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2013/12/01

更新が遅れまして申し訳ありません。なおです。

スタジオジブリの高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」公開されましたね。

なおは、まだ観ることが出来ていないのですが、是非観に行きたいと思っています。

『竹取物語』は、古典の超入門の教材として、中学で冒頭の「今は昔、竹取の翁といふものありけり」の部分が良く扱われるのですが、全文を読んだ方は意外と少ないのではないかな、と思います。

どうせ、子供の頃に絵本で読んだ「かぐや姫」の物語だから、内容を知っているし、改めて読む必要はない、と軽んじられがちなのではないでしょうか。

しかし。あの『源氏物語』が「物語の出で来はじめの祖(おや)」と呼び、繰り返し引用しただけあって、『竹取物語』はすごいのです。読みやすい、短い物語ですから、機会がありましたら全文をじっくり味わってみてください。

細かいところの描写が面白いので、まずはそのあたりに注目して読んでも良いかもしれません。

ダジャレも満載です。
かぐや姫に天から迎えが来るのを阻止しようとする場面。帝が遣わした兵士は、

「かばかりして守る所に、蚊ばかり一つだにあらば、まづ射殺して、外に曝さむと思ひ侍る」(これほどまでして守るところに、蚊の一匹でも入れば、まず射殺して、見せしめとして外にさらそうと思っております)

なんて言います。「かばかり(これほどまでして)」と「蚊ばかり」が繰り返されるダジャレです。蚊を弓矢で「射殺す」ことなど出来そうにないですし、その蚊を外にさらしても、小さすぎて見えないですよね。そういう意味でもおかしみがある言葉です。

また、帝の兵士の助力を得て、強気になった翁は、

「御迎えに来む人をば、長き爪して、眼を掴み潰さむ。さが髪を取りて、かなぐり落とさむ。さが尻をかき出でて、ここらの公人に見せて、恥を見せむ」(お迎えに来る天人の眼を、長い爪で掴んで潰してやろう。そいつの髪をとって、引きずり落としてやろう。そいつの尻をむき出しにして、ここにいるたくさんの公人に見せて、恥をかかせてやろう)

と言ったりして、かぐや姫にたしなめられたりします。

ご存じの通り、翁たちの軍勢はあっさりと天人に負けて、かぐや姫は天上世界に連れ戻されてしまうのですから、このように翁や兵士が自信満々なのは、いかにも愚かで滑稽なことです。その滑稽さは、笑いを誘いますが、同時に無力さを自覚しない人間の愚かさ、哀れさをも描いているのだと言えましょう。

なにより、『竹取物語』の魅力の真骨頂は、この物語がこの地上世界を徹底して肯定していく物語であるということでしょう。

かぐや姫がもともと住んでいた天上世界は、清浄で永遠の命が与えられている場所なのだそうです。それゆえに、天人たちは「あはれ」という気持ちを持たない。
「あはれ」というのは一言では表現できないことばですが、心をゆさぶられること言うことばで、よろこびの場合にもかなしみの場合にも使われます。他者と共感できた時のよろこびや、他者をかわいそうに思う気持ちなども「あはれ」です。

この、「あはれ」は不完全な人間だから持ちうるということなのでしょう。

そして、かぐや姫は、清浄で永遠に生きられる天上世界よりも、命が有限で、人は不完全で時に愚かで、不浄のこの地上世界に留まりたいと願っています。これは、物語がこの地上世界を肯定しているということなのだと考えられています。

高畑勲監督の「かぐや姫の物語」がどのような物語なのか、まだ観られていない私は知りませんが、ウェブサイトには、「この世は生きるに値する」と高らかに掲げられています。きっと、『竹取物語』の一番肝心な、現世肯定的な態度が映画にも反映されているのではないかと、楽しみに観てくることにいたします。

2013/10/31

「文系院生ってどんな生活してるの?」
と聞いてくれる方には、「売れない漫画家みたいな。」と答えることにしているなおです。

書いているもの(論文)が、掲載されるか分からない、金になるかも分からない(たいていなりません。その論文で賞でも取れば別ですが)、プロ(常勤の研究職に付くこと)になれるかはもっと分からない・・・・・・(嗚呼、書いていて胃がきりきりしてきました)

というあたりが、売れない漫画家と割と似ているんではないかと。

あとですね、〆切前の徹夜と修羅場。
これを全く経験せず、涼しい顔ですらすら論文を書くタイプ(超優等生型もしくは天才型)の研究者もいますが、なおは、〆切直前は血を見ます(汗)。

〆切前の修羅場のイメージが一番定着しているのは、漫画家さんじゃないでしょうか。でも、文系研究者(見習い)の修羅場も負けてませんよ(自慢にならない・・・)

もっとも、「文系院生の生活」を聞いて下さるかたは稀で、むしろいい年して学生をしているなおがよほどうさんくさいのか、「何年で卒業なさるの?」とか、「博士号はいつとるの?」とか、「いつ就職なさるの?」とか、(ご本人は無自覚でしょうが)「尋問」される方の方が多いです。
(ちなみに、前二つの答えは「博士論文が書き上がったら」、最後の答えは「運が良ければ」です・爆)。

もし、文系院生に遭遇することがあったら、あまり「博士論文はいつ出すの?」とか聞かないであげてください・・・「順調なペースで進んでいるので、来年には」と晴れ晴れと答えられる院生もいるでしょうが、なおのように、「・・・・・・」な院生も多いと思いますので。

さて、そんな修羅場の合間に、引きのばしていた、源氏研究者見習いの悩み(3)
「どうも、研究者は一般の方の知りたいことに答えていない、ような気がする・・・」
について書かせていただきます。

一般の方の期待と源氏研究者が提供できる情報のミスマッチ、これが起こるのはいくつかの原因があるように思います。

1.一般の方が求める事柄を、(実は)研究者は研究対象としていない。
2.一般の方が知りたいことは、(実は)答えが出ない可能性が高い。
3.一般の方に、フィクションと現実を混同した質問をされることが多い

1.は、とてもよくあるミスマッチだと思います。
学外の方や、勉強を始めたばかりの若い人達が知りたいと思われることの中には、実在の平安貴族の生活がどのようなものだったのか、ということが多く含まれるように思います。彼らの生活文化を再構築して見せて欲しい、ということですね。

彼らは、何を食べていたのか、何を着ていたのか、寝殿造の細部はどのようになっていたのか、彼らは何を考え、どんな社会的な制約の中で生きていたのか・・・

なおは、割とこの生活文化に関心がある方で、調べてみることもあるのですが、それを調べることが「文学研究」に繋がるんだろうか、と悩むことは多々あります。

平安期の貴族達の生活を知ることは、作品を読む助けにはなるけれども、そのこと自体が『源氏物語』を論じることにはならないからです。生活文化について徹底して調べれば、読み応えのある論文になるかもしれませんが、それでは文学の論文ではなくて生活文化の論文になります。

むしろ、調べる手間が多い割には、注釈の一部を改める程度のことにしかならない可能性が高い。

しかも、調べても分からないことが多い。平安期の建物や装束は残存していないですし、生活文化のような当時の貴族の「常識」がわざわざ書き残されることは少ないのです。

だから、細々とした彼らの生活の実態を調べるような研究は、最近あまり流行っていないように思います。

今は、「たくさん論文を書け!」という圧力がほうぼうからかかりがちです(質より量で判断されている気が・・・)特に若手は無駄な研究は出来ないので(就職かかってますから)、今後ますます、手間のかかる研究は減っていくだろうという気がします。

その結果として、専門外の方々が知りたいことに答えられないようになってしまうと、専門家の存在ってなんなんだろう・・・ということになりますが。

2.は文学研究は、結論を出すことだけを目的としているわけではない、ということが関わってくると思います。
「解釈学」である文学研究は、どういうプロセスで解釈していくか、が重要です。
そして、目の前にある材料から「解釈」出来ることしか、解釈しないのが原則です。

例えば、宇治十帖って紫式部以外の人が書いたんじゃないの!?
と聞かれることがあります。

答えとしては、「紫式部が書かなかったという積極的な理由はない」と言うしかありません。紫式部が書かなかったことを証明することは出来ないのですが、紫式部以外の人が書いたということを証明するほどの根拠もない。物語の舞台が違うから、仏教に傾斜しがちだから、等々いろいろ言われているようですが、山里を舞台とした物語は正篇でも夕霧巻に見られますし、仏教と救いの問題も正篇からすでに繰り返し取り上げられています。

むしろ、研究者たちは「宇治十帖の作者を特定する」というような答えの出ないことは、問題とせず、宇治十帖が内容的に正篇とどうつながり、どうつながらないのか、といった文学テキスト内部から証明出来る問題に向き合っています。

(これはちょっと以前、諒が、箸墓古墳が卑弥呼の墓か否かなんて、どうでも良いと言っていたことに重なるかもしれません。論理的な証明が不可能な問題には取り組まないのは、研究者の節度なのです)

また、「お歯黒っていつから始まったの?」などと質問をいただいても、お答えしづらいことが多いです。「いつから」と時期を区切れるものでもないですし、1でも書きましたが、文学研究者にとって、基本的には「お歯黒の文化史」のようなことは本来は、範疇外なんですよね・・・自分が解釈しようとしている場面にどうしても必要だったら調べますが・・・

とはいえ、なおは文化史的なことも嫌いじゃないですし、今後も機会があったら調べたことを報告したり、文化史的なことを基盤とした面白い文学研究を紹介していきたいです。

そして、一番多いのが3!
恋に殉じて死んでいく、柏木の物語などを読んだりすると、
「平安時代の男って、恋のせいで死んだり良くしていたの?」
と聞かれることが多いです。「虚構の世界ですから!!」とお答えするようにしています。

あるいは、「明石中宮が、宇治十帖になると急に家庭的になって、息子匂宮の行動を監視したりするのは、やっぱり正篇と作者が違うからなのでは?」
と、2と3の問題を組み合わせたような質問にもよく出会います。
光源氏の娘、明石中宮はもちろん生きた生身の人間ではないので、生き方・考え方などに必ずしも一貫性があるわけでもありませんし、すっごい脇役なので作者の都合で設定変更とかされやすい訳です。それを、作者の違いにもっていくのは、飛躍しすぎのように思います。

・・・とまあ、色々述べてきたのですが、私自身、「研究」を始める前の子供時代、紫の上ってきっとこういう人、と妄想したりするのが大好きでした。自分もいわゆる十二単を着て、作中人物と会話出来たらよいのに、と思うような、フィクションと現実の区別なんて全く付いていない子供だった訳です。

そういう少女時代の夢を大切にしつつ、でも研究者(見習い)としての良識も守りつつ、なんとか文学愛好者の方々、源氏愛好者の方々と研究者の間の橋渡しをしていけたらな、と思います。

長々とした愚痴を、3回に渡って掲載してしまい、どうも失礼しました。

2013/08/31

こんばんは。なおです。

先月考えようとして、ぐるぐる考えて煮詰まったあまり、発熱して先送りにした問題について改めて書かせてください。書いているなおもまた発熱しそうな、そしてもし読んでくださる方がいるとして、その方に楽しんでいただけるか、はなはだ自信の持てない内容です(すみません・・・)

でも、「源氏研究者見習い」の愚痴というか悩みというかが、Web上に公開されているのってちょっと稀少?かも。と開き直って書くことにします。

先月来なおが「悩んでいること」とは、(うんと簡略化して書けば)

なんか「源氏研究者」が「業界外」の方たちに向けてお話をしたり、本を書いてもいまいちウケてない気がする。

というか、「源氏研究者見習い」の私、ここJunk Stageで、一体何を書いたらいいんだろう!?

という、なんというか、誠に年甲斐もなく(汗)青臭い、しかし、だからこそなかなかに根源的な悩みで、なおは一人じたばたともがいている状態です。 (このままでは、Junk Stageの更新が滞る程度には深刻です・笑)

研究者の中にはすごく話が上手くって、学生のみならず学外の方の心も、ぐっと掴んでしまうタイプの人が確かにいます。でも、そういう先生が『源氏物語』の入門書を書いた場合でもたいてい、その売り上げは、有名な作家や評論家の書いたものにはかなわないでしょう。

これには、いくつかの理由があるように思います。

1.研究者の名前は(「ギョウカイ」では有名であっても)、一般にはあまり知られていない場合が多い。逆に、有名作家や評論家はなじみがあるので、書店で著作を手に取りやすい。 (一般の方が、研究者の善し悪しを判断する材料は、「○△大教授」のような肩書きぐらいしかない)

2.研究者が書くものは、歯切れが悪い。分かりにくく感じられる場合も。

3.知りたいことに答えていない。宇治十帖の作者は本当に紫式部なの!?etc…

といったところでしょうか。

 

上の問題点の対策を考える形で、今後のなおがJunk Stageでどんなことをやっていきたいのかも整理してみました。

1は、やむをえない面もありますよね。「大学教授」(特に有名大の教授)が絶対的な権威だった時代は終わって、読書好きの方たちが、是が非でも大学教員が書いた本を読破しようということもなくなりつつあるのでしょう。

専門家でも分かりやすくて面白い本を書いている人はたくさんいるのに、なかなか一般の方の手に届きにくいのは、残念なことです。このコラムではこれまでも、何冊かの本を紹介してきましたけれども、もっと積極的に『源氏物語』入門書の紹介をしていこうかなと思います。

2。研究者にとって「簡潔である」ということは結構危険なことなんです。

研究者には制約が多いのです。

原則として研究者は、自分の考えを論証しなければならない。たくさんの証拠を示しながら、自説を説明したり、反対意見に反論したりして、筋道立てて論じていかなければなりません。この論証が、たいていの場合「うねうね」とならざるを得なくて、(都合の悪い「例外」があったりして、その部分を説明しなければいけなかったりします)、研究者ならともかく、普通の読者なら「で?結論はどうなのよ!?」といらいらする感じになりがちです。

特に『源氏物語』は膨大な研究の歴史(なんと平安末期から注釈があります!)があり、研究者はなかなかそれを無視できない、という制約もあります。

例えば、 「『源氏物語』の主人公、光源氏の正妻であった紫の上は、若菜上巻で新たに光源氏の正妻となった女三宮に正妻の座を譲ることとなった」

という記述があったとしましょう。これが、作家や評論家によって書かれたのであれば、さほど問題はないだろうとなおは(個人的には)思います。

しかし!『源氏』研究者を名乗る人間がこれを書いたら大問題なのです。

紫の上が光源氏の「正妻」であったかどうかについては、専門家の間でものすごく意見が分かれているからです。そもそも、平安時代がいわゆる「一夫多妻制」であったかどうかについてもたくさんの議論がなされてきました。

研究者が論文を書く手続きとしては、この膨大な先行研究を整理して説明した上で、自説を立証しなければなりません。 でも、多くの普通の方はそんな説明を聞きたくはないでしょう(実は研究者見習いであるなおも、少々うんざりしている)。

ここがとても苦しいところなんです。「簡潔に」といっても限界がある。

というわけで?これまでなおは、平安時代は「いわゆる一夫多妻制」である~のような表現でごまかして、「一夫多妻制ではない、という立場もあります」という注をつけるというようなことをしてきました。

先日、語源を紹介するテレビ番組で、紹介の度にテロップで「ほかにも諸説あります」と小さく出ているのを見て、「これこれ!」と思いましたよ。 クレーム(!?)が出ないように、あらかじめ予防策?を取っておくのですな。

研究者にとって、この一手間はかなり大切で、つまり自分が採用した説以外の説があることをちゃんと承知しています、ということを示す必要があるのです。無知でこういう結論になったのではないよ、というわけです。

それじゃあ、おまえは紫の上を「正妻」説なのか、非「正妻」説なのか? ごちゃごちゃ言っていないで、結論と理由を簡潔に説明せよ!

という気分になってきましたか?

(もしくは、まわりくどくって、質問する気も失せるくらい疲れたよ、パトラッシュという気分でしょうか)

これに答えるのは、出来れば勘弁して欲しいなあ・・・という質問です。

私なおは、「紫の上が正妻であろうとなかろうとどっちでもいいんじゃん(多分物語読解のポイントはそこじゃないよ)」という立場です。

いいかげんに聞こえます?

「理由を簡潔に」言うのも難しいのですが、「光源氏と紫の上の結婚って異例ずくめでちょっと当時の歴史上の一般的な結婚に当てはめて考えるのは無理だよね。まあ、物語だし、そういうこともあるさ」という説(なおによる意訳)に深く共感するからです。

3.については、一番重要なところなので、この話題をもう一回引きのばして、書きたいと思います。

「研究者(見習い)がまわりくどい理由をまわりくどく考える」回になってしまいましたが、(もしかしたらいるかもしれない)読んでくださる方を想定しながらこの問題を考え、説明していくことは、なおにとって重要なプロセスになりました。もし読んでくださった方がいらっしゃいましたら、いつもにまして御礼申し上げます。

2013/07/31

こんばんは。なおです。 毎度の月末更新になってしまった上に、心苦しいのですが・・・今回は予告編とさせてください。

先日、①文学研究者(見習い中も含む)が提供したい/提供できる話題と、文学の愛好家(一般の読者の方達)が求めている事柄は噛み合わない!

②しかしながら、研究者が愛好家側に歩み寄ろうとしすぎると、ろくなことにならない(たとえ、どんなに有能な研究者であっても。なおのようなへっぽこ「見習い」であれば、なおさら)

ということを思い知らされる出来事がありまして・・・

なおのような、へっぽこな『源氏』研究者「見習い」が、『源氏』愛好家の皆さんに発信出来る、Junk Stageというありがたい場で、改めてなにが出来るのだろう・・・

とぐるぐる考えていたら、発熱しました

今は、頭が朦朧として、上手く考えがまとまらないのですが、『源氏』研究者(見習い中)が悩んでることについて、私たちが作家の方達とどのように異なる立場にいるのか、何故しばしば、愛好家の方達が求めている「情報」を提供出来ないのか、ということを一度、正面から取り上げてみたいと思っています。

来月もよろしくお願いいたします。

2013/05/31

毎度月末更新になってしまい申し訳ありません。なおです。

突然ですが、皆さんは地図に強いですか?

なおは・・・、ものすごく弱いです。新しい場所に一発で行けることは、ほぼ皆無。方向音痴でもあるので、デパ地下などでは自分がどこにいるのか、すぐ分からなくなります。

大きな建物など、目印を頼って歩くので、夜になると目印が見えなくなってテンパります。

文学は、舞台となる土地と切り離せないもの。ですから、日本文学研究をするのであれば、地図を読みこなし、登場人物たちがどのように移動したのか、正確に把握したいところです。

『源氏物語』の舞台となる京都は、ご存じの通り、碁盤の目のように通が整備されていますから、まだ何とかなるのですが・・・(とはいえ、なおは、清水寺は右、嵯峨野は左、みたいなかなり駄目な感覚で読んでいます・汗)

特にきちんと地理を把握すべきなのに、なおが苦手とするのが、登場人物たちの旅の行程です。女性たちが観音に願いを託した、石山詣・初瀬詣。光源氏が何度か参詣している住吉大社への道。物語続篇の舞台となる宇治と京都を徃復する道・・・・・・
「○○から、今はJR△線になっているのとほぼ重なる道を南下して・・・」などと、すらすら言える人を見ると、本当にすごいな、と思います。

なおの場合、どうしても必要な時は、現在の地図と歴史地図を並べて大混乱です。そうして、必死になって読み解いたルートも、またすぐ忘れてしまうという、救いようのない地図オンチ・・・

実際に歩いてみれば、少しは道を感覚的に理解出来るようになるかと思い、初瀬詣に行った玉鬘も歩いたと思われる(牛車を使わず歩いたのは異例のこと。より苦しい思いをすることで、大きな利益を得ようとしたのです)「山の辺の道」という奈良県の天理駅から桜井駅に至るまでの古道を歩いたこともあるのです。

が、真夏の奈良は暑すぎました。風景を楽しむどころではなく、ましてや道の両側になにがあるかを確認しながら歩くなどという余裕は全くなく、ただひたすらゴールを目指して体を引きずる・・・

作中人物たちの徒歩詣(かちもうで・徒歩での参拝)のつらさだけは、理解できた気もしますが・・・

そんなわけで、今日もなおは、平安文学を読みながら、地図が必要になるのではないかとどきどきしてます。輪読演習では、地図が必要な箇所の担当にならないように、ひたすら願っています。登場人物には、なるたけ京都の屋敷に留まっていて欲しいものです・・・(それじゃあ、物語にならないか・・・)

もっとも地図は苦手だけれども、旅行は好きなのです。特に地図に強い人に付いていけばよい旅行は。(これだから地図が読めるようにならない・・・)熊野詣とか行ってみたいな。諒&タモンが付き合ってくれると良いのですが。

2013/04/30

新学期の忙しさに追い立てられていたら、また月末になってしまいました。なおです。

先月、タモンが文系院生の整理術を話題にしていたので、なおも「整理術」について書いてみたいと思います。

タイトルは、あくまで日本文学研究者(見習い中)「と」整理術で、日本文学研究者(見習い中)「の」整理術、ではありません・・・

つまり、なおには、紹介できるほどの「整理術」がないばかりか、日々、部屋に埋もれた本と資料を探しています(そうして、貴重な勉強時間が削られる・・・涙)。良い方法があれば、是非教えていただきたいです。

とはいえ、「整理術」を色々試してはみているのです。 試してはいるのですが、片付かない。片付かないどころか、日々、本と資料は増え続け、部屋を埋め尽くしてゆく・・・ひどいと雪崩が起こる(汗)

なおが片付けが下手なせい、というのはもちろんなのですが、大きな理由として、「捨てられない」という事情があります。

私たちの仕事上、「断捨離」とか、 「ときめかない」本は捨てるとか、そういうわけにはいかないのです。

論文や発表では、「研究史のまとめ」を求められることもしばしばあるので、自分が関わっている分野の先行研究は出来るだけ手許に置いておきたいところです。

なおは、自分の論旨を考えている時に、「ときめかない」先行研究論文をついうっちゃってしまい、いざ先行研究に言及する際に、探しまくる、最悪もう一度図書館にコピーしに行く、などという目によく遭っています(自業自得)。

「ときめかない」文献を二度目にコピーする時の敗北感といったら!(自業自得ですが・・・)

本当に、「ときめかない」文献を片っ端から「断捨離」出来たら、部屋も心もすっきりするでしょうね(遠い目)。

自室で、文献を探すという非効率を改善しようと、もう何年もトライ&エラーを繰り返しています。「整理術」の本も買ってしまったり(そしてまた本が増える・・・) だいたい「整理術」の本には、先ず真っ先に、読まなくなった本や書類は処分すべし、と書いてあります。それだけ、スペースを取り、しかも部屋にごちゃごちゃした印象を与えるのが、本と書類なんでしょうね。嗚呼。

しかし、本と資料をたくさん手許に置いておかなければならない文系の院生でも美しく効率的に暮らしている人はもちろんいます。そういう方々に共通しているのは、

①デジタル化を上手に行っている

資料をスキャナに取り込んでPDFで管理したり、自作の蔵書目録を作って、どこに何があるか分かるようにしたり。小さな自分専用の図書館を作る感覚。

②家での勉強に固執しない(図書館や研究室の活用)

書籍の購入は、基本的な文献に留めて、毎日図書館で勉強するという方も。

ということでしょうか。

なおは、ネット上で公開されている論文を読む時には、プリントアウトしないと読みにくい!!という、キンドルとか絶対に使えない人種なので、①はなかなか難しいのです。でも、部屋の中で資料を探し回る手間を考えたら、PDFファイルを読むときにプリントアウトした方が手間は少ないかも・・・という気も。 ②は妙案なのですが(生活のリズムも整うしね)、急に「あの資料が見たい!」という衝動にかられた時(たいてい夜中の0時を廻っている)に不便です。学問は夜に深まるので(正確には「深まる場合もあるので」)、これはちょっと困ったことです。

結局、研究上に必要な本や資料以外を処分するしかなさそうです。残りのゴールデンウィークで多少改善出来ると良いのですが・・・

文系研究者で、片付けられない人、という極めて限られた人にしか興味ない話題で(しかも全く役に立たない)失礼しました。万が一読んでくださった方が、万々が一文系研究者とお付き合いすることになって、その人のお部屋が・・・・・・という状態でしたら、「文系研究者に断捨離はムリだもんね」と、あたたかい目で見守ってあげてください。

ちなみに、タモンも諒も、特別に片付けが得意なタイプ、ではないように見受けられますが、「なおが断然ひどい」という点では、3人の意見が一致するのではないかと思っています。

もう一つ、どうでも良い情報ですが、「らっこの会」のバーナーは、なおの本棚の一部です。もちろん、実物より美しく見えるよう、かなりの演出が施されています。

2013/02/28

 今月もまた月末更新になってしまい、申し訳ありません。なおです。

 昨年末亡くなられた中村勘三郎さんに続いて、市川團十郎さんまでもが、この世を去られたというニュースに、(歌舞伎ファンならずとも)ショックを受けた方が多いのではないかと思います。
 かくいうなおは、「いつか、一度はナマで見てみたいな」という悠長な関心の持ち方だったので、勘三郎さんが亡くなられた時に続いて、改めて、「いつか」では、チャンスを逃す!と思い知らされたのでした。
(なんだか、近頃一部で流行しているらしいCMの「今でしょ!」みたいですね・汗)

 その、市川團十郎さんの本葬が営まれたというニュースに接して、私が注意を引かれたのは、祭壇の遺影の近くに置かれた、「正五位」と書かれた証書の入った額縁でした。
 

 この「位」(「位階」とも)は、現代人にはあまりなじみのないものなのではないでしょうか。團十郎さんに「位」が追贈されたことは、ニュースで取りあげられてはいましたが、さほど人々の注意をひくことはなく、それ以上に葬儀での海老蔵氏に報道の注目が集まっていたわけです(これほどの注目を集める海老蔵氏は、やはり希有な役者さんなのでしょうね) 
 團十郎さんの「位」は、日本政府が追贈することを決定したものですが、戦前まで「位」は、天皇によって臣下に授けられるものでした。
 
 平安時代においては、「位」は、国家官僚の序列を定める極めて重要なものでした。古語辞典の巻末や、高校の国語便覧に、「官位相当表」と呼ばれる表が付いていたのを覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかと思います。おおよそどの位の人がどの官に(実際の職制。「大臣」とか「○○国守」とか)につくべきかを示したものです。
 
 実際には、「位」に相当する仕事がもらえないことも多かったため、どの仕事についているかが、その人の現実的な勢力(資金力や国政における発言力など)を決めるという面はもちろんありました。同じ位であっても、国政の中枢に近い職についている方が、勢力がある、ということになります。

 それでも、「官」に比べて「位」がどうでもよかったのかというと、決して決してそんなことはなく、平安貴族たちの「位」への思いは並々ならぬものがあったようです。

 この「位」は、「一位」が一番偉くて、「初位」まで三十段階あり、生まれた家柄によってどこからスタートするかが決まります。王朝文学を勉強していると注意されるのが、「六位」と「五位」の間と、「四位」と「三位」の間にある大きな差。
厳密な意味で「貴族」とされ、「公卿」として国政の中心で活躍するのは「三位」以上でしたし、天皇の側近くに侍る「殿上人」となる資格を得られるのは、五位以上です。(六位の蔵人は例外的に殿上出来ますが)。また、平安中期には、「三位」以上を目指せる人々と、「五位」を目指して頑張る人々とが、生まれた家柄や父親の経歴などによって、固定化してくることにも注意すべきでしょう。個人の能力で出世できるわけではないのです。

 そして、この位階による区別は、人が亡くなる時にもその「死」を表す表現の差異として現れるのです。天皇・皇后が亡くなることを「崩御」(または「崩」)と言いますが、皇太子・親王・三位以上の臣下の場合は「薨去」(または「薨」)、皇太子・親王以外の天皇家の人々と四位・五位は「卒去」(または「卒」)、六位以下および位のない人は「死去」(または「死」)と表現しました。

 研究者によっても異なりますが、私は、論文で史実上の人物や、『源氏物語』の作中人物などが亡くなることを表現する際に、「崩御」(または「崩」)「薨去」(または「薨」)「卒去」(または「卒」)「死去」(または「死」)を使い分けるように気をつけています。それは、人物たちの身分や「位」への敬意ということではなく、そう表現することがより平安時代の制度を踏まえた、正確な記述であろうと思っているからです。
 余談ですが、平安文学作品の「死」に関連する論文を書いた時には、先にあげた「死」を表す表現を使い間違えていないか、胃がきりきり痛みました。(当時のノートを見ると、「藤壺 崩」みたいな殴り書きがたくさんあります)

 「階級社会って、ほんと、しんどいんだな」というのが、平安時代文学を勉強してきた私が常々思うことなのですが、学部の一年生の時に、身分や位階によって「死」を表す語が違うことを学んだ時の驚きは、本当に強烈なものでした。
 前近代の身分制社会に、法のもとの平等などあったものじゃなく、人の「死」でさえも身分や「位」によって厳密に区別されるということを、早い段階で意識できたのは、私の平安時代に対する理解を大いに助けてくれたように思います。

 実は、「位」には、生前に授けられ功績によって昇進していくものと、死後に贈られるものとがあって、後者は「贈○○位」と言い区別されています。記録を見ていると、「薨」「卒」「死」の区別は、生前の位階によるようです。ですから、戦後、「位」が死後追贈のみになった以上、「死」を「位」によって区別することもなくなったと言えるのでしょう。
そんなわけで、市川團十郎さんが「卒去」した、とは平安時代でも現在でも言わないと考えられますが、現在、「位」というものが、人々の注目をさほど集めないものになって、「位」によって「死」ぬ人と「卒去」する人がいる、ということがないことに、なおは正直ほっとしています。

2012/12/31

2012年の衝撃は2012年中に書いてしまおうと、年の瀬更新をします。なおです。

「衝撃」とは、自分の話した(単純な)日本語が通じなかったことなのです。 ああついにこの時が来たか、という感じです。

一般に、私たち古典文学研究者(および見習い)の話す日本語は、保守的であり規範的であることが多いです。

理屈としては、文学研究者は、文学の研究さえまともにやっていればそれで良いので、高校までの学校の先生たちが求められるような、漢字を正しく書けるとか、規範的な日本語を話せる、ということは守備範囲ではないはずなのです。 高校までの教科である「国語」と、学問としての「日本文学」は別物であると考えるのが正しいと思います。

(ちなみに、私が習った日本語学(日本語を研究対象とする学問)の先生は、世の教育ママたちが熱心にこだわる「漢字の書き順」には学術的根拠がないと断言していました。日本語学と「国語」の間の断絶も深そうです・・・「漢検」には書き順が出るんですよね・・・)

とはいえ、多くの古典文学研究者の見習いが、修業時代のアルバイトとして中高で「国語」を教える仕事をしていることもまた事実で、そのような場合は、生徒との何気ないやりとりであっても、「ら抜きことば」などの、規範から外れることばは用いないよう、かなり注意して話すことになります。

また、大学にポストを得られたとしても、教員として教壇に立つことには変わりがないのですから、やはりある程度規範的な日本語を話す努力をするのが教育的に正しいのでしょう。

それから、古典文学が好きで勉強しているくらいですから、「日本の古いもの」を愛する傾向があって、新しいことばよりも、やや古めかしいことばや言い回しに愛着を感じがちであるという、好みの問題も指摘できるだろうとは思います。

しかしながら、一方で、わたしたち古典文学研究に携わる者たちは、「ことば」というのがいかに変化するものであるかを、日々実感させられてもいます。 私の場合は、『源氏物語』をはじめとする千年昔の日本語を読み解くのが研究課題ですから、現代語との距離の遠さに苦しんだり、でもそれがおもしろかったりしています。

よく、NHKなど「規範的な日本語の権威」と考えられている機関が、慣用句などのことばを「誤用」したとして、抗議や注意の電話が殺到するということがあるようですが・・・ことばの「正確さ」とは、何を根拠にしたらいいのでしょうか。実はこれは結構やっかいなのです。

 

特に、文化庁が毎年調査結果を公表している「国語に関する世論調査」で取り上げられるような、語義の移り変わりの過渡期にあることばの場合、本来正しいとされる語義と、新しく受け入れられつつある語義と、どちらが「正しい」のかは、かなり微妙な問題です。

たとえば、平成23年度の調査では

「煮え湯を飲まされる」  の語義として、本来の意味とされる(ア)「信頼されていた者から裏切られる」を選んだ人が64.3%いますが、(イ)「敵からひどい目に遭わされる」を選んだ人も23.9%います。

この場合、本来の意味がまだ優勢といえますが、2割強の人には異なるニュアンスで伝わる可能性があるということです。

一方、「うがった見方をする」の調査では、本来の意味とされる(ア)「物事の本質を捉えた見方をする」を選んだ人は26.4%、(イ)「疑って掛かるような見方をする」を選んだ人が半分近い48.2%。

白状すれば、私なおも、(イ)の意味で使っていました。

「にやける」に至っては、本来の意味とされる(ア)「なよなよとしている」を選んだ人はわずか14.7%、

(イ)「薄笑いを浮かべている」が76.5%と、(イ)の意味がかなり優勢になっています。

難しいのは、ことばは「本来の意味」であれば正しい訳ではない、ということだろうと思います。

「美しい日本語を子供に伝える!」というような議論も、まあ結構だとは思いますが、ひっきょう、「ことば」はなによりも第一に伝達の手段なのです。 伝えようとする内容が、たいていの人に伝わらなくなった時点で、そのことばの意味は変化した、もしくは「死語」になったと考えるべきでしょう。

乱暴な言い方ですが、ことばが「正しいか」「正しくないか」は、通じるか通じないかによって决定しているという面があります。言ってみれば、日本語話者たちの、多数決の世界です。日本語は長い間、そうやって変化してきたのです。

というわけで、なおは、研究者見習いの冷徹な目(?)で「ことばの本義」にこだわる批判を「だったら、古語で話せば!?」と、冷ややかに見ています。NHKなどのことばの「誤用」が取りざたされるのも、多くの場合、ことばの「本来の意味」にこだわりすぎているか、好みの問題の場合かが多く、「誤用」と言い切れない例が多いように思うのです。

(一方で、NHKアナウンサーが、クイズ番組かなにかで「「弱冠」ということばは、20歳の男子にしか使わないでください」と言っていたのを見て、唖然としたことがあります。これなどは、述べてきた「本来の意味」にこだわりすぎた、極めて偏った主張でしょう。かなり「規範的」な辞書である『日本国語大辞典』でも、(2)の意味として、「年齢の若いこと。若年。」を挙げています。)

 

とはいえ・・・自分のことばが通じない時にショックを受けてしまうというのもまた事実で・・・

先日ついに、「日本語が通じない」という経験をしてしまいました。

あるファストフード店でのこと。

アルバイトの若い男性が(多分マニュアル通りに) 「こちらで召上りますか?持ち帰りますか?」と聞いてくれたので、なおは、 「こちらでいただきます」と答えました。

ところが、どうも様子がおかしい。この人なに言ってるんだろう?という顔を男性はしています。

繰り返して「ここでいただきます」と言ったら、「テイクっすね?」と確認されました。

今度は、私が??です。「テイク」って何?という状態です。

結局、店内で食べようと思っていたハンバーガーその他が持ち帰れるように、包まれようとしているのを見て、自分のことばが意図したとおりに伝わらなかったことを理解したのでした。

なおが、「こちらでいただきます」と言ったのは、「こちらで(=店内で)いただきます(「食べます」の謙譲語)」というつもりでした。

一方、お店の男性は「こちらで(カウンターで)いただきます(受け取ります)」と理解したのだろうと、後になって分析してみました。(もちろん「テイク」は、「テイクアウト」の略語です。) 「食べる」の意味で、「いただく」を使わなくなってきたことが、コミュニケーションの失敗の原因だったのだろうと思います。

と、今では冷静に(?)分析していますが、自分のことばが通じなくなったというのは、実に苦い感慨を伴うものでした。ちょうど自分が中年と言われる年齢にさしかかりつつあるのと時を同じくして、若い人と会話が成立しなくなってしまったというのは、なんとも象徴的で、ショックを受けると同時に、もの悲しさを感じました。

ちなみに、「いただきます」事件(?)の翌日、タモンと会ったなおは、ことのあらましを訴えてみました。

タモンは、「「こちらでいただく」が通じないなんてはずはない」の一点張り。 なおの話をなかなか信じようとしてくれません(事実なのに!!)

ところが。そのタモンもまた、なおと会ったその日に某カフェで、「こちらでいただきます」を、テイクアウトの意味に取られる、という経験をしてしまったそうです。

私の使う日本語が正しいのだ!と胸をはって「こちらでいただきます」を使うか、伝わるように「店内で食べます」と言い換えることをするべきか、悩ましい年の瀬です。

今年も一年Junk Stageにコラムを連載させていただいたこと、らっこの会を代表して感謝申し上げます。

皆さまどうぞ良いお年をお迎えください。

2012/11/30

すっかり寒くなってきました。冷え性のなおには辛い季節です。

先月の予告(?)どおり、和泉式部の「帥宮挽歌群」についてお付き合いください。

和泉式部の最初の結婚の相手は同じ受領階級の橘道貞です。この結婚で、和泉式部はやはり歌人として有名な娘小式部を設けますが、二人の仲が冷め、結婚生活が終わると(終わらないうちに、という説も)、次にお付き合いしたお相手は為尊親王でした。  しかし為尊親王は、わずか26歳の若さで亡くなってしまいます。和泉式部と為尊親王の関係がいつから始まったかは明確ではありませんが、二人の関係は長くても数年のことだったと思われます。為尊親王を失った喪失に沈む和泉式部の姿から、和泉式部の次の恋の顛末を描く『和泉式部日記』は始まっています。  その『和泉式部日記』冒頭で、和泉式部にアプローチしてきたのが、為尊親王の弟、敦道親王でした。敦道親王と和泉式部は急速に接近、和泉式部は敦道親王の寵愛を得るようになります。『和泉式部日記』は、和泉式部が敦道親王邸に迎え入れられるまでを描いています。敦道親王には、身分にふさわしい北の方がいたのですが、和泉式部の親王邸入りの後、北の方は実家に退居しています。結果として、和泉式部が北の方を追い出すような形となってしまったわけです。  和泉式部は、敦道親王に出会う頃には恋多き女として評判になっていたようで、敦道親王の乳母も、和泉式部に夢中になる親王にそのことで苦言を呈したりもしています。  また、このころの敦道親王は、もしかしたら次の東宮になるかもしれない・・・というポジションにいたと言われ、そのような立場の人が夢中になる相手として和泉式部はふさわしくありませんでした。ただでさえ親王と受領の娘では身分差がありすぎたのです。親王が、たまに気が向いたときに関係を持つ、一人前の恋人としては扱われない通い所の一つであればよかったのでしょうが、身分差にもかかわらず二人は強い共感で結ばれていました。ただ、身分差は厳然としてありますから、いくら親王に愛されていて、親王の妻のようであっても、和泉式部の立場はあくまで「お手つきの侍女」です。男主人の寵愛を受ける侍女のことを「召人(めしうど)」と呼んだりしています。

敦道親王邸で親王と生活を共にした和泉式部ですが、敦道親王もまた、わずか27歳で亡くなります。親王邸での生活は、4年ほどでした。  敦道親王を悼んで詠んだ和歌の連作が「帥宮挽歌群」です。(「帥宮」は敦道親王のこと)

後に、和泉式部が藤原道長の娘彰子のもとに出仕した際(和泉式部は、紫式部の同僚だったのです!)、道長に「うかれ女」と評されたというエピソードもある和泉式部、どうやら最初の夫、為尊・敦道兄弟、彰子のもとに出仕後再婚した夫・藤原保昌の他にも複数の男性との関係があったようで、超セレブ貴公子から、身近な男性まで次々とたぶらかす「魔性の女」、あるいは「愛欲にまみれた業の深い女」というようなイメージをもたれても、一面では仕方ないのかもしれません。

しかし、帥宮挽歌群を読んでいくと、和泉式部はむしろ女としての業の深さよりも、作家として業が深かったのではないか、という気がさせられます。  女として次々する恋愛の、喜びや悲しみを糧として「絶唱」といわれる数々の歌を詠んでいったのではないかと。

というのも、この「帥宮挽歌群」全部で120首ほどあるのですけれども、なんというか「やりすぎ」感が漂うのですよね・・・

敦道親王の四十九日を終えて歌を詠む、とか、新しい年を迎えて歌を詠む、とかは良いのです。当時よく哀傷歌が詠まれる機会ですから。ちなみに、大切な人が亡くなった後、新しい年を迎えて悲しみを新たにするのは、現在の「喪中のお正月」の感覚に近いでしょうか。

だけれども、雨が降っても夜にふと目覚めても、梅の花を見ても悲しいと思い、思うのは当然でしょうけれども、その悲しい思いをいちいち歌にして書き記していく。そのような営為の中に、いくばくかの演技性が含まれていないとは言い切れないように感じてしまいます。

たとえば、「頭をいと久しう梳らで、髪の乱れたるにも」(髪の毛をとても長い間梳らないで、髪が乱れているのにつけても)という詞書をもつ次の歌。

ものをのみ乱れてぞ思ふたれにかは今はなげかんむばたまの筋(72番)

(ただひたすら物思いに心が乱れているので、梳ることも忘れた髪もまた乱れたままになっている。今はいったいだれに嘆くことができようか)

・・・。物語の一つの情景としてはまことに美しいのです。最愛の恋人を失って、物思いにふけるあまりに、髪をとかすことも忘れ、乱れ髪のまま、行き場のない嘆きを嘆く女の姿。 凄絶で、妖艶な美しさを感じます。

でもねえ。和泉式部さん。物思いにふけっていてとかすことを忘れたって言っているけど、あなた絶対気付いていたでしょう、髪が乱れているの。もしそうじゃなくても、歌詠む前にまずは髪をとかそうよ・・・

というような、突っ込みを入れたくなってしまう、ちょっと行き過ぎた悲しみの表明がなされている歌が、「帥宮挽歌群」には結構見受けられます。(悲しみを表現する様々な状況を「ネタ」にして歌を詠んでいくというような・・・だいたい、和泉式部が「黒髪の乱れ」の美しさを詠む歌人であることは、有名な訳で・・・)そしてこの歌のような、うつくしい歌が多いです。

和泉式部がどうしてこのようなうつくしい哀傷歌の連作を詠み得たか、理由は単純ではないのでしょうけれども、悲しみをただ率直に吐露しても決して今の我々の胸をうつ歌にはならなかったでしょう。かといって、和泉式部が敦道親王の死を悲しんでいないわけではもちろんありません。ただ、悲しみを昇華して、よりよい和歌を詠もうという心意気のようなものが(演技性とか、少々の嘘っぽさとかが)、透けて見えてしまうこともまた、指摘できるだろうと思います。

圧巻は、挽歌群の終わり近くに配される46首の連作。悲しみが尽きないので、思ったことをそのまま書き集めたものが、歌のかたちであった、という説明の後「昼しのぶ」「夕べのながめ」「宵の思ひ」「夜中の寝覚」「暁の恋」と題を分けて、(つまり一日中かなしんでいたということ!!)十首前後の歌を配列しているのですが・・・背景に見える作為性に、とても「自然に心に浮かんだことば」をそのまま書き留めたとは思えません。 あなた、絶対に一日のそれぞれの時間ごとの歌を考えて詠んだでしょう!!と言いたくなってしまいます。

「帥宮挽歌群」についてと言いながら、1首しか歌の紹介が出来なかった・・・ 機会があれば、今度はもっと具体的な歌をご紹介したいです。 ちなみに、「帥宮挽歌群」、一番手近に見られるのは、岩波文庫の『和泉式部集・和泉式部続集』なのですが、今は古本でしか手に入らないようです。角川ソフィア文庫『和泉式部日記』には、付録として「帥宮挽歌群」が載せられていますので、興味のある方はそちらもおすすめです。

2012/10/31

寒くなってきましたね。朝起きるのが辛くなってきたなおです。
タモンが、中世における小野小町伝承について書いているので、便乗?して、小町と並び立つ女流歌人である和泉式部について書こうと思っていたのですが・・・
私事がばたばたしており、コラムとしてまとまりのある文章が書けませんでした。
更新が滞って申し訳ありません。

和泉式部は、中世ではタモンが書いているように、説話的な人物で、能の題材になったりもしているのですが(「東北」「誓願寺」など)、中古を勉強する人間にとっては、歌人として、ものすごく重要な人物なのです。(もちろん、そのはなやかな男性遍歴や、敦道親王との恋を書いた『和泉式部日記』も関心を集めていますが・・・)
特に、彼女が敦道親王を亡くした後に詠んだ一連の和歌群、「帥宮挽歌群」と呼ばれている和歌(全122首)は注目に値します。
この「帥宮挽歌群」、もちろん最愛の親王を亡くした悲嘆を歌っていくものなのですが、その悲しみの隙間から、「この悲しみをネタによりすぐれた和歌を詠んでやる」といった?(下品ですみません)、作家だましいというか、創作する者の業の深さというかが、かいま見えて、とても興味深いのです。
くわしくは、来月また。(すみません・・・)

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