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2011/09/11

こうして、お姫さまと王子さまは長い長い旅に出た。

おとぎ話と違うのは、旅の始まりがめでたし、めでたしで終わらなかったことだろう。箱入りの娘と息子が手に手を取り合って暮らすのは、本当に大変なことばかりだった。勝郎くんの絵を買いたいと言ってくれていた画廊に連絡を取り、方々に伝手をたどって、部屋を借りてもらえた時の嬉しさ。家賃の代わりに、勝郎くんは今まで書きためてきた絵を全部売った。賞に出せばもっと値が上がるのにと恨みごとを言われながら、勝郎くんは売り叩くように手持ちのものは手放した。
売らなかったのはたった一枚、わたしの絵だけだった。

小さな小さな、それこそアトリエの半分に満たない広さの家。
それがわたしたちのお城だった。そこを維持するために、わたしも勝郎くんも毎日くたくたになるまで働いた。警備員。工事現場。皿洗い。ビルの清掃員。スーパーのレジ。訪問販売。保険の勧誘。ポスティング。新聞配達。履歴書いっぱいになるほどの職業。そのどれもがとても大変で、辛くて、でも、お給料をもらったときは本当に涙が出るほど嬉しかった。

勝郎くんは絵を描く時間も絵を描くためのお金もなくして、この生活を支えてくれた。筆だこしかなかった綺麗な手をすり傷だらけにしても、お腹が大きくなっていよいよ働けなくなっても、勝郎くんは泣きそうなそぶりひとつ見せなかった。

「勝郎くん、ごめんね。わたし、あなたから絵を取り上げたんだね」

耐えきれなくて、そんな言葉を吐き出してしまったときですら、勝郎くんは大丈夫だと言ってくれた。絵を描くために生まれてきたようなひとに、守りたいと思ったひとに、わたしは縋りついて重石をつけた。この人は絵を描いてなきゃいけないのに。

「違うよ、さっちゃん。おれは今絵を描くことよりもやりたいことがあるんだよ」

例えばこうやってさっちゃんといちゃいちゃすることとか、なんて言って、勝郎くんはわたしにじゃれてくれた。猫をあやすように丸くなったお腹に触れて、疲れ切った顔を隠さずによしよしと頭を撫でてくれた。
勝郎くんは強かった。捨てたものの大きさも、きっとわたしより大きかったはずなのに。

「さっちゃん、ありがとね。……ねえ、やっぱり、おれの言った通りだったでしょ?」

勝郎くんがわたしの前で泣いたのは、たった一回だけだった。生まれたばかりのしわくちゃの娘を抱いて、勝郎くんはぽろりと涙をこぼしていた。赤ん坊がむずかって、あわててその涙も引っ込めてしまったけれど。

「女の子には世界で一番きれいな色の名前をつけようって、おれ、前に言ったでしょ?」

わたしは頷いて、勝郎くんの手を握った。二人で生きようと決めた時にそうしたように、強く強く握りしめた手は前よりずっと逞しくて、嬉しかった。

娘の名前は勝郎くんが決めた。美しい色の名前。神秘的な石の名前。鮮やかな夜明けの空の名前。この世でいちばんうつくしい名を持つ娘。地球のなかで一番きれいな色なんだだよ、ともう世界を回れなくなった人が幸せそうに言ったことを、わたしは一生忘れない。

娘が生まれた日、わたしたちは話しあって籍を入れた。追いかけられるのが嫌だからとそれまでわたしが渋っていたのを、娘のためにと説得されたのだ。勿論それはお互いの親にも伝わっただろうけれど、一緒に提出した出生届が効いたのか、どちらも何とも云って来なかった。

娘が生まれたこともあって、わたしたちに貯金らしき貯金はほとんどできなかった。どんなに働いても、やりくりを頑張ってみても、通帳の残高は毎月3ケタギリギリというところだった。でも、毎日が充実していて、ああ生きてる、って思えた。

それに、苦しいことばっかりでもなかった。娘が小学校にあがったころ、勝郎くんはまた絵を描くようになったのだ。一枚目は、娘の寝顔。二枚目は、娘の寝顔。三枚目も、娘の寝顔。どちらに似たのかじっとしていることの少なかった娘をモデルにして、勝郎くんはせっせと鉛筆画を増やし続けた。きちんと色まで付けて描いたのは、たった一枚、渋る娘をアイスで釣って写し取ったおしゃまな笑顔だけだったけれど。

「ね、さっちゃん。おれは間違ってなかったでしょ?」

勝郎くんはガソリンの匂いをぷんぷんさせて、出来あがったスケッチを見せてくれた。娘はあたしもっと可愛いもんって大騒ぎし、わたしは勝郎くんと顔を見合わせて、大きな声を立てて笑った。

嬉しかった。幸せだった。――勝郎くんが事故で死ぬまでは。

勝郎くんが死んだことを、わたしは誰にも知らせなかった。お葬式もしなかった。娘と二人で小さな骨を拾い、壺に収め、それは今でも部屋に飾ってある。勝郎くんが寂しくないように、わたしが寂しくないように。

わたしたちは本当によく話す夫婦だった。話さなかったことといえば唯一、あの絵の秘密くらいだろうか。なんど尋ねても、勝郎くんは笑って教えてくれなかった。あれはお父さんの秘密だよ。そんな風にはぐらかして、いつの間にか、勝郎くんはひとりで童話の世界に行ってしまった。

残されたものは多くない。わたしと、娘と、秘密。それから勝郎くんの描いた娘の素描。

それらの作品を、わたしは今日、画廊に渡してきた。タイトルは、と聞かれ、少し迷って娘の名前を告げる。二人でここにたどり着いた時に力を貸してくれた画商は、受け取ってからも少しだけ不満そうな、驚いたような顔をした。

「ほんとにいいの? 遺作って大体は遺族が持ってるもんだよ。売ったらそれきりなのに」
「いいんです。わたしより、多分この絵が見たい人がいるはずだから。でもその代わり、」

うんと高い値段から始めてください、とわたしは云った。

「売れなかったら、それはそれで構いません。本当に欲しい人がいれば、きっと買います」
「奥さん……それ、バクチだよ」
「そう。わたし、賭けをしているんです」

首をひねる画商を拝み倒すようにして、あるオークションへの出品を頼み込む。勝郎くんは名を成した画家ではないからと渋る画商を説き伏せながら、わたしはその時、父の顔を思い浮かべていた。

新聞で見る父は、この頃かなり痩せてきている。なにか病みついたひとのような顔色の悪さ、やつれ方だった。癌、だろうか。それとも何か別な病気でもしているのだろうか。そう思っても、飛び出した手前、見舞いに行くことなんて今更とても出来なかった。

そのかわり、わたしは勝郎くんの絵を売ることにした。頼み込んだオークションは絵画好きなら必ず楽しみにするような、大きな新聞社の主催のものだ。出品作は分厚いカタログにも掲載されるし、新聞でも株主には招待券を配ったりする。そして父は、その新聞社の筆頭株主だ。

気づくのも、気付かないのも父の自由。でも、父ならきっと気づくだろうと思った。
これはサイン。わたしが父をもう許しているという徴。
勝郎くんの絵に惚れこんで、秘密を共有するほどの思いがあった父なら、きっと、気づく。この絵に隠されたわたしの秘密も、きっと読みとってくれるはず。 

「売れますかねえ」
「売れます。心当たりがあるんです」

わたしは確信を持って頷いた。
そして考える。
もしこの絵が売れたら。娘の名を冠したこの絵を破格の値で買ってくれる人が現れたら。
わたしは娘に話そうと思う。
王子様とお姫様の恋の物語。その王女様に与えられた名前の秘密。その誕生に隠された、たくさんの希望と喜びとほんのちょっとの涙のこと。
娘はまだ幼いから、恋の話はまだ早いかもしれない。
だからこれは、未来の話。

これは未来の、恋の話だ。

フューチャー・ラブ おしまい

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※長々続いたこの物語も、これで最後になりました。掲載を快く許してくれたスギさん、お付き合いくださったあなたに、心から感謝をこめて。

2011/09/10

それから先は、文字通り冒険だった。

わたしは生まれてはじめて一人で電車に乗った。切符の買い方がわからなくて手間取ったけれど、親切な人に助けられて人生初の車窓を覗いた。小さな家が沢山集まっていたり、ぽかりと橋の下を流れる川が見えたり。どの景色も、いつか勝郎くんの見せてくれたスケッチに載っていそうな、あたたかな眺めに見えた。

駅からは交番で道を聞いた。まだ若い警察官はうさんくさそうにしながらも、親切に道を教えてくれた。右、まっすぐ行って信号を左、右、右、左に曲がってあとは目の前の大きな家だよ。御礼を言って頭を下げると、いいよというように手を振られた。

頭の中でなんども道順を繰り返して、言われた通り大きな家の前に出た。表札は勝郎くんの名字と同じ。これだ、と思った。門の前には人のよさそうな守衛さんが立っている。

「あの。勝郎くん、帰ってきてるって聞いて。学校の同級生なんですけど」
「ああ、勝坊ちゃんのね。坊っちゃんなら離れにいますよ」

勘繰られるかと冷や汗が出たが、あっさりと通されて気が引けた。守衛さんは親切にも母屋を通さずに抜けられる道を教えてくれたので、たぶんこの人はクビになるのだろうな、と思いながら御礼を言って歩き出してから、振り向いた。守衛さんはもうこちらを見ていなかった。

転びそうになりながら、わたしは息を切らして走った。丹精された、というよりはほとんど除草の手間のない木ばかり並んだ庭園を抜け、裏庭から離れに回り込む。離れ、というよりそこは温室のようだった。ガラス張りのサンルーム。人影。ひょろっとしたあの背は、あの少し撫で肩気味の輪郭は。

「勝郎くん!」

声を掛けると、勝郎くんは唖然とした顔で立ちあがった。絵を描いていたのだろうか、膝に置いていたスケッチブックがばさりと音を立てて落ちる。

「どうしたの、さっちゃん。どうやってここまで来たの」
「電車に乗ったの。はじめてだったけど親切な人に教えてもらったの。それから交番で道を聞いて、守衛さんにここだって聞いて」
「なんだか聞いてばっかりだね」

おいで、と勝郎くんはわたしの腕をひいた。久しぶりの匂いをいっぱい吸い込む。まだたった数日しか離れていないのに、どうしてこんなに懐かしく感じるのだろう。

「光造さんが出してくれた……わけはないよね。どうしたの、家出してきちゃったの?」
「そうかもしれない。お母さんに嘘ついてきた。赤ちゃん、堕ろしてくる、って」

口に出してから、そうか勝郎くんは知らなかったんだ、と気づいた。当たり前だ。わたしだって、あの時医者に言われて知らされたのだから。声が掠れているのは、走ってきたせいだけじゃない。ひゅうひゅう、と呼吸を整えている間、勝郎くんはすこし怒ったような顔をした。

「さっちゃん、赤ちゃんがいるの?」

頷く。勝郎くんは難しい表情は崩さずに、はあ、と大きくため息をついた。

「大事にしなきゃいけないのに。ここまで走ってきちゃったの?」

だめじゃない、と勝郎くんはわたしを叱った。ひとが一大決心をして訪ねてきたというのに、なんだというのだ。なのに嬉しいのは、どうしたっていうのだ。勝郎くん。勝郎くん。なんでもいい、会いたかった。昨日はじめて離されてから、ずっと掌の熱のことだけ考えていた。
だからわたしは勝郎くんの手を握った。勝郎くんの手はもう震えてはいなかった。

「おれ、光造さんと話したよ。駄目だった。うちの親も、そう言った。でもさ」

君がもし、産みたいって言ってくれるなら。あの家にいて、それが出来ないというのなら。おれの家族を作ってくれるなら。

「一緒に行こう。どっか明るい街に行こう。三人で一緒に暮らそうよ」

勝郎くんは膝から落ちたスケッチブックを拾い上げて、見せてくれた。描かれているのはわたしだ。満面の笑み。つんとすました顔じゃなくて、くだらない話をして、笑っているときのわたしの顔。ありもしなかった未来を一緒に夢見ていたころの、たわいない、睦み合っていたあの頃のわたしの絵。
そして、その横に描いてあるのは勝郎くんと小さな女の子だ。女の子はどこか生意気そうな、勝ち気そうな顔をしている。でもどこか賢そうで、かわいくて。

「ね、一緒に行こう。さっちゃんがよければ、おれ、君と家族になりたいよ」

わたしは頷いた。頷く以外になにも出来なかった。勝郎くんはあの困ったように眉をハノ字にする顔で、わたしの髪を撫でてくれた。そのやさしい感触が何よりも熱くて参ってしまった。
だって、わたしはこの人と家族になりたかった。

Last post→9/11公開

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/09

楽しいはずのパーティはこんな風にして不首尾に終わった。

あのあと、動転した母に半ば押し込められるようにして病院に行き、妊娠していることが分かった。まだ堕ろせる、しかし一日でも早い方がいい。父の息のかかった病院で、その医者が母に言っているのをカーテン越しに聞いた。あの時は我慢出来た涙が溢れた。勝郎くんに会いたかった。大丈夫だと手を握ってほしかった。わたしは産みたかった。あの人が欲しがっていた、家族を与える役目が欲しかった。

「彼は家に帰ったよ。家族のもとで、少し頭を冷やすそうだ」

なのに、帰って来たわたしに父はいとも簡単にそう告げた。
嘘だ、と思った。
勝郎くんが自分で家に帰るわけが無い。勝郎くんが自分からこの家を出ていくわけがない。それは確信だった。勝郎くんはこのうちの子になりたい、と笑っていたのだ。帰る場所なんてないんだと、寂しげに眉を寄せていたのだから、もしこの家と何らかの因縁のある家ならば勝郎くんにますます辛く当るだろう。わたしと結婚したいなんて言って、どんな罵声を浴びただろう。そんな勝郎くんが、今、わたしを置いてどこかにどこかに行くなんてあり得るだろうか? 勝郎くんが家にいるというなら、それは帰ったのではなく返されたのだ。わたしと同じに。堕ろすことを前提で猶予を与えられた、わたしと同じに。

なぜか異様な悔しさとともに、空っぽになった部屋を片っ端からあけて回って、勝郎くんの面影を探した。バカみたいな話だけれど、わたしは勝郎くんのことを何も知らなかったのだ。例えばどこで生まれてどんな家に住んでいたのか、携帯の番号やメールアドレス。この家の中で完結していた恋愛にはそういうものがまったく必要なかったから、連絡を取る手段が何もないなんて今まで気づく必要もなかったのだ。なのに、そんなわたしを置いて、勝郎くんはどこかに隠れてしまった。
巨大なこの屋敷の見取り図を、たった一枚残して。

「やめなさい。お前はまだ若い。だれだって、一度や二度の過ちはある」

暗闇で勝郎くんの地図に触れていたわたしに、父は苦くそう言った。

「過ちじゃない。お父さん、」
勝郎くんに、何を言ったの。あのとき、なんて答えたの?

わたしの問いに、父は答えなかった。

行動は一刻でも早い方がいいと思った。
手掛かりはひとつしかない。家族が経営する会社名。父が仕事に行っている隙に名士録を持ち出し、指が痛くなるほど紙をめくって、実家の住所を調べあげた。思ったより近い。ハンカチの裏側にそっとそれを写し取って、わたしはそれから一世一代の演技をした。

「お母さん、わたし、もう一回あの病院に行こうと思うの」
「さっちゃん、……それ、本気なの?」

病院を出てから、母は一言もわたしに対して口を利かなかった。話したくない、というよりは話題を慎重に選び過ぎているように見えた。母は迷っているのだ。未婚の状態で妊娠してしまったわたしを、どう扱うのが適切なのか。産ませるべきなのか、それとも。
だからわたしは頷いた。堕ろすふりをすれば、母はきっと安心する。

「早い方がいいんでしょう?」

さっちゃん、さっちゃん、と母はわたしの肩で泣いた。

「ごめんね。ごめんね。守ってあげられなくてごめんね」
「いいの。ごめんね、お母さん」

わたしは本気の母に、心にもない言葉で返した。痛んだ胸には蓋をした。謝っても、謝られても、わたしの中では既に優先順位がついている。母だって辛いだろう。泣くだろう。父を責めることもあるだろう。父だって、自分を責めるかもしれない。もしかしたら。いや、それは嘘だ。父はきっと、自分を責める。娘だから、わたしにはそれが分かる。
でも。それでもわたしは、迷わないと決めたのだ。だって勝郎くんだって待っている。

「お母さん、わたし、病院には一人で行く」

肩に置かれた指をそっと外しながら、静かに言った。大げさになるのは嫌なの。わたしにも、勝郎くんにも、きっと傷になるから。そう言えば、母は自分の過去に思い至ったらしい。少し迷いながら、大丈夫なの、と震える声で確かめられた。

「大丈夫。終わったら電話するからね」

それが、母に告げた最後の言葉だった。

next  vol.15→9/10公開

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/08

「そうだ。素晴らしい地図が完成したご褒美になんでもひとつ、好きなものをあげよう」

父が言いだしたのは、食事を終えて食後のコーヒーを飲んでいるときだった。満腹につきもののぼんやりした幸福感と、それをわざわざ演じているような不思議な緊張感がわたしと父との間に流れた。テーブルの下で手を繋いだままの勝郎くんは、それを敏感に感じ取って、ぎゅっ、と力をこめて握ってくれた。わたしの覚悟を受け止めるように、強く。

「なんでも、ですか?」
「そうだ。わたしに二言はない。変な気づかいは無用だよ」

得意そうな父はわざとらしく胸を反らして、勝郎くんの顔を見つめた。
挑発しているのか、それともからかっているのか。俯いた勝郎くんの瞼が震えるのが視界に入った。どうしたんだろう。いずれにしても、勝郎くんはすこしたじろいだみたいだった。励ますように、わたしは指先で勝郎くんの拳をタップする。ダメでもいい。わたしは絶対傍にいるよ、って伝わればいいと思った。

勝郎くんはゆっくり顔を挙げて、深呼吸でもするように大きく、静かに言った。

「では、遠慮せずに言います。お嬢さんを僕にください」
「……娘を?」

顔をあげていられなくて、わたしは握り合った手に力をこめた。勝郎くんの手もぎゅっと力がこもっていて、痛いくらいだ。母の視線を感じる。俯いていてもわかる。はらはらしているのと、面白がっているのが半分半分のまなざしがちりちりと項を焼いていくようだ。

「お前も、合意の上か」

だからわたしは俯いたまま頷いた。耳が熱い。じりじり、熱が上がる。気持ち悪い。風邪をひいているわけじゃないのに、熱を出したときみたいに、震えが止まらない。ああ、ダメだ。このままじゃ、わたしは父に許してもらわなければならないのに。

「……お前も知っていたんだな。わたしだけ、知らなかったのか」
「あなたはずっと忙しかったものね。見ていたら気づいたわ、きっと」

この二人ったら恋してる、って感じ、出まくりだったもの。
母の明るい口調に、勝郎くんが出てましたか、なんて軽口で答える。
軽妙に。軽妙さを、装うように。

「まあ、なんだ。娘も納得しているようだし、君ならやぶさかではないよ。なんだ、その、好きなんだろう? 二人とも」

勝郎くんは頷いた。もちろん、わたしも。父は苦いものでも食べたような、変な顔をしていた。吹きだしそうになって、あわてて下を向いて誤魔化した、その瞬間、ぐっと胸の中心から何かがせり上がってきて、あいている方の手で口元を押さえる。心臓が耳から出てしまいそうなくらい、鼓動が速い。
背中に汗がつっと伝った。

「ありがとうございます。やっぱり、光造さんなら許して下さるだろうと思いました」

勝郎くんは少し固い顔のまま、ちらりと伺うようにこちらを見た。わたしはこみ上げるものを抑えるのに必死で、その合図に気付かなかった。一瞬だけ勝郎くんは眉を寄せて、大丈夫かと聞いてくれた。

「大丈夫。続けて」
「でもさっちゃん、あなた……そんな真っ青な顔して……」

少し横になって休んだら、という母の言葉を振り切って、もう一度大丈夫だとわたしは答えた。切り口上になったのは吐かないように堪えていたから他意はないのだが、なぜか母は自分が辛いひとのように顔を曇らせた。父も同じだ。わたしにひたすらに甘く、愉快な大人であった父が、しおれた花のような頼りなさでわたしを見ていた。勝郎くんは泣きだしそうな顔をしていた。

「わたしの将来の話だもの。続けて。お父さんとお母さんに、わたしも言わなきゃいけないことが、あるの」

言わなきゃいけないことは山ほどあった。勝郎くんとのこと。父の夢を壊したこと。母の優しさに甘えたこと。そして、……ああ、頭がうまく働かない。今はとりあえず、この気持ち悪いのをどうにかしなければ。

逡巡しているわたしを見て、勝郎くんは言葉を続けた。

「僕はお嬢さんと結婚したいと思っています。両親にも、そう言いました」
「うん。それで?」
「ところが、前橋の娘とだけはダメだというんです。結婚は構わないが、それだけは許さないって」

(――え? 今、勝郎くんは、なんて言った?)
わたしは混乱した。結婚はしてもいい。でも前橋の娘とはダメ。わたしとだけはダメ。なんで? どういうこと? 会ったことも話したこともないわたしの、どこかどう駄目だというのだろう。視界がぼやける。あ、泣く。瞬間的に、瞬きをして我慢する。どうして。

わたしの混乱を余所に、父と勝郎くんの話はどんどん続いて行く。

「父に理由を聞いても教えてくれませんでした。駄目だの一点張りでした。なぜですか」
「君の、……勝郎くんの、親の名前は」

あえぐように父は言い、勝郎くんはきちんと名乗った。

わたしが耐えられたのはそこまでだった。どうしようもなくこみ上げてきたものをこの場で吐き出してしまう前に、わたしは一番近い洗面台に飛び込んで、胃のなかがからっぽになるまで戻し続けた。いつの間にか母が来て、わたしの背中をさすってくれた。どうしたの。緊張したの? 大丈夫よ、大丈夫よと母は丸めた背中越しに話しかけてくれた。わたしだってそう思いたかった。わたしだけは駄目。前橋の娘とだけは駄目。声を聞いたこともない人の拒絶の声を聞きながら、わたしはただただ醜い声を洗面器に向かって呪いのように吐き出していた。

next  vol.14→9/9公開

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/07

母が明るく声を掛けて、父がただいまと応じる。いつもよりも少し楽しそうな上ずった声。追い詰められたような気持で振り向くと、父はちょうど帽子を脱いでいるところだった。

「ただいま」
「おとうさん、」

おかえりなさい。不思議なことに、わたしの声はふるえなかった。つるり、と滑り出るように声が出た。父は少しだけ眉をひそめたように見えたが、勝郎くんがお疲れさまでしたと頭を下げたので、笑顔を作って勝郎くんの肩を叩いてみせた。切り替えが上手なのはさすがに仕事を沢山抱え、清濁を上手に操作できる父らしい。

「出来たんだそうだね。完成おめでとう。嬉しいよ」
「いえ、こちらこそ心行くまで描かせていただけて光栄でした。ご覧いただけますか」

こちらです、と勝郎くんは椅子を引いて父を座らせた。一番よくあの見取り図が見える場所に、父の椅子が据えてある。近頃老眼の気のある父は一瞬遠くに目を眇め、そしてよく見ようとするように大きな身体を乗り出した。

「もう、あなたったら。絵は逃げないわよ」

それより食事にしましょう、と母が間髪いれずに食事の乗ったワゴンを押してくる。わたしも身を翻して後に続いた。温かな湯気がやや細くなっているけれど、まだ並べたお皿は温かかった。

今日のメニューは母とわたしの二人がかりで作った苦肉のメニューだ。時間をおいても温かいまま食べられるようにと選んだ壺焼きのパイ、あたためなくてもいいという理由で作ったパニーニのオープンサンド。玉ねぎとサーモンのサラダ。
この家に嫁いで以来ほとんど料理をしなかった母と包丁すらろくに握ったことのないわたしを、シェフは文字通り冷や汗をかいて見守り、丁寧に、しかし、しっかり指導してくれたから、見た目はちょっとしたレストラン程度の格好が付いている。

「今日のご飯がいつもと違うの、あなた気付いた?」
「まさか……お前たちだけで、これを?」

父は驚いて眼を見開き、母は得意そうに肩をそびやかして、勝郎くんはあまくあまく眼を細め、わたしを見た。それで、急に恥ずかしくなった。勝郎くんに手料理――レタスをちぎったり辛子をパンに塗ることを料理と呼んでいいなら、の話だけれど――食べてもらうのは、初めてだったから。

「勝郎くん、用心しろよ。この二人はうちでは全く料理をしないんだ」

からかうように父は笑い、先ほどまでの奇妙な沈黙を破るように明るい雰囲気で食事会は始まった。父は快活だった。押し出しのいい背中を震わせて、勝郎くんと出会ったときの話や今回の制作の様子を大げさな身振りで表現しようとして、母の微笑をさそっていた。勝郎くんも父の求めに応じて苦心した部分や屋敷の中でもっとも面白かった創作品の話をして、場の空気を盛り上げた。
わたしは、ただひたすら自分の目の前の食べ物を食べ続けることに集中した。幸いなことに、わたしたちの手料理はシェフの味に慣れた舌には少し物足りなかったけれど、難癖をつけるほど酷くもなかった。もちろん、それは母とシェフの手柄ではあるけれど。

父と母は、すっかり打ち解けあって寛いでいるように見えた。茶目っ気たっぷりに笑いかける父に、頬笑みでこたえる母。不意に先に聞いたふたりの出会いのことを思い出した。お母さんはお父さんを許した。お父さんは、お母さんを愛した。ドラマチックではあるけれど、規模さえ変えればありふれていそうな恋の物語。でも、それは目の前の二人に起こったことなのだ。どこにもない物語。唯一、二人だけが共有する物語。

では、わたしと勝郎くんの物語は?
お姫さまが絵描きに恋をしました。ところが、絵描きは本当は王子様だったのです。
これではまるで童話のあらすじのようだ。これがわたしと勝郎くんの物語。ただ、この物語にはまだ結末が出ていない。王子様とお姫様が結ばれて、幸せな家庭を築くとか、玉のような女の子を産みましたとか、未来のことは全く白紙の状態で、そもそも結婚出来るかどうかも分からない。
でも。

(それでも、わたしはこの白紙を埋めていきたいんだ)

隣でひどく上品にサーモンを食べている勝郎くんを見て、わたしはそう思った。テーブルの下で、わたしは時折勝郎くんの手を探した。勝郎くんはいつでも手の届くところにいて、わたしを安心させてくれた。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせるように、分け合った熱はじんわりと揺れる心を慰めてくれた。
だから、震えている場合じゃない。不安だらけだけど、許してもらえなくても、わたしは勝郎くんと未来を描きたいんだ。

わたしと勝郎くんの視線が、今、かちりと噛みあった。

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/06

両親に報告するのは、絵の完成の時とふたりで決めた。

この屋敷の見取り図が完成したら、家族でささやかなパーティを開くことになっている。祝い事が好きな母と、それと同じくらい楽しいことが好きな父が申し出て、わたしは一も二もなく承諾した。このところなぜか体調が少し悪かったけれど、理由のわからないそんな不調も一瞬で吹き飛んでしまったくらいだ。母から話を持ちかけられて、勝郎くんも照れくさそうな顔で頷いた。

「今までそんなこと、されたことないです。ホームパーティなんてはじめてだ」
「じゃあ張り切って仕上げて頂戴ね。うちのひとも楽しみにしているの」

母は女優さんのように、ぱちんと綺麗なウインクをした。わたしと勝郎くんは顔を見合せて笑った。笑いすぎて母がむくれるくらい、お腹が痛くなるくらい、わたしたちは幸せな気分を引きずって笑い続けた。
だから、その場でなら、父もそんなに露骨に反対しないだろう、という気がしていた。母は勝郎くんに好意的だし、わたしたちが交際していることも黙認してくれている。助け船も貰えるだろう、と話はまとまり、
――そして、運命のあの日が来た。

絵が完成したのは、小雨の降る蒸し暑い日だった。
数日前からガーデンパーティの準備をしていた母はがっかりし、メイドを総動員してリビングを飾りつけてその鬱憤を晴らしたようだった。ピンクのリボンやレースのクロスでセンターテーブルを飾り、広い部屋の中に自慢のばらを惜しげもなく活けてある。そのせいか、部屋の中はいつもにくらべてずっと華やかだ。
あまりの飾り立てぶりに唖然としていたわたしに、母は手ずからお湯を沸かして紅茶を淹れてくれた。さっき、執事やメイドたちもみんな帰してしまったので、今この家にいるのはわたしと母の二人だけである。この家の話だから、家族だけで祝いたい、と父が望んでいたからだ。きっと内緒にしていたつもりのあの絵に隠された秘密のことだろうと思う。
久しぶりに飲んだ母の紅茶は、どこかほんのりと甘かった。

「ちょっと、お祝いだからってやりすぎじゃないの。お母さんたら」
「これぐらいしないとね。だって、おめでたいお話もあるんでしょう?」

ちびちびと紅茶を啜るわたしに、母はそう言って笑顔を見せる。意味深な、例の笑顔。

「おめでたい話って?」
「あら、隠さなくていいのよ。お母さんにはちゃんと分かります」

母は勘違いしているんだ、と思うと、なんだかくすぐったかった。今すぐ全部打ち明けて、違うのそうじゃないの、と言ってあげたかった。

この頃、母は大げさなほどわたしのことを構いたがる。まるでもうすぐ手離さなければならないと思っているように、この頃食の細くなったわたしの好物を並べ、姿の奇麗な花ばかりを選んで部屋に飾る母は、なぜかどこかしら必死に見えた。おかしなお母さん。わたしたちは、この家から出て行くなんて考えてみたことなんてないのに。

「おかあさん、あのね、……」
「あ、ちょっと待って。勝郎くんが帰って来たみたいよ」

話してしまおうか、と思った瞬間、玄関でなった軽やかなチャイム音に母は身軽に出て行ってしまった。まったくもう、と思いながら、わたしは酷く嬉しかった。母は今、「帰って来た」と言ったのだ。今のところまだ他人の、家族になる予定の男の子に。

勝郎くんは昨日、家に帰った。少ない荷物の大半は置きっぱなしで、小さな鞄一つに母の手作りのチーズケーキと父の会社の名刺をしのばせて。 

「きちんと話さなくちゃならないと思うから、いったん帰るよ。心配しないで」

話してくる、の内容は、わたしのことだろうと思う。それなら、心配しないでといわれてもしないでいられるわけがない。昨夜は一睡もできず、ひたすら勝郎くんの残していったシャツを抱きしめて祈っていた。どうか勝郎くんとご両親がうまく話せますように。わたしと彼が、この家で家族になることを許してもらえますように。そして、勝郎くんがどうか笑顔で帰ってきますように――

だから、リビングに二人が戻ってきたことが話し声で分かっても、わたしはそちらを振り向くことが出来なかった。なぜか、とても怖かった。

勝郎くんの絵は、父の席の真正面から一番見やすいところに備え付けられている。
細かいところまで丁寧に書き加えられた、世界にたった一枚しかない、秘密を忍ばせた宝の地図。
その正面にいつの間にかふらふらと歩み寄っていたわたしは、だから勝郎くんが何も言わないで隣に来た時に、急に泣き出してしまいそうになって、あわてて自分を叱咤した。なにを考えているんだ、わたしは。まだ勝郎くんは何も言っていないのに、勝手に一人合点してくよくよして。ばかみたい。そう自分に言い聞かせて、それでもなぜか顔を合わせることはできず、二人で絵の前で立ち尽くした。巨大な地図は迷路のようだった。勝郎くんが冷たい手でわたしの手を握り、強く、力をこめた。大丈夫だと言い聞かせるように、勝郎くんの体温がじわじわとわたしのことを勇気づける。
大丈夫。きっとうまくいく。わたしたちは、だってひとりじゃないんだもの。

「どうしたの、そんなところに突っ立って。お父さんも帰ってきましたよ」

いぶかしげな母の声が聞こえてくるまで、わたしたちはそのままでいた。もうすこし。あと少し。そう思っていたのに、勝郎くんの筆だこの出来た指先はすっと離れて踵を返した。

いつの間にか、父が戻ってきていた。

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/05

さて、結婚である。
わたしはあまりにも子供すぎて、イメージとしての結婚は理解していたけれど現実的な結婚、というものを全く理解していなかった。
つまり父が許すかどうか、という問題である。

勝郎くんは絵描きだ。父は芸術に理解のある方だけれど、だからといってそれとこれとは話が違う。いつか、聞いたことのある父の夢は一人娘のわたしに婿を取っていずれ事業を継がせるのだということだった。和やかな雰囲気の中で、まだ幼い娘を膝に抱いて、父はきっと夢見るように話したのだろう。

お前はうちの大事な跡取り娘だよ。

わたしはこの言葉を何度となく聞かされ、納得し、そのたびに笑顔で頷いていた。恋人の一人も出来ればもしかしたらを考えたのかもしれないけれど、わたしは今の今まで恋人どころか男友達すらいなかったのだから、父の刷り込みをごく当然に受け入れていた。
でも。わたしがお婿さんを貰うにしても、勝郎くんが父の仕事を手伝うなんてことはおそらく無理だろうと思った。勝郎くんは絵筆を置ける人ではない。いや、置かせてはならない人だ。
そして、それ以上に彼の仕事を厭う両親と同じに、父は実務的な人間である。
芸術を解し、美しいものを愛しても、同時進行で事業の拡張や統廃合や貸借対照表やPDCAを考えられる人間である。だからこそ、父はあれほどきれいなものを愛しながら、一切自分で何かをしようとはしなかった。
その気になればいくらでもチャンスはあったのに、ただの一度も手を出そうとはしなかったのだ。

そして。勝郎くんはきっと、その逆だろう。美しいものを生み出すこと、心に焼き付いた色彩を再現すること、作り出すことには天才的な才能を持っているけれど、経理や労務やいろいろの交渉や事務的な細々したことも、きっと得手ではないだろう。したくもないし、考えたことだってないだろう。わたしだってさせたくない。そんなことをしていたら、勝郎くんは絵を描くことが出来なくなる。
勝郎くんだってやれば出来るかもしれないけれど――わたしはそれを彼に強いたくなかった。
甘ったれているかもしれないけれど、彼には絵だけを描いていてほしかった。だから、父が受け入れてくれたとしても、娘とその婿とでともに事業に携わる、という夢は叶わない。

そして家のこともあった。
家格なんて変な言葉だけど、実際には存在する。陰湿に、けれど厳然と。だからこんなバカみたいに大きい家に生まれたからには相手だって相応のところから、なんて意見もあるわけだ。主にそれらのご意見は高校生のころからちらほら持ち込まれつつあったお見合いの釣書を見ての親戚の考えだったけれど、無視するにはこの家は大きすぎ、父は財産を持ちすぎた。

「たぶん、二つ目は大丈夫だと思うよ」

絵の完成を目前にして、勝郎くんはそんなことを言う。しおれているわたしを励ますように。

「おれの両親が許せば、だけど。たぶん大丈夫だと思う……断言は、出来ないけど」
「どういうこと?」
「つまりおれの家もそれなりにお金があるから。こうやって、ろくでなしの息子一人養えるくらいには、裕福ってこと」

理解できないわたしに勝郎くんが上げたのは、ある企業の名前だった。勝郎くんの名字と同じ音の入った貿易商社だ。うちのように手広く仕事をするというよりも、ユニークな商品構成で名をはせる、テレビではよく見かける名前の会社である。

「そこの息子なんだ。さっちゃんちとは比べものにならないけどね」
「十分じゃない!」

わたしは勝郎くんに巻きついて締めあげた。くるしいくるしい、と勝郎くんは呻いていた。呻きながらふたりでもつれあって、じゃれつきながらくるまりあう。神様!わたしは胸一杯に勝郎くんの匂いをすいこんで、初めて神様に感謝したいほどの幸福感を感じていた。

問題は半分に減った。
そして、わたしの心も決まってしまった。
父には悪いけれど、許してもらうことにしよう。そのぶんわたしが頑張って父の仕事を手伝うのだ。父の願いを叶えてあげられないのは胸が痛むけれど、ある意味で尤も難関だろうと思われた親戚連中には文句を言わせない勝郎くんの血筋。大っ嫌いだと会う前から思っていたご両親にも感謝しなくては!

わたしは本当に幸せだった。勝郎くんも照れくさそうな顔をして、やっぱり幸せそうな顔をしていた。ふたりともゆるみきった顔で、明け方のベッドで、深夜のアトリエで、結婚式や旅行の話や、やくたいもない未来の話ばかりしていた。

「おれ、さっちゃんみたいな子が欲しいな。きれいな名前がいいな、女の子だし」
「どうして女の子だって思うの?」
「だって、そしたらすごくかわいい」

ばか、と言ったら勝郎くんはニコニコ笑ってばかだもん、なんて言うから、まだ見ない子供の名前の話もたくさんした。美しい名前にしよう、いや色の名前がいいよ、鮮やかな空の色がいいね、この世でいちばんいい名前をつけようよ。

そんなことばかり話していて、わたしは自分の身体がその未来に追いつこうとしていることに気が付かずにいた。毎月順調に来ていたあの印が、そういえばあのころから止まっていたのだと、気付いたのはすべてが終わった後だった。

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。…という予定でしたが、公演開始日までに終了させることができないため、今週は毎日更新です。申し訳ありませんが、いましばらくお付き合いください。

2011/09/01

勝郎くんの取り組んでいるこの家の見取り図は、一般的な地図とは違って宝島のような形をしている。
依頼主である父が喜ぶようにと面白い構図にしたのだそうだ。ユニークな描き方のラフスケッチを見た父はとても満足し、ぜひこれを使ってくれと機嫌良く大きなキャンバスと最上級の絵の具を買い足してきた。今まで作品を集めることはあってもこんな風に描いていく過程を見たことはなかったらしい父は、時々勝郎くんの部屋を訪れては進捗具合を確かめていく。

「どうかね、例のあれはいい感じかな」

分かりやすくそわそわしながら父が聞く。もって回った言い回しで、絵を覗きこんでは勝郎くんの耳元に口を寄せて話しているのだけれど、地声が大きいから注意深く聞いていれば微かに話が聞きとれる。

「いい感じです。すごく」
「娘は気づいていないよな?」
「大丈夫です。たぶん」

そこでふたりが揃って後ろを振り返る。わたしは全然話を聞いていないし見てもいません、というそぶりで手元のクロッキーノートに視線を落とす。どうやら二人は絵の中に何か秘密を仕込んでいるのだ。わたし宛の。いかにも父らしい、なんてわくわくするような仕掛けなのだろう!

くれぐれもばれないようにな、なんて言いながら、父はすれ違いざまにわたしの肩を叩いて出て行った。励ますように、力づけるように置かれる手は暑かった。小さいころから触れられてきた大きな手は、もう髪を撫でることはない。その役目は今はもう勝郎くんに譲られたのだと、わたしはひそかに思っている。

「この絵も、もうすぐ出来ちゃうね」

秘密を聞いても教えてくれないから、その代わりに別なことを口にした。目の前に描かれているのは宝の地図であるのと同時に、このゆったりとした時間を示す砂時計でもある。これが完成したら、わたしは秘密を手に入れて、そして勝郎くんとの時間を失うのだ。

「ねえ。この見取り図が出来たら、勝郎くんはどこかにいってしまうの?」
「このままだとそうなるね」

そんなのやだ、とわたしは勝郎くんの腰に巻き付いた。勝郎くんはちょっと驚いたようだけれど、わたしの好きにさせてくれた。微かな油のにおいと、勝郎くんの匂いが胸一杯になだれ込んできて、溢れそうな想いを噛み殺すために腕にますます力をこめねばならなかった。

「出ていきたくないなあ」
「行かなきゃいいじゃない。ずっとここにいようよ。うちの子になってよ」
「このおうちの? いいなあ、そういうの。おれ、こういう家族がずっと欲しかったから」

勝郎くんは少しだけ目じりを下げて笑った。実現しないことみたいに、夢でも見るみたいに。
それが悔しくて、腹が立って、腕をほどいて勝郎くんのほほを両手ではさみこんだ。柔らかいほっぺたがふにゃんと歪んで、まん丸い眼がますます丸くなる。

「一緒に暮らそうよ。家族になればいいのよ、ここで」
「さっちゃん、自分で言ったことの意味分かってる?」

おれ今ときめいちゃった、と勝郎くんはおどけ、それからまじめな顔で結婚しようか、とわたしの頬に手を添えた。

「結婚?」
「うん。さっちゃんにプロポーズされたら、答えなきゃ男じゃないでしょ」

そして、勝郎くんは絵筆をとって、わたしの指にくるりと線を引いた。セピアと金の入り混じった、宝の地図と同じ色。光にかざすときらきら光って、まるで本物みたいだった。

「今、手元に持ってないから」

あのときの勝郎くんのくしゃっとした笑顔を、わたしは一生忘れないだろうと思う。

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
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2011/08/29

それから、勝郎くんはいろんなことを少しずつ話してくれた。
わたしも自分のことを少しずつ話すようになった。
キスもしたし、それ以上のこともした。
わたしは相変わらずこの家から出るときはひとりでというわけにいかなかったので、デートだけは出来なかった。でもそれ以外のことならなんでもできた。自分にとって初めての出来事が、ほとんど全部この家の中でひっそりと行われたということを、いまのわたしは酷く意味深なことに感じる。わたしにとって、この家は箱庭みたいなものだった。世界はここにしかないとでもいうように、わたしにとって善きものだけが集められた、小さくてやさしい世界。
自由に羽を伸ばすことのできていたあのころを、わたしは時折懐かしさとともに思いだす。
そこには、何がしかの痛みの記憶もうすい靄のようにまとわりついてはいるのだけれど。

親しさが増すにつれ、勝郎くんはそれまでに描いた絵も見せてくれるようになった。
クロッキーノートには見たことのない外国の景色や美しい建物や何でもない日常のようなものが鮮やかなタッチで切り取られている。
父の蒐集癖のせいで眼だけは肥えていたから、それらがどれほど素晴らしいものであるかはすぐにわかった。一枚の絵から、その街の空気感、のようなものが伝わってくる。どんな匂いがしてどんな人が住んでいるのか。どんなことを喜びどんなことに悲しむのか。見たこともあったこともないひとたちが、その町で生活している感じがじかに伝わってくるような素描だった。

「コンクールには出さないの?」

勝郎くんは絵筆を止めて振り返る。

「出したことないよ。生活費は貰ってたし、そういうの、みんな嫌がるって思ったから」
「でもこんなに凄い力があるのに。勿体ないよ」
「ありがとう。でも、うぬぼれかもしれないけど、出せば賞、獲れる気がするでしょ」

頷くと、だからダメなんだと勝郎くんは口元を少し歪めた。朗らかな勝郎くんには似合わない、どこか陰気な笑顔だった。

「名前が出ちゃいけないんだ。家族の顔をつぶすことになるから」

淡々とした口調だったけれど、少し声が震えていた。

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
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2011/08/25

――絵が出来れば彼は出て行ってしまう。

その事実に気づいた日、わたしは一睡も出来なかった。
考えてみれば当たり前の話だ。ここはわたしの家で、勝郎くんの家ではない。勝郎くんは絵が出来るまでの期限付きの客なのだということを思い出すと、頭の芯が冷えていくような気がした。
今時珍しく携帯電話さえ持たない彼は、この家に来てからどことも連絡を取っていない。うちの電話を使っているのもみたことがないし、買い物にも出ていない。必要なものはお手伝いさんや父が買ってくる。それで満足しているらしく、勝郎くんから不平めいた言葉は出てこない。こんな人攫いのような真似をしてご両親が心配していないかと、母が父と話しているのを聞いたこともあるけれど、本人は大丈夫ですの一点張りでかわし続けている。

幸いなことに、キャンバスはまだ白いままだ。それでもアウトラインは出来ているらしく、部屋には描きかけのスケッチが幾枚も幾枚も散らばっている。そのうちの一枚を手にとって、破り捨てたい衝動を必死でこらえた。こらえられたのは破ったところで勝郎くんの頭の中のイメージが消えるわけではないと理解していたのと、残せる気配なら全て残しておきたいとどこかで冷静に考えていたせいだった。死を悼む人のように、いつのまにか握り締めていた勝郎くんのスケッチの皺を丁寧に伸ばして、わたしはほかのものと合わせてキャンバスの脇に重ねた。

「ごめんね。捨てようと思ったんだけど、散らかしっぱなしで」
「……捨てるなら、これ貰ってもいい、かな」
「いいよ。そんなものでよければ」

勝郎くんは気前よく、揃えられた紙の束をわたしにくれた。わたしはそれを丁寧に紙ばさみに閉じた。勝郎くんが与えてくれたものは決して少なくないけれど、これは特別な贈り物として今でも大事にしまってある。

「ねえ、勝郎くん。ずっとここにいて、おうちのひと、心配しない?」

胸に紙ばさみを抱いたまま、わたしはひどくしょぼくれた顔をしていたのだと思う。
筆を止めた勝郎くんは寂しそうに笑って、わたしの髪を撫でてくれた。柔軟剤でふんわりさせたジョーゼットの布みたいに、やさしくて滑らかな手をしていた。

「さっちゃんはいいね。素敵なご両親と仲良く暮らせて」
「勝郎くんは違うの?」
「そういうわけじゃないけど。おれは家族の中で浮いちゃってるからなあ」

勝郎くんは筆まめのある指先をそっと放して、がりがりと頭を掻いた。

「うちには出来のいい兄貴がいてさ。父さんも母さんもそう。社会的な生活をする力っていうのかな。必要だ、必要じゃないって線を分けるとか、優先順位をつけて切り捨てる、とか、そういう能力がすごくある人たちなんだよね」
「実利的なんだ」
「うん。だから、絵なんて描いてどうするんだ、って小さいころからよく言われてた。無駄だって。そんな暇があったら算盤でも弾いてろって、必要ないことに時間を割くなって、怒られてばっかりだった」

だから、おれ、家族はいるけど帰るところはないんだよね、なんて眉毛をハの字にしてみせるから、たまらなくなってわたしは勝郎くんに抱きついた。うすっぺらい身体に腕をまわして、あったかい胸に顔をうずめて、犬みたいにうーうー唸った。勝郎くんはわたしの身体を抱きしめて、ありがとうね、と囁くように応えてくれた。首元に触れた短い髪に、その髪から薫る絵具の匂いに、なにかを我慢しているような声に、返せるものはなくてただひたすらに抱きしめる腕に力をこめた。

そして、わたし自身も初めてのことながら恋に落ちてしまったのだった。

next  vol.7→8/29公開

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※この物語は2011年9月11日に上演されるJunkStage第三回公演の物語を素材としています。(作・演出・脚本 スギタクミさん)
※このシリーズは上記公演日まで毎週月・木曜日の2回公開していきます。

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