2010/09/25

明和高校音楽科に入学しても共子先生のところにレッスンを通わせてもらった。
レッスンを受ければ受けるほど共子先生の元でバイオリンが勉強したい気持ちが
強くなる。
共子先生と話しをした。自分の気持ちを素直に打ち明けた。「先生の近くでバイ
オリンがやりたいです。大学とか先でなく今やりたいです。」
先生はもう一度やっても合格する保証はなくダメな可能性が高いことも告げてく
ださいました。しかし僕の頭の中には共子先生の元で勉強するために桐朋に入る
ことしか頭にありませんでした。
しかし問題がいくつかありました。家は貧乏でないにしても高校浪人させてとは
言えない。妹二人いるし妹たちの将来もあるので経済的に甘えることができない
かも知れない。
明和高校音楽科もレベルが高く毎年芸大や桐朋に数人合格者を出しています。
再度受験するためには出身中学の校長の印が必要。印さえ押してくれたら明和に
在籍しながら隠れて受験できる。しかし校長は押さないと言う。辞めてきたら印
を押すという。
母方の祖母は反対してました。明和は良い学校。大学から桐朋でも良い。わざわ
ざ高校をうけなおす必要はない。ダメなら大学で浪人すればいいという考え。
しかし気持ちはもう決まってました。今が大事で今やらないと後悔する。もう一
度受験させてほしい。もしダメなら就職します。今回が最後ですと両親に懇願し
ました。
言い出したら聞かない僕の性格と行動力を見て再度受験することを許してくれま
した。
明和高校を辞めもう後戻りできないまさに背水の陣の状態。
僕はこのような極端で危なっかしい選択をすることはよくありますがこれが自分
の子供だったりしたらこういった選択はさせないかも知れません。
桐朋女子高等学校音楽(共学)の入試一ヶ月前には先生の家の近くの旅館に泊ま
り先生の家に毎日通わせていただきました。先生も家の中の一室を僕に貸して下
さった。
朝9時に行き夜7時までひたすらバイオリンを弾いてました。7時になり最後の
生徒さんのレッスンが終わったらほぼ毎日僕をレッスンしてくださいました。
その一ヶ月は地元から祖母もきてくれずっと小さな頃からおばあちゃん子だった
僕を精神的に支えてくれました。
僕は頑張るのは当たり前ですが実行できたのはまわりの方々が支えてくれたから
です。受けた親切やご好意は残念ながらほとんどご本人に返すことはできません
。なので僕は受けたご恩、親切は次の世代やこれから出会う方々に返していこう
といつも思ってます。
二回目の入試実技試験の順番が一番最後でした。もちろん試験官である先生は僕
の順番を知るはずがありません。不正がないように受験者は名前でなく全て番号
であらわされます。最後まで僕があらわれないのでどこかに逃げたか隠れてしま
ったと思ったようです。
入試ではこれ以上にない出来でした。これでダメならもう完全に諦めることがで
きるくらい出し切りました。
試験官だった先生も終わったら外に出てきて満面の笑みを浮かべてました。他の
試験官からも「君よかったよ、先生だれ?」と聞かれ共子先生が師であることを
話すと共子先生に話しをしに行かれてました。共子先生も仲の良い先生たちに囲
まれ嬉しそうに話してました。後できいた話しですが共子先生はその足で不動産
屋に行き16歳の男の子が住める物件あるかさがしに行ったそうです。不動産屋さ
んから「一応合格発表があってからでいいのでは?」と言われ我にかえったそう
です。
残りの試験も全て上手くいき結果は見事合格。ここから新たな人生を歩むことに
なります。次回は上京してからの音楽高校、大学の話しを書きます

2010/09/25 05:11 | 未分類 | No Comments
2010/09/18

音楽高校受験、日本一レベルの高いところ。それに該当するのは東京芸術大学附
属高校もしくは桐朋女子高等学校音楽科(共学)を受験しようとしました。
あの頃の僕はホントに無知。レベルの高さも全くわからずその学校の先生にもバ
イオリンを習ってない状態でした。
芸校や桐朋狙う人は早い人は幼稚園くらいから遅くとも小学生の高学年くらいか
らその学校の先生にレッスンをうけその専門の音楽教室に通って受験します。
僕はというとソルフェージュを田舎で小二から低いレベルでやっていて中三まで
才能教育でバイオリンをやってました。そもそも才能教育はバイオリニストを育
てるのではなくバイオリンを使ってその子の才能を伸ばそうという機関と聞きま
した。なので僕が日本一レベルの高い音楽高校を受験すること事態が大間違いな
のです。
才能教育で知り合ったバイオリン工房の方から受験するならそこの学校の先生に
レッスンを受けた方がいいということで後に僕の先生となる故鈴木共子先生のレ
ッスンを受けることになりました。
初めてレッスンを受けたのが忘れもしない21年前の大晦日。
共子先生の第一印象は白髪の綺麗な品のいい笑顔が素敵な優しそうな御祖母様。
しかしその印象は数分後に大きく崩れさりました。
受験曲を弾き終え先生一言「地方にお帰りになった方が良いです。とてもではな
いですがこのレベルは東京のどの学校も入れません。この歳まで男の子でバイオ
リンをやってきたということはこの先も続けてくれるだろうから地方ならどこか
しら入れるところがあるかも知れない。」
この一言を聞き両親は絶望的な表情をして荷物をまとめ帰ろうとしました。
「受験まであと二ヶ月あります。何もしないで諦めることはできません。やるだ
けやらせてもらえませんか。」
何を思ったのか自然と僕は共子先生に対しお願いしていました。この時もう芸校
とかどうでもよく桐朋しか頭にありませんでした。
両親は何をお前言ってるんだ?気でも狂ったのか?という表情をして僕を見つめ
ていたのを覚えてます。
共子先生は僕の意志を受けとめて下さってそこからさらに一時間レッスンして下
さいました。
レッスンが終わり共子先生が「桐朋はソルフェージュも難しいから桐朋の先生に
一度見てもらいなさい」とその日(大晦日)のうちにソルフェージュのレッスン
を受ける事になりました。
ソルフェージュの先生のお宅へ伺い過去問をやることに。メロディー聴音(旋律
)、ハーモニー聴音(和音)、新曲視唱(初見)。各それぞれが80点以上で合格
。結果…メロディー14点、ハーモニー0点、新曲お話しになりませんと告げられる

そのほかに楽典のテストもあるらしい。楽典なんてやったこともない。唯一ピア
ノだけは問題なかった。
このような絶望的な状態にもかかわらず僕の気持ちは前向きでした。やりたいこ
とや決めたことはやるだけ。迷うこと事態がないのです。ピンチの時はチャンス
。こんな経験はなかなかできない。まだ二ヶ月もあると考えひたすら努力しまし
た。
結果…もちろん不合格。実技でのミスが致命的だったようです。しかしそれ以外
の楽典やらソルフェージュは合格点がとれていたようです。
もう悔しくて悔しくて諦めきれませんでしたが高校に行かない訳にいかないので
地元愛知県の明和高校音楽科を受験。
この学校も公立では日本の音楽高校ではトップ5くらいに入るところらしい。馬鹿
だと思われたらしゃくなので学科やソルフェージュの試験はちゃんとやりました
。しかしバイオリン実技に関しては桐朋以外行く気はなかったのでかなり乱暴に
弾きました。
結果…合格。あれ?なんで?落ちるつもりで弾き散らかしたのに。
評価を後で聞いたら「強引で雑な部分もあったが男らしい演奏でよかった」……
しまった。裏目にでた。
つねに上をみて日本一のレベルの学校を目指し努力したためそれなりに実力がつ
いたようだ。
僕は明和高校音楽科の一年生になることになった。自動的に桐朋は高校からでは
なく大学を目指すことになりそうだった。
ずっと心の奥で「これでいいのか?」といつも悩んでいた。

2010/09/18 01:09 | バイオリン | No Comments
2010/09/12

今回は高校入試までのことを書こうと思います。僕は愛知県半田市に生まれ2歳か
ら豊橋で16歳まで生活しました。
才能教育の鈴木メソッドでバイオリンを2歳から初めました。
初めの一年半僕は一切バイオリンを弾こうとしなかったようです。僕の順番は1
時で1番最初。二歳の僕はちょうどお昼寝の時間。きっと眠かったのでしょう。
先生が「しょうがない、じゃ挨拶だけして終わりにしようか」と言ったらパッと
立ち上がりお辞儀だけして帰ったそうです。
そんなのを一年半も我慢した両親はよほどの馬鹿かお人よしです。しかしそれで
辞めさせてたら今の自分はないですね。
引っ越しをきっかけに豊橋の教室に通うことになりました。そこで出会った故近
藤富雄先生が僕の人生を変えました。
また1時からのレッスンだった僕は眠かったのでしょう、また前の先生と同じよ
うに先生の前で寝転がりました。
そしたら抱き起こされ頬っぺたをバチン!とビンタされました。
「レッスンに来たならちゃんと弾いて帰りなさい!泣き止むまでそこに立ってな
さい!」と怒鳴られたそうです。
三歳の僕はおそらく両親以外の人から怒られ叩かれたことなどなかったのでしょ
う。びっくりして大泣き。一時間ほど泣き続けそれでも恐くてその場から逃げた
かった僕は「おしっこ!」とトイレに逃げました。
観念した僕は泣き止みそれから先生はレッスンをみて下さったそうです。
故近藤先生には15歳までレッスンをうけましたがとても優しい先生で怒られたの
は三歳の一度だけだったと記憶しています。
今の時代にはあまりないことかも知れませんが信念を持って子供と向かい合う。
子供が道をそれたら全力で正しい方向に戻す。僕は恵まれていたのだと思います

同じバイオリン教室にライバルがいました。一つ上の男の子健一郎君。普段は仲
良しなのですがバイオリンに関してはお互いに負けたくなかったのだと思います
。つねに競り合ってました。
今の社会では運動会などで順位をつけないところもあるそうですね。僕は経験か
ら本当の友達とは張り合いながらお互い成長していくものと考えます。競える環
境、ライバルがいたことに感謝します。健一郎君は高校は普通科に進みましたが
音楽への情熱が消えることなく大学は音大へ進み今は地元愛知県豊橋でバイオリ
ンの先生と演奏活動をしてます。
僕は悪ガキ軍団がまわりにいてがき大将がいて山あり川ありの自然の中で育ちま
した。なのでバイオリンのようなお坊ちゃまお嬢さまのやるようなことはあわな
かったかも知れませんがなにしろ負けず嫌い。自分に出来ないことがあると気に
入らない。そして両親がバンドをやってたせいか生活の中心にいつも音楽があっ
たように思います。そして他の人には出来ないことを自分はやっているという自
負からやめる気はありませんでした。僕のバイオリンを聴いていただいた方はわ
かると思いますがテクニックがあまりなく楽譜通り弾かない(弾けない)僕は音
に対してこだわりを持ちます。自分の感情を表すのにとても優れたパートナーが
バイオリンだったのです。
父親がサッカーをやっていたこともあり小学生の時はサッカー部に入ってました

中学生になり母親が「この子が将来バイオリンやりたいと思ったらここできちん
と練習させないといけない」と思ったらしく運動部への入部をダメだと言ってき
ました。もともと運動が得意な僕に文化部系を選ぶのはとても酷な話しでした。
運動部を選ぶかバイオリンを選ぶかどちらかにしろ!と強引な二者択一を強要さ
れどうせやるなら皆がそう簡単にできないバイオリンを選ぶことに。そして文化
部である三回しか行かなかった美術部にしました。今思えばこの反動もボクサー
への道の一つだったと思います。
そして高校受験。希望は音楽高校。どうせ受けるならレベルの日本一高いところ
。この時の僕は日本一の音楽高校のレベルの高さを全くわかっていませんでした
。次回は音楽高校受験からの事を書きます

2010/09/12 10:32 | バイオリン | No Comments
2010/09/05

はじめまして、闘うバイオリン弾き西垣恵(ニシガキケイ)と申します。
バイオリンを教えたり演奏したりするかたわら三年前までプロボクサーをしておりました。
ジムが潰れてしまったため現役を退き現在は総合格闘技トイカツ道場で打撃のコーチをしながら総合格闘技の修業中です。
何故バイオリン弾きが格闘技を?手は大丈夫なの?とよくきかれます。もちろん手は大丈夫ではありません。何回か折れてます。
そういったとき仕事はテーピングしてこなしてました。

もともとはバイオリンのためにはじめたボクシング。人前で弾くのは体力と集中力が必要。
音楽をやる人はジムに行ったり道場に通ったりして身体を鍛えている人は意外と多いのです。
僕は自分に厳しくするため最もストイックなイメージのあったボクシングを選びました。
先程意外と鍛えてる人が多いと言いましたがあくまでほどほどにです。
しかし僕は中途半端ができない性格。そしてトレーナーさんもとてもいい人でした。
口で「俺、ボクシングやってるんだ」と口だけ男になるのは嫌でした。
週一回練習しようが毎日やろうがボクシングやってることにかわりはないのです。
ちゃんとやってる証しって何だろ?と考えました。
空手や柔道なら黒帯というわかりやすいものがあります。
ボクシングは…プロボクサーか。という結論に達しました。

もともと運動神経は良い方でしたが小学生の時サッカーやってたくらいで中学は美術部。
音校、音大、研究科と全く格闘技やスポーツとは無縁の生活。
これでプロボクサーになれたら俺すごいな。と努力し始めました。
当時プロボクサーの受験資格は30歳まで。プロボクサーを目指したのは27歳。
死ぬほど努力しプロテスト受けたのが29歳。一回目落ちました。
しかし僕の人生にあきらめるという言葉は存在しません。ぎりぎりあと一度受験できる。
それでダメなら必然的にプロボクサーになることは出来なくなる。
そこでダメならあきらめたらいいと再度受験。
そして二回目で合格しプロボクサーとなったのです。
目標を達成したのですがまたそこで悪い癖が。
ライセンスとって試合しないのは免許とって運転しない人とおなじ。…格好悪い。

そこでデビュー戦を組んでもらいました。演奏と同じで自分にスポットライトが当たる。
ただ大きな違いは拳で全力で殴り合う。痛い。演奏では絶対ないこと。
人を殴るということには少なからず理由があるはず。憎いとか腹立つ等。
しかし何の理由もなく「お願いします」と初対面の人とぶん殴りあうのは変な感じでした。
まわりの声援が聞こえる。「西垣!殺せ!ぶっ倒せ!」
こんな気合いの入った声援にまじって「西垣先生頑張ってー」と女性や子供たちの声援。
そうです僕の生徒や生徒のお母様たち、そして音楽関係者。
相手に殴られながらリングサイドに座ってるおじさんたちの会話が聞こえてくる。
「あいつ何の先生なんだ?」すみませんバイオリンです。
この時の相手のパンチが「何でや!」というツッコミに感じました。
一進一退の攻防を繰り返し最終的に僕は相手をKOしました。
音楽では味わえない興奮と爽快感と達成感でした。
ピアニストの友人に「いろんなホールに招かれたけど後楽園ホールは初めて」と言われました。
その後戦い続けジムがなくなるまで七戦して三勝四敗2KOの戦績を残しました。

こんなめちゃくちゃなことばかりしてますがたった一度の人生、好きなことをやって生きたい。
怪我やもしかしたらバイオリン弾けなくなるかもなどのリスクを考えやらない選択をするよりその時やらない選択をしたことを後悔するタイプなのです。
やるならとことんやる。サボるくらいならやらない。
やりたいことをやれる時は必ず支えてくれる人達がいる。
その人達に感謝の気持ちを忘れないようにといつも思ってます。
こんな頑固で不器用な人生を歩んでますが生きることを楽しんでます。

今後格闘技のこと、音楽のこと、昔のことなど書いていきたいと思います。
ホームページあります。よかったらのぞいてみてください。http://kei-nishigaki.com/
そしてお仕事あったら下さい。よろしくお願いします。

2010/09/05 04:46 | 未分類 | No Comments

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