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2013/11/30

こんにちは、タモンです。

今回は閑話休題ということで、最近思ったことを書こうと思います。

最近、大正期から昭和期にかけての能楽について勉強する機会がありました。勉強する前は、大正時代は、約80年前のことなので随分昔のことという感覚だったのですが、現在の能楽が抱えている問題と地続きなんだと実感しました。

いってみれば、取り扱う題材がどれも生々しい。
時間の亀裂を覗きこんでしまったような感覚になりました。

朝ドラ「ごちそうさん」を見ています。このドラマにハマりました。面白いです。
このドラマは明治~大正~昭和を生きた女性が主人公です。

ドラマは、現在、大正12年(1923)を描いています。
大正時代は民主主義への機運が高まり、女性解放運動が時代でもあります。

これから展開が変わるかもしれませんが、今のところ、タモンは「ごちそうさん」のテーマは、「女たちよ、専業主婦になれ!」だと思っています。

主人公・め以子は洋食屋の娘。夫・西門悠太郎は没落した旧家出身。
め以子は結婚によって、社会階層の上昇を果たします。今のところ、小姑に認めてもらえず、め以子は「女中」扱いです。(関係ないですが女中という言葉が差別語か否か問題になったことがありましたが、その決着ってついたの?という疑問あり)。これは、本来、め以子の出身だと、悠太郎との関係は、女中と主人であったことを示唆しています。め以子が商店街の人々と仲良く、近所から拒絶されていることも、め以子の現在の立場を表しています。家族から求められる「妻」という役割自体が、女中と同様であるという批評性もあるのかもしれません。

「ごちそうさん」は、め以子の階層上昇や、親友・桜子の駆け落ちを描くことで、民主主義が叫ばれた時代背景を匂わせているのだと思います(希子の結婚相手が気になる)。

悠太郎と喧嘩して家出しため以子は、(みんなの協力もあって)1週間で流行らない喫茶店を流行らせることを成功させます。今日の放送を見ていて、「貧乏でもいいじゃん!自分のもつ才気を、女は全部家族のために使おう!!」という空耳が画面から聞こえてきました…。う゛おぉ。
女性解放運動の影響は、もしかしたら、これから希子が担うのかもしれません(そして戦争によって潰される、とか)。

「ごちそうさん」を見ていると、現在も解決されていない女性にまつわる課題、女性と家族にまつわる問題を扱っているんだなあ……、と実感。
それがこれからどのように調理されていくのか、ワクワクしながら見ようと思います。

2013/09/30

こんにちは、タモンです。

 

中秋の名月、秋分の日が過ぎ、もうすぐハロウィーンです。

今年も残り三か月。

心は浮きやかに、

態度は淡々と、粛々として日々に臨みたいと思います。

 

今回、秋ということで、能「松虫」を取りあげたいと思います。

 

能「松虫」のあらすじは…。

津の国(現在の大阪府)阿倍野に現れた男の亡霊。男は、松虫の音を聞きながら、生前友と交わした友情を思い出し、酒宴の舞を舞う。

 

舞台は阿倍野。

テレビ番組「月曜から夜ふかし」で「あべのハルカス」という高層ビルが建つことを知りました。その阿倍野です。

 

この能は、『古今和歌集』仮名序「松虫の音に友を偲び」という箇所について、『古今和歌集』の注釈書『古今和歌集序聞書』(別名・三流抄)の解釈を下敷きにして、あらすじを仕立てています。

 

男の亡霊が友情のために舞を舞うというのは、能では珍しいモチーフです。

そもそも、亡霊が現世にとどまる執着心の中味がよくわからない。

なので二人は恋仲だったという説もあります。愛する人を先に亡くした男が、亡霊となっても二人の思い出の松虫(待つ虫)の音を聞いているうちに、自分もまた松虫の精霊になっていくような感じがする…。そんな解釈です。

 

中世において、男色はひとつの愛の形であり(実態がどうであれ)、文化の一角をなしていました。

妄執を抱える理由として、友情よりも恋情のほうがしっくりくるという説も納得できます。

 

タモンは、詞章を読むかぎり、友情でもいいじゃん!と思っています。

「心の友」が自分より先に死んだことがあまりに悲しくて亡霊となった男の物語でも、不自然さはない気がするのです。

が、この解釈は現代的なのかもなあ…とためらう部分も。

いわゆる、日本文学で「友情」を「発見」した人は誰なんでしょうかね。武者小路実篤?そんなわけないか。

 

タモンが一番好きな箇所はクライマックスのここです↓

 

シテ/面白や、千草にすだく虫の音の

地/機(はた)織る音の

シテ/きりはたりちやう

地/きちはたりちやう、つづりさせてふ、きりぎりす・ひぐらし、いろいろの色音の中に、別(わ)きてわが偲ぶ、松虫の声、りんりんりん、りんとして夜の声、冥々たり

 

※きりはたりちやう→キリ・ハタリ・チョウは機織りや虫の音の擬音語。

※夜の声→通常、鶴の鳴き声に用いられる表現だが、ここでは「夜の静けさをやぶる虫の音」の意で用いられる。

 

昔、「音」は「声」でした。

『平家物語』冒頭「祇園精舎の鐘の声」のように、「鐘の音」ではなく「鐘の声」でした。

 

能「芭蕉」に、「芭蕉に落ちて松の声、あだにや風の破るらん」

という異格の表現があります。

芭蕉葉を破り、吹き落とす松風の音。

その風音が「松の声」と表現されています。

 

能「松虫」では、

松虫の音を「夜の声」とします。能「小督」にも見られるものの、珍しい表現です。

静謐な夜を破る、「りんりん」という音。

その音が暗闇に融けあっていくさまが、「冥々たり」と表されています。

この箇所によって、

漆黒の闇に包まれた草原で、虫の音、それも松虫の音だけが際だつ風景が立ちあがってきます。

虫の音を「面白や」と捉え、その風流を愛でつつ、

その「声」が響く「夜」も愛しむ感じの表現に心惹かれるんです。

 

最後、

「朝(あした)の原の、草茫々たる、朝(あした)の原に、虫の音ばかりや残るらん」

と終わります。

夜明けとともに亡霊は消え、「声」ではなく「音」ばかりが響く草原の情景です。

 

2013/08/31

 

こんにちは。タモンです。

 

大妖怪展@三井記念美術館に行ってきました。

この間、京極夏彦による「鬼縁」朗読を観ました。今年の夏は妖怪に縁があるかもしれません。

 

セッパツマッテイテモオモワズイッテシマウカナシサ。

 

展示の主な流れは四つです。

○浮世絵の妖怪

○鬼と妖怪

*鬼神(荒ぶる神の擬人化)、*天狗と山姥(異界の魔物)、*怨霊(人間の鬼神化・妖怪化)、*動物の妖怪(動物の擬人化、妖怪化)、*器物の妖怪(器物の擬人化、妖怪化)、*百鬼夜行

○江戸から明治の妖怪

*博物学的視点と娯楽的視点、*妖怪実録

○現代の妖怪画

*ゲゲゲの原画。水木しげるの世界

 

この他に、近世近代の妖怪研究者(平田篤胤、井上円了、柳田国男、江馬務)についてのパネル展示などがありました。浮世絵・絵巻・版本・能面、そして原画などによって、妖怪の系譜を辿るのが趣旨でした。おもに近世成立のものが多かったように思います。

 

闇や恐怖について考えた2時間でした。

タモンから見ると、これら化け物の絵はアニメや漫画みたいで、ちっとも恐くなかったです。鬼神の絵も。中世よりも江戸の方が現代に繋がる種が多いと思うのだけれど、江戸時代の人々は、これを見て「恐いな。不気味だな。怖ろしいな」と思ったのかなあ。不思議です。どれをとってもコミカルなんだもん。現代と江戸時代では現実とか闇に対する認識が違っていたのか。身近な存在である故の親しさなのか?畏怖の念?それとも大して変わらないのか?いや、うつつの視え方はたしかに違うと思うのだけれど、その差異をうまく説明できないな、と思った感じです。闇を戯画化したり、境界のものを実体化したりする作法は、あいまいなものに名前をつけることでもあって。名前をつけたらそれは、ひとつの存在になるわけで。でもそれはあいまいなものをあいまいにしておくための技術でもあったりする。闇や恐怖に向きあう親しみみたいなものが、現代では見えにくくなっているのかもしれないとも。現代だと、闇や恐怖を見つめると、共同体ではなく(家族もその対象でなくなってきている感じがします)、人間の「心」になってしまうからオーラなんかのスピリチュアルが人気でるのかもしれないなあとも思いました。

 

地獄って楽しそうだなあ。

 

2013/06/29

こんにちは、タモンです。

 

最近、北欧のミステリーにはまっています。

現在は『特捜部Q』シリーズに激ハマリです。思えば『ミレニアム』も面白くて映画も観に息ました。

今度、『湿地』や『背後の足音』なども買おうと思います。

 

ミステリーの手法を論文に活かせないかなあ…、というのが最近の課題です(*^。^*)

今書いている論文に『特捜部Q』から影響を受けた部分がでてくるかもです。

 

今日は、北欧のミステリーの傾向と分析……、ではなく「袴」について書こうと思います(^ヘ^)v

 

能には、仕舞(しまい)や舞囃子(まいばやし)などの作品の一部を舞う形式があります。

その際、「装束(衣裳)」ではなく「袴」を着用します。

「装束」よりも「袴」のほうが、身体の動きがはっきりするので、能楽師の実力があらわれるとも云われます。

袴の立ち姿が美しいと、惚れ惚れしてしまいます(*^_^*)

 

今年、タモンは「袴」を買いました!!!!

仕舞の発表会のためです。

鬼女が激しい動きをするので、袴を買う必要に迫られました(>_<)

来年も袴を着てカッコよく舞いたいと思います!

 

平安時代の貴族は、男性・女性ともに「袴」を着ていました。

もともと、「裳(も)」と呼ばれる腰にまきつけた布が発達して、「袴」になったと考えられているようです。「袴」の語源が「はく裳」が訛ったものである、という説があるようです。

 

夏目漱石『坊ちゃん』の主人公・坊ちゃんが袴を着ているイメージがあります。

現在の男性が袴を着用することは……、伝統芸能、弓道、武道、神主といった神社関係者でないとなかなかないかもしれません。

 

女性だと、神社で巫女さんのアルバイトをするか、大学の卒業式で袴を着る機会があるのかな、と思います。

 

大学の卒業式で袴を着る慣習って、明治時代にできたようです。女学生が自転車で通勤するため、着流しでは無理なので袴を着るようになったといいます……。俗説なのですが、たしかにマンガ『はいからさんが通る』(大和和紀)で主人公の女学生が袴姿で自転車に乗っていたような…(ドラマ版だったかも)。

 

武家政権、つまり鎌倉時代以降、より身近なものとして袴が着られるようになりました。公家の袴と武家の袴では仕立てが異なっていて、武家用のほうがより活動的につくられています。絵巻などで描かれているズボン・モンペのようなものが「小袴」とよばれる武家用の袴です。

 

室町時代になると、武家の正装として、袴と裃の組み合わせが登場します。

 

江戸時代になると、袴が長袴になります。裾を引きずるタイプのものです。

両肩を強調するような裃、よく時代劇で大名役が着用している裃は、江戸時代になってから普及しました。室町時代は、まだ肩パットのような裃が浸透していなかったみたいです。

 

能楽師が仕舞で袴を着用し始めたのはいつからなのか……。

江戸時代からだろうな……、と予測はしています。

室町時代末期に、富裕層(大名や貴族など)に仕舞の稽古をすることが広まりはじめたし、

江戸幕府の式楽と公認されてから、武家の正装に倣って(?)袴を着るようになったと、

推理しています。

 

推理……!!

どうでもいいけど、

今度wowowでニューヨークを舞台にホームズ(男)とワトソン(女)が活躍するドラマが始まるそうですね!wowowに加入していないので、レンタルを待つしかないが……!!観たい!!

 

えーっと、ここでまとめると

男性の場合、貴族・武家ともに袴を着用していた。

現在の袴は武家の袴の流れをくむ。

武家も袴を正装とした。

 

女性の袴は、貴族が着用していた。

明治時代以降、女学生が袴を着るようになって一般に(?)普及した。

(本当に普及したのは第二次世界大戦後かも)

 

本当にかんたんにまとめてみました。

備忘録には……なるかも。

それでは、また。

 

 

 

 

2013/05/31

こんにちは、タモンです。

今回は「足袋」について、少しまとめて見ようと思います。備忘録的な感じです。

私たちの日常生活で足袋を履く機会がたくさんある人は、現代では少なくなっているかもしれません。ただ、職業でいえば鳶職や大工さんなら地下足袋を履くし、古典芸能に関わる芸能人(能楽師・歌舞伎役者・噺家など)も足袋を履きますね。茶道や日本舞踊などの和物のお稽古事をやられている方は、足袋が身近かもしれません。

タモンも仕舞の稽古や発表会の時くらいだもんなぁ……。

 

平安時代の貴族たちが履いていたのが「襪(しとうず)」です。

デザイン的に、韓国ドラマの王朝物「トンイ」の女官や王族たちが履いているものに似ています(白足袋がゆったりな感じ)。

語源はおそらく「したぐつ」の訛りだろう、と考えられています。束帯(宮中における男性の装束)の時などに、沓(くつ)の下に用いる布製のはきもので、足袋のような指股は「ありません」(←これが特徴)。見た目は靴下ですが、足首の部分は紐で結びます。平安時代に礼服に錦製の襪、朝服に白襪を用いると定められました。基本は貴族階級のみに許された履物で、身分を超えて広がることはなかったようです。ただし、室町時代、江戸時代の貴族たちは足袋を履くようになったそうです。この頃になると、大多数の貴族の生活は苦しいものでしたから、正装とされていた錦の襪が実際のところどの程度用いられていたのかははっきりわかりません。

 

「足袋」は「単皮」とも書きました。

これは元来足袋は皮(革)でつくられたところから、「単皮」の字をあてたと推測されています(『和名抄』に「単皮」の字が見られる)。そのほかの語源説に、「旅沓」(たびぐつ)の略で「たび」になったという説、足袋の形を鼻に見立て、両足そろうと4つの鼻に見えるために“多鼻(たび)”と呼ばれるようになったという説や、鹿皮の袋を履いて旅に出たので、その履物を“たび”という言葉が生まれたという説などです。

 

革の足袋は、はじめは戦場や旅など野外で武家を中心として用いられました。ただし、足袋は非日常の履き物でありましたので、武家の正装・日常の格好も「素足」にすべきだ、という考えは室町時代中期まであったようです。足利将軍義教の肖像画も素足の姿で描かれています。もう一歩踏み込んでいえば、この頃の武士は素足文化で、足袋を履いて人前に出るのは無礼と思う感覚があったのかも……。

 

この皮足袋の名残が狂言の足袋にあると云われています。

狂言師の足袋は、ひよこ色みたいな淡い黄色、もしくは薄茶色の縞が入った縞模様の足袋です。能楽師は白です。

色の染められていない皮足袋を狂言師は長く用いていたので、木綿になってからも色付きの足袋を履いていたそうです。

 

応仁の乱がおこると、武準戦闘服である足袋つきの姿が次第に武士の正装として登場するようになります。戦国時代になると、南蛮産の鹿皮が盛んに輸入されて武具に用いられるかたわらで、鹿皮の足袋が用いられます。これは防寒用にも大変役立ったようで、江戸時代初期にはホッカイロのような扱われ方で、庶民に愛好されました。

 

ちなみに、現在、足袋の原材料としてポピュラーな木綿(ポリエステルとか化学繊維の方が有名かも)ですが、これ平安時代末期~鎌倉時代初期に輸入品として伝来しとても貴重で、鎌倉時代中期~室町時代に大量に輸入されるようになりました。戦国時代になると、南蛮貿易が行われるようになって、人々に木綿が普及しましたが、木綿製の足袋は江戸時代まで登場しなかったようです。

鹿皮に代わって木綿製の足袋が登場するのは、鎖国がきっかけでした。輸入に頼っていた鹿皮が鎖国によって入ってこなくなったのです。その代替案として、木綿製の足袋(安上がりでもあったみたいです)が製造されるようになりました。あと、太平の世で皮足袋は人々の目には無骨なものと映ったのかもしれません。

 

あ、江戸初期には女性も足袋を履くようになります。

 

当時の武家には江戸時代以前と同じく足袋の使用に関する厳しい規定があったようで、足袋を用いることができるのは50歳以上の高齢者(←江戸時代では、です)で、10月1日から2月20日の間とされ、病気等で足袋を用いるとしても「足袋御免」と呼ばれる主君の許可を得なければならないという決まりが『宗五大雙紙』に記されています。この決まりは1862年(文久2)という明治維新直前まであったそうですが、実態は有名無実化していたのではないか(庶民は防寒用で足袋を履いていたので)と勘ぐってしまうところです。武士の精神として、素足が基本だ、という考えはこの頃まであったのでしょうね。

 

江戸時代の芸能といえば歌舞伎。現在だと足袋は白が一般的です。歌舞伎はさまざまな色・形の足袋が用いられます。江戸のイケメン「助六」は、黒紋付に真っ赤な襦袢、黄色の足袋を履いている姿の絵があります。

 

明治維新以後は西洋の文化が輸入されたこともあって、靴の下に靴下がはかれることが一般的になりました。それとともに、皮足袋よりも木綿足袋のほうが靴に履きやすいこともあって、木綿足袋が大多数を占めるようになります。

 

以上、簡単に足袋の歴史をまとめてみました。

今度、歌舞伎を見に行ったとき、足元を見てみようと思います。どんな江戸の粋が表現されているのかな。

 

2013/03/31

桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

(梶井基次郎『桜の樹の下には』冒頭より)

 

こんにちは、タモンです。

初めてこの作品を読んだのは中学生だったと思います。授業で取りあげられたような、違うような……。そのあたりの記憶が曖昧です。桜の花が薄紅色なのは人間の血を吸っているからなんだ!と知った瞬間は強烈だったなぁ。桜と死が結びついた体験でした。

坂口安吾『桜の森の満開の下』を読んだのは高校生の時だったような気がします。「桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります」という冒頭から、全体を漠然とした不安が彩っていました。初めて読んだ時は、安吾が基次郎のオマージュとしてこの文章を書いたことに気がつかなかったです。

 

現在だと桜はソメイヨシノがポピュラーになりましたが、この品種は明治時代に品種改良されたものです。和歌・物語などの「古典」で描かれる桜はソメイヨシノではなかったのですね。古典の桜は山桜とする説があります。「山桜」が具体的にどのようなものだったのか検証の余地があると思われます。

 

今回、在原業平の和歌をご紹介したいと思います。

詞書「堀河大臣の四十の賀、九条の家にてしける時によめる」(【訳】堀河の太政大臣(藤原基経)の四十の賀が、その九条の邸で催された時に詠んだ歌)。

石川啄木風に改行してみます。

 

桜花

散りかひくもれ

老いらくの

来むと言ふなる

道まがふがに

(『古今和歌集』賀歌・349番歌)

 

【訳】

桜の花よ、散り乱れて空を曇らせよ。老齢がやってくると人々がいう道が、花で隠されてわからなくなるように。(新全集に拠る)

 

業平の桜の歌といえば、

 

世の中に

絶えて桜の

なかりせば

春の心はのどけからまし

(『古今和歌集』春上・53番歌)

 

が知られています。

桜の花をみれば嬉しくなり、散るさまを見るともの悲しい気持ちになるので、春に桜さえなければ私の心をざわつかせることはないのに……。という思いを詠んだ歌です。

 

桜の存在が人の心を波立たせるのだ、とこの歌を詠んで思いました。

初めて詠んだとき、私の想像はもちろんソメイヨシノでした。この歌のイメージとソメイヨシノはピッタリなのですが、平安時代の人々はどんな「桜」を見つめていたんでしょうね。気になるところです。

 

さて、「桜花…」の歌ですが、この歌は賀歌です。つまりお祝いの歌。

めでたい歌なわけで、本来ならば、最初に言った基次郎や安吾のイメージとリンクすることがないです。

が、タモンは、初めてこの歌を詠んだとき挽歌だと思い込んでしまったんです。

高校の便覧だったと思います。

桜の花片が目の前を「散りかひくも」るほど埋め尽くしていて、死出の道行を阻んでいる画が浮かびました。あの時は「老いらく」の意味がよくわからなかったからでしょう。

それにしても「散りかひくもれ」というたたみかける表現が好きです。

大切な人の死を受け止めきれない者が、桜を見ながら、その人の魂が冥界へ行ってしまうのを桜よ止めておくれと願っているような感じだったのだと想像していました。

 

「老い」が向こうの道からやってくるという考えは面白いと思います。老年というものが人を老いさせるという俗信があったようです。

季節の「秋」が空か山の中の道を通って訪れるという歌もあります。

この歌は、「老い」が訪れる道を桜の花で覆い尽くしてくれという願い、つまり年を取らずいつまでも元気でいてくださいという願いを詠ったものです。

 

老いと死は近しいものといえばいえるのですが、歌の意図は私が想像した内容と真逆でした……。

今から思えば、基次郎や安吾を読んでたり、桜は儚いもの、という先入観からだったんだなぁ、と分析します。「サクラチル」っていう言葉は知っていましたしね。

オチというオチがあるわけではないのですが、

タモンのなかで桜は滅びの感覚と結びついているのだなあと改めて思った次第です。

 

牡丹や桃の花が好きというのと、桜が好きというのはちょっと違う気がします。

桜は花そのものを愛でるというより、

その背後にある世界が愛されているような気がするんです。

2013/03/26

こんにちは。タモンです。

花粉症がつらいです。薬を飲んでもなかなか治らないです……。

最近、夜寝るときと毎朝目覚めるときが大変です。寝るときは鼻とせきがつらくて、目覚めるときは目が開けられません。花粉症がひどいと、咳が止まらなくなります。最寄りの耳鼻咽喉科から薬をもらっても、全然良くならないし!せめて咳だけでも止めたいって言ってんのに、もらった薬は効果なしです。鼻炎の方も、鼻水は止まるけど鼻呼吸ができるほどではない。もう一回別の病院に行こうかな。

さらに薬を飲み続けているせいか、全然ダルさがとれません。だからといって、体調不良の原因が花粉症と周りに触れ回るのは、なんか締まりがないわけです。

このまま花粉症について書きたいくらいなのですが、これくらいにして、

今回と次回は、ピンチヒッターのため二回連続でタモンです。

今回は、本と書類の整理についてお話したいです。

私は整理が大の苦手です。

不器用な私の整理方法なんて、誰が知りたいんだ!?とも思います。

整理方法を紹介するのではなく、あくまでも自分の整理のための記事ですね。

 

ある時、尊敬する先生が「私は研究者に向いていない」とタモンに言ったことがありました。理由は「整理ができないから」だそうです。研究者に必要な資質のひとつとして、大量の情報をいかに整理するかが挙げられると先生は言っていました。その先生はすごい人なのに、まったく整理ができないって言ってたから、自戒を込めたものだったんでしょうけど。その時から、整理の方法はタモンにとって永遠の課題となっています。

 

で、現在の私の部屋ですが、紙と本であふれかえっています。冬以降、忙しくて部屋が片付けられない。そしてゴチャゴチャした部屋を見ていると、片付ける意欲も失せるんですよね……。

 

整理が必要なものとして大きなものは、本棚と書類です!

本棚の整理については、

① 著者名順に並べる

② ジャンル別に並べる。

 

今②で落ち着いています。

最近、決断しました。

本の箱は捨てることにします。

専門書とか装幀がしっかりした本は、箱に収まっているのが多いです。それが捨てられなくて……。でも、基本的に整理が下手な人間はとって捨てないのは駄目ですね!本箱に本を毎回入れていれば良いのですが、それができない。結果、一冊の本に倍のスペースをとることになってしまうわけです。そこが駄目ポイント。

 

書類、論文の整理は、

① ファイルに入れる

A 金具で紙を押さえるタイプのファイルに入れる

B 袋が20枚のファイルに入れる

② ファイルボックスにジャンルごとに入れる。

③ 机の上に整理する小さな棚をつくる

 

今は②が多いです。

ジャンルごとに論文のコピーなどをファイルボックスじゃんじゃん入れます。

なおや諒はどうやってるんだろう。

諒は整理上手なので知りたいですね。なおは人が真似できないような整理術を編み出してそう。

 

論文で困ることは、大事なものをうっかり捨ててしまうことです。

捨てる技術や断捨離といった整理術(?)が流行していますけれど。論文やメモを、「もう使わない」と思って捨てて、あとで「必要だった!」と思うことがあります。その時の自己嫌悪たるや……すごいものがあります。その自己嫌悪を味わいたくなくて、捨てることが少なくなっていくわけですが…………、三月そろそろ限界です。

 

 

2013/01/04

こんにちは。タモンです。

新年始めのジャンクステージの記事ですが、タモンは去年の大河ドラマ「平清盛」についての感想を書こうと思います。タイトルにあるように、「大河ドラマ「平清盛」はなぜ視聴率が悪かったのか?ちょっとだけ真面目に考えてみ」たいのです。

だって納得できないんです。大河ドラマ○○や○○や○などよりも平清盛の視聴率が低い理由が。大河ドラマを見ていて、作り手側の熱意やチャレンジ精神を随所に感じましたし、俳優陣の演技にも引き込まれるものがありました。そりゃあ、内容を突っ込もうと思えば突っ込みどころは満載ですよ。でも、そんなこといったら↑の方がよっぽど……と訴えたい。

なので、だいたい不真面目に、ちょっとだけ真面目に、平清盛の視聴率が悪くなってしまった理由をつらつら挙げてみようと考えました。

 

◆ タブーに挑戦したから

まず思いつくのがこれ!作り手のチャレンジ精神が裏目にでて、視聴率が悪くなったとタモンは考えています。昨日テレビ番組で、コメンテーターが「制作が目指したクオリティが高すぎた」ことを指摘していました(正確な引用ではないけど、発言の主旨はあっていると思う)。「画面が汚い」発言が注目を集めましたけど…。『源氏物語』の映画を見過ぎなんじゃないの。制作者の目指した高みに視聴者がついていけなかった典型といえると思います。タモンは彼らにめげてほしくない!

ここでいうタブーとは主に天皇家に関するもの。

前半のクライマックスは保元の乱・平治の乱でした。

前半の主な天皇家の人間模様として、

①白河上皇が孫・鳥羽天皇の妻と関係をもち、崇徳天皇が生まれる。

②息子・崇徳天皇(ホントは甥)と父・鳥羽上皇(ホントは叔父)が戦を起こす。

③後白河法皇はエキセントリックなアダルトチルドレン。明治時代風だと高等遊民、現代風だとニートなオタク。

などが描かれました。③は知らないけど、①と②はほぼ確実な事実と捉えられています。でも、中学高校の歴史・古典の授業で習っている人はあまり多くはないんじゃなかろうか。視聴者の基本的知識があまりない時代だったということもやはり大きかったと思うんだよなあ。

めちゃくちゃな家族関係に加えて、美福門院の野心や西行の恋心などが絡んでくるわけです。これら①~③の要素を今回のように描いたものって、これまであったでしょうか。少なくとも、ここ12、3年は院政期を扱ったことがないと思います。とくに①と②について、天皇家のこのような家族関係を描くこと自体に生理的嫌悪をおぼえた人がいたのではないか、と推測しています。生理的嫌悪って理屈じゃないから。天皇家の人間が少し踏みこんだ発言をしただけでマスコミが大騒動するのが現在の風潮ですよ。肉親同士が骨肉の争いをする展開に面食らった人も多かったのではないか、と。で、皇子を③の感じに描くのも新しかったのでは?と思います。タモンの師匠の話だと、後白河法皇の芸能好きを描いた大河ドラマは初めてだ、ということでしたが、ホントですか?(半信半疑)。ホントにそうだったら、この描き方が、戦後の歴史学・日本文学の研究の成果が反映された好例になると思います。

 

◆ 制作者側の視聴者層のターゲットと、実際の視聴者層が食い違っていたのでは……

タモンは大河ドラマの視聴者層は中高年だと思っています(去年、タモンは中年層に片足を入れました。両足入れたとは考えたくない。嗚呼)。そのなかでも中高年の保守層が視聴者として大河を支えていると勘ぐっています。そうすると作り手のチャレンジ精神があだとなってしまうわけですよ。大河のメインの視聴者層が10代~20代だったならば、もっと視聴率が高かったはずだと思えてなりません。とくに若年層の歴女ね。

放映前から特定の集団から抗議がきていたようですが、「王家」の表現がクローズアップされ多くの視聴者が知るところになったのは、イヤなことには関わりたくない(思考停止したい)空気が広まった結果だと思います。

若い視聴者に大河ドラマを見るための1つ提案をしたいです。それは、教科書みたいな大河ドラマを作ってみるということ。最近の大河ドラマは中高年層よりも若年層をターゲットにしているような感じがします。違うかなぁ。その狙いがはずれている感じがしちゃうんですよね。これは研究者Nがいっていたことの受け売りなのですが、若い俳優を主人公に登用したり、「親しみやすさ」や「面白い」ドラマ作りをしたりして若年層にアピールするよりも、受験に役立つをスローガンに作れば多くの中高生が見るようになると思うんだけどなあ。勉学においてもギブアンドテイクの理屈が浸透した世代には、「これは自分の役に立つ」と思わせることが大事だと思うのですが……。どうでしょうね。

タモンの周りも、様々なツッコミがなされました。あーじゃない、こーじゃない、という文句がいっぱい聞かれました。でもこれ、期待値の裏返しだったと思います。戦国時代のドラマでこんなに話題になることなんてないもんな。全部スルーです。一回、「平清盛」のクオリティで教科書みたいな大河ドラマ(=ドラマとしてはめちゃくちゃつまらないけど、受験生の役に立つドラマ)を作ったらどんなものができるか面白そう。NHKしかできないよ。

 

◆ つぶやいておきたいな、男色について

タブーといえないけど男色かなぁ…。大河ドラマを見る中高年層は藤原頼長の男色をどのように感じたか、だな。まあ、ちょっとしか描かれてなかったので、これを拡大解釈するわけにもいかないけど。ただ、頼長の人となりを表現するために男色を描くことが必要不可欠な要素と思うのですが、今までの大河ドラマで頼長の男色を描いたことってあるんですかね。一般視聴者にとって頼長の男色をどのように感じたのかは気になるところ。これも何となくイヤと感じる人は感じると思うんですよ。まあ、欧米に比べて少ないとは思いますが。中世を勉強していたら、あの時代に武士同士だけでなく、貴族同士の男色も当たり前だったって知っているけど、藤原頼長が平家盛を押し倒した場面を見て驚いた人も多かったのでは。放映前にもっと腐女子にアピールしていれば……!!(笑)あ、頼長は木曽義仲の父義賢と男色関係を結んでもいる(彼の日記『台記』に記述あり)。

 

◆ 平清盛について、視聴者が共有する「物語」がなかったから

『平家物語』以降、平清盛は悪役として文芸に描かれ続けました。中学・高校の古典か日本史の授業で『平家物語』「祇王・仏御前」のエピソード、「あっち死」の死に様など、を習った人が多いと思います。また、浄瑠璃・歌舞伎では清盛が悪役、重盛が善役と役割が一貫しています。なお、「判官びいき」の慣用句通りに源義経は時代を超えて人気を集めましたが、彼を殺した源頼朝も文芸の世界で人気がありません。

一般的に、平清盛のイメージは、武士ではじめて太政大臣になった人物、驕れる平家の象徴、といった知識でしょう。しかし、坂本龍馬や織田信長などがなした、いわゆる日本人が好きそうな「物語」が平清盛にはない。大河ドラマ以前、鎌倉時代以降、数百年にわたって定着し続けた平清盛=悪役というできあがった知識しか私たちは共有していなかったのでした。

そもそも平清盛に愛着を感じている人があまりいなかったということですね。愛着を感じる以前に悪役だったんですもんね。

平清盛を主人公にした小説がベストセラーになっていて、それをドラマ化という流れだったら、ちょっとは違っていたと思うんです。

あ。『平家物語』で平清盛が一番好きという友人R(アメリカ人)を知っています。この人の発言を一般化はできない(笑)

 

◆ 平清盛の出生の設定について

これも受け売り。ドラマのなかで清盛は忠盛の意志を継ぎ「武士の世をつくる」といっていますよね。

でも、清盛は白河上皇の息子という設定でした。天皇の血筋の人間が武士として貴族の世に立身出世していくことは、根本的な世の中の仕組みを変えることにはならないのではないか、とも考えられるわけです。清盛は、孫の妻と関係を持った白河上皇の息子というわけですから、大きな意味で天皇家のドロドロした人間模様のひとつにしかすぎない側面もある。それだと、庶民の共感が得にくいとも思うわけです。豊臣秀吉みたいに「わかりやすい立身出世譚」にしたほうがよかったんじゃないですかね。つまり、清盛を忠盛の実の息子にしたほうが、よっぽど清盛の出世譚に視聴者は素直な喝采をおくれたはず。

最終回間近で、清盛の出世・平家一門の栄華は白河上皇への「復讐」だったのだ、という台詞がありましたね。一年間のドラマの裏テーマが「復讐」。ねじれたルサンチマンがテーマにあったわけです。「ちりとてちん」でも思ったけど、この脚本家は自分で作った設定を自分で壊したくなる破壊衝動を持った人なんだろうか。主人公が最後の方で落語家やめて「みんなのお母ちゃんになりたい」っていう台詞は私をたまげさせた。母にいたっては「私の40年間はなんだったんだ」とつぶやいた。高齢者の元キャリアウーマンは、若い世代の脚本家(たぶん。藤本有紀の年齢がわからないが、60歳を過ぎていることはないだろう)がこの台詞をヒロインに言わせたことがだいぶショックだったようだ。タモンとしては、この脚本家は「人は時とともに変わる」ことを冷徹に見つめている人なんじゃないかと睨んでいる。もっとルサンチマンを前面に押し出したテーマのドラマを見てみたいなーー。

 

以上、思いつくままに挙げてみました。

2013年の大河ドラマは「八重の桜」。綾瀬はるかが好きなので、第一回目を見ようと思います。絶対、絶対、クオリティを下げてほしくない!したたかに丹念に作り続けてほしい!綾瀬はるかの可愛さと天然ボケをめくらましにして、明治政府に冷遇され続けた会津藩の絶望的な苦労とか、明治時代の黒歴史を(さりげなく)描いてほしい(笑)!!「両性の平等」が憲法に記されておらず、女性が差別されるのが当たり前だった時代背景のうえで、ハンサムウーマンと呼ばれるまでに闘う女となった八重の人柄とかさーー。まあ、もう脚本はできあがっちゃっているとは思うのですが、期待しています!!

2012/11/30

こんにちは。タモンです。

 

今年も残りあと一ヶ月。大掃除、年賀状、忘年会と、「年末にやることリスト」をメモしはじめました。見たい映画と読みたい本もたくさんあります。なかでも映画「のぼうの城」・「エヴァンゲリオン」と宮部みゆき『ソロモンの偽証』が気になります。

 

今日は、「日の浦姫物語」@シアターコクーンの感想を書きます。(小町についてはまた改めて……)。

井上ひさしの描いた説経節が34年ぶりに上演されると知り、びっくり。さらに大竹しのぶと藤原竜也が出演して、蜷川幸雄演出と知ったら頑張っていくぞ!と思い、行くことにしました。ときには気合いと勢いって大事だよなぁって、しみじみ思います。

 

【あらすじ】(パンフレットより)

薄汚れた説経聖と赤子連れの三味線女が語るは、『日の浦姫物語』なる説経節。

 

平安時代、後一条帝の御代。奥州は米田庄を束ねる御館の主・藤原成親と園子夫妻が、待望の子を授かった。

母の命と引き替えに生まれたのは美しい双子の兄妹。

世にも仲睦まじく育った稲若と日の浦姫が、十五歳となった夏のこと。

父・成親が亡くなったその日、麝香の香に我を忘れ、二人はあえなく禁忌を犯す。それが不孝のはじまり。

たった一度の交わりで日の浦は稲若との子を身籠もった。恐ろしい事実を知った叔父の宗親は二人を引き離す。

それは恋する二人の今生の別れだった。

月満ちて珠のような男の子を産んだ日の浦に、さらなる試練が待ち受ける。

地上に居場所のない罪の子は小舟に乗せて海に流され、神と仏に運命を委ねることになった。

日の浦の手紙を入れた皮袋と鏡を添えて。

 

それから十八年。

米田庄の主としてひとり身を守る日の浦の前に、魚名と名乗る若武者が現れた。

傍若無人な金勢資永一党から米田庄の窮地を救った魚名を、人々は日の浦の夫にと切望する。

無垢なる魂をもつ日の浦は、宿命の濁流にのみこまれていく……。

 

【感想(ネタバレあり)】

タモンとしては、この舞台の圧巻だったのが説経聖役の木場勝己。木場の語りに絶妙な合いの手を入れる立石涼子もすごかった。

「語句」がひとつひとつ聞き取れる語りにうっとりした。なめらかで、抑揚があって、ニュアンスが伝わって……語りの醍醐味を楽しむ。そんな語りでありつつ、放浪の説経聖=物乞いをする者が持つ粗野な感じ、人にへりくだる感じ、下卑た笑い方。これから展開される舞台の雰囲気を見事に体現されていたと思う。

 

藤原竜也(30代)と大竹しのぶ(50代?)が双子という「物語」ゆえの大・大・大冒険!。舞台ならではの面白さだ。

 

稲若が日の浦姫の胸を思いっきりまさぐったり、ラブシーンを演じたりしていたが。

主人公の二人は15歳。若さゆえの過ちか。近親相姦。そのエロさ・卑猥さが確かにあった……というより、そういう猥雑な設定がカーニバルのように繰り広げられている感じ。狂騒と嬌態がミックスされた雰囲気。

 

物語の骨格としては、あらすじで記したとおり、ジェットコースターのように次々と波瀾万丈の展開がやってくる。

舞台はほぼ「笑い」に包まれて進む。

蜷川演出では本来ならシリアスな場面でもそこかしこに笑いが散りばめられていた。ここで笑っていいのか!?という場面でだ。

一番驚いたのは、(以下、ホントにネタバレ)

日の浦姫が夫・魚名がわが子であると気づいた場面だ。その時、日の浦姫のお腹には魚名との子を宿していた。日の浦姫は、ひとりで必死に考える。魚名はわが子ではないと思い込もうとする。

しかし……「虫が良すぎる!!」。

その言葉を日の浦姫が叫んだ瞬間、会場は大爆笑に包まれた。

……タモンも笑いました。コメディにしていいのか!?とタモンは心のなかでツッコむ。

 

わが罪におののき、おのれの目を潰した日の浦姫と魚名。

その後、魚名は十八年間もの間、岩の上で生活する。そのため、魚の名にひっかけた言葉しか話せなくなってしまった。っていうハチャメチャな展開は、説経節のごった煮感を表現したかったのだろうか……。笑ってリズムに乗って楽しんだけど、「この後一体どうなるんだ!?」と頭の中はクエスチョンマークだらけ。

 

でも、「日の浦姫物語」は大団円を迎える。仏のお告げによって魚名は寺の住職となり、さまざまな奇特を民衆に授けるようになる。日の浦姫とその娘とも再会し、めでたしめでたし。

 

……、と思いきや。

語り手の説経聖と三味線女は兄妹で契り、子までもうけたことが最後に語られる。その罪を償うために「日の浦姫物語」なる説経節を語っているのだと。

わが子に罪はない。どうか今夜一晩の飯が食べられる銭をくださいと物乞う説経聖に、

現代の服装をした人々が、銭の代わりに「人でなし!人非人!犬畜生!」(悪口の内容若干違うかも)などと罵り、石を投げつける。

 

それまでの笑いはここに繋げるためだったのか、と納得する。

「日の浦姫物語」は物語なら笑えるが、自分の身の回りでおきた出来事ならば嫌悪の眼差しを向ける。自分とは関係のない事件ならば嘆くことができるが、自分の身の回りでおきたことならば眉をひそめる。

 

蜷川幸雄っていい人なのかもって思った。

舞台でこんなに人間の悪意を剥き出しに演出できる人って、実際会ってお話したらいい人って感じるんじゃないのかなって。まぁ、そんな感想は些末ですね。

 

 

文学研究とは(原則として)書かれたものを対象にすること。そこに描かれた人間と向き合うこと。読むという行為を客観化すること。

 

井上ひさし作品は、人間探求と姿勢と人間という存在への慈しみの眼差しが一貫していると感じる。エンターテインメントでありながら、人間存在とどう向き合えばいいのか、井上ひさしの作品は考えるヒントを与えてくれる。

井上作品を見た後は、日常生活に戻っても、その人のなかの意識がどこかは変わる。そんな力を持っている。そんな力を含めて研究できれば、文学研究の面目躍如なんだろうけど……。

 

以前、森有正の著作で読んだ「経験」と「体験」の違いについての記述をおぼろげながら思い出すことが最近多い。「経験」を積んだ大人の女になりたいな(…ってすでに十分オバサンの年齢なんですけどね)。

 

井上ひさしの戯曲をもっともっと見たい。

 

2012/09/30

こんにちは、タモンです。

雨が降ってきました。風も吹いているようです。

台風は今夜がピークですね。

 

前回、小野小町の歌を三首取り上げました。

今回は、小野小町の伝説をめぐって書こうと思います。

 

小町の墓は、全国に何カ所もあります。

晩年の小町は、浮き草のように放浪したという伝説からでしょう。

全国各地の小町伝説を調べた本があるのですが、とても分厚いです。それくらい、小町の伝説はたくさんあります。

 

本当の小町がどんな人だったのか、ということよりも、

なぜ小町はこれほどまでに人々の興味を惹きつけたのか、について焦点を当てたいと思います。

 

小町って、「女」なんです。

小町について、

①「結婚」をしなかった、

②「家」をもたなかった、

③「子ども」をもたなかった、

という当時の女としてどれか一つは持たないとマズいものを何も持たなかった人物として認識されていたと捉えるといいのではないか、と思います。

 

情熱的な恋歌を詠んだことから、男たちを弄んだ恋多き「女」としてもイメージが生まれたのかもしれません。

 

小町よりも少し後の時代の歌人・和泉式部も恋多き女性として知られています。

和泉式部は、兄・為尊親王と恋愛し、兄の死後、弟・敦道親王と愛しあうようになったことがスキャンダラスな恋愛として語られている人物です。

小町のよりも、式部の方が、知られている恋愛の華やかさは上だと思います。

 

しかし!!、男たちを弄んだために、小町の晩年は無惨なものだったという伝説は、和泉式部よりも多く作られていると思います。

(……っていっても、和泉式部も、御伽草子に、そうとは知らずわが子と契りを結んでしまう式部の物語が作られているわけですが。)

 

二人の違いといったら、小町は子どもを持たず、式部は子どもを産んでいるんですね。

 

これが大きかったんじゃないか、と私は想像しています。

 

ではまず、小町が無惨な晩年をおくったという説話を見ようとおもいます。

『十訓抄』(鎌倉時代の説話集)で、小町は宮中で華やかで浪費した生活をした報いなのか、家族を次々と失い、晩年は貧しい生活を強いられたことが書かれています。

 

『十訓抄』二ノ四

小野小町が少(わか)くて色を好みし時、もてなされしありさま、ならびなかりけり。『壮衰記』(『玉造小町子壮衰書』)といふものには、

三皇五帝の妃も、漢王周公の妻(め)も、いまだこのおごりをなさず

と書きためり。

かかりければ、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調(ととの)へ、身には蘭麝(らんじゃ)を薫じ、口には和歌を詠(なが)め、万(よろず)の男を賎しくのみ思ひ下し、女御、后に心をかけたりしほどに、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、二十一にて兄にわかれ、二十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼のひとり人(うど)になりて、頼むかたなかりき。いみじき栄え、日々に衰へ、はなやかなる形、年々にすたれつつ、心かけたるたぐひも、うとくのみありしかば、家は壊(やぶ)れて、月の光むなしくすみ、庭は荒れて、蓬のみいたづらに茂し。

(中略)懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけむかし。

 

これ、すごいですね~~。

鎌倉時代には、このような説話がたくさん書かれます。

マリーアントワネットのような生活を送ったため、家族を失い、貧しく無惨な晩年をおくったというタイプの説話です。(最近の研究では、マリーの放蕩ぶりも「伝説化」されたものだったとされているみたいですが)

 

きわめつけは、『玉造小町子壮衰書』(『玉造小町壮衰書』とも)です。

もともとは漢文体小説で、作者はわかっていません。この漢文小説は、小野小町に関する晩年の没落を語る説話をふまえた創作とみられています。

冒頭の文と、要約文挙げます。

 

予(われ)

行路の次(ついで)

歩道の間

径の辺、途の傍に、

一の女人有り。

容貌の顦顇(しょうすい)と、

身躰の疲痩(ひそう)たり。

頭は霜(そう)蓬(ほう)の如く、

膚は凍(とう)梨(り)に似たり。

骨は竦(そばだ)ち筋抗(あが)りて、

面は黒く歯黄ばめり。

裸形と衣無く、

徒(と)跣(せん)にして履(はきもの)無し。

声振ひて言ふこと能はず、

足蹇(な)へて歩むこと能はず、

糇(こう)糧(りょう)已(すで)に尽きて、

朝夕(ちょうせき)の飡(さん)も支へ難し

糠粃(こうひ)の悉く畢(お)へて、

旦暮の命も知らず。

左の臂には破れたる筺(あじか)を懸け、

右の手には壊(やぶ)れたる笠を提げたり。

頸には一つの裹(つつみ)を係け、

背には一つの袋を負へり。

袋には何物をか容れたる、

垢膩(くに)の衣。

裹には何物をか容れたる、

粟豆の餉(かれいい)。

笠には何物をか入れたる、

田の黒き蔦芘(なまぐわい)。

筺には何物をか入れたる、

野の青き蕨(わらび)薇。

肩破れたる衣は胸に懸かり、

頸壊れたる蓑は腰に纏(まとわ)れり。

衢(く)眼(かん)に匍匐(ほふく)し、

路頭に徘徊(はいかい)す。

 

(要約)

私が道を歩いていた時、女が一人がいた。

女の姿は痩せ衰え、身は疲れ果てていた。

頭は霜枯れの蓬のように白くまばらで、肌は凍った梨の実のようにかさかさだった。

骨はとがり、筋も浮き上がって、

顔は黒ずみ、歯は黄ばんでいた。

身につけている衣はなく、素足で履物もない。

声は震えて言葉にならず、足はなえて歩みもおぼつかない。

糧尽きて朝夕の食事もままならない。糠やくず米も食い尽くし、今日命が尽きるかもしれない。

左の臂には破れた竹かご(筺)を懸け、右の手には壊れた笠を提げていた。

首には包みを懸け、背には袋を負っていた。

「袋には何を容れているのかね」と聞くと、

「垢じみた衣さ」と答える。

「包みには何を容れているのかね」と聞くと、

「粟と豆の乾飯さ」と答える。

「笠には何を容れているのかね」と聞くと、

「田んぼの黒くわいさ」と答える。

「竹かごには何を容れているのかね」と聞くと、

「野摘みの青くさい蕨とゼンマイさ」と答える。

肩の破れた衣は胸に垂れさがり、首の破れた蓑は腰にまとわりついている。

女は街かどをはいずりまわり、路ばたをうろつきまわっている。

 

 

 

 

こんな風に、

ヨボヨボでしわくちゃで不潔な老女の小町像が、定着するわけです。

若い頃の影など全くありません。

 

本文読むとわかるのですが、

「小町」と名乗っているわけではないのです。

この漢文小説の内容と、小町伝説が結びついたため、書名が後に付けられたとも考えられています。

 

人々の興味は小町の晩年だけではなく、

小町の死後にもそそがれます。

次回は、髑髏になった小町を見ていこうと思います!

 

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