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2014年10月26日
愛媛県立医療技術大学 学園祭に出演します!
見た感じは 同じに見える事でも
物事の背景を知ったら 人は心が動く事がありますね
同じに見える という事は すごく幸せなのかもしれませんし
困った事なのかもしれない
心の持ちようだと よく言いますね
本当にそうだなと 昔の人の言葉に 聞き入ってしまいます
ただ単に 物事を伝えたいのか
それとも 考え抜いて 搾り出すみたいに作った言葉だったのかは
時には 言ったり 言葉で書き残した本人でさえも わからなかったりします
ううむ
私にとっては
何でも
同じじゃ無いですね…
独楽の動きに替えて考えてしまうのが私の職業病かもしれませんが
何回曲独楽を扱っても
その一瞬ごとに 出会っているかのようです
先日 知人と 鮎の話になり
徐々に国内の鮎が変化しているんじゃないかという話題になりました
場所も時間的なことも
同じ川の源流で育つ鮎だって 味が違います
川を大事にしてきたおじいちゃんたちの つかまえる鮎は 違う味がします
養殖の味でなく
川の状態も味のうちに入っています
それに 炭火で焼く時の炭もそうです
山の雑木の状態で 良く燃えたり 燃えなかったりしますから
良く出来ている山の炭は 煙があまり出ませんし
焼く場所の大きさに合わせて割る時も
粉々になりにくいです
曲独楽だって 木製品ですし 心棒は日本が誇る 鉄を鍛える見事な技の 鋼鉄製です
木は全部 日本の木です 塗装も漆ですから 日本の風土に根ざしている芸能だという事です
見かけが同じでも 曲独楽を本当に知っている人が作る・回す・演技する… そこで違いが初めて成り立ちます
だけど
インターネット上の 動画からは それがわかりません
本当に 曲独楽を大事にしたい … 私は いつも 思っています
思わない事で とてもイヤな感情を抱え込む…
それは 凄く心の負担になりますし 毎日の暮らし方にも直結します
今回は そういう「気持ち」の話です
A. つらい経験が 原因となった時と
B.自分の失敗が元になる場合では
ずいぶん傷つき具合が違う事がわかりました
(自分の場合ですが)
A.本当につらい経験の場合 やりきれない感情となって 心の深い部分に蓄積されます
B.自分の失敗が原因だと その後の行動自体に直接関係が出てきます
間接的には生まれたときから 直接的には芸人として 芸に関わって生きてきましたので そのABが表面的に現れるのは
私の場合 日常の態度の方に出ておりますが
曲独楽の舞台にも 場面構成や演出を考える基礎の部分の骨組みと関係が出ます
Aは人の生き方の理想に関係するくらい 重たいことなので なかなか変更が利きません
Bの方で調整をする事が日々の生きる糧にもつながって これは どうやら 生きがいというプラスイメージを持つものにチェンジが可能なようです
色々な失敗談がどなたにもあり
その失敗は とても心にひびくものです
私にも失敗談があります
温厚な紋也師(3世)のお怒りを買った事…
本当によくおぼえています
今でもあの時の苦い苦い思いは忘れていません
細かい失礼は ものすごくたくさんありますので省略…
入門後 初めての海外公演がN.Yという(1993年)ラッキーな私
有頂天状態の私の曲独楽の舞台上での取り扱い方は とてもザクザク荒っぽいものでした
その海外公演で ご一緒した方のパーティーがホテルで開催されましたので
紋也師に呼ばれて 曲独楽公演の後見として一緒に出演しました
変わらない美しさと気品ある 紋也師の曲独楽の風格と
横に居させていただく 新参者の私では 天地の違いがあり
舞台上ではそれがまた お客様にはお楽しみとなっていましたから
公演も それはそれは楽しくさせて頂く事が出来ました
問題は その後です
ああ 書いていくのが つらいですねえ
連載を休みたいくらいイヤ…
(^^;)失敗とは そういうマイナス効果たっぷりですなあ
私の有頂天が なくなったのは この経験が元です
お客様である方 仮に iさんとします
iさんから 後日 紋也師あてに 郵便物が送られてきました
私の所に 師匠から電話があり 「すぐ来られるかい?」
紋也師のお宅は 当時 すごく粋な 新宿区納戸町でした
神楽坂と隣り合わせの地域で
裏千家の東京事務所や 勅使河原映画監督のお宅など すぐご近所で
当時の日本ハム上田監督や 女優FじMなみさんや 志ん朝師…お歴々がいらっしゃったのです
急いで紋也師宅へ伺うと
珍しく 怒られました
「おまえさんは 慌て物なんだよ」
今でも よく 口のある部分から この時の事を思うと 苦いものが染み出てくるんですが…
今日も出ました おお 胃にこたえる
そう
小道具を 演技終了後 控え室に忘れて
iさんが 公演の感謝の言葉を添えて 私の小道具を送ってくださったのでした
本当に 本当に
寝られないほど 苦い感情が生まれて
この時 私は思ったのでした
二度とするまい
たったこれだけの話ですが
曲独楽の小道具は 替えが利きません
個人の身体の特長によって その道具も違うので
忘れたから貸してもらうとか
お店で買ってきて間に合わせる
そんな道具では無いからです
特に 入門当時 私の為に
紋也師が 直接ご自分の手で 作ってくださった小道具で
とんでもなく貴重な品でしたから
本当に 申し訳なく
ものすごく落ち込んだのでした
しかし この経験こそ
道具に対するこだわりを生むきっかけであり
その後の舞台構成の考え方の基礎の基礎となり
どういう風に 曲独楽を取り扱いたいかという 自分の理想をはっきり形にするという 責任の取り方を考える最初の出来事でした
貴重な体験でした
どういう場所・会場でコマを扱うのか
ということです
大ざっぱに書いていけば ローマのコロッセオみたいな感じなのか
お祭りの仮設舞台か
はたまた(この言い方 広川太一郎さんの「ムーミン」スノーク風を希望)
きちんと座って見られる屋内会場の大きな公会堂クラスなのか
それとも 寄席のような客席のお互いの居心地相乗効果バツグンの300名様会場なのか…
あるいは アットホームな個人経営店かお宅のリビングでのパーティーだろうか
それを気にするわけであります
とある「芸に理解の非常に深いお方」と
曲独楽の普及のことについて ご意見を聞くことができました
マジックの海外と日本の歴史について くわしい方なのです
一時期 曲独楽はマジック ← ← ← 日本で言うと 手妻(てづま)です
との合同公演を 今で言う シルクド○レイユの元祖みたいな方式で公演していた時代があります
私もたびたび こちらJunkStageさんの「言わずば回れ」コラム 曲独楽江戸時代カテゴリで
少し書いてきましたが
この方の調べたデータを元にした記事もあるのです
さて
そういうことで現在のショーも 様々な公演をご覧の方ですから
滅多にないこの機会に
曲独楽の海外を視野に入れた 普及のご意見を聞かせていただくことができました
今まで私も すごく迷っていたのですけれども
私的に 結論が 出たので ここで申し上げておきます
曲独楽は 日本人が 手放すべき文化伝達方式ではない
そういうことです
閉鎖的になるなということで お叱りを受けることもあるでしょうが
ここは 私が 石頭に ガッチリ固めた持論を展開させていただきます
曲独楽が 過去 海外との交流の歴史の中で
なぜ 洋式の娯楽の浸透や 戦争や地震などの文化的危機を乗り越えて残っているか
日本の国土の大半を占める 山林・木材の利用と共生の歴史と文化が
それを支えているのだということです
そして それを充分に理解して 育っている私たち表現する側が
物事と 表現する人との美しい均衡を芸として
舞台上でご覧頂き
色々な思いを感じてくださる観客の皆さんと
表現する側も 共感と発見と出会いを得られる
至上の至福の場所に立っているのだということです
シルクド○レイユという公演の事を ちょっと書かせていただきましたけど
死亡事故が起きるということは そういう内容なのですね(怖)
かなり はっきり申し上げると
命の危険を要求される公演内容ということは
果たして 演じる側は 何の特があるのでしょうかね
欲求のみに こたえると こういう結果が待っています
かつて ロシアで 日露戦争直前からその最中に
日本の曲独楽と手妻の芸人が一族で公演していた時代に
地元ロシアでの芸人とトラブルになり
演じる時に使う命綱に切り込みを入れられた話や
現地での仕事を得るため 日本の芸人が命をかけた演技をして
勝ち残り獲得したサーカスの話が伝わっています
その当時と まるで事情が変わっていませんね
TVのバラエティーでの危険演出もこういう話と関係があります
そのようなことをOKする人が出る悲惨な状態を
私たちの先輩芸人が嘆いて その結果として良くする為の活動をしています
そのために 日本の芸能家団体をたちあげて 協力しています
私も協会員です
海外の劣悪な演出優先の傾向には 危機感が大アリです!!!!!!!!!!!!
おかしな傾向だと思いますが
日本の宣伝が大々的だと なお更 気がつく人は 少ないでしょうね
芸術的なことって
そういうことでしょうか?
抑圧された人の感情の昇華された表現として 芸術はあるはずだと思いたいです
曲独楽は 手放さない
大変だ!JunkStageでいつも気になる記事「ライターへの手紙」が
三増 巳也になってるじゃないかあああああああああ
なんてことだ
自分の誕生日もいっさい考えずにパソコンを早くするための
涙ぐましい「つまんない努力」を経て
ものすごく
ビックリしました
おお
なんてことだ
こんなに綺麗に要約していただいて
相変わらず素晴らしい…
…私の舞台の運びと
コラムの様子と
…ほとんど 変わりません
トッ散らかった中に
どういうわけか
偉い先生方も「あらら」と言う物事があるらしい私ですので
自分では わかろうとしていませんから (ええ それでいいのよ…)
このまま まいりますよ~!
今回の お題 「時間の感覚の違い」です
時間は 自分の体感・感情・記憶などなど 様々な事に及びますが
ここは 私の感じた事に ちょいと絞ってみますみや…
(閑話休題…先日寒い日に司会の方が みやすみや と何回もカムので気の毒だった… 思わず自己PR…「こま の みいちゃん」で ヨロシク!)
其の一 困った事実
あわてていると
用件が片付く前に
次のきびしい現実があらわれる
其の二 恐ろしいこと
すごく嬉しくて
このままでずっといたいときに限って
一番苦手な 前置きの話の長い知人が尋ねてくる
其の三 背筋が凍る時
お洒落なお店のイケメンスタッフに
「このカードは取り扱っていません」と言われる初デート風景
其の四 誰か助けて~
夜中にパソコントラブル
手作業バックアップ
終わらず数日の予定がまるつぶれ…(なあに ほんの5日さ)
どうでしょう
各場面ごとに 時間のスピード感が 違うのじゃないかと思います
先日
時間の感じ方について ちょっとした実験をしてみました
料理のしたごしらえ時間が どのくらい自分の記憶と違うか
携帯のストップウォッチ機能で計測したら
ぜんぜん わかっていなかった…
カレーライスの仕度で測りましたが
ジャガイモむきが 嫌だった私を
おかげで克服する事ができましたよ!
…どういうことが 起こったかというと…ですね…
毎回料理する時に考えていた
ジャガイモ洗って皮むくのが
「時間がかかるから やだ」
という感覚を
実際に計測して「現実感のある数字」を
脳みそに染み込ませて戦わせてやりました
すると
「思ったよりも時間なんか かかって無いじゃん…」
と 納得するんですよ!
…私の脳が!
…この脳が!(読んでる方 ご自分の頭軽く叩いてもらっていいです)
えらく名のあるどなたかが ラジオでおっしゃっていたのですが
「心理学 脳科学 これで こういうことの効果が 実際に出るので
ぜひお聞きの皆さんは 実践されてみてください」…てなことでしたので
今回 「実践されてみた」のです
脳トレ生活開始の狼煙(のろし)です
高校生の頃
どうやったら理想の大人になれるか
自分の社会人としての姿を図示して
就職した時にはその手は使わずにいましたが
「曲独楽師」になってから ある時思い出して
また 理想像を描いた紙をちいさく畳んで 財布にしまっておきました
何か越えられない物事が発生した時に見てきた紙は
数年してボロボロになり
気がつかないうちに 買い換えた財布と一緒に捨てました
その理想の形に 今 限りなく近いから
この夢は現実となったといえます
さて 若かりし頃の夢の時間は これからの逆算方式の円熟期とは
まったく違うものですので
今後 あと残り時間どれくらいを 用意して
また そういう脳計画を立てるのかは…
いつか どこかで お会いした時にでも お話しましょう!
確定といえば
今の時期 申告作業で
私同様必死に格闘している方もおられるはず…
まずは そういう皆さんに 心から お疲れ様のひと言と共に
来るべき
「新しい色んな出来事」へ向けて
一緒に 踏み出して行きましょうね…と
つい
今聴いているラジオから聞こえる
政治家の所信表明演説に似てるような…(^^;)
さて
今回は
ご大層な題名が どっしりと書かれています
これにはしっかりした原稿を書かなくてはならないのですが
私のこれからの姿勢を ちょいと 表しておきたいと
こういう題名にしました
これから TPP など 国内の産業や 権利 そして 芸術やら音楽の
仕事のやり方について 大きな変革がくるという事
これは確実な事です!!!
皆さん どのような変化が 身の回りに現れるか想像してらっしゃるでしょうか…
今日の 国会で 午前中質問にありましたので
ここで 取り上げて 曲独楽の事とも 関係があるから ぜひとも
書き残しておきたいと考えました
「ウルグアイラウンド」参加するか しないか
かつて この思い出しにくい制度に
日本国内の市場を 開けるかどうするか 論議になったことがあります
工業製品では タオルや繊維製品
農産物では オレンジやりんごなど
日本国内で生産されていた 衣料品 みかん りんごと おおまかに
品物が同じものという事ですが
結局 市場は開かれて
スーパーマーケットには 激安商品が並ぶ結果となり
商店街からは 八百屋 魚屋 果物屋が 消えていき
各地方には 「農林漁業を支援する目的」の
「道の駅 町の駅 海の駅」
「研修施設」が
大量に建設されてきたのでした
これは 私も 今まで そんなに興味がなかったので
まったく知らなかったのですが
経済効果がすごいあって
農家の皆さんの生活が豊かになったんならいいじゃないの
くらいにしか考えてなかったのです…!
ゴメンナサイ…
そう
安い服が買えればハッピー
てなもんだったのね…
ところが どうでしょう
肝心の道の駅が 我が家の近くにあるから
中の従業員さんに話を聞いたら
ぜんぜん違うのね…
国会でとりあげられた
「ウルグアイラウンド参加したから 悪影響を受けてしまった農林漁業を支援したはずの事業」
これは 結果 どういう効果があがっているのか調査したら
ほとんど 効果がない…!!!
このことについて これから実施される TPPの事も
まったく同じような失敗事業を繰り返すなかれ!!!
こういう趣旨の 内容でした!
わあ~
そうなんだ
「道の駅」の方に聞いたとおり
ちっとも地元の農業への支援にならない構造だということ
こりゃ 大変だよ…
し~んとしてたら
曲独楽のことも
発言していかなくては 手遅れになる!
そうです
私が こちらのJunkStageさんに コラム寄稿していることの意味の
大きな理由です
曲独楽が
日本の人の 風土や気持ちを
他の文化を持つ人たちに
共感を持っていただくための
とても大切な
魅力のある伝達手法であるという この私の主張を
多くの方に 知っておいて頂きたいという事です!!!!!
「大衆文化」って~と
わかりづらいから
「みんなのあそび」
で
いいということだい
自分で魅力を伝える努力は続けていくぞ~
「キツツキと雨」役所広司さん主演の映画を、元山師の亭主母と見ていると、こんな事を言われて感心しました。このチェーンソーは、手入れ不足で切れてない。地元の人ときちんと関係作りが出来ていないんじゃないの?
では、皆さんには、私たちが見ていた映画の場面の話をしますね。
とある田舎の山林に、若手監督が[ゾンビの映画]撮影に来るけど、撮影現場になる山林で、作業する地元の森林組合の人(役所広司さん)を始め、地域の人と話がさっぱり通じず、制作に四苦八苦する様子がお話の冒頭です。
私たちが見ていたのは、森林組合の人が、チェーンソーで伐採したヒノキを切るシーン。
確かに、内子町の里山に住んで10年目の私にも、亭主が切るチェーンソーの音とは違う事がわかりました!自慢自慢!
義母は、役所広司さんが山林を軽トラックで走る場面に、また言いました。
チェーンソーは仕事の道具だから、上下に揺れる荷台の最後部には、道具を乗せて走らない。
軽トラックも、急な坂をエンジン吹かして走り上がる事は、車を長く使う山の生活者なら、知恵として知っているはず。だから、撮影現場の人が、地元の人と話をあまり詳しくしていない事が判る。
深いね!暮らしの風景!
職人さんとのお付き合いは結構長くなりました…
戦後日本のデパートで職人の実演販売を定着させた方は 誰あろう 江戸曲独楽の作者 広井政昭さんであるけども
なにしろ 最近は ごく当たり前になってしまって
テレビショッピングの会社が テレビの番組スポンサーになったりすると
もはや 日常に「物」が 食い込んでいて
日本は
外国に出るとよくわかる
飽和
買ってほしい
これが 一日の電波の大半を占めているみたいで
それだけで 私には重たい
ずっと昔
私が曲独楽を 紋也師に稽古をつけていただいていた時代
今 思い出してみると
いろいろな気配の変化を感じるのです
師匠のお宅がある地域は
飯田橋と神楽坂の中ほどです
高い丘陵のような地形の上部に
東京大空襲で焼けてしまった建物が大半ですが
ほんの一角
木造町家がポツリと残っていたり
新宿区の中でも
緑を愛する大きな邸宅があるせいでしょうか
落ち着く町でした
稽古に通う 地下鉄のばっちい神楽坂駅を出て歩く道から
カラカラの新潮社本社ビルあたりを
いかに急いで通り過ぎるかで
身の入り方そのものも違ってきましたし
歩く道が逆に 今のように きれいに整備された駅から出て
おしゃれなカフェや
アンティーク店を横に見ながら歩く
そういう
必ず誰かの手が入った場所を望む道のりであったならきっと
曲独楽の職人さんの
製作の
現場の事を考える機会は もっと遅くなって
後輩の曲独楽の材料調達も
間に合わなかったかもしれない
絶対
師匠のおっしゃるとおりに
芸以外の余計なことはしない
そういう
古典の芸を一直線に
させていただいてたでしょう
でも 表通りを1本入った路地には
「利休」映画の勅使河原監督のお宅
裏千家の事務所
たまに 散歩中の古今亭志ん朝師や富士真奈美さんにも
お会いするような地域で 普段は静かな雰囲気
この物静かな上品さは
前へ押し出すような今どきのやり方とは
随分違っていた記憶があります
でも 私だけなのかもしれません
私にとって 特別な場所がもうひとつあったからです
ちょっと歩くと
三島由紀夫さんが自決した
自衛隊 市ヶ谷駐屯地に出るのです
ここは ほとんど 閉鎖状態でした
(でも近代能楽集 卒塔婆小町と綾の鼓のファンの私は毎回のように 見に来ました)
ここからの眺めは
市ヶ谷駅を 外堀をはさんで向かい合い
殺伐として
何ともいえない風景です
よく紋也師は この外堀にある 釣堀に来ていました
目の前に市ヶ谷駅があります
釣りが大好きだった師匠の 憩いの場所でした
春がやってきたかと思っているうちに
月末が もうすぐそこまで来ている
ということは
大多数の人が移動を楽しむ
ゴールデンウィークなる期間と結合することになり
愛媛県の内子町・八日市護国町並み保存地区が
いかに小さな観光地といえども
やたらと忙しくなる時期なのである
実のところ
自分が息子と過ごしていなかったら
体力やら 活力などは あまり変化を感じない日常生活であるはずだった
しかし 小1と小3の息子達は
私たち両親の体力など 考える事もなく
グリグリ進化し続けていくわけで
生き物の成長の早さにおいて
人類が 離乳を早める工夫を生み出したお陰とかで
四季いつでも出産して子育てできる人って すごいのである
おそらく 高齢出産が ごく当たり前の仲間入りをしていく世の中にあって
自分のことを構う時間も 短くて済む心の余裕も 生まれやすいのではないのか
てなことを考えたりして ご近所の回覧板とか 地区の会費集めをしながら
夜中の原稿を書いている今…
仕事の場所である 江戸から明治期の建物保存地区を
維持している人の高齢化と
来る人との交流時間が 娯楽の長距離化で短くなり
かかわりを持つ きっかけ作りが非常に難しくなっていくので
私も自分の専門職 コマの曲芸師としては
地域に古くからある コマの子供遊び ちょんがけコマを
何とかして 探ってみたいと考えています
熊本のちょんかけコマとの共通点として コマの加速のやり方が同じ事がありますが
コマの形と 最初の回転の始め方が違います
熊本のコマが16cm程度と大きくて重いので より コマ自身の回転率が 初動でつけやすく
勢いもなかなか落ちにくいから 回転を維持するのも技術的に 楽です
しかし 伊予・愛媛のちょんがけコマとなると
コマが平均で10cm弱 高度な技術者だと 最近喧嘩コマで量産されている
ブリキコマで回せてしまう人もいますが
私など 超初心者は 軽すぎては とても回す事も 維持ももちろんできず
基本的に コマ自体に重さを付加した 鉄輪を巻いた木のコマで 挑戦するのです
本当に難しいコマです
最初などは何回も練習するうちに 自分が左回転しながら コマに加速をつけるので
目が回ってしまって大変でした
小さい頃から ゲーム機やテレビなどまったく無かった世代の人は
山の中でこのちょんがけコマを遊んで 隣の村まで対戦に行ったり
技術比べで 大人になってからも
同じコマを遊ぶ人同士が 神社や寺の境内などで対戦したりして
子供に教えるというよりは 自分の技術の高さを誇示したくなっちゃうみたいでした
非常に覚えるのが困難な遊びなので
いくつになっても技術が衰えないし
情熱を持って コマを語る事ができる方が
ちょんがけコマの愛好家さんには多いようです
あちこちで 熊本の愛好家さんや 大学の先生などが
普及目的の 大会を開いている様子で
熊本のちょんかけ独楽の方は 知名度がすごく高くなりました
何とか 愛媛の方も 形を作っておきたいなと思っています
まとまりを 作っていかないと 出来る方が 高齢なので
時間が有りません
ネット無縁の世代だから 葉書と手紙でしなくちゃいけないのが 本当に大変…
まだまだ 頑張らないと 家庭と亭主のかわせみの仕事と 曲独楽と こういうことの
並行作業は とても大変です
とにかく 今日は もう 寝かしてください…
確定申告の徹夜明け、久しぶりに寝不足をごまかす為、
鏡に向かって2分で化粧をしている時、
テクマクマヤコン。
私は
変わった物にお願いをしてきた。
例えば「人」の字を手のひらに書くマジナイが、舞台に立つ前の物としては有名なやり方だけれど、
私はそういう時、
近くにある物に、願をかける。
このあいだは、飛んでいるハエだった。
でも、ハエにお願いするのじゃなく、実際は先輩芸人や身内を思う。
緊張を解くために、子供の頃に覚えたのを応用していたら、結局こうなった。
何も隠しているわけじゃないから、言っておくけれど、
私が幼稚園の時、保育参観日に給食の挨拶をする「お当番」が回ってきた。
「それではみなさん、めしあがれ。」
このひとことを、友達と二人で合わせて言わなくちゃいけないし、
いつ言ったらいいんだろうとか、
うまく覚えて合わせられるかという、妙な緊張感でいっぱいになっちゃって。
今でも廊下の弁当の保温機やら、床の色まで思い出す位、エライことだった。
そのひとことを言うために、私は生まれてきました状態。
だから、言ったとたんに人生が終わっちゃったのね。
「みなさん、めしあがれ。」ジャーッ
もらしました。
我慢してたのを忘れてたので、一気に解放されて。
園児のともだちは、全員気がつかず。
でも、先生に泣きながらパンツとタイツを貸してもらって着替えさせていただき、
家では父に「みなさんめしあがれ、ジャーッ」と繰り返し言われ、
はっきりと、このジャーッ、こそが、大きな人生の転換でしたね。
だから、大切な事は親に言わないし、
誰にも見せずにひとりで立ち向かうもんだ、と思ったわけで。
限界まで緊張して、どうしたらよかったのか考えたり、
時間を計ったりもしました。
人体実験です…
でも、江戸の昔から、いや、もっと古い時代、
日本は物に意思を感じ、
擬人化し、
大切にしてきました。
だから、私には、舞台で使う道具は身体の一部であり、
簡単に買った道具、としては扱えなくなります。
お互いに信じあう仲間です。
このコマ、曲独楽を使って、また仲間を増やしてみたいな、と思います。
古典というと 皆さんはどんな印象を持つだろうか
いつも同じ事をしているという感じだと思うけれど
私にしても入門当初は経験が無いわけだから
ほとんど素人同様のお粗末な新人であった。
そのお粗末さんが、いかにして今の図々しい三増巳也に
変容していくのか、その過程を読んで貰っても
何一つあなたの人生に良い贈り物などできないので、
本当なら芸人の私は、いきなり割愛してしまうのである。
でも、このJunkStageコラムを担当している皆さんの姿が、
そのコラムを通じて親近感を憶えるまでになるのは、
あえてそういう自分にとって最もつまんない自分の事を、
きちんと書いているからだと思うので、
Junkerな先輩達に倣ってみたい。
新人の時ほど情けない時代は無い、と私は思い出す。
芸の現場では、すべてにおいて先輩の意見を聞くのが
慣例というか、日本の芸の社会ではそれも当然という
極めて特殊な事情がある。
そのことについては、追い追い書いていくつもりなので今回は見送るけれど、ともかく情
けない事この上ない。
池袋のデパートの正月イベントで初舞台の緊張を経験、
一緒に出演していたマジシャンの息子さんが今は活躍する時代になったくらい、ずいぶ
ん前だけど、あの緊張感は忘れられない。母親と舞台に立った、ごく短い間だったから、
心温まる源氏ファミリーでのデビューができたのは、うれしい事だった。
情けなさを経験するのは、それ以降の独りで務めた舞台での事。
性差というのは、私にとってとても大きな影響力を持つ人生の問題点なのだけど、さら
っと書く筆力が私にはもちろん無いから、しつこく何回もこれから出てくる事をお断りして
おかなくちゃいけない。
お嬢ちゃん、である。
身の毛もよだつ、お嬢ちゃんであった。
とにかくそういう楽屋での呼び名がついて回った
だいたい当時、1990年代は、芸の魅力を一般の生活をしている方たちが経験
する機会すらなかったからだと言えるから、無理も無いけれど、20代の女
性が芸をしているかというと、私以外には当時は10人も居なかった。
楽屋では40から50代が中心なので、先輩が親しみを込めて呼んでくれる、
お嬢ちゃんになるしかなかった。
私にとっては、呼ばれるたびに総毛立つ鳥肌芸人の新人時代を、今では一切触らなく
なった南京玉すだれと共に過ごした。
はっきり言って、これだけだったら芸をする人としては、その表現の芯の部分において
壊れたろうと思う。
技術的な制約があまり無い芸なので、演じる側の思う事をそのまま乗せていって、作り
上げていく舞台。
お嬢ちゃんに甘んじて、そういう芸で通しても良かったはずだし、それが一番世渡り上
手な方法だ。
若いからメディアもすぐに取り上げるので、こんだけで出ちゃっても、何ら困るはずはな
い。甘い甘い誘惑は、これのみでなく、色んな場所に転がっている。私は女だから、男
にとっての誘惑とは無縁だけど、落語でいうなら三道楽煩悩さんどらぼんのう、酒、女、
金の対極、酒、男、金だろうか。
とにかく新人は、あらゆるところで試される。
甘い誘惑で釣り放題なのだった。
その中でも一番難しい事、飲みに行こうよ攻撃、これがもっとも多い。
確かに一般的に考えたら、飲む席での社交は欠かせないから、いい事なのだけれど、
私にとっては毒だった。酒は飲めないほうなので、特にそう思うのは仕方ないと思う。
父が飲めないから、体質的にも酒の席で社交が可能なお嬢ちゃんではいられるはずも
無く、ぜんぜんお付き合いしなかったわけじゃないが、ほとんどお断りした。
しっかりした理由が、実はある。
体を使う曲芸、太神楽、曲独楽、その先輩が必ずアドバイスしてくれる事、
酒は飲むな。
私も父からそれを聞いていたから、曲独楽入門前の大事な今、動かなくなったら大変な
ので、一切飲まないお嬢ちゃんとして、新人の源氏うららで2年を切り抜ける事が出
来た。有り難い忠告を頂戴できた私は、やはり父の恩恵を受けている運の
良いデビューができたわけだ。常に酒を飲んで曲芸を長くしている人を、
私は見た事が無い。こういう忠告をしてくれた現場の先輩は、戦争さな
か、そして何でもありの戦後の芸の混乱期を見た上で、若い人にあえて苦
言・金言をくれる。でもみんながそういう恩恵には預かれない。
身内じゃないから、というのが理由である。
私の場合、源氏太郎の娘である事を、源氏うららという芸名で知る訳だか
ら、「タロチャンのトコの、ああ、大きくなったんだねぇ」ってな事で、
最初は怖い印象の大師匠が、色んな父の失敗談やら、母との楽しい話な
ど、私が知らない話をしてくれたり、楽屋では本当に歓迎して頂いた。
酒をいつも飲んでいる御大も、もちろんいるのだけど、物まねだったり、
漫談だったりして、体を使う芸ではなかったから、長い現役を目標にする
なら、酒は飲むな、との言葉は信憑性のあるものだった。
父も82歳だけれど今でも2000曲のハーモニカ演奏はできるし、皿
は回せるし、ウソだと思うなら浅草の東洋館という元ストリップ小屋
の寄席に毎月10の付く日に出ているので見に行ってちょうだいな。
そんな風に、私は酒の席を付き合わないつまんない若手をまっしぐらに、
真面目にデビューした。
…実は遊びは既に済んでいた。
要するに、遊びの目的が伴わないから酒の席が苦手なので、ケチなのである。
まったく素人という時期を楽しむ為に、初舞台を踏む前の半年間、私は遊び納めを律儀
に済ませていた。
当時追っかけに近いファンだった歌舞伎俳優の中村吉右衛門丈に会うために、「鬼平犯
科帳」収録中の京都の撮影所まで行ったり、対談がある舞台公演も結構観に行った。
その時に観た中村芝翫丈の道成寺の舞踊の凄さ、今でも忘れない。
静かに踊っているだけなのに、妖気が感じられる物だった。蛇の精に変わってしまう役
柄だから、劇中ではよくわかるけれど、踊りだけの舞台でその表現ができる事、当時多
分絶好調だった芝翫丈の芸の凄さを目の前で見られた幸せ者である。
私は、そういういい勉強をさせてもらう一方で幼稚園から一緒の友人と連れ立って米米
クラブのファンツアーでハワイで遊んだり、という調子であったけど、ガチガチの銀行員時
代が長かったから、いい経験であったかなと今は思っている。
ああ、書いていて面白くない。
次回はちゃんとした事を、やりたい事を、書いてみたいのよ。
読んでくれてありがとね。