Home > 曲独楽の歴史の手がかり
今まで 曲独楽のいろいろを 書いておりますが
今回も 江戸時代の 曲独楽の話です
「曲独楽」興行は
いつも書いておりますが 足芸 バランス芸 力自慢 和妻(マジック) 作り物などが
一同に集まった 興行の形式です
人気絵師であった 歌川国芳などが多く 浮世絵(錦絵) を 宣伝用に書いていて
その演目は 多少オーバーに描写されていても
今見れば 本当に面白いものです
人気というか 幕府の庇護にあずかっていた 曲独楽師といえば
松井源水という人です
三増巳也は 父 源氏太郎が 富山県井波の出身ですから
その松井源水の 先祖がいたという 砺波のご近所である事も
こういう遠い時間が流れて この記事を書いていても他人の気がしないわけで…
ええと その 源水の 先祖である 売薬を生業としていた代の松井さんは
この コトバンクに 記述が詳しいです…
- はんごんたん【反魂丹】
売薬名。同名の売薬は各地にみられたが,越中富山売薬の主力商品として知名度が高かった。それは越中売薬の行商が配置販売方式を採用し,現物を先渡しして翌年使用済みの分だけの代金を受け取り,残品は新品と交換し,さらに補充配置するという行商方式で全国に行商圏を広げていたからである。反魂丹は死者の魂をよび返すとされた反魂香にあやかって,
死(ひんし)の病者を回復させる効能があるとして,中国でつけられた薬名である。
この反魂丹を 販売していたということで…
初代が 玄長さん 二代目が道三さん
どうやら 武田信玄から お墨付きをもらったという記述がありました
でもって 当時の 歯の病気ということと
曲独楽師が 一時期 何で 虫歯を抜いたり
松井源水さんの最後の十八代目の方が 東京歯科大学の 名誉教授だ
ようやく 点と点を結ぶ形で 納得ができるまとめが出来た…
歯科の先生の研究では この松井源水の曲独楽と歯の治療
資料が 公開されていることも 大発見です
おかげで
ナゾだと 私が思っていた 松井源水と 富山の薬売りの関係が しっかり確認できました
今回は 嬉しかったので その資料との出会いの感想となりました…
過去 曲独楽の国際進出と交流は以下のようになっていました
最も早い曲独楽の海外公演は 松井源水系の各曲独楽師で
江戸末期から明治にかけて アメリカ、ロシア、フランス、イギリスへ行ったのです
(何度かコラムに書かせていただきましたが
曲独楽師を団長として 綱渡りや しなる竹を渡るバランス芸
足でフスマや 大きな独楽を回す 足芸とか
力自慢の芸 玉乗りなど
演奏は 主に女性が三味線で担当し
締め太鼓や篠笛で構成されていました
また 義太夫で曲独楽が演じられていた記録もあります)
※以下は 国立歴史民俗博物館の曲独楽など
海外での興行資料の事が 図版入りでわかりやすいページです
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/118witness.html
さて一度 欧州やアメリカの影響で
大衆の理解が得られず
曲独楽興行は ほとんどが
路上での群集を嫌う行政側の法律によって
ことごとく取締りの対象になり
免許許可制で
寄席の中だけに限られます
戦争を何度か経験するうちに
相当 曲独楽師も 製作できる人も数が減っていきました
第二次大戦後
鉄など物資不足で 木地師の技術が消滅していたのですが
(寄席芸人も出征していましたし
東京大空襲で相当被害があったこともあり
曲独楽が寄席に復活するのは 時間がかかりました)
紋也師の独楽は 戦火を逃れて
国立劇場 演芸資料館に寄贈することができています
(展示期間中ですから 国立演芸場の展示で今見ることができるはずですが…)
近代になって
我が紋也師の 三増流 江戸曲独楽は 1955年ソ連や中南米諸国へ
そして 1960頃はオーストラリアなどへも 船上などで 長期の興行をしています
(船では ダンサーさんたちの振り付けも担当していたと 聞いております)
寄席芸として 曲独楽が定着した功労者といえば
紋也師はもちろんですが
紋也師の 落語芸術協会からの脱会ののち
やなぎ女楽師が 独学で曲独楽を習得されて 寄席に入られました
曲独楽に太神楽を取り入れた 柳家小志ん・とし松両師の功績も輝かしいです
そして 曲独楽の流れは
様々に広がりを見せました
博多独楽の再興をされ功績が認められて
福岡県無形文化財となった筑紫珠楽さんの国際交流公演や
独自の工夫をされた 筑紫こま鶴さん(KOMA TURU)が
ラスベガスのショーに入られたりして拠点をアメリカL.Aにされていますし
にぎやかに 各曲独楽師が 活動してきました
我が一門 小紋 紋子こと松旭斎世津子ねえさん 紋之助 左紋 れ紋 紋右衛門
そして 伊予ちょんがけ独楽名人の セミプロ右紋
(あ、私 巳也は主に愛媛が活動場所ですが)と 揃っています…
大阪の曲独楽が 今は 米朝師の一門の米八さん、大道芸の池田たかしさん(伏見龍水)
とお2人が寄席に入られてます
で セミプロの方なのかな…名古屋の大須演芸場に 柳家三亀司さんという方
あと もしかしたら 博多独楽の筑紫珠楽さんが 今年11月の襲名をきっかけに
全国で活動をされるのかもしれません
最近までの曲独楽のお話でした…
コラムで前に 宣伝しましたが
ただいま 国立劇場の演芸資料展示が開催中です
「曲独楽の世界」展
こちらに合わせて
やなぎ 南玉お兄さんの
曲独楽の講演がありますので
また 宣伝しておきます
伝統芸能サロンとして
毎回色々な講師を招いて 無料で話が聞ける講座ですので
機会がありましたら お越しください
先着順 120名様 13時から
http://www.ntj.jac.go.jp/topics/tradition/24/3612.html
演芸資料のことで 質問などありましたら
資料館の担当の方が 答えてくれるはずですので
活用されてくださいね
いきなり 左朴全さんだ
そうです 曲独楽は
-
曲独楽そのものに 新しさを入れられなかった事
-
資金不足 技術面の衰退
女性の「見られ方」が 変わったことです
今回は 曲独楽を ご覧頂く時の
舞台での 構えというか
道具仕立てを
解説してみようという
またまた 生意気盛りで ございます
もうじき 人生五十年にさしかかろうという私ですから
まあ
20代ならいざ知らず
最近はもう
これでもかという状態で
書きなぐっているわけでありまして
「巳也が嫌いになっても 曲独楽は嫌いにならないでください!!!」
(以前AKB48総選挙でトップ当選した時に
あっちゃんが言ってたみたいに言ってみました)…わかるかっつ~の
ええ さて
今回は
曲独楽を演じるときの 道具との考え方について
錦絵を見た話と 自分の曲独楽のあり方を
★クルクル★からめて ご説明していきます★
絵でご紹介しているように
舞台上では 机を置き
その上に 曲独楽 コマを配置していますが
その昔は こんなわけにはいきませんでした
いちばん 古い種類の文献とか
一生懸命見てみると
曲芸と一緒に コマを演じていた(かもしれない)
説明は たくさん出てきます
でも
肝心の 情景描写が まったくありません
繰り返し書いておりますが またまた説明しますと
曲独楽というひとつの型として
観る側演じる側ともに 成り立った一番最初が
京都 四条河原での
博多の曲独楽師 初太郎(他にも異名がありますが ここでは統一)の
公演を 初演と考えるのが 研究者皆さんの意見です
当時の絵も ありませんので
これまた 現場がわからないのですが
一番年代が近そうな
市中屏風絵とか 襖絵に 描かれている芸人らしき
演技中の風景を見渡してみますが
どうやら
道具を描きこむ所まで 絵師の神経がいっていないという事で
もっぱら 地面に 箱が置いてある程度です
その大きさについても
当時 遠近法が確立していないので
今時の大きさ推測は 役に立ちません
でも 膝くらいの 箱が 置いてあることに 気がつきました
まあ この程度です
無理も有りません
当時はまだ 曲独楽師などには小屋を仕立てて公演をする事が許されておらず
この
博多の 曲独楽師の 大評判が
町の人の動員数数万人に及んだという状態を生んで初めて
町の取り締まり上
そして 興行したら儲かるなあという欲
それが両方整ったので
曲独楽も 歌舞伎と並んで 小屋での興行が叶ったわけです
※ ここまで 独断で言い切っていますが 合ってるかどうか 私と一緒に真剣に考えてくれる人は誰か居ませんか~?紋也師が亡くなってから、研究者の方と最近接点が無くて寂しいです…。
そして
江戸時代後半になり
文化文政に
曲独楽は小屋がけの興行を各地で行い
名人といわれる各芸人を生み
道具も増えて
楽しみ方も
曲独楽だけではなく
曲独楽という題名で興行をするのが
縁起をかつぐ関係もあると思うのですが
その大当たりをとった型を
明治時代まで 続けていく事になるのです
曲独楽 コマの曲芸として
興行されていたであろう演目といえば
手妻(マジック・和妻とも、手品とも言い、中でも水芸が有名)
(水芸については コマに火をつけて回転させる芸をするのが始まったと同じく
登場したと思われるのですが これは もう少し調べてみたい事です
研究論文で現在の「水芸」の第一人者である
藤山新太郎先生と一緒に書かれているものを
もう少し 勉強してから 私もしっかり把握しておきたい事です)
水芸については ここをご覧下さい 藤山新太郎先生のサイト↓
http://www.tokyoillusion.co.jp/index.html
身体能力の高さを見せる見世物的な芸(バランス芸・つまり玉乗り、綱渡り、竹乗りなど)
太神楽曲芸(ジャグリング・マス、桶、卵や道具を使って高く積んだり、投げる芸)
力自慢の芸(特に、足芸が派手だったようで、大きなコマや、人、襖を回したりした)
それと舞台小道具に関連する事として
特に書いておきたいのは
見世物小屋としての
作り物の話です
和紙という丈夫な素材
竹という強靭なもの
そして 鯨の髭など
知識の楽しい活用としては
現代でもお手本になる 物作りの大事典みたいなものですが
明治に近い頃には
平賀源内の技術とか もうすでに 電気仕掛けも登場してきますから
幻燈仕掛けも 結構やっていたのではないかと思います
(これも もう少ししっかり考えようと思います(^^;))
それから熊本に 生人形(いきにんぎょう)の職人さん松本喜三郎がいて
たぶん 当時はこういう表現も
曲独楽の中にあったのではないかと
私は考えます
松本喜三郎など生人形については
こちらの↓熊本市近代美術館の記載が詳しいです
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html
西欧との交流の中で
彫刻とか 遠近法や 宗教モラル 医術の違いなど
そういうものがあって 西欧の人が表現できなかった世界を
庭師は庭に
生人形師は 人形に
芸人は 芸に
日本の職人・芸人の技術が やすやすと日常に発揮しているのを見た西欧の人は
どう思ったのでしょうか
アメリカの自称興行師は
そういう純粋な芸人の一行を騙して
先に手数料を半額もらい
アメリカ N.Yで数回興行し
その興行収入とともに
ドロン
今も昔も
ある程度は 知識を持っておかないと いけないという好例ですが
さて
その明治までの 曲独楽の公演では
道端で演技をする 大道芸人と一線を画し
様々な 道具を 曲独楽の友として 登場させていきます
今に続く 曲独楽の舞台で使う道具
これは
お客さんの数と
見ていただく状態に応じて 軽量化が進んでいきます
明治から大正になると
もう 日常に西欧の感覚が入り込んでいて
髪を結う人も珍しくなっていったくらいですから
寄席にも
その影響が出ていきます
興行形式が 曲独楽の江戸の興行で成り立っていたのは
明治の10数年頃までです
西欧のサーカス
そして
アメリカやドイツの金髪のダンサーや曲馬に乗る 大胆な衣裳の女性を見に
大勢の人が行くんですから
すっかり
曲独楽や日本の芸も
寄席に落ち着いて
芸も洒落の効いた舞踊の動きと
奇抜な電気仕掛けを利用したりして
工夫をしていく時代に突入したのでした
その小道具を 私たちも
受け継いでいる事になりますが…
さて 今回も この辺で
お後が よろしいようで…
300年とも 800年とも いろいろな考え方で 曲独楽 コマの曲芸の歴史は語れますが
盛んであった 18世紀から19世紀の
集客ツールといえば
この錦絵が 最も多く使われた手段だといいます
お客さんである 女性を多く集める事で
男性も 美しい女子目当てで大勢集まるわけですから
そりゃあ 気合でもって
チラシやポスターにあたる この錦絵を製作するという事で
絵師も 人気の 国芳が
曲独楽師を 一番たくさん描いている様子です
最近 また 資料が整理整頓されているので
日進月歩 調べ物も 要する時間が短くなって有り難い事です
梅雨時期の 泥落とし
洗濯物や息子らの 運動靴も
乾かすタイミングが計りやすくて感謝してます
さて 今回から その整理整頓の恩恵を 受けて
曲独楽の資料の解説なんぞ
生意気この上なく 開始しました
初回は この絵からです
モデルは 竹澤藤次 たけざわ とうじ
この人は ものすごく評判が高かった曲独楽師です
ここ ボヤキ
松井源水という 富山の薬売りから発生した系列の曲独楽師が
他の商品を 販売する本業の 客寄せとしての大道芸ではなく
舞台の芸人として 磨かれていく流れが おそらくは あるのですが
まだ あまり いつからそうなったのか 記録が何しろないもんですから
錦絵が多く出回ってくる
この頃の資料しか残っていないので
松井源水が 大岡越前とタッグを組む以前の活動を
知ってる方がいたら 教えてほしいです…
豆知識
さて この竹澤藤次の芸ですが
これは 長煙管を使っています
煙管といえば 現代での悪者に仲間入りしつつある
タバコの友達です
しかし ちょっと前には アヘンを吸引するのにも 使われていました
洒落人が 長い煙管を競って作った遊びも
江戸にはあったのですが
このアヘン煙管は 危ない方の遊びです
曲独楽には もちろん 安全な煙管を使っていますので
安心して下さい
アヘン、麻、これはモルヒネを含んだ毒にも薬にもなるものですけれど、
文化が違う国を 武力以外で制圧する時の方法として
子供の洗脳
宗教
嗜好品に常習性のあるものを ばらまく
のような事がありました
あと お金に当たる 価値を 粉々にして 社会を混乱させるのも よく使われる手です
アヘンも その手段に使われた 怖い 歴史があるので
それを思わせる 長煙管であります
ところで
諸外国が 他国の脅威に始終神経を働かせて行動しているのに
日本は 江戸時代も安定していた頃には
豊かになった町民が 旅をして回ったり
寺子屋で 読むことを覚えて
女性でも 小間物やが持ち込む黄表紙の色っぽい話や
連載マンガの原型本を 読めるようになり
三味線や琴を習ったり
芝居に凝ったりして
それぞれが自分の好みで 身の回りを楽しむ世が完成していって
お金をだしてもいいから
珍しいもの 人と話す時の 楽しい話題を探して
いわば オタク文化の元の気風が 江戸市中には あふれていったのでした
江戸時代というのは 四方を海に囲まれた日本の
楽園の実体化
でもあったかなと ちょっと 考えました
そういう中での 曲独楽の舞台化でありますから
そりゃ もう いろんな要素を入れ込んで 芸を作っていきます
町の話題を芝居にしてみたり
作り物、という楽しみもその中に入ってきます
藤つるや 竹で編んで骨組みを 形にして
まわりに紙を貼っていき
大型の舞台効果も 製作していた様子です
もともと
提灯や傘を 竹と紙で作ってきたのですから
各村や町単位に 必ず居なくてはならない種類の手わざですので
腕のいい人が 専業化していったのは
容易に想像できます
竹 紙 木 着物 漆
こういう 素材が
全国から 集まってこそ
この曲独楽の公演も出来るのでありました
宅急便とか 航空便があるなら
遠い所の品が 目の前にあっても おや
ぐらいで済むでしょうが
どうにも すごい話です
日本の 技術のすさまじさを 今に残すって大事だぞと
本当に思います
ところで 曲独楽のこの絵の芸は
煙管の棒の部分で
回転する独楽を操作している芸です
いくつか 煙管の形状を利用して
バリエーションがあります
やっていても 動きがその度に 微妙に違うから
発見もあって本当に面白い芸です
私たち三増流の場合 投げてコマを回します
これは 集客数の増加により
曲独楽師も道具を替えて対応して
早い 上手い を実現してきた形のひとつですので
江戸のお座敷芸のような
お客さんが膝同士温めあう場面では この道具は使いません
ご要望により 特別にすることも可能だけれど
危険な芸をして物が壊れても
保険がおりませんので
やめてくださいね
この芸の準備として
3Mの麻縄を自分用に乾燥した麻のたばから曲独楽に合わせて作りますが
正月の神棚によくある 縄の飾りみたいに
よって作っていきます
自慢させて
これが 実に美しいので
紋也師匠に習ってからというもの
愛媛の伊予ちょんがけ名人の右紋さんにも
更に素早く出来る作り方を教えていただいたりして
DIYで手に入る種類のロープとは比べようがありません
てな具合に 投げ独楽を演じる時に
思い入れをつい 舞台上で つぶやいてしまう
このあいだは 気が付いたらこの話だけで
10分話してしまった…(^-^;)
自慢にならない…
ところで
最近は投げる曲独楽を 趣味で製作者さんから購入した方が
紐が無いと 嘆いているのを聞いた事があります
どんな紐でも 投げることは出来るんですが
曲独楽に 慣れているかどうかが問題なわけで
怖がって投げたら 練習になりませんし
とりあえず言える事は
貴重な曲独楽を 投げる前に
まず 他のものを投げて練習することを薦めます…
こういう風に
自分に合っているやり方という事が実は意外と気がつかない…
オカメハチモク
身近な人の 見たままの 一言を 参考にするのを また 薦めます
日本の趣味人というのは
本当に文化の高い素晴らしい事のあらわれなのだから
決して 恥ずかしがらずに 交流を 楽しみましょう
もし この芸を 投げる独楽で 楽しみたいのでしたら
得意な趣味とかスポーツで体得している動きを
一度取り入れてお試し下さい
今回は こんなところで
お後がよろしいようで