Home > ライフスタイル・日常

2015/02/17

きょうはめずらしく、マラソンの話題です(笑)

とはいっても、嗅覚とマラソンは、まったく無関係というわけではないんですよ。

わたしは3年ほど前、喘息を良くするために、ジョギングを始めました。

地元(千葉・幕張)のサークルに参加し、毎週日曜の朝に1時間走ってました。

石垣に移った今でも、週2〜3回、砂浜を2kmほどジョギングしています。

1月末に、石垣島をあげての「石垣島マラソン」が開催されるとのことでしたので、幕張のメンバーに「石垣牛が食べれるよ!」と呼びかけたら、ひとりほんとうにやってきちゃいました! (笑)

IMG_4242

前祝い。ビール1杯で我慢したわたしたちは、エラい!

IMG_4251

わたしはすでにひどい腰痛をかかえてたので、完走は無理だろうなと思ってました。離脱者を拾うレスキューバスに乗ってドナドナ状態で戻ってくるはずでした。

IMG_4300

IMG_4305

ところが! 地元幕張から来てくれた友人が伴走してくれたおかげで、か〜な〜り〜ゆるいペースで止まることなく、23km完走できました。3時間弱。

考えてみたら、小学生の頃、マラソン大会で優勝して、学校代表で長距離のレースにも出ていたんでした!(ほんとか?!) そのときにいろいろ練習した記憶をたどり、腰をかばうため、かなりピッチの大きいフォームで。

やはり仲間の力は大きい! 約2000kmの向こうから幕張の仲間も、呑みながら応援しててくれた。(笑)

リタイアしたらどこでも迎えに行くよと待機しててくれた島の仲間にも感謝!でも大人になってから10kmさえ出たことないまま、23km いきなりって無謀だったかな・・・。

IMG_4253

 

沿道の応援がとにかく楽しい石垣島マラソン。黒糖差し出してくれたオバア。オニギリ差し出してくれたネエネエ。三味線パフォーマンスしてくれたオジイ。太鼓で応戦してくれた子供たち。校庭の散水用のホースで、ランナーにミストをかけてくれた名蔵小のニイニイ!(笑)←これホント気持ちよかった〜、アイディア賞!

まさに、島を上げたお祭り。普段何気無く車で走ってる道ですが、いろんな発見とともに、景色を堪能しました。

この日はマラソンだけでなく、隣りの体育館広場では、石垣牛祭りも開催されていたのです。参加賞としてついてきたチケットで石垣牛のセルフBBQが楽しめるようにできてます。

体育館では伝統芸能などのパフォーマンスも。島外から来られる方には、ほんとに盛りだくさんな祭りです。

セルフBBQのコーナーも、とても立派。煙を出さずにホッコリと肉を焼いてくれる炭も、島で林業をやってる仲間が間伐材で焼いたもの。思わず周りのひとたちに自慢してしまいました(笑)。よく見ると、BBQコンロもドラム缶を二つに割って手づくりしたもの。すべてメイド・イン・石垣の、手作りなところに、密かに感動。

IMG_4316

こんなに美味しい焼き肉って、いまだかつてあったでしょうか。。。体が極度に欲していたのもあり、炭火の前でがっつきました。

芝生で、友達の友達なんかと日焼けしながらストレッチしながらビールでゴロゴロ… 気温23度。とにかく天気に恵まれました。

4000円の参加費で、こんなに楽しめるなんて、コスパ良すぎな気もします(笑)しかも速乾Tシャツつき! 石垣島、もっともっと好きになりました。ありがとう♡

そして夜は行きつけの島唄の居酒屋さん、「唄舞〜れ」で歌って踊って…ランナーズ・ハイなランナーばっかりで、見たことのない盛り上がり方。常連の私の踊る場所がないほど! わたし、ステージでバックダンサーやったことあるんよ! 踊らせてよ! って感じでした。。。

IMG_4283

 

・・・、あ、それで肝心の、マラソンと嗅覚がどういう関係なのかといいますとね、
・・・
・・・
走ったあとは爽やかに息が吸えるんです!
それだけかい! って?
すみません。。。笑
 来年はやっぱり、フル参加かな??! ?! ?! ←調子のりすぎ
2015/01/27

じぶんのアトリエを持つ夢が叶ってひとり祝杯をあげたその頃、

その夢をかいまみせてくれたひとは、くも膜下出血でひとり部屋に倒れていた・・・

そんな、ストーリーを以前、書きました。
(こちらの記事です)

札幌でオートクチュールのアトリエを構え、

ステージ衣裳やホステスさんの衣裳を40年以上に渡って作り続けて来た叔母。

70歳になったいまも、現役としてずっと服を作り続けていましたが、

ある日突然倒れたのでした。

 

その後の叔母は、手術を重ね、生死の境を彷徨ったりもしましたが、

無事に意識をあるていど取り戻し、

正月に見舞いに行ったときには、私の顔を見るなりニッコリしてくれました。

 

IMG_3835

 

「わたしね、石垣島に香りのアトリエを持ったんだよ。

名前、PEPEにしようかとおもって。」

そういうと、しわくちゃな顔で喜んでくれました。

 

 

その後、叔母は甲状腺癌も患っていることが発覚。

そのせいで、喉に食べ物が通らないとのこと。

彼女の意思もあり、自宅に戻り、自然に往く選択肢を家族で選びました。

あと1ヶ月ほどの命です。

IMG_3963
彼女の貴重な財産である、高価な布たち。

私も部分的に受け継ぎます。

香りと服飾はまったく別の領域ですが、

叔母直伝の洋裁は、ずっと続けている趣味。

ちょうど生地もステージ用のものが多いので、

ぜひ仲間たちのステージ衣裳作りで

生かしていきたいですね。

IMG_3965
2014/10/10

呑みの席では、私がいるとよく「匂いカミングアウト」をしてくる方がいらっしゃいます。きっとみなさん、匂いや嗅覚体験について、お話ししたくてしょうがないのでしょうね! 現代社会のマナーでは、そういう話題はいちおうタブーですしね・・・。

私自身にされる質問も、ある一定の型があるのに気づきました。やはり個人的な嗅覚体験をみなさん聞きたがっているようです。よくされる質問をいくつかご紹介します。

■小さい頃から匂いに敏感なんですか?

思えば小学生の頃から、ポプリの調合を趣味としていました。それをずっと続けていたわけではないのですが、こういう仕事をするようになってから原宿の「生活の木」に通うようになり、思い出したのです。そういえば小学生のころも、通っていたなあ、と。

なので、ずっと匂いには敏感だったんでしょうね。きっと、生活のあらゆることを嗅覚で決めていたところがあるのではないでしょうか。大学生のころはとにかく旅好きで、バックパックひとつでアジアのいろんなところを回りましたが、泊まる部屋も決して予約せず、必ず見てから決めるようにしていました。

嗅覚がじぶんの生活をここまで決定づけているとは、最近まであまり意識していませんでした。きっと彼氏選びなどでも、嗅覚が大きな決定要因だったのではないかな(笑)。

特に人間関係において、なんとなく好きとか嫌いとか、そういう言葉で説明できない部分って、嗅覚が関係していると思うんです。それを「この人は将来性があるから」「優しい人だから」みたいに、後づけで納得させている、みたいな。

私の人間関係や、生活の細部まで、じつは行動を決定する要因は、嗅覚である— 最近はそう確信するようになりました。

多くの人にもそんな心当たりがあるのではないかと思います。実際、「鼻持ちならない」とか、「胡散臭い」「きな臭い」という言葉からうかがえるように、第六感的に何かを判断するときに、嗅覚が働いているような気がするのです。

■鼻が効き過ぎて、大変ではないですか?

それはありますね(笑)上記のように、じぶんがじぶんの嗅覚に振り回されている部分はあります。嗅覚に正直に行動すると、論理的に説明できないことが多い。だから自分でも「なんで?」って思うようなことをしてしまう。自分という人間がわからなくなってくる。

いまはただ、仏教の修行のように、それを静かに観察して、じぶんの今後の仕事に役立てたいと思っています。

そして、同じように嗅覚に振り回されてどうしょうもなく困っている人の助けになれればいいなと思います。たとえば家族の加齢臭に困っているとか。職場の異臭に困っているとか。挙げれば切りがないでしょう。わたし自身は嗅覚のアーティストですが、コンサルティング的なノウハウを持っていないわけではありません。簡単な方法で解決することも、じつは多いはず。

なので、いまはとにかく自分を観察してデータを蓄積しようと心に決め、日々24時間を過ごしています。

2014/09/30


DSC_1713

アトリエが始動して2週間ほど経った頃。ちょうど、「ロッテルダムの土の香水作り」という、ロッテルダム市から依頼を受けている作品制作に取り組んでいました。

その練習台として、石垣島の赤土を素材にして、蒸留していました。私のアトリエには、大家さんの孫2人が常に出入りしています ^^。ひとりは中学生、ひとりは小5。

中学生の方がオタフク風邪で学校を休んでいて、元気だけど暇だということなので、

「じゃあ、今日の蒸留はガスコンロではなく、薪でやってみようか!」

ということになりました。

石垣島の男の子達は、みんな焚き火が上手なのです。小学生でも普通にその辺の葉っぱやら薪やらを集めて来て、ライター1個で焚き火ができる。この子達を使わない手はない(笑)

じつは、火元がガスか薪かで、採れる香りが違うのです。インドでは今でも頑なに、牛の糞から作った燃料で蒸留している蒸留所が多い。オーナーは言っていました。「やはりガスとは違うよ」ほんとかどうか、比較は容易ではありません。しかし、料理の経験からいって、薪で焚いたご飯と電気ジャーで焚いたご飯に差があることは、誰もが舌で知っています。

私のところにはちょうど、プレゼントでもらった、空き缶で作られた手頃なストーブがありました。おそらくメイド・イン・インディアのフェアトレード商品。

中学生の彼は、目つきもカンもよく、あるていどの理科も理解できるので、蒸留の仕組みを説明しました。すると火加減の塩梅はてきとうにやってくれる。

「あ、火が弱い。じゃあ、太めの薪を入れましょうか。」
「うん、お願いね。」

そんな具合に、中1の彼と、1日中デートです!!!(笑) わたしの仕事って、シアワセそのものだなあ・・・。

小5の方はおっとりしていて、ただ可愛らしく、
「ねえねえ、ニオイのする花持って来たよ」
と、いろいろその辺から摘んできてくれました。
「わあ、これいい香りだね。明日、これで香水みたいなものを作ってみようか」
「うん!!!」
そし翌日は目を輝かせながら、
「こんにちはー!」
と急いで学校から帰って来ました。
可愛い。

わたしって男好きだなあ(笑)あ、いや、「男の子」か。

IMG_3040

2014/07/31

私の母は、介護も終えた3年ほど前、62歳で保育士として「再就職」しました。40年のブランクがありましたので、そのときはアシスタント的な保育士でしたが、ここ3年ほどの間にみるみるキャリアアップし、今ではなんと、グアムのとある保育園の園長・・・!

そんな話があっていいのでしょうか。そう私も思うのですが、実際にあったお話ですので、みなさんにご紹介します。

私の母は、昭和の典型的な女性ともいえ、ずっと主婦として、サラリーマンの父を支えつつ3児を育てました。長女である私が生まれる前までは、幼稚園の先生をやっていたそうです。やはり教育関係が好きなのでしょうか、私が小学生の頃には、家計を支えるために、進研ゼミの「赤ペン先生」を内職的にやっていました。

私の祖父母の介護を終え、見送った3年前、「ゴルフ代を稼ぐため」と、新聞広告に載っていた保育士職に応募。40年のブランクがあったにも関わらず、その人柄が認められたのか、ある大学病院専属の保育園に務め始めることになりました。

通勤1時間。朝早く起きて頑張っていました。これまで家族のためにのみ生き、家族にのみ頼ってきた人が、社会で仕事する、その変化に慣れるのは大変なものだったと思います。

その保育園に勤務して1年半経った頃でしょうか、私がたまたま友達のフェースブックで、「新しく近所にオープンする保育園が、保育士を探している」との情報を発見。軽い気持ちで母に教えました。

長い通勤時間に疲れていた母は、徒歩5分は魅力的と思ったようで、「きっともう64の私は採用はされないだろうけど・・・」と言いながら、いちおう面接に行きました。その面接者の方が私の人脈上の人物だったということもあるかもしれませんが、母をとても気にいったため、なんと母は創設メンバーのひとりになってしまいました。

その保育園は、日本人向けインターナショナル保育園。日本人の富裕層や、国際カップルが顧客です。たまたま私の旦那さんがオランダ人だったことや、息子がハーフであることから、先方の目には母がそうとう外国慣れしている人物に映ったのでしょう。

しかし実のところ、母は、英語をあまりしゃべれるわけではありませんでした。けれども、学生時代は英文科を目指したほど英語が好きだったとか。かくして実家では朝も夜も、英会話のCDがBGMとして流れるようになりました。

近所の保育園に務めて半年経った頃でしょうか、こんどは「グアムに同じようなインターナショナル保育園を創設したいが、園長になってくれないか」と頼まれたのです。

これには母も迷いました。英語に自信がないのと、園長としての責任を果たせるかといった問題。しかも、外国です。海外での生活経験もあり、じぶんひとりで仕事もして文字通り「戦っている」私は、大反対しました。その大変さ、辛さを、身をもって知っているからです。

しかし母は悩んだ末、「娘があれだけ海外で活躍してるんだから、私にだってできるはず」と考え、受けることにしたのです・・・なんというずうずうしさ(笑)

園長として開園準備のためにグアムに出張するキャリア・ウーマンとしての母を見るのは、家族にもちょっとした驚きでした。たったの3年で、こんなに変わってしまうとは・・・。今年の2月から赴任し、めでたく開園までこぎつけ、5月にちょうど契約が切れたので、現在は日本の保育園で待機しています。

母は私と違って英語も達者というわけではないし、職務経験も数年ほど。パソコンさえできません。それでも、海外赴任、しかも園長の話が来るというのは、やはり母の人柄からでしょうか。

母はとにかく周りを立てる人です。溌剌としていて、若く見えるのも手伝って、とにかく人に好かれます。健気なので、能力の足りない部分は努力して補おうとします。甘え方もずるいくらいカワイイです。そんな人には、いくらでもチャンスが向こうからやってくるんですね。信頼とチャンスを得るには、力ではないのです。人柄です。

しかしわたしたち家族から見た母は、また違う人間です。いつも、わけもなく八つ当たりされていたので、特に長女である私は母と戦いながら育ちました。外ではとても「いい人」を演じるあまり、そのひずみが家族に降り掛かってきます。理由はなんでもいいのです。イライラがバケツ一杯になったら、それが溢れ出し、父と私に流れ出すことの繰り返し・・・ ^^; 

この問題は成人しても変わりませんでした。オランダから帰国し、実家に身を寄せている間にも、なんどバトルがあったか・・・

しかし。それが最近、変わったのです。考えてみれば、ここずっと、実家が平和なのです。疲れからイライラすることはあっても、それを周囲に振りかざす率が減ったのです。母もじぶんのことに忙しくなり、じぶんに自信を持ち始めたからかもしれません。私もアパートを借りる時の保証人を母に頼むことになり、「こんな日が来るとは思わなかったね」、と母を讃えました。

そしてそんな母を私のできることで助けてあげると、とても喜びます。そもそもインターナショナル保育園の伝手も私の人脈なので、フェースブックもこまめにチェックしててほんとうに良かった〜と思いますね!(笑)

思うに、母は、自分のできないことを実現している娘に対してヤキモチを焼いていただけかもしれません。だから、母もそれができたときに、問題が無くなった。女性の人権など無いに等しい昭和に生きた人ですから、やり場のない気持ちがあったのかもしれません。

私は理不尽に個人的な感情をぶつけてくる人を、なるべく避けるタチです。なので、仕事上でも、極力理性的な人たちを選びますが、世の中そういう人たちばかりでもない。そういう相手と、どうつき合っていけばよいのか・・・

家族の関係性も、人の関係性も、変わる。必ず。そう信じたいですね。では、変わるには、何が必要か。どうしたらいいか。・・・それが私の次の課題です。

2014/03/18

IMG_0948

いま、石垣島にいます。

3年ほど前、たまたま喘息の療養目的で来た島、石垣島。そこになんと今、住んでいます。ほんとにたまたまですが。

読者の皆様はさぞ驚かれることでしょう。この前までオランダで、いまは石垣島?(笑)いったいどこまで自由なんだ・・・と。けれどもここジャンクステージの読者の方であれば、なるほど、とその流れを納得されるかもしれませんね。過去に石垣島について書いた記事、掘り起こすと3本もありました!(1) (2) (3)

ここ石垣島の、とくに島の裏側・米原エリアの神秘的な海と山に惹かれ、取り憑かれてしまった・・・としか言いようがない。いや、今はそうとしか言えません。

療養の時は1ヶ月滞在しました。屋久島から石垣島までの広いエリアで療養地を探していたのですが、たまたま梅雨明していたのが石垣島だったのです。

アレルギーと呼吸器疾患に悩むじぶんの健康にも理想的な土地です。ちょっと喘息気味でも、海で数日泳げば、治ってしまうのですから・・・。(ここはウェットスーツさえあれば、通年シュノーケリングができます。とはいっても、冬場に実際泳いでるのはじぶんひとりだけですが 笑)

そんなこんなでその後も何度か通ううちに、この石垣島のような、海の近くの自然豊かな土地に、アトリエを作る・・・という夢を持つようになりました。

なので、コツコツと貯金もしてきました。しかし、当時は石垣島、アクセスが非常に悪かったのです。フライト代も正規料金だと東京との往復で12万かかった。つまり東京と行ったり来たりする場所としては不適でした。

なので、沖縄本島を含む、他のさまざまな地方も視野に入れました。東京では実家のある千葉を拠点にしていたので、房総半島の古民家も幾つも見に行きました・・・。でも、いまいちご縁のある場所はなかった。

そんな中、ちょうど1年くらい前に石垣島の空港が新しくなり、格安航空会社が参入し、東京や大阪からのアクセスが抜群に良くなった。(正規料金で5万。)実家の両親も健全なので、いまは多少の冒険も可能。

そしてこの土地の方との様々なご縁ができた。

そこで、思いきって部屋を借りてしまいました。3年前、療養で来た時に滞在した部屋です。その時はたまたまここしか空いてなくて、仕方なく来たものでしたが、水が合ったのでしょう。人生何がどうなるかわからないものです。格安物件なので、非常に不便な田舎にあります。しかもヤシ林のジャングルの中にあるので、夜になると周りは真っ暗で、ちょっとコワい。しかし、目の前は蒼い海、後ろは野性味溢れる山。畑も借りられます。

1年中花が咲き乱れ、すべてが香り立つ島なのです。つまり、香りの素材もそこココにたくさん・・・。今週は試しに、畑に雑草として自生するヨモギを蒸留して精油を抽出してみようと思ってます。

じぶんの人生にとって、かなりリスクの大きい変化です。東京と石垣は言わば同じ日本国内、アメリカやヨーロッパに住んだことのある私にしてみれば、ほとんど差はないはずなのですが・・・。

決して楽ではないのです。石垣島は東京から飛行機で3時間半かかります。仕事上、またプライベート上、常に海外と往復せざるをえない私にとっては、体力的にきついものがあります。旅費もバカにならず、生活費を極力抑えて捻出するほどです。

それにここには刺激がありません! 千葉や東京は、さすが大都市だけあって、わたしの文化的欲求を満たす刺激に溢れていました。個性的な人たちとの出会いも多く、クラブで一晩中踊ったりもできるし、週末は飲み会やイベントなどで昼も夜も忙しかった。文化的刺激に満ちたヨーロッパ暮らしが長かった私でも満足できるものでした。しかしココには海と山しかない・・・。

もう、引きこもるしかない、といった場所です(笑)。常にじぶんひとり。じぶんと向き合わざるを得ない。千葉には地縁があったので、二十年ぶりに戻っても何となくじぶんの居場所があった。そんなふうにずっと都会に生き、人に囲まれてきた私にとっては、ちょっとした変化です。でもこの孤独な世界にも、少しずつ慣れてきましたよ。

何より、使命とか天命、運命のようなものに突き動かされている気がしてなりません。じぶんでは抗えない何らかの力が働いている。言葉で説明するのは難しいのですが、引き寄せられてしまった感じなのです。

 夢は、広がります。森の中のアトリエでじぶんの作品制作をしつつ、ちょっとしたギャラリースペースを持って、さらに嗅覚教育的なワークショップもやって・・・香る植物の観光農園みたいのもやりたい。わたしの授業やワークショップを受けたいという人は、世界中にたくさんいます。たまーにですが、インターンで働きたい、という人もちらほら。そんな要望に応える場所がずっと欲しかったのです。

人生久々の賭け事です。より楽しく充実した明日を夢見て・・・おやすみなさい。

2013/10/04

よく聞かれる質問です。

「なんで、匂いのアートを始めたんですか?」

じつは、いろんなきっかけがあります。

その(1)
「出産したら、それまでのようにコンピュータを使った作品を作る時間がなくなった」

出産したのは約10年前のことです。それまではメディア・アートという、サイエンスやテクノロジーを駆使した表現をやっていました。

でも息子が生まれ、いわゆる専業主婦になりました。息子は私がコンピュータに向かうと、とても不機嫌(^^;) 制作なんて時間はとても取れません。それなら、1日に3回は主婦の義務として立つ台所をアトリエ代わりにして、できることをやろう。それは料理のアートでした。そこから発展したのが、匂いのアートです。

料理は好きだったので、食に関するものであれば、触覚でも、味覚でも、嗅覚でも良かったのだと思います。でも、嗅覚の作品を作るきっかけがあり、そのまま嗅覚の道を進みました。

その(2)
「脳がコンピュータのような割り切りができなくなり、もっと直感的・感覚的なものを求めるようになった」

出産したお母さんならわかると思いますが、母と子のコミュニケーションのアナログさ、楽しさ、そしてその深みといったら! コンピュータやインターネットが、すごくチャチでつまらないオモチャに見えてきてしまいました。

それに母子のコミュニケーションで嗅覚が重要な位置を占めるのは、いうまでもありません。じぶんのパーソナルな状況を仕事にも生かしたい、母親には母親の表現の方法がある、と思いました。誰もやってない表現をやるのがアーティスト。みんながやっているサイエンティフィックな「メディア・アート」という手法だけでなく、女性らしい、母親らしいアプローチをとりたくなってきたのがこの時期。

その(3)
「オランダの外国生活で、言語が通じないフラストレーションがあった。匂いであれば、ダイレクトに通じる、世界共通言語」

作品制作をしたり発表したりするときに、意外にも「言葉」というものを使えなければ作家は生き延びられません。たとえば資金調達が必要なとき。誰も見た事の無いものを作る意味を説得せねば、お金はどこからも出て来ません。それに、作品のコンセプトを説明するのに、文章が書けtないと美術館だって困ってしまいます。

なので、意外にもオランダ生活でのアート活動は、言葉の苦労を伴うものでした。それがある意味イヤになり、「ええい! 匂いなら、どうだ! これなら、有無を言わさず、わかるだろう!」・・・と匂いの世界にまっしぐら。

匂いだけに集中して制作して、とても良かった。世界的にもそういう作家は珍しいから、いまでは世界の「嗅覚アート・シーン」ではそれなりに有名になり、世界中からお呼びがかかるようになりました。なので、たとえば仕事が無くてもまたすぐ来るだろう、と安心してられます。(実際は、「たまには仕事の切れ目が欲しい」ほど。)

とにかく、ポジティブに生きてきた結果だと思います。状況に甘えない。そして、周りのせいにしない。文句を言わない。そのとき、自分のできることをやる。それだけは貫いて来ました。

もうちょっと突っ込んだ、「匂いのアートをやりはじめたわけ」のストーリーは、「家事・育児で感性を磨く」にも書きましたので、そちらも是非参考にしてください。
http://www.junkstage.com/maki/?cat=3&paged=3

2013/07/03

昨年6月に腰痛対策のために始めたベリーダンス。あの頃は、ステージに出て踊る自分なんて、まったく想像していなかった。

そう、この前の日曜日、所属するベリーダンス・スタジオ主催の Devadasi Festival に参加し、踊ってきました。

アートを通して表現というものをずっとしてきた私。私のアート(現代アート)は、クラフトやデザイン、イラストレーションなどの 「applied art」(応用アート)とは違い、「autonomous art」つまり作家個人のステートメントを表現するものです。「これが俺の生きる道」的なステートメントもあれば、「こんな新しい表現もアートじゃない?」的な問いかけもある。ハイ・アートとも呼ばれます。まずはコンセプトありきで、どちらかというと左脳中心、右脳はサポート役。ピカソもデュシャンもじつは、コンセプトありきの表現です。

でも、ダンスは違う。とくにベリーダンスには、左脳が入り込む余地無し(笑)。むしろ、感情やフィーリング、そして「女性性」を表現するもの。スタジオでは、「じぶんのエネルギーを感じ、音に委ねて表現しましょう」と、即興が重視されています。そういうことは小さい頃から苦手でした。こう見えて、恥ずかしがりやですから (笑) クラブで身を委ねて踊ったり、カラオケで歌ったりするのも、恥ずかしくて、けっこう苦手でした。写真に撮られるのも嫌いだった。「女の子らしい可愛らしさ」が求められるから。

でも、ピアノのような「道具」を通して曲の表情を表現するのは、なぜかすごく得意でした。だから、じぶんの体を「道具」のように使うことができれば、たぶんできるはず。ベリーダンス特有の動きは、経験が浅いから下手だけど、20年のヨガのおかげで体は動きやすい。問題は、ステージ上で、みんなの前で、そのような技術云々を超えて、じぶんの感情やフィーリングをありのままに表現する「勇気」があるかどうか・・・。人生これまでとことん避けてきた命題でした。仕事でパフォーマンスをやることはあっても、匂いでステージを演出する側でしたしね。

そんなわけで、この歳になって、ものすごく大きなチャレンジを自分に果たしたんです。個人的には、これまでのどんな展覧会よりも、大きなチャレンジだった気がしてなりません (笑) 

このフェスティバルは、スタジオの自主企画で、発表会的な位置づけ。でも、誰も「発表会」とは呼んでいません。あくまで「フェスティバル」なんです。それは、スタジオ・リーダーが日本人ではないからでしょうね。「ここは、自分と他人を比較する場ではありません。上手・下手を競う場でもありません。自分に与えられたギフトをみんなとシェアする場です。」と、そのアメリカ人リーダーは言います。なんて素晴らしいんでしょう・・・と、わたしも参加することにしたんです。

とはいえ、ついこの前までオランダにいたため、そのフェスの存在を知ったのが、2週間くらい前。準備の時間は全くない。でも時間をかければ良い物ができるってわけでもないんです。そこはヨーロッパで作家活動している経験に助けられている。旅行先の海でもたくさん踊り、自分の気をクリアーにしていきました。そして、だいいちフェスティバルなんだし、そもそも仕事じゃなくホビーでやってることなんだから、楽しまなきゃ損! 参加費がもったいない。不安・心配・緊張は無用! と決めてかかりました。それも、ヨーロッパで「フェスティバル」を担う経験を積んできたおかげかな? というわけで、奄美大島で買ってきたハブ酒の小瓶を1本飲み干してからステージへ(笑)

ステージの上はとても気持ちが良かった。最初は意識がちゃんとあったのですが、途中からは記憶が曖昧。でも、全空間の意識、音、光、すべてが自分に集められているから、それに助けられて練習時よりも自分を出しやすいという感覚があり、それは新鮮な発見でした。「観客との一体感」みたいなのも味わえた。振り付けは事前に準備せず、ほとんど即興。そんなトランス状態のうちにあっという間に終わってしまった3分半でした。終わって、拍手が聴こえて、ハッと我に返り、ちょっと恥ずかしくなって、小走りでステージ裾へ・・・(笑)

「でも、堂々としてた。存在感があった。やっぱり自分を持っていて、普段から表現している人だからかな。」とティーチャーに評価していただきましたよ。「これでもっと動きを覚えれば、いいダンサーになる」とも。嬉しくって、もっと練習しよう〜! という気になってきましたね。

「お互いを認めて、励まし合って。心をオープンにして、生きていることをセレブレーションしましょう。」とのスタジオ・リーダーのメッセージが思い出されます。ぜんぶで50人のダンサーが踊ったのですが、それぞれが個性きらめき、まったく飽きる瞬間なく見続けることができたのです。まずは相手を受け入れれば、「相手と自分の比較」という競争はなくなる。相手は自分を映す鏡となり、それぞれの良さが写り、それぞれの課題も見えてくる。ちょっとユートピア思想が入っていますが(笑)素敵なコミュニティです。「誰が誰の真似した」的な競争や戦いに陥りがちな現代アートも、こうあってほしい。少なくとも、匂いのアート界を牽引するひとりである私は、そういう意識でコミュニティを育て、見守っていこうと思いました。これからの大きな夢です。

こんなきっかけを与えてくれたデバダシ・スタジオの全インストラクトレス達、とくに初歩の手ほどきをしてくれたナシャールさん、こんな場を東京に築いてくれたミシャールさん、そして愛で導いてくれるノーラさんに、感謝。

そんなわけで、感情やフィーリングをありのままに表現するという命題に関しては、とりあえずスタート地点に立ったばかり。これからじぶんがどうトランスフォメーションしていくのか・・・。変化は、恐いものですが、そこは一歩一歩、前に進んでいきたい。

そして、これらの経験は、じぶんの表現の幅を広げてくれるはず。さっそく9月末にロッテルダムで開催される、毎年レギュラー出演しているフェスティバルでは、「今年はわたし、香りのパフォーマンスやるよ!」と宣言してます。ゲイシャに扮して、香りを道具として駆使し、ロビーのお客さん達にインターベンションする。そんなパフォーマンスです。かつての私だったら、とてもとても考えられないな〜。

p.s. 7/25(木)午後遅めの時間より、逗子海岸でベリーダンスショーがあり、そこにも参加しまーす。Happy Go Lucky という海の家の『ネレイデス』というイベントです。入場無料ですので、楽しんでください。

2013/05/25

東京と地方の両方に拠点を持つ。3.11以降、そういうライフスタイルを求めて動き出した若者や子育て世代は多いと聞きます。実際にわたしの周りでもそんな人たちがたくさんいます。

中にはマレーシアに子連れ移住!なんていうツワモノもおります。彼女のこの記事を読んで、私も変化生活の良さをシェアしてみたいと思いました。

わたしは二年ほど前から、二拠点生活です。オランダと日本。地球のほぼ裏側同士です。

聞こえはカッコいいですが、そうしたいと思っていたわけではなく、最初は「仕方なく」でした。まず日本からオランダに移住したのは2000年あたりでしたが、ようやくオランダに根ざすことができたな〜と思ったときには、ひどい牧草花粉症でした。毎年ひどくなってたんですね。蓄膿症や喘息など次々と併発し、しまいには生きるエネルギーそのものが無くなってきて、普通に生活できない、ほぼ寝たきりな状態になっていたのが2010〜2011年あたり。

日本やアジア圏にはあまりない花粉ですが、ヨーロッパ大陸にはどこにでも(トルコにさえも)元気に生えている、雑草の花粉です。飛散期間は1年の半分。高タンパク質で、粒子も大きいので、スギやヒノキの比較にならないくらい作用も強いのだそうです。なんとオランダはこの牧草ビジネスの中心地! わざわざ種を撒いてるらしいので、たまったものではありません。逃げ場は日本にしかない。

そこで医者の勧めもあり、家族を置いて日本の実家に帰ってしまいました。しかし、その甲斐ありました。昨年末くらいに蓄膿も喘息も回復。完治はできない病ですが、ほぼコントロール下にあります。花粉にあたらない限りは・・・。

子どもと離れて暮らす「離散家族」な状況なのは残念ですが、仕方ない。仕事の周囲に恵まれているので、平均すると1年に3〜4回、日本とヨーロッパを往復し、旅をしながら仕事をしています。なので結果的に、子どもに会えない期間が2ヶ月を超えることはない。学校が休みのときには日本に来てもらうし。

今では、定住国を持たない、ほんとうのノマド生活。当初は、「大変そう〜」と思ってたけど、人間、慣れるものですね(笑) スーツケースと Mac Book Air と携帯電話に投資し、どこでも仕事ができるようにしました。仕事の内容や方法も変えました。私物をたくさん処分し、モノをあまり持たない・買わないようにしました。軽量化のためだったら、投資を惜しみません(笑)。書類はぜんぶデジタル化してます。最近の趣味も、移動中にできる編み物と、身ひとつでできるベリーダンスになりました。(ノマドなので、ジプシー・ダンスが身に合うようです)場所を選ばない呼吸法も実践するようになりました。

「時差ボケは?」とよく聞かれますが、それも慣れるみたい。旅の前後になるべく予定を入れないでゆっくり過ごしたり、到着後はサウナか温泉に行って、少食を心がけたり、荷物を軽くしたり・・・と、様々な方法を編み出すことで、時差ボケや旅の疲れはほとんど感じません。家が成田空港に近いのもあり、いまでは新幹線に乗るような感覚で国際線に乗っています。

友人関係もダイナミックになります。もともと群れるのは好まないし、オープン・マインドでいればどこでも交流関係も広がるので、過不足のないちょうどいい感じです。定住地を持たなくなると、物欲も無くなり、あらゆる「欲」が無くなり、すべてがちょうどいい「中庸」なんですね。

いいとこどりしてると感じています。「ああもう少しでオランダ出るんだな〜」と思ったら、旬のホワイトアスパラを芯から味わって食べたり。オランダの良いところにも日本の良いところにも気づくことができるので、不平・不満が少なくなる。「あ〜 これ、オランダっぽいな〜」とか、「やっぱりこれが日本だよね」と、笑って流してしまう。スタックすることが無くなる。周囲にも自然に感謝ができる。

何より、「変化」への適応力をトレーニングすることで、若返ると思います! 実際、「若いね〜」「若返ったね〜」とよくいわれるようになりました。

変化を起こすにはエネルギーが要るし、周りとの摩擦をたくさん生みます。変化というのは、多くの場合、望まれていないのです。でも、前向きの、力強い変化であれば、周囲の理解はあとからついてきます。何かを変えたいと思った全ての人に、力がみなぎりますように・・・

2013/04/08


先々週末のイースターを、オランダで過ごしました。たまたまむかし農場だった家に住んでいる友人が、そのロケーションを生かして、イースター・パーティを主催してくれました。

↑イースター恒例の「卵探し」中・・・

オランダ人は殆ど外食をしません。倹約を尊ぶ気質なので、レストランに行って食事をするということ自体、贅沢なことのようです。昼食だって、みんな食パンにチーズを挟んだだけの質素なものを持参します。レストランに行くのは、何かのお祝い事があった特別な時のみ。

そのため、誰か友達と一緒に食事をするといった場合は、ほとんどが「おうちごはん」。自宅に招き、招かれるということがけっこうあたりまえの日常なのです。なので、オランダ人は「ホームパーティの達人」。その技をご紹介します。

■なにかにつけてホームパーティ

まず、ホームパーティといった場合、2つのケースがあります。1つめは5〜6人くらいまでの、招待制の小さな集い。「一緒にごはんを食べよう」というのが趣旨です。

2つめは、それ以上の人数を呼ぶ大パーティ。この前訪れたイースター・パーティもこの類い。バースデイ・パーティや、ハウス・ウォーミング・パーティ(引っ越しパーティ)などもこれにあたります。オランダでは、誕生日の本人が自分でパーティをオーガナイズする決まりなのです。私もそれほど広くない自宅で、20人規模をホストした経験があります!(オランダ在住邦人なら誰もが通る道です)

前者のパーティと後者のパーティで、違いはそれほどありませんが、前者を「おうちごはんパーティ」後者を「大パーティ」としておきましょう。

■「ワリカン」ではなく、「分担/シェア」の文化

招かれた側は、おうちごはんパーティの場合は必ずワインを持参します。バースデイ・パーティやハウス・ワーミングの場合は、ワインorプレゼントを持参します。このまえのイースター・パーティは逆で、ドリンクはホスト持ち、ゲストが「なにか一品、卵料理を持参」でした。私はアイスクリーム・メーカーを持ち込み、その場でアイスクリーム作り。

一般的には18:00から始まるのであれば、夕食つき。19:30以降からであれば、ドリンク+スナックのみ。いずれの場合も、日本のような材料費ワリカン制とか会費制はありません。すべてホスト側のもてなしの一部なんですね。そもそも材料費なんてじぶんで料理を作ればたいした額ではないので、そこをケチケチする文化ではないようです。

ここはオランダ人のカンチガイされやすいところ。英語で「Go Dutch(オランダ式にいこう)」というイディオムはなぜか、「ワリカンしよう」を意味してしまうのですが、実際オランダのカフェやバーではワリカンの場面に遭遇した事はほとんどありません・・・。どちらかというとそんな楽しい場で数字で割ったり、キャッシュをやりとりするのを嫌う文化なのです。むしろ進んで人に奢ります。「これはじぶんが払うよ」「じゃあ次のラウンドはボクが持つよ」。そんな「シェア」の文化。なのになぜ「Go Dutch」みたいなぬれぎぬ着せられてしまったのでしょう・・・。オランダ人がケチで有名だから?

確かにケチです。質素倹約を尊びます。でもだからこそ、ホームパーティなのです。そうすれば、思う存分振る舞えるから。なので男も女もみな、料理の腕を上げる努力をします。「ボクはBBQ系のグリル料理が得意」とか、「私のピザは生地から作るから美味しいのよ」など、披露したい料理がひとつやふたつあるのが当たり前です。

バースデイ・パーティの場合、フードもドリンクもホスト持ち。つまり誕生日の本人が、みんなに振る舞うしきたりなので、そんな得意料理のひとつやふたつないと困るのが現状。こんな規模のパーティをもしレストランやバーでやっていたら、いくらあってもお金が足りないので、自ずと自宅パーティとなるわけです。フードを自分で作れば、ドリンク込みで20人2万円で収まります。大好きな人たちが自分のために集ってくれて、一緒に楽しい時間を過ごしてくれるのであれば、とても安い出費です。そしてホストは、パーティをオーガナイズするイニシアチブをとる時点で感謝され、社会的にもリスペクトを得ます。

そもそもホストは「自分のパーティでキャッシュを出させるなんて、粋ではない」と考えます。なのでホスト側は、会費が発生しないように、かつ自分に負担がかかりすぎないように、あらかじめ役割分担し、頼むものは頼み、バーであれば「21:00まではドリンクフリー」などの上限を明確に設定し、それをゲストとコミュニケーションするのです。あくまでワリカンではなく、「シェア」の文化です。

↑アイスクリーム制作中

■ホームパーティの延長戦で

私はこの大パーティの延長として、じぶんの結婚式もすべて自らオーガナイズしました。料理も自らしました。お好み焼きを約80人分、花嫁衣裳姿で焼いたのです(笑)! お好み焼きの材料費は安いもので、確かぜんぶで1万円くらいだったかな。結婚式の朝に、花嫁みずから自転車で市場にキャベツ10玉買いに行きましたよ。式が始まる2時間前には、花嫁はサラダのドレッシング作り、花婿はスープ作りに勤しんでいました(笑)70年代風ラウンジスタイルのクラブを貸り切って、会場・ドリンク・食器レンタルなども併せてぜんぶで20万円弱の格安パーティ。もちろん会費はとりませんよ!さきほど述べた通り、そういう文化ではないんです。

さすがに新郎新婦の手料理を振る舞うパーティは、オランダ広しといえどもあまり聞いた事がなく、みんなの記憶に残るウェディング・パーティだったようです。(笑)

お金に余裕があればケータリングが普通です。それか、料理上手な人をあらかじめ頼んでおくとか。そこで呼ばれるシェフはたいていセミプロで、パーティ料理の達人。私はこれまであらゆるパーティで、この類いの料理上手な人にレシピを聞きまくり、パーティ料理の腕を上げてきました。

■訪れる側のマナー

そこに集まる人たちに共通するのは、みんなホストと友達だということ。逆にいうと、そこにいるメンツでだいたいホストの人柄や興味、社交テイストがわかってしまいます。招待された側のマナーは、そこにいる誰もと交流する気持ちで訪れること。まず着いたら自ら、そこにいる全員と握手して軽く挨拶します。これがわからなかった移住当時、日本人的に恥ずかしがって誰かが話かけてくれるのをずっと待っていたなんてこともありましたっけ・・・(笑)新参者は、努力せねばならないのが世のきまり。

私のアーティストとしてのキャリアは全て、この類いのパーティで築いてきたと言っても過言ではありません。地縁が全くない私にとって、見知らぬ誰かにじぶんから話しかけることを地道に繰り返すしか、人脈を築くことができないわけで・・・つまりお酒好きなのが幸いしたわけですね。

■ホスト側の準備

じぶんでホストしながら料理したりサーブしたりする場合「決して慌てない」ことがコツのようです。「早く出さなきゃ」と慌てると、緊張感が走り、その緊張感を家人も察知してしまうので、雰囲気がギスギスしてしまいます。まずはお客さんに酒とつまみさえ出しておけば、だいじょうぶ。鼻歌うたいながらじぶんの世界に没頭する、くらいの余裕が大事だということですね。

オランダではベジタリアンが多いので、最大公約数的にベジタリアン食を作ることが多いです。材料も安上がり。つまみに肉や魚を入れれば十分ですしね。サラダ、スープは事前に用意しておいて、主食のパスタはその場で作り、デザートは人任せか、チーズを用意しておく、というのが私のいつものパターン。量は作りすぎないのも重要で、余ってしまうと見栄えがしないので、七掛けくらいの量がちょうどいいですね。

こういうパーティでは、男性がちょこちょこ動く方が映えます。奥さんはくつろいで呑んでばかり、というくらいでもいい。ダンナさんがホスト役を投げ出していいのは、シンデレラタイム以降(笑)。私は料理だけはしますが、他の部分、たとえば買い物、客の出迎え、選曲やBGM、見送り、片付けなどはぜーんぶ男性に丸投げで、呑みます!

そもそもオランダのパーティではビールをクレート単位で買うので、その時点でもはや女性の仕事ではない。人数が多いときは、ビールサーバーをレンタルしたりもしますが・・・。そのくらいオランダ人は、ビールを水のように飲むのです(笑)

最近、花粉症で体力が落ちてしまってからは、じぶんの5月の誕生日にパーティをやることができなくなってしまいました。そのかわり、息子がパーティの年頃になってきたので、毎年パーティをやってあげています。7、8歳のころからホスト役は息子に一任するようになりました。私はただのアシスタント。オランダの子達は、このようにパーティ・トレーニングされ、大きくなっていくのですね。

Next »