先週の木曜日。
私は家族三人で父の13回忌の法事の為実家に帰省しました。
夫が私の実家に出向くのは何と5年ぶり。広島に住む弟ファミリーも二年ぶりの帰省。久しぶりに親戚一同が集まり、父の思い出話に花が咲きました。
実は私…小さい頃、父方の親戚の人たちが何となく苦手でした。
理由は恐らくあまり会う機会がなかったからなのでしょうが、歳の近い従姉妹たちとの間にもどこかよそよそしい距離感があり、中々打ち解けることが出来ませんでした。
父を含む男性陣はお座敷でお酒を飲み、母を含めた女性陣は台所でてんやわんやの大忙し。
目の前のテーブルにはご馳走が並んでいるのですが、手を出すことが何となく躊躇われ、私はじっと正座をして面白くもないテレビを見つめていました。
「記美代ちゃんは慣れきらんねぇ。遠慮せんでよかとに」
と名前も良く分からない親戚の叔母さんの言葉が余計に私の中に壁を作らせます。
私は子供心ながら『親戚って一体何なんだろう』と考えながら、とにかく早く時間が過ぎてくれるのを願うばかりでした。
そのせいもあってか、私は次第に血縁関係だけではなく、地元意識が強い人や同族意識が強い人も苦手になりつつありました。
排他的なものの考え方をする人がどうしてもダメなのです。
私が住んでいる熊本では特にそのカラーが強いせいもあるかもしれません。
ではそのカラーとは一体何色なのでしょうか。
これまで私のコラムを読んで下さっている方ならお分かりだと思いますが、その色とは…そう「赤」なのです。
赤はルートチャクラの色ですが、ルート(root)は根を表し、複数形になると祖先を意味します。
つまり人が生きて行く上で基盤になる家族や先祖の色であり、また同族の絆を深める色でもあるのです。
国旗の色に赤が多く使われているのは、もしかしたらそういう意味も込められているのかもしれません。
しかし注意すべきは、赤が強くなると同族意識が異常に濃くなり、余所者を受け入れない排他的姿勢に繋がり、争いの種になりかねないと言う点です。
これが嫁、姑の争いなど親族で起こる場合もあれば、もっと大きなレベルでは民族紛争など内紛という形を取る場合もあるわけです。
この問題はルートが絡んでいるだけに非常に厄介で複雑です。
古くからの先祖の想いや願いが強く込められている為、今の代でそれを断ち切るには相当の覚悟と勇気が必要でしょう。
しかし出来ないわけではない。
勿論家族や親戚、先祖は大切ですが、血縁に固執するあまり誰かを傷つけてはいけないのです。
血の繋がっていない人であっても、地元以外の人であっても、受け入れる寛容さと柔軟性を持つことが赤のカラーを持つ地域の人たちのテーマだと言えるでしょう。
血や土地ではなく、深い魂の部分で共鳴しあって初めて人間同士の真の絆が結ばれるのかもしれません。
今更といえばそうですが…「話し合い」この行為は非常に大切です。
夫婦、親子、恋人、友人等など日常的な人間関係においてトラブルが発生した場合、一番理想なのは当人同士が速やかに話し合う事なのですが、中々その話し合いが出来ずついつい避けてしまう人がいます。
彼らは固定観念と言う自分独自のフィルターを通して解釈と判断をし、勝手に結論を出してしまいます。
この場合、相手を非難し自分を正当化することで自分を守り、あくまで自分が被害者なのだと言い張ります。
彼らは何故話し合うのが苦手もしくは嫌なのでしょうか。
それはその人の「感情の抑圧」に関係があります。
つまり本当の自分の気持ちに向き合うのが怖いのです。
では何故自分の気持ちに向き合うのが怖いのでしょうか。
それは自分の気持ちを認めた途端、自我(エゴ)が傷つくからです。
自我とは偽物の自分、イメージの自分、カッコつけた自分です。
「こんなことで落ち込まない自分」だったり
「少々のことで悩まない自分」です。
実のところ傷つきやすい人というのは繊細な人ではなく、自我が強い人の事なのです。
本当の自分と繋がっている人はそう簡単に傷つきません。
傷つくのは偽物の自己であると言うことを知っているので、何か人間関係のトラブルが生じた時に、速やかに話し合いを持ち、また話し合う過程で自分の本当の気持ちに向き合う事を恐れず的確に正直に相手に伝えることができます。
つまり地に足の着いた現実的な解決策が取れるのです。
もし今何か対人関係で悩んでいる方がいるとしたら、占いに頼るのではなく、または同意して慰めてくれる人に相談するのでもなく、速やかに問題の相手と現実的な「話し合い」をすることをお勧めします。
こういう時に限って想像していたより呆気なく解決したりするものです。
翌日。
あることが気になってあまり熟睡できなかった私は、6時過ぎに起きて恐る恐る洗面所に行き自分の顔を覗きこみました。
すると右側の頬に黄緑色の痣、目尻には内出血の赤みが昨日よりも濃くなっています。
実は上京前夜、買い物と食事を兼ねて繁華街に出かけたのですが、歩いている途中ヒールの踵が側溝の溝に引っかかり激しく転倒してしまったのです。両手に荷物を持っていたせいか手をつくタイミングが遅れ、何と右顔面と右膝を激しく強打。気のせいか「ぱきん」と卵の殻が割れるような音が聞こえたような…
本来ならすぐに病院に行くのですが、何せ明日は上京を控えているし、色んな準備などを考えると自分の怪我より上京の方が大切だと判断し、心配する息子に荷物を半分持ってもらい帰宅。
氷で冷やしたりと取りあえず応急処置で済ませたのでした。
さて。
今日は11時半に昨夜一緒にイベントに行ったお友達と東京タワーで行われているマイケルの遺品展に出かける予定です。
膝の傷は絆創膏、顔の痣はメイクで何とか誤魔化し(洗顔やメイクする時の痛みが半端なかったのですが…)息子は昨夜と同じビリージーンの格好でいざ東京タワーへ。
新たなお友達も加わり、ワクワクしながら会場内へと向かいました。
そこには衣装を始めマイケルの遺した沢山の遺品が展示されています。
DVDで何度も観たおなじみの衣装やキラキラ手袋、ショートフイルムで使われていた小道具に、THIS IS ITで着る予定だった衣装等など。
遺品を見ながら今日は日本時間でマイケルの命日ということもあり、色んな想いが交錯します。
マイケルは一体どんな思いで死んでいったのか。
自分の人生を彼自身どう評価していたのか。
沢山の誤解や偏見に対し本当のところ彼の思いはどうだったのか。
マイケルの死によってどれだけ多くの人が色んな問題に直面し対峙し真実に気付かされたことでしょう。
そしてマイケルを通して自分自身を見つめ直すという作業を否応なくすることになった人々は、痛みや哀しみの先にある「寛容」というテーマへ進まなければなりません。
マイケルを死に追いやった特定の人物や未だ誤解を招く報道や記事、映画に対して単に非難するだけではなく、もっと高い位置から全体を把握し理解する知恵を持つことも必要です。
これはマイケルのことに限らずですが、何か大きなテーマが自分に降りかかった時にその部分だけを切り取って判断してしまうと、大切な真実が見えなくなってしまい、善悪や勝ち負けなど二元論での狭い解決策に陥りがちだからです。
「人間万事塞翁が馬」という諺にもあるように、物事を断片的に判断せず全体像で見れるようになると、それが一見不幸な出来事のように見えても実はそこに幸福の芽が潜んでおり、人間的に成長する為の贈り物が隠されていることに気付くようになるのです。
マイケルもきっとその真実を身を持って伝えたかったのかもしれません…。
タワーの外では、何とあのケント・モリ君(マドンナのバックダンサーでTHIS IS ITバックダンサーオーディションでマイケルから1位指名されたというスゴイ人)のパフォーマンスが行われ、チビマイケル達がステージで一緒にケント君と踊るという実に素晴らしいサプライズが!
その時の模様がコレです。
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「パパラッチされた~」とグズっていた息子ですが、実はその画像はAP通信で全世界に流されたと言うオマケ付き。
あと何年か経ったらきっとこのスゴさの意味が理解出来ると思うんだけど…。
先週末の金曜日から二泊三日で息子と二人上京してきました。
目的は「マイケル・ジャクソン1周忌イベント」に参加する為。
マイケルが亡くなったのをきっかけに急にマイケルにハマった息子は、この1年ハウステンボスのイベントに参加したり、熊本でラスベガスのソックリさんとジョイントしたり、地元のテレビに出演したり…とマイケル一色の年だったと言っても過言ではないでしょう。
またマイケルがご縁で色んな人との出会いがあったのも事実。
サエキけんぞうさんからは「子マイケル」と命名されブログにもアップして下さいました。実に有り難いことです。
私もツイッターを始めてからマイケル繋がりで色んなご縁があり、上京の際マイケルクラスタの方とお会いする機会を得ることが出来ました。
25日(金)の夕方からは銀座でイベントがあったのですが、そこで待ち合わせをすることに。
東京の土地勘や距離感が全くと言っていいほど分からない私は、何が不安って移動の方法が一番の心配でした。
取りあえず大崎のホテルまで無事に辿りつき、そこから銀座までどうやって行こうか迷った挙句結局タクシーを使うことに。勿論電車の方が料金も安く時間も短く済むのは重々承知の上です。でも息子の格好はどこからどう見てもビリージーンそのもの。キラキラスパンコールジャケットに短めのズボン(横線入り)その上例の帽子を被り、これが目立たないわけがない。本当は目立って本望なのですがやっぱり恥ずかしい。ホテルを出る時も出た後も皆の視線は息子に釘付け。中には「お、マイコーだ!」と声を掛ける人もいるのですが、私は息子とちょっと距離を置いて歩くと言う母親失格の行動を取ってしまいました。。
息子も若干恥ずかしそうなのですが、堂々とこの格好で東京を闊歩出来るとは、子供ならではの…いや息子ならでは度胸なのでしょうか。とても私にはマネの出来ない芸当です。
と言うことでタクシーを拾い銀座へ。
料金は3000円以上、時間も30分以上かかったものの、安全性と確実性を取ったと思えば安いもの。。と自分に言い聞かせ(一番は恥ずかしかったからなんだけど)いざ会場へ。
既に会場は満員かつ熱気ムンムンでステージではチビマイケル達がダンスを披露しています。さすがの息子も私の影に隠れて圧倒されてる様子。
それにしてもステージで踊る子供たちのスゴイことと言ったら!
下は3歳くらいから上は10歳くらいまでのチビマイケルたちが、本格的な衣装を身にまといマイケル並みに踊っています。
「さすがに東京は違うのね…上には上がいるのね」
などと感心しているとマイケルクラスタさんが到着。
私と同じく息子さんJ君(5歳)と二人での参加です。
そして何とJ君もビリージーンの格好!
それもジャケット&キラキラ手袋はママの手作り。愛が籠ってます。
二人共最初はお互い照れくさそうにしていましたが、次第に慣れてくるとステージの近くまで行き、羨ましそうに踊っている子供たちを眺めています。
そこで私はスタッフの人に頼み込み二人の子供たちもステージに上げてもらうことにしました。
その映像がコレです。
http://
かれこれ小1時間は踊っていたでしょうか。
そしてあっという間に時間が過ぎ10時を過ぎると、さすがの息子たちにも疲労感が。。
実は11時~スペシャルゲストでマイケルのバックダンサーだったスミダ・ユーコさんのトークショーがあったのですが、それを見ることなく会場を後にした私たち…。
帰りはお友達と一緒に電車で帰ったのですが、駅に向かうまで人気者のジャクソン2。外国の方から写真撮られたり、声を掛けられたり、行きの恥ずかしさは何処へやら。
有楽町から電車に乗り、お友達が品川で降りると急に心細く&恥ずかしくなって来ましたが、大崎まで一駅の我慢。
そして無事にホテルに着き、部屋に入った途端私も子供もあまりの疲れにベッドに倒れ込むようにして眠りにつきました。
…その2に続く…
ここ数日体調が優れなかったせいもあり、珍しく落ち込みモードだった私。。普段なら全く気にならない事も、何故かスルー出来ず心と身体が過剰反応してしまい、更に落ち込むという悪循環。
終いには涙が溢れて止まらなくなり、30分くらい子供のようにひとしきり泣きじゃくり、ベッドでふて寝。
起きると瞼が腫れてスゴイ顔になっていましたが、何かが違うことに気付きます。何が違うのだろう?頭はまだぼーっとしているのですが、泣く前と何かが決定的に違うのは明らかです。
冷たい水で顔を洗い、少しさっぱりしたところで窓の外を見ると、綺麗な青空と風にそよぐ木々の葉が生き生きと私の目に飛び込んできました。恐らく泣いたことにより、心のフィルターの目詰まりが綺麗に洗い流されデトックスされたのでしょう。
これまでも何度かコラムに書いていますが、私たちは大人になるにつれ忘れてしまうことが沢山あります。
その中の一つが「泣く」ことです。
小さい頃私たちは心と身体が痛い時には「泣く」という行為を当たり前のようにしていました。
怪我をしたら泣く。頭やお腹が痛かったら泣く。母親から怒られたら泣く。お友達とケンカして泣く。欲しいものが買ってもらえなくて泣く…という具合に。
つまり子供にとって泣くという行為は上手く感情表現を出来ない代わりに究極の手段となってサインを出しているようなものです。
成長する過程で自分の気持ちを何とか言葉で伝えることが出来るようになると、私たちは「泣く」という子供っぽい手段を敢えて避けるようになります。避けるどころか封印して「ここ数年泣いたことがない」という人もいるでしょう。
また外部から、泣くこと=子供っぽい。知的ではない。男は特に涙を見せるものではない。感情的な人間だ。自分を制御出来ない。等などマイナスのメッセージを知らないうちに刷り込まれてしまう場合もあります。
確かに大人になるということは自分の感情をコントロール出来ることでもあり、我慢することでもあります。
しかしそれが当たり前になってしまうと、心と身体は次第にマヒし、大きな痛みさえ感じなくなってしまうでしょう。
これがいわゆるフィルターが目詰まりしているという状態です。
こうなると、痛みを感じるどころか感動する心も鈍ってしまいます。
泣くという行為は決して子供だけの特権ではありません。
大人になった私たちも言葉に出来ない不安、心配、悔しさを感じた時には泣いても良いのです。
我慢したり理屈をつけたりする必要などどこにもありません。
大人だから、母親だから、カラーセラピストだから…といった役割を脱ぎ棄てて自分の心を見つめた先にはかつて少女だった私が「ただね、泣きたかったとたい」とちょっと恥ずかしそうに大人の私に教えてくれました。そしてその少女と会話をするうちに実は大人の私が泣きたかったわけではなく、かつて少女だった私が父性を求めて甘えたいだけだった…という本当の理由も分かりました。
泣くという行為は私たちが思っている以上にとても重要で、尚且つ大切なメッセージが込められているのです。
私はカラーセラピーのセッションや講座を行う前に敢えて食事を摂らないのですが、それは胃袋が満たされてしまうとインスピレーションが湧きにくくなり、勘が鈍ってくるからです。
これは食事に限ったことではありません。
私たちはある欲求に関して満たされ過ぎてしまうと、途端に意欲を失い、今度は別の欲求の対象を探し始めます。そしてそれも満たされてしまうと又次の欲求へ…と果てしないループに陥ります。
一番分かりやすいのは恋愛かもしれません。
恋に落ちたばかりの時は相手の全てを早く知りたくて、そしていつも一緒にいたくて毎日のように連絡を取り、そして会い、二人だけの世界に浸ります。
しかしその世界に満たされ過ぎてしまうと、他に新鮮な対象を求めると言う身勝手な行動に出る人も少なくないでしょう。
ではそうならない為にどうすればいいか。
答えは腹八分目、いや六分目くらいの関係に留めておくことです。
駆け引きなんてイヤ。と言う人もいるかもしれません。
でもこれは駆け引きというより知恵なのです。
恋愛という感情が優先しがちな世界だからこそ、知恵を働かせることが大切です。
カラーセラピーで言えばピンク一色の世界に適量のイエロー(理性、知恵)を加えることにより、相手のペースに巻き込まれず、自分自身を見失わない賢い恋愛が出来るというわけです。
しかしイエローが多くなりすぎると計算高くなったり打算傾向に走ったりするので、ここはやはり適量ということを忘れずに。。
特に大人の女性であれば飢えを楽しむくらいの余裕が必要です。
幸か不幸か現代は携帯やパソコンなど科学の進歩のお陰でいつでもどこでも相手と連絡が取り合うことが可能な世の中です。
しかしそこを敢えて踏ん張り、腹六分目に控える。
もうちょっと話したいけど我慢して電話を切る。今日は部屋に泊まりたいけど敢えて帰る。毎日会いたいけど毎週一回だけ会う…etc
そう。相手との関係を満腹にならないように心がけるのです。
これらの行為は一見相手の気を引く為のテクニックのように思われがちですが、そうではありません。
実は「程良い飢え」という空間を自分自身の中に確保することにより、正しいインスピレーションを得ることが出来る上、自分自身を客観的に見つめる余裕が出来るのです。
そうなると相手のウソも見抜けるでしょうし、悪い相手に騙され捨てられるという悲劇も起こらず、自分を大切にしない男にしがみついて尽くし続けることもないでしょう。
また程良い飢えを楽しめる人は、恋愛に限らず何かに対して必要以上にのめり込み我を忘れるという依存傾向もないので、スマートで洗練された印象があるでしょう。実際食べ物に関してもそうなので体型もスマートな人が多いかもしれません。
程良い飢えを楽しめるようになると、満たされ過ぎる人生もよりも精神がより豊かになれそうな気がします。
私はカラーセラピーのセッションなどで「本当の自分になる」と言う言葉を頻繁に使うのですが、本当の自分とは一体どういうことなのかピンと来ない人が多いようです。
よく「なりたい自分になる為に」みたいなタイトルの本を見かけますが本当の自分とはまさにその「逆」。
私たちはよく「どんな自分だったらもっと友人が出来るの?」「どうしたらもっと彼から愛されるの?」「もっと部下から信頼尊敬されるにはどう振る舞えば?」などとあの手この手で自分を変えようとする方法を見つけようとします。
そして本当の自分に覆いを被せ、理想の自分と言う名の窮屈な服を身にまとい「これが本当の自分なのだ」と思い込ませようとするのです。
しかし窮屈な服は1着だけではありません。
私たちは大人になるに従い「役割」と言うこれまた窮屈な服を当たり前のように着こなしています。
この役割という服はあまりに当たり前すぎて、殆どの人がイコール本当の自分だと思い込んでいるほどです。
例えば「母」という役割。
妊娠し、子供が生まれ、育児をする過程で女性は母と言う役割を担っていきます。子供からは「お母さん」と呼ばれ、どうかするとパートナーからも「お母さん」と呼ばれ、ママ友からも「○○ちゃんのお母さん」と呼ばれ、日常で繰り返される母親業と共に次第にお母さんイコール自分自身なんだ…と思い込むようになるのです。そして最初は窮屈だった母親という服も次第に馴染むようになり、時々窮屈さを感じる時もあるのですが見て見ぬフリをするのです。
こういうことを書くと「母親は母性本能があるのだから役割でも何でもない!」と頭の固い人たちから反論されそうですが、実はこれも母性神話に拍車をかけて世の中の母親を苦しめる大きな原因にもなっているのです。
母性とは学習です。
母性とは子供を産んだ女性だけの特権だけではなく育てるプロセスの中で誰もが習得出来うる愛情です。ですからお腹を痛めて子供を生まなくても、その対象が養子であっても犬であっても母性という愛情を経験することは可能です。例え男性であってもです。
つまり私たちは母親(父親)だけではなく、夫に対しては妻、妻に対しては夫、親に対しては子供、職場では社員、などと沢山の色んな役割を当たり前のようにこなしているので、その役割全てが本当の自分であるような錯覚に囚われ、いつしかそれこそが本当の自分なのだ!と思い込むようになるのです。
そして子供が巣立った後…会社を定年した後…などで役割が終了した途端、自分自身が消えて無くなってしまいそうな不安と焦りを覚えるのです。そして心身に不調を覚え、酷い時には鬱など病気になったりします。
カラーセラピーでその人が選ぶ色は実のところ「本当の自分が出しているSOSのメッセージ」なのです。
妻でも母でも子でも学生でも社員でもなく、誰かに受け入れられようとノウハウ本を実行しようとしている自分でもなく、一枚一枚窮屈で似合わない服を脱ぎ去ったあとに表れる本当の自分からの叫びなのです。
その本当の自分を一番愛しみ癒してあげられるのは自分しかいないのも事実です。
時々は本当の自分の声を聞く為に、役割という服を脱いでみてはいかがでしょうか。
実はそこに本当の探し物や答えがあったりするものです。
今朝の熊本は土砂降りの雨。その上風も強く、窓の外を見ると庭のアボカドの枝がゆわんゆわんとしなっています。
いつもだったらこんな悪天候の中、余程のことが無い限り外出しない私ですが、今回は学校の旗振り当番の為休むわけにも行きません。
幸いにも外はそんなに寒くはないので、雨に濡れることを想定して生足で出かけることに。
するとまた幸いなことに夫が「俺も手伝うよ」と言ってくれたので、旗振りは任せることにして私は子供たちに声掛けをすることにしました。
暴風雨の中で傘など殆ど役に立たず、夫も私もすぐにびしょ濡れ。
しかし次々と登校してくる子供たちの元気なことと言ったら。
ある子供は長靴の中に雨水を入れてビチャビチャさせながら私に見せてくれます。またある子供は傘の骨が折れてこんなになったと喜び(?)別の子供は傘をささずまるでシャワーを浴びるかのように雨と戯れています。
暴風雨という一見ネガティブな環境の中、子供たちの弾けんばかりの笑顔に私も一緒にびしょ濡れになって大笑いしました。
不思議なことに、晴天の旗振り当番の時よりも今日の方が子供たちとの会話が弾みます。
そして自分でもこれが一番驚いたのですが、雨に濡れることが嫌じゃないのです。嫌どころかむしろ楽しい。
普段の私なら(せっかく巻いた髪が…買ったばかりの靴が、服が…)などと雨を敵視して楽しむなんてことはあり得ません。
でも今日は髪や服や靴が濡れようが一切気にならない。
それどころか面白くて仕方がないのです。
家に帰り濡れた髪をタオルで拭きながら、ふと懐かしい思い出が蘇りました。子供の頃、多少の雨など気にせず泥だらけになって遊んだこと…蓮の葉を傘代わりにしたくて早く雨が降らないかなぁと願ったこと…初めて買ってもらったレインコートを着て嬉しくて雨の中はしゃぎまわったこと…。
(そうか…子供の頃雨は私の友達だったんだ…)
これは雨に限ったことではなく、全ての自然に対してもそうです。
一面のれんげ畑でハイジのように走り回りながら、首飾りを作ったり蜜を吸ったりしたこと。
飽きもせず雲の流れをずっと見て色んな空想をしていたこと。
泥団子を作ってどっちが固いか弟とぶつけ合って競争したこと。
アリが食べ物を運んで行く様子をずっと目で追っていたこと。
これらは大人になった今忘れてしまっていたことでした。
私たちは大人になるにつれ、いつしか雨は濡れるから出かけるのが億劫になり、雲を見つめる余裕もなく、近所からはれんげ畑が無くなり、泥団子など汚れるものは論外で、アリを見つけたら駆除する。そんな生活へと変わって行きました。
実はそれらは成長する過程で身に付けた固定観念や既成概念という色眼鏡を通した世界なのです。つまり、親を始め教師や親戚の人、またはテレビや本などから様々な影響を受けることにより、思い込みと言う名の独自のフィルターが出来あがる…という仕掛けなわけです。
以前のコラム「子供に教えられること」にも書きましたが、私たちは子供から学び、気付かされることが多いものです。
しかしそれは新たに付け加える作業ではなく、大人になってからの不要な思い込みを捨て去り、ひたすら思い出す…という実にシンプルなワークです。
何故なら私たちは誰でも『何が一番大切なのか』子供の頃から知っているのですから。
昨日から子供の新学期が始まり、春休みの浮かれモードから一変した我が家。ダラモードからシャキモードへのチェンジはやはり朝の早起きから始まります。
今朝などは何故か午前4時ごろに目が覚めてしまい、それから再び眠ることが出来なかったのでいっそのこと早起きしようと5時過ぎにはベッドから出て朝の準備に取り掛かりました。
とは言っても時間にかなりの余裕があるので、PCの電源を入れツイッターやメールチェックをしたり、軽く掃除をしたり、コーヒーをゆっくり飲んだり…等など次第に明けてゆく空を窓越しに見ながら気持ちよく朝を迎えることが出来ました。
そして朝食もいつもより丁寧に作り、子供を起こす時もいつものせかせかイライラ感もなく優しく接することが出来るので、子供も気分良く起きることが出来、会話をしながら朝食を取り、笑顔で登校…という見事な好循環。
当たり前と言えばそうなのですが、改めて余裕というものががどれだけ私たちの日常生活に大きな影響を与えているのか身を持って感じた今朝の出来ごとでした。
大袈裟でも何でもなく、余裕の有る無しで人生に於いて大きな差が生じてきます。
例えば…余裕がない状態の時。
子供がジュースを飲みたいと言ったとします。
私はイライラセカセカしながら目についた薄いガラスのコップにジュースを注ぎ、テーブルに置きます。余裕がない為コップを置いた位置がテーブルの端っこになっていることにも気付きません。仮に気付いていても真ん中に置き直す余裕がないのです。次に子供がミスをしてそのコップを肘で倒し、テーブルから勢いよくコップが落ちて割れると同時に破片とジュースが床一面に散乱するという始末。。
そこで私の怒りは頂点に達し子供を叱ります。
「どうしてコップを倒したりなんかしたの!!」
雑巾と掃除機で床を掃除しながら、泣きじゃくる子供の声が怒りを助長させるという悪循環。
お子さんをお持ちの方は「うんうん、よくある光景だわ」と共感して頂けるかもしれませんが、ここに隠されているキーワード「余裕」を改めて意識することにより、悪循環のからくりに気付くことが出来ます。今回は主婦目線で子供を絡めての例えでしたが、老若男女誰でも関係なくこういった余裕のなさが不運の連鎖を招くきっかけともなるわけです。
余裕にも色んな種類がありますが、特に私が大切にしているのは「時間的余裕」です。
出来るだけ時間に追われない様に心がけ意識するのです。
時間的余裕が出来ると必然的に精神的余裕が生まれます。
例えば1時間早く起きることで、身支度も丁寧に出来るでしょうし、納得いく服選びも出来るでしょう。朝食やコーヒーを楽しむゆとりさえ出てくるかもしれません。
精神的に余裕が出来るとアンテナはいつもより鋭くなり、かなり視野が広がります。そうなるとトラブルや事故などを未然に防ぐことが出来ますし、仮に想定外のハプニングが起こっても冷静に対処することが出来ます。
精神的余裕があれば、子供からジュースをせがまれた時に目についた薄いガラスのコップではなく、こぼした時に割れない様にプラスティックのコップを食器棚まで取りに行く手間を惜しみませんし、勿論テーブルの端に置くような不注意なことはしないでしょう。
そしてその余裕は子供にも伝わり、落ち着いてジュースを飲むことが出来る…というわけです。
つまり、不運や不幸の連鎖は本人の意識次第でストップさせることが可能なのです。
ツキの無さや運の悪さを人のせいや環境のせいにする前に、今一度自分自身の中に余裕があるかどうかを確かめてみてはいかがでしょう。
最近時間に追われて余裕が無いなぁ…という方はいつもより30分早く起きて身支度を丁寧に準備してみて下さい。もしくは寝る前に30分自分と向き合う時間を作ってみて下さい(両方出来ればなお良し!)。
このたった30分がもたらしてくれる余裕の中に、人生に於いてかけがえのない宝物が隠されているのです。
前回のコラムにも書きましたが、人生とは選択の連続です。
毎日の洋服選びから、食事のメニュー、など日常的な些細な選択から
仕事や結婚、離婚など人生を左右するような大きな選択まであります。
そして私たちは岐路に立たされた時に立ち止まり悩みます。
「右に行くべきか、左に行くべきか、それとも真っ直ぐ行くべきか…」
幸か不幸か、一昔前とは異なり今日では多様な選択肢が増えました。
つまり選択肢は右、左、真っ直ぐだけではなく、斜め右にも斜め左にも斜め右下にも斜め左下にも真下にも…実は放射線状に無数に存在するというわけです。
結婚を例に挙げれば、一昔前は20歳前後でお見合いをして結婚をして二人以上子供を持ち、長男と結婚した場合は自動的に同居になるという価値観が主流でした。
私の母(60代)は「私たちの世代はそれが当たり前で何の疑問もなかったのよ。今の人たちは自由でいいね~」とよく口にしますが、私は選択肢が増えた事が本当に今の時代を生きる私達の幸せに繋がっているのか疑問を持つ時があります。
選択肢が多いと言う事は幸福の多様性にも繋がり、とても素晴らしいことではあるのですが、その多様性の中から一つを選び出し幸福を掴む為には『自分自身は本当は何を求めどうしたいのか』と言うハッキリした意志と行動力を持っていなければなりません
ハッキリした意志と行動力がない人にとって選択肢の多さは逆にその人を悩ませる要因になります。
そしてそういう人たちが選択しようとする時に使う口癖が
「~べきかどうか」です。
それをしたいかどうかではなく「べき」で決めようとするのです。
「べき」で決めようとする時は左脳が大活躍していますから、完璧な選択に固執します。
彼らにとって失敗や後悔など許されないわけです。
そんなこんなで益々ハートから切り離されて行き、無数の選択肢地獄の中で悩み続け決められないまま時間だけがどんどん過ぎて行きます。
又彼らはこう言います。
「いつか時期(機会)が来るまで暫く様子を見よう」
自分で決めて行動出来ないので、周りの環境がいつか自動的に整うことを期待するのです。
しかし、永遠にその時期は訪れません。
時期や機会は待つものではなく作るものであると言うことを彼らは知らないのです。
時期を待って完璧な選択をするタイプの人は、完璧な選択をしたはずなのに何かで躓いた途端「あの時別の選択をすれば良かった」と後悔ばかりするでしょう。そして再び新たな完璧な選択探しループに陥ります。何故なら完璧な選択などこの世に存在しないのですから。
それよりも機会を作り自分が選んだ選択をベストに持っていく意志と行動力を培うことがとても大切です。
辛い環境や状況からも学ぶことが出来れば、天は必ず味方になってくれるでしょう。
選択肢が多い現代だからこそ、自分自身が本当に何を求め、どうしたいのか…自分のハートとしっかり向き合うことが本当の幸福への近道なのだと思います。










