2013/10/06

外国生活で、言葉が通じない事のフラストレーションが、嗅覚アートを始めるきっかけとなった・・・そのことを前回書きました。

あいかわらず、言葉が不自由な状況が多いためか、言葉について考えちゃうことは多いです。今日はその、とりとめのない雑文です。考えがまとまらずにてきとうに書いてる日曜日です。どうぞてきとうに読んでください。

とにかく、言葉でじぶんの感情や気持ちを説明するのが苦手な私。それは日本語であっても苦手なので、語学力の問題ではないんですが・・・

みなさんも言葉によって傷つくことって日常で多々あると思いますが、いったいなんのために言葉があるんでしょうね。

人と人との距離を近くするため? それとも、遠ざけるため?

前者の場合、セールストークだったり、同情だったり、甘いささやきだったり、愛情表現だったり。でもどれもこれも、言葉を介するとけっこう、嘘くさくて陳腐に見えてしまうことも多かったりして。笑顔とか、ハグとかの方が、よっぽどダイレクトに伝わる。

後者の場合、たとえば交渉ごとで相手と自分との距離を取るために使ったり、誰かの訪問を断ったり。一歩使い方を間違えると、凶器にもなるし、それだけで絶縁をも招く。思った以上に凶暴で、とても力強く作用してしまう。

日本と欧米でも、違いがある気がしてます。

日本は「和」を尊ぶ文化で、主語を使わないため、包括的。あたかも既に “I” と “I” が繋がっていて、”We”が初期状態であるかのような。茶室に花が活けてあって、「きれいだね」「いい香りだね」と同調することが前提の文化。一体感がそこにある。

欧米だと、そこがない。関係性はまずはゼロから、あるいはマイナスから始まる。”I”と”I”の繰り返される会話。少しでも相手と近づこうとする力と同時に、相手との距離をとどめておこうとする力の拮抗がそこにある。茶室の花を見たら、「私はあそこの花がとてもきれいだと思うわ。あなたはどう思う?」「僕はこっちの花の方が好きだよ。」といった感じにになるだろう。(誇張も入ってるけど)

欧米言語はビジネス的だと思う。ビジネスの世界でも、見知らぬ相手との利害を “I” と “I” をぶつけあうことで計るわけで。だから、欧米のカップルの会話を聞いてると、日本人的には、ふたりで永遠に商談しているかのようにも聞こえたりする (笑)

会話の主語が”I”ではなく”We”になったとしても、主語を使わない文は成り立たない。日本的な「一体感」というよりは、「連帯感」的な感覚がある。たとえば外に敵があるときに、”we” を使うことで内部の連帯・結束を強める。

「一体感」は、個と個が重なる感じ。「連帯感」は、個と個が並んでる感じ。

なので欧米言語の語学力がいくら上達したとしても、いくらコミュニケーションを取ったとしても、「一体感」が感じられない事に、日本人的には絶望したり傷ついたりしてしまう。もっと鈍感になれれば別なのだけど。

言語とは、千年、万年単位の人類の歴史の表れなのだから、個人の努力ではどうにもならないことなのに。

そういえば長いオランダ生活でも「心の友」と呼べる友達は、不思議とアジアの血が入った人ばかりだった。それは、彼らが「シンパシー」つまり、相手と同調するということが自然とできる人たちだったからかもしれない。純血オランダ人には、これがなかなか難しい。そうしているように表面的には見えても、体の反応としてやっているわけではないのだ。

やはりネイティブである日本語は、私にとっても便利なツールなのだけど、だからこそ、その落とし穴も見える。

スムーズにコミュニケーションが取れるあまり、気を許したとき、不注意な言葉遣いをしてしまいがち。不意をついてつい本音が出てしまったらさあ大変。

それはときに、「一体感」を乱す。それが破局や、破綻に発展することもあると思う。親しい間柄にも礼儀有り、というのはこのことかもしれない。相手を言葉で傷つけるよりは、無言の「間」を保つ方がよっぽど気遣いがある行為かもしれない。

そう、「間」に意味がある。欧米では「間」はどちらかというとタブー。常に主張が求められる。日本語はほんとうに繊細で、微細な言語だと感じる。

・・・など日常的に感じている「言葉でのコミュニケーションの東西」について、とりとめもない散文でした。長文失礼!

2013/10/06 07:19 | オランダ | No Comments
2013/10/04

よく聞かれる質問です。

「なんで、匂いのアートを始めたんですか?」

じつは、いろんなきっかけがあります。

その(1)
「出産したら、それまでのようにコンピュータを使った作品を作る時間がなくなった」

出産したのは約10年前のことです。それまではメディア・アートという、サイエンスやテクノロジーを駆使した表現をやっていました。

でも息子が生まれ、いわゆる専業主婦になりました。息子は私がコンピュータに向かうと、とても不機嫌(^^;) 制作なんて時間はとても取れません。それなら、1日に3回は主婦の義務として立つ台所をアトリエ代わりにして、できることをやろう。それは料理のアートでした。そこから発展したのが、匂いのアートです。

料理は好きだったので、食に関するものであれば、触覚でも、味覚でも、嗅覚でも良かったのだと思います。でも、嗅覚の作品を作るきっかけがあり、そのまま嗅覚の道を進みました。

その(2)
「脳がコンピュータのような割り切りができなくなり、もっと直感的・感覚的なものを求めるようになった」

出産したお母さんならわかると思いますが、母と子のコミュニケーションのアナログさ、楽しさ、そしてその深みといったら! コンピュータやインターネットが、すごくチャチでつまらないオモチャに見えてきてしまいました。

それに母子のコミュニケーションで嗅覚が重要な位置を占めるのは、いうまでもありません。じぶんのパーソナルな状況を仕事にも生かしたい、母親には母親の表現の方法がある、と思いました。誰もやってない表現をやるのがアーティスト。みんながやっているサイエンティフィックな「メディア・アート」という手法だけでなく、女性らしい、母親らしいアプローチをとりたくなってきたのがこの時期。

その(3)
「オランダの外国生活で、言語が通じないフラストレーションがあった。匂いであれば、ダイレクトに通じる、世界共通言語」

作品制作をしたり発表したりするときに、意外にも「言葉」というものを使えなければ作家は生き延びられません。たとえば資金調達が必要なとき。誰も見た事の無いものを作る意味を説得せねば、お金はどこからも出て来ません。それに、作品のコンセプトを説明するのに、文章が書けtないと美術館だって困ってしまいます。

なので、意外にもオランダ生活でのアート活動は、言葉の苦労を伴うものでした。それがある意味イヤになり、「ええい! 匂いなら、どうだ! これなら、有無を言わさず、わかるだろう!」・・・と匂いの世界にまっしぐら。

匂いだけに集中して制作して、とても良かった。世界的にもそういう作家は珍しいから、いまでは世界の「嗅覚アート・シーン」ではそれなりに有名になり、世界中からお呼びがかかるようになりました。なので、たとえば仕事が無くてもまたすぐ来るだろう、と安心してられます。(実際は、「たまには仕事の切れ目が欲しい」ほど。)

とにかく、ポジティブに生きてきた結果だと思います。状況に甘えない。そして、周りのせいにしない。文句を言わない。そのとき、自分のできることをやる。それだけは貫いて来ました。

もうちょっと突っ込んだ、「匂いのアートをやりはじめたわけ」のストーリーは、「家事・育児で感性を磨く」にも書きましたので、そちらも是非参考にしてください。
http://www.junkstage.com/maki/?cat=3&paged=3

2013/09/21

先週水曜日に渋谷でオープニングを迎えた「嗅覚のための迷路 vol.1」。

嗅覚のための迷路は、数年前からずっと作りたいとは思っていました。鼻でナビゲーションするための空間を、作品としてこれまでいくつか作って来たので、当然の流れともいえます。

もともとわたしたちの嗅覚は、犬と違って、空間ナビゲーションとしては頼りないものです。だからこそ、迷路でもっと混乱してもらおう!そんな意地悪で楽しい構想なんです。

そんなところに、渋谷の新しいアートスペースであるアツコバルーからのお話しが。20年来の仲のキュレーターからのお話でしたので、とても嬉しかったです。

そこは、予算も限られてるけれども、モチベーション高い人たちが集まっているギャラリーです。一緒に空間をシェアした他2人の作家にも興味があったので、喜んで仕事させていただきました。ヨーロッパでやってきた経験から言えることは、予算が潤沢にある立派な場所でなくても、スタッフのモチベーションが高ければ、充実感や達成感が高いということ。

作家だって、人間です。見てくれる人や応援してくれる人がいるからこそ、新しい物を作れるのです。いつもながら展覧会での発表は、体の芯から何かを絞り出すような感じで、けっこうヘトヘトになります。今回も鍼治療に行ってしまったほど。

でも作品をみんなが楽しんでくれる、新たな発見をしてくれる、それで感激してくれる、その感想を伝えてくれる。そんなことだけでアーティストという人種は生きていけるのです(笑)。

しかし震災があったときは、さすがにアートなんて生命の危機の前にひれ伏すしかないのだろうかと悩みました。

けれどもやはり、人は水や食べ物だけで生きていけるわけではない。救助する人もいる。水や食糧を運ぶ人もいる。そんな中で、アーティストの使命とは、私なりの回答は「美をもって、感動や、楽しさ、そして生きる歓びを提供すること」。人が生きるには、希望や精神性の豊かさが必要です。希望を見いだしにくい混沌とした世界にこそ、一筋の光を照らす者が必要です。(詳しくはジャンクステージ5周年記念誌にこのテーマをもっと突っ込んだ文章を寄稿しましたので、ご覧下さい。)

このアツコバルーという場所も、アツコ・バルーさんが同じ想いをもって、「震災後の東京に生きる今・ココの感覚をシェアするために」と考えて作った場所です。すばらしいパトロネージです。

あるゲストが「匂いは儚い、刹那的な現象。だからこそ印象に残る。」と述べてくださいました。確かに私の作品に残せるものがあるとすれば、みなさんの記憶の中にのみ。ぜひ「いま、ここ」の瞬間を感じてください。

展示は29日(日)まで。

アツコバルー
http://l-amusee.com/atsukobarouh/

 

2013/09/21 01:49 | 未分類 | No Comments
2013/08/29


9月の渋谷における展示のお知らせです。今年は豊作の年なのでしょうか、また新作です。「嗅覚のための迷路 vol.1」を作っております。ずーっと「匂いの迷路作りたいなあ」と思っていたのですが、今回ようやくvol.1 を作る機会を得ました。迷路といったときに、それこそ建築的に作ったり、屋外でやったりと、いろんな作り方があると思うんですが、まずは低コストで屋内で、フレキシブルな実験装置として試作してみます。

余談ですが、あのホーミーの山川冬樹さんもご一緒します。じつは昔からのファンなので(女子なら誰でもそうかもしれませんが 笑)とても楽しみ。

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「シェアリング・バイブス|共振する場、そして私」展(9/11-29@アツコバルー arts drinks talk)

今回は、不可視や非物質的なもの、そしてアツコバルーの特異なロケーションおよび空間特性を生かした、センシティヴなアプローチの展覧会です。

アツコバルーの渋谷における境界領域的ロケーション(駅に近い喧噪、文化村、松濤、円山町の境界線に位置)、渋谷という文脈、アツコバル—の空間(9の可動壁、光がはいり時間や天候によりつねに変容しつづける)などを、ぜひ3名のアーティストの作品に加え、味わっていただきたいと思います。

光、匂い、音‥見えないものや知覚しにくいものも含め、世界にはさまざまな情報が溢れています。アツコバルーの空間を開かれたエネルギーの交差点と見なすこの展覧会では、空気を媒介するものや繊細な現象をとらえた各作品が相互に関係することで生まれる新たな胎動を、自らその一部として体感いただくことになるでしょう。

アツコバルー(渋谷Bunkamura隣)

http://www.atsukobarouh.com/
*現在仮サイト。スクロールダウンいただくと、展覧会の情報をご覧いただけます。

2013年9月11日(水)~29日(日)
水–日 14:00~21:00 / 月祝 12:00~18:00(火曜休)
¥500(1drink付)

アーティスト:Maki UEDA/新津保建秀/山川冬樹
キュレーター:四方幸子

[Event]

9/11(水)19:00~21:00
レセプション・パーティ *終日エントランスフリー

9/14(土)17:00~19:00
Maki UEDAワークショップ「犬のように空間を探る」vol.2
15名限定(¥1,500/メールにて要予約: ab@l-amusee.com )

犬のように空間を探る vol.2
〜嗅覚と空間認識〜

人間の鼻には意味なくふたつの穴があるわけではありません。右に左に移動しながらクンクンすると、意外に空間内の「匂いのモト」を探知することができるんです。このWSではこのような「嗅覚のステレオ体験」をしていただきます。
*香水はつけてこないで下さいね!
*満腹の状態でのご参加はご遠慮ください。(嗅覚が働きません)

9/21(土)17:00~19:00
トーク:山川冬樹+港千尋(写真家)(¥1,000)

9/28(土)17:00~19:00
トーク:新津保建秀+瀬戸なつき(映画監督)(¥1,000)

 

2013/08/25

今年も石垣島の米原というところで約10日間のキャンプをしてきました。

もともとは都会で育つ息子のために始めたキャンプ。彼が5歳くらいの頃、家の中を歩く小さいアリを遠くに見つけては「きゃあっ! ママ、ママ!」と騒いでいるのを見て、毎夏のキャンプを始める決心をしたのでした (笑) 。

石垣島の米原は今年で3年目。毎年そこの自然に漬かり、まったく別な感覚を開花させ、別人になって帰ってきます。

まず、生きる力がつきます。キャンプすると、太陽や雨や風から身を守らねばなりません。どれが正しいという方法は実はなくて、その場その場での観察力と判断力が求められるんです。

食べることも、そこでは一苦労。いちばん近いスーパーは車で30分なので、その場にあるものでやりくりする工夫が必要です。できる人は、海で魚や貝を採ってきます。その辺から実や葉っぱも採ります。調理も、火種となる木の葉や薪を集めてくるところから始めます。冷蔵庫もないので、保存食の技術が磨かれます。そして、食べれるものはたいてい、そこにいる人たちみんなでシェアします。

これらぜんぶのことにおいて、子どもと一緒に方法を探る体験ができるのが、キャンプ生活の良いところ。そこのキャンプの達人たちと一緒に問題解決するにあたって、子どもが望めば仲間のひとりとしても扱ってもらえる。

そして、センスが磨かれます。センス= sense、つまり気づいたり認識したりする能力のことです。よく「あの人はセンスあるね」と言ったりしますが、それはおそらく、環境を知覚し、じぶんと環境との間にある部分を埋める断続的な努力のことを指します。

センスって、その能力を生まれながらにして持っているラッキーな人はいると思いますが、もしそうでない場合、自然の中にいれば自然と磨かれるものだと思うのです。実際、そんな環境で育った人は、よく聞いてよく見て、周囲で起こっている事象を微細に観察してます。友達との会話中でも、目の前のことに没頭しきらず、いつも感覚をアラートにしている感じ。まあ、その辺にふつうにハブとかがいるので、必然として身についた技なのかもしれませんが・・・。

大学時代、アートを始めたときに、師匠はこう言っていました。「センスを持ってることが大前提です。センスは教えることができないから。それさえあえば他は教えられます。」

そのときはピンときませんでしたが、師匠はこう言いたかったのでしょう。表現に必要なのは、センスと表現技術。表現技術はいくらでも後づけで教えられるけど、センスは教えられない。むしろ、自分で磨いて育てるべきもの。今この時点でセンスが育ってないのだったら、アーティストになるのはあきらめろ、と。

センスはまた、断続的に磨かないと、歳とともに衰える気がします。自然の中でのキャンプは、子どもにとってだけでなく私にとっても、感性を目覚めさせてくれる大切な体験です。ふつうにホテルに宿泊するリゾート・バケーションに比べたらほんとうにハードだし大変なのですが、ついついキャンプになってしまうんですよね。


2013/07/14

この夏は赤坂にて新作のインスタレーション(建築家さんとのコラボレーションで作る「パヴィリオン形式」)を発表します。

展示詳細は以下をご参照ください。
http://iwhite.nu

ほぼ初めての東京での展示となります。皆様お誘いあわせの上、お越し下さいませ。

上田麻希

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オカムラデザインスペースR
第11回企画展
タイトル: 「白い闇」

■企画主旨:
オカムラデザインスペース(ODS-R)は、毎年1回の企画展として「建築家と建築以外の領域の表現者との協働」を基本コンセプトに、一人の建築家を選び、「いま最も関心があって、挑戦してみたい空間・風景の創出」をお願いしてきました。但し目指すのは、建築家の個展ではなく、建築家ともう一人の表現者が協働することで初めて可能になる新しい空間・風景づくりです。
そのODS-Rも今年で11年目になり、建築家のヨコミゾマコト氏、そして協働者にMaki Ueda氏を迎えます。昨年の12月から毎月1回の打ち合わせを重ねて、タイトルは「白い闇」と決まりました。
通常、建築家の仕事は空間をつくることですが、それは同時に空間の境界をつくることでもあります。境界が存在することによって、その内側のモノや状況がある状態に保たれ、他と区別され、守られます。空間を扱う職業である建築家は日々、その境界のあり様を考え続けていると言えます。あるいはまた、境界ができれば、閉じられた有限な領域が発生しますから、建築家は、有限な領域をつくり続けているとも言えます。
ODS-Rで試みられるのは、建築家にとっても、おそらく一般の人々にとっても、このような日常とは真逆に位置する、「無限に広がる境界のない空間」の創出です。広大な宇宙のように無限に広がる空間をつくってみたい。たとえ、物理的には不可能であっても、人の感性と想像力によってそれを可能にしたい。この不可能を可能にするために、ヨコミゾ氏と、嗅覚のアーティストUeda氏が協働します。ヨコミゾ氏の説明によれば、「形によって空間と時間をデザインする建築家と、形がないもので空間と時間をデザインする嗅覚のアーティストとのコラボレーション」です。
白いだけのまったく何もない空間。静かで豊かな空間ですが、そこは、視覚によって意味を読み取れるものが何も存在せず、それがゆえに自ずと嗅覚と聴覚が研ぎ澄まされます。嗅覚がかすかに捉える何か。匂いは日常世界に溢れていますが、私たちは、「ああ、これは何々の匂いだ」と単純に理解して済ませる傾向があります。実は、未解明の部分が多い領域であって、嗅覚は視覚や聴覚に比べると原始的かつ直感的で、記憶に直結する感覚だとも言われています。その嗅覚に刺激を与えて、人のもつ無限の感性と想像力を活性化させることが、今回の企画展の狙いです。(企画実行委員長/川向正人)

■企画建築家:ヨコミゾマコト氏(建築家)

■協働者:MAKI UEDA氏(嗅覚のアーティスト)

■開催期間: 2013年7月23日(火)~8月9日(金)10:00~18:00 (7月28日、8月3、4日は休館)

■会場: オカムラ ガーデンコートショールーム
〒102-0094東京都千代田区紀尾井町4-1
ニューオータニ・ガーデンコート3F   Tel : 03-5276-2001

■シンポジウム: 「知覚と空間」
2013年7月27日(土)15:30~17:30 (定員80名)
パネラー:ヨコミゾマコト + MAKI UEDA、 アンカーマン=川向正人

■ワークショップ: 「嗅覚と空間認識〜犬のように空間を探る〜」
2013年7月27日(土)13:00〜15:00(事前予約制:先着15名)

■ギャラリートーク:アーティスト達と匂いや建築、空間や知覚について語らう場。
2013年7月24日(水)、8月2日(金)、5日(月)、8日(木)19:00〜21:00

■参加申込・お問い合わせ先:
株式会社 岡村製作所 [お客様サービスセンター] フリーダイヤル0120-81-906

■入場料: 無料(展示、シンポジウム共)

■主催: 株式会社 岡村製作所

■後援: 日本建築家協会、日本建築美術工芸協会、東京インテリアプランナー協会/協力: 株式会社山本香料

■WEB: http://iwhite.nu(イベント等の最新情報や予約情報の配信を行う)

■twitter: @invisiblewhite 

■facebook: facebook.com/invisiblewhite

■企画建築家・協働者 プロフィール

□ヨコミゾ マコト(日本)
建築家

1962年  神奈川県生まれ
1984年  東京藝術大学美術学部建築科卒業
1986年  東京藝術大学美術学部建築科大学院修了
1988年  伊東豊雄建築設計事務所入所
2001年  一級建築士事務所
aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所開設
2009年〜 東京藝術大学美術学部建築科准教授

受賞歴:
東京建築士会住宅建築賞金賞(2005年)
日本建築学会賞作品賞(2006年)
日本建築家協会賞(2006年)
International Architecture Award(2006年)
日本産業デザイン振興会グッドデザイン賞金賞(2007年)

代表作:富弘美術館、NYH、GSH、TEM、STYIM、MOH、新発田市庁舎(設計中)など。ウェブサイト: www.aatplus.com

□MAKI UEDA(日本/オランダ)
嗅覚のアーティスト

1974年 東京生まれ。アートと嗅覚の融合を試みる「嗅覚のアーティスト」。世界的に流行の兆しを見せている「嗅覚のアート」のリーディング・アーティストのひとり。2000年よりオランダに移住、現在は日本とオランダに拠点を置く。
視覚的な要素を排除した、匂いだけによる嗅覚体験を提供する作品を発表する。目には見えない匂いが、想像を膨らませたり、知覚の混乱を誘う役割を担う。こうして幼少の思い出の匂い、アイデンティティの匂い、感情の匂い、歴史の匂いなどを作り出し、インスタレーションやワークショップなどの形で作品を発表している。
食べ物や体臭など、ありのままの匂いを素材から抽出し、「香水化」する手法を独自に編み出すなど、素材レベルでの試行錯誤を得意としている。匂いを展示するためのインターフェースなども独自に制作する。特に嗅覚の知覚的な側面、錯覚や方向感覚に興味を持つ。
慶應義塾大学環境情報学部(学部1997卒、修士1999卒)にて、藤幡正樹氏に師事、メディア・アートを学ぶ。2000年文化庁派遣若手芸術家として、2007年ポーラ財団派遣若手芸術家として、オランダ&ベルギーに滞在。2009年、ワールド・テクノロジー・アワード(カテゴリー:アート)にノミネートされる。オランダ王立美術学校&音楽院の学部間学科Art Science や、ロッテルダム美大ウィレム・デ・コーニングアカデミーにて教鞭をとる。

代表作:OLFACTOSCAPE -シャネル5番の分解-(2012) オランダ・V2_にて展示。AROMASCAPE OF SINGAPORE (2011) シンガポール国立美術館にて展示。SMELL x ILLUSION -匂 x 幻 – (2010) オランダ・Urban Explorers Festivalなどがある。
ウェブサイト: www.ueda.nl

■OKAMURA Design Space R
それは、ニューオータニ・ガーデンコートのスペーシャスなオカムラ・ショールームの一画に、年に1度、全く斬新な企画で創出される展示とトークのための空間です。
毎回異なるジャンルの複数のアーティストが、アートの枠組みを超えサイエンスとインダストリーの新領域にまで踏み込む意欲的なコラボレーションを展開し、その知と美の新たな形式によって多領域に向けて確かなインパルスを発信します。

2013/07/03

昨年6月に腰痛対策のために始めたベリーダンス。あの頃は、ステージに出て踊る自分なんて、まったく想像していなかった。

そう、この前の日曜日、所属するベリーダンス・スタジオ主催の Devadasi Festival に参加し、踊ってきました。

アートを通して表現というものをずっとしてきた私。私のアート(現代アート)は、クラフトやデザイン、イラストレーションなどの 「applied art」(応用アート)とは違い、「autonomous art」つまり作家個人のステートメントを表現するものです。「これが俺の生きる道」的なステートメントもあれば、「こんな新しい表現もアートじゃない?」的な問いかけもある。ハイ・アートとも呼ばれます。まずはコンセプトありきで、どちらかというと左脳中心、右脳はサポート役。ピカソもデュシャンもじつは、コンセプトありきの表現です。

でも、ダンスは違う。とくにベリーダンスには、左脳が入り込む余地無し(笑)。むしろ、感情やフィーリング、そして「女性性」を表現するもの。スタジオでは、「じぶんのエネルギーを感じ、音に委ねて表現しましょう」と、即興が重視されています。そういうことは小さい頃から苦手でした。こう見えて、恥ずかしがりやですから (笑) クラブで身を委ねて踊ったり、カラオケで歌ったりするのも、恥ずかしくて、けっこう苦手でした。写真に撮られるのも嫌いだった。「女の子らしい可愛らしさ」が求められるから。

でも、ピアノのような「道具」を通して曲の表情を表現するのは、なぜかすごく得意でした。だから、じぶんの体を「道具」のように使うことができれば、たぶんできるはず。ベリーダンス特有の動きは、経験が浅いから下手だけど、20年のヨガのおかげで体は動きやすい。問題は、ステージ上で、みんなの前で、そのような技術云々を超えて、じぶんの感情やフィーリングをありのままに表現する「勇気」があるかどうか・・・。人生これまでとことん避けてきた命題でした。仕事でパフォーマンスをやることはあっても、匂いでステージを演出する側でしたしね。

そんなわけで、この歳になって、ものすごく大きなチャレンジを自分に果たしたんです。個人的には、これまでのどんな展覧会よりも、大きなチャレンジだった気がしてなりません (笑) 

このフェスティバルは、スタジオの自主企画で、発表会的な位置づけ。でも、誰も「発表会」とは呼んでいません。あくまで「フェスティバル」なんです。それは、スタジオ・リーダーが日本人ではないからでしょうね。「ここは、自分と他人を比較する場ではありません。上手・下手を競う場でもありません。自分に与えられたギフトをみんなとシェアする場です。」と、そのアメリカ人リーダーは言います。なんて素晴らしいんでしょう・・・と、わたしも参加することにしたんです。

とはいえ、ついこの前までオランダにいたため、そのフェスの存在を知ったのが、2週間くらい前。準備の時間は全くない。でも時間をかければ良い物ができるってわけでもないんです。そこはヨーロッパで作家活動している経験に助けられている。旅行先の海でもたくさん踊り、自分の気をクリアーにしていきました。そして、だいいちフェスティバルなんだし、そもそも仕事じゃなくホビーでやってることなんだから、楽しまなきゃ損! 参加費がもったいない。不安・心配・緊張は無用! と決めてかかりました。それも、ヨーロッパで「フェスティバル」を担う経験を積んできたおかげかな? というわけで、奄美大島で買ってきたハブ酒の小瓶を1本飲み干してからステージへ(笑)

ステージの上はとても気持ちが良かった。最初は意識がちゃんとあったのですが、途中からは記憶が曖昧。でも、全空間の意識、音、光、すべてが自分に集められているから、それに助けられて練習時よりも自分を出しやすいという感覚があり、それは新鮮な発見でした。「観客との一体感」みたいなのも味わえた。振り付けは事前に準備せず、ほとんど即興。そんなトランス状態のうちにあっという間に終わってしまった3分半でした。終わって、拍手が聴こえて、ハッと我に返り、ちょっと恥ずかしくなって、小走りでステージ裾へ・・・(笑)

「でも、堂々としてた。存在感があった。やっぱり自分を持っていて、普段から表現している人だからかな。」とティーチャーに評価していただきましたよ。「これでもっと動きを覚えれば、いいダンサーになる」とも。嬉しくって、もっと練習しよう〜! という気になってきましたね。

「お互いを認めて、励まし合って。心をオープンにして、生きていることをセレブレーションしましょう。」とのスタジオ・リーダーのメッセージが思い出されます。ぜんぶで50人のダンサーが踊ったのですが、それぞれが個性きらめき、まったく飽きる瞬間なく見続けることができたのです。まずは相手を受け入れれば、「相手と自分の比較」という競争はなくなる。相手は自分を映す鏡となり、それぞれの良さが写り、それぞれの課題も見えてくる。ちょっとユートピア思想が入っていますが(笑)素敵なコミュニティです。「誰が誰の真似した」的な競争や戦いに陥りがちな現代アートも、こうあってほしい。少なくとも、匂いのアート界を牽引するひとりである私は、そういう意識でコミュニティを育て、見守っていこうと思いました。これからの大きな夢です。

こんなきっかけを与えてくれたデバダシ・スタジオの全インストラクトレス達、とくに初歩の手ほどきをしてくれたナシャールさん、こんな場を東京に築いてくれたミシャールさん、そして愛で導いてくれるノーラさんに、感謝。

そんなわけで、感情やフィーリングをありのままに表現するという命題に関しては、とりあえずスタート地点に立ったばかり。これからじぶんがどうトランスフォメーションしていくのか・・・。変化は、恐いものですが、そこは一歩一歩、前に進んでいきたい。

そして、これらの経験は、じぶんの表現の幅を広げてくれるはず。さっそく9月末にロッテルダムで開催される、毎年レギュラー出演しているフェスティバルでは、「今年はわたし、香りのパフォーマンスやるよ!」と宣言してます。ゲイシャに扮して、香りを道具として駆使し、ロビーのお客さん達にインターベンションする。そんなパフォーマンスです。かつての私だったら、とてもとても考えられないな〜。

p.s. 7/25(木)午後遅めの時間より、逗子海岸でベリーダンスショーがあり、そこにも参加しまーす。Happy Go Lucky という海の家の『ネレイデス』というイベントです。入場無料ですので、楽しんでください。

2013/06/25

もし失うとしたら、どれがいちばん辛いでしょう。
視覚? 
聴覚? 
それとも嗅覚?

「嗅覚」とおっしゃる方は多いようです。確かに、この世界に匂いが存在しなかったら、どんなに淡白で味気ない世界でしょうね。

嗅覚が無くなると、味覚も無いと同然。わたしたちが「味」と思うものの80%以上は、鼻の裏側、すなわち嗅覚で感じているのです。噛むと香気成分が喉の上に昇り、鼻の奥に届き、それを「味」として知覚していることは、意外に知られていない事実。

嗅覚障害を持つ方の著作などを読むと、ほんとうに味気のない、生きる気力がどんどん失せていく人生となってしまうのだな、ということがわかります。

しかし、失って最も苦しいのは、もしかしたら触覚、とくに皮膚感覚なのではないでしょうか。触覚の主な器官である手、とくに指先には、無数の神経が通っています。触っている紙が1枚か2枚かを感じられるほどの繊細さ。この感度は、他の動物にあるのでしょうか? 

人間が二足歩行を始めたときから、嗅覚の重要性はどんどん下がってきました。昆虫や犬では、種の保存において絶対不可欠の感覚器官なのですけどね。

人間の種の保存において必要な性行為、いわゆるセックスは、おもに触覚で行います。そのため、やはり「いちばん大事な感覚器官なのではないか」と思った所以です。これが無くなったら、ひょっとしたら誰もが気が狂ってしまうのではないでしょうか。

触覚を介する「人の温もり」や「ふれあい」がいかに重要かは、あまり普段意識することはありませんけどね・・・。(特に満員電車などでは苦痛の元でしかないかもしれませんけど。)

みなさんはどう思われますか? 次回はもっとこのテーマを掘り下げていきたいと思います。

2013/06/25 06:06 | 体臭, 匂い・嗅覚 | No Comments
2013/05/25

東京と地方の両方に拠点を持つ。3.11以降、そういうライフスタイルを求めて動き出した若者や子育て世代は多いと聞きます。実際にわたしの周りでもそんな人たちがたくさんいます。

中にはマレーシアに子連れ移住!なんていうツワモノもおります。彼女のこの記事を読んで、私も変化生活の良さをシェアしてみたいと思いました。

わたしは二年ほど前から、二拠点生活です。オランダと日本。地球のほぼ裏側同士です。

聞こえはカッコいいですが、そうしたいと思っていたわけではなく、最初は「仕方なく」でした。まず日本からオランダに移住したのは2000年あたりでしたが、ようやくオランダに根ざすことができたな〜と思ったときには、ひどい牧草花粉症でした。毎年ひどくなってたんですね。蓄膿症や喘息など次々と併発し、しまいには生きるエネルギーそのものが無くなってきて、普通に生活できない、ほぼ寝たきりな状態になっていたのが2010〜2011年あたり。

日本やアジア圏にはあまりない花粉ですが、ヨーロッパ大陸にはどこにでも(トルコにさえも)元気に生えている、雑草の花粉です。飛散期間は1年の半分。高タンパク質で、粒子も大きいので、スギやヒノキの比較にならないくらい作用も強いのだそうです。なんとオランダはこの牧草ビジネスの中心地! わざわざ種を撒いてるらしいので、たまったものではありません。逃げ場は日本にしかない。

そこで医者の勧めもあり、家族を置いて日本の実家に帰ってしまいました。しかし、その甲斐ありました。昨年末くらいに蓄膿も喘息も回復。完治はできない病ですが、ほぼコントロール下にあります。花粉にあたらない限りは・・・。

子どもと離れて暮らす「離散家族」な状況なのは残念ですが、仕方ない。仕事の周囲に恵まれているので、平均すると1年に3〜4回、日本とヨーロッパを往復し、旅をしながら仕事をしています。なので結果的に、子どもに会えない期間が2ヶ月を超えることはない。学校が休みのときには日本に来てもらうし。

今では、定住国を持たない、ほんとうのノマド生活。当初は、「大変そう〜」と思ってたけど、人間、慣れるものですね(笑) スーツケースと Mac Book Air と携帯電話に投資し、どこでも仕事ができるようにしました。仕事の内容や方法も変えました。私物をたくさん処分し、モノをあまり持たない・買わないようにしました。軽量化のためだったら、投資を惜しみません(笑)。書類はぜんぶデジタル化してます。最近の趣味も、移動中にできる編み物と、身ひとつでできるベリーダンスになりました。(ノマドなので、ジプシー・ダンスが身に合うようです)場所を選ばない呼吸法も実践するようになりました。

「時差ボケは?」とよく聞かれますが、それも慣れるみたい。旅の前後になるべく予定を入れないでゆっくり過ごしたり、到着後はサウナか温泉に行って、少食を心がけたり、荷物を軽くしたり・・・と、様々な方法を編み出すことで、時差ボケや旅の疲れはほとんど感じません。家が成田空港に近いのもあり、いまでは新幹線に乗るような感覚で国際線に乗っています。

友人関係もダイナミックになります。もともと群れるのは好まないし、オープン・マインドでいればどこでも交流関係も広がるので、過不足のないちょうどいい感じです。定住地を持たなくなると、物欲も無くなり、あらゆる「欲」が無くなり、すべてがちょうどいい「中庸」なんですね。

いいとこどりしてると感じています。「ああもう少しでオランダ出るんだな〜」と思ったら、旬のホワイトアスパラを芯から味わって食べたり。オランダの良いところにも日本の良いところにも気づくことができるので、不平・不満が少なくなる。「あ〜 これ、オランダっぽいな〜」とか、「やっぱりこれが日本だよね」と、笑って流してしまう。スタックすることが無くなる。周囲にも自然に感謝ができる。

何より、「変化」への適応力をトレーニングすることで、若返ると思います! 実際、「若いね〜」「若返ったね〜」とよくいわれるようになりました。

変化を起こすにはエネルギーが要るし、周りとの摩擦をたくさん生みます。変化というのは、多くの場合、望まれていないのです。でも、前向きの、力強い変化であれば、周囲の理解はあとからついてきます。何かを変えたいと思った全ての人に、力がみなぎりますように・・・

2013/05/09

ゴールデンウィーク、皆様はどのように過ごされましたでしょうか。

私はトルコで過ごしました。東京で習っているベリーダンスの師匠がトルコの国際フェスに招聘されたので、そのツアーに参加したのです。

ベリーダンスとひとことでいってもたくさんのスタイルがあります。私がやっているのは、どこのルーツと問われる以前に女性が自然に踊っていたダンス。女性の神秘を讃え、大地豊穣・子宝繁盛を祈り、神様に捧げるための奉納舞です。いわゆるテンプル・ダンス。それは、世界至る所に違う形で存在したはずですが、意図は同じ。

トルコには古代ローマ時代の遺跡が散在しています。美の女神・アフロディーテ神殿やアルテミス神殿などで奉納舞もしてきました。みんなで「女神コスプレ」してね(笑)。10日間ほど、このように美を研鑽する女性達と過ごすと、だんだんと美への感覚が研ぎすまされていきます。

最後の方になると、女性達の輝きというか、オーラというか、後光というか、そんなものが見えるような気がする・・・のです。そして、それを表現しようとするときに自然に湧いてくるのが不思議と「かぐわしい」とか、「かほる」とか、「にほふ」とかいった匂いにまつわる単語。

「にほふ」という単語については、以前作品制作をしたときに調べたことがあります。古代の日本では、文字通り「香りが漂っている」を意味すると同時に、色を表わす言葉でもあったのです。たとえばお花見などで、桜の花の色の反射で頬がピンクっぽく輝いている様を表すときに、「にほふ」という表現が使われたのです。

(このテーマで過去に作った作品「_チルダ」についてはこちらのページをご覧下さい。触覚的、嗅覚的に感覚を研ぎ澄ますための基礎化粧品です。)

古代の人々には、嗅覚と視覚との明確な区切りがありませんでした。現代ではそれを、共感覚と呼んでいます。かたちは違いますが、ヨーロッパの中世ヴェニタス画にもそのようなものを見ることができます。画の中に味や匂いを表すモチーフが描かれており、それがコードとして鑑賞者の中の味覚や嗅覚を呼び起こすといった仕組みです。

Gooの辞書 http://www.goo.ne.jp によると・・・

にお・う〔にほふ〕【匂う】
[動ワ五(ハ四)]《「丹(に)秀(ほ)」を活用した語で、赤色が際立つ意》
1 よいにおいを鼻に感じる。かおりがただよう。「百合の花が―・う」「石鹸がほのかに―・う」→臭う1
2 鮮やかに色づく。特に、赤く色づく。また、色が美しく輝く。照り映える。「紅に―・う梅の花」「朝日に―・う山桜」
3 内面の美しさなどがあふれ出て、生き生きと輝く。
「純な、朗らかな、恵みに―・うた相が」〈倉田・愛と認識との出発〉
4 おかげをこうむって、栄える。引き立てられる。
「思ひかしづかれ給へる御宿世をぞ、わが家までは―・ひ来ねど」〈源・少女〉
5 染め色または襲(かさね)の色目などで、濃い色合いからしだいに薄くぼかしてある。
「五節の折着たりし黄なるより紅まで―・ひたりし紅葉どもに」〈讚岐典侍日記・下〉
[動ハ下二]美しく色を染める。
「住吉(すみのえ)の岸野の榛(はり)に―・ふれどにほはぬ我やにほひて居らむ」〈万・三八〇一〉

他にも、いろいろ調べてみました。

かお・る〔かをる〕【香る/薫る/×馨る】
[動ラ五(四)]
1 よいにおいがする。芳香を放つ。「梅が―・る」
2 煙・霧・霞(かすみ)などが、ほのかに立つ。立ちこめる。
「塩気のみ―・れる国に」〈万・一六二〉
3 顔などが華やかに美しく見える。つややかな美しさが漂う。
「いみじくふくらかに愛敬づき、あてに―・り」〈栄花・音楽〉

 

か‐ぐわし・い〔‐ぐはしい〕【▽芳しい/▽香しい/×馨しい】
[形][文]かぐは・し[シク]《「香(か)細(くは)し」の意》
1 よいにおいがする。香りがよい。かんばしい。こうばしい。「―・い梅の香り」
2 心が引かれる。好ましい。すばらしい。
「あなたとの最初の邂逅が、こんなにも、海を、月を、夜を、―・くさせたとしか思われません」〈田中英光・オリンポスの果実〉
「見まく欲(ほ)り思ひしなへに縵(かづら)かげ―・し君を相見つるかも」〈万・四一二〇〉
[派生]かぐわしげ[形動]かぐわしさ[名]

 

かんばし・い【芳しい/×馨しい/▽香しい】
[形][文]かんば・し[シク]《「かぐわしい」の音変化》
1 においがよい。こうばしい。「―・い花の香り」「栴檀(せんだん)は双葉より―・し」
2 (多く打消しの語を伴って用いる)好ましいもの、りっぱなものと認められるさま。「成績が―・くない」
[派生]かんばしげ[形動]かんばしさ[名]

 

こうばし・い〔かうばしい〕【香ばしい/▽芳ばしい】

[形][文]かうば・し[シク]《「かぐわしい」の音変化》

1 よい香りがする。多く、食物を煎(い)ったり焼いたりしたときの、好ましい香りにいう。「―・いほうじ茶の香り」
2 見た目や印象などがすばらしい。りっぱである。
「薄色の衣のいみじう―・しきをとらせたりければ」〈宇治拾遺・一二〉
3 望ましく思う。心が引かれる。
「姿、みめありさま、―・しくなつかしきこと限りなし」〈宇治拾遺・六〉
[派生]こうばしさ[名]

 

匂いや香りにまつわる言葉はことごとく、「ついつい惹かれてしまう魅力」を表しているんですね。

みなさんにもそんな体験ありませんか? その人の外見ではなく、その人のオーラというか、神々しさを見るとき。思わず、そのかぐわしさのおこぼれをもらいたいと思うようなとき。

精進している(菜食主義の)お坊さんの姿はとても澄んでて綺麗だなと思います。私にとっては、遠い距離から見てもなんとなく「かぐわしい」と感じられるのです。近づいてクンクンしたら、いい香りがしそうな感じ。実際にはオジサンの匂いとかするのかもしれませんが・・・・(笑)

余談ですが、お坊さんや修行者に限らず、菜食主義の人は全体的にそのような光を纏っているような気がします。目も澄んでいて綺麗。私も鉄分不足でない時は菜食していますが、実際に体に流れる気が変わります。

そのほかにも、日本語には嗅覚にまつわる面白い表現がたくさんあります。「うさん臭い」とか、「きな臭い」とか、「面倒くさい」とか。日本語に限らず、オランダ語にもそういう「第六感」的な表現に嗅覚が使われたりします。おもしろいですね。

マリリン・モンローが「ベッドで纏っているのは、シャネル5番だけよ」と表現したのは有名な話。私は、香水をつけてなくても、香りを纏うように輝いていたい。そんな女性になるべく、今後も日々研鑽しようと思います。(^^)

 

追記: 日本の古代の匂いと色彩の共感覚については、こちらの記事が興味深いです。

http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/higuti7.html

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