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2012/09/30

こんにちは、タモンです。

雨が降ってきました。風も吹いているようです。

台風は今夜がピークですね。

 

前回、小野小町の歌を三首取り上げました。

今回は、小野小町の伝説をめぐって書こうと思います。

 

小町の墓は、全国に何カ所もあります。

晩年の小町は、浮き草のように放浪したという伝説からでしょう。

全国各地の小町伝説を調べた本があるのですが、とても分厚いです。それくらい、小町の伝説はたくさんあります。

 

本当の小町がどんな人だったのか、ということよりも、

なぜ小町はこれほどまでに人々の興味を惹きつけたのか、について焦点を当てたいと思います。

 

小町って、「女」なんです。

小町について、

①「結婚」をしなかった、

②「家」をもたなかった、

③「子ども」をもたなかった、

という当時の女としてどれか一つは持たないとマズいものを何も持たなかった人物として認識されていたと捉えるといいのではないか、と思います。

 

情熱的な恋歌を詠んだことから、男たちを弄んだ恋多き「女」としてもイメージが生まれたのかもしれません。

 

小町よりも少し後の時代の歌人・和泉式部も恋多き女性として知られています。

和泉式部は、兄・為尊親王と恋愛し、兄の死後、弟・敦道親王と愛しあうようになったことがスキャンダラスな恋愛として語られている人物です。

小町のよりも、式部の方が、知られている恋愛の華やかさは上だと思います。

 

しかし!!、男たちを弄んだために、小町の晩年は無惨なものだったという伝説は、和泉式部よりも多く作られていると思います。

(……っていっても、和泉式部も、御伽草子に、そうとは知らずわが子と契りを結んでしまう式部の物語が作られているわけですが。)

 

二人の違いといったら、小町は子どもを持たず、式部は子どもを産んでいるんですね。

 

これが大きかったんじゃないか、と私は想像しています。

 

ではまず、小町が無惨な晩年をおくったという説話を見ようとおもいます。

『十訓抄』(鎌倉時代の説話集)で、小町は宮中で華やかで浪費した生活をした報いなのか、家族を次々と失い、晩年は貧しい生活を強いられたことが書かれています。

 

『十訓抄』二ノ四

小野小町が少(わか)くて色を好みし時、もてなされしありさま、ならびなかりけり。『壮衰記』(『玉造小町子壮衰書』)といふものには、

三皇五帝の妃も、漢王周公の妻(め)も、いまだこのおごりをなさず

と書きためり。

かかりければ、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調(ととの)へ、身には蘭麝(らんじゃ)を薫じ、口には和歌を詠(なが)め、万(よろず)の男を賎しくのみ思ひ下し、女御、后に心をかけたりしほどに、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、二十一にて兄にわかれ、二十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼のひとり人(うど)になりて、頼むかたなかりき。いみじき栄え、日々に衰へ、はなやかなる形、年々にすたれつつ、心かけたるたぐひも、うとくのみありしかば、家は壊(やぶ)れて、月の光むなしくすみ、庭は荒れて、蓬のみいたづらに茂し。

(中略)懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけむかし。

 

これ、すごいですね~~。

鎌倉時代には、このような説話がたくさん書かれます。

マリーアントワネットのような生活を送ったため、家族を失い、貧しく無惨な晩年をおくったというタイプの説話です。(最近の研究では、マリーの放蕩ぶりも「伝説化」されたものだったとされているみたいですが)

 

きわめつけは、『玉造小町子壮衰書』(『玉造小町壮衰書』とも)です。

もともとは漢文体小説で、作者はわかっていません。この漢文小説は、小野小町に関する晩年の没落を語る説話をふまえた創作とみられています。

冒頭の文と、要約文挙げます。

 

予(われ)

行路の次(ついで)

歩道の間

径の辺、途の傍に、

一の女人有り。

容貌の顦顇(しょうすい)と、

身躰の疲痩(ひそう)たり。

頭は霜(そう)蓬(ほう)の如く、

膚は凍(とう)梨(り)に似たり。

骨は竦(そばだ)ち筋抗(あが)りて、

面は黒く歯黄ばめり。

裸形と衣無く、

徒(と)跣(せん)にして履(はきもの)無し。

声振ひて言ふこと能はず、

足蹇(な)へて歩むこと能はず、

糇(こう)糧(りょう)已(すで)に尽きて、

朝夕(ちょうせき)の飡(さん)も支へ難し

糠粃(こうひ)の悉く畢(お)へて、

旦暮の命も知らず。

左の臂には破れたる筺(あじか)を懸け、

右の手には壊(やぶ)れたる笠を提げたり。

頸には一つの裹(つつみ)を係け、

背には一つの袋を負へり。

袋には何物をか容れたる、

垢膩(くに)の衣。

裹には何物をか容れたる、

粟豆の餉(かれいい)。

笠には何物をか入れたる、

田の黒き蔦芘(なまぐわい)。

筺には何物をか入れたる、

野の青き蕨(わらび)薇。

肩破れたる衣は胸に懸かり、

頸壊れたる蓑は腰に纏(まとわ)れり。

衢(く)眼(かん)に匍匐(ほふく)し、

路頭に徘徊(はいかい)す。

 

(要約)

私が道を歩いていた時、女が一人がいた。

女の姿は痩せ衰え、身は疲れ果てていた。

頭は霜枯れの蓬のように白くまばらで、肌は凍った梨の実のようにかさかさだった。

骨はとがり、筋も浮き上がって、

顔は黒ずみ、歯は黄ばんでいた。

身につけている衣はなく、素足で履物もない。

声は震えて言葉にならず、足はなえて歩みもおぼつかない。

糧尽きて朝夕の食事もままならない。糠やくず米も食い尽くし、今日命が尽きるかもしれない。

左の臂には破れた竹かご(筺)を懸け、右の手には壊れた笠を提げていた。

首には包みを懸け、背には袋を負っていた。

「袋には何を容れているのかね」と聞くと、

「垢じみた衣さ」と答える。

「包みには何を容れているのかね」と聞くと、

「粟と豆の乾飯さ」と答える。

「笠には何を容れているのかね」と聞くと、

「田んぼの黒くわいさ」と答える。

「竹かごには何を容れているのかね」と聞くと、

「野摘みの青くさい蕨とゼンマイさ」と答える。

肩の破れた衣は胸に垂れさがり、首の破れた蓑は腰にまとわりついている。

女は街かどをはいずりまわり、路ばたをうろつきまわっている。

 

 

 

 

こんな風に、

ヨボヨボでしわくちゃで不潔な老女の小町像が、定着するわけです。

若い頃の影など全くありません。

 

本文読むとわかるのですが、

「小町」と名乗っているわけではないのです。

この漢文小説の内容と、小町伝説が結びついたため、書名が後に付けられたとも考えられています。

 

人々の興味は小町の晩年だけではなく、

小町の死後にもそそがれます。

次回は、髑髏になった小町を見ていこうと思います!

 

2012/09/30 07:59 | タモン(中世文学担当) | No Comments

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