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2008/12/31

2000年、3月9日。我々夫婦の結婚記念日でもあるこの日、私はまだ花が咲いていない桜並木の中を車を走らせていた。
車を駐車場に付け、大学に向かう。

「まだだって。夕方5時頃になるってさ」
「そう」
「どっかで話でもしている?」

クラスメート二人と近くの公園に行って雑談する。

「そろそろ行っているか」
おもむろに歩き出す。

「もう出ているよ」
知り合いの上級生がすれ違いざま、声をかける。
結果を言わないのが気になったが、「大丈夫だ、大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。
やけに胸がどきどきしている。
それにしても、この胸の高鳴りはいったい何なんだろう。

掲示版を見つめる。
「第2学年 進級者」



三枝洋子
佐藤哲夫
島田祐介
(名前は全て仮名です)

「えっ、名前がない 」

何度見ても同じだ。

先程話していた同級生が、別世界の人のように感ずる。

が、同級生の1人の背中をつっつき、
「なかった!」
とだけ言った。
その同級生は、返事に困った表情だった。

足がふらつくのを感じた。

帰りの運転はできはしない。

私は、旦那さんに電話をした。

「どうだった?」
「それが、留年でしたー。」
「えっ」
「混乱して、運転できない。迎えに来て!!」

それにしてもー
確かに再試科目が4つ。少なくはなかったけどー。
そしてそのうちの2つは十分な出来ではなかったかも知れないけれどー。
少なくても本試よりは随分できていたはずだ。
そして、再試にならなかった科目については上位成績をとっているはずだ。
3度目の大学生活なので、油断があったのだろう。
実際、前2回の大学だったら当然進級のケースだろう。

しかもー、
最初の大学、北大では私は劣等生で、レポートはほとんど遅れて提出、人のものを写させてもらっていた。今回は、全部自力で書き、しかもわからない人に教えてあげたことは数限りなかった。クラス委員、試験対策委員もやり、クラスメートが進級できるように走り回っていたはずだ。どうしてー。

そんな思いが錯綜し、旦那さんが迎えに来る前に食事につきあってくれた二人の同級生の前でついつい愚痴ってしまう。

彼らは無事進級しているわけで、新しい学年に向かっての準備等(解剖という難関が待ち構えているのだ)、もっと話したいことがあったろうに、留年した私の混乱に付き合うことになったわけで、いまになってお詫びしたい気分だ。

また、私の続き番号であるA子さん(憂鬱な木曜日参照
http://www.junkstage.com/mari/?p=22ー私はA子さんと一緒にクラスの女子に集団しかとを受け、しかもA子さんには年中つきまとわれていた)も進級者名簿になかったのである。
彼女のことがわずらわしくなった自分は、親切にするふりをしながら少しずつ突き放していた。彼女がみるみる元気がなくなっていくのを感じていたが、心の中で「いっそ留年して欲しい、彼女が留年したら別れられる」とまで思っていた。彼女は、7,8個の科目が再試だった。成績発表があるたびに、「これで別れられる!」と残酷なことを心密かに思っていたのである。
だから、A子さんと一緒に留年してしまったことを知ったとき、一番最初に思ったことは、
「罰があたった!」
ということである。
また、A子さんと一緒に留年してしまったということは、状況が変わらず、留年してもさらに十分な成績がとれず、二人一緒に放校(たいていの医学部では、2回続けて落第すると放校である)になってしまうかも知れないという問題もあった。

もうひとつ嫌なことがあった。生物の教授に意図的に落とされた感覚であった。
再試になったときにその先生に
「どういう準備をしたらいいでしょうか」
と聞きにいったのだった。
すると、
「そんなの答えられないよ、だって勉強の仕方は君と僕じゃ違うでしょ、そうじゃない?」
と突き放したように言った。
ところがA子さんには、「今までの試験に出たところを勉強しておけばいい」
と答えたそうである。

この教授は、「年齢も近いことだし、何か悩みがあったらいつでも相談にいらっしゃい」と言ってくれたのである。いろいろな状況を最初は誰にも相談できず我慢していたのだが、その言葉に甘えてA子さんのことや、その他のクラスメートのことを相談していたのである。でも、どうしても悪口に聞こえてしまうわけで、印象を悪くした感はあった。

(カウンセラーは名目ではいたが、学生係を通じてカウンセリングを申し込まなければいけないシステムであり、しかも申し込んでから一月後にようやくカウンセラーが来る有様で、実質的に機能していなかった。このことに関してかなり運動したが、それが実ってか、4年生以後には専任カウンセラーと直接コンタクトが取れるようになったのである。)

しかも教授に、「今年センター試験を受けるのか?」
と聞かれたときに正直に、「はい」と答えてしまっていたのだった。
実際、もうこの大学にいるのは耐えられないと思い、密かに脱出を図っていたのである。
(センター試験は受けたが、2次試験は再試と重なり受けることができなかったのである。)

不信を感じた私は生物の教授のところに行って「答案を見せて欲しい」と言った。
教授は58点の答案を持ってきて不十分なところを述べた。(通常の大学同様、60点が合格である。)教授は、
「で、どうする?」
と聞いた。
「今考えてます。」と言うと
「国立の編入とかはだめなのか?」と言う。
「そんな編入なんてすごい競争率ですよ。年も若くて職歴、学歴も凄い人しか入れませんよ。私じゃあ、一般入試でなければ、無理です。」と答えると
「そうかー」
とだけ言う。
「そんな、無責任な、私が国立に逃げると思ったので、落としてもいいと思ったのかー。」
と思わざるを得なかった。

このときが医学部生活で一番苦しかったときかも知れない。
新学期までの1ヶ月間、いろいろな人に相談した。
そのころあったパソコン通信の医学生フォーラムにも詳細を書き、「今の大学を続けるか、やめて国立を受けなおすか迷っている」と結んだ。

多くの人から返事が来たが、すべて「今の大学を続けなさい」という結論だった。
・あなたの場合できるだけ早く医者になる必要があるだろう
・医学部には入りたくても入れない人が大多数であり、あなたはそういう人を押しのけて入学したのだからまっとうする義務がある
等が主な理由だった。

ともかく全国の医学生が一緒に考えてくれたことで孤独感が薄らぎそれだけで楽になった。私と同様の体験をした人もいて、その中の一人が旅行ついでに自宅まで来て慰めてくれた。

留年した学年の最初の試験ではすきなく勉強し、トップの成績をとったのであった。
が、それは勉学意欲からではなく、ひたすら落とされる恐怖にかられてのことであった。

医学部では他の大学でも、人間関係が悪いなかで、一教科でも合格点に満たない教科があれば落とされる状況の中で潜り抜けるように学生生活を送った人も少なくないようである。

最初に入った学年の1年生は96人。そのうち17人が留年を経験し、二人が退学、一人は自殺したのである。この数字を多いとみるか妥当とみるかは人それぞれであろうが、少なくても落とされる恐怖の中で勉強したとしては多いと私は見ている。

大学生活がもっと楽しく、勉強するきっかけが「落とされないため」ではなく、いい医者になるためであったならこの数字はもっと減らせると感じている。

年末のトピックスが暗いものとなってしまったが、これがいい踏み台になって医学教育が楽しく充実したものになるようにと願ってこの文を終える。

皆さん、何はともあれ、よいお年をー。

2008/12/27

2007年10月18日、午後2時。
パソコンにIDとパスワードを入れ、次の画面が出てくるのを待つ。

えっ、、、

出てきた文字はいくつか空想した文字のいずれでもなかった。

T大学付属病院臨床研修プログラム
 私は去年、今年とそれぞれ7つ病院を受け、8つと10個の研修プログラムに登録した。(ひとつの病院で複数個のプログラムのプログラムがあることがあるので、こういう計算が成り立つ。詳しくはマッチングシステムhttp://www.junkstage.com/mari/?p=4 参考のこと)

去年の登録ではT大付属病院は第7希望だったのだ。

年齢が他の学生より多く、左足が悪く、しかも留年経験あり。
こういう条件の悪い私がすんなり競争率の高い研修病院にマッチするとは思えなかったが、しかしー。7/8とは・・・。

最低第4志望にしたN大学付属病院や第6志望のJ医大付属病院では私をとってくれると思ったのである。N大学では、募集人員>応募者数である上、面接の時に「あなたの生き方を応援したいと思います」と言われたのだった。もっとも、N大学ではたとえ定員割れの状態であっても取りたい学生しか取らないといううわさがあったし、N大学の研修担当のトップの教授が私の年齢を知って、
「ここでは週一確実に当直があるので無理だと思いますよ。僕だってもう(その先生が私よりひとつ年下だったのだ)もうしんどいもの。当直のない病院をお探しになることをお勧めします。」と言ったので、やっぱりうわさは本当だったのだと納得した次第であった。が、当直のない病院なんてあるのかーというところだが・・・・。

もっと意外だったのはJ医大だった。J医大は大学病院にしては人気が高く、定員60名のところ第一希望だけで65名いたので冷静に考えれば当然とは言えた。
ただし、面接の時に
「亀田と渓仁会(ここは少人数教育、英語教育を取り入れているところで人気が高い)を受けたと言うことですが、第一志望をどこにしましたか?」
と聞かれたので、正直に?
「まだ考えているところです。」
と答えた。
すると
「是非うちを第一志望にしてくださいね。」
とにっこりしてくれたのだった。
私もにっこりと
「はい」
と言ったのだ。
「これで、一つ確実に確保ね。」と思ったのだが・・・。

あーあ、裏切られたなと筋違いなことを思ったのだが、圧迫面接されるよりいいか、と割り切ることにした。

ところで就職活動中に圧迫面接をされたことは一度もない。公務員系の病院で履歴の穴を若干聞かれたのみだった。

Junkstageのstaffの方に、「就職浪人された方はどのように進路を考えるのですか?」と聞かれたが、よほど人気病院ばかり選ばない限り、ほとんどの人はどこかの病院にマッチする。

全体としては大幅に、募集人員>応募者 なのでマッチしなかった学生も2次募集でどこかの病院に決まるし、決まらなかったら母校の付属病院が優しく迎え入れてくれる。

つまり、就職率100%なのである。入るときも、入学してからも常に落ちる恐怖にさらされ、いやな人間関係にも耐えて実習をこなしていかなければならない医学部生活だが、この点は他の学部の人がうらやましがるところであろう。

そうはいっても医学部を出て、医師国家試験に通っても医者にならない人は若干存在する。
家がお金持ちであるケースも多いわけで自分で事業を立ち上げるケースもあったり、予備校講師をしたり、医学関係の出版社に勤める等が主な道である。

変り種では東大の医学部在学中、株に興味を持って証券会社に行ってしまった人もいるとか。

医学部再受験生が多い昨今だが、逆の人も若干いるわけで、むしろ健全なことかもしれない。

が、大多数は就職率100%に乗って研修医生活に入るのである。

2008/12/20

今もそうだが、子供の頃化学調味料の味が嫌いだった。
元々の材料の味があるのに何で奇妙な味付けをするのか分からなかった。

嫌がってのけると、
「味の素をかけると頭が良くなるんだ」
と母は言った。
そんなものかと思い渋々取っていたがどうしても好きになれなかったものだ。

ところが私が教師をやっていた頃は、化学調味料を多量に取っている子は切れやすい、と言われるようになった。化学調味料が嫌いだった自分は、我が意を得たり、とばかりに感じたものだった。

医学部で学んだことでこの二つの俗説の根拠が分かったのである。

化学調味料のメイン成分であるグルタミン酸ナトリウムは脳の神経を興奮させる神経伝達物質なのである。それが、「味の素を取ると頭が良くなる」、「化学調味料を取ると切れやすくなる」という俗説を生む元になったのだと思う。

が、興奮状態が長く続けば疲れてしまうことは大いに想像できると思うが、ある一定以上の血中グルタミン酸ナトリウムにさらされると神経細胞が傷み、元に戻らなくなってしまうのである。

それでは困るので、脳のグリア細胞にはグルタミン酸トランスポーターというものが存在し、用のなくなったグルタミン酸ナトリウムをすぐに回収し、神経細胞を保護する。

つまりはグルタミン酸ナトリウムは神経の興奮のためには必要だが、高濃度のグルタミン酸ナトリウムは猛毒になるようである。

実際、脳のグリア細胞にあるグルタミン酸トランスポーターが減少することにより、筋側索硬化症が起こるらしい。タンパク質を普通に取っている限り、グルタミン酸ナトリウムが不足することはないであろう。だから、過剰になる危険を冒してまで、わざわざ摂取するまでもないだろう、というのが私の意見である。

私が以前お世話になった漢方を取り入れているお医者さんが、「本能の声に従うのが一番」とおっしゃっておられましたが、子供の頃化学調味料の味が嫌いだったのは本能だったのかも知れない。

2008/12/13

表題は「あしながおじさん」のヒロインジュディーが付けた「憂鬱な水曜日」をもじってつけた。

私は医学部1年次、木曜日になると特に憂鬱になった。
何故ならその日は体育の授業があったからである。

といっても体育の授業そのものが嫌だったのではない。
自分は運動音痴ではあるが、むしろスポーツをするのは好きであり、体育実技は「合法的にただで」スポーツができるいい機会ではあった。

憂鬱になった原因は、女子だけになったからである。
と言っても自分は女嫌いではない。
特別な関係の男性を対外的にあまり親しくない人に紹介するときの「友達」を除いては、男友達は1,2人。たまにあって出かけたり食事をすることのできる女性同士の友達は現時点で5人。つまり女性同士の友達の方が多い。その辺では私は女性同士の方がくつろげるごく一般的な昔タイプの女性である。

教師を辞める前の年に、成績会議(進級があやうい生徒の指導・進路を巡って協議する会議)において、「体育実技の時の女性同士の人間関係が嫌で」授業をボイコットした女子生徒のことが話題になり、何とか配慮してやって欲しいという担任からの要請があったことがあった。
成績もまずまずで目立たないその女子生徒を留年させる必要もあるまい、ということでしぶしぶ「情状酌量で進級させる」方に手をあげたが、「たかが女性同士の人間関係で授業をさぼるなんて、なんて自分を大事にしない子だろう!」と内心思ったものだった。
が、その1年後には自分が「女性同士の人間関係が嫌で」、体育実技のある日は吐き気さえするようになってしまったのだった。

入学式の前日、オリエンテーションなるものがあったとき、新入生は講義室に集められ出席簿順に座った。
右隣と後ろを除いてはすべて男子学生だった。
若い男性におばさんである自分が話しかけたら嫌に思うのではないだろうか、という変な遠慮からまずは右隣の女の子に話しかけることにした。

右隣はたおやかな美人という形容がぴったりの、若い頃の古手川祐子さんにも似た感じの子だった。
「皆さんより少し年上ですけど、これから同級生になります。よろしくね。」
ところが、その子は「こちらこそよろしく」とも言わず、ただニタリとして目をそらせた。

あれっと思い、次は後ろを振り返った。
後ろは昔の国立大学の理系の女子学生にいるような勉強家風な地味目な女の子だった。
「この子なら避けないだろう」
と思い、同じことを言った。
「私こそ年を言うとびっくりするかもね。実は薬学部中退していて23才なんです」と言う。
逆の意味でびっくりした。
その子はぱっと見たところ、中年体型で重い雰囲気があり、私に近い位の年にも感じられたからである。
その子とは受験の話、前歴の話などを普通の学生同士と同じように話した。

お昼になり、他に食事する人もいないし、その子も社交的な方ではなさそうな感じだったので一緒に食べる人もいないだろうと思い、
「じゃあ、一緒に食事でもしますか?」と誘った。その子は顔を輝かせて
「はい」と答えた。

実はそれが全ての始まりだったのである。

次の日の入学式、その後の懇親会において、すでに女子学生のグループ分けがなされているのを感じた。
それはあたかも女子学生の間で見えない線が引かれているかのようであった。

前の日のオリエンテーションの時に話をした女子学生(A子さんと呼ぶことにする)は、写真撮影のときも、懇親会のときも傍に寄ってきた。しかも、「昨日はどうも」とか、「おはようございます」というのではなく、何かじんわりと話しかけられるのを待っているのである。それはあたかも内気な女の子が憧れの男の子に自分からは話しかけられず、そばにさりげなく寄って話しかけられるのを待っている風であった。
義理堅い私は合間、合間に話かけたが、女子学生のグループ分けの一環として、真理ちゃんーA子ちゃんカップルが出来ることに抵抗したい気持ちがあって一匹狼を気取っていた。

実際、若き男子学生の方が何人も 私に話しかけてくれたのである。
誤解を恐れずに言えば私は若い男の子と話をするのが大好きである。
女子学生のグループに入れなかったのをラッキーとばかり、彼らと機嫌よく話をした。
入学式に出席してくれた旦那さんも、「この分じゃ、すぐ親しい人が出来そうだね」とほっとしたようであった。

ところがそうは問屋がおろさなかったのである。
男子学生の方は年齢差を気にせず話をしてくれる人が多かったものの、積極的に仲間や友達として迎え入れてくれるはずもなく、あくまでも時々話をする同級生であった。

それでも体育実技のときに、ペアを作って準備運動をするとき、いつものようにあぶれた私の傍に一人のさわやか青年がやってきて、
「よかったら僕がペアを組みましょうか?」
と言ってくれた。
その子は後にトップで卒業し、沖縄中部病院という人気研修病院に採用された秀才であり、成績だけではなく本質的に物事をきちんと理解し、それを惜しみなく他の学生にも与えるようないわゆる模範的な学生であった。入学当初は目立たなかったが、そこは元教師の眼力でこの青年が非凡なものを持っているのをすぐに感じ取っていて仲良くなりたいと思い、時折話しかけていたのである。

「ラッキー」というところだが、「待った」がかかった。
体育の教師が、「女性同士にしなさい」と。
あーあ、と思いつつ、当然同じように「あぶれた」A子さんとペアを組んだ。

体育の時間に関わらず、医学部の講義・実習ではペアを組んでなにかすることが多かった。
他に申し出てくれる人もいたが、Aさんのペアが見つからないと私が相手をせざるを得なく、しかもA子さんとは出席番号が続き番号なので実験のときはいつも一緒のグループ、結局毎日A子さんと二人っきりでえんえん過ごすことになったのである。

しかも、女子学生のほとんどは私とA子ちゃんを露骨に無視。
男子学生とはA子さんといる隙間を縫って少し話をして息抜きをした。
最初はA子さんを男子学生の中に入れようと思い、彼女を交えて男子学生と話をしようと試みたのだが、A子さんは他の人がいても私にだけしか話をしないのである。

もし私とA子さんが教師と生徒の仲であったなら、上記のようなネガティブな思いを抱かず、純粋にA子さんのいいところを育てようとしたと思う。
「あの子は外れているけれど頭もいいし、物事をよく解釈するような人の良さもあるし、凄くいい子なんだよ」と同僚の先生や他の生徒の前でも言ったことだろう。

実際に最初の頃は、上記のようにA子さんのことを話をしていた。
が、お互いに外見がおばさんっぽく格好も構わないためにA子さんと私がペアにされたのだろうというネガティブな思いこみ、嫌いな異性にストーカーされているような落ち着かない気分があいまって、だんだん大学に行きたくなくなってきたのである。

一月、二月経つと心のうちで、「1/72終わった」、「やっと2/72 」と数えていた。(医学部は6年間、6×12=72で72ヶ月あるのだ。)
後に書くこともあるかもしれないがこうして耐えて過ごしたにも関わらず、3月には0/72に戻ったーつまり留年したのであった。

体育の授業は 31人の女子学生からの無視、A子さんからは恋人のごとく親しげに振舞われることが増強されるのだった。が、年間480万円の学費を無駄にするわけにもいかず、ほとんど皆勤したのだった。

あるとき、バレーの試合をしていた。
私が線審に入って、A子さんを含めた6人グループと他の6人が試合をしていた。
「パス」とか「ナイス」と声を掛け合う中で、いつものようにA子さんは無視されていた。

ちょうどA子さんのいたグループでサービスエースが決まった。
A子さんを除いた5人が集まって、「やったね」とばかりに手の平を合わせた。
それを見ていたA子さんが、おずおずとやってきて、その中の一人に手の平を合わせた。

A子さんに手の平を合わせられた女子学生は観客席の方を見てニタリとしたのである。

衝動的な怒りがわいた。
もし教師の立場でその場にいたら、走っていってニタリとした学生を殴りつけたかも知れない。(暴力反対!って済みません)
幸いその衝動は抑えたが、怒りのあまり旗をぐっと下ろした。

びっくりしたのは他の学生である。
突然関係のないところで線審の私が勢いよく、旗を振ったのである。
挨拶くらいはする女子学生が、メールで「どうしたのですか」と聞いてきたので、状況と私の気持ちを正直に書いた。
何でもやってはみるもので、その女子学生とはたまに話をするようになったのである。

幸か不幸か私もA子さんも留年して(二人とも学年順位はまずまずだったが、特定の教科で合格できなかったのである)、このクラスとはさよならした。

年齢がいってから医学部に入ったことで、私と同年代の人は(特に今お医者さんをやっておられる方々が)
「勉強大変でしょう」
という。

確かに分量は多いかもしれないが新しいことを学ぶことは基本的に 楽しい。
勉強の何倍も「憂鬱な木曜日」の方が大変だった、というのが正直なところである。