
お気づきの方もおられるかもしれないが、「クラシック・サポーターになりたい!」は、あと数回で連載100回目を迎える。
真央ちゃんじゃないけれど、長かったけどあっという間の2年間だった。
けれど100回を迎えるにあたって、ひとつだけ引っかかっていることがある。
これまで過去97回のうち、休載した回が2回あるのだ。
いずれも掲載するつもりで原稿は書いていたものの、どうあがいてもまとめきれなかったため、納得できずにボツにしたものだ。
休載した週にも通し番号だけはつけていたから、実際の連載は2本少ないことになる。
100回を迎えた時に、本当は100回じゃないというのは実にスッキリしない。
そこで100回までに2回ほど、番号をつけない番外編を挟むことにした。
細かいことかもしれないけれど、100回目にはちゃんと100本書いたことにしたいのだ。
つまらないこだわりに、どうかお付き合いいただきたい。
今年の1月にJunk Stageの新年会に参加させてもらった。
夜行バスで東京まで行った甲斐があって、普段はコラムでしか読むことができない、たくさんの個性的なライターさんと色々なお話をすることができた。
ライターとしての肩書きも実際のお仕事も、みんなほとんど共通点も持たない異文化人の集まりなのに、なぜか団結して盛り上がってしまうのがJunk Stageの不思議な面白さである。
ところで、その新年会の席で話をしている中で、皆がある共通のキーワードについて語っていることに気がついた。
今回はその話を書いてみようと思う。
そのキーワードとは「熱」である。
例えば「携帯カメラで勝負!」を書いておられる、携帯写真家のタカさん。
タカさんは、Junk Stageでの自分のコラムをどうすればいいのか迷っておられた。
携帯電話カメラの魅力は、日常の一瞬の感動を、その感動が醒めない間にすぐ撮れること。
そして個人的なブログなら、その熱があるうちにサッとコメントを書いてアップできる。
でもそれが週1回更新のコラムとなると、撮り溜めた写真を整理したり日をあらためて文章を書いたりすることになり、そうした時間と手間をかければかけるほど、撮った瞬間にあったはずの「熱」はどんどん奪われていく。
「字幕にない英語タチ」のライター、理紀(まさき)さんも似たようなことを言っておられた。
制限のある字幕では表現しきれていない、英語のセリフにある本当の感情を見つけたときの熱は、コラムを書くために下調べをしたり何度もDVDを確認したりしているうちに、やはり徐々に温度が下がってきてしまう。
僕の目からすると、どちらのコラムも充分に熱や愛情が感じられるけれど、2人とも異口同音に、自分が感じた「熱」を、どうすればもっと熱いままで伝えられるかを考えておられた。
この2人とは違うパターンで「熱」を認識させられた人もいた。
「先生、バスケが足りません。」を書いているバスケバカことフィルコさんと、「週末の森生活」の山ポエマー、渡辺和彦さんと僕との3人で話していたときのこと。
フィルコさんのコラムには、プロバスケットリーグのBJリーグのこと、そしてフィルコさんが愛してやまないチーム、東京アパッチのことが、毎度毎度もの凄い文量で書いてある。
そんなフィルコさんのコラムのことを、渡辺さんと僕とで「でも正直言って、半分くらいは何が書いてあるかよくわからないんですよねぇ」などと茶化して笑っていた。
これには続きがあって、渡辺さんと僕はその後、こんな結論で一致した。
「だけど、書いてあることはよくわからなくても、この人本当にバスケのことが大好きなんだなぁってことだけは、凄く伝わってくるんですよね!フィルコさんの文章を読んでいたら、この人がこんなに夢中になっているバスケってきっと面白いんだろうなって思いますもん!」
その時も日本バスケ界の改革の必要性について熱く語っていたフィルコさんを見ていると、その人の熱が100%伝わるのが一番大切なことで、それさえきちんと伝われば、そこで話したり書いている細かい内容は、本当はあまり重要なことじゃないのかもしれない、と思ったりした。
何かに打ち込んでいる人が持っている「熱」のエネルギーの凄さ。
そのことを強烈に実感した新年会だった。
僕のJunk Stageでのコラムは、瞬間の興奮を伝えるというよりも、砂浜から砂金を探すように時間をかけて熱を集めるやり方で書いているから、他の人とはプロセスが違う。
でも「熱」を大切にしたいという思いは、きっとみんなと同じくらい持っている。
濃厚なJunk Stageの中では、僕は個性的でも熱狂的でもないかもしれないけれど、それでもほんのわずかでもクラシックを取り巻く人々の「熱」が届けられているのならば、これほど嬉しいことはない。

「譜めくり」という存在をご存知だろうか。
ピアニストの左横にじっと座っていて、時々立ち上がってはピアノの楽譜をめくってあげる人のことだ。
譜めくりをする人のことを、音楽仲間は半分冗談で「譜めくりスト」と呼んだりする。
通常、譜めくりはピアノにしかつかない。
ピアノは最初から最後までほぼ休みなしで弾き通すことが多く、自分で楽譜をめくるタイミングがないからだ。
ヴァイオリンやフルートなど、ピアノ以外の楽器の場合は適度に休みがあり、自分で楽譜をめくることができるので、譜めくりは必要ない。
またピアノでも、協奏曲やピアノ独奏のときには、ピアニストは曲を覚えていて楽譜を使わないので、譜めくりはいない。
必要がなければいないに越したことはない舞台上の黒子役、それが譜めくりだ。
僕はコンサートに行くと、いつも譜めくりの動きが気になってしまう。
譜めくりはそれ専門の人がいるわけではなく、ピアノかそれ以外の楽器をやっている人が担当することが多い。
演奏するピアニストが、自分の友達や生徒にお願いするというケースもよくある。
世の中の譜めくりたちは、職人の域に達したごく一部を除いては「頼まれたらたまにやる」という程度の素人同然の人たちなのだ。
だからコンサートに行くと「今日の譜めくりは大丈夫だろうか」と気になってしまう。
僕も何回か経験があるから、譜めくりの気持ちはよくわかる。
譜めくりは実際に演奏する人と違って、数日前から事前に楽譜を予習するということは、通常はあまりしない。
コンサート当日のリハーサルで初めて楽譜を見る、というパターンがほとんどじゃないだろうか。
ピアニストから「ここはくり返しをするから、最初のページに戻ってね。あとは順番にめくっていけばOK」などと簡単に進行の説明を受け、リハーサルで軽く1回通したら、あとはもう本番だ。
もともとよく知っている曲ならまだしも、あまり知らない曲だと不安になる。
譜めくりはピアニストの邪魔にならないように、ピアノの左側の少し後方に座るから、その分だけ普段ピアノを演奏するときよりも楽譜の距離が遠くなる。
それも不安感が増す要因だ。
譜めくりは、楽譜をめくるタイミングが重要になる。
演奏しているピアニストの視線から楽譜を切らすことなく、100%見せてあげることがベストだから、早くめくりすぎてもだめだし、遅すぎてもだめだ。
ここ!という一瞬のタイミングで音を立てずにパッとめくるのは、意外に緊張する。
ピアニストによっては、自分のめくって欲しいタイミングでコクンとうなずいて合図を出す人もいる。
本番の演奏中に、ピアニストがめくって欲しいタイミングを見つけられるのは、いい譜めくりの条件のひとつだろう。
譜めくりにとって、最も怖いのは「落ちる」こと。
今どこを演奏しているのかわからなくなって、楽譜を見失ってしまうことを、業界用語で「落ちる」と言う。
演奏者が落ちるのはもちろん大変だけど、譜めくりが落ちてしまっても大変なことになる。
というのも、譜めくりが落ちるのは、たいていテンポが速くて楽譜が複雑な部分だからだ。
すると、ピアニストは必死の形相で演奏しながら、一瞬のスキを見つけて破れんばかりの勢いでバサッとめくらざるを得ない。
タイミングを逃して立ちすくみ、オドオドとイスに座り直す譜めくり人。
そんな修羅場を見てしまうと、こっちはもう演奏どころじゃない。
譜めくりさん、気を強く持ってガンバレ、あともう少しで終わりだ。
ピアニストも、どうか怒りを納めてこのままいい演奏で終わって下さい。
無事に演奏が終わると、まるで自分が譜めくりをしたかのようにホッとして、どっと疲れる。
いいコンサートには、いい譜めくりが必要なのだ。
次にコンサートに行く機会には、ぜひ譜めくりに注目してみてはいかがだろう。
いつもとはちょっと違った景色が見えてくるかもしれない。
もっとも、本来は黒子であるはずの譜めくり本人は、注目して欲しくないだろうけど。

1ヶ月ほど前に見た、デーモン小暮閣下がブログに書いていた文章が、ずっと頭の中にひっかかっている。
アーティストに言ってはいけない言葉、というものである。
それは次のような言葉だという。
「残念ながら今回は観られない(聴けない・行けない)です」
「観られません(聴けません・行けません)でした」
「観ない(聴かない・行かない)と思います」
少し長くなるが、デーモン閣下の考えを引用させてもらう。
時間や金銭の事情があって「本当はとても観たかった(接したかった)」のにそれが叶わず、そんな気持ちだけでも伝えようと、ほとんどの人は悪気なくむしろ応援の気持ちでそういう言葉をアーティスト(またはエンターテイナー)たちに発しているのだと思う。でも、そんなことは分かっていても、実はその類の言葉を聞いてほとんどのアーティスト(またはエンターテイナー)たちは嬉しくないのである。… というよりもがっかりすることが多いのだ。これは知っておくとためになると思う。
なぜか?「心血を注いで」生み出した作品はオン・タイムであろうが無かろうが、観て(聴いて・接して)もらってなんぼ、だからである。そこにその時の作者(演者)の魂(生きていた証し)が存在するからである。
もう少し簡単な言い方をすると「あんなに精魂こめて作った(演った)のに、観て(接して)もらえないんだ…どんな理由があれ」ということだ。
色んな人に色んな事情があって、意に反して観られない(聴けない・行けない)のは事実なのだから仕方がないとして、吾輩が言いたいのは、そのことはその人の心の中に納めてもらい、作者(演者)にはわざわざ伝えないほうが良いよ、ということなのである。
僕は今まで、例えば案内してもらったコンサートに行けないときには、素直に「行けません」と伝えていた。
デーモン閣下によると、それが応援の気持ちと分かっていてもなお、ほとんどのアーティストはがっかりするという。
その作り手側の気持ちはわかるような気もするし、僕がアーティストだったら別にそこまでがっかりはしないのかなぁとも思う。
いや、でも例えば、この連載について知り合いから「なかなか時間がなくて、まだ読んだことないんだよね」なんて言われたら、がっかりはしないまでも、残念というか寂しくは思うかな?
うーん、どうだろう。
これが逆のパターンだったら、よくわかる。
知人のコンサートがあるときに、「行きます」と伝える、または終演後に楽屋に会いに行ったり、後から感想をメールしたりすると、出演者はすごく喜んでくれる。
それは、町の小さな発表会だろうが、ショッピングセンターでのロビーコンサートだろうが、2,000人が集まるコンサートだろうが、あるいは有料無料にかかわらず、同じように喜んでくれる。
表現者にとっては、自分が心血注いで作った作品を、自分のために時間を割いて見て(聴いて)くれる人がいるということが一番大事で、嬉しいことなのだ。
その意味で、デーモン閣下の気持ちはよく理解できる。
デーモン閣下のブログを読んで以降、知り合いの音楽家2人から、それぞれのコンサートの案内メールをもらった。
偶然2人とも同じ日に開催されるコンサートで、しかも僕は既に別の予定を入れていて、どちらにも行くことができなかった。
僕はデーモン閣下の言葉を思い出しながら「出演者にとってはどっちがいいんだろう?」としばらく葛藤した挙句、これまで通り「残念ながら行けません」と返事をした。
2人から送られてきた案内は、どちらも一斉送信されたメールだったので、恐らく返事を返さなくても失礼ではなかったと思うけど、応援の気持ちを込めて、あえて返信した。
これも、がっかりされたんだろうか。
それに対する返事があったわけではないので、実際のところどう思われたのかはわからない。
聞こうと思えば本人に聞けるんだろうけど、そういう気にもなれず、いまだに悶々とした気分が抜けないままだ。
自分の作品を見てもらえると、嬉しい。
これは、わかる。
見てもらえなかったら、がっかりする。
全てのケースがそうとは言えなくても、まあこれもわかる。
じゃあ「本当は見たいけど、残念ながら見られない」と言われるのは?
どんな気分がするのか、僕にはわからない。
伝えられてがっかりするくらいなら、伝えてくれない方がマシ?
やっぱり、わからない。
この問題は、僕の中ではまだ決着がつけられないでいる。
みなさんはどう思うだろうか。








