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2009/12/13

ごめんなさいm(_ _)m

これは、先日、レイ・チャールズと共演した作品を紹介するためにamazonのサイトにリンクを貼っていて見つけたレビューへの答えです。この作品はテレビ・スペシャル・コレクションに収録されています。

バーブラ・ストライサンドが1965年から73年の間に出演したテレビ・スペシャル5作を収録したBOX。ここにレビューが2つあって、どちらも訳の間違いについて触れています。『どうしても和訳が難しいですね』といった表現で、とても優しい書き方をしてくれているレビューです。しかし、『完全に和訳間違いの箇所もありました』とあり…。汗ダラダラ。翻訳作業は4年少し前に行なったもので、このレビューを読むだけでは前後関係を思い出せず…。さらにこれは5枚組のBOXなので「どの回の間違いなの?それとも間違いがいっぱいあったの?」とやきもき。

もちろん気になって調べました。もう1つのレビューには『「The river was frozen.」は「川が冷たかった」じゃなくて「川が凍っていた」でしょう。そうでないと話のつじつまが合いません。』とありました。とにかくデータを全部見てみました。

するとありました。ユダヤ訛りの英語遊びとか、凍った川が出てきました。「ライヴ・イン・セントラル・パーク」の中にある字幕です。

バーブラが「昔の民謡を歌うわね」と言って紹介する話のところです。話の舞台はラトヴィア。主人公はカンボジア出身の少女です。彼女は妹に恋人を奪われて失意のうちに自殺しようとします。川での入水自殺ですが、川が凍っていて出来なかった…。というオチのある話という感じです。

この作品は英語のスクリプトもありました。レビューにあるように、問題はThe river was frozenです。僕の頭には川が凍るという発想が全くなかったのです。冬のモントリオールで暮らした経験もありますが、凍ったセントローレンス川は見た事がありませんでした。(ひとまず言い訳させて!)

さらに舞台はラトヴィア(寒そう)とはいえ、主人公の少女はカンボジア人です。そこで「川の水が冷たかった」でも、僕の頭の中では勝手につじつまが合ってしまって…。(言い訳です!)

とにかく頭の中ではThe river was frozenが勝手にThe river was frozen coldになってしまっていたわけです…。凍った川には入りようもなく、すんなり笑えたのに…。とにかく川が凍らず冷たかったせいで続く訳もちぐはぐで、最後もユーモアが伝わらない…。というか、訳している張本人(僕です)が、そのユーモアを分からず訳し抜いてしまったのです。(あ~)

字幕演出家を名乗っていますが、勝手にcoldを付けた訳にしたのは、もちろん悪い演出です。(無意識や思い込みは翻訳の大敵です。)

というか、字幕演出家と名乗る理由は最初に書きましたが、従来の「演出家」のやる事には、そもそも正解も間違いも存在しません。「私がこう思ったから、こうなんだ」「これは演出です」で良いわけです。面白くても退屈でも言い訳は必要ありません。その意味で字幕演出家とは、オリジナルの演出を最も適切に伝える演出をする仕事で、とても厳しい仕事だなと思ってしまいます。

さて、本筋に話を戻し、この話の後に出てくるユダヤ訛りの英語遊びの部分。ここに関しては訳に苦労した事は思い出しました。

字幕を全部書き出すと長くなるので、ここでは日本の農具に話を置き換えて説明します。まず「次もフォークソングを歌うわね」みたいにバーブラが言います。次に「そうそう、1つだけ言葉を覚えておいてね」と言う。「鋤(すき)っていう農具。これだけは覚えておいて」「そういえば、この鋤(すき)は犂(すき)とは別もの」「鍬(くわ)とも字が似てるけど、覚えるのは鋤(すき)ね」「踏み鋤とか鎌とも違うから間違えないで」といった具合に1つの言葉を覚えておけと言いながら、いくつもの言葉を覚えさせるような展開でした。シュルーンとかガンパートとかクロームとか色々出てきました。でも、その言葉1つ1つについて、どんな物か調べずカタカナにしたのが僕の字幕でした。

我ながら残念です。川を凍らせて、単語をもっと突っ込んで調べていれば…。DVDといったソフトはディスクが読み取れないといった不具合なら回収し交換する事になりますが、字幕の訂正は現状では実質的に不可能です。車や電車や飛行機や船といった乗り物ならリコールのないように何度も試運転してから市場に出るのに…。とにかく『完全に和訳間違いのところもありました』は、その通りで、直せるものなら直したいです。

僕にとっての救いは、同じレビューの中に『ブックレットの完全和訳は良かった。』とあった事です。このブックレットは60ページほどあって、かなりの作業量だったのですが、問題なくてよかったです。

とにかく、仕事には全力で臨んでいるという気持ちはあるものの、気の緩みも時としてあるし、発想の限界も知識の限界もある。いくら言い訳しても始まりませんが、せめて「間違えちゃって済みません」という気持ちはあると表明しておきたいです。その意味では、こうしたコラムでそれを書ける僕は幸せだと思っています。僕の字幕のせいで楽しみを削がれてしまった人に、重ね重ねお詫びします。それからバーブラ・ストライサンドには素敵なファンがいる事が実感できました。

他の作品やアーティストのファンの人も、下手な字幕や誤訳にはどんどん(優しい言葉で)文句を言って下さい!気づいても黙っていては変わらないし。訳している側は指摘を受けてすぐ直せるものではありませんし、胃が痛くなりますが真摯に聞きます。そうした環境があってこそ、よりよい字幕が増えるはずです。さらに、本の重版のように再プレスする時が来れば、その時に字幕も直そうという動きが出てくる場合もありますから。(字幕版を見ようキャンペーンっぽい…。)

最後にこのボックスの5作品の単品での紹介ページと、もう1本、こちらで訳した1986年の彼女のコンサートの紹介ページをリンクしておきます。

マイ・ネーム・イズ・バーブラ 1965年4月28日 CBSにてOA

カラー・ミー・バーブラ 1966年3月30日 CBSにてOA

ベル・オブ・14th・ストリート 1967年10月11日 CBSにてOA
ここではシェイクスピアの「テンペスト」の一部を彼女が演じます。これの訳はピーター・フォンダの「テンペスト」や原作本を参考にしています…。

ライヴ・イン・セントラル・パーク 1968年9月15日 CBSにてOA
1967年6月17日にニューヨークのセントラルパークで行なわれたコンサートを収録。これが問題の回です…。

バーブラ&アザー・ミュージカル・インストゥルメント 1973年11月2日 CBSにてOA
レイ・チャールズがゲスト出演した回。

ワン・ヴォイス 1986年9月6日にバーブラのマリブの自宅で収録されたコンサート。

2009/10/18

英語から日本語に翻訳していて困る事が多い話です。

ただbrotherって言われると、兄か弟か分からない~。sisterも同じで姉か妹か分からないです。

音楽モノでアーティストが身内の話をしているような場合は、まだマシです。アーティストのバイオを調べたり、レーベル側の担当者に調べてもらったりすると、上か下か分かったりします。

でも、メインになるアーティスト以外だと手がかりゼロの場合も…。そういう場合は雰囲気から適当に決めます。(汗)

少し前にデイヴィッド・フォスターの功績を讃えるショー(YOU’RE THE INSPIRATION:THE MUSIC OF DAVID FOSTER & FRIENDS / 君こそすべて~デイヴィッド・フォスター&フレンズ ライヴ)を訳しましたが、彼のsistersは姉だけか、妹だけか、それとも両方いるのか。最初は分からず少し困りました。でも幸いそのsister達が画面に映ったのでよく見ると上も下もいるようで、「僕の5人の姉妹も云々」と訳せました。(姉妹5人というのもすごいと思いましたが、それはどうでもいいか。)

さらに先日のコラムに書いた「フィアー・ファクター」でも、今後リリース予定のエピソードの中に双子スペシャルという回があって、こちらは本当に困りました。「男女3人ずつ、6人が賞金5万ドルを目指す」のが普段のパターンですが、この回は、女性同士の双子が2組と男性の双子が1組という6人が出場し、最後に1人残るパターンでした。

女性の双子の1組は「私の方が4分先に生まれてるから」と言ったので、そう言った方を「姉」にできました。男性の組も「俺の方が産道を先に出たんだから○○には今回も負けない」などと言ってくれたので、その人を「兄」にできました。問題は残る1組で、彼女達はどっちが先に生まれたのか、断定的な手がかりがなく、結局、「baby」と呼びかけられている方を「妹」にして訳していきました。

できれば、兄、弟、姉、妹、全部分かるようにしてほしい…。

でも、そもそも、なぜbrotherやsisterの年の上下差を英語は気にしないのか。文化の差なのでしょうが、これって理由が分かりません。

誰か教えて下さい!

ところで日本語では「兄さん」と弟が兄に呼びかける事ができますが、英語では弟が「Brother」と兄に呼びかける事はありません。普通、ファーストネームで呼ぶだけです。

「先生」もそうです。日本語では「先生」と生徒が呼びかける事ができますが、英語では「Teacher」と呼びかける事はありません。この場合、「Mr.○○」のようにラストネームで呼びます。(女性の場合はMissとかMs.ですが。)それで「Goodbye, Mr. Chips」が「チップス先生さようなら」になるわけです。

こうした「兄さん」や「先生」から感じるのは、英語が個人主義志向の強い文化から生まれた言語なのだという事です。その意味からしても兄弟姉妹を細かく区別しないのはなぜ?

知っている人がいたら御一報下さい!(それに、他の言語ではどうなんだろう?)

2009/08/22

前回のコラムの続きのような話ですが、セリフには1つ1つ意味があります。字幕翻訳で重要なのは(1)ポイントになる情報はどれか。(2)キャラクターの個性を出す言い回しはないか。キャラクター設定から考えて、日本語ではどのような口調がよいのか等々を考える事です。

前回書いた「監視カメラ」は(1)になります。

場面転換のためのキーワードがセリフに入っている場合、それを訳さないと、その作品の流れに乗りにくくなります。

(1)のような伏線を意識できないまま、(2)キャラクターの個性を出す訳をしていくと、一見スムーズに読める字幕になっても、結局は伏線が死んでしまうという事が多々あります。結果的に、字幕を頼る観客にとっては分かりにくい話になります。

多くの作品の字幕では(2)は重視されますが、(1)は案外見落とされます。これはなぜなのでしょう…。理由は色々考えられますが、1つ言えるのは、(2)は原語(英語に限らず何語でも)と日本語の対比によって吟味する必要がないという事です。役者の演技を映像で見て、そのキャラクターに合う言い回しかどうか、日本語だけで判断できてしまうのです。原語に造詣がない人でも「いい感じ」とか「合ってない」と感じる事ができますから。一方、(1)は、当初の字幕が、そのポイントを提示し損ねていると、それを見た人が「このポイントが抜けている」と気づく可能性は極めて低くなります。原語に造詣がある人であれば、それに気づく事もあるかもしれません。しかし、映画を見ながらそこまで分析的に字幕を吟味する事はあまりないでしょう。

映画を見終わった後に、(2)に関しては「字幕の言い回しがキャラに合っていた」とか「合っていなかった」と語り合う事もあるでしょうが、(1)に関して語られる事はほとんどありません。

通常の字幕は(2)ばかりが重視されがちです。先に書いたように、それは仕方ない面もありますが、実際には(1)も等しく重要な要素であり、それは「脚本を訳す」という「字幕翻訳」になります。

乱暴な言い方になりますが、機械翻訳でも字幕は作れます。それに雰囲気でキャラを出すように手を加えれば、それなりにセリフっぽい字幕にもなるでしょう。しかし、映像とリンクする情報を見つけ出す事は機械には不可能です。その意味で、(2)より(1)の方が重要な作業になるのですが、不幸な事にそれに気づく人は少ない…。

次に字幕を見る時、ぜひ皆さんも「脚本訳」というキーワードを頭に入れて見てみて下さい。

2009/07/22

これは字幕を頼りに洋画などを見ている場合の話です。表題だけで内容が想像できてしまうかもしれませんが、それでも例を挙げたいと思います。

ある映画の主人公が冤罪で死刑になりそうな場面でのセリフの抜粋で、2枚の字幕です。A案とB案を比較してみて下さい。(字幕は1秒で4文字なら「ゆったり」読めるというのが目安で、ここで言う「フレーム」というのは30分の1秒のことです。※人名は実際の作品とは変えてあります。)

●A案1枚目3秒07フレーム(約13文字)

   ぼくは犯行の行われた夜
(11文字)

●A案2枚目3秒16フレーム(約14文字)

   サマーズ夫妻のアパートで
   働いてた
(16文字)

●B案1枚目

   事件があった日
   僕は通りの向かいで
(16文字)

●B案2枚目

   夫妻の家に
   監視カメラを設置してた
(16文字)

★まず「場所」と「位置関係」を見ていくと、A案では「サマーズ夫妻のアパート」が場所として出てきます。B案では「夫妻の家」があり、さらに「通りの向かい」に何かがある事を伝えるので、その「何か」と「夫妻の家」の位置関係も伝えています。それから、この作品には「夫妻」は1組しか出てこないので、ここでは名字は省略しても大丈夫です。むしろ、サマーズ夫妻のアパートに文字数を費やすより、位置関係を入れる方が情報が濃くなります。

★次に「時間」です。A案では「犯行の行われた夜」、B案では「事件があった日」になります。

★さらに「主人公の行動」です。A案では「働いてた」。B案では「監視カメラを設置してた」になります。

この作品は凶悪な連続殺人が起きた夜を、主人公が回想として語っていく形で展開します。舞台の多くは「夫妻が住むアパート」周辺。「通りの向かい」には主人公が勤める警備会社があります。B案で出てくる「通りの向こう」の「何か」は、彼が勤める事務所ですが、それはこの作品を見る人なら自然に分かるようになってはいます。でも、セリフとしてもその位置関係を明確にするというのが演出なり脚本の意図でしょう。

さらに「時間」ですが、主人公は「夜」は働いていません。日中は「監視カメラを夫妻の家に設置」したりして働いていますが、夜は凶悪犯達と戦うハメになるためです。この「夜」が、この時点で気になってしまう観客はいないでしょうが、作品の展開とセリフが矛盾する事になります。それこそこの作品を批評する人が、「脚本のアラもある」という印象を持ち、「未熟な脚本」と書く可能性も出てきます。原語で見たら存在しない「アラ」が字幕で生まれる…。(「夜」と「日」に相当する英語は「the whole time」で、昼でも夜でもない時間です。)

そして「主人公の行動」ですが、A案では「働いてた」だけです。B案では「監視カメラを設置してた」事まで分かります。この監視カメラは重要な小道具ではありませんが、作品の中で、扉の前に立つ凶悪犯を見る等、何度かサマーズ夫人が活用します。その上、これが重要な点ですが、この2枚のセリフを処刑目前の主人公が刑務所で言った次の映像が、監視カメラのアップに移るのです。

映像の編集をする時、より自然な場面転換を意識するのは普通ですが、その時、セリフによって次の場面に移らせるという事もよくあります。この「監視カメラの設置」は、場面転換の道具なのです。シーンとシーンをつなぐジョイントです。細かく説明すると、①刑務所でこの2枚のセリフを言う囚人服姿の主人公。②夫妻のアパート前の廊下の天井に設置された監視カメラのアップ。③そのカメラを見上げ、カメラに向かって笑顔を見せる警備員姿の主人公。になります。

ちなみに、B案では原語のセリフに盛り込まれた情報の大半を字幕にしていて、A案はそうなっていません。文字数としてはA案の方が少しゆったりしていますし、主人公の幼さというか若い感じも出ていると思います。

…映像を文字で説明するのは面倒な作業で、読む人にも分かりにくいとは思います。字幕というものも映像の一部なので、その説明というのも同じくらい面倒です…。(さらに、僕の文章力が足りないという問題まであるわけで、読みにくくて本当に申し訳ありません。)

とにかく、字幕には作品の雰囲気を出すというか、主人公の優しい感じを出すとか、性格を伝えるという使命もありますが、それはあくまで原語の情報をできるだけ伝えた上での話です。情報を落としまくって雰囲気を出すと、編集意図が全然伝わらず、挙句の果てには作品として話がつながりにくいという印象まで与える事になります。

そういう字幕で作品を公開していると、その作品は監督の意図から離れてしまう結果になりかねません。字幕なしの完成版と字幕が付いた完成版の印象が変わってしまうのでは、監督やプロデューサーより字幕翻訳家の方が偉いというか、重要な存在になってしまいます。

今回挙げたのは小さな1例ですが、こうした字幕は思いのほか多いものです。前出の「ジョイント」としての機能がゆるくなってしまっている字幕です。それができるだけ減る事を心から願います。

 ※補足:この字幕A案はテレビ版、B案はDVD版で、もちろん同じ作品の同じ場面の字幕です。

2009/06/24

「アイトニョロニョロケイ」と読みます。これが始まったのは1977年「愛と喝采の日々」からでした。シャーリー・マクレーンとアン・バンクロフトが芸達者ぶりを競うドラマ。原題はTURNING POINT(転換期)です。この後、シャーリー・マクレーンは「愛と追憶の日々」でオスカーを獲得。これ以降の彼女の芸風を決めたような作品です。原題はTERMS OF ENDEARMENT XXX。termは“言葉”とか“表現”という意味で、endearmentは“愛情表現”、Xは手紙の終わりに書くキスの代わりの印。これらをカタカナ邦題にすると、ターニング・ポイントはカーチェイスものっぽいし、タームズ・オブ・エンデアメントXXXはなんだか分からないけど、XXXは成人向けかと中途半端に誤解されそうです。直訳して「転換期」だの「愛の言葉たち」としても、どうせ内容は推察できない。そこで「喝采」=ステージ、「追憶」=思い出のイメージを入れて、生まれたのが愛とニョロニョロ系でしょう。この後も「愛と哀しみの果て」(原題OUT OF AFRICA=アフリカの日々)が、またオスカーで作品賞を獲ったりして、「愛と~」系の邦題は文芸作品の品質保証みたいなイメージが定着したような気がします。

この当時は他にも「愛と哀しみのボレロ」(1981)や「愛と青春の旅立ち」(1982)がありました。この2作も邦題が原題とは全然違います。「愛と哀しみのボレロ」は第二次大戦時から現代までのヨーロッパを舞台にした大河ドラマでフランス語の原題は「あの人達、この人達」みたいな意味(監督は「男と女」も撮ったクロード・ルルーシュ)。「愛と青春の旅立ち」は「士官と紳士」が原題です。邦題を決めるのは大変ですね。決まった邦題を見て、それを原題と比べてどうこう言うのは簡単ですが、最初に決めるのは、それこそ無限の発想から1つの邦題に絞り込むわけで大変な作業だと思います。

愛と~系タイトルを、さらにいくつか挙げると「愛と憎しみの伝説」(1981)MOMMIE DEAREST(=最も親愛なるお母さん)、「ベティ・ブルー/愛と激情の日々」(1986)BETTY BLUE(=英タイトル)、37-2 LE MATIN(=仏タイトル)このフランス語のタイトル「朝、摂氏37.2度」は女性が最も妊娠しやすい条件の事だそうで、「愛と激情」とは無縁です。さらに「愛と宿命の泉PartI/フロレット家のジャン」(1986)JEAN DE FLORETTE、「愛と宿命の泉PartII/泉のマノン」(1986)MANON DES SOURCES、「愛と哀しみの旅路」(1990)COME SEE THE PARADISE、「サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方」(1991)THE PRINCE OF TIDES、「愛と精霊の家」(1993)THE HOUSE OF THE SPIRITS。…「愛と○○の××」という文芸作品の品質保証マークの力がだんだん落ちてきた感じです。これは作品の質が落ちたという事ではなく、邦題を決める時に困った結果として安易に、愛とニョロニョロしてしまうという印象になっていったような気がします。

それでも、こうした邦題の傾向はほんのりと続くもののようです。たとえば「ピアノ・レッスン」(1993)THE PIANOと「戦場のピアニスト」(2002)THE PIANIST。ピアノに「レッスン」を付ける。ピアニストに「戦場の」を付ける。これらは“とりあえず”「愛と~」を付けようという発想と根底が似ている気がします。

さらに最近では「きみに読む物語」(2004)THE NOTEBOOK、「愛を読むひと」(2008)THE READERなどがありますが、これも邦題を決める時に、原題に1つ情報を加える感じで、似た系統の邦題だと思います。

こうした邦題の対極にあるのが、「ただカタカナにしました」系の邦題です。これは「ホワット・ライズ・ビニース」(2000)が代表例で、カタカナは読めても英語が苦手な人には、どんな話なのかさっぱり意味不明だったり、「レディ・イン・ザ・ウォーター」(2006)のように、意味は分かるには分かるけど、ひねりがなさ過ぎるタイトルの事です。

ちなみにM・ナイト・シャマランの監督作は「シックス・センス」、「アンブレイカブル」、「サイン」、「ヴィレッジ」、「レディ・イン・ザ・ウォーター」、「ハプニング」と、劇場公開作は全部カタカナです。

…邦題の変遷を考えると、とりとめもない話になってしまいます。それでも最後に強引に統計を取ってみました。アカデミー作品賞を獲った作品の邦題の漢字とひらがなの年代別の比較です。

1920年代から30年代の12回分の合計で漢字の数は33。ひらがなは14。40年代の10回では漢字が21にひらがな15。50年代は漢字26、ひらがな14。60年代は漢字17、ひらがな16。こうして徐々に漢字が減り、70年代には漢字7、ひらがな3にまで落ち込みます。しかし80年代には漢字13、ひらがな7。90年代は漢字10にひらがな12と持ち直します。そして2000年代はまだ9回分ですが、これまで「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」以外は漢字もひらがなもゼロです。読みにくい統計ですが、カタカナのタイトルが増えたという事です。

いずれにせよ、邦題の良し悪しをいくら話しても、それは主観の問題なので意味はありません。ここから本当に強引に結論です。情報を足しすぎると陳腐になっていくし、引きすぎると味気なくなるのは邦題に限らず、字幕も同じ。

結局、字幕は「何も足さない。何も引かない」が理想なのです。

え?今回のコラムって、そういう話だったの!?(汗)

2009/05/24

すごいタイトルです。こんなタイトルのコラムを書くとは数年前には夢にも思っていませんでした。

活字離れ。その結果、洋画の字幕版も敬遠されがちという論調があります。あると思います。では、それをどうするか。(1)放置。(2)活字離れを防ぐ対策を考える。

字幕演出家としては(2)を選びます。そうしないと仕事がなくなっちゃいますからね。

では考えます。えっと、まず前回のコラムの終わりに書いた事も対策の1つです。言葉選びを慎重にする事。そして、それを吟味する楽しみを世間に伝える事です。

人類が以心伝心の超能力を備え会話が無用にでもなれば別ですが、会話は文明社会において不可欠です。同様に活字も不可欠です。いくら活字離れが進んでも、活字(というか文字)自体が消滅することはあり得ないでしょう。文語は口語の分身のようなものです。

言葉を吟味しすぎると「理屈っぽい」とか「揚げ足とり」と言われる危険もありますが、言葉を無造作に使いすぎると「無能」と言われる危険があります。どちらの危険も避けたいもので、さりげなく知性を隠し、バカになったふりをするのがベストでしょうか。

とにかく総合芸術とも呼ばれる映画を吹替版だけで鑑賞してしまっては、やはりもったいないです。こういう僕も吹替版で映画を見る事はあります。子供の頃はテレビで放映される吹替版を夢中で見ていました。吹替版も好きです。セリフの情報の集約度も字幕版より高いと思います。でも、総合芸術の要素にはキャストのセリフも含まれます。画面の演技は俳優、音の演技は声優で鑑賞するのとは、やはり違います。字幕版と吹替版の両方を鑑賞するのが理想かもしれません。でもそのためには2倍の時間が必要になりますし、映画館で見る場合は入場料も2倍になってしまいます。結局、総合芸術としての映画鑑賞には字幕版が向いているということになるでしょう。(って、単純化しすぎていて強引かな?)

次に考えるのが字幕の弱点である情報の目減りを減らす方法です。ここからは長いので、今後、追い追い書いていきます。

2009/04/02

このコラム、何から書き始めたらよいのか迷いましたが、僕の肩書きの説明から始めてみようと思います。「字幕」というと「翻訳家」と続くのが一般的ですが、なぜ「演出家」になるのか。

多くの人は「字幕」と聞くと、映画館で見る映画の字幕を真っ先に連想するでしょう。映画には台本があるのが普通です。少し細かい話をすると、いわゆる台本には数種類あります。たとえば翻訳者向けにセリフを列記したダイアローグリスト。これは画面の細かいカット割などを簡潔にした、セリフを中心に作られた台本です。これは通常、撮影後、それも作品が完成した後に、その作品通りのセリフが書かれているものになります。台本は撮影のために使うものがありますが、これはアドリブによってセリフが変わったり、予算の都合でカットされたり、様々な要素が絡んで変更されていくため、翻訳作業に必要な「聞き起こし原稿」としては不十分になる事が大半です。逆に、セリフだけでなく、カット割もしっかり書かれている上に、「●●という単語は、この場合、この地域特有の使われ方をしている。平易な言い方をすると▲▲になる」といった注釈が随所に入っている台本もあります。これは当初から全世界で公開する事を想定して作られた作品に多く、どの国の翻訳者も迷わず訳せるように配慮された台本です。すべての翻訳にこのような台本があればいいのですが、残念ながらそうもいきません。字幕というのは、そもそも口語です。話し言葉が自然に文字になる技術が進めば話も変わってくるでしょうが、今のところ、映像の音を直接聞き起こして翻訳する事も必要になってきます。

さて、僕の場合、この英語を聞き起こして作られた原稿(シンプルに「スクリプト」と呼ぶ事が多いです)のない素材を翻訳する事からこの世界に入りました。もう20年近く前になりますが、EPKなるものが業界内で一般化し始めた頃です。EPKはエレクトリック・プレス・キットの事で、プレス向け資料の電子版です。要するにDVDソフトの「メイキング特典」とか「スタッフ&キャストのインタビュー集」のようなものが1本のテープに集約されたものがEPKです。僕が最初に出会ったEPKは「カナディアン・エクスプレス」のものでした。テレビ朝日系で土曜の深夜に放送されていた「ハロー!ムービーズ」という映画の情報番組を制作していたプロダクションに面接に行った時の事です。

30分ほど普通の面接をした後、ビデオを見せられ、「これから見せる部分を、字幕ふうに訳してみて」と言われ、その場で口頭で訳しました。スクリプトはありません。初めて耳にするセリフやインタビューをその場で訳していき、その場で番組の翻訳者として採用されました。正直言って、字幕に関する知識はそれまで特にあったわけではなく、「1秒4文字が目安だよ」と、そのプロダクションで教えてもらい、私は字幕を作り始めました。

30分の番組で紹介するのは5本から7本ほどの新作です。その新作のEPK素材をデスクに並べ、番組のディレクターに同席して、それらの素材をラフに訳していきます。

素材にはタイムコードという時間の信号が記録されていて、番組のディレクターは「ここからここまで使いたいかな」といった具合に、「使いどころ」を抜き出してダビングしていきます。全体で2時間とか、多ければ4時間、5時間ある素材を、数十分の使いどころ候補に絞る作業です。ちなみに、この作業だけでたいてい丸一日かかります。

その数十分の素材ができたところで翻訳作業に入ります。字幕が画面に出るタイミングと消えるタイミングのタイムコードも書き出しながら翻訳を進めます。当時、EPKに台本やダイアローグリストが付いてくる事はほとんどありませんでした。さらに、数十分の素材を訳しても、実際に放送されるのは長くて10分程度。1つの番組作りの裏にも、「Behind The Scene」的な苦労があるものです。

そろそろ「字幕翻訳家」と「字幕演出家」の違いです。

「演出家」というと「字幕」に対しては大げさな感じもしますが、実際はシンプルな話です。「字幕」というのは、文字の内容がもちろん重要ですが、出るタイミングと消えるタイミングが自然であるという事も重要なポイントになります。しかし、特に映画の翻訳では、このタイミングを取る作業と翻訳とを別々の人が分業するのが一般的なのです。字幕の字面とタイミングを同時に調整していくのは僕にとっては自然な作業であり、そうした方が観客の目にも自然に入っていくと思います。この自然さを出そうと調整する事が「字幕」の「演出」だと僕は思っています。

「字幕」という「翻訳」された文章を作るのが「字幕翻訳家」であり、映像と音に乗って流れる「字幕」という情報を自然に見せるにはタイミングを調整するという「演出」が必要になるのだと。そこで僕は「字幕演出家」という肩書きを名乗ることにしたわけです。

このタイミングは生理的に最も自然になるようにするのが基本ですが、他にも様々な要素が関係してきます。その辺りの説明は、他の機会に…。

2009/03/19

読者の皆さん、初めまして。

字幕演出家の落合寿和です。これまでに訳してきた分野は、映画、音楽、テレビドラマ、報道ドキュメンタリー、スポーツ、ファッションなど。現在のレギュラーでは「王様のブランチ」という情報番組の映画コーナーの来日スターや監督のインタビューの翻訳があります。以前は独自にブログを公開していましたが、今後はこのJunkStageに場所を移して、徒然にコラムを書いていきたいと思います。

字幕の世界は、世の中の多くの事がそうであるように、奥が深いものです。何しろ言葉を扱う分野なので、それは当然でもあります。たとえば「学園」と「学院」の違い。学園は学生や生徒が集まり学ぶ園。学院は「院」が建物を指すので学ぶ建物。要するに人に重点を置いた表現が学園で、場所に重点を置いた表現が学院になります。そう考えると「病院」はあっても「病園」はなさそうですよね。病気が集まり、病気を広める園となると、ブラックユーモアとしても笑えません。やはり病院は病気を治す建物(=場所)でしょう。こうして、普段何気なく使ったり目にしている言葉の奥深さから、そのニュアンスをできるだけ簡潔に、かつ的確に選別し、利用して表現しようとするのが字幕作りです。(もちろん他にも「音と映像を文字にして云々」とか、色々な説明の仕方がありますが。)

いずれにせよ、こうしたニュアンスを表現しようとする時、いくら客観的に判断しようとしても、結局それはその言葉を選ぶ人の主観での判断になります。しかし、時間的な制限や文字数の制限など、いくつもの制限がある字幕の世界では、できるだけ客観的な判断をしていきたいわけです。

そこで、このコラムでは、私が常々思ってきた事を読者の皆さんに知ってもらい、皆さんの意見も聞いて「より客観的な字幕作り」を目指してみたいと思います。

今は確定申告の時期なので思い出しましたが、翻訳の仕事をする人は税務署の分類では「文筆業」になります。いわゆる一般の文筆業の人と比べると創造性は低い気がしますが、巧緻性というか、表現を工夫する瞬発力は劣らない気がします。その意味で文筆業という分類に入るのは自然でしょうか。

ということで、翻訳家は文筆業なのですが、インターネットがここまで普及した今では、この文筆業は1日24時間全く外出しなくても平気という事が多くなります。同業者同士の交流も多くはありません。(そうした時間を作れるなら少しでも眠りたいといった人が多いので)

その結果、「より客観的な字幕作り」に有用な情報の共有もほとんど進みません。いわゆる学会のような組織もなく、専門書の類も皆無に等しいです。

そんな状態ですが、何も始めなければ何も始まりません。有用な情報の共有は有用に決まっていますし、誰も始めないなら、ここで始めてはどうかと、僕は思ったわけです。

「ケータイ」と「携帯」。字幕の場合、どちらがいいか。フィルムに焼き付ける時、画数の多い漢字は文字全体が白くなってしまうというのは過去の話です。今の技術では「携帯」も判読できるので、その制限はありません。

では、「ケータイ」と「携帯」のどちらを一般の人は好むのか。そもそも「一般の人」とは誰か。それは作品によって変わってくるでしょう。メインの観客層が子供なのか若者なのか、もっと上の年齢層なのか。それも考慮する材料になります。セリフを言っている人が何歳くらいなのかというのも考慮する材料になります。

ここで翻訳家は「より客観的に」考えます。「主観」で。

僕がこのコラムで試していきたいことの1つは、この「主観」を「客観」にすることです。たぶん、これは時間がかかる作業だと思います。

このコラムで、単に「どちらが好きですか?」とアンケートのように質問を投げて、その回答を集計する事は可能かもしれませんが、この形態の情報発信向きではありません。

僕は「字幕.com」というドメインを何年か前から保持しています。今はブランクのサイトです。これをできるだけ早く字幕の総合サイトのような形にしたいと思っています。こうした総合サイトがあれば、もしかすると字幕を頼りにしている観客の意識や気持ちが見えてきて、翻訳家の思い込みが減るのではないかと。字幕について建設的な議論ができるサイトがあっても悪くはないのではないか。僕はそう思うのです。

しかし、ここですでに問題があります。一般の人が字幕の総合サイトに何を求めるのか、考えてみると色々ありそうですが、色々ありすぎて何から始めていいのか分からない…。

字幕の客観的な評価、効果、ネガティブな意味ではなく建設的な意味での誤訳の指摘。先ほど書いたような「ケータイ」と「携帯」の、選び方のガイドライン作り。とか…。

漢字の取捨選択もそうです。「完璧」という漢字を完璧に書けない人は案外多いでしょうが、読めない人は案外少ないでしょう。「復讐」もそうです。これをわざわざ「完ぺき」とか「復しゅう」にしなくてもよいのではないか。僕はそう思います。でも、これも「翻訳家の思い込み」かもしれない…。

「ゆとり教育」と「詰め込み教育」の間のどこかに答えはあると思いますが、テレビを見ていると「絶滅危惧種」を「絶滅危ぐ種」にしてくれていたり。道路標識だと「A埠頭」を「Aふ頭」にしていたりします。(そういえば道路標識用に簡略化された漢字ってあるらしいですよね)車を運転している時は読めない情報があっては危険ですが、テレビの場合は少し状況が違うわけです。「危惧」と漢字にして、その上に「きぐ」とルビをつければいいだけではないのか…。むしろその方が漢字の勉強になったりします。第一「絶滅」の「滅」の方が漢字、難しいし…。

僕は文筆業で、普段黙って仕事をしています。そのため、人と話す機会があるとお喋りになります。

ネット上でも、もっと人とお喋りしたい。でもお互い顔が見えないコミュニケーションは様々な不安を伴います。それで、まずはこのコラムを書き始め、その中から徐々に顔が見えるコミュニケーションをとれたらうれしいです。

だんだん脈絡がなくなってきました。こうして途方もない事をコラムで書きながら、まとまりのある「字幕.com」を目指したいわけです。

コラムの自己紹介から、さっそくで何ですが「字幕.com」の立ち上げスタッフになりたい人いませんか?たぶん当分はボランティアですが、形になり、社会的に存在価値のあるサイトに成長する可能性は十分だと思っています。人1人の力は微々たるものですが、その小さな力が集まれば、何かが生まれるのではないでしょうか。

では、また次回。

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