給湯室に入っていった瞬間、ざわめきが収まった。いつものことだ。そそくさと目礼して狭い入り口を同僚たちが通り抜けていく。押し殺したような笑い声が、今度は廊下から聞こえた。
こんな状態になって、もうすぐ1か月になる。
……いじめ、と言えばいじめなのかもしれない。けれど、私はこの生活にも慣れつつあった。
入社当初から最近までは、さほどでもなかった。飲み会に誘われる程度には仲が良かったし、ランチだってなんとなく一緒に食べるグループはあった。今も仕事上は特別問題があるわけではない。挨拶をすればお義理程度の返礼も来るし、社内メールが無視されたり重要連絡の回覧を飛ばされるということもない。けれど、なぜかみんな先約があったり、休憩の時間が重ならなかったりして、ランチを一緒に摂る相手がいなくなった。雑談をすることがなくなった。誰かのお祝い会のカンパを求められることも、出欠を尋ねられることもない。懇親会の誘いも、休日のサークル活動も、一切声が掛からなくなった。それが本来の職場の姿なのかもしれないが。
どうしてこんな風になったのか、考えてもみたりした。プロジェクトの進め方が悪かったんだろうか、誰かの悪口にうなずいたことがあったか、忙しいときに有休を使ってしまっていたのか。はっきり原因と呼べる出来事がどれなのかもわからないまま、気が付けば私は孤立していた。そして、なお悪いことに、それがあまり苦痛でもないのだった。
「うわっ。それって分かりやすくパワハラじゃん。かわいそー」
久しぶりに会った友人にその話をしてみたが、友人の反応もこんなものだった。パワハラ、と言う言葉と自分の置かれた状況はなんだか違うような気がしたが、黙っていた。こうしていると会社での出来事が夢の中のことのように思えてくる。今日もそこで働き、明日もまた同じように出勤していくというのに、この疎外感のなさはなんなんだろう。
「でも、仕事に支障があるとかじゃないの。だからなんか、どうでもいいかなって」
「そりゃあ、相手だって子供じゃないから」
銚子から慣れた手つきで猪口に酒を注ぎきりながら、
「あんたのそういうとこが気に入らないんじゃないの」
カウンターに向かって追加を注文し、友人は真顔になった。そうかな。そうだよ。眼だけで会話し、互いに一瞬黙り込んで、小さな猪口を口に運んだ。黙々と酒を飲み、からすみを半分に割って食べた。ちょうど良い塩気が口の中でねっとりと崩れて美味しい。友人はなにか言いたげにこちらを見ていたが、見る見る間に減っていくからすみに焦ったのか、急に箸を動かした。
「ほんと、こういうところマイペースだよね」
「性格だからね。半分は残してあるでしょ、ちゃんと」
「私も相当なもんだけど、こんなんじゃ職場で浮いちゃうよ?」
あ、もう浮いてるんだっけ。独り言のように続けて、友人もからすみを口に運んだ。
「おいしいねこれ」
「高いけどね、やっぱりお酒に合うのよね」
つまるところ、悩むほどのことでもないのだ、私にとっては。味気ない職場でも、働ける限りは働くつもりである。酒と肴と飲みに付き合ってくれる友人がいる限り、孤独ではないのだから。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
街中が甘ったるい香りに包まれるこの時期、デパートや商業施設がこぞって推し進めるバレンタインデー。それは僕の勤め先の店でも変わりない。普段はチーズや紅茶、ちょっとした菓子を扱っていて、どちらかといえば敷居の高い、地味な店構えの店だ。そこが気に入って応募したのに、この時期は普段よりだいぶくだけた雰囲気になる。パートさんと一緒にピンクのモールで飾り付けしたフロントはいつもよりぐっと若返って、なんだか僕の居場所が失われたような気になった。
もちろん、仕事は仕事だ。でも、自分には縁のないこのイベントを楽しんでいるひとがいるという事実が僕を卑屈にしてしまう。普段は入りにくいと思っていたのか、普段着の主婦や高校生くらいの子たちが気軽に寄ってくるのもなんとなく忌々しい。声を掛けられれば笑顔でセールストークをするけれど、常連さんが来ればさりげなくそちらを優先してしまう自分は、やっぱりこのイベントが嫌いなんだろうと思った。
……などと思いながら、僕は欠品を補充し店の中を見渡した。相変わらずバレンタイン仕様になっているけれども、今日は割と暇である。週末にイベント当日を控えているせいか、先の土日は文字通りてんてこまいだった。昨日書きそびれた伝票の整理などをしながら、愛着のある店先をぐるりと見渡した。
「あのう」
一瞬ぎょっとして、声のしたほうを見る。誰もいない。疲れているせいか。ふう、と深呼吸すると、また、あのう、とか細い声がした。今度は妄想ではなかった。カウンターから死角になる高さに、ランドセルを背負った女の子が立っていた。
「いらっしゃいませ。おうちの人にお使いを頼まれたかな?」
女の子は恥かしいのか、両手でしっかりスカートの裾を握ってもじもじしている。どこかで見たことがある顔だと気づき、ある常連さんの子だと思いだした。いつも割れそうに薄い高級クッキーを買っていく女性で、いかにもマダムという感じなのに、その子どもは何かひどく寄る辺ない風情だった。
「パパに、……バレンタインのプレゼントを、買いたいの」
ようやく、と言った感じで女の子はしわくちゃになった千円札を二枚、ランドセルから出してみせる。それから、きりっと真剣な眼になって、一言ひとことはっきりと発音した。
「お年玉なの。これで買えるの、ありますか」
なるほど。僕は商品棚を眺め渡して、二千円でおつりがくるものを考える。
「パパはお酒を飲む人? それとも、甘いものが好きな人?」
「お酒も飲むし甘いものも好きだよ。でも、バレンタインだから、チョコがいいの」
じゃあ、と僕が進めたのはボンボン3粒のセットだった。予算から一円玉でお釣りが数枚というところだが、品物は悪くない。子どもが選ぶには大人びているかもしれないが、ここで買うことを選択した彼女の気持ちを尊重したいと思った。確認を取ると、彼女は案の上、嬉しそうに微笑んだ。
綺麗にリボンを掛けて渡してやると、女の子は丁寧にそれをランドセルに収めて帰った。
こういうのっていいなあ。娘がパパに……なんて、僕には夢のまた夢だ。僕はまた伝票の整理に戻った。
でも、どこかほんのりと温かい気持ちが残っていた。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
ずっと、「オンナノコ」が嫌いだった。
同性のくせに、同性だからこそ、嫌いだった。過剰にかわいらしさをアピールするような淡い色のスカートやブラウス、媚びたような声のトーン、赤ちゃんを真似したような目を強調したアイメイク。甘ったるい香水の匂いも集団でつるまなければ何も出来ないようなところも、本当に嫌で嫌で仕方なかった。
でも、一番嫌だったのは、結局はそういう女が得をすることだ。
「おめでとう。お産は地元に戻るんでしょ? ゆっくり静養してきてね」
「すいません、忙しい時期に。育休開けたら、すぐに戻りますので」
ぺこりと頭を下げて、彼女は足早にデスクのほうに戻っていった。笑顔でその背を見送って、完全に視界から外れたのを確認し、盛大にため息をつく。部署の仕事をもう一度洗いなおして、振り分けの量を考えなければ。うち程度の会社では増員は見込めない。かわいそうだが、残りの人数でなんとか仕事を回すしかなかった。
残業を終えてから向かった焼き鳥屋で友人と愚痴をこぼし合いながらビールを飲んだ。
「そりゃご愁傷さま。でもさ、そういう子って結局復帰しなかったりしない?」
「だったら最初からそう言ってほしいよ。戻るっていうから補充も申請できないし」
彼女もまだ独身で、勤め先では同程度の地位にある。はじめて部下を持った時の喜びや言いたいことがうまく伝わらない不安、休みが取れない厳しさや責任の重さなど、本当にいろんなことを話してきた。女の癖に、とか、女の子なんだから、とか、揶揄される言葉も一緒に浴びてきた。
「あーもう! ほんとオンナノコってずるいよね」
「私たちもオンナノコのはずなんだけどねえ」
温んできたビールを飲み干して、追加を頼む。性別上同じはずの相手を揶揄していると、自分は違うんだって気分になる。オンナノコではない、きちんと自立して誰にも頼らず生きているような気になれる。女性であることの恩恵を受け損ね、かわいらしさを模倣するかわりに肩肘張って仕事をしてきた自分たちに報いてくれるのは、結局会社だけだった。だけど、いくらここで出世したって、結局社長にはなれない――そのことを、私たちもうすうす気づきながら無視している。
私たちはオンナノコではない。でも、男でもない。女としての幸せと呼ばれる結婚もしていなければ子供もいない。そんなもの、と思いながらかすかに憧れてもいることを、私は認めざるを得ない。
「一度でいいから、オンナノコ扱いされたいな」
帰り際の友人のセリフを思い出す。ほんとだよね、と思いながら、半分は嘘だって思う。
だって私は、自分でそれを拒否したんだから。
かわいい服も、甘い声を出すことも嫌だった。一人でなんでも出来るようになりたかった。だから、今の私があるのだから。オンナノコとして得をしなかった分、私が得たものも絶対にあるのだから。
一月の冷たい風を切って、私は歩く。明日も仕事だ。私が自分で築き上げてきたからこそ、自信と誇りを持っている。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
駅からの帰宅路に、小さな商店街がある。いかにも昔ながらという感じの鄙びた街並みなのだけれど、それだけにファンも多いらしい。夕方はかなりの人出で、総菜屋など威勢の良い呼び込みの声も飛び交って賑わっている――ということを、わたしはつい最近知った。
理由は簡単で、それまで通る時間帯が遅かったからだ。夜の10時を廻ってからの様子しか知らなかったので最初は面喰ったが、慣れてくるとここで買い物をすることも増えた。何しろ帰り道の途中であるし、弁当屋や八百屋、肉屋も軒を連ねている。
大型スーパーとは勝手が違うけれど、帰りがけに声を掛けてもらうと馴染みになったような気がして気安くなった。
そういう店のひとつに、饅頭屋がある。年配の老夫婦二人で切り盛りしているのか、売り切れご免の店で置いてあるのは「田舎まんじゅう」と書いてある一品だけだ。夕方に通るとたいてい一つ二つしか残っていないので、甘いものが好きな私は閉店時間に間に合えば残り物を全て買って帰るようになっている。店主のほうでも分かっていて、最近は少しおまけしてくれるようになった。これも小さい店ならでは、という感じがして嬉しい。
「今日は早いんだね」
「年始だからね。今日はさすがに結構残ってるなあ」
まだご飯時前だからね、と店番の老婆はケースを覗き込んで答えてくれた。この商店街の利用客は18時前後がピークだから、それに合わせて用意しているのだろう。ふたつ包んでもらってから、ふと前から気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、この田舎まんじゅうの田舎って、どこ?」
「富山だよ。おじいさんの田舎がそこだから」
間髪入れずに答えがあった。会計して、ほんのり暖かい包みを受け取る。ここのまんじゅうのいいところは冷めても美味しいところなのだけれど、作りたてというのはまた格別だ。
「そっか。東京の人のいう田舎ってどこだろうと思ってた」
「お客さんこっちの人じゃないの?」
「うん。秋田」
そうか、とお婆さんはいい、黙ってケースからもう一つ渡してくれた。いいの? と目で聞くと頷く。なんでも息子さんが転勤でいま秋田にいるらしい。おじいさんは富山の出身であること、和菓子の修行もそちらでしたことなど、お婆さんははきはきした江戸弁で教えてくれた。
「だから、同郷のよしみってやつだね。内緒だよ」
「うん」
「あんたも頑張りなさいよ」
うん、と釣り込まれるように返事をして、私は店を出た。掌の上ではみでた一つがほかほかと温い。フィルムをはがしてぱくつくと、餡のしっとりした甘味が口の中に広がった。
頑張ろうかな。
何を、ということもなく思いながら、私はだんだん暗くなってきた家路をたどる。頑張ることはいくらでもある。仕事でも、部屋で待っているだろう結婚したばかりの相手とのことも。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
お疲れ様でした、と忘年会で赤ら顔の社長が一本締めをしていたのは先週の金曜日。これで仕事納め……となれば万々歳だったのだが、この土日で急に出勤を求められた。年始の営業前にどうしても納品してほしい品があると担当顧客から泣きつかれたのだ。帰省する予定もなく家族サービスをする必要もない身としては引き受けざるを得ない。
半泣きの先方担当者からの電話に無事在庫分から必要な点数を捻出できること、納品は明日行う旨を伝えると、明らかにほっとしたような声になった。
どこの業界でもそうだろうが、年末年始は忙しいものだ。ただでさえ休みが多くなる上に、それに伴って前倒しの納品が増え、検品や回収・廃棄の確認人員を確保するのが難しくなる。うちのような小さい会社ではなおさらで、一週間以上の長期休暇を確保するために先週はみんな必死になって働いていた。私も、もう明日の納品を見届ければ年内の仕事は終わりになる。本当は今日終えてしまいたかったが、運送会社も人手が足らないということらしい。
パソコンの電源を落とし、コートを手にして立ち上がる。戸締りをして外へ出ると、強い北風が頬をなでた。
師走の街中は人出が多く、どこか賑やかなムードに包まれている。小さな子を連れた家族やカップル、高校生の集団。会社がある界隈ではあまり見ないが、少し歩くと繁華街にぶつかる。そこからの帰りなのだろう、みんななんとなく楽しそうに見えて羨ましくなった。
私も何か自分に買って帰ろうか。せっかくの自由時間だ。休日に会社の近くにわざわざ来ることはないから気付かなかったが、この辺りにもちょっとした店がたくさんある。幸い、給料も出たばかりで財布の中にも余裕はある。
弾んだ気持ちでウィンドウを見て回り、その中の一軒の店先で足を止めた。普段はシャッターが下りているので何の店か分からなかったが、中からはふくよかなコーヒーのいい香りがする。
カウベルの音に迎えられた店内は、やはり芳醇な豆の匂いに満ちていた。豆の量り売りをしている店らしく、コスタリカやコロンビアといった定番品に混じって、ロブスタなど見慣れないラベルもある。
しげしげと眺めていると、奥から上品な中年男性が出てきていろいろと説明してくれた。産地によってかなり香りや味に差があることや、ブレンドの仕方などあれこれ教えてくれる。普段だったら聞き流すのだが、今日は時間に余裕があることもあり、気が付くと結構な時間を過ごしていた。
「普段、コーヒーはあまりお飲みになりませんか?」
「いえ、……お恥ずかしいんですが、インスタントばかりで。ちゃんとしたのは、あまり」
「お忙しい方は皆そうですよ。うちのお客様もお休みのときくらいだと聞きますから」
せっかくですから、試飲してみましょうか。店主は私に店内の小さなスツールに座って待つように告げて奥へ引っ込んだ。これも縁だし、自分へのご褒美はここで買おうか。高価と言えば高価な買い物だが、ゆっくりコーヒーを淹れて飲む時間を作るというのもいいかもしれない。
そんなことを考えていたら、奥から豊かな香りが漂ってきた。ますます長居をしてしまいそうだ。相変わらず人々が足早に歩いているのを扉越しに眺めながら、私は久しぶりにゆったりした時間を過ごしていた。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
はっ、はっ、はっ、と一足ごとに自分の吐く息が白くけぶる。
細くうねる山道は見通しが悪く、出発の時よりも明らかに足が重たくなっているのが分かった。あと少し。もう少し。自分を叱咤するように、僕はナップザックを背負いなおした。
月に1回山へ行くようになったのは、同じ職場の先輩が誘ってくれたのがきっかけだ。正直、まったく関心はなかったが、尊敬する先輩だけに声を掛けてもらえるのは目を掛けられているようで嬉しかった。
デスクワーカーの常で慢性の運動不足だった僕に、先輩はことあるごとに山の良さを語ってきかせた。澄んだ空気、自分の足で山頂に登る達成感、心地よい疲労と夢も見ないほどの快眠……。
「そんな大げさに考えなくっていいって。2,3時間で登れるところだけ、行ってみようよ」
渋る僕を説き伏せ、一緒に道具を買いに行き、一番最初に登ったのは茨城の閑居山だった。登りやすく整備された道でもやはり初心者にはつらく、でも、山頂は思った以上に気持ちよかった。風が冷たくて、空が近くて。
翌日足はぱんぱんに腫れていたけれど、ぐっすり眠れたおかげで不快感はほとんどなかった。今思えば本当に初心者向けの山で達成感なんて大げさかもしれないけれど、出不精で運動嫌いな僕にとっては大きなものだった。それに、頭を空っぽにして眠る喜びを感じたのは久しぶりだった。
また行ってもいいかな、と言った僕に先輩はひどく嬉しそうな顔をした。
それから、都内から一日で行って帰れる距離の山を順々に攻めた。
根を上げそうになっても、先輩が先にいたから付いていけた。鷹ノ巣山、源氏山、花貫渓谷、西山、高尾山。少しずつ難易度が上がっていくのが、自分が成長していることを実感させた。できなかったことが出来るようになるのは幸せなことだ。先輩の友人たちにも紹介され、僕は学生時代ぶりに気の置けない友人をつくった。山に行かない週末は飲み会をしたり食事をしたり。
すっかり社交的になった僕を、先輩は面白がって何度もからかってきた。
その先輩が辞めると聞いたのは、先月のことだ。次の考査時期には同期の中で最初に課長になるだろうと言われていただけに、そのニュースはあっという間に社内を駆けまわった。
「実家に戻って家を継ぐの。果物屋さんになるんだよ、私」
二人で残業を終えたあと、コーヒーを飲みながら先輩は淡々と教えてくれた。山は登るんですか、と聞いたら登るよと答えた。
「どこにいたって、登るよ。私、山好きだもん」
送別会で渡したレインウェアを抱きしめて、先輩は軽やかな笑顔で僕の前から去っていった。
あと少し。もう少し。切れがちになる呼吸を整えて、僕は足を踏み出した。いつもは二人で登ったコースを、今で一人で辿っている。空を仰ぐと、頭上には大きく切れ間をのぞかせた空が見える。直に山頂だ。僕は一人で歩ける。自分の足で。教わった通りに足を踏み出せば、少しずつでも積み重ねていけば、必ず。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
久しぶりにドアを開けると、冬の冷気が足元から這い上ってきた。慌てて部屋に戻り、厚手のパーカーをクローゼットから探す。一週間前はまだまだ暖かったのに、となんだか裏切られたような気がした。
僕は一週間に一回だけ、外出する。行先は郵便局、大型スーパー、レンタルビデオショップ。判で押したように決まっているコースは徒歩で回ると二時間ほどかかる。近場にもスーパーはあるのだが、日頃運動をしない僕にはこれが精いっぱいの運動だ。
僕の仕事は翻訳である。仕事は全て自宅で行い、インターネットで原稿を受け取り、成果物をメモリに入れてメーカーに送る。学術論文を専門に翻訳するライターとしては駆け出しのほうだが、卒業大学の教授がよく使ってくれるお蔭で生活に不自由はない。……もっとも、外出しないせいかもしれないけれど。
僕は、人と関わることが苦手だ。もっというと、コミュニケーションが苦手なのだ。相手の望むタイミングで適切な相槌を打ったり、合いの手を入れたり、スムーズに自分の話題を展開したりというテクニックを皆どこで学ぶのだろう? あがり症で、どもり癖もある僕にとっては、それらは高等すぎる技術だった。高校を出るまでの集団生活は、だからとても苦痛だった。大学に入ってからは研究内容が共通の話題になったので多少苦手意識も消えたけれど、会社員となって働く自分の姿はまったく想像できなくて、この仕事を選んだ。事務的なメールであれば齟齬なく行えるということも、人と直接会わずに金銭を得られるという点でも、天職なのだと思う。
だけど、そんな僕でも人恋しくはなる。
僕は両手にスーパーの食料品を下げたまま、レンタルビデオ店の自動ドアを通った。明るい音楽が流れ、「いらっしゃいませー」とどこからともなく彼女の声が聞こえる。ここはチェーンではなく、そのせいか扱っているDVDはほとんどマニアックな海外映画だ。オーナーの趣味が全開といったインド映画の棚を眺め、前回借りた映画の続編を抜いてカウンターに向かう。
返却するDVDと一緒に渡すと、いつもシフトに入っている彼女は嬉しそうな顔をした。
「前回のこれ、お気に召しました? あんまり日本では知られてないですけど、アクションが凄いんですよね。正直マニアックすぎてオーナーはこっちのほうはついてけないらしいですけど」
ゾンビのところ、スタント使ってないらしいですよ。補足情報までつけて会計してくれる彼女は、暇なのか新作映画のコーナーのおススメも教えてくれた。今はタイが熱いらしい。興行収入がどうの、映画祭での評価はどうのと立て続けに知識を披露してくれるのだから、根っから映画が好きなのだろう。
彼女は僕の相槌など一切必要としない。勝手に、話したいだけ話してくれる。それが心地いい。正直話の半分も理解できていないのだが、それを彼女が咎める様子もないし、おそらく気にもしていないのだろうと思う。話したいから話している。そんな感じだ。
でも、それが僕にとっては一番ありがたい。
週に一回、仕事を終えたご褒美に、僕はここで映画を借りる。聞き心地のいい言葉のシャワーを浴びながら。
――また、ダメだったか。
ため息をついてウィンドウを一つ閉じる。新着メッセージを知らせていたアイコンは全て既読を示すブルーに変わり、変わってスクロールバーの近くに新着会員を知らせる広告が表示された。条件の近い会員をマッチングして表示させているというが、本当のところは分からない。その証拠に、ここに表示されてきた会員と継続して連絡を取れた試しはなかった。
そろそろ、プロフィール写真を変えたほうがいいかもしれない。
婚活サービスに登録してもうすぐ一年。二十代前半のころに撮ったお見合い写真は、流石に詐欺みたいなものだろう。自分でも分かっているけれど、なかなか踏ん切りがつかずにそのままになっている。それくらい、この写真は良く撮れていた。家庭的な雰囲気、優しそうな表情。プロがメイクして撮影しているせいかもしれないが、この写真は本当に引きが良かった。
でも、だから、よくなかったのかもしれない。
高望みはしていないつもりで、その証拠にこのサービスに登録してからコンスタントに見合いの場はセッティングされてきた。最初は一日に三人も会っていたくらいだ。だけど、ピンと来た人はいなかった。いなかった……のに、相手から継続して会うことを断られることが、ここのところ立て続けに増えていた。
結婚したい。そう思うこと自体は、悪いことではないはずだ。家庭的な、かわいらしい女になりたい。これも、本音。そういう女と結婚したい、そう思う男が紹介されているはずなのだけれど、「会ってみたらイメージと違った」という理由で一方的に次回のセッティングを絶たれると、なぜか責められているような気がした。違うじゃないか。お前は写真と違う、イメージと違う、がさつで結婚に向かない女じゃないかって。
なにがいけないんだろうと、モテる女友達に相談したこともある。女子力を上げるというセミナーにも通い、雑誌を読み漁って男の好きそうな服も着た。でも、頑張っても報われなかった。努力すればするほど、断られた時のダメージは大きい。コーディネイターに相談しても、「自然体が一番ですよ」と毒にも薬にもならないことしか言われない。しかも、会員になって一年経過すると、登録料は倍額になる。売れ残っている会員は、それだけ、結婚しにくくなるということらしい。
二十代の頃は、まだ先の話だと思っていた。余裕もあったし、焦る必要なんてないとさえ思っていた。なのに、私はまだ独身のままだ。結婚なんていつでも出来る、相手なんてすぐに見つかると思っていたのに。
まさか、あんなハゲにも断られるなんて、思ってもいなかった。
急に胸が苦しくなって、パソコンを閉じた。妥協したのに。年齢だってずっと年上だけど、それでもいいかと思ったのに、その相手にすら選ばれないなんて、私は。私は、そんなにダメな女だろうか? あの女もあの女も結婚しているのに。大したことない男と幸せな写真をとりまくってSNSで自慢して、結婚式の写真を年賀状に使って、なんで、なんで私が。
苦しい。悔しい。唇を噛んで、私は洗面所に行って泣いた。たかが、と思っていたことに裏切られて、声をあげて子供のように泣き続けた。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
懐かしい夢を見た。まだ子供のころ、ほんの小さかった頃の夢だ。
「おねえちゃんは綺麗で、妹さんは元気でいいわねえ」
私は姉と手をつなぎ、そんな言葉を母に投げかける女の人の足元を見ている。足元しか見えないのに、その女の人が誰なのかを私は確かに知っている。叔母か、幼稚園の先生か、近所の人。靴はそれぞれに違うけれど、夢の中では確信をもって、この人は誰それだと思いながら靴を睨む。
その言葉は本当によく聞かれた。綺麗な姉と元気な妹。母に似て華奢で、小学生のころからほっそりとした姉は本当によく容姿を褒められていた。派手な見た目ではなく、百合の花のような清楚な美しさ。もっと子供だったときは純粋に崇めていられた姉は、長じて少し苦手になった。内気な姉とは違う個性を持ちたくて男の子に混じって遊び、泥だらけになって母を悩ませた。
どうして同じ姉妹でこうも違うのかしら?
母はよく苦笑交じりで祖母と話していたが、違うようにしているからだと私はそっぽを向いていた。姉は姉で、別種の生きもののような私を珍しがり、ちいちゃんは凄いのね、と驚いたような顔で妹の行動を眺めていた。
「眠れないの?」
遠慮がちなノックのあと、姉の声がかすかに聞こえた。読みかけの本を伏せてドアを開けると、湯気の立つカップを持った姉が静かにたたずんでいた。何も変わらないな、と思う。招き入れると音もなくひっそりと部屋に滑り込んで、定位置になっているベッドの脇に座り、ローテーブルにカップを置いた。中身は、ココアだった。
「よくわかったね、起きてること」
「そりゃあ、お姉ちゃんだから」
姉は両手でカップを口元に運ぶ。すべての仕草が無造作で、そのくせ絵になるのが妬ましかった。
家を出たのは私のほうが先だったが、研究の道に進んだ姉も都内に出てきて、その際ルームシェアをしないかと持ち掛けてきたのだった。条件はかなり良かった。会社へも路線一本で行け、部屋数も広い。家賃は折半でも前の部屋より良く、どうせ昼間は顔を合わせないのだからと受けた。
姉が提示した条件はたった一つだった。この家に男性を連れこまないこと。姉のほうでもその約束を破ったことはなかった――先日の、一度きりのことを除いて。
「式の話し合い、うまくいってないの?」
「そんなことないよ。ただ、決めることが多くて閉口してる」
姉とはこの部屋で引き合わせた。お前の姉ちゃん凄いきれいだな、とバカのように何度も繰り返されて、私はそのたび彼の腕をつねった。
「ごめんね、更新まで同居できなくて」
「いいよ。おめでたいことだもん。でも」
姉はふんわり笑って、急に泣きそうな寂しそうな顔をした。
「やっぱりあなたが先にいっちゃうんだね」
私は姉のようになりたかった。綺麗で、しとやかで、おとなしくて。やんちゃな私のことを遠くから憧れるような目で見ていた、姉のようになりたかった。
「ちいちゃんはやっぱりすごいな」
姉はココアを飲みながら言う。小さいころ、私を見たのと同じ表情で、同じ言葉を。
そこにあるのがただ優しい憧憬であることを、私はもう知っていた。
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約束をしていた友人が体調を崩し、予定がぽかんと空いてしまった。久しぶりに飲もうと約束していたのだったが、仕方ない。この年齢になると急なキャンセルもよくあることだ。
家に帰ってもよかったのだが、外に出たいという気持ちもあってそのまま外に出ることにした。
向かったのは独身のころによく通っていたバーだった。繁華街の裏通りにある店なのだが、穴場らしくほとんど客を見かけたことがない。マスター一人でグラスを拭いているのが似合うような、そんな小体の店だ。
20代の頃はここに来るたび、背伸びした気分になった。お洒落で、粋で。マスターは子どもでも子ども扱いしないような人だったから、ここにいる時間だけは青二才でも東京という街に馴染んだ大人ように錯覚させてくれる、そんな場所だったのだった。
「おや、久しぶりでしたね」
ドアを開けると、マスターは驚きもせず迎えてくれた。案の定、客はまだ誰もいないようだ。あの頃よく座っていた右端の席に座を占め、おしぼりと共に出てきたビールを飲んだ。
「覚えていてくれたんだ。嬉しいね」
「そりゃあ、昔は何度も来てくださったから。お元気そうで何よりです」
やめちゃったかと思った、という私の言葉にマスターは変わらない微笑みで答えた。
まだ若造だったときにはずいぶん年上に見えたが、もしかしたらそうでもなかったのかもしれない。あの頃はほとんど愚痴を聞いてもらうために通っていたようなものだった。そして、つまらない自慢も。私の言葉を否定せずに聞いてくれたマスターは、今の私と同世代くらいに見えた。
「マスターはこの店をやって何年になるの?」
二杯目にはジンのカクテルを頼むことにする。慣れた仕草でスピリッツを選んでいたマスターは、シェーカーに液体を混ぜながら首を傾げた。キン、と涼しい音と共にカクテルグラスに注ぎ入れると、アマレットらしき優しい香りがふわりと上った。
「何年だったかな。歳のせいか、もの忘れが激しくて」
「嘘でしょう。本当は私とそう違わないんじゃない?」
「ご想像にお任せします。これはオリジナルのカクテルですが、私から再会を祝して」
礼を言ってグラスに口をつける。口当たりは甘く、とろとろとした飲み口だ。初めて飲む味だが、なぜか懐かしいような気持ちになった。
「おいしい。レシピは秘蔵だったりする?」
「いいえ。桃のリキュールを使っています。ただ、配合は秘密」
「それはそうだ。名前を聞いてもいいのかな」
「……としようかと思ってます」
聞き取りそびれ、私はもう一度耳を傾けたが、マスターは答えなかった。十分伝わったでしょうと言う顔をされたから、はっきりと質問するのは無粋な気がした。
「ここにいるとね、時間の流れがあいまいになるんですよね」
お客さんもそうでしょう、と言われ、そのとたん私は20代の頃の、まだ血気盛んでなんでもっできるような気がしていたころの自分に戻った。仕事に迷い、恋を失ってばかりいた、けれど若くて未来が今日の続きであると無条件に信じられるような気持ちになった。マスターはにこにこ笑っている。その笑顔にほんの少しの苦さが滲んでいることが、直感的に分かった。
「みんな欲しがってますけど、若さっていったいなんでしょうね」
私は答えない。会計を払って外に出た。足がむずむずして、今すぐに何かをしなければならない、そして出来るような気がしていた。