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2011/07/30

こんにちは。諒です。

関東は、雨でじめじめしているものの、気温としてはしばらく過ごしやすい日が続いていますが、決して「暑くない」わけではないですよね。日中はやはり汗をかきますし、動けば体が涼を求めます。節電がさけばれる昨今、涼しさに対する飢餓感が無意識に育ちつつあるような気がします。建築のことはよく知りませんが、学会や会社の建物というのは基本的に空調の効率を前提としているようで、風を入れて暑さを凌ごうにも、そもそも窓が開かなかったり、開けてもあまり意味がなかったり。そんな時、吉田兼好が、

家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き此(ころ)わろき住居(すまゐ)は、堪へがたき事なり。(『徒然草』第五五段)

と言っているのを思い出します。これは当時の京都での暮らしのことですが、これからは都会の都市構想にも必要なのかな、と思います。もっとも、冬のことや近年の気象の諸々を加味した対策が取られなければならないのでしょうけれど。すでに取り組まれているのかも知れません。

さて、前置きが長くなりましたが、今回は古代日本人の暑さ対策について少し書きたいと思います。近年の猛暑ほどではないにしろ、古代も夏はやっぱり暑いわけで、人々は涼しさの追及を行っています。その一つが、「氷」の利用。といっても、1000年以上前のことですので、もちろん冷蔵(凍)庫などといった便利家電は存在しません。でも、冬に作った氷を貯蔵し、利用する知恵がありました。「氷室」(ひむろ)の活用です。

氷室に関する史料は必ずしも多くないのですが、平安時代に律令の補助資料として編纂された『延喜式』には、十ヶ所の氷室が記されています。なかでも有名なのが、都祁(つげ:現在の奈良市。石上神宮を西に見て山間部にずっと入ったところ。ゴルフ場が点在する辺り)の氷室でありました。『日本書紀』(仁徳天皇六十二年条)には、都祁の氷が朝廷に貢献されることにった起源が書かれてあります。ちょっと長くなりますが、せっかくなので全文を見てみましょう。

〔1、応神天皇の皇子である額田大中彦皇子(ぬかたのおほなかつひこのみこ)が氷室を発見〕 是の歳に、額田大中彦皇子、闘鶏(つけ)に猟(かり)したまふ。時に皇子、山の上より望みて、野中を贍(み)たまふに、物有り、其の形、廬(いほ)の如し。仍(よ)りて使者を遣して視(み)しめたまふ。還り来りて曰(まを)さく、「窟(むろ)なり」とまをす。因りて闘鶏稲置大山主(つけのいなきおほやまぬし)を喚(め)し、問ひて曰(のたま)はく、「其の野中に有るは、何の窟ぞ」とのたまふ。啓(まを)して曰(まを)さく、「氷室なり」とまをす。

都祁の野中に廬のような建造物を発見し、問うたところ、氷室であるとの答えが返ってきます。

〔2、氷室の使い方〕 皇子の曰はく、「其の蔵(をさむるさま)如何にぞ。亦、奚(なに)にか用(つか)ふ」とのたまふ。曰さく、「土を掘ること丈(ひとつゑ)余り、草を以ちて其の上に蓋(おほ)ふ。敦く茅・荻を敷き、氷を取りて其の上に置く。既に夏月(なつ)を経て泮(き)へず。其の用ふこと、即ち熱月(なつ)に当りて、水酒に漬して用ふなり」とまをす。皇子、則ち其の氷を将来(もちきた)りて、御所(おほみもと)に献る。天皇、歓びたまふ。是より以後、季冬(しはす:十二月)に当る毎に、必ず氷を蔵(をさ)め、春分(きさらぎ)に到りて始めて氷を散(くば)る。

氷室をどのように使うかというと、3~4メートルほど掘った穴の中に、茅や荻を敷いて、其の上に氷を置いておくとあります。仁徳朝は大体五世紀頃にあたります。実際、どれほど昔からこうした窟の活用が行われていたのか、それを知るすべは今はありませんが、温暖期と寒冷期を幾度も経た人類の歴史の古に遡れるのではないか、と想像が膨らむところです。ロマンです。都祁の氷室はその遺跡から、数十基単位で数ヶ所にわたり運用されていたことがわかっています。その実態の一端が、かの長屋王邸跡から出土した木簡によって確認されます。そこには、「都祁氷室二具深各一丈/廻各六丈//取置氷〇/一室三寸/一室二寸半・・・」(奈文研「木簡データベース」より)と窟の大きさが示されてあり、後文には、やはり草が敷かれていること、そして和銅五年(712)二月一日という日付まで記されてあります。この木簡は、長屋王の専用氷室があったことを示す史料なのでした。都祁の氷は、仁徳紀のような伝説が遺るほど、由緒正しい氷室であるためか。都が山城に遷り、朝廷による新たな氷室の運用が行われても、なお都に運ばれ続けたことが、前出の『延喜式』の記載からわかります。

都祁地域以外の奈良時代以前の氷室の分布については、史料が少ない関係で未だ謎に満ちています。そんな中で、ひとつ、重要な資料として認められるのが、天平勝宝八年(756)に成立した「東大寺山堺四至図」という、当時の東大寺の所領地を示す地図です。その界域には現在の春日社の境内も含まれていて、その中に「氷池」と「氷室谷」が示されているのです。平成二十年(2008)、この比定地の辺りで、都祁の氷室跡に似た、土坑跡が見つかりました。参考文献3.によると、この場所は奈良の「氷室神社」の旧社地ではないかと目されている所です。この神社、近鉄奈良駅から東大寺へ続く登大路の途中、奈良博の向かいにあるのですが、ご存知でしょうか。今後、調査が進めば、奈良時代の氷室の実態がより解明されることが期待されます。そうすれば、仁徳紀の氷室伝説がどれだけ重要視されたか、といったことまで研究が広がりそうです。楽しみです。

さて、古代の夏と氷については一回にまとめるつもりでしたが、思いのほか分量が多くなったので、二回に分けます。分けてしまったら、驚くことに二回目はほとんど奈良時代のことが出てきません・・・。ご了承ください。(自分の計画性のなさにびっくりしています。反省)

次回、八月の更新ではJunkStage舞台イベントの参加企画(イベント特設サイト;http://www.junkstage.com/110911/)として、関連する内容のコラムを掲載することになっています。まずはタモン氏のコラム、おたのしみに。

今回の参考文献 ) 1. 井上薫氏「都祁の氷池と氷室」『ヒストリア』85、昭和54年12月 / 2. 川村和正氏「氷室制度考―古代末葉の氷室制度の様相を中心として―」『国史学研究』31、平成20年3月 / 3. 同氏「奈良氷室に関する諸問題」『国史学研究』33、平成22年3月


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