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2011/02/10

〔春か…〕

こんにちは。諒です。相変わらず寒い日が続いています。冬は半冬眠(?)するほど寒いのが苦手な私は、つい家に籠りがちになります。でも、澄み渡る青空の下で咲く梅には、寒さに打ち震えながらも春を感じさせられます。こんな季節なので、今回は、上代文学と梅について、少しばかり書きたいと思います。まだ雪の残るうちから他の木々に先駆けて咲く梅は、春の到来を告げる風物として、文人に愛されてきました。現代では季節になると各地で「梅まつり」が開催されますが、これが現代の楽しみ方で、そこにはある文化(例えば屋台が出たりお茶会を開いたり)が生じるように、観賞方法(場や感覚)は時代によって変遷するものです。上代にも、上代の梅があったはず!、ということで、奈良時代の、ある一場面からそれを探ってみたいと思います。 

天平二年〔720〕の春正月十三日〔グレゴリオ暦の28日〕、大宰帥(そち)大伴旅人(たびと)の役邸に人々が集まり、歌を披講する宴が催されました。これが、『萬葉集』巻五(815846)に見える、「梅花の歌三十二首」です。主人 旅人の「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(わが園に梅の花が散っている。〈ひさかたの〉天から雪が流れ来るのだろうか)」(822 ←歌番号です。以下同じ)をはじめとして、山上憶良の歌(818なども見え、いわゆる「筑紫歌壇」の盛んな様子を伝える歌群でもあります。旅人が「我が園」の梅と歌っていることからも、集まった人々は旅人邸の梅を取り上げて歌を詠んだと考えられます。

この宴席、上代の文化的な背景を見ると、ただ庭園の梅を観に集まったと理解されるばかりではなく、とても興味深い雰囲気を持っていたことがわかります。一言であらわすと、実に「大陸的」であった、ということです。…どのあたりが、でしょうか。

〔梅ね…〕

梅が日本古来のものではない、と私が知った時、「あ、そうなんだ。妙に納得」という気分と「ほんとかよー(間違えた。「ほんとうですか?」)。どこにでもあるのに!」という違和感が混在した感想をもったかと想像します(記憶は有りません)。だって、あまりに日本の風土に馴染み過ぎているのですもの。和歌に牡丹や獅子(!?)が出てくるとむずむずしますが、梅が出てきても変な感じはしません。「伝統的」とすら思います(主観です)。でも、梅は渡来植物です。

弥生時代の遺跡(山口県熊毛町の岡山遺跡など)から梅の実核が出土しており、その頃までに梅が大陸からもたらされたことが明らかです。この時期は漢や朝鮮半島との交流によって穀類、果樹が導入された第一期にあたります。さらに下って飛鳥、奈良時代、隋や唐との交流へと展開します。国立歴史民俗博物館編『海をわたった華花』(東京印書館、2004)にこの辺りのことがわかりやすく解説されていますが、その中で、「中国の政治や生活文化といっしょになって導入されたものが圧倒的に多」く、梅も第一期導入のものと「決して同じ系統ではなかった」とあるように、「梅花の歌」の背景には大陸文化の導入を抜きに考えられません。

〔詩から歌へ〕

『萬葉集』も旅人や憶良の時代(第三期…平城遷都〔710〕~天平五年〔733〕頃) になると、歌に漢詩の影響が色濃く見られるようになります。もとより、当時の官僚の素養として漢籍の知識は必須以上に必須(?)で、文芸においても漢詩・歌のどちらも嗜むという文人貴族がいて(旅人もその一人)、そのような人々にとって、漢詩漢文の表現を歌の表現に応用する試みは意識的であったにせよ、大陸風の文化の波が押し寄せる中で、極めて自然な発想であったと想像されます。

梅は古代日本にあって代表的な渡来植物のひとつですが、その梅を宅の庭園に植えて、さらに観賞し、歌を詠むに至るまでにはいくつかの段階があります。

〈中国で〉 六朝(呉・東晋・宋・斉・梁・陳/〔222589年〕)時代、山水の風景を人工的に摸造した庭園を鑑賞するという趣向が流行します。こうした庭園造りは、おりしも詩や画といった文芸の世界での、山水から個々の景物(月、雪、植物、鳥獣など)へと鑑賞の対象が細分化されて行った傾向と連動するようです。「山水詩」は「詠物詩(文会の場において、あらかじめ設定された題に従って詩を作る)」へ、「山水画」は「花鳥画」へという展開を見せるのです。そうした中で邸宅や庭園での詩宴が盛んに行われるようになり、苑内におかれた「物」は嘱目の対象として定着していきます。言うまでもなく梅も含まれるのです。このような六朝~初唐にかけての趣向は、日本に伝えられ、好まれました。

〈日本で〉 さて、日本で庭園が本格的に造られるようになったのは、平城京遷都以後と見られます。例えば、平城宮内には現在苑池が復元されていますし、また、かの長屋王の邸宅跡からはウメ、アンズ、モモ、メロン(!)、ナツメ、トウガンなど大変様々な花果の遺物が発見されているそうで、風流な王家や上流貴族の宅にはこぞって大陸の趣向が導入されました。『続日本紀』神亀三年〔726九月十五日に発された内裏の玉棗(ナツメ)の詩賦を作るように、という聖武天皇の勅命に応じて、二十七日、「文人一百十二人(!)」が詩賦を奉ります。『新日本古典文学大系 続日本紀』(岩波書店)は、この記事について「長屋王の詩壇の隆盛を示す」かと推測しています。その長屋王の詩も載録されている、日本で編纂された現存最古の漢詩文集『懐風藻』には葛野王(かどののおおきみ)天智八〔669頃~慶雲二〔706〕)の「春日鶯梅を翫ぶ」(10などの詠物詩が見えています。 

このように詩文においてまず導入された「詠物」の影響は、歌にも現れてきます。『萬葉集』巻三の第三期歌人たちの歌の間に並ぶ間人大浦(はしひとのおおうら)(伝未詳)の歌(289290には「初月歌」という題が附されていますが、この「初月」は中国の詠物詩の代表的な題のひとつであります。旅人や憶良が活躍した『萬葉集』第三期には六朝・初唐時代の漢詩漢文に学び、詩と歌の両方で表現を模索する試みが精力的になされているのです。ちなみに、この第三期のはじめ頃には712年『古事記』撰進、713年『風土記』撰進の詔、720年『日本書紀』成立、と上代文学の代表的な書物が編まれていて、漢籍的な素養を基礎としつつ、日本の文化をより高めていくという機運が文芸においてもいよいよ高まりを見せたであろうことを考えさせます。

〔やっと…〕

そして、「梅花の歌」。邸内の苑池に嘱目を求める詠物詩の日本における定着を経て、詠物の歌へと展開して行き、大宰府での梅花の宴はそれを背景として開催されるに至ったのです。庭園の梅を観賞するために設けられた宴の席は謂わば大陸趣味のインテリゲンチャの集まりであることがわかるかと思います。それはただの模倣では無くて、最高の教育を受けた官人たちによる、新しい試みであったことは強調しておきたいところです。

この歌群は知られる限り、庭園の梅を題とした最も早い例です。ちなみに、当時の梅はほとんどが白梅であったそうです。はじめに挙げました、旅人の歌に「天から雪が流れて来るのでしょうか」とあるのは、白い梅を雪に見立てた、という趣向です。この後、梅花詠は大伴家持を中心とする『萬葉集』第四期歌人たちに引き継がれ、その数は実に120首にも及びます。萩に次いで二番目の量ですから、大陸からもたらされたこの植物が、いかに日本人に興味を持たれ、好まれたかが伺えるかと思います。バラ園に立って、行ったこともないのにベルサイユに思いを馳せたり、時にミス・マープルな英国気分に浸ってみたり(ちょっと少女趣味?気持ち悪いとかゆわないでね…)、そんな憧れを、上代の人々は庭園の梅に見たのだろうなーと勝手に想像するのでした。

大宰府の梅と言えば、今では菅原道真にその地位(?) を奪われていますが、上代文学を勉強する者、「あれ?太宰具天満宮の梅って、大伴旅人邸から持ってきたんじゃないの?」くらいの勘違いはしたいものです。…実際したら、ドン引きされること間違いなしですが。

そんな私は、梅と言えば水戸黄門(ん?聞いてない?)偕楽園に行ってみたいな。ということで、皆さま、梅を楽しみましょう。中国原産でも日本で愛でる梅にはやっぱり日本酒(個人的な意見です)。

では、次回 なお に引き継ぎたいと思います。私 諒 の次のテーマは…すみません、まだ考えてません…(無計画で人生を損してます)。 うぅ…、でも、何かマニアックなものを考えます。

2011/02/10 10:41 | 諒(奈良時代までの上代文学担当) | No Comments

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