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2009/07/05

 オリエンテーション会場を見渡す。
リクルートスーツがまぶしい若者たちでいっぱいだった。
が、佐藤正子さん(仮名)の姿は見あたらなかった。
「そうかあ、今年もだめだったのかー。」
私はため息をついた。
佐藤正子さんとは、母校の老人会(仮称)で知り合った。老人会とは嫌な名だが、年齢的には現役入学組より3つ以上年上の医学生に入会資格があった。多浪生もいたが、多くは一度大学に入学し、卒業あるいは中退してから医学部に入学したいわゆる再受験生と呼ばれる人たちがほとんどだった。
正子さんは私と同い年で、薬剤師職として公務員を16年務めてから編入で医学部に入学してきたのだった。編入は医学部の教養課程の単位を満たした上に、正規合格していないと認められない。入学者のほとんどが補欠合格であるという実態からすると(正規合格者は、国立大学や私大でも偏差値の高い大学に流れてしまうのだった)、正子さんは優秀だったといえる。が、その後は、3年生時に留年になり、卒業試験でも再試になり、やっと卒業したのであった。正子さんが本質的に怠け者だったり、低学力であったというよりも、他の人とほとんど話をしていないことから情報不足になっての結果であるように思えた。正子さんはその年の国家試験にも落ちた。正子さんと同い年の私としては、次の年には合格して欲しいと思ったが、だめだった。そのうち個人情報保護の点から、合格者の公表がされなくなったが、彼女が合格したという話は聞かなかった。
「もう医者になるのを諦めたのだろうかー」
とも思ったが、去年の母校の研修医採用試験の会場で彼女の姿を見かけたのであった。
彼女は私より2年先に卒業した。私も国試浪人したので、彼女は4浪目であった。
寡黙で消極的な彼女が母校以外の病院に就職活動するとは考えられなかった。
「もしかしたら正子さんと一緒に研修医になるかもしれない」
研修先が母校の大学病院に決まったときに、そうつぶやいた。
それは予測というより願いだった。

同い年といえ、控えめすぎるといわれていた正子さんと、何にでも首を突っ込む私とは正反対の性格で、同期になってもあまり仲良くなれるとは思えなかったが、これ以上正子さんに浪人して欲しくなかった気持ちがあったのだった。

再受験生といっても、大学を卒業してから3,4年内に入学したヤング・アダルトの層(大学院を出たり、2,3年勤めてから医学部に入学したり、卒業後ストレートで受験勉強を経て入学したりしていた)には問題がなかった。彼らは、ちょっとお兄さんお姉さんといった感じで、若さが十分残っていたし、その上に人生経験がプラスされていて、まさに油が乗り切っていた。彼らの多くは成績もよく、クラスで中心的な存在になっていた。

問題は、外見的にも年上であることがはっきりわかるようなおじさん、おばさん医学部生である。お兄さん、お姉さん医学生とおじさん、おばさん医学生の境界ははっきりつけることはできないが、大体40歳前後であろうか。外見的に若い学生と違って見えることは、若い学生に違和感を感じさせ交友関係に支障になる上、大学を出てから年月が経っているので学力的なアドバンテージが効きにくいのだ。(それでも自分の場合、統計学、物理学、英語ではアドバンテージを感じた。)

母校は入試の点数のみで入学を許可され、年齢・性別で差別しないこともあって、おじさん・おばさん医学生が何人か存在する。そのうち校内で同時期を過ごした人を数えてみたら10人だった。(低学年のうちに、40代に突入した人を数えた)

10人中、学年1位の成績をとり続けて若い人との人間関係もよかった人が二人。

そのうちの一人平田さん(仮名)はお子さんが統合失調症で苦労したが、お子さんを含め同じ病を持つ人を救いたい一心で一流商社を早期退職して50歳を過ぎてから入学した。その学年に年齢・性別にこだわらないで付き合う雰囲気があったこと、平田さんが優秀だったこともあって、若い学生に囲まれながら勉強している姿をよくお見かけした。よい成績をとりながらも、きばったところがなく、少林寺拳法部に入部したり、アルバイトをしたりと若い人と同様の学生生活を送っていた。今年6年生、おそらく国家試験は余裕で合格するであろう。

もう一人の人川口さんは残念ながら動機を聞けるほど親しくなかったのだが、理系を卒業後商社勤務、タクシードライバーを経て入学した変り種である。インドネシア人の奥さんがいらして、お子さんが二人いらして、ときどき大学に連れてきていた。英語が得意でESSにて活動していた。今年私と同じく研修医一年目である。

人間関係あるいは勉強面で苦労しつつもストレートで卒業し、国家試験にも一度で通った人が4人。
アメリカの大学を卒業後、ドイツのハイデルベルグ大学の大学院で言語学を専攻し、ご自分で翻訳会社を経営した後入学してきたスーパーウーマンの北川さん(仮名)。若い学生が講義中私語をするとどやしつけるほどのスーパーウーマンだったが、若い学生との人間関係い疲れ抗鬱剤を飲みながらの学生生活だったという。そういう状況にあっても孤軍奮闘し、なんと50歳近くなのに救急医療を選択し、アメリカにも1年留学したそうである。今某大学病院で活躍中である。

55歳で編入学してきた田口さん(仮名)。女子学生が少なかった当時に東大の薬学部を卒業した才媛である。卒業後23歳で結婚し、ずっと主婦をやっていたが、下のお子さんが大学生になったのを機に入学した。彼女は成績のほうは問題なかったのだが、若い人の受け入れ態勢が悪く、実習の時に入れてもらえず、話しかけてもけんか腰の応対をされたりしたようである。(彼女の名誉のために言っておくが、田口さんは、話してみると上品な人であり、性格的に偏った人ではない)
「おばさんが前の席に座って姿をさらすものではない」という失礼なことも言われたそうである。そんな中でストレートで卒業し、国試にも一回で通ったのはさすがだったが、研修医時代も一人ぼっちで疲れた表情をしていたのが哀れに感じた。しかも、今大腿骨頚部骨折(自然治癒が難しく、多くは人工関節にせざるをえない)で休職中だとか。あまりにもかわいそうである。

奥さんの両親の介護の経験から老人医療をやりたいとの意気込みをもって商社を退職して50歳で入学してきた山村さん(仮名)。根性、がんばるが口癖でへきへきする面もあったが、奥さんの両親の介護をしたことでもわかるように根は優しい。2年生と4年生のとき、再試科目が4科目になったが、それこそ根性でクリアーし(普通は再試疲れで留年になるケースが多い)、ストレートで国家試験も合格した。めったに愚痴を言わない人だったが、研修医時代、阻害され続けた学生時代のことを時々こぼしていた。それでも現在リハビリを専攻し、夢を着々と実現している。

カウンセラーをしてたという福本さん。成績のほうは今一つだったが、こつこつ努力し、仲間にも恵まれ、ストレートで卒業し、国家試験もストレート合格することができた。前職の影響もあってか、精神科希望であり、今某大学病院の研修医2年目である。
そして、私や先の正子さんのように留年や国試浪人をしてしまった人が計4人。私と正子さんのほかは二人もいるのだ。

一人は高柳さん(仮名)。某一流大学の法学部を卒業し、一流銀行で部長職までしたエリートだったが、入学後は勉学の方で苦労していた。が、前職で営業に近い仕事をしていたためか、若い人との人間関係は良好だった。苦労しているのを見かねて何人もの人が徹夜で試験勉強や実験レポートにつきあってあげていた。教えることはあっても、教えてもらうことが極端に少ない自分はある意味うらやましく感じたものだった。3回留年し、今国試浪人中である。自分も人のことは言えないが、成績の方は落ちた科目以外まずまずだったので、高柳さんのことを「どうしてできないの?」と失礼なことを思ったものだが、文型出身の上、入学したのが53歳だったので医学部の勉強がやはりきつかったのであろう。

それでも高柳さん、正子さんのほうは卒業できたので、医師になる見込みがあるわけだが、もう一人渡辺さんは5年生で2回落第し、放校になってしまった。彼は国立大学の工学部出身である。
彼はいい年して女子学生を追いかける等(奥さんもお子さんもいらっしゃった)、問題行動もあったのだが、何とかついて行こうと必死だったことを思うとかわいそうにも思う。私は何度か彼と勉強をしたことがあったのだが、すみずみまでつぶしていたので雑になりがちな私にとって参考になったが、こういう結果になってしまったのは結果を気にしすぎてのびのびと本質を見通すことに欠いていた印象を受けている。

以上、おじさん、おばさん医学生の入学後の経緯を書いてみたが、優等生の二人を除いて苦労しているといえるだろう。ある若い学生がこう言った。
「おじさん、おばさんが医学部でやっていくには2倍の知力、10倍のタフさが必要だ」

実際にそう思う。私自身、大学時代の知識はやはり残っているし、教師をやっていたアドバンテージがあり、しかも20個も病院見学をするタフさがあって、やっと医師免許にたどりついたわけである。

さらに上記の発言に付け加えるならば、若い人に好かれようと一生懸命になりすぎても、引きこもりすぎてもNG、淡々としている人のほうがうまくいきやすいといえるだろう。また理系出身が有利、親族に医師がいる人は有利(平田さん、田口さんはお子さんが医師、山村さんはお姉さん、お兄さんが医師である)であるような印象を受けている。

何はともあれ、おじさん・おばさん医学生、自分も含め本当にご苦労さま。
そして正子さん、来年こそは医師免許を手にしてくださいね。

2009/06/09

医学部は歯学部と並んで、学部の名が直接将来の職業に直結する特殊な学部だ。 そのため、医師としての生活は1年生の時から始まっているといえる。

  
 文学部を出ても、小説家や編集者や文学者になるのは一握りであるのと対象的である。友達のつてで早稲田のとある文芸サークルに参加したことがあったが、彼らは将来の進路とは関係なしに、「今」文学を学びたいのだ、小説を読んだり書いたりしたいのだ、という強い熱意を持っていた。その打算のなさに妙な感動を覚えたものである。たとえて言うならば、医学部生は絶対に結婚につながる交際をしたいと思い、文学部の学生はとにかく今好きな人との恋愛を大切にしたいと思っているといえよう。

 そのため医学生は、勉強でも、交友関係でも、「好きだから」というよりも「必要だから、役に立つから」という理由で行いがちで、その弊害もあるのだが、今回は現在の医学生のみならず、将来の目的がはっきりしている人のために、その準備段階のために何をすべきかについて書いてみようと思う。 
 他の学部の学生がいつも勉強していたら、その人はよほど勉強が好きか、将来その専門で身を立てたいと考えているかであろう。単位さえとれば、バイトに明け暮れても、旅行三昧でも個人の自由であろう。

が、医学生(他の医療系の学部もそうであろうが)、勉強は趣味ではなく、義務なのである。特に私立大学はそうであるが、カリキュラムは全て将来の医師になったときに必要な知識・技能を得るべく作られているからだ。臨床科目はもちろん、低学年時の基礎科目もおろそかにするべきではない。ある症状が起こったときに、体の生理機能の他、臓器レベル、分子レベルでも考えて総合的に判断することが大事であるからだ。私が特にきちんと勉強しておくことをお勧めする基礎科目は、生物、化学、解剖学、組織学、薬理学、生理学、あれば発生学である。発生学は、受精から胎児になるまでを学ぶ学問であり、先天性異常を理解するのに役立つ。
私も医師国家試験を受けたり、研修医をする段階になって、もっと低学年からきちんと勉強すべきだったなあ、と感じている。
勉強が大事だといっても、試験をくぐり抜けるための勉強をしても理解が深まらないし、かと言って勉強しているという状態に酔ってしまい、結果を出せない学生も一定割合で存在するが、あまりにもばかげている。結局は、普段は全体を見通すための勉強をし、試験直前では試験に通るための勉強をするのが正しいやり方だとは思う。が、現実問題として本質的なことをつかむのは難しい。大学の先生は、残念ながら国家試験の合格率を気にするあまり、二言目には国試国試と言いがちだったのも現実であった。私自身はごく少数の本質を理解している学生からセンスを盗んで、少しずつ見通しのいい勉強をするように努めた。
 

また同級生、上級生、下級生はそのまま将来の同僚、先輩、後輩である。そのため、他の学部より、交友関係にも気を配らなければならない。(それを意識しすぎて、自然な友情が育ちにくいのも医学生の現実ではあるが・・・)
 また、訓練期間の長い仕事であるから、教わり上手、かわいがられ上手であるに越したことはない。といって生まれついた性格は変えにくいので、教わり下手な人は患者さんから学んだり、後輩に教えることによって、自分の理解が定着する道もあることを書き加えておく。

 私は残念ながら、勉強の大切さ、交友関係の大切さに気づくのが遅かったのではあるが、医者の子弟は親御さんから上記のことを指導されていることも多いようであった。
 
 将来いい仕事をするうえで英語に慣れておくことも不可欠である。というのは、外国の患者さんが多くなったということだけでなく、日本だけからでなく、海外からもダイレクトに情報を得ることがこれから必要になってくるからだ。

 今回は、医者になるために学生時代に努めておくべきことを主眼に書いたが、学ぶべき具体的な内容は違っても、目標を達成するために必要なこととして、共通していることとして私が感じていることは、以下の3つである。
1.全てのことから吸収すること
2.各論だけではなく全体を見通すこと
3.人間関係を大事にすること

私自身も、遅まきながら、残りの研修医期間でこれらのことをつかんでいこうと思っている。

2009/01/22

普通の学部と同じように、医学生にも春休み、夏休み、冬休みの3つの長期休暇が与えられる。

しかし、おそらくその期間は普通の学部より短い。
年や学年によって前後するが、春休みは2月半ばから4月の第一週の日曜日まで、夏休みは7月の25日位から8月の27、28日位まで(小学校より短いのだ)、そして冬休みはクリスマス(イブにあらず、イブにはクリスマステストなるものもあった)から1月6日くらいまでである。
しかも、そのうちの夏休みと冬休みは定期試験準備のためゆっくり遊ぶ気分ではない。
というのは休み明けにすぐ試験があることも多く、あっ名前がない!!で書いたように、特別成績が悪い方でなくてもぼやぼやしているとすぐ留年になるので休み中こそ勉強しなければならないのである。

というわけで、実質的な長期休暇は6年生になる前の春休みを除いた春休みだけである。(6年生になる前の春休みは、病院見学などの就職準備で結構つぶれる。)

よって計画性のある学生は、学年末試験の合間にさっさと海外旅行の予約をし、試験翌日くらいに旅立つ。あるいは、バイト&旅行、が一般的である。普段、勉強、勉強で縛られていた医学生が唯一羽を伸ばせるのが春休みなのである。

が、本来国立に行く予算しかなかった私は親に学費を出してもらっていることもあり、海外旅行をするのは贅沢であるように思えた。そして、元来計画性がない自分のこと、目の前にあることしか目に入らず、試験の時は勉強だけ、休暇の時は「遊びたい!」と思うだけで準備をしてないので、さあて念願の休みに入ったのはいいが、何をしたらいいかわからず途方にくれることも多かったのである。

そういう折だが、せっかくの春休み医者になったら出来ないことをしようと思った。
最初の1年生の時の春休みは、留年でうつ状態になってしまい台無しにしてしまっていた。
2回目の1年生では、せっかくだからやったことのないバイトをして過ごそうと思った。

過去2回の大学生活(北大と理科大を出ている)では、結局家庭教師、塾講師以外のバイトは長続きしなかった。

前職は教師だったわけだし、卒業しても違う形での先生になるわけなので、先生でない普通のバイトを経験しようと思ったのである。
といってもいわゆる「デスクワーク」は好きでないし、向かないことは過去の経験からわかっている。
私は人と接して、人と話したりサービスしたりするのが好きである。
「そうだ、先生以外のサービス業を経験しよう!」

有料、無料のバイト情報誌、新聞等いろいろ検討した。
コンビニ、ファミレス、デパートの売り子、はてや東洋医学療法の受付まで応募した。
面接後、返事が来なかったり、断られたりした。
「ご立派なご経歴をお持ちですから、家庭教師や塾教師をなされたら」
と上手に断られたこともあった。
10箇所も回らないうちに面倒になってきた。
( 余談になるが、就職氷河期の折、50社回っても就職先が決まらないことがざららしいですね。
根気のない私は、10社くらい回ったところであきらめて引きこもりをやっているかも知れません。)
あきらめかけていたときに、医学学会の受付の派遣に登録することが出来た。
医学生だということ、「英語は普通に(実は片言)、ドイツ語、スペイン語は片言(実は挨拶程度)話せます。」と履歴書にはったりを書いたのが効いたのか、とにかく採用してもらえた。
ー外国の人も来るので英語が出来ることが条件だったのだが、実際の仕事で外国語を話したことは皆無であった。

仕事があったときにお知らせが来て、仕事をするかどうかを決めるシステムであった。
仕事があるときに講義や実習があったり、こちらが空いているときには仕事がなかったり、となかなか予定があわなかったのだが、それでも1、2ヶ月に一度は仕事をしただろうか。

この仕事で覚えたことは、記名するときにペンを持ちやすいように渡すこと、紙を押さえることであった。こんなことも気がつかない私であり、その意味では勉強になった。
バイトをしている人のほとんどが女性であり、憂鬱な木曜日に書いたような女性同士の派閥もあった。
ある女性と一緒に仕事をすることになったので、「どうぞよろしくお願いします。」と頭を下げたのだが何も言わずに横を向かれたことがあった。 (私が何かしたわけではなく、この女性とは初対面だった。)医学部生活で鍛えられていたので驚かなかったが、このバイトとは愛称が悪いなあと感じた。

そのうちに会社のシステムが変わって、再登録したのだが、仕事の紹介が全く来なくなってこのバイトとは自然消滅した。

やはり、「やはり先生しかやれないみたい」と開き直って、結局家庭教師協会にネット登録をした。

3、4ヶ月経ったころだろうか。 慶応大学を卒業して何度か転職したが医者になりたいと思うという青年(S君と呼ぶことにする)から家庭教師依頼の申し込みがあった。それから数ヵ月後、今度は日大を卒業して医学部を目指しているが、独学では数学や理科が伸び悩むという人(I君と呼ぶことにする)からの申し込みがあった。

なるほど、こういう需要があったのか。
医学部には再受験生と言って一度大学を卒業してからまた医学部を受験しなおす人が多い。
理科系学部出身者は成功することが多いが、文型出身の人は数学・理科でつまづき、なかなか合格できないことが多いのだ。
今は基礎からじっくり教えてくれる予備校も多くなったようであるが、教科書レベルのことも忘れている状況では、予備校の講義についていくのも大変であろう。
家庭教師を頼もうにも、自分より年下の大学生に教えてもらうのはやりにくいだろう。
その点、教職経験者でしかも現在は医学生という私は彼らにうってつけだったのであろう。

S君のほうは、途中で就職の誘いを受け受験をやめたが、I君には数2、数3、化学、生物を2年間かけて教えた。文型出身で、教科書から始めたI君だったが、こつこつ勉強し続けて、2年目には模擬試験でも医学部以外の理系だったらどこでもいけるレベルになった。

I君を教え始めたのは大学3年のときだったが、それから長いつきあいになっている。学力の方は安定してきたのになかなか合格できない。
去年は最後は一緒に勉強し、私は卒試や国試の勉強、I君は受験勉強をし、I君にわからないことができたら、ストップをかけてもらって教えられることは教えたりした。
I君 といたことで、受験の集中力を彼からもらえたので私にとってもこの共同勉強はありがたかったのである。

これで二人とも合格となればめでたし、めでたしなのだが、実際のところ二人とも不合格だった。

正月年賀メールを出すと、
「お互い落ち着いたら、一緒に飲みましょう」
という返事が来た。

3月末には、I君と祝杯をあげることができるように祈りつつ、今回のコラムを終える。

2008/12/31

2000年、3月9日。我々夫婦の結婚記念日でもあるこの日、私はまだ花が咲いていない桜並木の中を車を走らせていた。
車を駐車場に付け、大学に向かう。

「まだだって。夕方5時頃になるってさ」
「そう」
「どっかで話でもしている?」

クラスメート二人と近くの公園に行って雑談する。

「そろそろ行っているか」
おもむろに歩き出す。

「もう出ているよ」
知り合いの上級生がすれ違いざま、声をかける。
結果を言わないのが気になったが、「大丈夫だ、大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。
やけに胸がどきどきしている。
それにしても、この胸の高鳴りはいったい何なんだろう。

掲示版を見つめる。
「第2学年 進級者」



三枝洋子
佐藤哲夫
島田祐介
(名前は全て仮名です)

「えっ、名前がない 」

何度見ても同じだ。

先程話していた同級生が、別世界の人のように感ずる。

が、同級生の1人の背中をつっつき、
「なかった!」
とだけ言った。
その同級生は、返事に困った表情だった。

足がふらつくのを感じた。

帰りの運転はできはしない。

私は、旦那さんに電話をした。

「どうだった?」
「それが、留年でしたー。」
「えっ」
「混乱して、運転できない。迎えに来て!!」

それにしてもー
確かに再試科目が4つ。少なくはなかったけどー。
そしてそのうちの2つは十分な出来ではなかったかも知れないけれどー。
少なくても本試よりは随分できていたはずだ。
そして、再試にならなかった科目については上位成績をとっているはずだ。
3度目の大学生活なので、油断があったのだろう。
実際、前2回の大学だったら当然進級のケースだろう。

しかもー、
最初の大学、北大では私は劣等生で、レポートはほとんど遅れて提出、人のものを写させてもらっていた。今回は、全部自力で書き、しかもわからない人に教えてあげたことは数限りなかった。クラス委員、試験対策委員もやり、クラスメートが進級できるように走り回っていたはずだ。どうしてー。

そんな思いが錯綜し、旦那さんが迎えに来る前に食事につきあってくれた二人の同級生の前でついつい愚痴ってしまう。

彼らは無事進級しているわけで、新しい学年に向かっての準備等(解剖という難関が待ち構えているのだ)、もっと話したいことがあったろうに、留年した私の混乱に付き合うことになったわけで、いまになってお詫びしたい気分だ。

また、私の続き番号であるA子さん(憂鬱な木曜日参照
http://www.junkstage.com/mari/?p=22ー私はA子さんと一緒にクラスの女子に集団しかとを受け、しかもA子さんには年中つきまとわれていた)も進級者名簿になかったのである。
彼女のことがわずらわしくなった自分は、親切にするふりをしながら少しずつ突き放していた。彼女がみるみる元気がなくなっていくのを感じていたが、心の中で「いっそ留年して欲しい、彼女が留年したら別れられる」とまで思っていた。彼女は、7,8個の科目が再試だった。成績発表があるたびに、「これで別れられる!」と残酷なことを心密かに思っていたのである。
だから、A子さんと一緒に留年してしまったことを知ったとき、一番最初に思ったことは、
「罰があたった!」
ということである。
また、A子さんと一緒に留年してしまったということは、状況が変わらず、留年してもさらに十分な成績がとれず、二人一緒に放校(たいていの医学部では、2回続けて落第すると放校である)になってしまうかも知れないという問題もあった。

もうひとつ嫌なことがあった。生物の教授に意図的に落とされた感覚であった。
再試になったときにその先生に
「どういう準備をしたらいいでしょうか」
と聞きにいったのだった。
すると、
「そんなの答えられないよ、だって勉強の仕方は君と僕じゃ違うでしょ、そうじゃない?」
と突き放したように言った。
ところがA子さんには、「今までの試験に出たところを勉強しておけばいい」
と答えたそうである。

この教授は、「年齢も近いことだし、何か悩みがあったらいつでも相談にいらっしゃい」と言ってくれたのである。いろいろな状況を最初は誰にも相談できず我慢していたのだが、その言葉に甘えてA子さんのことや、その他のクラスメートのことを相談していたのである。でも、どうしても悪口に聞こえてしまうわけで、印象を悪くした感はあった。

(カウンセラーは名目ではいたが、学生係を通じてカウンセリングを申し込まなければいけないシステムであり、しかも申し込んでから一月後にようやくカウンセラーが来る有様で、実質的に機能していなかった。このことに関してかなり運動したが、それが実ってか、4年生以後には専任カウンセラーと直接コンタクトが取れるようになったのである。)

しかも教授に、「今年センター試験を受けるのか?」
と聞かれたときに正直に、「はい」と答えてしまっていたのだった。
実際、もうこの大学にいるのは耐えられないと思い、密かに脱出を図っていたのである。
(センター試験は受けたが、2次試験は再試と重なり受けることができなかったのである。)

不信を感じた私は生物の教授のところに行って「答案を見せて欲しい」と言った。
教授は58点の答案を持ってきて不十分なところを述べた。(通常の大学同様、60点が合格である。)教授は、
「で、どうする?」
と聞いた。
「今考えてます。」と言うと
「国立の編入とかはだめなのか?」と言う。
「そんな編入なんてすごい競争率ですよ。年も若くて職歴、学歴も凄い人しか入れませんよ。私じゃあ、一般入試でなければ、無理です。」と答えると
「そうかー」
とだけ言う。
「そんな、無責任な、私が国立に逃げると思ったので、落としてもいいと思ったのかー。」
と思わざるを得なかった。

このときが医学部生活で一番苦しかったときかも知れない。
新学期までの1ヶ月間、いろいろな人に相談した。
そのころあったパソコン通信の医学生フォーラムにも詳細を書き、「今の大学を続けるか、やめて国立を受けなおすか迷っている」と結んだ。

多くの人から返事が来たが、すべて「今の大学を続けなさい」という結論だった。
・あなたの場合できるだけ早く医者になる必要があるだろう
・医学部には入りたくても入れない人が大多数であり、あなたはそういう人を押しのけて入学したのだからまっとうする義務がある
等が主な理由だった。

ともかく全国の医学生が一緒に考えてくれたことで孤独感が薄らぎそれだけで楽になった。私と同様の体験をした人もいて、その中の一人が旅行ついでに自宅まで来て慰めてくれた。

留年した学年の最初の試験ではすきなく勉強し、トップの成績をとったのであった。
が、それは勉学意欲からではなく、ひたすら落とされる恐怖にかられてのことであった。

医学部では他の大学でも、人間関係が悪いなかで、一教科でも合格点に満たない教科があれば落とされる状況の中で潜り抜けるように学生生活を送った人も少なくないようである。

最初に入った学年の1年生は96人。そのうち17人が留年を経験し、二人が退学、一人は自殺したのである。この数字を多いとみるか妥当とみるかは人それぞれであろうが、少なくても落とされる恐怖の中で勉強したとしては多いと私は見ている。

大学生活がもっと楽しく、勉強するきっかけが「落とされないため」ではなく、いい医者になるためであったならこの数字はもっと減らせると感じている。

年末のトピックスが暗いものとなってしまったが、これがいい踏み台になって医学教育が楽しく充実したものになるようにと願ってこの文を終える。

皆さん、何はともあれ、よいお年をー。

2008/12/13

表題は「あしながおじさん」のヒロインジュディーが付けた「憂鬱な水曜日」をもじってつけた。

私は医学部1年次、木曜日になると特に憂鬱になった。
何故ならその日は体育の授業があったからである。

といっても体育の授業そのものが嫌だったのではない。
自分は運動音痴ではあるが、むしろスポーツをするのは好きであり、体育実技は「合法的にただで」スポーツができるいい機会ではあった。

憂鬱になった原因は、女子だけになったからである。
と言っても自分は女嫌いではない。
特別な関係の男性を対外的にあまり親しくない人に紹介するときの「友達」を除いては、男友達は1,2人。たまにあって出かけたり食事をすることのできる女性同士の友達は現時点で5人。つまり女性同士の友達の方が多い。その辺では私は女性同士の方がくつろげるごく一般的な昔タイプの女性である。

教師を辞める前の年に、成績会議(進級があやうい生徒の指導・進路を巡って協議する会議)において、「体育実技の時の女性同士の人間関係が嫌で」授業をボイコットした女子生徒のことが話題になり、何とか配慮してやって欲しいという担任からの要請があったことがあった。
成績もまずまずで目立たないその女子生徒を留年させる必要もあるまい、ということでしぶしぶ「情状酌量で進級させる」方に手をあげたが、「たかが女性同士の人間関係で授業をさぼるなんて、なんて自分を大事にしない子だろう!」と内心思ったものだった。
が、その1年後には自分が「女性同士の人間関係が嫌で」、体育実技のある日は吐き気さえするようになってしまったのだった。

入学式の前日、オリエンテーションなるものがあったとき、新入生は講義室に集められ出席簿順に座った。
右隣と後ろを除いてはすべて男子学生だった。
若い男性におばさんである自分が話しかけたら嫌に思うのではないだろうか、という変な遠慮からまずは右隣の女の子に話しかけることにした。

右隣はたおやかな美人という形容がぴったりの、若い頃の古手川祐子さんにも似た感じの子だった。
「皆さんより少し年上ですけど、これから同級生になります。よろしくね。」
ところが、その子は「こちらこそよろしく」とも言わず、ただニタリとして目をそらせた。

あれっと思い、次は後ろを振り返った。
後ろは昔の国立大学の理系の女子学生にいるような勉強家風な地味目な女の子だった。
「この子なら避けないだろう」
と思い、同じことを言った。
「私こそ年を言うとびっくりするかもね。実は薬学部中退していて23才なんです」と言う。
逆の意味でびっくりした。
その子はぱっと見たところ、中年体型で重い雰囲気があり、私に近い位の年にも感じられたからである。
その子とは受験の話、前歴の話などを普通の学生同士と同じように話した。

お昼になり、他に食事する人もいないし、その子も社交的な方ではなさそうな感じだったので一緒に食べる人もいないだろうと思い、
「じゃあ、一緒に食事でもしますか?」と誘った。その子は顔を輝かせて
「はい」と答えた。

実はそれが全ての始まりだったのである。

次の日の入学式、その後の懇親会において、すでに女子学生のグループ分けがなされているのを感じた。
それはあたかも女子学生の間で見えない線が引かれているかのようであった。

前の日のオリエンテーションの時に話をした女子学生(A子さんと呼ぶことにする)は、写真撮影のときも、懇親会のときも傍に寄ってきた。しかも、「昨日はどうも」とか、「おはようございます」というのではなく、何かじんわりと話しかけられるのを待っているのである。それはあたかも内気な女の子が憧れの男の子に自分からは話しかけられず、そばにさりげなく寄って話しかけられるのを待っている風であった。
義理堅い私は合間、合間に話かけたが、女子学生のグループ分けの一環として、真理ちゃんーA子ちゃんカップルが出来ることに抵抗したい気持ちがあって一匹狼を気取っていた。

実際、若き男子学生の方が何人も 私に話しかけてくれたのである。
誤解を恐れずに言えば私は若い男の子と話をするのが大好きである。
女子学生のグループに入れなかったのをラッキーとばかり、彼らと機嫌よく話をした。
入学式に出席してくれた旦那さんも、「この分じゃ、すぐ親しい人が出来そうだね」とほっとしたようであった。

ところがそうは問屋がおろさなかったのである。
男子学生の方は年齢差を気にせず話をしてくれる人が多かったものの、積極的に仲間や友達として迎え入れてくれるはずもなく、あくまでも時々話をする同級生であった。

それでも体育実技のときに、ペアを作って準備運動をするとき、いつものようにあぶれた私の傍に一人のさわやか青年がやってきて、
「よかったら僕がペアを組みましょうか?」
と言ってくれた。
その子は後にトップで卒業し、沖縄中部病院という人気研修病院に採用された秀才であり、成績だけではなく本質的に物事をきちんと理解し、それを惜しみなく他の学生にも与えるようないわゆる模範的な学生であった。入学当初は目立たなかったが、そこは元教師の眼力でこの青年が非凡なものを持っているのをすぐに感じ取っていて仲良くなりたいと思い、時折話しかけていたのである。

「ラッキー」というところだが、「待った」がかかった。
体育の教師が、「女性同士にしなさい」と。
あーあ、と思いつつ、当然同じように「あぶれた」A子さんとペアを組んだ。

体育の時間に関わらず、医学部の講義・実習ではペアを組んでなにかすることが多かった。
他に申し出てくれる人もいたが、Aさんのペアが見つからないと私が相手をせざるを得なく、しかもA子さんとは出席番号が続き番号なので実験のときはいつも一緒のグループ、結局毎日A子さんと二人っきりでえんえん過ごすことになったのである。

しかも、女子学生のほとんどは私とA子ちゃんを露骨に無視。
男子学生とはA子さんといる隙間を縫って少し話をして息抜きをした。
最初はA子さんを男子学生の中に入れようと思い、彼女を交えて男子学生と話をしようと試みたのだが、A子さんは他の人がいても私にだけしか話をしないのである。

もし私とA子さんが教師と生徒の仲であったなら、上記のようなネガティブな思いを抱かず、純粋にA子さんのいいところを育てようとしたと思う。
「あの子は外れているけれど頭もいいし、物事をよく解釈するような人の良さもあるし、凄くいい子なんだよ」と同僚の先生や他の生徒の前でも言ったことだろう。

実際に最初の頃は、上記のようにA子さんのことを話をしていた。
が、お互いに外見がおばさんっぽく格好も構わないためにA子さんと私がペアにされたのだろうというネガティブな思いこみ、嫌いな異性にストーカーされているような落ち着かない気分があいまって、だんだん大学に行きたくなくなってきたのである。

一月、二月経つと心のうちで、「1/72終わった」、「やっと2/72 」と数えていた。(医学部は6年間、6×12=72で72ヶ月あるのだ。)
後に書くこともあるかもしれないがこうして耐えて過ごしたにも関わらず、3月には0/72に戻ったーつまり留年したのであった。

体育の授業は 31人の女子学生からの無視、A子さんからは恋人のごとく親しげに振舞われることが増強されるのだった。が、年間480万円の学費を無駄にするわけにもいかず、ほとんど皆勤したのだった。

あるとき、バレーの試合をしていた。
私が線審に入って、A子さんを含めた6人グループと他の6人が試合をしていた。
「パス」とか「ナイス」と声を掛け合う中で、いつものようにA子さんは無視されていた。

ちょうどA子さんのいたグループでサービスエースが決まった。
A子さんを除いた5人が集まって、「やったね」とばかりに手の平を合わせた。
それを見ていたA子さんが、おずおずとやってきて、その中の一人に手の平を合わせた。

A子さんに手の平を合わせられた女子学生は観客席の方を見てニタリとしたのである。

衝動的な怒りがわいた。
もし教師の立場でその場にいたら、走っていってニタリとした学生を殴りつけたかも知れない。(暴力反対!って済みません)
幸いその衝動は抑えたが、怒りのあまり旗をぐっと下ろした。

びっくりしたのは他の学生である。
突然関係のないところで線審の私が勢いよく、旗を振ったのである。
挨拶くらいはする女子学生が、メールで「どうしたのですか」と聞いてきたので、状況と私の気持ちを正直に書いた。
何でもやってはみるもので、その女子学生とはたまに話をするようになったのである。

幸か不幸か私もA子さんも留年して(二人とも学年順位はまずまずだったが、特定の教科で合格できなかったのである)、このクラスとはさよならした。

年齢がいってから医学部に入ったことで、私と同年代の人は(特に今お医者さんをやっておられる方々が)
「勉強大変でしょう」
という。

確かに分量は多いかもしれないが新しいことを学ぶことは基本的に 楽しい。
勉強の何倍も「憂鬱な木曜日」の方が大変だった、というのが正直なところである。

2008/11/16

シケプリ、正式名称?は試験対策プリントということになるのだろうか。

20年ぶりの大学生活に突入して以来、「えっ今の時代はこうなっているの?」とびっくりすることが多かったが、このシケプリもその一つだった。我が母校では、資料と読んでいる。

授業ノートの要約、過去問の解答・解説等を学生が分担して書き、それを希望者にコピーして渡すのがこのシケプリ(資料)である。最低これを読んでいけば合格点は取れるという便利な代物である。最初の定期テストで、「さあ、資料を作りましょう」と声掛けがあったときは何が始まるか分からなかった。原子工学科出身の私は得意な物理を担当し、言われるままに課題の解答・解説を書いた。ものの動きに疎い私はその資料を読んでいけば合格点を取れることを知らず、その資料を殆ど見ずに試験を受けた。(それでも結果は96人中29番、まずまずだった)

2,3回目からは、資料の重要性に気付き、得意な物理の他はまず資料を見てから勉強した。

ところで資料を使っての試験勉強に難色を示す先生は多かったが、講義が下手でポイントもわかりにくいのでこういうものは必要悪だと感じる。

さて資料をみんなで作りましょうと最初音頭をとったのは銀行を早期退職して医学部に入学して来られたTさんという方だった。(私やTさんに限らず医学部にはこうした社会人経験者が多い)最初に資料を配り、 あとでコピー代を請求したのだがお金を払わない学生が続出して、Tさんは何万円も損をしたそうである。また、自分がこの資料だけを使って合格した学生に限って内容についても苦情を言ったそうである。

あれやこれやで、Tさんは疲れ果て、二度と試験対策委員をやりたくない、と言い出した。

困ったのはアウトサイダーの学生たちである。普通の学生は先輩から去年の資料をもらうことができるので、up to dateではないけれど、何とか試験には対応できることが多いのでそう困らない。

もう1人のおじさん医学生が私に試験対策委員を引き受けて欲しいと何度も頼んだのである。
資料の価値がまだわかっていなかったのではあるが、頼まれたら嫌と言えない典型的AB型人間なので引き受けた。
こうしてその年の前期試験、後期試験は私の音頭で資料(シケプリ)を作ることになったのである。

2008/09/23

私が40代半ばを過ぎてから医学部に入ったことを知ると、高校時代の同級生の1人が
「みんながクールダウンするときに、アップするんだものね。凄いね。」と言ってくれた。

その後
「ところで週に何回大学に行っているの?」
とか
「教員は続けているの?」
という質問が来たのにはびっくりした。

最初の日記「ENCANTADA」で書いたように、私大の医学部は第2外国語を除いてすべて必修である。
しかも、朝から晩までびっしりカリキュラムが詰まっていて、実験、実習があると下手をすると8時、9時まで残ることになる。
もちろん月から金まで毎日ある。そのうち書こうと思うが、試験も厳しい。
おそらく国立でも、比較的自由度があるのは1年生だけであとはびっしり詰まっていると思われる。
だからもちろん夜学はない。(修業年限10年くらいの夜学があってもいい、と個人的には思っているがー。)

前述の質問に限らず、私の大学生活を「お稽古事に毛の生えたようなもの」と捕らえている人は多かった。
同窓会にて、カウンセリングを週に2回学んでいる女性に
「真理ちゃん、勉強って本当にたいへんよね。」
と言われたのには、正直なところ苦笑してしまった。 
私も教師時代2年間毎週ルーテル神大(今のルーテル学院大学)でカウンセリングを学んだ。
そこで学んだことは多々あったが、負担を感じたことはなかった。
あくまでも高級な娯楽であった。
が、主婦の人たちは教材1冊読むことが一仕事だったようだ。

彼女たちが、その学びに新鮮さを覚えていること自体はむしろほほえましく思う。
が、彼女たちが医学部の生活を同様のものと考えていることに対しては苦笑してしまう。
ちょうど、私がたまに家の大掃除をやると「家事って大変だなあ」など宣って旦那さんをあきれさせるが、人間自分がプロでない領域に関してはそのような認識なのであろう。

このようなことは他でもあって、去年個人タクシーの運転手さんと知り合ったとき、
「実は駐車場まで歩くのがつらい時があるのです。そういう時に頼めるところが欲しいのです。」
と言ったとき、ちょっと躊躇したが快く引き受けてくれた。それでも、定期的にその大学に学びに来ていると思ったようで、毎日毎日朝早く大学に行って、夜遅く帰ることにびっくりしたようだ。

未だに予備校に時々送ってもらっているわけで、彼にとってとんだ災難だったかもね。

この他にもびっくりではないが、よくある質問の中に
「何科を専攻してますか?」
というのがある。
ちょうど、工学部に建築科、電気工学科、合成化学科とあるように、医学部にはじめから、内科、小児科、産婦人科という専攻があると思っている人は多い。
全てを学び、しかもそのあと2年間スーパーローテートといって、内科、外科、小児科、産婦人科、救急、麻酔科、地域医療の全てを回る初期臨床研修があって、その後やっと専攻が決まるのである。

一人前の医師になるのは道のりが果てしなく長い。

股関節変形症という持病のある私だが、これ以上病気を増やさないように気を付けて、健康寿命を長く保たないとね。