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2014/01/29

突然ですが、らっこの会は今月をもって、いったんJunk Stageでの連載を終了させていただくことになりました。

私なおが、Junk Stage運営メンバーの須藤さんと桃生さんに出会ったのは、2010年9月のJunk Stage Cafeでのことでした。コラム執筆のお話をいただいて、舞い上がるような気分になったことを、昨日のように覚えています。
 
舞い上がったのはいいものの、一人では心許ないので、頼もしい仲間である諒とタモンに協力を求めたところ、3人の古典文学ユニット 「らっこの会」として活動を始めたらどうだろう、という話になりました。

ユニットとして3人でリレーコラムを連載したいと言ったところ、ありがたいことに、あっさりとOKをいただき、12月には連載開始となりました。当時は気付いていませんでしたが、ユニットでの参加は、それまでのJunk Stageではあまり例がなかったことだったのではないかと思います。
運営の皆さまの度量の寛さに感謝しています。

あれから、2年と少しの時間が経ち、らっこの会のメンバーが置かれている状況も変化しつつあります。
最近では、コラム執筆のための物理的な時間が取りにくくなり、月末の駆け込み更新になってしまったり、月2回の更新が出来なかったりすることが増え、とても申し訳なく感じておりました。

3人で色々話し合った結果、ひとまずは、目の前の研究活動に専念しようということで、今回の結論となりました。

いつの日か、より皆さまと古典の楽しみを共有出来る「新生らっこの会」として再結成出来るように、メンバーそれぞれが、努力していきたいと思っております。

これまで、読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。                                     感謝をこめて。
                               らっこの会 なお。

2013/05/31

毎度月末更新になってしまい申し訳ありません。なおです。

突然ですが、皆さんは地図に強いですか?

なおは・・・、ものすごく弱いです。新しい場所に一発で行けることは、ほぼ皆無。方向音痴でもあるので、デパ地下などでは自分がどこにいるのか、すぐ分からなくなります。

大きな建物など、目印を頼って歩くので、夜になると目印が見えなくなってテンパります。

文学は、舞台となる土地と切り離せないもの。ですから、日本文学研究をするのであれば、地図を読みこなし、登場人物たちがどのように移動したのか、正確に把握したいところです。

『源氏物語』の舞台となる京都は、ご存じの通り、碁盤の目のように通が整備されていますから、まだ何とかなるのですが・・・(とはいえ、なおは、清水寺は右、嵯峨野は左、みたいなかなり駄目な感覚で読んでいます・汗)

特にきちんと地理を把握すべきなのに、なおが苦手とするのが、登場人物たちの旅の行程です。女性たちが観音に願いを託した、石山詣・初瀬詣。光源氏が何度か参詣している住吉大社への道。物語続篇の舞台となる宇治と京都を徃復する道・・・・・・
「○○から、今はJR△線になっているのとほぼ重なる道を南下して・・・」などと、すらすら言える人を見ると、本当にすごいな、と思います。

なおの場合、どうしても必要な時は、現在の地図と歴史地図を並べて大混乱です。そうして、必死になって読み解いたルートも、またすぐ忘れてしまうという、救いようのない地図オンチ・・・

実際に歩いてみれば、少しは道を感覚的に理解出来るようになるかと思い、初瀬詣に行った玉鬘も歩いたと思われる(牛車を使わず歩いたのは異例のこと。より苦しい思いをすることで、大きな利益を得ようとしたのです)「山の辺の道」という奈良県の天理駅から桜井駅に至るまでの古道を歩いたこともあるのです。

が、真夏の奈良は暑すぎました。風景を楽しむどころではなく、ましてや道の両側になにがあるかを確認しながら歩くなどという余裕は全くなく、ただひたすらゴールを目指して体を引きずる・・・

作中人物たちの徒歩詣(かちもうで・徒歩での参拝)のつらさだけは、理解できた気もしますが・・・

そんなわけで、今日もなおは、平安文学を読みながら、地図が必要になるのではないかとどきどきしてます。輪読演習では、地図が必要な箇所の担当にならないように、ひたすら願っています。登場人物には、なるたけ京都の屋敷に留まっていて欲しいものです・・・(それじゃあ、物語にならないか・・・)

もっとも地図は苦手だけれども、旅行は好きなのです。特に地図に強い人に付いていけばよい旅行は。(これだから地図が読めるようにならない・・・)熊野詣とか行ってみたいな。諒&タモンが付き合ってくれると良いのですが。

2012/11/30

すっかり寒くなってきました。冷え性のなおには辛い季節です。

先月の予告(?)どおり、和泉式部の「帥宮挽歌群」についてお付き合いください。

和泉式部の最初の結婚の相手は同じ受領階級の橘道貞です。この結婚で、和泉式部はやはり歌人として有名な娘小式部を設けますが、二人の仲が冷め、結婚生活が終わると(終わらないうちに、という説も)、次にお付き合いしたお相手は為尊親王でした。  しかし為尊親王は、わずか26歳の若さで亡くなってしまいます。和泉式部と為尊親王の関係がいつから始まったかは明確ではありませんが、二人の関係は長くても数年のことだったと思われます。為尊親王を失った喪失に沈む和泉式部の姿から、和泉式部の次の恋の顛末を描く『和泉式部日記』は始まっています。  その『和泉式部日記』冒頭で、和泉式部にアプローチしてきたのが、為尊親王の弟、敦道親王でした。敦道親王と和泉式部は急速に接近、和泉式部は敦道親王の寵愛を得るようになります。『和泉式部日記』は、和泉式部が敦道親王邸に迎え入れられるまでを描いています。敦道親王には、身分にふさわしい北の方がいたのですが、和泉式部の親王邸入りの後、北の方は実家に退居しています。結果として、和泉式部が北の方を追い出すような形となってしまったわけです。  和泉式部は、敦道親王に出会う頃には恋多き女として評判になっていたようで、敦道親王の乳母も、和泉式部に夢中になる親王にそのことで苦言を呈したりもしています。  また、このころの敦道親王は、もしかしたら次の東宮になるかもしれない・・・というポジションにいたと言われ、そのような立場の人が夢中になる相手として和泉式部はふさわしくありませんでした。ただでさえ親王と受領の娘では身分差がありすぎたのです。親王が、たまに気が向いたときに関係を持つ、一人前の恋人としては扱われない通い所の一つであればよかったのでしょうが、身分差にもかかわらず二人は強い共感で結ばれていました。ただ、身分差は厳然としてありますから、いくら親王に愛されていて、親王の妻のようであっても、和泉式部の立場はあくまで「お手つきの侍女」です。男主人の寵愛を受ける侍女のことを「召人(めしうど)」と呼んだりしています。

敦道親王邸で親王と生活を共にした和泉式部ですが、敦道親王もまた、わずか27歳で亡くなります。親王邸での生活は、4年ほどでした。  敦道親王を悼んで詠んだ和歌の連作が「帥宮挽歌群」です。(「帥宮」は敦道親王のこと)

後に、和泉式部が藤原道長の娘彰子のもとに出仕した際(和泉式部は、紫式部の同僚だったのです!)、道長に「うかれ女」と評されたというエピソードもある和泉式部、どうやら最初の夫、為尊・敦道兄弟、彰子のもとに出仕後再婚した夫・藤原保昌の他にも複数の男性との関係があったようで、超セレブ貴公子から、身近な男性まで次々とたぶらかす「魔性の女」、あるいは「愛欲にまみれた業の深い女」というようなイメージをもたれても、一面では仕方ないのかもしれません。

しかし、帥宮挽歌群を読んでいくと、和泉式部はむしろ女としての業の深さよりも、作家として業が深かったのではないか、という気がさせられます。  女として次々する恋愛の、喜びや悲しみを糧として「絶唱」といわれる数々の歌を詠んでいったのではないかと。

というのも、この「帥宮挽歌群」全部で120首ほどあるのですけれども、なんというか「やりすぎ」感が漂うのですよね・・・

敦道親王の四十九日を終えて歌を詠む、とか、新しい年を迎えて歌を詠む、とかは良いのです。当時よく哀傷歌が詠まれる機会ですから。ちなみに、大切な人が亡くなった後、新しい年を迎えて悲しみを新たにするのは、現在の「喪中のお正月」の感覚に近いでしょうか。

だけれども、雨が降っても夜にふと目覚めても、梅の花を見ても悲しいと思い、思うのは当然でしょうけれども、その悲しい思いをいちいち歌にして書き記していく。そのような営為の中に、いくばくかの演技性が含まれていないとは言い切れないように感じてしまいます。

たとえば、「頭をいと久しう梳らで、髪の乱れたるにも」(髪の毛をとても長い間梳らないで、髪が乱れているのにつけても)という詞書をもつ次の歌。

ものをのみ乱れてぞ思ふたれにかは今はなげかんむばたまの筋(72番)

(ただひたすら物思いに心が乱れているので、梳ることも忘れた髪もまた乱れたままになっている。今はいったいだれに嘆くことができようか)

・・・。物語の一つの情景としてはまことに美しいのです。最愛の恋人を失って、物思いにふけるあまりに、髪をとかすことも忘れ、乱れ髪のまま、行き場のない嘆きを嘆く女の姿。 凄絶で、妖艶な美しさを感じます。

でもねえ。和泉式部さん。物思いにふけっていてとかすことを忘れたって言っているけど、あなた絶対気付いていたでしょう、髪が乱れているの。もしそうじゃなくても、歌詠む前にまずは髪をとかそうよ・・・

というような、突っ込みを入れたくなってしまう、ちょっと行き過ぎた悲しみの表明がなされている歌が、「帥宮挽歌群」には結構見受けられます。(悲しみを表現する様々な状況を「ネタ」にして歌を詠んでいくというような・・・だいたい、和泉式部が「黒髪の乱れ」の美しさを詠む歌人であることは、有名な訳で・・・)そしてこの歌のような、うつくしい歌が多いです。

和泉式部がどうしてこのようなうつくしい哀傷歌の連作を詠み得たか、理由は単純ではないのでしょうけれども、悲しみをただ率直に吐露しても決して今の我々の胸をうつ歌にはならなかったでしょう。かといって、和泉式部が敦道親王の死を悲しんでいないわけではもちろんありません。ただ、悲しみを昇華して、よりよい和歌を詠もうという心意気のようなものが(演技性とか、少々の嘘っぽさとかが)、透けて見えてしまうこともまた、指摘できるだろうと思います。

圧巻は、挽歌群の終わり近くに配される46首の連作。悲しみが尽きないので、思ったことをそのまま書き集めたものが、歌のかたちであった、という説明の後「昼しのぶ」「夕べのながめ」「宵の思ひ」「夜中の寝覚」「暁の恋」と題を分けて、(つまり一日中かなしんでいたということ!!)十首前後の歌を配列しているのですが・・・背景に見える作為性に、とても「自然に心に浮かんだことば」をそのまま書き留めたとは思えません。 あなた、絶対に一日のそれぞれの時間ごとの歌を考えて詠んだでしょう!!と言いたくなってしまいます。

「帥宮挽歌群」についてと言いながら、1首しか歌の紹介が出来なかった・・・ 機会があれば、今度はもっと具体的な歌をご紹介したいです。 ちなみに、「帥宮挽歌群」、一番手近に見られるのは、岩波文庫の『和泉式部集・和泉式部続集』なのですが、今は古本でしか手に入らないようです。角川ソフィア文庫『和泉式部日記』には、付録として「帥宮挽歌群」が載せられていますので、興味のある方はそちらもおすすめです。

2012/10/31

こんにちは。諒です。
寒いです。もう冬です。冬眠です。さようなら。
…と言いたいところなのですが、年末が近づくにつれて焦りだすのはいつものこと。今年もまだ何もやっていないと気がついて、論文を書かねばと思いながらも、その前に文章の書き方を練習しよう、とか別の方向に逃げだすのもいつものことです。でも、言いわけでも、思い立ってしまったのだから、その手の本の一冊ぐらい読んでもよいはず。
さて、知り合いにマニュアル人間というのが居りますが、私はまったく逆なタイプです。なぜマニュアル的なものをあまり好まないのかというと、型というのは、いろんな事象から見出されるものであって、始めにあるものではなく、それを人が見出したからと言って受け入れ難いヨ、という理屈を持っているため。と信じています。決して面倒だからではないはず。素直に捻くれているだけのはず。
しかし、何か上達しようと思ったら、やはり先達に倣うことも大事で、今さらながら、文章の書き方の本などを手にとってみたわけです。読んでみたのは、
板坂元氏の『考える技術・書く技術』
という本です。はじめの「考える技術」では、カードの取り方やその整理法を紹介するのはもちろん、著者が実践している、文房具の集め方だとか日常さまざまなものへの視点の向け方だとか、まあ、それは個性の範疇では…と思われるようなものの紹介までされているのです。内容がこれだけであれば、若干がっかりするところですが、「書く技術」の方はさすがに読み応えがあったように思います。著者がアメリカ在住のせいなのか、近世文学の専門だからなのか、非常に合理的で、文章の全体の構成の取り方から、強弱のつけ方まで、構造的に分析し、明解に示されています。
その中で、例文の豊富さ、多様さとその利用の仕方が、何というか、とても自然であること驚きました。普段、論文を書くときに、資料ばかり出して文脈がなかなか整わない自分は、本文の書き方にむしろ興味を覚えたのでした。多少品の無い事象例が見られるものの、内容が損なわれるほどではありません。バリエーションのひとつと捉えれば、まあ…。
しかし、この本によく引用されている、思考整理法のひとつ、「KJ法」の名称の由来が、発案者川喜多二郎氏のイニシャルであることを知った時が一番盛り上がりましたかね。
普通に勉強されている人々にとっては、読んでいて(知っていて)当たり前の本なのかも知れませんが、教養の乏しい自分にはなかなかおもしろかったです。
あ、役に立ったか(読者にとってよい文章が書けるようになったか)は、あくまで別の話です。
読んだ本のことはあまり書かないと言いながら、またやってしまいました。しかも漠然とした感想を…。そして上代と関係ないや。次回は専門の方で。

2011/07/30

こんにちは。諒です。

関東は、雨でじめじめしているものの、気温としてはしばらく過ごしやすい日が続いていますが、決して「暑くない」わけではないですよね。日中はやはり汗をかきますし、動けば体が涼を求めます。節電がさけばれる昨今、涼しさに対する飢餓感が無意識に育ちつつあるような気がします。建築のことはよく知りませんが、学会や会社の建物というのは基本的に空調の効率を前提としているようで、風を入れて暑さを凌ごうにも、そもそも窓が開かなかったり、開けてもあまり意味がなかったり。そんな時、吉田兼好が、

家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き此(ころ)わろき住居(すまゐ)は、堪へがたき事なり。(『徒然草』第五五段)

と言っているのを思い出します。これは当時の京都での暮らしのことですが、これからは都会の都市構想にも必要なのかな、と思います。もっとも、冬のことや近年の気象の諸々を加味した対策が取られなければならないのでしょうけれど。すでに取り組まれているのかも知れません。

さて、前置きが長くなりましたが、今回は古代日本人の暑さ対策について少し書きたいと思います。近年の猛暑ほどではないにしろ、古代も夏はやっぱり暑いわけで、人々は涼しさの追及を行っています。その一つが、「氷」の利用。といっても、1000年以上前のことですので、もちろん冷蔵(凍)庫などといった便利家電は存在しません。でも、冬に作った氷を貯蔵し、利用する知恵がありました。「氷室」(ひむろ)の活用です。

氷室に関する史料は必ずしも多くないのですが、平安時代に律令の補助資料として編纂された『延喜式』には、十ヶ所の氷室が記されています。なかでも有名なのが、都祁(つげ:現在の奈良市。石上神宮を西に見て山間部にずっと入ったところ。ゴルフ場が点在する辺り)の氷室でありました。『日本書紀』(仁徳天皇六十二年条)には、都祁の氷が朝廷に貢献されることにった起源が書かれてあります。ちょっと長くなりますが、せっかくなので全文を見てみましょう。

〔1、応神天皇の皇子である額田大中彦皇子(ぬかたのおほなかつひこのみこ)が氷室を発見〕 是の歳に、額田大中彦皇子、闘鶏(つけ)に猟(かり)したまふ。時に皇子、山の上より望みて、野中を贍(み)たまふに、物有り、其の形、廬(いほ)の如し。仍(よ)りて使者を遣して視(み)しめたまふ。還り来りて曰(まを)さく、「窟(むろ)なり」とまをす。因りて闘鶏稲置大山主(つけのいなきおほやまぬし)を喚(め)し、問ひて曰(のたま)はく、「其の野中に有るは、何の窟ぞ」とのたまふ。啓(まを)して曰(まを)さく、「氷室なり」とまをす。

都祁の野中に廬のような建造物を発見し、問うたところ、氷室であるとの答えが返ってきます。

〔2、氷室の使い方〕 皇子の曰はく、「其の蔵(をさむるさま)如何にぞ。亦、奚(なに)にか用(つか)ふ」とのたまふ。曰さく、「土を掘ること丈(ひとつゑ)余り、草を以ちて其の上に蓋(おほ)ふ。敦く茅・荻を敷き、氷を取りて其の上に置く。既に夏月(なつ)を経て泮(き)へず。其の用ふこと、即ち熱月(なつ)に当りて、水酒に漬して用ふなり」とまをす。皇子、則ち其の氷を将来(もちきた)りて、御所(おほみもと)に献る。天皇、歓びたまふ。是より以後、季冬(しはす:十二月)に当る毎に、必ず氷を蔵(をさ)め、春分(きさらぎ)に到りて始めて氷を散(くば)る。

氷室をどのように使うかというと、3~4メートルほど掘った穴の中に、茅や荻を敷いて、其の上に氷を置いておくとあります。仁徳朝は大体五世紀頃にあたります。実際、どれほど昔からこうした窟の活用が行われていたのか、それを知るすべは今はありませんが、温暖期と寒冷期を幾度も経た人類の歴史の古に遡れるのではないか、と想像が膨らむところです。ロマンです。都祁の氷室はその遺跡から、数十基単位で数ヶ所にわたり運用されていたことがわかっています。その実態の一端が、かの長屋王邸跡から出土した木簡によって確認されます。そこには、「都祁氷室二具深各一丈/廻各六丈//取置氷〇/一室三寸/一室二寸半・・・」(奈文研「木簡データベース」より)と窟の大きさが示されてあり、後文には、やはり草が敷かれていること、そして和銅五年(712)二月一日という日付まで記されてあります。この木簡は、長屋王の専用氷室があったことを示す史料なのでした。都祁の氷は、仁徳紀のような伝説が遺るほど、由緒正しい氷室であるためか。都が山城に遷り、朝廷による新たな氷室の運用が行われても、なお都に運ばれ続けたことが、前出の『延喜式』の記載からわかります。

都祁地域以外の奈良時代以前の氷室の分布については、史料が少ない関係で未だ謎に満ちています。そんな中で、ひとつ、重要な資料として認められるのが、天平勝宝八年(756)に成立した「東大寺山堺四至図」という、当時の東大寺の所領地を示す地図です。その界域には現在の春日社の境内も含まれていて、その中に「氷池」と「氷室谷」が示されているのです。平成二十年(2008)、この比定地の辺りで、都祁の氷室跡に似た、土坑跡が見つかりました。参考文献3.によると、この場所は奈良の「氷室神社」の旧社地ではないかと目されている所です。この神社、近鉄奈良駅から東大寺へ続く登大路の途中、奈良博の向かいにあるのですが、ご存知でしょうか。今後、調査が進めば、奈良時代の氷室の実態がより解明されることが期待されます。そうすれば、仁徳紀の氷室伝説がどれだけ重要視されたか、といったことまで研究が広がりそうです。楽しみです。

さて、古代の夏と氷については一回にまとめるつもりでしたが、思いのほか分量が多くなったので、二回に分けます。分けてしまったら、驚くことに二回目はほとんど奈良時代のことが出てきません・・・。ご了承ください。(自分の計画性のなさにびっくりしています。反省)

次回、八月の更新ではJunkStage舞台イベントの参加企画(イベント特設サイト;http://www.junkstage.com/110911/)として、関連する内容のコラムを掲載することになっています。まずはタモン氏のコラム、おたのしみに。

今回の参考文献 ) 1. 井上薫氏「都祁の氷池と氷室」『ヒストリア』85、昭和54年12月 / 2. 川村和正氏「氷室制度考―古代末葉の氷室制度の様相を中心として―」『国史学研究』31、平成20年3月 / 3. 同氏「奈良氷室に関する諸問題」『国史学研究』33、平成22年3月

2010/11/18

Junk Stageをお読みの皆さま、はじめまして。

今回新しく、日本古典文学に関するコラム「楽在古辞—院生が紹介する日本古典文学の魅力—」を執筆させていただくことになりました、らっこの会です。

メンバーは、諒(奈良時代までの文学を中心に担当)・なお(平安時代文学担当)・タモン(中世文学担当)の3名です。

共に「日本古典文学」を専攻する院生でありながら、専門も興味もそれぞれ違う私たち3人が、リレー形式で古典や院生生活に関わるエッセイを掲載いたします。3人がそれぞれの個性を発揮しながら、お互いに刺激しあいながら、日本文学への熱い思いを皆さまにお届け出来れば、と思っています。

ライターそれぞれの自己紹介は、各自初回のコラムでさせていただきます。3人とも全く異なる分野を専攻していますので、「一口に、日本古典文学といっても、色々あるのだなぁ」と感じていただけるのではないかと思います。

ちなみに、コラムタイトルは、「らくざいこじ」と読んでいただければ(そして、「らっこ」と略していただければ・・・私たち3人のグループの名前はここから来ています・笑)と思っていますが、訓読すれば「たのしみはいにしえのことばにあり」。
何百年、あるいは千年以上昔の「ことば」が楽しくて仕方が無くて、すっかり日本の古典文学に魅了されてしまった3人が、なにより「楽しみながら」皆さまに古典文学の魅力をお届けしたい、との思いでつけたタイトルです。その上で、読者の皆さまが私たちと一緒に「いにしえのことば」を楽しんでくださったら、これ以上の喜びはありません。

どうぞよろしくお願いいたします。

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