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2011/07/16

こんにちは。中世文学担当のタモンです。

 今回は、三島由紀夫『近代能楽集』「弱法師」が、原拠である能「弱法師」をどのように活かしているのかについて、お話したいと思います。最近だと、『近代能楽集』「弱法師」は、蜷川幸雄演出、藤原竜也主演で何度か演じられています。私は、藤原竜也主演の舞台を観て、彼の演技に圧倒されてハマりました。藤原竜也という俳優を知って、始めて舞台とテレビの媒体の違いをはっきりと認識できたのも、嬉しい発見だったのを覚えています。

以下、勝手な感想です。三島由紀夫を学んでいる方からすると見当違いも甚だしいことを書くかもしれません。ただ、能を中心に勉強する者が『近代能楽集』「弱法師」を見るとこんな感じになる、非常に大ざっぱな所感です。

 能と『近代能楽集』「弱法師」(以下、『近代』)を比較すると、三島が能に描かれた仏教思想まで理解して創作していると思います。最も印象に残ったのは、クライマックスの場面です。能では、盲目の弱法師は、「日想観」を観想することで、眼前に風景を見ることができました。社会の最下層に位置する人間が、奇跡を体感し、悟りを感得するという設定は、日本文学のなかでよく見られるモチーフでもあります。この設定を『近代』は反転させます。能では弱法師の救いであり悟りの具現である風景の描写を、『近代』の主人公・俊徳は、第二次世界大戦の空襲で街全体が炎に包まれた地獄絵図を見たとし、「この世のおわり」と述べています。

俊徳 あなたは入日だと思っているんでしょう。夕映えだと思っているんでしょう。ちがいますよ。あれはね。この世のおわりの景色んです。(中略)いいですか。あれは夕日じゃありません!僕はたしかにこの世のおわりを見た。五つのとき、戦争の最後の年、僕の目を灼いたその最後の炎までも見た。それ以来、いつも僕の目の前には、この世のおわりの焔が燃えさかっているんです。何度か僕もあなたのように、それを静かな入日の景色だと思おうとした。でもだめなんだ。僕の見たものはたしかにこの世界が火に包まれている姿なんだから。

この反転、意外と指摘されていないんです。なぜだう…。この前、先輩とこの話をして盛り上がりました。先輩が論文で書いてくださるのを待っている今日この頃。あと、藤原竜也のここの語る場面は圧巻でした。…かっこよかったぁ。。。森山未來もやらないかなあと密かに思っています。俊徳は、一般の人が聞いたら変なことを見ようとします。「青空のまん中に大きな金色の象が歩いている」「ビルの十二階の窓のひとつから大きな黄いろい薔薇が身を投げる」など…。

このような発言を繰り返し、養父母からは「狂人」(原文からの引用)扱いされています。能では盲目の身であることが乞食に落ちるまでの扱いをされるほど、差別を受ける対象でした。

そのような差別がなくなった『近代』において、俊徳は、素っ頓狂ことを繰り返し騒ぎ立てる彼の言動によって、社会から疎外されてしまうような存在として描かれます。そんな俊徳を愛する、愛そうとする養父母と実父母。幼児のわがままのような、荒唐無稽際まりない俊徳の言動を、容認し、追認しようとします。その理由は、、、よくわかりません。ただ、養父母は俊徳に天性の美貌とオーラに惹き付けられ、十五年間俊徳を育ててきた自負があります。実父母は血のつながりを主張します。両者ともに、俊徳の父母である、ということで養育権を主張するのです。

最後の俊徳のセリフが象徴的です。

 俊徳 僕ってね、……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ。

これもまた、能の結末を踏まえたものであるような気がします。父との再会を果たす能の結末は、「ハッピーエンド」と捉えるものがあります。タモンは、その解釈ではなく、前回述べたように、人目を避けて声をかける父の姿から被差別民になった弱法師の過酷な未来と捉えます。そもそも父が息子を勘当したきっかけは、父が弱法師にまつわる嘘を吹き込まれたからです。能では明らかにされませんが、おそらく、身分ある父を息子が追い落としてその地位を狙っている…などのようなものであることが想像されます。父と息子は愛によって固く結ばれた関係ではないこと、息子が弱法師になった遠因を父が作っているのがポイントです。

三島もまた、能をそのように捉えたのではないのかなあ、と思うのです。だからこそ、天性の美貌とオーラによって養父母を惹き付け、血のつながりによって実父母を捉える彼の姿と、、、、。それにくわえて、目が不自由である者になったからこそ周りの注目を浴び続ける生涯をおくることを「誰からも愛される」という言葉で能からの脱却を表していると感じます。

ほんとうに、おおざっぱな感想です。……。

 最後に、今まで俊徳にだけ注目していて触れませんでしたが、調停員・桜間級子も重要な人物です。狂言廻し的な役割を担っています。最後に「この世の終わり」を俊徳が見るのは、級子と二人きりの部屋なんですね。

俊徳 君は僕から奪おうとしているんだね。この世のおわりの景色を

級子 そうですわ。それが私の役目です

俊徳 それがなくては僕が生きて行けない。それを承知で奪おうとするんだね。

級子 ええ

俊徳 死んでもいいんだね、僕が

級子 あなたはもう死んでいたんです。

 劇中では描かれませんが、おそらく、俊徳は実父母のもとへ引き取られるでしょう。養父母に育てられる盲目の孤児は、悲惨で過酷な体験をし、現在も「辛い」境遇であるからこそ、「この世のおわりの景色」を見ることができます。それが実父母に引き取られれば、その境遇はなくなる。アイデンティティをそこに寄りかかっていた俊徳は、その体験は自分自身を規定するものに他なりません。それがなくなるのです。

 級子が俊徳に「こちら側」へ呼び寄せる役割をもっているともいえます。「愛される」人物として結末を迎えますが、俊徳と級子の会話から、彼の今後は「普通」の人生であることが暗示されます。それが、特別であることを自覚した俊徳にとって、我慢ならないことであった、とも読み取れるのです。

 能では奇跡を経て、人間が容赦ない現実と向かい合う姿が描かれていました。『近代』でもまた、二重三重の反転がされながらも、その点ではおなじなのではないかと感じます。

今回で、弱法師については終わりです。タモンの今度のテーマは、、、何にするかまだ決めてません。方堅(ほうがため)についてやろうか、「道成寺」についてやろうか、もしくはもっと他のことか。考え中です。

次回は諒です。おたのしみに~。

2011/07/16 11:28 | タモン(中世文学担当) | No Comments

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