2009.01.06

某市民病院で迎えた誕生日

あけましておめでとうございます。
8月末からJunkStageに1ライターとして参加させていただいていますが、早いもので今回で18個目の記事となります。支えてくださったスタッフの方々、私の文を読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

実は、新年の最初の記事は1月6日に書こうと最初から決めていました。
何故って?

1月6日は私の誕生日なんです。
××回目の誕生日、これだけ誕生日を重ねるとさまざまな誕生日を迎えてきました。

高校を卒業するまでは、母の手料理で祖母、両親、妹弟がともに祝ってくれた誕生日が多かったですね。一度だけ、小学校で誕生日に招待するのがはやっていて、私も同級生を招いて誕生日会をやった記憶があります。
一人暮らしになってからは、自室で誕生日を迎えた感想や抱負を一人黙々日記につづったことが多かったですね。一度私の熱心なファンの男の子から誕生日カードが送られてきて、しかも帰省先まで訪ねてこられて困惑したこともありました。
正直言ってどうしても好きになれない人だったのですが、弟からは、
「真理ちゃんがあれ以上望むのは贅沢だよ、結婚してあげたら?」
とからかわれたものでした。

結婚してからは、自らレストランに予約を入れ「今日が私の誕生日だよ」と半ば強制的に誕生日をお祝いさせてましたね。
医学部に入って、解剖実習や試験で大学の近くに住む必要ができて別居してからは、内省的な誕生日に逆もどり。若い大学生が誕生日プレゼントを交換している環境にあって、自虐的にドミノピザを注文したものでした。ドミノピザは誕生日プレゼントをつけてくれるからね。そんな中で4年生のときに、若いクラスメートが誕生会をしてくれたのには感激したものです。フルーツゼリートッピングの誕生ケーキも持ってきてくれて、しかも2匹の子牛のシューキーパーを誕生日プレゼントにいただきました。
様々な年代の人が学ぶ医学生でもやはり40代以上は少数派。誕生日を祝えてもらったのは私だけかもしれないと、ありがたく思っております。

そして2年前の2007年の1月6日、私は誕生日を某市民病院の寮で迎えたのでした。

医学生は、「マッチングシステム」 http://www.junkstage.com/mari/?p=4
で書いたように、行きたい病院を順位を付けてコンピューターに登録して、10月半ばのコンピューターによる発表を待つわけですが、その際多くの医学生は 病院見学→採用試験を受ける→マッチングに登録する、という手順をとります。

いいといわれる病院でも自分にあっている病院かどうかを見極める必要があるというこちら側の理由と、見学にくることが採用試験を受ける条件だったり、見学に行くことで採用にあたって大きなプラス材料になることが多いという病院側の理由もあって、病院見学は不可欠なわけです。

小さな病院だとすぐに見学に行けますが、人気の高い病院だと1ヶ月、2週間以上前に申し込む必要があるので、学生は定期試験の合間に見学を申し込み長期休暇を利用して見学に行くことが多いのです。

ところが、知っている病院すべてを見学することは不可能なので見学する病院を絞るわけですが、そのための事前情報はかなり乏しく、口コミ、宣伝、有名病院だけネット等でさぐったり、レジナビフェアのような合同説明会(真夏にスーツでゆりかもめに乗る 参照)を利用したりするが、これというシステマチックなものはないので、ゆきあたりばったりになりがちなのです。面倒になって、「母校でいいや」という学生も少なくありません。筆者は「ゆううつな木曜日」や「あっ名前がない」の記事で書いたようなことがあり、どうしても母校を脱出したくて、なんと総計20個の病院見学をしたのでした。(就職活動と別に訪問した病院を入れると26個になります。) それなのに研修先が母校の付属病院に決まってしまったのだから、皮肉なものです。
もしかしたらJunkStageに執筆するための神様のご配剤でしょうか。

話題を戻すと、某市民病院へはドクターズマガジン の宣伝文句、
「駆け出しの頃に必要なのは手技を含めてできるだけ経験を積む事だと思いますが、ここではたくさんの手技が経験できます。」
に惹かれてのことだったのです。

40の手習いならず、39歳のときに運転免許を取ったあと、1年間で1万8千キロ走りました。
高速、山道、都心の幹線、人通りの多い細い道、と困難なところに挑戦して走りました。
そのときの体験で、免許は取った後が大事で、最初の頃に自分の手で出来るだけいろいろなことを体験する必要があるのではないかと思ったのでした。

風邪、怪我、慢性病、救急処置等、何でも一通りできる所謂便利な町医者さんを目指している自分にとって研修医時代に色々な体験を積ませてくれる病院に行きたいと思っていました。

たくさんの手技が経験できるという 某市民病院こそ、求めている病院かも知れないとわくわくする思いでした。さっそく電話をし、1月5日、6日見学を予約したのでした。

新幹線に乗って、ローカル線に乗り換えて、更にバスに乗ってやっとたどり着いたのですが、所要時間は3時間ちょっとでした。
思ったほど遠くない、しかも病院はぴかぴかで綺麗、初任給37万円、寮費2万円で寮は病院の敷地内にあり、綺麗である。
しかも、研修医達はフレンドリーで親子ほど年が違う私に対して貯め口を利くほど。

一瞬、ここに決めた!

と思ったのですが、結局は行きませんでした。

その理由は 、研修医でも経験できる≒誰もやれない とわかったからです。
例えば、研修担当のトップのお医者さんが、マニュアルを見ながら看護師さんに教えてもらいながら、内視鏡検査をしていたのです。それを見てちょっとぞっとしてしまったのでした。

一方、これを書きながら、学生実習とたいして変わりない研修医生活、25万の給与で寮費5万3千円、という母校の付属病院を思うと、某市民病院でもよかったかな、という気持ちもちらりとわいているのです。

2008.12.31

あっ名前がない!!

2000年、3月9日。我々夫婦の結婚記念日でもあるこの日、私はまだ花が咲いていない桜並木の中を車を走らせていた。
車を駐車場に付け、大学に向かう。

「まだだって。夕方5時頃になるってさ」
「そう」
「どっかで話でもしている?」

クラスメート二人と近くの公園に行って雑談する。

「そろそろ行っているか」
おもむろに歩き出す。

「もう出ているよ」
知り合いの上級生がすれ違いざま、声をかける。
結果を言わないのが気になったが、「大丈夫だ、大丈夫だ」と自分に言い聞かせる。
やけに胸がどきどきしている。
それにしても、この胸の高鳴りはいったい何なんだろう。

掲示版を見つめる。
「第2学年 進級者」



三枝洋子
佐藤哲夫
島田祐介
(名前は全て仮名です)

「えっ、名前がない 」

何度見ても同じだ。

先程話していた同級生が、別世界の人のように感ずる。

が、同級生の1人の背中をつっつき、
「なかった!」
とだけ言った。
その同級生は、返事に困った表情だった。

足がふらつくのを感じた。

帰りの運転はできはしない。

私は、旦那さんに電話をした。

「どうだった?」
「それが、留年でしたー。」
「えっ」
「混乱して、運転できない。迎えに来て!!」

それにしてもー
確かに再試科目が4つ。少なくはなかったけどー。
そしてそのうちの2つは十分な出来ではなかったかも知れないけれどー。
少なくても本試よりは随分できていたはずだ。
そして、再試にならなかった科目については上位成績をとっているはずだ。
3度目の大学生活なので、油断があったのだろう。
実際、前2回の大学だったら当然進級のケースだろう。

しかもー、
最初の大学、北大では私は劣等生で、レポートはほとんど遅れて提出、人のものを写させてもらっていた。今回は、全部自力で書き、しかもわからない人に教えてあげたことは数限りなかった。クラス委員、試験対策委員もやり、クラスメートが進級できるように走り回っていたはずだ。どうしてー。

そんな思いが錯綜し、旦那さんが迎えに来る前に食事につきあってくれた二人の同級生の前でついつい愚痴ってしまう。

彼らは無事進級しているわけで、新しい学年に向かっての準備等(解剖という難関が待ち構えているのだ)、もっと話したいことがあったろうに、留年した私の混乱に付き合うことになったわけで、いまになってお詫びしたい気分だ。

また、私の続き番号であるA子さん(憂鬱な木曜日参照
http://www.junkstage.com/mari/?p=22ー私はA子さんと一緒にクラスの女子に集団しかとを受け、しかもA子さんには年中つきまとわれていた)も進級者名簿になかったのである。
彼女のことがわずらわしくなった自分は、親切にするふりをしながら少しずつ突き放していた。彼女がみるみる元気がなくなっていくのを感じていたが、心の中で「いっそ留年して欲しい、彼女が留年したら別れられる」とまで思っていた。彼女は、7,8個の科目が再試だった。成績発表があるたびに、「これで別れられる!」と残酷なことを心密かに思っていたのである。
だから、A子さんと一緒に留年してしまったことを知ったとき、一番最初に思ったことは、
「罰があたった!」
ということである。
また、A子さんと一緒に留年してしまったということは、状況が変わらず、留年してもさらに十分な成績がとれず、二人一緒に放校(たいていの医学部では、2回続けて落第すると放校である)になってしまうかも知れないという問題もあった。

もうひとつ嫌なことがあった。生物の教授に意図的に落とされた感覚であった。
再試になったときにその先生に
「どういう準備をしたらいいでしょうか」
と聞きにいったのだった。
すると、
「そんなの答えられないよ、だって勉強の仕方は君と僕じゃ違うでしょ、そうじゃない?」
と突き放したように言った。
ところがA子さんには、「今までの試験に出たところを勉強しておけばいい」
と答えたそうである。

この教授は、「年齢も近いことだし、何か悩みがあったらいつでも相談にいらっしゃい」と言ってくれたのである。いろいろな状況を最初は誰にも相談できず我慢していたのだが、その言葉に甘えてA子さんのことや、その他のクラスメートのことを相談していたのである。でも、どうしても悪口に聞こえてしまうわけで、印象を悪くした感はあった。

(カウンセラーは名目ではいたが、学生係を通じてカウンセリングを申し込まなければいけないシステムであり、しかも申し込んでから一月後にようやくカウンセラーが来る有様で、実質的に機能していなかった。このことに関してかなり運動したが、それが実ってか、4年生以後には専任カウンセラーと直接コンタクトが取れるようになったのである。)

しかも教授に、「今年センター試験を受けるのか?」
と聞かれたときに正直に、「はい」と答えてしまっていたのだった。
実際、もうこの大学にいるのは耐えられないと思い、密かに脱出を図っていたのである。
(センター試験は受けたが、2次試験は再試と重なり受けることができなかったのである。)

不信を感じた私は生物の教授のところに行って「答案を見せて欲しい」と言った。
教授は58点の答案を持ってきて不十分なところを述べた。(通常の大学同様、60点が合格である。)教授は、
「で、どうする?」
と聞いた。
「今考えてます。」と言うと
「国立の編入とかはだめなのか?」と言う。
「そんな編入なんてすごい競争率ですよ。年も若くて職歴、学歴も凄い人しか入れませんよ。私じゃあ、一般入試でなければ、無理です。」と答えると
「そうかー」
とだけ言う。
「そんな、無責任な、私が国立に逃げると思ったので、落としてもいいと思ったのかー。」
と思わざるを得なかった。

このときが医学部生活で一番苦しかったときかも知れない。
新学期までの1ヶ月間、いろいろな人に相談した。
そのころあったパソコン通信の医学生フォーラムにも詳細を書き、「今の大学を続けるか、やめて国立を受けなおすか迷っている」と結んだ。

多くの人から返事が来たが、すべて「今の大学を続けなさい」という結論だった。
・あなたの場合できるだけ早く医者になる必要があるだろう
・医学部には入りたくても入れない人が大多数であり、あなたはそういう人を押しのけて入学したのだからまっとうする義務がある
等が主な理由だった。

ともかく全国の医学生が一緒に考えてくれたことで孤独感が薄らぎそれだけで楽になった。私と同様の体験をした人もいて、その中の一人が旅行ついでに自宅まで来て慰めてくれた。

留年した学年の最初の試験ではすきなく勉強し、トップの成績をとったのであった。
が、それは勉学意欲からではなく、ひたすら落とされる恐怖にかられてのことであった。

医学部では他の大学でも、人間関係が悪いなかで、一教科でも合格点に満たない教科があれば落とされる状況の中で潜り抜けるように学生生活を送った人も少なくないようである。

最初に入った学年の1年生は96人。そのうち17人が留年を経験し、二人が退学、一人は自殺したのである。この数字を多いとみるか妥当とみるかは人それぞれであろうが、少なくても落とされる恐怖の中で勉強したとしては多いと私は見ている。

大学生活がもっと楽しく、勉強するきっかけが「落とされないため」ではなく、いい医者になるためであったならこの数字はもっと減らせると感じている。

年末のトピックスが暗いものとなってしまったが、これがいい踏み台になって医学教育が楽しく充実したものになるようにと願ってこの文を終える。

皆さん、何はともあれ、よいお年をー。

2008.12.27

是非、第一志望にしてくださいね

2007年10月18日、午後2時。
パソコンにIDとパスワードを入れ、次の画面が出てくるのを待つ。

えっ、、、

出てきた文字はいくつか空想した文字のいずれでもなかった。

T大学付属病院臨床研修プログラム
 私は去年、今年とそれぞれ7つ病院を受け、8つと10個の研修プログラムに登録した。(ひとつの病院で複数個のプログラムのプログラムがあることがあるので、こういう計算が成り立つ。詳しくはマッチングシステムhttp://www.junkstage.com/mari/?p=4 参考のこと)

去年の登録ではT大付属病院は第7希望だったのだ。

年齢が他の学生より多く、左足が悪く、しかも留年経験あり。
こういう条件の悪い私がすんなり競争率の高い研修病院にマッチするとは思えなかったが、しかしー。7/8とは・・・。

最低第4志望にしたN大学付属病院や第6志望のJ医大付属病院では私をとってくれると思ったのである。N大学では、募集人員>応募者数である上、面接の時に「あなたの生き方を応援したいと思います」と言われたのだった。もっとも、N大学ではたとえ定員割れの状態であっても取りたい学生しか取らないといううわさがあったし、N大学の研修担当のトップの教授が私の年齢を知って、
「ここでは週一確実に当直があるので無理だと思いますよ。僕だってもう(その先生が私よりひとつ年下だったのだ)もうしんどいもの。当直のない病院をお探しになることをお勧めします。」と言ったので、やっぱりうわさは本当だったのだと納得した次第であった。が、当直のない病院なんてあるのかーというところだが・・・・。

もっと意外だったのはJ医大だった。J医大は大学病院にしては人気が高く、定員60名のところ第一希望だけで65名いたので冷静に考えれば当然とは言えた。
ただし、面接の時に
「亀田と渓仁会(ここは少人数教育、英語教育を取り入れているところで人気が高い)を受けたと言うことですが、第一志望をどこにしましたか?」
と聞かれたので、正直に?
「まだ考えているところです。」
と答えた。
すると
「是非うちを第一志望にしてくださいね。」
とにっこりしてくれたのだった。
私もにっこりと
「はい」
と言ったのだ。
「これで、一つ確実に確保ね。」と思ったのだが・・・。

あーあ、裏切られたなと筋違いなことを思ったのだが、圧迫面接されるよりいいか、と割り切ることにした。

ところで就職活動中に圧迫面接をされたことは一度もない。公務員系の病院で履歴の穴を若干聞かれたのみだった。

Junkstageのstaffの方に、「就職浪人された方はどのように進路を考えるのですか?」と聞かれたが、よほど人気病院ばかり選ばない限り、ほとんどの人はどこかの病院にマッチする。

全体としては大幅に、募集人員>応募者 なのでマッチしなかった学生も2次募集でどこかの病院に決まるし、決まらなかったら母校の付属病院が優しく迎え入れてくれる。

つまり、就職率100%なのである。入るときも、入学してからも常に落ちる恐怖にさらされ、いやな人間関係にも耐えて実習をこなしていかなければならない医学部生活だが、この点は他の学部の人がうらやましがるところであろう。

そうはいっても医学部を出て、医師国家試験に通っても医者にならない人は若干存在する。
家がお金持ちであるケースも多いわけで自分で事業を立ち上げるケースもあったり、予備校講師をしたり、医学関係の出版社に勤める等が主な道である。

変り種では東大の医学部在学中、株に興味を持って証券会社に行ってしまった人もいるとか。

医学部再受験生が多い昨今だが、逆の人も若干いるわけで、むしろ健全なことかもしれない。

が、大多数は就職率100%に乗って研修医生活に入るのである。

2008.12.20

味の素を取ると頭が良くなる?

今もそうだが、子供の頃化学調味料の味が嫌いだった。
元々の材料の味があるのに何で奇妙な味付けをするのか分からなかった。

嫌がってのけると、
「味の素をかけると頭が良くなるんだ」
と母は言った。
そんなものかと思い渋々取っていたがどうしても好きになれなかったものだ。

ところが私が教師をやっていた頃は、化学調味料を多量に取っている子は切れやすい、と言われるようになった。化学調味料が嫌いだった自分は、我が意を得たり、とばかりに感じたものだった。

医学部で学んだことでこの二つの俗説の根拠が分かったのである。

化学調味料のメイン成分であるグルタミン酸ナトリウムは脳の神経を興奮させる神経伝達物質なのである。それが、「味の素を取ると頭が良くなる」、「化学調味料を取ると切れやすくなる」という俗説を生む元になったのだと思う。

が、興奮状態が長く続けば疲れてしまうことは大いに想像できると思うが、ある一定以上の血中グルタミン酸ナトリウムにさらされると神経細胞が傷み、元に戻らなくなってしまうのである。

それでは困るので、脳のグリア細胞にはグルタミン酸トランスポーターというものが存在し、用のなくなったグルタミン酸ナトリウムをすぐに回収し、神経細胞を保護する。

つまりはグルタミン酸ナトリウムは神経の興奮のためには必要だが、高濃度のグルタミン酸ナトリウムは猛毒になるようである。

実際、脳のグリア細胞にあるグルタミン酸トランスポーターが減少することにより、筋側索硬化症が起こるらしい。タンパク質を普通に取っている限り、グルタミン酸ナトリウムが不足することはないであろう。だから、過剰になる危険を冒してまで、わざわざ摂取するまでもないだろう、というのが私の意見である。

私が以前お世話になった漢方を取り入れているお医者さんが、「本能の声に従うのが一番」とおっしゃっておられましたが、子供の頃化学調味料の味が嫌いだったのは本能だったのかも知れない。

2008.12.13

憂鬱な木曜日

表題は「あしながおじさん」のヒロインジュディーが付けた「憂鬱な水曜日」をもじってつけた。

私は医学部1年次、木曜日になると特に憂鬱になった。
何故ならその日は体育の授業があったからである。

といっても体育の授業そのものが嫌だったのではない。
自分は運動音痴ではあるが、むしろスポーツをするのは好きであり、体育実技は「合法的にただで」スポーツができるいい機会ではあった。

憂鬱になった原因は、女子だけになったからである。
と言っても自分は女嫌いではない。
特別な関係の男性を対外的にあまり親しくない人に紹介するときの「友達」を除いては、男友達は1,2人。たまにあって出かけたり食事をすることのできる女性同士の友達は現時点で5人。つまり女性同士の友達の方が多い。その辺では私は女性同士の方がくつろげるごく一般的な昔タイプの女性である。

教師を辞める前の年に、成績会議(進級があやうい生徒の指導・進路を巡って協議する会議)において、「体育実技の時の女性同士の人間関係が嫌で」授業をボイコットした女子生徒のことが話題になり、何とか配慮してやって欲しいという担任からの要請があったことがあった。
成績もまずまずで目立たないその女子生徒を留年させる必要もあるまい、ということでしぶしぶ「情状酌量で進級させる」方に手をあげたが、「たかが女性同士の人間関係で授業をさぼるなんて、なんて自分を大事にしない子だろう!」と内心思ったものだった。
が、その1年後には自分が「女性同士の人間関係が嫌で」、体育実技のある日は吐き気さえするようになってしまったのだった。

入学式の前日、オリエンテーションなるものがあったとき、新入生は講義室に集められ出席簿順に座った。
右隣と後ろを除いてはすべて男子学生だった。
若い男性におばさんである自分が話しかけたら嫌に思うのではないだろうか、という変な遠慮からまずは右隣の女の子に話しかけることにした。

右隣はたおやかな美人という形容がぴったりの、若い頃の古手川祐子さんにも似た感じの子だった。
「皆さんより少し年上ですけど、これから同級生になります。よろしくね。」
ところが、その子は「こちらこそよろしく」とも言わず、ただニタリとして目をそらせた。

あれっと思い、次は後ろを振り返った。
後ろは昔の国立大学の理系の女子学生にいるような勉強家風な地味目な女の子だった。
「この子なら避けないだろう」
と思い、同じことを言った。
「私こそ年を言うとびっくりするかもね。実は薬学部中退していて23才なんです」と言う。
逆の意味でびっくりした。
その子はぱっと見たところ、中年体型で重い雰囲気があり、私に近い位の年にも感じられたからである。
その子とは受験の話、前歴の話などを普通の学生同士と同じように話した。

お昼になり、他に食事する人もいないし、その子も社交的な方ではなさそうな感じだったので一緒に食べる人もいないだろうと思い、
「じゃあ、一緒に食事でもしますか?」と誘った。その子は顔を輝かせて
「はい」と答えた。

実はそれが全ての始まりだったのである。

次の日の入学式、その後の懇親会において、すでに女子学生のグループ分けがなされているのを感じた。
それはあたかも女子学生の間で見えない線が引かれているかのようであった。

前の日のオリエンテーションの時に話をした女子学生(A子さんと呼ぶことにする)は、写真撮影のときも、懇親会のときも傍に寄ってきた。しかも、「昨日はどうも」とか、「おはようございます」というのではなく、何かじんわりと話しかけられるのを待っているのである。それはあたかも内気な女の子が憧れの男の子に自分からは話しかけられず、そばにさりげなく寄って話しかけられるのを待っている風であった。
義理堅い私は合間、合間に話かけたが、女子学生のグループ分けの一環として、真理ちゃんーA子ちゃんカップルが出来ることに抵抗したい気持ちがあって一匹狼を気取っていた。

実際、若き男子学生の方が何人も 私に話しかけてくれたのである。
誤解を恐れずに言えば私は若い男の子と話をするのが大好きである。
女子学生のグループに入れなかったのをラッキーとばかり、彼らと機嫌よく話をした。
入学式に出席してくれた旦那さんも、「この分じゃ、すぐ親しい人が出来そうだね」とほっとしたようであった。

ところがそうは問屋がおろさなかったのである。
男子学生の方は年齢差を気にせず話をしてくれる人が多かったものの、積極的に仲間や友達として迎え入れてくれるはずもなく、あくまでも時々話をする同級生であった。

それでも体育実技のときに、ペアを作って準備運動をするとき、いつものようにあぶれた私の傍に一人のさわやか青年がやってきて、
「よかったら僕がペアを組みましょうか?」
と言ってくれた。
その子は後にトップで卒業し、沖縄中部病院という人気研修病院に採用された秀才であり、成績だけではなく本質的に物事をきちんと理解し、それを惜しみなく他の学生にも与えるようないわゆる模範的な学生であった。入学当初は目立たなかったが、そこは元教師の眼力でこの青年が非凡なものを持っているのをすぐに感じ取っていて仲良くなりたいと思い、時折話しかけていたのである。

「ラッキー」というところだが、「待った」がかかった。
体育の教師が、「女性同士にしなさい」と。
あーあ、と思いつつ、当然同じように「あぶれた」A子さんとペアを組んだ。

体育の時間に関わらず、医学部の講義・実習ではペアを組んでなにかすることが多かった。
他に申し出てくれる人もいたが、Aさんのペアが見つからないと私が相手をせざるを得なく、しかもA子さんとは出席番号が続き番号なので実験のときはいつも一緒のグループ、結局毎日A子さんと二人っきりでえんえん過ごすことになったのである。

しかも、女子学生のほとんどは私とA子ちゃんを露骨に無視。
男子学生とはA子さんといる隙間を縫って少し話をして息抜きをした。
最初はA子さんを男子学生の中に入れようと思い、彼女を交えて男子学生と話をしようと試みたのだが、A子さんは他の人がいても私にだけしか話をしないのである。

もし私とA子さんが教師と生徒の仲であったなら、上記のようなネガティブな思いを抱かず、純粋にA子さんのいいところを育てようとしたと思う。
「あの子は外れているけれど頭もいいし、物事をよく解釈するような人の良さもあるし、凄くいい子なんだよ」と同僚の先生や他の生徒の前でも言ったことだろう。

実際に最初の頃は、上記のようにA子さんのことを話をしていた。
が、お互いに外見がおばさんっぽく格好も構わないためにA子さんと私がペアにされたのだろうというネガティブな思いこみ、嫌いな異性にストーカーされているような落ち着かない気分があいまって、だんだん大学に行きたくなくなってきたのである。

一月、二月経つと心のうちで、「1/72終わった」、「やっと2/72 」と数えていた。(医学部は6年間、6×12=72で72ヶ月あるのだ。)
後に書くこともあるかもしれないがこうして耐えて過ごしたにも関わらず、3月には0/72に戻ったーつまり留年したのであった。

体育の授業は 31人の女子学生からの無視、A子さんからは恋人のごとく親しげに振舞われることが増強されるのだった。が、年間480万円の学費を無駄にするわけにもいかず、ほとんど皆勤したのだった。

あるとき、バレーの試合をしていた。
私が線審に入って、A子さんを含めた6人グループと他の6人が試合をしていた。
「パス」とか「ナイス」と声を掛け合う中で、いつものようにA子さんは無視されていた。

ちょうどA子さんのいたグループでサービスエースが決まった。
A子さんを除いた5人が集まって、「やったね」とばかりに手の平を合わせた。
それを見ていたA子さんが、おずおずとやってきて、その中の一人に手の平を合わせた。

A子さんに手の平を合わせられた女子学生は観客席の方を見てニタリとしたのである。

衝動的な怒りがわいた。
もし教師の立場でその場にいたら、走っていってニタリとした学生を殴りつけたかも知れない。(暴力反対!って済みません)
幸いその衝動は抑えたが、怒りのあまり旗をぐっと下ろした。

びっくりしたのは他の学生である。
突然関係のないところで線審の私が勢いよく、旗を振ったのである。
挨拶くらいはする女子学生が、メールで「どうしたのですか」と聞いてきたので、状況と私の気持ちを正直に書いた。
何でもやってはみるもので、その女子学生とはたまに話をするようになったのである。

幸か不幸か私もA子さんも留年して(二人とも学年順位はまずまずだったが、特定の教科で合格できなかったのである)、このクラスとはさよならした。

年齢がいってから医学部に入ったことで、私と同年代の人は(特に今お医者さんをやっておられる方々が)
「勉強大変でしょう」
という。

確かに分量は多いかもしれないが新しいことを学ぶことは基本的に 楽しい。
勉強の何倍も「憂鬱な木曜日」の方が大変だった、というのが正直なところである。

2008.11.30

教師はやはり授業で勝負

タイトルの言葉は教師時代にさんざん言われた言葉だ。

教師だった頃、性格的になめられやすいこともあって、授業がまともに成立しないことが多かった。
授業中の私語(それもひそひそ話ではなく、席が離れている生徒同士が会話したこともあった)、居眠り、漫画読みは日常茶飯事、時には飲食、立ち歩き等をする生徒がいて授業の雰囲気ではなくなったし、第一私語がうるさくて声が後ろまで通らなかった。
授業を受けたい生徒は前の方に集まっていた。

もちろん注意はしたし、少しでも授業に入り込めるよう作業的なことを取り入れたり、いろいろ対策は練ったがうまくいかなかった。
それに対して同情してくれた同僚の先生もいたが、教頭先生や何人かの先生が「わかりやすく入り込みやすい授業をするば生徒はついてくる、努力するべきだ!」と説教をした。

新任教師一年目の時は新任研修というのがあったとき同様の状況に追い込まれている新任教師も多いことを知った。そのとき言われたことも、「授業で勝負」だった。

当時はそのことに反発する気持ちもあった。
私はそんなにひどい授業をしているつもりはない、聞く姿勢のない生徒が悪いんだ、あるいは私に威厳がないことが問題なんだと。
しかも、教師には公務分掌(生徒指導部、進路指導部のような係)や出席簿管理、内申書作成などの授業以外の仕事が結構あり、教師同士の人間関係をよくするためには授業以上にそれらをうまくこなすことが必要だった。

が、久しぶりに大学生になって授業(大学では講義というべきだが)を受ける立場に戻ったとき、先生家業は惹きつけることのできる授業(講義)をすることが一番大事なんだ、と悟った次第である。反面教師からも、模範になるような教師からもそのことを学んだ。もし、私が教師に戻ることがあったなら一皮向けたいい教師になることができるだろう。
まずは、反面教師の例から

生化学のM先生
知っていることを全部急いで話そうとする、思いつきで話をする、板書がごちゃごちゃで読みにくい。
「真理(教師時代、真理ちゃんとか真理と呼ばれることも多かった)のことは好きだけど、真理の授業わけわからん」
と教師時代いわれたことがあったが、このM先生も限りなく人はいいのだが講義を聞くのが苦痛だった。

こちらの方はまだご愛嬌ですむが、いささか性質がよくなかったのが同じく生化学のH先生。
減点方式、性悪説をとっていて、講義や実習の態度が悪いと目を付けられて留年させるとの評判だった。
学生の内職や居眠りについてもちくちく文句を言った。
が、肝心のその先生の講義はわかりにくい上、講義に人生訓を混ぜた。
人生訓ではいいことも言っていたのだが、いい講義をして本当の意味で学生思いの教師になってこそその人生訓は生きるのになあ、と心のうちに思ったものだ。
私の教師時代はM先生のような要素も多かったし、H先生のような要素も皆無ではなかったと今は素直に認める。わが教え子達に心のうちでお詫びする次第である。

一方名講義を受けたことも数少なかったがあった。
今回はそれらの講義をここで紹介するとともに、もし再び教職に就く機会があったなら是非彼らのような学生の心に残る講義をしたいと思っている。

法医学のS先生
S先生はテレビにも出ているだけあって話がわかりやすく声も通る。
実際に司法解剖を手がけて、事故死が実は殺人だったことをあばいたり、事故が実は虐待だったことを見つけたり、と司法解剖ではなくてはならない人でもあり、体験から来るその講義には迫力があった。
虐待、DV防止活動にも力を入れている先生でもあり、強い正義感を講義の合間に感じた。
法医学が医師国家試験に出るのはごくわずかであったにもかかわらず、ほとんどの学生が内職をする「臨床総合演習」という講義の中でも誰も内職、居眠りをしていなかったのである。

漢方薬の研究をしていらっしゃる昭和大学のX先生
漢方の陰陽や証については、「わかるようなわからないような」が正直なところではないだろうか。現代医学では治らない病気も多いながらも、積極的に漢方を取り入れようという気になれないのもそこにある。が、この先生は漢方薬がなぜ効くかということに関して科学的な説明をわかりやすくしてくださった。ー腸内細菌はわれわれの体の細胞の10倍の数がいて、その影響をわれわれは忘れがちだ。その細菌が糖を食べることによって漢方薬を効きやすい形にしてくれるそうなのである。そして細菌性状は人によって違い、そのことが効きの違いになるそうなのである。(講義プリントを捨ててしまい詳細をご紹介できないのが残念である)
この先生は大便を詳細に調べて研究されたそうで、心から研究が楽しんでいる様子が講義を通じて伝わってきた。声も聞き取りやすく、内職・居眠りをしている学生は少なかった。私自身は、内職・居眠りをした学生に向かって、「もったいないぞ、聞け!」と叫びたい思いだった。

元学部長の呼吸器の講義
講義をしてくださったときは現役学部長だった。
1年生の臨床医学総論の時1回だけの講義だったが記憶に残っている。
気管が気管支に分かれ、ついに肺胞になる過程を説明してくださったのだが、実にわかりやすかった。
「背を向けて講義したりしると非行化する」
「自由にしていい、なんていうと学生は糸の切れたたこのようになる。きちんと伝えるべきことは伝え、指針を示せば学生もどこへいったらいいかわかるようになるんだ」
と講義中に言ったことが印象的だった。
上記のことについては賛否両論あるだろうが、現代忘れがちなことではないだろうか?

以上3名講義をしてくださった先生方の共通点は以下の通りである。
1.話すことに対して自ら興味をもっていて、日々真剣に取り組んでいる
2.学生に伝えたい情熱がある
3.通る声でゆっくりわかりやすい言葉で話す

人に何か伝える機会が与えられたら、今度は私も彼らのように「聞いてよかった」話ができるようになりたいと願いつつ今回のコラムを終える。

2008.11.25

研修医の給料

Junk Stageで書いた「給料値上げ効果」をコピーして他のブログに掲載したところ、「お医者さんってたくさんお金をもらえると思っていましたが、最初の頃はそうでもないのですね。」というコメントをいただいた。

そうなんだよなあ。ベンツに乗って、立派な家に住んで、男性だったら女性にもてもててっていうのが 一般の人の「お医者様」に対するイメージだと思うのだが、そんなの一部のお話。実情は随分違う。

ちなみに 教師をしていたときに月に一度勤務校を訪問してくださっていた産業医の女医さんに「実は医学部を再受験する予定なんです」と打ち明けたことがあった。
「学校の先生は精神的な問題が多い中で、そのような前向きなお話を聞けるのはいいですね。」と私の意向を支持しつつも、
「時給は学校の先生の方が断然いいと思う。医者はたくさんお金をもらっていると言われているけれど、時給換算すると高校生のマクドナルド並みだもの」とおっしゃられた。

そういえば私は教師時代年収税込みで700万円以上もらっていた。

今は厳しくなったようだが、部活動の合宿、日直を除いて夏休み等で1ヶ月は休める。週休2日で、8時半から5時までの勤務が多い。週に1度職員会議で7時くらいになる。すると昼休み休み1時間はさんで1日8時間半の勤務。よって月に20日間働くとして、8.5×20+2×4= 178時間 少し足して月に180時間働くとして時給は
700÷180÷11=0.3535(万円)
つまり時給3500円くらいである。

それに比べて研修医の時給はいくらくらいになるだろう。
去年実習に行った手稲渓仁会病院を例に計算してみよう。
ここの病院では、7時半に勉強会が始まるので多くの研修医はその前に受け持ちの患者さんの様子を見に行く。
よって6時半頃から働く。
また私は実習期間中、9時か10時に帰ったのだがまだ多くの研修医は残っていた。
とりあえず夜10時まで働くとしよう。
ここの医師は食事もぱっぱと終わらせてすぐ働くが、昼夜合計1時間半休みをとると仮定すると、12-6.5+10-1.5で1日14時間働く。週休1日なので(完全に一日は休日を与えるとこの病院は自慢していた)25日働くとしよう。
給料は月30万円。すると時給は
30÷14÷25=0.0857(万円)
つまり時給857円ということになり、確かに高校生のマクドナルド並みの賃金になる。
ちなみにこれは当直を除いた実労時間ではあるが、当直手当は一応つくので、+-だいたいこんなものだろう。

わが母校の場合は、手稲渓仁会よりゆるく8時過ぎに出勤している姿もちらほらである。そして帰りももう少し早いかな、というわけで実労時間は12時間といったところか。やはり週休1日なので
25÷12÷25=0.0833(万円)
時給833円であり、渓仁会病院と大差ない。
ところが2年前の給料17万円だと
17÷12÷25=0.0566(万円)
時給566円である。
これでは高校生の時給より低い。わが母校が都会の美観の病院でありながら、定員割れしていたのもむべなるかな。

これで驚くなかれ!
臨床研修医制度が出来る前までは、月給5万円だったのである。ちなみに寮費5万円。
完全に赤字である。
もっと上を行くのはKO大学病院の2万5千円。もっとも寮費が2万円くらいだが・・・

これでは当然のことながら生活できないので、研修医は教授の紹介でいろいろな病院で当直のバイトをして稼いでいたわけであった。臨床研修医制度が出来てからは、研修医は研修に専念するためバイトは禁止となり、そのかわり生活できるだけの賃金を保障しなさいということになったのである。

よって臨床研修制度が発足してからは、給料は22万から35万円くらいでるようになった。(上は地方の病院である)

ちなみに寮の話が出たが、寮の存在も大きい。
去年勤務予定だったT大付属病院は給料30万円、寮費は3000円、諸経費入れても1万円を下る。
よって29万丸々使えるのである。
母校は今年から25万で寮費5万3千円、よって使えるお金は20万をくだる。

もっと悲惨なのは都内某一流大学病院。
給料が22万で寮がない。
しかも終電で帰れないことも多いのですぐ近くに住みなさいとのこと。
ところがその大学病院は都心にあり、独身男性がかろうじて住めるところで7,8万。女性が何とか住めるところだと月10万は覚悟しなければならないらしい。すると手元に12万円しか残らない。

研修医=4K(きつい、きたない、危険、給料が安い)
というのが実情なのである。
*きたない・・診察中ゲロを白衣にかけられる等、病人を診るわけなので汚いことも多い。
危険・・・・・当然感染の危険があるし、放射線被爆も多い。

2008.11.16

シケプリ

シケプリ、正式名称?は試験対策プリントということになるのだろうか。

20年ぶりの大学生活に突入して以来、「えっ今の時代はこうなっているの?」とびっくりすることが多かったが、このシケプリもその一つだった。我が母校では、資料と読んでいる。

授業ノートの要約、過去問の解答・解説等を学生が分担して書き、それを希望者にコピーして渡すのがこのシケプリ(資料)である。最低これを読んでいけば合格点は取れるという便利な代物である。最初の定期テストで、「さあ、資料を作りましょう」と声掛けがあったときは何が始まるか分からなかった。原子工学科出身の私は得意な物理を担当し、言われるままに課題の解答・解説を書いた。ものの動きに疎い私はその資料を読んでいけば合格点を取れることを知らず、その資料を殆ど見ずに試験を受けた。(それでも結果は96人中29番、まずまずだった)

2,3回目からは、資料の重要性に気付き、得意な物理の他はまず資料を見てから勉強した。

ところで資料を使っての試験勉強に難色を示す先生は多かったが、講義が下手でポイントもわかりにくいのでこういうものは必要悪だと感じる。

さて資料をみんなで作りましょうと最初音頭をとったのは銀行を早期退職して医学部に入学して来られたTさんという方だった。(私やTさんに限らず医学部にはこうした社会人経験者が多い)最初に資料を配り、 あとでコピー代を請求したのだがお金を払わない学生が続出して、Tさんは何万円も損をしたそうである。また、自分がこの資料だけを使って合格した学生に限って内容についても苦情を言ったそうである。

あれやこれやで、Tさんは疲れ果て、二度と試験対策委員をやりたくない、と言い出した。

困ったのはアウトサイダーの学生たちである。普通の学生は先輩から去年の資料をもらうことができるので、up to dateではないけれど、何とか試験には対応できることが多いのでそう困らない。

もう1人のおじさん医学生が私に試験対策委員を引き受けて欲しいと何度も頼んだのである。
資料の価値がまだわかっていなかったのではあるが、頼まれたら嫌と言えない典型的AB型人間なので引き受けた。
こうしてその年の前期試験、後期試験は私の音頭で資料(シケプリ)を作ることになったのである。

2008.11.09

職業選択の決め手

「石の上に3年」ということわざがある。

「どんな仕事にでもやっているうちに愛着が湧いてくるものだから、好きな仕事を探すより、現在の仕事を一生懸命やることが大事」
と年配の方は若者にアドバイスする。

確かにどんなに華やかに見えている仕事の中にも、雑用や人間関係の摩擦等いやなこと疲れることはたくさんあり、現実を見ずに「隣の芝生は皆青い」で徒に他の仕事にあこがれて も仕方あるまい。たまたま就いた仕事が好きになれなくても、一生懸命やるうちにその仕事にだんだんフィットしてくるという面はあるだろう。

が、誤解を恐れずにいえばやはり人には天職・適職 というものがあり、それに就くのが自分のためでもあり、人のためでもあると思う。

例えば、私は縫い物が大の苦手であるし興味もない。もしお針子さんになったとしたら、どこか真面目なところがある自分はそれなりに努力はするだろう。が、生地を適度なテンションをかけて均等に縫うことができない状態なので、頼んだ人は「これなら自分でやった方がマシ」と思うであろう。 また興味がない分野なので、何をどう工夫したらよいかひらめかず同業の人には怠けているように感じさせてしまうことだろう。

一方、医学部入学前 に就いていた教師という仕事の中では、PTAの前など、保護者の方に気持ちよく過ごしてもらうために、清掃指導を徹底し、机の配置も考えた。芸術担当の係りになったときは、映画を見まくり、手に入るものは脚本まで読んだ。

ちなみに、 私は清掃は大の苦手、映画はよほど気に入ったものでないかぎり嫌いである。

つまり、教師という仕事は自分にとって自然に工夫ができる仕事であり、天職かどうかはわからないが、少なくても適職だったといえるだろう。

それに比べて自分が今就こうとしている医師という仕事はどうだろうか。実は、「成り行きで一番あっている仕事を捨て、合わない仕事に就こうとしているのではないだろうか」と最近まで悩んでいたのである。

最近そのことに対して ようやく自分が納得できるようになったので、今回はプログラマー→教師→医師(国家試験に合格しないとなれないが)という転職過程を語る中で、適職・天職について考えてみたいと思う。

子供の頃、「将来なりたいものはなあに?」と聞かれると、その時々に、天文学者とか科学者と答えていた。研究者になりたいという夢をいだきながら家庭の経済事情で高校の化学の教師に甘んじていた父が私が研究者になるように洗脳していた面があるし、祖母がまだ使えないうちに顕微鏡や地球儀を与えたり、ニュートンの伝記を買い与えてくれたので、流れとして自然なことだった。

が、「科学者になりたい」とか、「天文学者になりたい」というのが、本当に自然な心からの願いに思えず、作文などで「将来の夢」について書くように言われるとしばしば困惑したものだった。

小学校の6年生の冬休み帳にも、その種の作文を書く欄があってなかなか書けずにいて、提出間近になってあまり考えもせず、高校教師になって何かを生徒に伝えたい、ということを書いたことがあった。

後に本当に高校教師になったのだから不思議なものである。

他のブログにて、終の職業は物書きかも知れないとか、将来の夢は医師兼作家兼自然食レストランのオーナーなどとよくばりなことを書いたことがあるが、案外現実になるのかもしれない。

話は戻して、実際に進路を選択しなければならない高校生になっても、将来の進路が決まっていなかった。数学が得意だから数学科、動物・昆虫が好きだから生物学科、天文が好きだったから宇宙物理学がある大学の物理学科と掲げて見たのだがどうもぴんと来ない。

今は将来の職業をイメージするような進路指導が行われたり、オープンキャンバスもあって進路を考えやすくなったが、当時は実際に進学した場合どういうことを学び、どういう進路があるのかがイメージしにくかった。

その頃かろうじてあった高校の進路関係の雑誌で「数学科」について調べてみると、卒業後の進路に中学・高校教師、・・・統計士とあった。
その頃は教師という職業にまったく興味を持っておらず、「じゃあ、数学科にいって統計士になるということにでもしようか」ということで、進学希望先は御茶ノ水大学数学科、将来希望する職業は統計士ということにした。そのころの私は男嫌いに陥っており、進学先はお茶の水女子大か奈良女子大と決めていたのである。が、その決めた進路に違和感を感じていた。

ある日突然ひらめいたのである。「医学部だ」と。
確かに自然科学には興味は持っているものの、研究職、技術職というものにはかっこよさは感じるものの、本当にやりたいことでもなければ、適性もないように感じていた。自分は人間が好きであり、人にサービスする仕事がしたいのだ。

尚、そのころ近くに国立病院があった関係で、近所には看護師さんが多く住んでいて、末期癌の人にいやがっているのに点滴や検査を医者の命令でしなければいけない葛藤、必要のない手術をされて命を落としたケースを又聞きして、もっと自然な医療を行えないものかどうかと心を痛めていた。自分が何らかの形で関われるものならと考え、中学の時には厚生省(今の厚生労働省)の役人になりたいと思ったこともあったのだ。
さらに、自分は幼い頃から天文と生物、そして生命現象についてわくわくするような興味を覚えていたのだった。

興味があり、自然科学に関わること、人にサービスすること、すべてを満たすものは医者しかない。

このひらめきが脳裏に生じたとき、長い間探していた答えが見つかったようでほっとしたが、同時に両親がこの決断に賛成してくれないような気がしていた。

その予感は予想していたものを越えて現実のものとなった。私の日記を盗み見た母が父に伝えたことで、父が反応し、毎晩2時間1年半に渡り、「医学部進学反対論」を唱えたのである。
①年月がかかる
②学閥がある
③最初は無給の医局員だ

今でこそ①については、ぼんやり無為に過ごしたって年月は経つ ②については、そんなのどこの世界でもある ③世の中は年月と共に動き、制度も変わる
等反論できるのだが、頭の良かった父にそう言われると何か医者になることが泥棒や売春のような負の仕事をするかのようなイメージを持つようになってきた。「それでも私は医者になりたい」という秘めた恋にも似た思いを抱いたまま、結局医学部を受験することなく、物理学科を受験したが無意識に(半ば意識的に)受験に手を抜き浪人した。浪人して親元から離れて考えて見たかったのだった。だが、距離は離れても心までは離れられず、模擬試験の成績が家に送られるのだが、そのとき第4志望に書いた福島県立医大というのを見て、父に「何だこれ」と言われ、「何でもない、書いただけ」と小さな声で言ってしまった。今思うに、結局私は自分の夢を実現するより、父に愛されたい、承認されたい思いが強かったのだと思う。

一年間時間をおいてみても自体は何も変わらないまま、進路を後で決めることが出来るという理由で北大の理類に進学した。理類というのは今はないが、そのころ医学部・歯学部を除いた全 ての理系学部に進学できた。

が、やはり決断を伸ばしても結局は医学部に対する未練があるなか、放射線生物学をやりたいという名目で原子工学科に進んだ。就職の時も放射線性物の研究が出来るところを希望したが振られ、教授に「女子学生はコンピューター関係しかない」と言われ、機械の扱いが苦手なので嫌だと思いつつ、原子炉や原子物理関係の解析ができるという理由で数値解析研究所といういかめしい名前の会社に就職した。

無理矢理仕事を好きになろうとしたし、努力もした。が、的はずれなことをたくさんやって疲れ果て、結局11ヶ月で仕事を辞めたのだった。

その後が今までの人生で一番苦しかったかも知れない。何年か放浪して理科大の数学科に編入して卒業後都立高校の数学教師になった。教員という仕事がフィットしていたのは前述の通りであり、医者になることに対して幾分かの未練はあるものの、このままおもしろみはないかも知れないが、退職まで平穏に教職を続けるのだろうな、と思ってはいた。駆け出しの教師時代に理科大時代知り合った今の夫と結婚を していてその意味でも教師時代は一番安定していた。

一方 、夫に医学部行きをしつこく父親に反対されていた悔しさを時折話していた。夫には、教師時代の私は疲れて出勤する姿しか見えなかったようで、「今からでもやったら?」と何かにつけて言っていた。

尚、教師という仕事は比較的余裕があり余暇を楽しむ時間が充分にあった。その時間を楽しみたい私と出不精でかつ休日も仕事が気になる夫との間でよく衝突をした。
「あんたより忙しい仕事に就かないとあんたとはやっていけない」
と叫んだこともあったのだが、夫の方は「まさにその通りだなあ」と思ったそうだ。

教職10年目の時担任を持っていたとき、大々的な恐喝事件があった。地元愚連隊が校内の手下を使ってカンパと称して、お金を集めていたのである。私のクラスに手下のボスがいて、下は10円から上は50万円までの被害があった。毎日その対応に追われ、真に疲れ切って帰宅していた。

「そろそろやったら?」
という夫に私は頷いた。やったら、というのは医学部再受験である。

こうして、私は医学部に進学した。40代半ばになってから、昔の夢を実現したというとかっこいいが実態はこの通りである。
尚、医学部に進学する直前、私ももう中堅の教師になっており、数学科主任、図書部主任の肩書きも付けてもらっていた。私は人間が好きで、しかも若い人の成長を見守るのが好きである。

「医者になることは若い頃の私にとっては天の啓示だったかもしれないが、中年になった今は高校教師が天職なのではないだろうか」と医学部に進学する前も後も最近も悩むことがあった。

おりしも、弟は政治家支援活動や政治活動をしているが、mixiで子供の頃から政治家になりたかった 旨を書いていた。私の友人の個人タクシーの運転手さんは子供の頃に見た青地に白の個人タクシーの車を見て自分もそれに乗りたいと思ったそうだ。学生時代の知人は幼児の時に初めて与えられたピアノを壊れるまで弾いていたそうであり、その人は今ピアニストである。高校時代の恩師は学科を選ぶとき、小学校のときに日本史が好きだったという理由で何となく日本史学科を選び日本史の先生になった。

適職には上記のような側面 が無視できないと思う。幼いとき何気なく時間を忘れてやっていたこと、自然に興味を持ったことというのはそれだけで適性があると言えよう。
それらのことを考えたとき、ふっと思い出したのは私が小学校低学年の頃から家庭医学書を愛読書にしていたという事実である。
「子供の病気」、「家庭の医学」が二大愛読書であり、「この子変なものに興味を持つねえ」と両親から言われたものである。誤解を恐れずに言えば、私は幼い時から病気の話が無条件に好きだったということである。

尚、病院選択をする際規模は小さいが地域医療に力を入れているところがあり、研修医教育にも力を入れている模様であったが、MRIもないような設備の乏しさと症例が限られることがネックになった。(結局その病院には落とされたが・・・)。自分は様々な症例を経験したいんだな、と思った時に小学生の時のことを思い出したのである。

「鉄は 熱いうちに打て」という見地からははずれてしまったが、医学には幼い頃から興味があったわけなのだ。今さら元に戻しようのない過去を悔いるのはやめて、この年にして興味を持った分野に進むことが出来ることに感謝しようと思った次第である。

2008.10.26

Coffee効果

hcl1.jpg

コーヒーの健康に対する影響については、プラス面、マイナス面さまざまな意見がある。

ごく最近までは、眠気覚ましになるということ以外はマイナス面がとりざたされることが多かったように思える。

1.発癌性があり、胃ガン、膀胱癌になりやすい。
2. 胃を荒らす。
3.眠れなくなる。

が、近年は逆に、「否コーヒーは健康にいいんだ、癌抑制効果もあるし、ぼけ防止にもなる」という説も多く流れるようになった。

ここの他にmixiも書いているが、mixiのニュースに「コーヒーを飲んでいい人、悪い人」というのがあって、コーヒーは2型糖尿病の予防効果、パーキンソン病、C型肝炎に効く、ということが書かれていた。

実際のところどうなんだろうか。
コーヒーの効用と害については、ネットでいい説明をしているものを見付けたので興味のある方は以下を参照してもらうことにして、
http://www.cafegoju.com/coffee/coffee_02.html

私の方は、コーヒーの持つカフェイン効果について言及しようと思う。
コーヒーが眠気覚ましになる、コーヒーが胃を荒らす、コーヒーが消化を促進する、コーヒーを飲むと頭がさえる
これらはすべてコーヒーの中のカフェインのなせるわざなのである。
正確にいうと、カフェインはホルモン分泌を促すために身体の中に出来たcAMPという物質を分解する酵素ホスホリラーゼの働きを阻害する。つまりホルモンが出続けるのである。

例えば、胃を荒らしたり、よく働けば消化を促進することになるのは胃酸を分泌し続けるからである。 以下に作用の仕組みを書きますが面倒な人はさらっと読み流してください。図を参照のこと。クリックすると拡大します。

ガストリンというホルモンが胃の壁細胞とういう細胞ににあるホルモンの受容体(細胞の表面についている細胞に直接働くのではなく受容体というもの がないと受け取れない)と結びつくと、身体の中にあるATPというエネルギーやDNAの元になる物質がcAMPという物質に変わる。そのcAMPがガスト リンとアセチルコリンというものと一緒にプロテンキナーゼに作用して、そのプロテンキナーゼが細胞表面にあるカリウムイオンと水素イオン交換装置に働いて やっとめでたくHCL(胃酸)の片割れの水素イオンが出来るわけです。
で、コーヒーはこのcAMPがホスホリラーゼによって分解されるのをブロックするので、胃酸ががんがん出続けるのです。

ちなみに何かが身体にさようするとき、直接すぐに作用するのではなく、上記のように何段階もの段階を経てやっとメインの反応にたどりつくわけです。
これをカスケードと言います。

ややこしいでしょう?
私も忘れたので生化学と生理学の教科書をひっくり返して書きました。

もう一つの作用、興奮作用の方はアドレナリン分泌を促進するためだと思っていましたが、教科書をみるとどこにもそんなことは書いていない。宿題にしておいてください。

そうそう、カフェインの興奮作用についてのエピソードを一つ。

ブラセボー効果の実験をするために、カフェインと偽薬を使って、クレペリン作業検査をしたことがあった。
ブラセボー薬の人はどうなったか忘れたが、クラスで統計を取ると、カフェイン服用後は、確実に作業能率があがったのだ。

やっぱり、勉強や仕事の前の 一服は理にかなっているようです。

Next »