビでもコメンテイターを務める。歌手としても2001年にシングルCD、2006年にアルバム『If you go away』をリリース。

(聞き手、文責:須藤優)

2009/07/26

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをするこちらの企画。第2回目のゲストは、DJ・歌手の西任白鵠(にしとあきこ)さんの記事をお届けします。(今回の聞き手・文責/須藤優)

「トントン拍子」――彼女のDJとしてのキャリアを見れば、誰もがそんな言葉を思い浮かべる。
慶応義塾大学1年生在学時、全くの未経験で挑戦したDJコンテストでの入賞をきっかけに、現在の事務所の社長にスカウトされる。後に在籍中にFM802のレギュラーに。卒業後は、FM 802の他、TOKYO FM、NACK5、FM yokohama、FM-FUJI、JFNなどのラジオ番組のほか、NHK BS2やGyaOなどのテレビでもアカデミックからアート、ビジネス、スポーツまで幅広くキャリアを積んできた。
おまけにご覧のとおりの美女で、仕事の傍ら歌手としての活動もこなす――まさに「スーパーウーマン」という肩書きが似合う彼女だが、一見華やかで非の打ち所のない女性に思える彼女の根幹を支えていたのは、「自らの存在意義」への自問という、誰もが一度は立ち向かい、そして彼女にとってはその生き方ゆえか一時のものではなく常時抱える葛藤であった。
ガラス一枚向こうの「ラジオDJ」という普段の姿を脱ぎ、等身大の「にしとあきこ」を語ってくれた。

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■「DJ」と出会った大学時代
慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス。通称SFCで、彼女は大学生活をスタートさせた。入学から半年も経たない大学1年の秋、西任さんは突如、友人から「学園祭のDJコンテストに出ないか」と誘われる。友人は学園祭の実行委員をつとめていたのだ。しかしDJなど、当然未経験。それどころか、放送部や放送研究会といったサークルともまったく無縁だった西任さんは「なんで!?」と問うが、友人の答えは「だって喋るの好きじゃん」という至極単純、かつ無邪気なもの。
西任さんも気軽な気持ちで参加を決めたものの、当日、出番の前のコンテスト応募者のプロフィールとパフォーマンスを見て驚愕する。準備も練習も万端で臨んでいる他の出演者たちに、「ほとんどプロですよ」と当時の感想を語る。対する西任さんは箇条書きでメモをまとめた程度の準備しかしていない。急遽、トイレで鏡の前で練習をすることに。
だが持ち前の才能もあってか、優勝は逃すものの入賞。その場で現在の事務所の社長にスカウトされ、オーディションを受けるようになる。この間も、いわゆるアナウンサー学校のようなものには一切通わなかったというから驚きだ。そして大学3年時、3000人の応募者を勝ち抜いてFM802のレギュラーを獲得する。当然大学3年といえば、周りは絶賛就職活動中。西任さんも悩んだ。
「昔から、歌手になりたかったんですよね。DJの仕事なら、普通のサラリーマンよりは、やりたかった音楽に近いし、サラリーマンはやろうと思えばこの先いつでもできるから。」と、このチャンスに乗り、就職活動をしないことを決める。当時の西任さんは、DJの仕事をそんなに長くできるものでもないだろうと予想していたというのだが、予想に反し、それから15年に至る今日までDJとして活躍することになるのだった。
「DJとして必要な、“感じたことを言語化してアウトプットする”という基本的なことが、苦にならなかったんです。以前はDJなんて選択肢を考えたこともなかったから自分でも意外でしたが、今思えば、そういう自分の特技に気づかせてくれたのも、学園祭直前に会った実行委員の友人や、事務所の社長、そして仕事先の人たち。彼らとの出会いがなかったら、一生自分でも気づかずにDJという仕事とも出会っていなかったと思うから。タイミングって凄いな、と本当に思います。」

■目標達成、そして突然の通告
スポット的な出方の多いDJという仕事のなかで、月曜日から金曜日まで決まった時間をレギュラーで任される、通称「帯番組」。DJとしてひとつの目標、段階とされるものがこの帯番組でもある。東京FMというFM界の最高のステージで、西任さんはこの帯番組を手に入れた。
ところが1年半後。西任さんは番組プロデューサーから、通告を受ける。
「来月で番組、終わるから。」
突然の打ち切りだった。それまで、ほぼフルタイムで仕事をしていたのが、来月からいきなり無職になるという状況に、今までがトントン拍子だっただけにはじめて「なんて不安定な立場だったんだろう」ということにも気づいた。
これまでは、じっとしていても仕事のほうがやってきた。ところがもうそれはない。自らを「器用貧乏」と称する西任さんだが、「これからは何でもやっていい。じゃあ何がやりたい?」とあらためて自問したとき、最初はまったく答えが出てこなかったという。
そして仕事への見方も変わった。与えられた枠のなかで、いかに「プロフェッショナル」を見せるかに躍起になっていたことに気づいたという。自らのストイックなまでの完璧主義が、周りにも完璧を無言のうちに強要していたことにも初めて気がついた。
「それに気がついて最後の1ヶ月の放送を、すごく自由にやってみたんです。そうしたら自分もすごく楽しくて、周りの空気も本当に変わって。すごく反省しましたね。“プロフェッショナル”の意味を、はき違えていたんだなって。」

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■本を書きたい。
「今、やりたいこと」――それを自問した西任さんなりの答えは、「本を書くこと」だった。DJ業ではなく、歌手業を続ける中で、西任さんには長年の疑問があった。それは、歌謡ポップス界における「習ったということを積極的に公表しない」という風潮。舞踊でも芸術でも、あるアーティストのプロフィールには「○○氏に師事」など、習った人間のことが書かれるが、ポップス界ではほぼ皆無。しかしその世界には錚々たるアーティストたちに指導をする有名教師というものが存在していて、西任さんの師匠も多くのアーティストに指導をした高名な人物。その教えを広めるべく、西任さんはその師匠についての本を書きたい、と思ったのだという。
そして、とある出版プロデュース会社が主催する講座に入学するのだが、「どうせなら師匠のことじゃなくて、西任さんのことを書いてください」といきなり当初の野望を軌道修正されることに。これも縁、と思って取り組むことにした西任さんだが、何せ周りの受講者の面々が凄い。著名な人物や会社の経営者たちに混じって、西任さんも、講師に「ほかのDJにはできなくて、西任さんにしかできないことって何ですか?」「西任さんが日本一のことって何ですか?」とブランディング確立を迫られる段階で「…そんなものありません…」と落ち込むことも多々。しかしその過程で、あらためて自分の弱み、強さといった部分を見直すきっかけになったのだという。

■「話す」ことを教える立場に
最後まで納得の行くことはできなかったというが、各出版社のプロデューサーも出席する、講座の卒業プレゼンテーションのとき、西任さんにはひとつの発見があった。それは、「喋りの技術」。錚々たる受講者のプレゼンテーションを次から次へと聞きながら、ものすごい経歴と才能を持っているにも関わらず、喋りの部分で損をしている人が少なくないと強く感じたのだという。西任さんは、(逆に「喋りだけで」と本人は振り返るが)審査員特別賞を受賞してしまう。そのときの西任さんのプレゼンテーションを聞いた同期からも、「喋り方を教えてほしい」と言われた。「教えるなんて、そんな」とその場では辞退するものの、翌日にフリーアナウンサーの講演会があると知った西任さんは早速行ってみた。会場で、「自分だったらこうする」というポイントを書き留めていたらA4の用紙が5枚ほどになり、自分にも、喋ることについてなら教えることができるかもしれない、と考えるようになった。元々幼少から「教育」というものが一番重要であると考えながらも、自分には他人に教えられるものなどないと思っていた長年の思いも手伝って、西任さんは一念発起。その3週間後には、自らの手で区民センターを予約して講習会をスタートさせたのだった。今では、講師として数々のイベントに招致されるまでにもなり、喋りの技術を題材にしたビジネス書の出版準備も進めている。
「番組が終わると聞いたときは物凄くショックでした。でもそれがあったからこそ、自分の生き方を考えることができた。いま自分が“やりたいこと”が一番の正解ではないし、“自分に起こることを全て受け止めていく”っていうことが、これまでも頭ではわかっていたけれども、はじめて心でわかった気がします。」

ではこれからの中心は、自分がプレイヤーになることよりも教える立場で?と問う私に、「私にとって、教育ってすごく特別なものだったんです」と一転して表情を曇らせた西任さん。「私、少年院で篤志(とくし)面接員のボランティアをしていたんです」と、またしても意外な経験を語ってくれた。

後編へつづく

2009/06/30

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをする企画、記念すべき第一回目のゲストは和楽器界の若き第一人者、吉永真奈さん。
反響をいただきました前編に続き、今回はソロ活動について、また音楽への熱い思いを語って頂きました。

* * *

■ソロ活動について

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――2009年、惜しまれつつ解散した「Rin’」。
その以前からソロ活動は行っていた吉永さんですが、現在はますます一人の奏者として夢を実現するための活動を展開されています。       

吉永:私たちはもともとユニット結成中にも、一人一人の活動は行っていたんですね。古典というのは礎というか、土台としてあったんです。その集合体のひとつの形として「Rin’」があったんですけれど、ソロとの違いは3人で5つの和楽器を使っていた、というのが大きかった。これだけ楽器がありますから、それぞれの楽器をフューチャリングするというよりは、役割分けが決まっている。たとえばリードは尺八が取る、とかコードに関しては箏(こと)が取る、とか。そういう楽器の融合としての面白さ、というのを「Rin’」ではやっていたわけなんですけど、今ソロで行っているのはそれぞれの楽器のよさ、というのを伝えることをしていきたいと思っています。箏もそうですし、私は地歌三味線もやっているんですけれど、それぞれの楽器の新しい魅力を知ってほしいし、伝えたい。それで新しい音楽の形が生まれたらいいなあ、と思います。

――新しい音楽の魅力を伝えたい、と語る吉永さん。その活動はライブ、コンサートをはじめとして、自身での門下生への稽古など多岐にわたります。

吉永:先入観をお持ちの方が多いんですよ、箏(こと)って。ピアノって触れる機会が多いんですけれど、お琴を持っている方は少ないし、接する機会がとても少ない。正直に言って「楽器代がすごく高いんじゃないか」とか、「お稽古代も高いんじゃないか」って思われている方が多いんです。でもそれは情報が少ないからであって、本当に楽器ひとつとっても値段はピンからキリまであるので、本当に気軽に習える楽器ですし、すごく楽しい楽器なので、ぜひ興味のある方は初めてみてほしいですね。

――そんな吉永さんのライブやコンサートには、若い世代だけでなく中高年の観客の姿も目立ちます。

吉永:本当は可能なら全員に聞いてほしいんです。若い十代の子とかにも日本の伝統の音っていうのを知ってほしいなと思って、現在はソロ活動のかたわら学校訪問をしたり、教えに行ったりして和楽器のレクチャーやコンサートをもしています。それに現在の音楽業界と言うのは、お客さんがわりと10代20代という、若い層ですよね。だから40代、50代、60代の方に楽しめる音楽は少ないと思うんです。そういう方にも楽しんでもらえる音楽を作りたいし、聞いてほしい。ライブにもそういう世代の方が多くいらっしゃるんですけれど、すごく喜んで頂ける。だからその世代の方に届くような、伝わるような音楽を作っていきたいですね。

――全国各地で活動を展開されている吉永さん。その移動時間や本番前にも、気持の切り替えには工夫をされているようです。

吉永:移動時間は曲の暗譜に追われている時はi-podで音楽を聞いたりもしますが、睡眠時間を確保する時間にあてたり、余裕がある時はぼーっと景色を見たりして気持ちを切り替えたりしています。でも着いてすぐリハーサルがあったりもするので、そういう場合は自分でテンションを上げたりして、すぐ演奏ができるコンディションに持っていきます。本番前にはとにかく自分の出るステージをオープニングからエンディングまで一度全部思い描いて、「成功した、よし!」っていうイメージを作りますし、それからこっそり客席を見て、お客さんがたくさんいるのを確かめたりもして。これだけ多くの人が聞きに来てくれてるんだ、って思うと不安とかもなくなりますし、テンションが上がりますね。

――5歳から始めて、20年以上になる吉永さん。箏という楽器の最大の魅力はなんですか?

吉永:日本人のDNAに響いてくるところ。お客さんにも「なんだか懐かしい感じがする」って仰る方がいるんですけど、全然聞いたことのない曲でも懐かしい気がしたり、心地いいような気がされるそうなんですね。日本人の中にあるDNAにすごい訴えてくるし、響いてくるところかな。

■仕事と一人の女性としての生き方

――現在、アーティストとしてのソロ活動や教室での稽古、全国各地でのライブ出演など多忙に活動されている吉永さん。たくさんの活動を両立させる秘訣について伺いました。

吉永:リフレッシュの方法はすごくたくさんあるんですけど、まずは睡眠をきちんととることを心がけています。体調を良くしていかないと、心も落ち込んできてしまいますし。私はすごく寝たい人なので希望を言えば8時間とか寝たいんですが、なかなか現実には無理なので(笑)、だから短時間でも熟睡するようにしてますね。あとはお買い物にいったり。箏(こと)に接している間は練習とか、楽曲の編集だとか、とても孤独な作業が多いんですね。だからオフの日はたくさん人にあっておしゃべりしたり、大声で笑ったりしてガス抜きをしています。あとはね、アロマオイル集めたり、お風呂の中でアロマキャンドル焚いたり。

――忙しさを理由にせず、真剣に向き合っていれば成果が出ると語る吉永さん。その姿勢は恋愛にも向けられているようです。

吉永:恋愛は苦手教科なんですが(笑)、忙しくても、連絡さえしていれば解消する問題はありますよね。メールを1通送るだとか、ちょっと電話してみるとか。数十秒とかで出来ることだから、相手に気遣いをちゃんとしてあげて、相手の心遣いも受け取る。私はほんとに常に真剣モードになっちゃうので、恋愛も常に真剣勝負(笑)。仕事も恋愛もちゃんとする、それでたまにはガス抜きしてリフレッシュすることが私の場合の秘訣ですね。

――JunkStage読者にも、恋愛や仕事で迷いを抱えている女性が多くいます。そう伝えたら、早くから自分の道を選び取った吉永さんらしい、素敵なアドバイスを頂きました。

吉永:20代、30代くらいのときって色々なことを考える時期だと思うんですね。私もそうですが、仕事だったり結婚だったり考えたり悩むことが多い。そういう悩みを自分と正直に向き合って、自分と話し合って、自分がこうしたら一番輝けるんじゃないか、と思う道を選んでほしいな、と思います。私もそうしていきたいですね。

――女性として、奏者として、のびやかに活動を続ける吉永さん。このインタビュー収録中も、笑顔を絶やさずスタッフを気遣ってくださるなど、本当に素敵な女性でした。今後もコンサートやライブ、新たな音楽制作、配信など、ますますソロ活動の幅も広がっています。ご活躍が期待される吉永真奈さんが日本の音楽シーンを変えていく日は近い、と確信を頂いた今回のインタビュー。快くご協力頂き、本当にありがとうございました!(聞き手:桃生苑子)

* * *

<吉永真奈 略歴>

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5歳の頃より生田流箏曲を安藤政輝氏に師事。その後地歌三味線も師事。
2001年 東京芸術大学音楽学部邦楽科生田流箏曲専攻卒業。
2004年 和楽器ユニット「Rin’ 」を結成しavex より「Mana」としてメジャーデビューをする。「ブルボンチーズおかき」のCFやアニメ「SAMURAI 7」のエンディングテーマとしてRin’の楽曲が抜擢。 アメリカでのデビューアルバム「Inland  sea」では、プロデューサーにJimmy Harry、 ゲストボーカルにLISA LOEB、Leigh Nashを迎え、LA・NYなどアメリカ各地でライブを行う。現在までアメリカにとどまらず、中国各地、中米や南米でも数々のライブ活動を行う。
そして本年自身のより深い音楽活動を始めるため待望のソロ活動をスタート。「吉永真奈」として、楽曲制作、レコーディング、ライブなど新たな音楽創造を始める。
それ以外にも生田流箏曲演奏家として、伝統邦楽の世界での演奏活動も行っている。 また、自身の門下生を持つなど生田流箏曲・地歌三味線の教授にも力を注いでいる。
オフィシャルウェブサイト:http://www.yoshinagamana.com/
吉永真奈ブログ「千代に八千代に・・・」:http://blog.goo.ne.jp/manayoshinaga1120/

2009/06/19

今、輝いている女性に会いたい、お話を聞きたい――そんな思いからJunkStage女子スタッフが各界をリードする女性にインタビューをする企画が始まりました。
記念すべき第一回目のゲストは和楽器界の若き第一人者、吉永真奈さん
5歳より日本の伝統楽器である「箏(こと)」を習い始め、2004年には和楽器ユニット「Rin’ 」(注1)としてavaxよりメジャーデビュー。伝統的な音階に歌を載せたスタイルで活動し、日本にとどまらず全米デビューも果たしている実力派です。
現在は待望のソロ活動に専念している吉永さんに、箏についての思いや仕事とオフ両立の秘訣についてお話を伺ってまいりました。

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▲穏やかな表情でお話をしてくださる吉永さん。

■奏者・吉永真奈になるまで

――吉永さんは5歳から生田流箏曲を始められたそうですが、なぜ数ある楽器から箏を選ばれたのですか?

吉永:私の母が、幼いころから三味線や箏を習っていたんですね。それで小さかった頃は姉と一緒に母の稽古についていっていました。それで、あるときに今の師匠(注2)が「真奈ちゃんもやってみる?」って聞いたら、「うん」って言ったらしいんですよ。自分では全然覚えてないんですけど(笑) でもそれがきっかけで、自然と習うようになりました。家では三味線や筝の音がずっと聞こえているような環境でしたから。

――音楽の道を職業として選び取られたのは、16歳のとき。多くの人が大学卒業後に直面する問題に、吉永さんは早くからぶつかっていました。

吉永:私は小さい頃からなりたいものがいっぱいあって、実は高校までは「箏(こと)」の道に決めきれなかったんですね。奏者を職業として決めたのは高校1年で、大学進学を考えたときでした。私は元々すごい理系人間で、理系の強い高校に行って、理系の大学に行って、っていう道も考えていたんです。宇宙にすごい興味があったんですよ、だから宇宙科学研究者になりたい、とか思ってたりもして。天体関係にも興味があったし、筑波にある科学センターにも週末に家族と一緒に行ったりもしましたし。私の通っていた高校は高校1年で進路決定をするような進学校でしたから、希望大学別にクラスが完全に別れていて。その進路を決めるのにとても悩みました。あーどうしよう、ってたくさん考えて。理系に進んで研究者になるか、音楽家になるか、って。

――そんな時期に、吉永さんは高校のプログラムでオーストリアに短期留学をします。それは進路決定の直前のことでした。

吉永:留学中は日本と全然違う環境に刺激も受けましたし、いろんな方にも出会えましたから、すごく楽しかったですね。でも一番うれしかったのはその時のホストファミリーが私が箏(こと)をやっていることを知っていて、箏(こと)のある場所を探してくれたとき。「Mana、弾いて?」って言ってくれて、それで弾いたらホストファミリーが感動して泣いてくれたんです。私は小さい頃からお琴をやっていたこともあって、あんまり客観的な箏のよさだったり、箏のもつパワーっていうのは知らなかったんですけど、このことがあって、箏は日本の文化の代表として見せることもできるし、こういう風に日本を全く知らない人にも感動してもらえるし、楽しんでもらえる楽器なんだな、って初めて思いましたね。それがきっかけでこの道を選んだんです。留学から帰ってきたあとなんて、「箏持って世界を回りたい!」って言うようになってました(笑)。だから留学してなかったら、そうだなあ……科学者になってたかもしれないですね。

■音楽グループ「Rin’」での活動

――こうして進路を音楽の道に定めた吉永さんは、東京芸術大学に入学し音楽学部邦楽科生田流箏曲専攻を卒業。その後、「Rin’」という音楽ユニットを結成します。

吉永:芸大にいるときも、卒業後もそうだったんですけれど、日本の和楽器、特に伝統的な楽器ほどあまり格好よくないというか、古臭いという、私たち奏者にとってはマイナスなイメージが多かったんです。でも和楽器って魅力のある楽器だと思うんですね。だからそれをもっと多くの方に知ってほしくて、思い切ってJ-POPまで融合を図って、和楽器の新しい魅力を伝えていきたいな、と思ったのが「Rin’」の結成の理由です。

――「Rin’」にご参加されているメンバーはもともとそれぞれ和楽器の奏者ですが、ボーカルもメンバーが自ら担当しています。こうした楽器の奏者たちの多くが歌の入らないインストゥルメンタルで活動を行う中、ポップスで歌も展開されたということが特徴的でした。

吉永:やっぱり和楽器を使って新しい音楽を作る、たくさんの人に聞いてもらうというためには、ポップスにすることが必要で、そのためには歌が必要だろうと思ったんです。インストだけだとなかなか音楽チャートには上がれないし、やっぱりそれが出来る人はすごく少ない。私たちはもともと地歌と言って、日本の古典の歌はやっていたんですけど、ポップスに関しては素人でしたから、プロデューサーに最初「歌も歌ってみる?」と言われた時は自分たちで歌うなんて考えられなかったんですよ。「ええーっ!?」って(笑)。でもやっぱり多くの人に聞いてもらうためには歌が必要だろうって思いましたし、一番最初に作った曲(注3)にも最初から歌はありました。歌詞には日本に古くから伝わる美しい言葉がありますし、地歌にも素晴らしい表現の言葉はたくさんあって、それを伝えるためにも自分たちで歌うって選択をしたんです。だから歌詞には古典的な言葉をたくさん使っていると思いますし、それが「Rin’」の特徴だとも思いますね。

――アーティスト「Rin’」の名義ではシングル3枚、アルバムが6枚発表されています。それぞれに思い入れはあると思いますが……。

吉永:やっぱり一番思い出深いのはファーストアルバムの「時空」です。実はこのアルバムはデビューする前からこの詞はこうしよう、とか、ここをああしよう、とか、メンバー全員でひたすら話し合って作っていったものなんですね。だから思い入れもたくさんありますし、一番好きなアルバムです。だから「Rin’」のアルバムでどれがお薦め?って聞かれたら、もう迷わず「ファーストアルバムの『時空』がいいよ」って言ってますね(笑)。それぐらい、大事にしているアルバムです。

~後編(6月30日公開)に続く

* * *

注1)東京芸術大学を卒業した同期の女性和楽器演奏家であるMana(吉永真奈)・Tomoca(長須与佳)・Chie(新井智恵)の3名による音楽ユニット。箏、十七絃、琵琶、三絃、尺八といった日本の伝統楽器の音色に、様々なアレンジ、POPな音楽のメロディー要素を加え、新たな伝統音楽・文化を創造。ユニット名の由来は「凛(りん)とする」という意味のほか、英語の「Ring(輪)」と和楽の「和」をかけて、音楽を通じて「輪」を作っていきたい…という理由から。 2004年にavexから シングル「Sakitama~幸魂~」でデビュー、2006年にDomoレコードからアルバム「Inland Sea」で全米デビューを果たす。2009年2月13日に解散、現在はそれぞれにソロ活動を展開。

注2)安藤政輝。東京芸術大学教授。輝箏会・箏グループ輝(かがやき)主宰。日本で初めての音楽家による博士として、各界にて論文発表及び招待講演・演奏等を行う。

注3)「Smile on」。ファーストアルバム「時空」所収。

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<吉永真奈 略歴>
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5歳の頃より生田流箏曲を安藤政輝氏に師事。その後地歌三味線も師事。
2001年 東京芸術大学音楽学部邦楽科生田流箏曲専攻卒業。
2004年 和楽器ユニット「Rin’ 」を結成しavex より「Mana」としてメジャーデビューをする。「ブルボンチーズおかき」のCFやアニメ「SAMURAI 7」のエンディングテーマとしてRin’の楽曲が抜擢。 アメリカでのデビューアルバム「Inland  sea」では、プロデューサーにJimmy Harry、 ゲストボーカルにLISA LOEB、Leigh Nashを迎え、LA・NYなどアメリカ各地でライブを行う。現在までアメリカにとどまらず、中国各地、中米や南米でも数々のライブ活動を行う。
そして本年自身のより深い音楽活動を始めるため待望のソロ活動をスタート。「吉永真奈」として、楽曲制作、レコーディング、ライブなど新たな音楽創造を始める。
それ以外にも生田流箏曲演奏家として、伝統邦楽の世界での演奏活動も行っている。 また、自身の門下生を持つなど生田流箏曲・地歌三味線の教授にも力を注いでいる。
オフィシャルウェブサイト:http://www.yoshinagamana.com/
吉永真奈ブログ「千代に八千代に・・・」:http://blog.goo.ne.jp/manayoshinaga1120/