店に入り天ぷら蕎麦を注文する。温かいお茶をすすりながら店内を見渡すと、僕の他には老人が一人、熱燗をちびちびと飲んでいる。明らかにゲレンデ目的ではない格好。店のおばちゃんを呼びつけては、
「今日も繁盛だのー」
とか言いながら大声で笑っている。
「昼から酒なんてのんびりしてんな」
心の中で呟きながら、僕は煙草に火を点けた。
老人が僕に話しかけたのは、天ぷら蕎麦を二口食べたときたっだ。
「兄ちゃん。ここへは何しに来た?」
「友達とスノボーをしに来ました」
「嘘だろ」
僕は少しムッとしながら応える。
「なぜ、そう断言できるのですか」
老人は馬鹿にしたような目つきで僕をなめ回すように見る。
「こんな晴れた昼間にスノーボードを持っていない。ましてやジーンズ姿じゃないか」
そう指摘されると、僕は何も言い返せない。
「わしの勝ちじゃな」
黙り込んでいた僕にそう言い、老人は笑い声を上げながら熱燗とお猪口を一つ追加する。僕はさっさと店から出たくなり、蕎麦を一気に流し込む。しかし、僕が蕎麦を食べ終えるよりも早く、新しいお猪口が僕のテーブルに置かれてしまった。
「嘘つき君に」
老人はニヤニヤしながら熱燗を飲み干す。気付けば、老人は僕の向かいに席を移動していた。
僕は早く帰りたいという雰囲気を前面に醸し出すよう努めたが、老人は一向に気にする様子がない。店のおばさんも、ようやく自分の仕事に戻れたことにホッとしているのか、僕をフォローする気はさらさらないようだ。
「どうせ行く当てもないんだ」
そう思った僕は、半ばやけになってお猪口に注がれた熱燗を飲み干す。
「なんだ。兄ちゃんいける口かい」
老人は嬉しそうに顔の皺を寄せ集め、お猪口に注ぐ。僕は間髪入れずにそれを飲み干す。普段は特に意識しない鼓動の音が、こめかみの辺りで妙にハッキリと聴こえた。
「ところで・・・・・・」
熱燗をチビリと飲みながら老人が口を開く。
「兄ちゃんはなにしに雪山へ来た」
僕は酔ってる状況から昨夜のやり取りを思い出し、
「温泉にきました」
と言った。
「そんなもの、この辺りにはありゃせん」
苦笑しながら老人は言う。
「では、温泉はどこまで行けばあるのですか」
「兄ちゃん、わしの質問をちゃんと聴いてるのか」
一瞬、僕は動きを止める。
「わしは、兄ちゃんが何しに雪山へ来たのかを聴いてるんじゃ」
再度言われた老人の一言に、「温泉も口実の一つに過ぎないことを見透かされている」ふとそんな気がした。そう思うと、言われのない罪悪感と妙な焦りを感じはじめる。他にもっともな言い分を考えたが、どれもいまいちシックリとこない。
「分かりません」
僕の出した結論は、この一言だった。
老人は熱燗を注文し、僕をまじまじと見る。僕の中に、まだ出していない嘘が残っているかを探るように。
「別に説教をする気ではないんだが」
新しい熱燗を僕のお猪口に注ぎながら老人がそう言い始めたとき、僕は誰に言われたわけでもなく姿勢を正していた。
「持て余した時間をどう潰したって良い。それは個人の自由だし、若者の特権じゃからな。ただ・・・・・・」
老人は眼を細めて熱燗を飲む。
「出会いを無下にあつかってはいかん。例えそれが、こんな飲んだくれジジィとの出会いでもだ」
「すみませんでした」
僕の適当な発言に老人が怒っているのかと思い、そう言って相手の顔色を見る。
老人は、軽くため息をつき話しを続ける。
「別に、兄ちゃんに謝られる筋合いはない。わしはただ、若さを上手く活かすアドバイスを贈りたいんじゃよ。おせっかいな話しなんじゃが、わしの後悔を、若いもんが繰り返すのは見たくないんじゃ」
「はい」
アルコールが回り、頭が若干痛いのを感じながら僕は言う。
「失礼ですが・・・・・・」
好奇心を抑えきれずに言葉が出る。
「おじいさんの後悔ってなんですか」
老人は再び僕を眺め、熱燗を飲み干す。
酒を含んだ口元をゆっくりと左右に動かし、鼻で息を吸い込みながらのど元を揺らす。
その仕草は、日本酒を心の底から味わっているようにも、自身の深いところへしまっていた過去を呼び起こそうとしているようにもみえる。
長い沈黙を守る老人を前に、僕は期待と後悔を交互に感じていた。
「別れが少なすぎると、本当に何も残らないということじゃ」
老人はそう言って、僕をみた。正確に言うと、僕の目元あたりをみていたが、老人がみつめようとしたのはおそらく僕ではなかったと思う。
「こだわりすぎたんじゃ、わしは。深い関係というものに」
「それは、なぜですか」
「環境のせいかもしれん」
そう言って、老人は熱燗を持ち上げ僕のお猪口になみなみと注いだ。
「わしは工場で働いていたんじゃ。一日中、朝から晩まで。部品と部品を溶接し続けるのがわしの仕事じゃった。パーツを繋いでいるのに、わしは誰とも話しもしない。作業中は危険防止のマスクをつけておるから、休憩時間に誰が隣にいたのかすら分かりゃせん。孤独じゃった。大勢の人が一つの場所にいるのに誰とも関わりを持たないことは。だからこそ、わしはおっかちゃんを心から大事にしたんじゃ。この世の中でおっかちゃんだけが、唯一の心を開ける相手じゃったからな」
老人はゆっくりと、噛み締めるように言葉を口にした。
「おっかちゃんと一緒にいれれば、他のことなんてわしには関係のないことじゃった。人生とはそういうもので、みんな、同じ想いで生きているのだと思っておった。おっかちゃんも。しかし、おっかちゃんは違った。おっかちゃんは、わしとずっと二人でいることだけが幸せとは思っていなかったのじゃ。わしは頑固じゃから、もしもおっかちゃんの素直な気持ちを言われても、おそらく聞く耳を持たなかったじゃろう。それを知っているから、おっかちゃんは突然いなくなった」
僕は飲みかけたお猪口を思わず戻し、再び身動きが取れなくなってしまった。
「もちろん、はじめはおっかちゃんが誘拐されたか、はたまた大きな事故に巻き込まれたかと思った。何度も警察に捜査願いを出し、わしも仕事以外の時間は常におっかちゃんを探し回った。半年後、おっかちゃんから手紙が来て、わしは全てを知ったのじゃよ。おっかちゃんは元気に、わしの知らないところで暮らしているとな。大勢の人と楽しく生活を送っているとな」
そう言って、老人はお猪口に残っていた日本酒を飲み干した。
こんなとき、どんな言葉をかけて良いのか分からず僕は黙っていた。
「おっかちゃんがいなくなって気がついたのじゃ。わしにはもう、何も残っていないとな。何度もなんども心の中でおっかちゃんを責めたりもしたが、何も残っていないことに変わりはなかった。わしはこだわりすぎたのじゃ。おっかちゃんとの幸せな日々に」
老人が熱燗を持ち上げようとしたとき、僕は反射的に手を伸ばし、老人の手を握りしめた。理屈ではないなにかに突き動かされて。そして、もう一方の手で熱燗をつかみ、老人のお猪口になみなみと注いだ。
「わりぃね。兄ちゃん」
老人はそう言って軽く会釈をした。僕はしばらく老人を見つめてから、深々と頭を下げた。
店を出たときには、日がすっかり傾いていた。気温が下がっているためか、蕎麦屋へ来たときよりも歩きやすい。旅館に戻った僕は、その足でお風呂場へ行く。半身浴をしながら、酔いをゆっくりと冷ます。
部屋に戻ると、友人たちが好奇な眼で僕の帰りを待っていた。
「温泉に、良い女はいたか」
僕は首を横にふり
「ごめん。温泉見つからなかった。お前らは?ゲレンデで出会いがあった」
友人たちは笑いながら
「んなもん、あるわけねーじゃん」
と言った。
「じゃあ・・・・・・」
そう言って、僕はスノーボード用のウェアーを取り出す。
「これからナイターで滑らねぇ?」
「はぁ、俺ら今戻ってきたばかりだぞ」
「そんなの関係ねぇよ。ナイターで、一緒に飲んでくれる女の子つかまえようぜ」
「ったく、面倒なヤツだな。お前って」
そんな言葉を浴びながら、僕はゲレンデへ行く支度を済ます。文句を言いながらも、友人たちも準備を始める。
「良い出会いがある気がするんだ。今日は」
そう言って、僕は一足先に部屋を出る。
旅館の外から見上げた空には、白い月が映っていた。
この物語はMogwai:「Happy Songs for Happy People」より想い描いてみました。
僕らは毎年、雪が降り積もる季節になるとゲレンデへ行く。
理由はいたって簡単で、スノーボードの爽快さと彼女という存在を見つけるためだ。もっとも、ゲレンデに行き始めてから3年、後者については何一つ実現されたことがないのだけれど。
だからだろう、友人たちは「今年こそは・・・・・・」と、例年以上に気負っていた。
一方僕は、正直なところスノーボードにも女の子との出会いにも興味が湧かない。それは僕に取って、どちらも暇つぶしの延長線上の話しでしかなかったからだ。
そんな調子でゲレンデへ来たこともあり、二日目の夜、部屋で飲み明かしていた僕は思わずある宣言をしてしまった。
「ボードも楽しいけど、今までどおり彼女なんて見つかんねーよ」
友人たちはちょっと考え込んだ顔をして言う。
「ほう。じゃあお前、どこで彼女を見つけてくるワケ?」
「・・・・・・。温泉だ」
その場しのぎで言った一言が、僕の明日を窮地に追い込む。
「よし!じゃ、俺らはゲレンデで見つけてくっから、お前は温泉で女の子をつかまえてこいよ」
「わかった。後悔すんなよ」
この近くに温泉があるかも知らなかったが、後悔の念とは裏腹に言葉が止まらない。
その後の会話は、僕の耳に全く入ってこなかった。
降り積もる雪に囲まれて三日目。僕は今、部屋でぼんやりと窓の外を眺めている。白い電線。チェーンを巻き付けられたタイヤの跡。屋根から窓ガラスに向かって凍りついたつらら。太陽の光が雪に反射し、地域一帯が新製品のように見える。しかし、それは単なる錯覚で、雪化粧した民宿が数件立ち並んでいる以外に、目新しい発見など何もない。
テレビに表示されている時刻は11時5分。ゲレンデ行きの送迎バスは、おそらく夕方まで走らないだろう。そうなると、これからの数時間はあってもなくても変わらない。つまり、いつも通りの日常だ。
窓を離れ、食べかけのポテトチップスを口に入れる。舌にピリッとくる塩味と、微妙に噛み砕けない感触。おそらく、しけっているのだろう。携帯電話を開き、メールを確認する。この三日間、新しいメッセージは届いていない。電話を少し乱暴にしまい、僕は再び窓を眺める。つららの先から、水滴がポタポタと垂れ落ちていた。
お菓子をつまみ食いしたら逆にお腹が空いてきた。思えば、朝食も食べていないのだ。パジャマ代わりのジャージを脱ぎ、パーカーとジーンズ姿で食堂に向かう。当然ながら、僕のような宿泊客の姿はなく、民宿の従業員であろうおじさんとおばさんが隅のテーブルで食事を取っている。決して気まずい雰囲気はないが、無言のまま、お互い目も合わせずに黙々と箸を動かしている姿は、見てはいけないものを見てしまった様な罪悪感を感じさせた。
仕方なく、僕は外に出る。太陽の光は更に強さを増していて、眼を開くのが多少辛い。坂道をゆっくりと下りながら、行きのバスで見かけた蕎麦屋を目指す。足に染み入る雪解け水。
「いくらゲレンデに行かないとはいえ、スニーカーは無謀だった」
多少後悔したものの、蕎麦屋の看板が見えた頃にはそんな感情もすっかり忘れ去っていた。
この物語はMogwai:「Happy Songs for Happy People」より想い描いています。
何をすれば自分の意思を動かせるのか分からない僕は、この現状に正直焦っていた。
「幼稚園児ですら、身の丈にあった人生の楽しみ方を知っているのに、僕は一人では何もできない」
「常に選ぶことを知っていれば、会社での競争にも勝てるのだろうか」
「もしも僕に、今までずっと彼女がいなければ、とても前向きな生き方をしてきたのかもしれない」
自分を何かと比較する。そう、思えばこんな考えすらも久しぶりだ。
どうやら、一つずつ取り戻すしかないらしい。皆が当たり前のように持っている意思を、ウォーリーを探すようにじっくりと観察しながら見つけ出す。野放しにしていた感覚は、僕の想像よりも遥かに遠くへ行っているのだから。
比較することは自分を確かに前進させたが、今一つ実感が掴めない。おそらく、頭の中でぼんやりと回想しているだけだからだろう。
手応えのある未来とはなにか。
そこで思いついたのは、勉強を始めることだった。
書店に行き、僕は参考書を手当たり次第購入する。エスカレーター式とはいえ、大学を卒業している僕であれば、大学受験レベルならすぐに習得できるだろう。
本屋の店員は、明らかに会社帰りのサラリーマンが参考書尾を買うことに不思議そうな目を向ける。その違和感が、僕にはとても心地良かった。おそらく、それが人生を自分で選ぶということだから。
家に着き、早速参考書を広げる。
見た記憶のある英単語、耳にした覚えのある数式、忘れかけていた歴史上のできごと。
それらは実に新鮮で、僕はますます興奮した。
机に座ってから三時間。僕はひたすら参考書を読み進めた。しかし、それは字面を追う作業に他ならず、実際には何一つ頭に刻みこまれていない。世間では「時間のムダ」と呼ばれるものに分類される取り組みだ。
「今は腹が減っているし、今日は少し残業もした。勉強の仕方を忘れている僕には、いきなりハードワークすぎたのかもしれない」
僕は思いつく限りの言い訳を現状に並べ、机を離れる。
それでも、大きな一歩を踏み出せた気がしたおかげで、久しぶりに夢をみることもなく眠りについた。
参考書は、購入してから一ヶ月かけて読破した。1日三時間、休むことなく机に向かい、うる覚えだった言葉を浴びせ続けた。誰に頼まれたわけでもなく、自らの意思で、ひたすらページをめくったのだ。
しかし、ただそれだけのことだった。
僕が次に何をすれば良いのか、参考書には一つも書かれていない。
読み終えてみると、結局は一ヶ月の暇つぶしに他ならなかった。
「再び、何もない日が訪れる」
参考書を背に、僕はその事実に恐怖を抱く。抜け出すことが出来そうにない時間。その結果を前に、僕はあといくつの障害を乗り越えなくてはならないのだろう。
頭の整理がつかぬまま、ひきっぱなしの布団に入る。
当然、寝付きも悪い。
薄い月明かりが、カーテンをすり抜け侵入してくる。
光を見つめながら、頭の中に思い浮かぶのは、これまで多くの時間を共有してきた女性たちのことだった。
月明かりが足下から顔へ移動するまでの間、僕はひたすら一つの言葉を思い出していた。
「あなたといると、私は強くなれた気がするの」
久しぶりに参考書を読んで解ったことだが、何度も言われていることは、おそらく大切なことなのだ。
そこで、幾度となく言われ続けたこの言葉の意味を、今更ながら考えてみる。
僕は彼女たちに対して、何一つ勇気づけるようなことを言ったことがない。同様に、とてつもない危機から救ってもらったこともない。それなのに、何故、こうした言葉が出てくるのだろう。思い返せる行動はとても平凡で、彼女たちが好きなように振るわっているのを、隣で見ていただけなのに。
閉じていた眼を微かに開く。部屋は以前として薄明るい。眼をかすめる光に若干のストレスを感じたが、それは仕方がないことだ。そう、いつも僕は、肯定も否定も口にせず状況を受け入れる。
「あなたといると、私は強くなれた気がするの」
ふと思った。
彼女たちの言葉は、彼女たち自身に言っているのではなく、
実は僕の立ち振る舞いに対する回答だったのかもしれない。
自分から行動を起こすのではなく、何も言わずに彼女たちの側にいる。僕はそういう人間だ。
何人かの女性が僕を愛してくれた唯一の理由がそこにあるのなら、これまでの生き方を否定するべきではないのだろう。
人を太陽と月に分類することができるなら、僕は太陽に応じて形を変えたり明かりを帯びる月だと思う。太陽になりたがる人が多いと思うが、僕の性格は太陽とは似つかない。けれど、皆が無理して太陽にならなくても良いのだ。月でいること。月でい続けること。それが、僕自身であることならば。
気がつくと、部屋の光が強くなっている。
おそらく、あと30分もすれば、朝のニュースが流れる時間だ。
僕は眠るのを少しだけこらえ、新たな2年サイクルを始めるためのメールを打った。
この物語はRADIOHEAD:『The Bends』から想い描いてみました。
僕の12年を振り返ってみたいと思う。
高校生のときから常に、僕の隣には彼女という存在がいた。
相手が変わることはあっても、自身のスタンスに特別な変化はなかったように思う。
「あなたといると、私は強くなれた気がするの」
そのときは分からなかったけど、これまで付き合ってきた6人の女性から共通して言われたこの一言は、僕の特徴を見事に言い当てていた。
彼女たちの好みが僕の日常を占め、行きたい場所や店は全て、僕の判断ではなかった。
付き合い始めてから1年はとても喜ばれ、翌年から少しずつ、苛立ちや反感を買うようになる。
2年単位で出会いと別れが訪れ、新しい相手と代わり映えのないサイクルを迎える。
6人目の彼女と別れたあと、僕は12年ぶりに一人になった。
感傷的な想いに耽ることもなければ、無理な意気込みもない。自然体の自分は、彼女の存在の有無に関わらず健在していた。
一般的な見地からポジティブな今後を展望するなら、僕は自由になったのだ。何にとらわれることもなく、全てが自分次第の生活。贅沢な生き方が、いま、目の前に広がっている。
しかし、それはあくまでも世間一般の一意見に過ぎない。
長いこと一人でいることを忘れていた僕は、
気付けばすっかり何者でもなくなっていたのだ。
恋愛に全てを捧げていたわけではないが、僕は完全に依存していたらしい。
それは一人でいることの寂しさなんて可愛いものではなく、もっと深刻な問題だった。
何がしたいのか、何をするべきなのかが分からない。
つまり、頭と心の使い方をすっかりと忘れてしまっているのだ。
「誰かを好きになることはある種のギャンブルだ」
僕が僕自身へ関心を寄せざるを得なくなったいまになって、そんなことを思う。
これまで多大な時間をつぎ込んだが、結局は何一つ残っていないのだから。
ギャンブル運のない僕が長いスパンで失った機能。
それを通り戻すには、どの位の歳月が必要なのか。
いまの僕には、溢れ出る問い全てが答えまで辿り着けない。
ただ一つ、目に見える変化もあった。
一人でいる時間が増えてから、何をして良いのか分からない僕は着実にお金が貯まり始めた。
それが良いことなのかは分からない。本来お金とは、使うべき目的があってこそ価値が生じる。今、僕が所有しているお金は持ち主と似て完全に停滞している。停滞とはつまり、世間の流れとの差が広がっているということ。
近年感じることのなかった財布の重みは、僕をあざ笑っている気がした。
この物語はRADIOHEAD:『The Bends』から想い描いてます。
一人暮らしの家に戻り、僕は今後を考える。
すぐに新しい職場へ移ることを拒否した僕に、どんな選択があるかを考える。
結論が出ないまま、1週間が過ぎた。そんなに潤沢ではない貯金を少しずつ切り崩し、テレビを観ながら時が過ぎるのを待つ暮らし。それは決して悪いものではなかったが、明るい未来へ向かうには停滞している。
「少なくとも、このままでは良くない」
そこで、僕はテレビを捨てた。パートナーのように観続けていたテレビだが、失ったところで悲しみもなければ後悔もない。壁際に突如現れたスペースと弄ぶ時間が増えたことに、若干の喜びさえ覚えた。
「この新鮮な感覚をもっと深く味わいたい」
そう思った僕は、部屋にあるモノの必要性を吟味し始める。今の僕に不要なものを確かめながら、ノートにリストを作り始める。
「仕事を失った僕に、時間という概念は必要ない」
不要リストに入った一番目は時計だった。炊飯器、ビジネス書、旅行カバン、不要リストが着々と埋まっていく中、気がつけば、今の僕になくてはならないものを探す方が困難になっていた。
それでも、この空間から何かが消えていく過程は、僕にある種の爽快さと活力を生んだ。おそらく、メタボリックな身体から脂肪が減っていくのも、同じような感覚なのだろう。
しばらくして、僕は部屋を片付けることだけに満足できなくなり、携帯電話を捨てた。
「新しい場所へ行くには、エンジンに負荷がかかり過ぎているんだ。分かるだろう?」
携帯電話で最後に会話をしたとき、僕が言ったセリフだ。
相手は確か、年金暮らしの母親だったと思う。
携帯電話を失ったことで、人の気配、温もりが僕の生活から急速に消えていった。
計算外だったのは、通信手段を失くしたことで「寂しさ」が生まれてしまったことだ。寂しさを捨てるために新しい職場を探そうと考えたこともあるが、それは不要なものが増えることになりかねない。僕がするべきことは必要ないものを削ぎ落とすことであり、新しい未来に向かうための指針を見つけることなのだ。
「僕はもっと、捨てることの本質を理解しなければいけない」
強く念じ、自分を奮い立たせる。しかし、感情は余計な傷口を広げる。
部屋を整理することで、今更ながら、ふと気づいてしまったのだ。
「会社にとって、僕は単に不要なだけだった」と。
「事実が分かったところで、すぐに何かが変わるわけではない」
僕はそう言い聞かせ、不要リストに入れたものを捨てることに対し、これまで以上に精を出した。
整理を始めてからどのくらい経ったのだろう。時計もカレンダーも捨てた僕には、正確な日付が分からない。
不要リストには、1ダースの缶詰、アラスカの自然を収めた写真集、寝袋代わりに使用しているアーミージャケット、カーテン、預金通帳が残っている。
必要ないものを捨てることにしてから大分経つのに、この部屋にはまだ、不要なものが存在しているのだ。
「いい加減、新しい場所へ向かわなくては」
伸びきった髪の毛をかきあげ、僕はそんな思いを抱く。ただ、問題は、新たな一歩を踏み出すべき道が見えていないことだ。このままでは、不要リストを全て片付けたところで何も変わらないだろう。もっと、自分の意志を突き動かすための強烈な動機が必要だ。
考えあぐねいた結果、思い切ってカーテンを開けてみる。部屋に強烈な光が差し込む。
「あぁ、今は昼なんだ」
急激な光を受けたことで覚えた目の痛さに耐えながら、僕は窓の外を見続ける。
目の痛みがひいていくと、忘れかけていた日常に僕自身が溶け込んでいく。
改めて、僕一人の意志が日常に与える変化は何もないことを知る。
そして、僕はカーテンを外し床に広げる。その上に、1ダースの缶詰、写真集、預金通帳をのせて包む。ジャケットを羽織り、片手にカーテンを持つ。
不要リストにあった項目を全て埋め、玄関へ向かう。くたびれたスニーカーを履き、ドアを背にして部屋を見渡す。不要リストが書かれたノート以外、この部屋には何もない。
しばらく立ち尽くしていた僕は部屋に戻り、不要リストの最後に自分の名前を付け足す。新たに記入したばかりの不要項目に横線を引き、ノートを閉じる。
「僕にはまだ、新しい場所が見つからないけど、少なくとも、部屋の整理だけは完璧に実行できたのだ」
安らかな思いに満たされながら、僕は部屋を後にした。
この物語はDINOSAUR Jr:「HAND IT OVER」から想い描いてみました。
この部屋も随分、殺風景になった。
そのきっかけは数ヶ月前のことだ。
「会社を動かすエンジンに負荷がかかり過ぎているんだ。分かるだろう?」
以前勤めていた会社の上長はそう言い、僕の首を切ることでスリム化を図った。
その時は、将来に対する絶望よりも、上司への尊敬の念の方が強かった。会社のために苦渋の決断ができる彼を、僕は強い人物だと思った。
上司の提案を素直に受け入れ、僕は会社を辞めた。同僚は僕を哀れみな眼差しで見ていたが、僕には彼らの感情が理解できなかった。退社手続きは極めてスムーズに進み、上長の勧めから2日後には会社と別れを告げた。会社に勤めてから6年間、最後の大仕事を終えた僕の心はとても澄み切っていた。
退職後、僕は職業安定所へ向かった。建物の中は多くの人が集まっていたが、そこに笑顔や活気はない。新しい未来を掴み取るには頼りない空気。そんな雰囲気を一層しようと、僕はあえて大声を張り上げてみる。
「新しい職場を探しにきました!」
だが、僕の思いは誰にも届かず、職員には「すみません、もう少しお静かにお願いいたします」と注意を受けた。
失業保険の手続きを済ませようと思いパイプイスに座る。同じ目的で来ているはずなのに、誰も寄り添おうとはしない人たち。
「ここにいる人たちはどんな未来を描いているんだろう」
「せっかく新しい環境が待っているのに、どうして元気がないんだろう」
数々の違和感が脳裏を掠めていたときに、一人の中年男が話しかけてきた。
「兄ちゃん、威勢が良いねー」
「そうですか?普通だと思いますけど」
「こんな時代に普通もクソもあるかってんだ。まぁ、兄ちゃんみたいに若いもんには、まだ未来があるかもしれないが……」
中年男はそう言って、持参していたお茶を飲む。
「僕は上長の命令で会社を辞めました。僕はそれを誇りに思っています。おじさんはどんな理由でここにいらしたのですか?」
僕の問いに中年男は目つきを変える。あからさまに嫌な感情がむき出しだ。
「俺の苦労なんて、兄ちゃんみたいなヤツには一生分かんねぇわ」
中年男はそそくさと部屋を出て行き、僕は黙って、その背中を見つめた。
職員に呼ばれ、僕は失業保険の手続きを済ませる。
「時間があるなら、仕事を探していってください」
そのように促されたとき、僕は咄嗟に「それは結構です」と答えた。職員は呆気に取られていたが、断ったにはそれなりの理由があった。
つまり、僕が上長の提案を承諾したときと同様、ここにいる多くの人が同じ選択をしたのなら、すぐに次の職場へ行くことは社会が意図するスリム化に反することになると思ったからだ。
「今、僕が社会のためにできることは新しい職場を探すことじゃない。しばらくの間、一人になって身を潜めることだ」
この考えに何の迷いも持たず、僕は職業安定所を後にした。
この物語はDINOSAUR Jr:「HAND IT OVER」から想い描いています。
和洋折衷な彼は、寿司とコーヒーを同時に食す。そのモダン過ぎる性格が実は好きだったりするのだけど、それを彼に言ったことはない。
現れるはずもない通訳はやはり来ないので、私はTVを消した。
「家族にも相手にされないような相談しても良い?」
「僕がいや、と言ってもするんでしょ?」
彼はそう言ってコーヒーを飲む。彼はいつも短い言葉しか言わないけれど、そこに何となく優しさが含まれているところも好きだ。私は「うん」と言って続ける。
「私のとりえってなんだと思う?」
「とりえがなさそうなところ」
「それ、どういう意味?」
「そのままだよ。とりえがなさそうなのが麻理のとりえってこと」
即答してくれるのはある意味嬉しいけど、このままでは禅問答になりそうなので、質問を変える。
「じゃあ、私の価値ってなに?」
「とりえがないところ」
なんてことだ!私のとりえは一瞬の間に「なさそう」から「ない」に落ちている。しかも間髪入れずに「何落ち込んでんの?」なんて言われるから、私はいよいよやり切れない。精一杯の力を込めて「別に」と言ったまま、黙り込む。まったく、私はつくづく重い女だ。
しばらく続いた沈黙を破ったのは彼だった。
「麻理、僕の価値ってなに?」
私はしばらく彼をまじまじと観察してみる。平坦な顔立ち、薄っぺらい身体、どちらかと言えば高い声質。どれも好きではあるけれど、それが彼の価値なのかは分からない。
「包容力があるところ」
私が出した答えは、それだった。
「どこが?」
彼はそう言って笑う。
「必要ないダンボールをいつまでもとっておくところ」
「それ、包容力じゃなくて、面倒くさがりなだけだよ」
私はまたもや困り果てる。これ以上、悩みを増やしたくないのに。
「でも……」
コーヒーの空き缶を弄びながら彼は言った。
「今ので、麻理が何を聞きたいのか分かったよ」
私は思わず身を乗り出す。彼は「そんなに目を輝かせなくても」と言って軽く笑った。
「麻理の価値は、思いやりだよ」
「なんでそう思うの?」
「僕が思い出せない俳優の名前とか質問すると、僕以上に一生懸命考えてくれるから」
「それは思いやりというより、分かるのに答えられない自分に悔しくて考え込んでるだけだよ」
「でも、結果的に思いやりじゃん」
私は急に恥ずかしくなり、座ったまま彼を蹴る。何度もなんども蹴って、抱きついた。少なくとも今は、家族よりも頼りになる彼が愛しかったから。彼は机代わりとは別の「生活に必要ないダンボール」に頭をぶつけ、かなり痛がっていた。痛がりながら「麻理、柔らかい」と言って、私の胸に左腕をつけたり離したりしていた。私はもう一度彼を蹴り、座りなおす。気がつけば、私も笑っていた。
布団にもぐり込んで寝る前に、ふと先ほどの会話を思い出して尋ねる。
「そう言えば、とりえがないことを、なんで価値があるって言ったの?」
彼は眠そうな声で
「それは、明日言うね」
と言って、すぐさま眠りについた。
彼の眠りは本当に深い。起きている間は常に何かをやっているくせに、眠るときはスイッチが切れたように切り替えが早いのだ。
私は答えを諦めて目を閉じる。
この質問も翌朝には忘れていると思うけど、それが暗記力に代わるとりえなら、それで良い気がする。
小雨の音を聞きながら、私は眠くなるまで彼の顔を撫でていた。
この物語はnow, now every children:「CARS」から想い描いてみました。
最近、物忘れがひどい。いや、確かに記憶はあるのだけど、それがすぐに思い出せない。
「ねぇねぇ麻理、ちょっと聴きたいんだけど『ゴーストワールド』に出てた青い髪の女優って誰だっけ?」
「うーんと、あの子でしょ?ほら、顔は浮かんでるんだけど……」
大学2年の後半頃から、こんな不甲斐ない会話が多くなった。
文系(正確には一夜漬けが得意な、いわゆる「暗記系」だ)の私にとって、この現状はつらい。高校生のときなんかはスラスラ出てきた言葉たちも、今はとっても奥手。まったく、暗記だけが、私の唯一のとりえだったのに……。
それでも、気づいた当初は「疲れているだけ」と思い特に意識はしなかった。もどかしさは募るけど、生活に支障をきたすわけでもないし、単位も問題なく取れた。けれど、そんな状態から半年以上たった雨ばかりの季節に、ふと疑問が湧いた。
「私の価値ってなに?」
別に人生を査定したいわけではないけど、一度頭に張り付いたその言葉は、私をどんどん問い詰める。
「これまで楽しく映画を観ていたあの時間はなんだったの?」
「初めてハワイの海で泳いだときの感動に意味はあったの?」
と、こんな具合。
私が過ごしてきた時間が思い出せない過去となるのなら、これから先、どんな時間の使い方をすれば良いのだろう。降り止まない雨を見ながら、私は、自分自身が得体の知れない生物に突然変異したような気持ち悪さを覚えた。
雨が、止まない。
私は必要以上に怖くなって、最愛の弟の部屋に入る。パソコンにヘッドフォンをつけ、知らない外国人ミュージシャンのライブ映像を観ていた弟は、私がドアを開けたことすら気づいていない。しばらく様子を伺い、映像が終わりそうな頃合いに弟の肩を叩く。弟は大げさに驚き、怒り始めた。私なりの気遣いなんてそんなものだ。機嫌が治った頃を見計らって本題に入る。しかし弟は「何かの病気だろ?」という、なんとも男らしい、冷たい一言で片付けた。私はますますやり切れなくなって部屋を出た。
翌朝、ふくよかな心と身体をもつお母さんにさり気なく相談しても、
「麻理、あんたお父さんに似たのねぇ」
なんて言われるもんだから、なおさらやり切れなくなってくる。
お父さん、DNAに不要なものまで入れないで!
こんなときこそ、家族の力だと思っていたのに、それは全くの見当違い。仕方なく私は、付き合いたての彼に相談することにした。「彼と会うまでの10時間、意味のない時間に耐えなきゃいけないんだ」そう考えると憂鬱になる。そして「こんな重い女は嫌だろうな」なんてことまで浮かんじゃうから、私は勝手に疲れが増した。
寿司屋のバイトを終えた彼は、土産箱(中身は賄い詰め合わせ)を持って現れた。
「昔の漫画に出てくる酔っ払いみたい」
そう言って、顔の高さで右手をフラフラ振ると、
「意外に古風だね」
なんて、よく分からない返事を返されるものだから、私のテンションは上手く上がってくれない。彼はそんな私にお構いなく、
「お腹空いた、帰ろう」
と言って、歩き始めた。その後ろ姿はやはり、漫画の酔っ払いみたいだった。
傘をさすかの判断に迷う小雨の中、私たちは自販でコーヒーを2つ買い、彼の家へ入る。
大学入学と共に上京してきた彼の部屋は、3年以上経った今でも、閉じられたままのダンボールがある。一度「何が入ってるの?」と聞いたとき「生活に必要ないもの」と言うので「送り返すか捨てれば?」と提案したが、答えは未だ出ていない。
彼は「生活に必要ない」ダンボールの上に賄いを広げる。なんとなくTVをつけ、若手お笑い芸人のコントを観ながら、私たちは賄いを食べる。TVに私と彼の会話を取り持つ通訳が現れるのを待つかのように、私たちは黙々と箸を動かした。
この物語はnow, now every children:「CARS」から想い描いています。
男はナイフを持ったままピクリとも動かない。吉岡は新しく用意されたキャンバスと俺を交互に見ながら、筆を素早く動かしている。
「描けたよ」
吉岡がそう言い、男はナイフをしまった。俺は自分がかいた汗で物凄い寒気を感じていた。吉岡は似顔絵を見せながら、とても楽しそうに解説をはじめる。
「観てごらん。きみは今、ちょっとでも動けばこの世とお別れという最悪の状況だったよねぇ。自ら命を絶つか、この先を信じてじっと耐えるか、そんな非日常の両極端に挟まれていたんだよ。僕が描いたの確かに桐谷くんなんだけど、正確には君じゃない。生死の岐路に立たされた生物のみが持つ美しさを描いたんだよ。だからねぇ、この似顔絵はプライベートというよりは、パブリックなものに近いんだ。標識とかと一緒だよ。みんなのもの。自分でいうのもなんだけど、とてもよく描けていると思わないかい?」
俺は生き延びたことを理解し、ようやく鼓動が正常の動きを始めたことを感じながら、唇をギュッと噛み締めた。強く噛み過ぎて、口元に温かい鉄の味がする。
今、心の大半を占めていたのは、殺されかけたことへの怒りではなく、その絵に映し出された美しさだった。
その絵は確かに、俺であって俺ではなかった。外見的に似ているかと言われれば、もっと上手く描ける画家がたくさんいるだろう。だが、吉岡の絵は奥行きの深さを感じさせる。カウンセラーに自分の全てを曝け出したときのように、内面が浮き彫りにされた感じだ。
「あんたは一体、何を描いたんだ?」
本音が思わず口をつく。
吉岡は面白そうに、
「君だよ。似てるだろう?刺激に飢えている寂しがり屋の感じが上手く表現されていると思わないかい?」
その言葉にハッとした。
吉岡の言う美しさの意味が、ようやく理解できた気がした。それと同時に、完全なる敗北感が押し寄せた。悔しいが、俺の絵には足りない要素が多すぎるのだ。
「そうかい。なら、あんたの死に怯える似顔絵を描けば良いってわけだ」
俺は悔し紛れにそう言った。もちろん、それが正解でないことを知りながら。
吉岡はそれを察してか、軽い笑い声を立てる。
「その答えは、きみが一番よく分かっているはずだよ、桐谷くん」
そして、
「さぁ、僕からのアドバイスはここまでだ。あとはきみが僕の似顔絵を完成させる日を待つばかりだよ」
と言い「続きは明日やろう」と言葉を残して部屋を去った。
俺は男に促され、何もない部屋へ連れ戻された。
「なぁ、聞きたいことがあるんだけど」
俺の言葉に、部屋を出ようとした男は振り向いた。俺は続ける。
「あんたらの本当の目的は何なんだ?」
「社長の似顔絵を完成させること。ただ、それだけだ」
「じゃあ、吉岡が納得する絵を描き上げるまで、俺はこの生活を何年でも続けろってことなのか?」
「そうだ」
男は扉の前で立ったまま答える。
「あんたら一体、何者なんだ?」
「お前には関係ない」
俺はフンと鼻を鳴らし、質問を続けた。
「頼むから教えてくれ。何もかもが不透明過ぎるんだ」
男はサングラスの位置を直し、静かに喋り出す。
「全てを知ることが、お前にとって何かを解決することにはならない。何度も言っているように、社長はお前に似顔絵を依頼した。その事実だけ理解していれば、ほかに何も問題はない」
そこで一息ついたあと、
「一つだけ。お前のお袋さんのことなら心配するな」
と言った。正直な話、俺はお袋のことにまで頭が回っていなかった。
「明日、朝食を持ってくる」
そう言って男は部屋を出た。思い返せば、男と初めてまともなコミュニケーションを取った気がした。
あれから半年は経っただろうか。俺は未だ、似顔絵を完成出来ないでいる。あれ以来、吉岡からのアドバイスはない。同じ日々が淡々と繰り返されるだけだ。だが、俺はこの仕事を投げ出す気はない。今の俺に必要なのは、おそらく観察だ。吉岡の全てを見極めなければ、絵で答えを出すことなんて出来ない。
そして観察を終えたとき、もしかすると、俺は吉岡を殺すことになるかもしれない。或いは、吉岡が衰弱していく様を描くことになるかもしれないし、痺れを切らした奴らが、俺を死に追い込むかもしれない。この部屋に来た当初に感じた、数時間先の未来も読めない状況は、今も全く変わってはいないのだ。
「お前は何も分かっていない」
そう、俺はまだ、何も分かってなんかいない。
親父に言われた言葉を心の中で反芻しながら、俺は穴の開いたキャンバスの山を眺めていた。
この物語はMUSE:「SHOWBIZ」から想い描いてみました。
男に連れてこられた部屋はとてもシンプルだった。室内で生活するための設備、ベッドとイスと電話。それ以外は何もない。だが、その無駄のなさはとても品が良く、悔しいが魅力的に映った。
「必要なことがあれば、電話の受話器を取れ。自動的に、内線が繋がるようになっている。社長の似顔絵を描いている以外は、この部屋で自由にしているが良い」
「心配されなくても、明日には似顔絵を描き終えているだろうよ」
「ゆっくり休め」
どうもこの男とは、コミュニケーションが成り立たない。俺は意地になり、答えやすい質問を投げる。
「あんたの服装、吉岡が選んだのか?」
男は振り返り
「お前には関係ない」
そう一言残し、ドアが閉じられた。
俺は黒い血の跡を丁寧に洗い流し、ベッドの上で仰向けに寝転んだ。打ちっぱなしの天井を見つめながら「こんな時のために、携帯電話と友達くらい持っておくべきだった」と思う。しかし、そんなことは後の祭りだ。今の俺に大切なのは、吉岡の似顔絵をさっさと片付けることなのだ。そして、この建物から開放された後に、これまでの態度を改めるなり、何度も殴りつけやがった男に復讐すればいい。
俺は両手を強く握り締め、鏡に映る自分をじっと見つめる。そして、ドアにイスを投げつけてからベッドに入る。イスは豪快な音のわりにどこも壊れていない。それが妙に腹立たしくて、上手く寝付けなかった。
男が朝食を運んできたとき、俺はすでに起きていた。男は転がったイスを起こして座る。しばらくの間、パンを喉に通す音が響き渡る。食べ終えると同時に、男は「社長が待っている」と言い、吉岡のいる部屋へ連れ出した。
「おはよう桐谷くん。快適な夜を過ごせたかい?」
俺は黙ってキャンバスへ向かい「昼までには終わらせるぜ」と答える。吉岡は笑い声を上げ「よろしく頼むよ」と言った。
「どんな表情を描けばいい?」
「いま、君が見えている角度からありのままを描いてくれ」
俺は筆を立て、吉岡に焦点を当てる。その姿勢はとても自然で、これまで何度もモデルを経験したかのようだ。
デッサンをしながら、俺は徐々に集中力を高めていく。吉岡は、同じ姿勢を保ったまま一言も発しない。この空間は気を紛らわすもの、音が一切ない。そんな贅沢を肌で感じながら描き続ける。
似顔絵が完成した時には、昼をとうに過ぎていた。俺は軽く溜息をつき、キャンバスの向きを変える。
「出来たよ」
吉岡は立ち上がり、似顔絵をまじまじと観る。その姿は鑑賞よりも点検に近い。
10分近く経っただろうか。吉岡はようやくこちらに目を向けた。
「桐谷くん、やっぱりきみには素質があるねぇ。とても良く描けている」
俺は首から肩辺りをほぐすように回し、いくら報酬を貰おうか考えていた。吉岡は話を続ける。
「ただねぇ、これでは駄目なんだよ」
その言葉に、俺は耳を疑った。
「今なんて言った?」
吉岡は寂し気な表情を浮かべ、
「残念だけど、こんな絵では駄目なんだ」
「なに言ってんだ!どこが悪いんだよ!」
吉岡は軽く笑い声を上げる。
「僕はたしか、圧倒的な美しさで描いてくれと頼んだよねぇ。そのことはきみも、しっかりと分かっているはずだよ。だけど……」
似顔絵を指差し吉岡は続ける。
「ここには無いんだ。その圧倒的美しさが」
そう言って、キャンバスを思い切り踏みつける。吉岡の似顔絵は真ん中に大きな穴が空き、1円の値打ちもない紙くずとなった。
「さぁ桐谷くん、気持ちを切り替えて頑張ろう」
吉岡は席に座り、先ほどと同じ姿勢を取る。男がすぐさま新しいキャンバスを用意し、紙くずを始末する。戻り際、俺の耳元で「余計なことは考えるなよ」と囁く。俺は怒りと困惑で落ち着かない。
「お前は何も分かってない」
ふと、死んだ親父に何度も言われた言葉が脳裏をかすめる。そして、俺はようやく気づく。このビルに居る限り、数時間先の未来も見えないのだと。
その日、とうとう似顔絵を完成できず、俺は寝床へ戻らされた。
ビルに連れ込まれてから10日間、似顔絵を描いては踏み潰される日々が続いた。
「俺には描けない。だから代わりを見つけてくれ」
そう頼んでも、吉岡は承知しない。ただ、
「桐谷くん、逃げてもなんの解決にもならないんだよ」
と言われるだけだった。
俺は日に日に眠れなくなった。心が上手く休まらないのだ。
23枚目の似顔絵を描き終えたとき、吉岡が質問を投げかけた。
「桐谷くん、きみはこれまで、何に対し美しさを感じたことがあるんだい?」
即答出来なかった。何が美しいかなど考えたことがなかったからだ。黙り込んでいる俺に、吉岡は言う。
「そうかぁ、知らないんだね。それでは何日かけても描けないよねぇ」
返す言葉が見つからず、俺は黙り続ける。23枚目の似顔絵をイスの脇に立てかけた吉岡は
「なら、教えてあげるよ。実はねぇ、僕もちょっと絵心があるんだ」
と言った。すると、男が俺に近寄り、吉岡と場所を代わるよう合図をする。俺は言われるままに席を立ち、モデル用のイスへ向かう。その時、男が俺を席に縛りつけた。ジタバタし過ぎた俺はイスごと倒れ込む。男は俺が全く身動き出来なくなるように縛り、イスごと起こす。
「用意できました」
男はそう言い、ポケットからナイフを取り出し俺の首筋に当てた。1ミリでも動けば血が吹き出る状況で、俺は重苦しい空気を懸命に吸い続ける。言いたいことは山ほどあったが、どれも言葉にはならない。
「結局、こういうことなのか」
恐怖と失意の狭間で、俺は人生にどれだけの価値があったか想像した。しかし、どれだけ大目に勘定しても、1文の値打ちすらつけられない。
「賢く生きられなければ淘汰される」
その言葉の本質を目の当たりにし、ただ、荒い呼吸を続けていた。
この物語はMUSE:「SHOWBIZ」から想い描いています。










