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2012/03/07

やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って、

目にも見よ…

そう、物見高いは人の常。

人と人とが交わる事で、

いろいろなものが生まれます。

お互いに、何も伝えようとしなければ、

理解は深まらない。

曲独楽の発祥について、

調査していた20数年前、

収集家、研究家、各先生の意見を聞いて、

紋也師匠の5年ごとの芸術祭参加公演用に

まとめたのが、調べ始めるきっかけでした。

1998年に、i-Macのボンダイブルーを初めて買って、

私のパソコン歴は開始しました。

それまでは、パソコンではなく、シャープの書院から、

インターネットへ接続して、

様々な調査をしましたが、結局データが少なくて、

実際に足を運んでマイクロフィルムを見たり、

身分証明や紹介状持参で原本を閲覧許可してもらい、

読んで集めるのが早かった頃です。

今は各機関が閲覧データを公開しているから、

調べるのが楽になりました…

だけど、その情報の大切さや、調べた人の事は、

伝わってこないけど…

しかし、私の師匠、三増 紋也師の流れを追うことが、

先日出来たので、嬉しく思っているのです。

 

あまり確かな事は言えませんが、

どうやら興行の記録があちこちの神社や寺に残されていて、

郷土資料として各地域がデータ化をするようになり、

芸をして歩いていた曲独楽師の名前や、場所、興行主、詳しい物になると、

興行での収入金額さえも知る事ができる例がありました。

 

確かな事が言えない、というのは、その「見世物」的な要素から見て、

多少は人を集める為の脚色が、当然あった事が考えられるので、

内容の面では、私たち曲独楽を仕事にする者でも、「これは無理だ」という芸が

記述されている事があるからです。

 

でも、一番古い記録が、私が調べた当時と

今の公開資料でも、まったく変わらず一致していることがわかり、

改めて入門当時、紋也師匠に言われて調べ始めていた曲独楽の歴史について、

今までずっと、私の旧ホームページから引用してくださっていた皆さんに、

恥ずかしくない内容を公開できていた事に、安心しました。

 

享保十五年(1730)

三升屋千十郎、難波助十郎という曲独楽師が、大阪の興行主の一行11人で、

曲独楽の公演を大分県で行った記録を見る事ができました。

もうけ、の額が記述されている例は、とても少なく、

この興行はよほど話題になったのか、きちんと金額の明細がありますので、

ご参考までに転載したいと思います。

貨幣価値は、いつも問題になるのですが、

時代ごとの米の価格を中心に考えるのか、

それとも庶民の食べ物そばの価格なのか、

大工の日当で考えるのか、

様々な場所と、身分の別による金銭感覚の違いが、

江戸時代の文献や古文書を調べて毎回換算に時間がかかります。

 

でも、そこをちゃんとするかどうか、

それでまた、調査や資料の

「保存価値」

「閲覧して参考」

「ただの雑談の種」という、

見ていただく方への関わり度が変わってしまうので、

気をつけたいと思っています。

 

もし、私が取り上げている事で、お読みの方が、

気がついた事があったら、本当に教えていただきたいと思います。

お願いいたします。

 

私が今回使用する、77銀行の江戸時代の通貨の説明は、

とてもわかりやすいです。

http://www.77bank.co.jp/museum/okane/0813.htm

 

さて、前置きが長くなりました。

当時の貨幣価値から考えて、60匁銀貨が金貨1両にあたるので、

この時の曲独楽の興行収入746匁は、12両という事。

また、1両は、各時代ごとの時価相場で換算する習慣であり、

いくらかは、推測の域を出ませんが、日本銀行からの下記記述で考えると、

だいたい米価から考えると、1両3から5万円ですから、

30万から60万円もの差がでますが、だいたいそれ位の収入となります。

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_faq.htm#question2

 

調べてわかるという事、こりゃ、すごいもんです。 

大分県の浜之市という場所の市での興行記録から、考えてみました。

 

一回の収入ですから、移動する各場所で興行したら、

十数人の団体で移動して、奉納したり、市への場所借り賃、宿泊費、食費、

交通費、様々を地域ごとに経済活動していったわけです。

もちろん、地元の交流も、結構しっかりしていなくては、

興行が許可されませんし、

その土地の住民の娯楽を担当する、

土地の地頭とか、祭の主催者、寺社、港や宿場、妓楼の主など、

顔を立てていたから入る事ができる。

と、いうわけで、今回は、調べて知る事のお話でございます。

そういえば、とあるT大のセンセイの江戸時代の興行研究の論文で、

芸人を「アウトロー」と表現した方がいらした。

私はここまで来たのか、と思ったことを書いておきたい。

日本の芸人の起源は、その言葉では「くくれない」のであった。

まだ、そういうものを読んでも、

今のように「目に留まるための」ブログやこちらのきちんとしたコラムの形での、

意見の表明を表すすべも無かったし、

思いを誰に言うでもなく、抱えていたら、つい最近

「非民」「賎民」の遊業者がいたことを一切書いていないのは変だ、と、

部落解放・人権研究所の方が書評で述べられていて、

ああ、わかってくださる方が確かにいらっしゃるのだな、と思った。

http://blhrri.org/

参考までに、私にとって上記サイトは、遊芸人の歴史の根源と関わりがあり、

日本の芸の歴史にとって、必ず知らなくてはならない事を知る手がかりを学ぶ場です。

ごく最近、知ったばかりなので、これからも勉強したいと思っています。

ウィキペディアの形式で、↓人権や差別の資料集を公開しているサイトが便利です。

http://www.blhrri.org/jiten/index.php?FrontPage

 

そう。

芸も技術の話だけでは、ダメなのです。

 

道具がどうとか、BGMの話が何とかとか、

楽しいだけの話じゃ、悲しいのです。

それは、今までの各先輩が教えてくれています。

 

今、同じように、現場で製作している若手との共同作業には、

本当にこちらも勉強になります。

 

音楽を作っている方も、演奏している人も、

もちろん、テレビ番組を企画して実際に撮影している皆さんも、

縁、出会いで活動しているのだから、

芸も同じです。

 

私が教えた縁の後輩も、今の現場では、国の助成を受けた同じ研修生を

先頭切って引っ張っていかなくちゃいけない世代になりました。

いつまでも、寄席の師匠方に甘えているわけには、いかないのです。

 

ああ、先輩がこんな思いで入門当時の私らを見ていてくれたんだなと、

丁度、私のお年頃は、私が入門した時の姉弟子の年齢ですから、

今はこう思っています。

ありがたや、先輩の存在は大きい。

 

交流の規模を小さくして、地域性を重視するやり方も、重要です。

私は、どちらかといえば、この密度の濃い交流を好む傾向がありますから、

女性の特権として、巣作りするように芸を考えます。

 

ま、私自身は、どんな転がり方をするかは、転んでみないとわからないかな。

 

でも、希望としては、そういうきちんとした師匠からの教えを受けた

国立の芸の養成所出身の生徒さんたちが、

各地へ拠点を作り、善いものを広げてくれる事を願っています。

 

たった今、3月7日に日付が変わりました。

NHKの昼12時20分 総合テレビ 「ひるブラ」生中継で曲独楽をご披露します。

内子町の古い町並みが、曲独楽と共に映えてご覧いただけると嬉しいのですが。

 


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[…] そ、三増さんは芸の歴史をきちんと調べておこうという姿勢を貫かれます。 「芸も技術の話しだけじゃだめ」という言葉通り、興行記録を調べ、独楽の文様を調べ、演じる際のスタイル […]