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2013/10/31

こんにちは。諒です。
10月も今日までとなってしまいました。
もう冬ですね。家の中が寒いです。
でもまあ、せっかく予告をしたので、秋の歌でも見たいと思います。

 

萬葉集は、全二十巻、巻ごとに構成(部立)が異なりますが、そのうち、巻八と巻十は、四季ごとに「雑歌」、「相聞」を立てています。つまり、「春雑歌」、「春相聞」といった具合です。今回取り上げる歌は、「秋雑歌」に収められています。

 

     芳(か)を詠む
  高松の此の峯もせに笠立てて盈ち盛りたる秋の香の吉さ(巻十・2233)
  (高円山の峰を狭しと、笠をたてて盛んに満ち満ちている秋の香りの、何とよいものか)

 

「高松」は地名で、現在の春日山の南にある高円山のこととされます。「せに」は「狭に」、「笠」を立てるのは、キノコです。

この歌、結句に「秋の香」とあるので、香りを詠んだ歌に違いないと思っていました。まあ、結論から言うと、それで間違いはないようです。ただ、さりげなく注釈書を広げてみると、「芳」に「きのこ。特に歌の趣から松茸の芳香をさしたと思われる」(新編日本古典文学全集『萬葉集』)と注が付けられておりまして、驚きました。

え。「芳」ってキノコのことなの?

って感じです。この歌の題があらわす通り、巻十には、詠物歌が収められています。詠物歌とは、「物」へと視点をむけて、それを詠んだ歌で、中国の詠物詩に倣ったものとされています。「芳を詠む」歌は、この例以外に見られませんが、これを、ふつうの「物」と考えると、「芳」が「香り」であることはおかしい、ということになるでしょう。

しかし、詠物歌の「物」のなかには、「風」や「雨」など、天象に関わるものも含められ、「芳」は、香りという「物」を言うと考えられます。「芳」が香りをあらわす「カ」を指すことは、「香具山」が「芳山」と表記される例があることも、証拠となります。上代において、「カ」は、ただ嗅覚的なものをいうばかりでなく、視覚的、 複合的な ちなみに、「芳」という字には、草花の意味は見られますが、キノコの意味は無いようです。

というわけで、先の注釈書は誤解を生む説明であると言わざるを得ません。歌は、キノコの香りを詠んでいますが、題「詠芳」で限定されているわけではないのです。

さて、注釈書を見ていると、さらに不思議な点がひとつ。それは、このキノコを松茸に限定する注釈書が、多くあることです。

なんで松茸?

という素朴な疑問。「高松」は地名ですが、語感から松に生えるキノコが想起されるのかもしれませんが、特にそういった説明は見られません。それに、何も松茸でなくとも、香り高くて美味しいキノコは他にいくらでもあります。「秋の香」がするキノコといえば、松茸だから、という説明が多い中で、窪田空穂の「松茸といわず、『笠立てて』といい、『秋の香』といって、その特色を描き出し、またその多さをいっているのは、すべて喜びの気分の具象化である」(『萬葉集評釈』)という評にある程度共感しますが、松茸説を推す伊藤博氏の解説には興味深いものがあります。

「筆者は京都高雄の山奥で、澤潟久孝先生とともに、全山に松茸の林立する姿に接したことがある。足の踏み場もないほどにびっしりと生い並ぶ松茸は燃え立つ芳香を放って、華のごとくであった。この光景に接した時は、しばし茫然、声を呑まざるをえなかった。昭和二十八年のことである」(『萬葉集釋注』)

なるほど、そういった光景、見てみたいですね。実際に生えている松茸はおろか、採りたての松茸にもお目にかかったことがないので、松茸の本当の香りというのを、自分はまだ知らない気がします。こればかりは、松茸の本当の素晴らしさを知らないと、断ずることができませんね。

 

2013/09/30

こんにちは。諒です。

最近は、風も涼しくなりまして、すっかり秋めいてきました。

今回、久しぶりに萬葉集でも取り上げようかと思いまして、見つくろっていたのですが…

ちょっと今、時間がないので、予告だけさせてください。(色々なものの締切に追われ、結局まだそちらも終っていないという悲惨な状況をお察しください。)

せっかくよい季節なので、秋の歌を取り上げようと思っています。萬葉集といえば萩ですが、他にも様々なテーマで詠まれていて、詠物歌の中には、風や香りをテーマとする歌があったり、面白い歌が結構あります。

そうした中から何か紹介できればと思っているので、特に期待はしなくてよいのですが、また見ていただければと思います。

何か感想でも書ける有意義な活動をしていればよかったと思うこのごろでした。

2013/07/31

こんにちは。諒です。

そういえば、「あぐら」の話、完結していませんでした。引き延ばすほどの結論ではないのですけれどね。

タケミカヅチが天孫降臨の先遣隊として地上につかわされ、地上の神大国主神の前に現れ時の様子は、剣を浪の穂の間に逆さまに立て、刃先に「あぐら」をかいて坐した、とされます。この現れ方について、面白い説があります。

『信西古楽図』(成立は平安時代中~後期とされる)という、舞楽を図で説明した作品があるのですが、その中に「臥劔上舞」という図がありまして、これは剣の先端で何やら人が舞っている様子を描いたものなのです。近藤善博氏は、「劒尖に坐す神」(国学院雑誌、昭和35年5月)で、「雷を劒尖上にて制禦する」姿が、こうした様子と重ねられることを説いておられます。「臥劔上舞」、確かに面白い図です。東京藝術大学の収蔵品データベースで模本の画像が見られます。↓

[http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=19759;image_file=EH0211821.jpg#imagetop]

でも、本当にこのような軽業と、降臨して剣の先端に坐す神が重ね合わされるでしょうか。

 

実は、剣の刃の先端に現れる神、というモチーフは、ひとり日本神話に見られるだけではありません。『剣の神・剣の英雄 タケミカヅチ神話の比較研究』(法政大学出版局、昭和56年)という本で、吉田敦彦氏は西欧にも、神が剣の先端に降臨するとされる話があることを論じておられます。その姿の発想は軽業に求められるものではなく、神話的な発想として剣の先端に神が宿ると考えられたことを受け入れるべきだと思われます。

ただ、世界的に見ても、タケミカヅチに特徴的なのは、「あぐら」をかいていることです。この姿というのは、どのようなイメージをもてばよいのでしょうか。

ところで、上代に「アグラ」というと、足を組んで坐ることではなく、貴人の坐す椅子のことを指します。「胡床・呉床」と書きます。上代では神や天皇が坐るものとして出てきます。現在の「あぐら」をかくこととは違う意味ですが、その椅子に坐るときには、足を組んで坐るので、この際、参考になると思います。その姿を想像するために、人物埴輪を見てみます。…著作権が気になるので、手書きです。若狭徹氏の『もっと知りたい はにわの世界 古代社会からのメッセージ』(東京美術、平成21年)を参考にしています。

 

群馬県の綿貫観音山古墳(6世紀後半)の王の埴輪を模したつもりです。実際の埴輪は、もうちょっと面立ちのよい人です。儀礼の場面であると考えられています。

この埴輪は、がっつりと足を組んだ、「あぐら」をかいた状態ですが、これよりも足を緩めた状態の埴輪(「胡坐」と言います)も別の古墳で出土しています。埴輪の坐る台を「胡床」と言ってよいのかわかりませんが、貴人が「胡床」に坐る姿とは、このような感じであったと考えられます。そして、この台を剣に替えれば、まさしくタケミカヅチの姿になると思うのです。

神話や伝説で、神や天皇が「胡床」に坐る場面は、戦や狩であることが多いです。また、『日本書紀』に、即位前の継体天皇(元年正月六日)が、「晏然(あんぜん)自若(じじゃく)にして、胡床に踞坐(ましま)す。陪臣を斉(ととの)へ列ね、既に帝の如く坐します」(悠然として、胡床に坐っておられる。諸侯を列し侍らせ、その姿はいかにも帝王のようであられた)とあることからも、「胡床」に坐すことが権威を示すと理解されていたことは、疑いありません。

これに鑑みると、国譲りの場面において、タケミカヅチが剣の先端に「あぐら」をかくのは、国つ神の大国主神よりも、上位にあるべき存在としての権威を知らしめる、そのことをあらわす姿なのであると、考えられるのではないでしょうか。

これは、現在考え中の問題なのでもしかするとそうではないかも知れませんし、タケミカヅチが「あぐら」をかいている意味はそればかりではないかも知れません。その検討は今後の課題です。

というわけで、この話はこのへんで。

埴輪、よく見ると、かなり精緻でリアルにできています。なかなか興味深いので、機会があればぜひ観察してみてください。

2013/06/30

こんにちは、諒です。

前回、タケミカヅチの「あぐら」の話を書いて、もう少し詳しく続きを…と思っているのですが、例によって余裕のない(自滅)毎日を送っているために、なかなか調査が進みません。

そこで、今回は「あぐら」の項を書くために参考にした本から、面白いなーと思ったことを、ひとつ。

日本人の坐り方を、通史的に取り扱った著作のひとつに、矢田部英正『日本人の坐り方』(2011.2)という集英社新書があります。坐り方やそれに対する認識は、時代によって異なりますが(例えば、現在の正座が公において「正しい」坐り方だと認められるようになったのは、江戸時代以降のことと言われています)、著者は、昔の日本人のそれを、絵巻や図像、仏像、写真などから収集し、身体技法の問題として捉えつつ、考察しています。本書に特徴的だと思われるのは、坐り方における関節の使い方が諸所に示されていることです。絵巻などを観ていると時々、こんな曲がり方無理でしょう!と思われるような格好をしている人物や、こんな恰好で坐っているのに笑っていられないよ!と突っ込みたくなるような人物が描かれていたりします。足を広げ足裏を向かい合わせにしている坐像とか、中腰で主人を待って談笑している男たちの画とかです。

これを、現代人の感覚だと、ただ画家の技量の問題と考えがちなところですが、著者は古い写真から、同じような格好の人物を探してきて、習慣による身体技能の問題、即ち股や足首の関節が習慣によって非常に柔軟になり、我々からすると無理のような姿勢も可能であったことを証拠付けるのです。身体技能が坐り方とどう関わるのか、写真の坐り方のどこがポイントか、わかりやすく説明されていて、面白いです。新書で読みやすいので、読書にもおススメの一冊です。

2013/04/30

こんにちは。諒です。

数週間前に、なお と話していたら、古代の日本人の坐り方の話が出てきました。平安時代の貴族の女性たちは、あの素敵な装束の下でどんな風に足を崩していたか、謎ですね。真剣な友人に対して、諒はてきとうに、「まあ、上代は普通、たて膝だから」と言ったら、「それは何を根拠にしているのか」と詰め寄られたのでした。詰問されたときはどきどきしましたが、まあ、それもそうだと思って、何か関連のあることを調べてみようと思ったのでした。

さて、これを書こうと思ったきっかけは、なお の話だったのですが、坐り方については私自身も気になっていたことがあります。記紀神話に、天孫降臨の先駆けとして、タケミカヅチという神が葦原中国(地上)を平定する話がありますが、この神が地上に降り立つ時の描写が『古事記』に以下のように見えます。

是を以て、此の二神、出雲国伊耶佐の小浜に降り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き、逆まに浪の穂に刺し立て、其の剣の前(さき)に趺み坐て(あぐみゐて)、其の大国主神を問ひて言ひしく、「天照大御神・高木神の命以て、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知らさむ国と言依(ことよ)し賜ひき。故、汝が心は、奈可(いか)に」といひき

タケミカヅチは、天照大神をはじめとする、高天原の神々の要請を受けて、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と共に、出雲国伊耶佐(現在の島根県稲佐浜。出雲大社の西に位置する海岸)に降り立ちます。そうして葦原中国の神、大国主神に、国を天孫に譲り渡すよう申し渡します。この時、タケミカヅチは剣の先端に「趺坐」していました。

これと同様の内容は『日本書紀』にも見え、「其の鋒端に踞みて」(神代紀第九段正文)と、より具体的に描写されています。『古事記』の「趺」も『日本書紀』の「踞」も、一般的にこの場面では「あぐむ」と訓じられています。つまり、「あぐら」です。タケミカヅチは、剣の先端に「あぐら」を組んで坐ったというのですね。

この神が剣の神であることは、以前鍛冶屋の話で触れたかと思います。剣の神なので、刃の先端に顕れたのです。それはそれとして、何故「あぐら」なのか、気になるところです。

…それで、「あぐら」について書こうとしていたのですが、現在思いのほか忙しく、肝心な部分は次回にさせて下さい。尻切れトンボでごめんなさい。

2013/02/28

こんにちは。諒です。

2月も終わりと言うのに、寒い日が続いて悲しくなってきます。そんな毎日ですが、心魅かれるニュースがひとつ。

宮内庁が管轄している陵墓への立ち入り調査が近年、徐々に認められるようになってきています。2月20日には箸墓古墳に研究者が入って見分を行うと、大きく報道されました。箸墓古墳は、現在の奈良県桜井市にある全長280メートルの立派な前方後円墳で、3世紀中ごろに建造された、古墳時代前期を代表する古墳です。第七代孝徳天皇の皇女 倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の陵墓と治定されています。

今回の調査、とってもロマンを掻き立てられる魅力的なニュースなのですが、私個人が残念に思うことは、この古墳を「倭迹迹日百襲姫の箸墓古墳」として正面から紹介する報道が全然無いことです。

まあ、いつものことと言えばそうなのですが、この古墳に対するメディアの注目は、専ら邪馬台国の女王 卑弥呼の墓かどうか、その証拠が出てくるか、ということに尽きます。

はっきり言いまして、そんなこたどーでもいい、と思うわけです。個人的には。もちろん、調査の結果として邪馬台国を証明するようなものが見つかれば(何がそれに当るのかは専門家ではないのでわかりませんが…)大層、面白かろうと思いますが、「箸墓」を調査すれば卑弥呼がわかる、みたいな先入観に満ち溢れた報道は、却って古墳の魅力を損ねているような気がします。それよりむしろ、「箸墓」の伝説を有する古墳であることの方が、よっぽど興味を魅かれるのです。個人的には。

倭迹迹日百襲姫は、『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇の世に亡くなりました。その時の話が、以下のように伝わっています。

 倭迹迹日百襲姫は大物主神(三輪山の神。箸墓はこの山の麓にあります)の妻となります。しかしこの夫、夜にしか通ってこないために、姫は未だ夫の姿をはっきりと見ていなかった。そこで、夫である神に「お姿を見たいので、明るくなるまで留まってくれないか」と頼みます。神は承諾し、「櫛笥」(櫛を入れる笥)に居よう、と言いました。また、同時に「願わくは吾が形にな驚きそ」(私の姿に驚かないでおくれ)と驚くことを禁じました。

 さて、明るくなってから姫が櫛笥の中をのぞきますと、そこには「美麗(うるは)しき小蛇」がおりました。姫は驚きのあまり叫んでしまいます。すると神は、「お前は我慢せずに私に恥をかかせた、私もお前に恥をかかせよう」と言って空を踏みとどろかして山へ登って行ってしまいました。姫はそれを仰ぎ見て後悔し、尻餅をついたところに箸を突き刺してしまい、亡くなったのです。

 そのため姫を葬った墓を、「箸墓」といいます。この墓は、日中は大坂山の石を人が手から手へと渡して運んで造り、夜は神が造り、そうして築造されたものなのです。                                     (『日本書紀』崇神天皇十年九月条)

『日本書紀』には、これ以降、「箸墓」の付近であった戦のことなどが書かれてあって、その記事から位置を察するに、現在の「箸墓」が、『日本書紀』編纂当時から既に「箸墓」と呼ばれていたと考えられています。また、周辺に残る古墳の石が、実際に大阪府柏原市から運ばれたものであることが材質の調査からわかっています。

古墳が、ほんとうに倭迹迹日百襲姫の墓かどうかはわかりませんが、伝説の背景には、三輪山や「箸墓」が信仰(祭祀)の対象であったり、築造の秘話が存したりして、それらは決していい加減なものではありませんでした。伝説は、「今」、目の前にあるものに対する理由づけであったのです。

現在、考古学の方法で、かつて伝説からは遺漏した、被葬者や築造の実態という、古墳に関する新たな説明づけが可能となりました。しかし物証をもとに考察される実態は、伝説に相反するものではなく、人の営みとして伝説と相互するものだと思います。思考と実態、といった関係でしょうか。なので、折角、話としても面白い伝説が残っているのですから、邪馬台国ばかりでなく、伝説と実態との関連性や齟齬が、どんな風に明らかになって行くのか、そうしたことに夢を見てもよいのではないかな、と報道を見ていて感じたのでした。

何やらまた感想文になってしまいましたが、感想ついでにもうひとつ、残念なこと。

某局のニュースでアナウンサーが、「ヤマトトトヒモモソヒメ」をお約束通りに噛んでいました。確かにこの名前、「ト」が三回、「モ」と「ヒ」が二回も出てきて、まるで暗号のよう。でも、こうした名前を覚え(別に覚えなくたっていいんですけど)、すらりと言うことのできる方法があります。

上代文学にあらわれる神名はほとんどすべて、意味があります。どういう神なのか、名前でわかるようになっているのです。全てではありませんが、同じことは人名についても言うことができます。名前が複雑且つ長いのはそのためです。まあ、現在では意味のよくわからない名前も沢山あるのですが。

倭迹迹日百襲姫の場合、一部わからない箇所はありますが、大体の構成は分析されます。ヤマトは「倭の」。トトがよくわかりませんが「ヒ」はおそらく「霊(ヒ)」で、トトヒ。モモは「百の」でソに冠されていると考えられるので、モモソ。ソも明確ではありません。全体としては、「ヤマト/トトヒ/モモソ/ヒメ」と区切ることができます。

この区切りさえ知っていれば、喋るのが苦手な私でも、あまり噛みません。リズムもなかなかよいですし。上代神名・人名の発声豆知識でした。

名前については、またこまごまと調べて書きたいと思っています。では、今回はこれまで。

2013/01/01

こんにちは。諒です。最近大忙しです。貧乏暇なしです。

というわけで、色々と手をつけられないので、今回の話は最近、調べ物をしていて気がついたことです。

剣の神話や伝説は、世界中に見られますが、わが上代文学も例外ではありません。有名なのは、ヤマタノヲロチの尾から出てきて、のちにヤマトタケルが佩した「草薙剣」ですが、他にも、アメワカヒコという神が建物を切り伏せた「オオハカリ・カムト」という剣の話や、無理やり朝廷に収められたことを嫌って、勝手に淡路へ移動した「出石の小刀」という剣の伝説などが見られます。また、タケミカヅチという神は、記紀神話に見られるところによれば、剣の神と理解されます。

タケミカヅチは、イザナキがカグツチという神を斬った時に、その剣から滴る血から生れた神とされます。武神であり、天孫降臨に先駆けて国土平定のために高天原から派遣されていますが、この時に使った剣はのちに、タケミカヅチの代わりとして神武天皇のもとに下されるのです。タケミカヅチの霊威は、剣に具現化されるものでした。

剣の威力は雷や蛇に対する脅威の表現と類似していて、そうした強大な威力を発揮したり、勝手に移動したり、不思議と刃こぼれしなかったり、神であったり、祀られたりする特別な剣に対する伝説の存在は、古くから剣に霊力が認められていたことを示し得ています。剣の神話や伝説を外国のものと比べた時、ある相違が見られることにふと気がつきました。たいへん大まかなことで、厳密に見るとそうではないのかもしれませんが、私の調査の範囲で気がついたことです。

それは、鍛冶師との関わりです。

表現上の関係性を考察するために、しばしば漢籍を参照しますが、中国にも古い霊剣の伝説が多く見られます。どのような由来の霊剣なのか語られる時、大抵示されるのが、当代に類をみない鍛冶師が制作し、霊力がこもった、ということです。その場合、剣の霊力は鍛冶師と不可分で、制作されたまさにその時、霊力が宿ったのです。

中国以外にも、例えば北欧神話のバトラズという神は、タケミカヅチと同様剣の神で、剣と命運を共にすることはヤマトタケルとも類似します。ところが彼は、身体に焼きを入れることで不死身の武神となった、まさしく剣そのものと性質を同じくする神でした。

もちろん、外国のものにも鍛冶師が話に登場しない伝説はあるのですが、日本の上代文学の場合は、剣の霊力が示される場合は専ら、如何に使われたか、ということが問題となっていて、鍛冶師が剣の性質に関わる話が見られません。剣の神であるタケミカヅチですら、剣は分身としての所有物なのです。これは、漢籍など盛んに受容された状況に鑑みても、上代に特徴的な在り方として見てよいのではないかと思われます。

霊剣と鍛冶師の関係は、別のことを考えていて気がついただけなので、今後、何かの考察に繫がるのかどうかは自分のことながら不明でありますが、覚書程度に記してみました。

2012/10/31

こんにちは。諒です。
寒いです。もう冬です。冬眠です。さようなら。
…と言いたいところなのですが、年末が近づくにつれて焦りだすのはいつものこと。今年もまだ何もやっていないと気がついて、論文を書かねばと思いながらも、その前に文章の書き方を練習しよう、とか別の方向に逃げだすのもいつものことです。でも、言いわけでも、思い立ってしまったのだから、その手の本の一冊ぐらい読んでもよいはず。
さて、知り合いにマニュアル人間というのが居りますが、私はまったく逆なタイプです。なぜマニュアル的なものをあまり好まないのかというと、型というのは、いろんな事象から見出されるものであって、始めにあるものではなく、それを人が見出したからと言って受け入れ難いヨ、という理屈を持っているため。と信じています。決して面倒だからではないはず。素直に捻くれているだけのはず。
しかし、何か上達しようと思ったら、やはり先達に倣うことも大事で、今さらながら、文章の書き方の本などを手にとってみたわけです。読んでみたのは、
板坂元氏の『考える技術・書く技術』
という本です。はじめの「考える技術」では、カードの取り方やその整理法を紹介するのはもちろん、著者が実践している、文房具の集め方だとか日常さまざまなものへの視点の向け方だとか、まあ、それは個性の範疇では…と思われるようなものの紹介までされているのです。内容がこれだけであれば、若干がっかりするところですが、「書く技術」の方はさすがに読み応えがあったように思います。著者がアメリカ在住のせいなのか、近世文学の専門だからなのか、非常に合理的で、文章の全体の構成の取り方から、強弱のつけ方まで、構造的に分析し、明解に示されています。
その中で、例文の豊富さ、多様さとその利用の仕方が、何というか、とても自然であること驚きました。普段、論文を書くときに、資料ばかり出して文脈がなかなか整わない自分は、本文の書き方にむしろ興味を覚えたのでした。多少品の無い事象例が見られるものの、内容が損なわれるほどではありません。バリエーションのひとつと捉えれば、まあ…。
しかし、この本によく引用されている、思考整理法のひとつ、「KJ法」の名称の由来が、発案者川喜多二郎氏のイニシャルであることを知った時が一番盛り上がりましたかね。
普通に勉強されている人々にとっては、読んでいて(知っていて)当たり前の本なのかも知れませんが、教養の乏しい自分にはなかなかおもしろかったです。
あ、役に立ったか(読者にとってよい文章が書けるようになったか)は、あくまで別の話です。
読んだ本のことはあまり書かないと言いながら、またやってしまいました。しかも漠然とした感想を…。そして上代と関係ないや。次回は専門の方で。

2012/08/31

こんにちは。諒です。

ああ…。

勉強が。勉強が進まない。

はたらけ、私の脳みそ。――いや、はたらいたところで高々知れたところではありますが。以上、近況報告でした。

 

普段、日本の神話とか伝説とか、上代の散文を読むことが多いと、つい忘れがちになっているのですが、実は風土記って文学史の中ではマイナーなんだよなー、と(つい数分前に)思いまして、今回は、風土記の話を書こうと決めました。(文学史とかを真面目にやっている方には不用な話ですが)

さて、「風土記」という語は普通名詞でありまして、「諸国の風土、伝説、風俗などを記した地誌」(日本国語大辞典)、つまり地方毎の情報をまとめたものです。(NHKの番組で「新・風土記紀行」とかありますよね)中国では六朝時代に「風土記」を書名とした地誌(例えば晉の『周処風土記』など)が存在したそうです。日本では、和銅6年(713:『古事記』が撰進された翌年)に風土記の「撰進の詔」が発せられ、それを受けて各国で自国の歴史や伝説、土地の状態などをまとめる事業が行われました。完成品は逐次朝廷に提出されたはずですが、多くは散逸の憂き目にあい、全体像を知ることはできません。

その中で、唯一完本の状態で伝わったのが『出雲国風土記』。それから、ある程度まとまった状態で残ったものが、常陸・播磨・肥前・豊後で編纂された四書です。他に、後の文献に引用されたために残ったものを「逸文」と呼びます。奈良時代に撰進された風土記は普通名詞と区別して、「古風土記」と呼ばれることもあります。

そんな風土記の、(私が、個人的に。)面白いと思うところなどを少し。

風土記は、執筆に際してどのような事を取り上げるか、一応の決まりごとはありましたが、各国がそれぞれの立場で記すものですので、地域性といったものがよく見られます。

例えば、『出雲国風土記』を読んでみると、誰もが不思議に思うことがあります。それは、記紀で出雲国の出来事として大きく取り上げられている、スサノヲのヤマタノヲロチ退治の神話が、風土記には見られないことです。このことは、スサノヲの神話が元来、出雲国で伝承されていた話ではない可能性が高いことを示します。風土記を通して、記紀神話の成り立ちを考えることができるのです。

『出雲風土記』にはスサノヲの神話は書かれていませんが、一方で記紀に見られない神々による神話が沢山、見られます。中でも興味深いのが、現在の島根半島を作り上げたという、ヤツカオミヅヌノミコトの「国引き神話」です。島根半島は、この神が初期の国土の小さいことを憂えて、新羅などから余っている土地を引っ張ってきて、縫い合わせたものなのだそうです。神が意宇(おう)という土地に、事業完了の標として立てた杖が木となって残っていると書かれてあります。このように、モニュメントを証拠として、土地の由来や特徴を語る、という方法が風土記にはよく見られます。そして、実はこの木、現在もかつての意宇の地(現在の松江市)に有るのです。その信憑性はともかく、伝説の力を考えさせられます。そう、ロマンです。

「国引き神話」などは、中央の歴史に決して記されることのない、現地で編纂されたものだからこそ残った神話です。風土記は神話・伝説の宝庫ですが、短編集のようなものなので読みにくいかもしれません。ただ、最近はテキスト類も充実してきているので、ぜひお手にとってみてください。自分の住んでいるところや旅先の土地の、意外な由来を発見できるかもしれません。

2012/06/30

こんにちは。諒です。

個人的なことですが、わたしは研究者を目指すには、どうにも読書量が少なすぎて、普段から反省しているのです。そんな状態ですので、あまり本の紹介とかはしない(できない)のですが。でもまあ、今回、古事記繫がりということで、漫画の感想などを書きたいと思います。

取り上げる本は、こうの史代『ぼおるぺん古事記』(平凡社、2012.5)。実はこの作品、以前から平凡社のサイト「web連載」[http://webheibon.jp/kojiki/]で順次公開されていて、おそらく編纂1300年記念に合せて書籍化されたのだと思われます。「web連載」もまだ続いているので、興味のある方は見てみてください。

この漫画に特徴的なのは、古事記の訓読文をそのままに、文もセリフも古事記のとおりに展開させているところです。ところどころに注が付いていますが、現代語訳とかは一切無くて、本文を絵とコマ割りで説明しているといった感じです。

一般的に、古事記のように物語性に富む神話や説話は、現代においてその面白さを伝えようとした場合、原文(或は訓読文)をそのまま提示するよりも、現代語訳や解説を活用する方が、初心者にはわかりやすい。古事記で卒業論文でも書こうか、という状況になるとさすがに、本文そのものを味わい、解釈する必要が出てきて、中には理解のために絵でも描いてみようという人もいるかも知れない。しかし、漫画家といった創作に関わる職業の人が、本気で絵とコマ割りで原文に対する解釈を表現しようとするのは、めずらしいように思います。そういった意味で、本作は『あさきゆめみし』などとは違った、挑戦的な試みと言えるのではないでしょうか。

こうの史代の作品は以前にほんの少しばかり読んだことがありますが、無言の場面で状況を展開させるのがとても上手な漫画家だと思います。本作もそれが効果的に用いられています。本作を古事記を勉強する学生が読んだら、どんな感想が出るのか、興味があります。絵がメインなので、色々と想像力が刺激されて、導入として使えるかも、と思うのです。次田真幸『古事記』(講談社学術文庫)や新編日本古典文学全集『古事記』(小学館)などの現代語訳が付いた注釈書を横におきつつ読むと、より面白いかも知れません。

さて、こんな具合で個人的にはおススメしたい作品なのではありますが、問題がひとつ。それは、もとにしている訓読文に少し疑問がある、ということ。

古事記の上巻冒頭は、次のようにはじまります。

「天地初発之時、於高天原成神名…」

この部分、本書では「天地(あめつち)の初めて発(ひら)くる時、高天原に成れる神、名は…」とされています。古事記を現代の研究をもとに、少しばかり勉強している者は、大抵ここで、「ん?」と思います。「天地初発」の「発」を「ひらくる」と訓ずるのは、あまり馴染みがないからです。Web版でこの訓読を目にしてから、訓読文の底本が気になっていたのですが、今回の書籍版には、丸山二郎『標柱訓読 古事記』(吉川弘文館)とあります。丸山二郎は古典の校訂などに従事して業績を残した歴史系の学者で、『標注』は1965年に出版されました。

調べてみると、「発」には古写本のなかでもわりと古いものには「ヒラケシ」、室町以降の写本には「ヒラクル」とあって、この訓が根拠のないものではないことがわかります。「発」にも「ひらく」の義があるので、訓としては無理なものではない。実は現代の注釈書のなかにも「ヒラク」の訓を採用しているものが存在します。それでも問題となる理由は、「天地がひらく」という表現が古事記の訓みとして適切かどうか、疑問となるからです。「ひらく」は、戸や蓋を押しひろげる意味で用いられる語で、古事記においても、たとえば天の石戸をひらく場面に「開」とあるなどの例が見られます。上代の文献で「ひらく」は、戸のようなものを「わけひらく」というイメージなのです。古事記の「天地初発」は、「天地」が分裂して「ひらかれた」ということでしょうか。「発」にそうした義を読みとれるでしょうか。「ひらく」の訓みに疑問をもち、現在では「おこる」「あわはれる」といった訓の可能性が提唱されています。

何故このようなことにこだわるかというと、より安心して人に紹介したいからです。研究者という人種は、総じて細かいことが気になる性質を有しているのでありますが、文学の分野では特に上代の専門は非常に細かいようです(*あくまでも個人的な意見です)。「発」の例でもそうですが、何というか、切り口が細かい。対象としている資料が全て漢字で書かれているために、仮名成立以後では問題にもならないようなことが研究の対象になるのです。『ぼおるぺん』が『標注』を底本とするのは何か理由があるのでしょうけれども、もし本書が読者層を少しでも古事記を触れたことのある人を対象としているのであれば、ぜひともその理由を知りたいところです。

勝手なことを書いてしまいましたが、要は試しに読んでみてってことです。以上、拙い感想でした。

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