表舞台に上がる人間には、強靭な精神力が必須だ。
人間、誰しも好き嫌いはある。
周りの人間10人のうち10人全員に好かれようと思ったら、それは無理な話。
人に見られる職業を選んだ段階で、ある程度は「好意」だけではなく、妬みや批判などの「悪意」もぶつけられる事を、当然のこととして覚悟しなくてはいけない。
問題は、それを跳ね除けられるだけの力があるかということだ。
私の場合、ピアノの上手い下手はもちろんのこと…、でもそれよりも精神的に、弱気になってしまわないだけの、ゆるぎない信念を持っているかどうかということ。
時間をかけて一生懸命やってきたものが、舞台で100パーセント出せることはほぼない。
出来なかったことや反省点は、自分自身が一番わかっているし、自分自身が一番悔しい。
その上、悪意を投げつけられてしまうと、へニョ~と凹んでしまうのは、人間として普通のことだと思う。
ただ、「もういいや、もうやめよう」と思ってしまった時点で負け。
なにくそ、と、今度は彼らを見返してやるつもりで、より一層努力出来るか出来ないか、そこが分かれ道なんだと思う。
ある、日本のトップヴァイオリニストが言っていた。
「叩かれるってのは、いいことなんだよ。だって、それだけ注目されてるってことなんだから。
賛否両論出るような、面白い事をしてるってことなんだから、そこで凹んでちゃダメなんだよ。」
きっと、いろんな場所で叩かれた経験がある彼が、それでも日本のトップであり続けているのは、なぜか。
強靭なその精神力は、どこから出てくるのか。
…やっぱり、平凡な答えだけど、影の努力しかないんだろうな。
しっかりした技術と知識。
感性だけではない、積み重ねてきた、好奇心と行動力の賜。
私も頑張ろう。
あけましておめでとうございます!
正月返上で練習しているこの頃。
ドイツの学生時代も、ピアノの傍らに熱い紅茶が入った水筒と、メトロノームを置いて、一日10時間弾いていた時期があった。
さすがに、あの気力は今は逆にどうかと思ったりもするが、それだけ弾いていた時期があったという事実は、私を勇気付ける。
人間、誰しも、経験の積み重ねからくる自信はゆるぎない。
年末に、とある本に出会った。
クリエイティブな活動における「習慣力」をつけるための本だ。
生まれながらの天才はいない。ルーティンと習慣が創造性をより豊かにする、という趣旨の本である。
その本に従い、このお正月から私は、二つの事を始めた。
まず、朝、ピアノの前に座り、必ず今練習している曲以外の曲を弾く事。バッハが好ましい。
クリエイティブな事を始めるには、“始まりの儀式”を持つべきだという。
それは、人によって様々でよい。
私の場合、「練習しなくてはいけない」曲ではなく、自分が好きな美しいバッハのフーガを弾く事で、耳が開き、イマジネーションが新鮮になる。指のトレーニングはその後だ。
毎朝、感覚を新鮮にするための刺激を過去の作曲家からもらう儀式。
必ず毎日続けることで、きっと、自分を信頼する最も基本的な形になるに違いない。
もう一つ。
「気が散るもの」を排除すること。
○○ナシの生活を一週間続けてみると良いらしい。当たり前のように思っていた何かに対する自分の依存を取り去ることで自分の独立性を高めるのだ。
ということで、この正月から、私は毎日していたある習慣を一つ止めてみている。
これは、意外と効く。
あなたも、自分が生活の中で依存していると思うもの(例えばパソコン、例えば化粧品、例えば携帯…)から、一度離れてみるといい。
自分のすべき事が、明確に目の前に現れるから。
新年というのは、新しい習慣をつけたくなる一番いいきっかけだと思う。
クリエイティブになるために、しっかりとした習慣を持てるといい。
…願わくば、年末までそれが続きますように。
もう随分前の話になってしまいますが、11月19日の辻先生とのイベント、たくさんの方にお越しいただき、本当にありがとうございました!
いろんな意味で楽しかった!!
さてさて、師走に入り、どんどん次のイベントに向かって動き出している私。
1月12日、祝日。この日は、私にとって特別な一日になりそう。
「あすなろの森コンサートvol.3」
音楽家が富山に帰ってきても、その実力を充分に発揮するのは非常に困難だ。
ありがたいことに演奏を依頼していただいても、「皆がよく知っている曲を…」というリクエストが多く、自分が今弾きたい曲や勉強してきた曲を聴いていただくのは、なかなか難しい。
結局は、演奏会を赤字覚悟で自主企画していくしかない。
そんな現状を打破すべく、富山に「クラシックコンサートのスタンダード」を作ろうというもくろみで企画しているのが、この「あすなろの森コンサートシリーズ」だ。
私は、このシリーズの音楽アドヴァイザーを務める。
第一回は、今年の1月(約一年前)に、地元若手演奏家として私が演奏した。
第二回は、国際的に活躍なさっているピアニスト清水和音さんをお招きし、今年6月に開催。満員のお客さん、これでこのコンサートシリーズの格が一気に上がった。
そして、第三回目の今回は、地元の小・中学生の有望なピアノ弾きさんを募集し、彼らが演奏を披露する。コンクールでの入賞歴も多くとても上手な子どもたちだ。彼らはきっといずれ音楽の勉強のために富山から出て行くだろう、でも将来また富山に帰ってきて、あすなろの森コンサートで、成長した音楽を聴かせてくれるように…将来を見越しての、壮大な計画。
演奏会後半には、また私が演奏させていただくことになっている。
このコンサートシリーズのすごい所は、全て入場が無料なところ。
懐の広いスポンサーさんが、どん!と出してくださっている。
クラシックを聴きにくるのがなかなか難しい家族連れや、クラシックに慣れてない人でも、無料なら行ってみようかと思ってくださるだろう。
クラシックに対する心理的、金銭的な垣根を取り除く一番手っ取り早い方法だ。
これで、初めてコンサートに足を運んだ人が、「クラシックも面白いね」と思っていただかなければ意味がない。
そういう意味で、1月12日は、私のXデーなのだ。
このコンサートシリーズが定着し、地元の人たちが「クラシックをあすなろで聴こう」、地元の音楽家が「あすなろで弾かせてもらおう」、富山でクラシックといえば「あすなろ」だね、と自然に思えるようになるのが、私の今の夢のひとつだ。
ご無沙汰してました~!
夏から今まで、こちらに文章を投稿することよりも、直接Junkのメンバーと会った回数の方が多いような気がする中沖です、ゴメンナサイ。
最近は、富山~東京間もホンの3時間。田舎が田舎ではなくなってきている気がするのは私だけでしょうか。富山、意外と近いから遊びに来てください、皆さん。
さて、久しぶりの投稿でなんなのですが、告知です。
8月の第一回JunkStageのイベントでお会いした辻先生。
あの後、実はひっそりとお声をかけてくださいまして、先生が主催される「音を楽しむ集い」なるものに、出演させていただくことになりました!!
11月19日!!もうすぐです!!
代々木上原のけやきホールにて、18時45分開演。前売1500円です。
詳細はこちら http://www.doctor-tsuji.com/special/oto.html
JunkStageから広がる輪。
ご縁というものは不思議なものです。Junkあってこそ生まれた東京での演奏の機会、こんなこともあるのですねぇ。ありがたい話です。
ああ、今から緊張だわ。…そんな緊張のほぐし方、克服の仕方などをステージ上でディスカッションしたりもする…のかな?
なんにしろ、楽しみなイベントです。
さて、前回、夏の講習会の話を書いていましたが…
続きを書こうとしたものの、あまりにも間が空いてしまったので、やめときます。
今は、私、ある先生の言葉に夢中。
「音がないと、全く面白くない」
ピアノをただ弾いているだけでは、「音」は出ているかもしれないけれど、本当の「音」ではないのです。
魂がこもった、意味のある、お喋りとしての「音」。ちゃんと意志があり、人に伝えたいと思って出している「音」かどうか。
最近の私は、毎日この言葉を胸に、自分の出している「音」に、魂があるかどうか、試行錯誤の日々を過ごしております。
意外と、なにげなく、無防備な音を出してしまっているからな。気を付け出したらキリがありません。
『魂』を探りながら弾いていると、楽しくて仕方がなく、時間が経つのを忘れます。
これが本番でどこまで出せるか…頑張ります!
いや~、ご無沙汰してしまいました!
久しぶりすぎて、投稿の仕方を忘れてしまったくらいです。ああ、ごめんなさい。
なぜピアノを始めたか、ということを書く予定だったのですが、あまりにもこの夏の体験が刺激的だったので、それを二週続けて書かせていただきます。
この夏、私、音楽セミナー(講習会)を2つも受けたのです。
一つは、富山県内でも蜃気楼で有名な魚津市にて。
もうひとつは、九州・長崎にて。
まず今回は、魚津での講習会。
学びの森音楽祭2008
N響のコンマスの“まろ”さんこと篠崎史紀氏。
N響ヴィオラ・フォアシュピーラーの小野富士氏。
N響チェロ・フォアシュピーラーの桑田歩氏。
N響ティンパニ打楽器奏者の久保昌一氏(特別講座担当)。
こんな豪華メンバーと、ピアノの受講生である私たちとで、室内楽を一緒にやろうじゃないかという、とんでもなくオイシイ音楽祭。
個人的に本当にいろいろな事を感じた怒涛の4日間。
セミナーの課題曲は、モーツァルトピアノ四重奏g-moll。
ピアノの受講者が、一人90分ずつ二日間かけて、3人と一緒に「合わせ」をし、他の人の「合わせ」も全て聴講し、三日目に公開リハーサル、四日目に優秀者一名だけが弾けるコンサート、というスケジュール。
初めてのカルテット(四重奏)の経験、楽しかった!
同じ曲を弾いても、受講生のピアノの6人、それぞれ全て違う音楽になる。聴いているだけでも本当に面白い。
一人、東京からスゴイ子が受講に来ていて。
桐朋を一位で卒業したMさん。お兄さんがN響のヴァイオリン奏者。
彼女の演奏は、本当に、おったまげた。
まだ若いのに、まろさん達と張り合えるだけの経験と度胸、しっかりとした知識、それによる揺るぎない自信。
音楽の作りへのセンス、理論の裏づけのある確実で丁寧な音の出し方。
レッスンでの最初の一小節を聴いただけで、もう脱帽。スゴイ。レベルが桁違い。
私も、自分のレッスンでは多分結構良い感じで弾けたと思ってたけど、もう世界が違ってた。
いやー、すごい。
彼女とは、仲良くなっていろんなことを話したんだけど、やっぱり東京で音楽仲間に囲まれて、演奏にどっぷりと漬かり、音楽の話を楽しく日常的にする生活をしている人は、意識が違う。
こんなに差が出るものかと愕然としてしまった。悔しいなぁ。
こんなスゴイ人がいる!!と嬉しくドキドキする反面、やっぱり私も人間だから、羨ましくて、劣等感でちょいと落ち込んでしまう。
翌日の、コンサート出演者を決めるための公開リハーサルに向け、ピアノに触れられる練習時間は4時間ほど。
この短い時間で、どうするべきか悩む悩む。
自分のレッスンで言われたところを直すのはもちろんのこと、Mさんの良いところを少しでも取り入れてみたい…でも、この数時間でそれをしてしまうと、頭でっかちになってしまって、のびのびとした私らしさは多分出せなくなるだろう、それを承知でモノマネにあえて挑戦するか…
ああ、私って負けず嫌いだ。
結局、公開リハーサルでは、自分らしさは出せずじまいであまり良い演奏にはならなかったけど、その分、4時間でこだわった細部で、たくさん自分のやりたかったことは出来たから…モノマネ方向で出来る限りの事はしたなと一応、自己満足はしておこうかと。
何も難しい事を考えず「まろさんたち、どうぞこれが私の音楽です!」みたいな勢いで弾いたレッスンの時の方が、もちろん他の三人とも気持ちが近かったし、何より弾いていて楽しかったし面白かったけど、今回それだけで終わっていたらこんなに得るものは多くなかったと思う。
自分よりももっと良いものを聴き、落ち込んで悩んで試行錯誤して、その途中段階でもう一度合わせてみるという作業、それが上手くいってもいかなくても(というか上手く行くわけがないんだけど)、貴重な体験だった。
本当に、Mさんが参加していてくれてよかった。ものすごい勉強になった。
まろさん、小野さん、桑田さんとも仲良くいろいろとお話できて。
私は「音がいい、明るくて魅力がある、これは本当にスゴイことだ」と言ってもらいました。あとは焦らないこと。だって(笑)。ああ、もう納得。
最終日には、大ピアニストの田崎悦子氏も参戦、大御所四人でのブラームスピアノ四重奏第一番も演奏。
好きな室内楽の曲を挙げろと言われたら多分一番に出るくらい、大好きな曲なんだけど、この演奏もいろんな意味で凄かった。
リハーサルから聴いていたんだけど、やっぱり世の中、主張したものの勝ちだね。有無を言わせぬ迫力。
田崎先生は、出てくる音がモノスゴイ。本番では私は譜めくりしてたんだけど、終わったあとこっちまでドッと疲れてしまったくらいの熱演でした。
はあ~、世の中凄い人だらけだ。
お腹いっぱいだ。大満足だ。幸せ。
次回は、またまたスゴイ人だらけの長崎でのお話を。
ラフマニノフは、大きい手の人が弾くものだ、キミは無理だろう。
小さな頃からそう言われて、この歳になるまで、一曲もラフマニに手を出してこなかった。
モーツァルト、ショパン、シューマン、ドビュッシー…比較的、線の細い、軽やかな曲がレパートリーに多い私。
今年は、無理を承知で、新しい扉を開きたく、ラフマニに初挑戦してきた。2月ごろから徐々に、徐々に。
彼の曲の中でもテクニック的に易しい部類に入る前奏曲。
やってみると、やはりどうもしっくりこない。
今までになかった左手のライン。今までになかった和音。今までになかった音の厚み。今までになかった跳躍。
簡単に弾けるはずの部分ですら、妙に力んでしまって、音が美しく伸びない。
どう弾いていいのかわからなくなる。
自分のものになっていない。納得いかない。
もう何年もピアノを弾いているのに、こんなに弾けない。
がっしりとした大きな手のラフマニを想像する。身体は大きいけれど、繊細で、美しい男。
息の長さ、響きの厚さ、男の色気、ロマンティックだけではないゴツさ…ああ、どうやったら弾けるんだろう。
難しい。本当に難しい。
つくづく、思う。
苦手な作曲家が存在するということは、完全なるウィークポイントだ。
自分に、その分の「引き出し」がないということ。
モーツァルトならモーツァルトの、バッハならバッハの、シューベルトならシューベルトの音の出し方がある。
それを知っているからこそ、いろんな曲が弾ける。
もっと、若いうちに、怖がらずにいろんな作曲家に挑戦しておくべきだった。
今、新しい「引き出し」を増やすのが、こんなに難しいとは。
大人になると、表面を取り繕うのは上手くなる。
けれど、自分の奥行きを、奥に奥に掘り進めていくのは、どんなに大変な事か。
「発覚」するのは、悪事だけではない。
新しいことに取り組めば取り組むほど、自分の浅さは、どんどん暴かれる。
でも、これは、良い兆候。「発覚」しないと、気付かずに終わってしまう。
どんどん、暴かれればいい。その分、努力するしかないのだから。
世の中、いろんな楽器があれど、ピアノほど「演奏場所」を限定される楽器はない。
持ち運びが出来ない楽器ゆえの苦労。(持ち運べる楽器でも、大変な苦労を抱える事が多いけれど)
例えば、コンクールを受けに行く時。
ヴァイオリンやクラリネットは、音を出しても迷惑がかからない場所でさえあれば、ほぼどこでも練習する事が出来る。声楽の人もそう。
ピアノは、そうはいかない。
未知の地に行く際に一番最初に心配するのは「練習できるピアノが確保できるかどうか」なのだ。
どんなにオンボロでもいい、身体をほぐすくらいでいい、ピアノに触っていればある程度安心できるものだ。
コンクール数日前に現地入りして、練習できるピアノがない場合、本当に泣きたくなる。それでもなんとかイメージトレーニングをして舞台で弾くしかないのだけど。
それから、例えば、コンサートを開きたい時。
まずは「ピアノが置いてある場所」から探さなくてはいけない。
コンサートにぴったりの素敵な雰囲気のある場所が見つかったとしよう、でもピアノがなければアウト。
…最近では、電子ピアノを持ち込んでの演奏も増えているが、あれは音が違うからなぁ。多分空気の振動が全然違う。
本当の意味でのピアノは、やっぱり、その場で弦が鳴っていなくてはいけない、やっぱりアップライトでもいいからピアノが欲しい。
そう考えると、ピアニストという人種は、ピアノという楽器に振り回されている。
あの大きくて、どっしりとしていて、魔法のような多彩な音を出す楽器に、身も心も束縛されたまま、生きていく。
心の束縛は、甘美な束縛。心が囚われる対象があるのは、幸せな事だ。
本当は身は自由でいたいんだけどね。
いつか、ピアノがなくても、身一つで、音楽が表現できる人になりたい。
「ピアニスト」ではなくて、「音楽家」になれればいいなと思う。
つい先日、岩手・宮城内陸地震が起こったところだが、「爪あと」というとやはり自然災害を連想してしまう。
大きく崩れた山の映像、ここで生活をしていた方々のことを思うと胸が痛む。一日も早い復興を願う。
さて、自然災害の爪あとからの復興は何年も時間がかかるものだろうが、その象徴の一つとして、「小学校にピアノが寄付された」などというニュースをよく聞く。
「芸術」に目を向けることが出来るようになるということは、精神にも生活にも余裕が出てきている証。
音楽や美術という「芸術」は、人間らしく生きることへの希望の一つなのかもしれない。
歌いたい、という心は、生きたい、と願う心と同じだと思うから。
「爪あと」からの復興の象徴である希望に満ちた音楽…だが、時には心の「爪あと」をえぐることもある。
昔、お互いに好きだったけれど離れ離れにならなくてはいけなかった相手に、別れ際に自分が練習していた曲を慌てて録音して、「下手だけど、まあ、記念に」と、照れながら渡したことがある。
それを遠く離れた地で聴いた時、心臓がつぶれそうだったと、彼は言った。
私との思い出が走馬灯のようによぎったと。多分、いろんな後悔や…それでも好きだという気持ちも…。
「モノ」よりも「音」は、目に見えない分、心に直接届くのかもしれない。
いやー、こっぱずかしい思い出を書いてしまったではないですか。
「爪あと」だなんて、難しいテーマですよ!(笑)
今回のテーマは「新発見」とのこと。
楽譜を見ていると、毎日のように発見がある。
メロディと同じフレーズが、こんなところに隠れていた!とか。
これはもしかして「悲しい和音」じゃなくて「意志の強い和音」じゃないだろうか、試してみよう…こっちの方がしっくりくる!すごい!とか。
昔一度弾いた事のある曲を、もう一度やり直す時、特にその傾向は大きい。
年月をかけて、音楽を自分の中に積み重ねてきた結果だ。
この最初の休符は「ため息」の意味だったのか、じゃあこの音は元気に弾いちゃいけなかったんだよな…。この和音からこの和音に解決しているから、ここは緊張と弛緩が必要…などなど、知識の裏づけがある、理論的な音楽が出来るようになってきている。
昔は知らなかったたくさんの知識は、知っているのと知らないのとでは、同じように弾いても全く意味が違う。
人の真似ではなく、自分で楽譜の裏に隠れている作曲家の意図を発見して、自分で音に意味を付けていく作業は、たとえそれが上手くいかなくても、非常に楽しい喜びの作業だ。
楽譜の奥深さを発見すると、自分で自分を褒めたくなる。
いやー、私も昔と違って、楽譜の表面だけではなく、楽譜の意味を、楽譜の行間を読むことが出来るようになってきたな、と。
楽譜を見て新しい発見をすることは、自分自身の成長を発見することでもある。
人は、新たな角度からの視点を持たなければ新しい発見をすることはないと思うから。
きっと音楽に限らず、新発見をする時、人は一歩前進しているのだろう。きっと、新しい自分になっているはずなのだ。
そう考えると、楽譜を見て毎日発見がある私は、毎日前進しているということか!ものすごく刺激的で幸せな日々を送っているということに他ならない!
…と、今日も一つ「新発見」をした私、世の中に「新発見」は溢れているのかもしれない。
久しぶりの投稿です、ご無沙汰しておりました。
ここ一ヶ月、私は「音楽」と「仕事」というものを、よく勉強させていただいていました。
「出来ない」というセリフを言うな。
これは、このJunkstageのライターでもある金子鈴太郎氏の言葉。
「出来ない」のではなく、「ここまで頑張ってやりました」と見せること。
まだ譜読みが満足に出来てない状態で時間を作って合わせてもらうのが申し訳なくて、練習日をずらすことを申し出た私に対してのお叱りでした。
音楽だけではなくどの仕事でも当然のことなのだろう。
決められた期日まで、どれだけ無理が重なったとしても、とりあえず出来る限りの事はしてきた、という姿勢。
それが、こういうフリーの仕事をしているものにとっては一番大事だ、と。
本当に、その通り…。オーケストラの一員でもなく、なまじ一人でピアノに向かう事が多い私は、音楽を仕事として捉えるという点で、まだまだ甘いのだろう。
そして、もう一つ。
これは、他のある音楽家との共演で感じた事。
それは、仕事を一緒にする人、それから仕事を頼み頼まれる人間同士の信頼関係の重大さ。
ネットで、仕事のマイナス面を書かない、とか。
相手にも、どれだけ不満があろうと、不満を不満として表現しない、とか。
どれだけ嫌な事があろうと、相手サイドに立って考えてみるという想像力の重要性、とか。
そういう心遣いというのは、当たり前なのに、出来ない人間がたくさんいる。私自身も含め。
人間関係の基本が出来ないと、いい音楽など出来ない。
双方が奢り高ぶって、「弾かせてもらう」「弾いてもらう」という気持ちを忘れると、仕事としてギクシャクしたものになる。
ま、相手との相性の部分も多々あるけれど。
私は、とにかく楽しく演奏出来ればいい、と思ってしまいがちなので、細かい面で配慮が足りないことがあるのかもしれない。
どちらにしろ、芸術というのは、ビジネスとしてお金に換算するのが非常に難しい分野。
何よりも大事なのは、一緒に仕事をするもの同士、目を見てちゃんと話をして信頼関係を築くことだと私は思うのだが、いかがだろう。










