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2013/01/31

不敏にして栗城史多(くりきのぶかず)という登山家を存じ上げなかった。存じ上げなかった訳であるから、氏の来歴についてなにかしらの個人的見解を述べる権利は僕にない。
しかし、医療的側面から、彼について語ることが許されるなら、彼の指はもうもとには戻るまい。たとえiPS細胞がどれほどすばらしいものであっても、である。

2012年10月、単独無酸素でエベレスト登頂に挑んだ彼は、右手の親指を除く9本の手指に重度の凍傷を負った。栗城氏のtwitterには、第二関節からうえが黒色に壊死した痛ましい指の写真も掲載されている。
そして、氏はいまだ切断には踏み切らないという。諦めず、再生医療に取り組むと語る。

そもそも、壊死した指はなぜ切断しなければならないのか。

たとえば、てのひらにプリンをのせたままで幾日も生活する必要があるとしよう。そう遠くない未来に、プリンの甘い香りは異臭に変わり、腐る。腐ったプリンは食べることができない、あたりまえだ。
ひとのからだはプリンよりもたくさんの有機物で構成されている。それが腐らないのはどうしてかと言えば、そのパーツが生きているからだ。生きていれば細胞は血流により栄養され、免疫細胞により保護される。死んだらそれがない。腐ったプリンは、死んでいる部分の血管から体内に戻り、腐ったプリンによってからだがパニックを起こす。これが敗血症だ。ひどいときは、からだ全体が死ぬこともある。

血流改善をして再生医療に取り組む、氏の主張は一見心得ているようで、そのじつなにも受け入れていない。
まず、血流とは生きている部位の話で、彼が再生したい指にはもう、血管そのものがないのだ。血流改善による効果が得られるのは生きている部位の末端であり、炭化した第一関節ではない。むしろ、患部で産生された壊死物質を、いたずらに体内循環に戻してしまうとも考えられる。

いちど死んだものは生きかえらない。
だから再生医療、という思考はあまりに短絡的で、悲哀すら漂う。

山中教授によるiPS細胞は確かに、数年後、あるいは数十年後、医療に画期的な革命をもたらすかもしれない。
でもそれは、おそらく性質を同じくした単一の細胞、あるいは限られた種類の細胞から成立する組織についてであるということは、容易に想像される。乱暴な言いかたをしてしまえば、皮膚は作れても指は作れないのだ。
再生とは聞こえのいい言葉だが、たとえば指にはどんな細胞、組織があるだろうか。皮膚・筋肉・骨、爪・血管・腱、もっと厳密にすればそれらはさらに無数の細胞によってかたちづくられているのだ。
それをらをすべて、いちから作り出す。まるで魔法のような話だ。

そんなことができるのなら、怪我や病気で死ぬひとなんかいなくなる。そうなればいい。しかしまだ、無理なのだ。

栗城氏のtwitterにはたくさんのリプライが寄せられ、彼が確かにひとびとを動かす魅力ある人物であることが伺える。だからこそ、彼に安易に再生医療と口にしてほしくはないと僕は思う。
再生医療への期待が高まる昨今、一部には再生医療が万病に効くとPRする民間クリニックが問題となっている。安全性や高額の治療費など、かぎりなく黒いグレーな代替医療に、国内でも関係学会が注意を呼びかけるほどだ。これでは、再生医療そのものへの信頼性が揺らぎかねない。

諦めないと口にするのは自由だ。その結果、健康を害するとしても、それは個人の問題であって、他を害することもない。
しかし、登山の中継や講演活動など、パフォーマンスに熱心な栗城氏であれば、その言説には重い責任が伴う。炭酸水や薬草、アメリカの名医、そして氏に次々とリプライされる眉唾ものの代替医療の情報を、安易に社会に拡散するべきではない。

希望にすがりたい気持ちを否定するつもりはない。でも、それに善意の人たちが巻きこまれ、健康を害するようなことがあってはならない。
栗城氏を下山家と揶揄する向きもあるが、下山とは自分にできることできないことを落ちついて考えるための手段ではないのか。闇雲にエベレストのような希望を語るのではなく、まずは地に足をつけ健康になってもらいたいと心から思うのである。

2013/01/31 06:00 | コラム | No Comments