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2011/06/06

こんにちは。中世文学担当のタモンです。

前回に引き続いて、「弱法師」についてお話しようと思います。

えーと、今回注目したいのが、能「弱法師」です。

次回に、三島由紀夫の『近代能楽集』「弱法師」と比較してみたいと思います。

 まず、「弱法師」の舞台は聖徳太子創建と伝えられる天王寺(現在の四天王寺)です。

この寺は病人や貧窮者、身体障碍者などを救済する悲田院が設けられ、社会から見捨てられた人々が集う特別な場所でした。風が吹きだまりに埃を集めてしまうように、天王寺は階層からこぼれ落ちた人々の拠り所だったのです。もとは地元の名士の息子であった俊徳丸は、父に勘当された今は盲目の乞食となり、天王寺に集まる人々の一員です。

余談です。映画「もののけ姫」でエボシ御前がハンセン病に罹患した人々を製鉄業に携わらせていましたね。エボシ御前は森の神・デイダラボッチを退治する近代的思考を持つ表れとして、差別されて行き場のない人々に仕事を与えている人物であることも、映画では描かれています。あのような描写は、宮崎駿が考える中世的世界だったのでしょう。

 差別の問題は、「弱法師」の結末にもほのめかされています。盲目の乞食こそ、勘当した息子・俊徳丸と気づいた父・通俊は、夜も更け人気がなくなった頃、父であると名乗り、俊徳丸とともに高安の里に帰ります。これは、地元の名士である父が、乞食と関わりがあると周囲に知られるのを恐れているからです。ここには、社会からはずれた者に対する厳しい中世社会の現実が浮きあがってきます。

天王寺は、単なる生活の場ではなく、信仰の場でもありました。天王寺の西門は、極楽の東門と向かい合っているという信仰が浸透していたからです。極楽成仏を願って西門から海に入って自殺する者がいたほどでした。天王寺の西門と石の鳥居の間は、あの世とこの世の境界と考えられていました。人々にとって、仏に救いを求め、来世での幸せを想像して極楽往生を願うのは、ごく自然のことだったといえるかもしれません。

天王寺の西門になぜ…?というのはよくわかりません。西門には聖徳太子の自筆とされる「釈迦如来転法輪処、当極楽土東門中心」と書かれた額があります。『梁塵秘抄』巻二極楽歌には「極楽浄土の東門は、難波の海にぞ対へたる、転法輪処の西門に、念仏する人参れとて」とあることから、平安時代末期にはその信仰が流布していたことがわかります。シテの登場場面で、シテが「石の鳥居やこれなれや」と鳥居を杖で探り当てたり、シテ柱へ身をこするようにしたり、シテ柱を左手や杖で撫でおろしたりと、さまざまな演出方法があります。

 クライマックスで、暗闇のなかに生きる俊徳丸が、難波の風景を心眼で見て狂乱するのは、『観無量寿経』に説かれる「日想観(じっそうかん)」の考えが背景にあります。日想観とは、浄土を観想するために、西に向かい太陽の没するさまを観想することです。社会の最下層に位置する弱法師が、日想観を口にし、心眼で美しい海辺を「見る」ことができる奇跡が起きます。「おう見るぞとよ、見るぞとよ」と舞を舞いながら、それを見つめる透徹とした眼差しは美しいです。しかし、その風景を見ると同時に、俊徳丸はよろよろと転び伏し、それを見た人々が嘲笑することで、現実へと一気に引き戻されます。そして父子が帰宅という結末。

 このように、父と子の再会によるハッピーエンドで終わらせず、「現実」を描いた能「弱法師」だからこそ、現代でも人気が高いのかもしれません。「弱法師」の作者・観世元雅という人は、現実と救いの相克を描くことに長けていたと思います。中世は宗教が濃厚にたちあがってくる時代です。いくつもの戦乱、飢饉、自然災害があり、死が今よりもずっと身近でした。そのなかで、元雅は冷めた眼で宗教と人との関わりを見つめているといえるでしょう。

2011/06/06 01:50 | タモン(中世文学担当) | No Comments

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