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2011/01/13

音校から音大とクラッシック畑出身の僕ですが弾くのはポップスも大好きです。
幼い頃両親がバンドをやっていました。そこにバイオリンやピアノで参加してい
ました。小さな頃からポップスの楽しさは身をもって知っていたのだと思います

学生の頃からクラッシックを勉強するかたわら友達とバンドを組んだりポップス
の仕事を先輩からいただいたりしてやってました。
学校をでてからもやる仕事はポップスが多かったと思います。
ではクラッシックとポップスの大きな違いは何だろう?勿論使われる楽器や編成
、エレキ楽器を使う等様々あると思いますが音楽という僕なりの観点から考えて
みたいと思います。
まず曲のつくりです。強引な言い方をすればクラッシックはサビだらけのように
かんじます。ポップスはサビを目立たせるためにAメロBメロとシンプルなつく
りのメロディーが続いてサビにつなげるというのが大方のつくりになっています
。時間もポップス曲はだいたい4~5分くらいに対してクラッシックは小品なら同
じくらいですがコンチェルトやシンフォニーなら全楽章で30分以上のものが非常
に多いと思います。
クラッシックは曲のつくり方も様々な決まりを守ってつくりますがポップスはク
ラッシックのような決まりはなくむしろ型破りでもかっこよけれはなんでも有り
のようなつくりが多いです。
クラッシックはフレーズを大切にして多少テンポが揺れます。ポップスはわりと
縦のせんを大事にしていく傾向があると思います。
音の取り方もクラッシックは導音は高めにとりますがポップスは同じです。クラ
ッシックはだいたい442Kilohertzに対してポップスは440Kilohertzです。これは
クラッシックが電気の力を使わないため高い音程の方が響くためこうなったのか
も知れません。
拍の取り方もクラッシックの場合指揮がふられ少し戻ってきたところで音がでま
す。簡単に言うと多少のためがあるので発音のタイミングが遅れます。しかしポ
ップスはふりおろされたらその下の部分で音を出さなければなりません。このタ
イミングが一番苦労しました。そして音程もです。
THE BEATLESの曲を分析するとクラッシックではやってはいけない進
行などしてますが今もなおTHE BEATLESの曲は愛されています。
それぞれ違いはありますが良いものは良いのです。
クラッシックの人間にたまにいるのですが自分達のやっている音楽こそが崇高な
もので他をあまり認めず、クラッシック以外のミュージシャンを見下す奴がいま
す。ホントにすごい人は偉そうでなく他を認めとても謙虚です。僕は音楽が好き
です。どのジャンルも好きです。今後も様々な音楽をやっていきたいです。謙虚
にそしてアグレッシブに生きたいと思っています

2010/12/16

今の音楽は様々なジャンルがあると思います。
クラッシックの曲ではよく「ガボット、メヌエット等」を耳にすると思います。
よく生徒からガボットって何?みたいな質問をされます。本当は先生に聞く前に
自分で調べて欲しいのです。意地悪している訳ではありません。人から教えても
らったことは自分で調べたことと比較して忘れてしまいがちなのです。そして人
に聞くという最も簡単な方法ではなく自分で本で調べるなどの手間をかけて知識
にして欲しいと僕は思います。
ガボットは簡単に言うと二分の二拍子のやや早め舞曲なのです。少し付け加える
と繰り返しがありダカーポでもどりフィーネで終わります。
もちろん多少の例外もありますがリズムに特徴があり楽しい感じのものが多いで
す。
他にもワルツ三拍子のはやめの舞曲等様々あります。
こういった古典舞曲の特徴として曲の終わりにはリタルダンド(だんだんゆっく
り)があり終わることが非常に多いです。舞曲を弾くにあたり一番重要なことは
やはり踊れるかどうかだと思います。
では舞曲って現在では?とかんがえると…ダンスミュージック!テクノ、ヒップ
ホップ、ハウス、レゲエなどいろいろあります。
曲のテンポはそれぞれほぼ決まっており各ダンスミュージックにだいたい特徴あ
るリズムがついてます。
例えばレゲエというダンスミュージック。1960年代後半ジャマイカで成立し、1980
年代前半まで流行した4分の4拍子の第2・第4拍目をカッティング奏法で刻むギタ
ー、各小節の3拍目にアクセントが置かれるドラム、うねるようなベースラインを
奏でるベースなどの音楽的特徴を持つポピュラー音楽です。テンポもBPM60も
しくは倍の120と決まっており人間の心拍数に近いものになっています。
ダンスミュージックも昔のものから現在のものに変化してきて未来はどんなもの
が出てくるのだろうと思います。
昔はどこか行くにも場所で何ヶ月もかけて行ったと思います。それが汽車ができ
たり船ができたり電車になったり飛行機ができたりとつねにはやいものに変化し
てきました。その影響もあると思います。曲にしてもダンスミュージックにして
もはやいテンポが増えてきたと思います。
メトロノームで昔は一往復で一拍でした。現在はその半分で一拍としています。
音程も現在の音程に比べるとベートーベンくらいの時代との音程差は半音昔が低
かったようです。なのでわかりやすい例としてはレコードの回転速度を少しおと
したらテンポも音程も下がります。昔に演奏されていたものと非常に近いものが
実現されると思います。
そこから考えるとあの難しい顔をした肖像画のベートーベンの運命という曲もど
こかあたたかい曲に聴こえると思います。
未来のダンスミュージックの予想は…音程が高めでテンポがはやいものができて
くるかもしれませんね

2010/11/09

音校、音大での僕はどんな存在だったのだろうか?自分のことなので想像でもの
を言います。
芸術系の学校というのはやはり変わった人がとても多い。漫画やドラマ、アニメ
になった「のだめカンタービレ」みたいなかんじ。あれは本当によく出来てる。
大抵の方々は多少なりと大袈裟にかかれていたり演出家の演出だとおもわれてい
ると思いますが、少なくとも僕のまわりはあんなかんじでした。それよりひどか
ったかも知れません。
学校で僕は少し浮いているのを肌で感じたことがあります。あんな個性的な集団
の中で浮くなんて…僕が限りなく普通の人だからだ!そう思ってました。若干今
でもその傾向はあります。
正義感が強いのはまわりがおかしいから。おかしいことをおかしいと言えないこ
とがおかしい。そうです、頑固なんです。
浮いた噂がたたないのは僕が真面目だから。(ホモ疑惑がささやかれたことも。
実際は恥ずかしがり屋のくせに女性に相手にされなかった。)
今も昔も変わらないのは楽しいことにしか興味がないこと。
大抵のことは率先してやりました。何故か団体のトップかトップ下にいることが
多い。音楽科に高校通ってたくせに圧倒的に男友達のほうが多い。
学園祭も実行委員長をやりました。はじめはやる人がいなくて先生から説得をう
けた。もちろん喧嘩になりました。
当時の学校の政策に反対だったのと個人主義のわがままな奴が多い学校に何故僕
が一肌脱がなければいけないのかわからなかったからです。
しかし先生の立場もあるし学園祭を楽しみにしている仲間がいる。たよりにされ
たのも嬉しかったのでしょうね。
条件をだしました。
1、実行委員会の首脳陣は僕に選ばせること。
2、学園祭期間(準備期間を含む)は大抵のことは誰であろうと僕の指示に従うこ
と。(もちろん教師であっても。)
3、先生方は協力を惜しまないこと。
4、学園祭が終了したら実行委員会の人間に焼肉をすきなだけ食べさせること(食
べ放題の店は不可。
上のことは守ってもらいました。そのかわりと言ってはなんですが必ず成功させ
オリジナリティーあふれる学園祭を作ると公言しました。
つねに気をつけていたのは委員会の人間を全力で守ること。失敗があっても全て
僕が責任を負うこと。そして失敗をした人間を誇りに思うこと。嫌な作業は率先
してやること。変なやつらがきたら先頭で戦い追い払う。
卒業生からも「学園祭でライブやってあげるからギャラをくれ」と言われました
がきっぱり断りました。随分OBに煙たがられ呼び出しもされましたが全て返り
討ちに。
高校も大学と一緒にやります。なのでクラスをもつ教師がかってに判断してやり
たいようにやられました。もちろん喧嘩して従ってもらいました。おかげさまで
学園祭は成功し、先生方からも大変高い評価をいただきました。
そのせいかどうかわかりませんが名前も知らない学年もかなり離れた後輩からア
ドバイスをと何人か学校を卒業してからも 僕のとこに来てくれました。
頑固でいかつくて同性にモテるが女性には相手にされない。本当にたまに好意を
持っていただける方がいても鈍いので全く気がつかない。…全く今でも変わって
ませんが昔の男、昭和の臭いがする男という感じが学校での僕だったのだと思い
ます。

2010/11/01

僕は共子先生の元で勉強したいということで不可能と太鼓判をおされた桐朋に一
浪しながらも入れました。
初めての東京は驚くことばかり。16歳の僕にはいろいろ刺激になりました。祖父
母も一緒に住んでいた大家族七人からいきなりの一人暮らし。掃除洗濯料理等一
人でやったことないものばかり。全てそのスキルはバイトで身につけました。
家は貧乏でないにしろ裕福ではありません。コンビニで深夜働き効率よい掃除の
やり方を覚え廃棄の弁当やパンで食料を手に入れ、居酒屋で働き料理のやり方を
覚えました。
桐朋の高校はバイトしている人なんていないと思います。そして大学もピアノ科
や弦楽器科はほとんどいないと思います。大学になると大学から入学してくる外
部生は科によりバイトしている人はいましたがせいぜい教えたり自分の演奏技術
をいかせるバイトをするくらいです。それだけ裕福な家庭の人が多く自分の練習
に打ち込む人が多いです。
僕の考えはひたすら練習するのはよくないと考えています。それでは音楽家でな
く音楽オタクもしくは音楽バカになってしまうと考えます。
普通の人たちとクラシック出身の人間には垣根が存在すると思います。音楽をや
ってきた人間は音楽がわからない人や自分用よりレベルの低い人を見下す傾向が
あります。そうでない人はすみません。少なくとも僕の上や下の世代、中途半端
に上手い奴はほとんどがそうでした。僕はそういう奴らが大嫌いでした。楽器が
できることを特権階級のようにはなにかけたり裏ではぼろくそ言ったり。
そのような奴らと一緒にされたくないという気持ちもあったからなのか僕はこの
ようなバイオリン弾きらしからぬ生き方をしているのかも知れません。格闘技に
も納得のいかない判定とかありますが相手を倒せば勝ちです。経歴は自分を守っ
てくれません。
たいしたことない奴が踏ん反り返っていて仕事をもらうためにヘコヘコしたり下
についたりがバカらしくてクラシック関係の仕事はほとんどやりませんでした。
僕の考える音楽家とは人の気持ちがわかり世の中の情勢や様々な知識を持ち、考
えを音で表現できる人間のこと。職人です。大半の音楽家は残念ながら商人が多
いように思います。
こんな不器用な生き方をしていましたので女性だらけの環境でも男友達の方が多
かったです。
桐朋は練習室が少ないのでよく部屋がとれないことが多々ありました。そういう
ときは廊下で練習します。勿論ピアノの人はできません。弦楽器、木管楽器はや
ります。 金管楽器は音が大きいので真ん中の建物の一階が金管楽器の人たちの練
習場所になっていました。廊下はよく音が響くので弱音機をつけたりしましたが
夜人が少なくなると気持ちよくひいたりしてました。
桐朋といえば代名詞にもなっているのがオーケストラだと思います。いくつかの
オーケストラが新学期はじめに発表され希望をだします。高校1、2年.外部からの
大学の新入生はエントリーできるオーケストラは限られていますがそれ以外の人
は学年関係なく実力で希望のオーケストラにのれるか決まります。評価は実技試
験の結果等により判断されます。
ビオラ専攻の人は少ないので桐朋のバイオリンの人がビオラをやったりします。
なので桐朋のバイオリンの人は皆ビオラが弾けます
席は実技試験の結果が反映されます。
指揮者は有名な方たちがやって下さってました。
桐朋はオーケストラの授業がとても厳しかったです。やはり集団なのでとくに出
欠や遅刻にかんして厳しかったです。開始時刻15分前には調弦をして席について
いなければいけません。
出欠をとる時にいなければ遅刻とみなされ皆さんの前で遅れた理由を述べ謝らな
ければなりません。欠席は次回来たときに理由を述べ謝らなければなりません。
風邪等の場合は病院へ行き診断書を提出しなければいけません。木管や金管など
同じパートに人がいない楽器は代理をたてなければなりません。
遅刻してしまったら謝るだけでなくその遅刻者が来るまでずっと音も出さず待っ
ています。無断欠席をしたら最悪です。来るはずもない人をその練習時間いっぱ
いまで待ち続けます。そして来なかったら一音も出さず終わることになります。
オーケストラは集団行動なのでかなり最低限守らなければいけない時間の部分に
はシビアでした。
それ以外はかなり自由な学校でした。しかしその自由が一番怖いのです。自分を
生かすも殺すも自分の選択次第。規制されているときの方が実はやさしく楽なの
だなと思いました。
この学校で一番をとることはきっとどんなコンクールで優勝することより難しい
と思います。日本音楽コンクールの一位もだいたい各年ごとにいますし海外や国
際コンクールの上位入賞者も何人もいます。まさに日本音楽界の最高峰のような
ところでした。
すごいのは頑張ってる先輩や同期、後輩で僕は何もすごくありません。むしろ名
を汚してる部類に入るかと思います。
故齋藤秀雄先生が音楽をする子供たちのためにと僕の先生を含め作った少数精鋭
を育てる学校だと思います

2010/10/14

高校生の頃からツインバイオリンでバンドやってました。相棒は鉄平という男で
す。今は杉鉄というコンビを組んで頑張っているようです。
鉄平という男は見た目かなりの二枚目。キャシャで貴公子のような外見。中身は
…ご想像にお任せします。
はじめは二人でやってました。当時はクライスラー&カンパニー(ハカセタロウさ
んのバンド)とGクレフというバイオリンバンドがありました。クライスラーは
バイオリン一人でうちこみのクラシックを編曲したものがほとんどだったので僕
らはツインバイオリンでオリジナル曲の多いGクレフの真似をしてました。曲を
作ったり、Gクレフの曲を聴音したりして文化祭でライブやってました。
走ったり跳びはねたり寝転がって弾きますからいつも使っている楽器を使うわけ
にはいきません。安い楽器を仕入れペイントしてコマに振動板をつけてアンプに
つなげてましたが後にエレキバイオリンを購入しエレキバイオリンにワイヤレス
をつけたりとかなりパワーアップしました。
大学生になると今はマリンビストとして活躍している石原信輔がドラムに加わり
結果ドラム、パーカッション、ベース、キーボードそしてバイオリン二人という
大所帯の編成でした。
様々なライブハウスでライブをやり事務所にもお世話になって活動してました。
お客様もだんだん増え多い時には100名をこえるときもありました。
あの頃がなんやかんや言っても一番楽しかったと思います。事務所以外にも僕達
を応援してくれ雑用をやってくれるスタッフさんまでいました。バンド名はPT
A(ぺーテーアードイツ語読み)と言いました。意味はパチンコ、タバコ、アル
コール…ではなくパーソナリティ、テクニック、アドリブの頭文字をとりました

様々な思いでがあります。あの頃は携帯にカメラとかついてないので「写るんで
す」という使い捨てカメラが主流でした。そのカメラをもってファンの女の子達
がよく来ました。そして一言「すみません、鉄平さんと一緒に撮ってください!
」とカメラを僕に手渡してきました。そういう時は僕は自分に向けて撮り返して
あげました。
僕の地元愛知県豊橋にもライブで遠征したり思い出がたくさんあります。
卒業したらドラム信輔が留学でぬけたりバイオリン鉄平がオケやるやらで抜け(
また数年後戻ってきた)頑張ってましたがちょっとした出来事がきっかけで自然
消滅しました。
あの頃のメンバーはそれぞれが活躍してたり聞くと嬉しく思います。
もう一緒にやることはないかも知れませんがいい思い出になってます。
また最近自分でも新たなバンドみたいのやりたいなあなんて思ってます。実現さ
せたいな。

2010/10/04

念願の桐朋女子高等学校音楽(共学)に入学しある意味僕は女子高生になりまし
た。
学校名がこの名前なので一番苦労したのは電車の定期券を買う時。(共学)とい
うのが信じられないらしく買う時は学校に確認の電話をかけられた事もあります

そしてこの時僕は16歳。バブルがはじけるちょっと前だったと思います。なにし
ろ困ったのは年齢が18歳に達していないのでかりられる物件がほとんどないので
す。そこらじゅうの電柱に「格安物件3億5000万円」とか貼ってありました。東京
は恐ろしいところだと思いました。
最初は母方の祖父母方鎌倉に住んでいたので身元保証人になってくれました。そ
れだけではということを言われたのでなんと共子先生まで保証人になってくれま
した。
初めての東京での一人暮らし。その僕の城となった物件は…家賃26000円風呂なし
トイレ家の外にでないとない。おまけに偶然先生の家の隣。まさに修業という言
葉が当て嵌まる。当時はテレビも電話もエアコンも持ってませんでした。そして
お湯もでない。雨の日はヒキガエルが外にいたり。古いアパートだったので僕が
部屋を歩くとホコリが落ちてくると下の酔っ払い夫妻が文句言いに上がり込み日
頃の愚痴を言って帰っていくことがたまにありました。よくそこの家の猫も来て
家の中を走り回ってました。なので学校が朝5時から夜10時まであいていて家
では練習出来ないのでほとんど学校にいました。
もう一つ困ったのはコインランドリー。銭湯の隣りにあったのですがそこを某会
社の運動部?(かなりゴツイ体格おそらく柔道とかの方々)の女性にいつも占領
され隅の方で小さくなって彼女たちの洗濯が終わるのを待ってました。
そんなとこも建て直しのため退去させられました。次のとこは風呂もありトイレ
も家の中にあり大家さんの家の一部を借りてる感じでしたが入口も別でやっと落
ち着けると思いました。
しかしうちの両親に大家さんが変な事を言いはじめました。「あの子庭でおしっ
こするからやめさせて下さい。」するわけありません。家の中にトイレあるのに
。他にも変な言動が続きました。大家さんはアルツハイマーになってしまいまし
た。
と住むとこはいろいろ転々としてます。男が少ないので男子寮がないのです。な
のでいきなり高校から炊事洗濯全てを自分でやらなくてはいけません。怪我や風
邪などひくともう大変です。
学校は普通の学科もありました。ただ割合が違います。音楽関係の学科七割に対
し普通学科三割くらいです。
勿論体育もあります。しかし音楽が全てもの中心にあるため指とかを怪我しにく
いもしくはしない競技しかありませんでした。アーチェリー、ゴルフ、水泳、ソ
フトボール、ユニホックなど。しかも全て女の子と一緒なので運動の得意な僕は
いつもストレスがたまりました。なのでたまに高校、大学の男子が集まってサッ
カーやバスケをするのが楽しみでした。
在学中馬鹿な事もたくさんやりました。くだらない事ばかりです。女装や屋上で
バーベキュー。あとは酷すぎて書けません。あの頃馬鹿やった同級生や先輩後輩
はオケのコンマスや売れっ子演奏家、ミュージシャンになってます。弱み握って
ます。ふふふっ
次回は学生時代にやっていたバンドPTAについて書きたいと思います

2010/09/18

音楽高校受験、日本一レベルの高いところ。それに該当するのは東京芸術大学附
属高校もしくは桐朋女子高等学校音楽科(共学)を受験しようとしました。
あの頃の僕はホントに無知。レベルの高さも全くわからずその学校の先生にもバ
イオリンを習ってない状態でした。
芸校や桐朋狙う人は早い人は幼稚園くらいから遅くとも小学生の高学年くらいか
らその学校の先生にレッスンをうけその専門の音楽教室に通って受験します。
僕はというとソルフェージュを田舎で小二から低いレベルでやっていて中三まで
才能教育でバイオリンをやってました。そもそも才能教育はバイオリニストを育
てるのではなくバイオリンを使ってその子の才能を伸ばそうという機関と聞きま
した。なので僕が日本一レベルの高い音楽高校を受験すること事態が大間違いな
のです。
才能教育で知り合ったバイオリン工房の方から受験するならそこの学校の先生に
レッスンを受けた方がいいということで後に僕の先生となる故鈴木共子先生のレ
ッスンを受けることになりました。
初めてレッスンを受けたのが忘れもしない21年前の大晦日。
共子先生の第一印象は白髪の綺麗な品のいい笑顔が素敵な優しそうな御祖母様。
しかしその印象は数分後に大きく崩れさりました。
受験曲を弾き終え先生一言「地方にお帰りになった方が良いです。とてもではな
いですがこのレベルは東京のどの学校も入れません。この歳まで男の子でバイオ
リンをやってきたということはこの先も続けてくれるだろうから地方ならどこか
しら入れるところがあるかも知れない。」
この一言を聞き両親は絶望的な表情をして荷物をまとめ帰ろうとしました。
「受験まであと二ヶ月あります。何もしないで諦めることはできません。やるだ
けやらせてもらえませんか。」
何を思ったのか自然と僕は共子先生に対しお願いしていました。この時もう芸校
とかどうでもよく桐朋しか頭にありませんでした。
両親は何をお前言ってるんだ?気でも狂ったのか?という表情をして僕を見つめ
ていたのを覚えてます。
共子先生は僕の意志を受けとめて下さってそこからさらに一時間レッスンして下
さいました。
レッスンが終わり共子先生が「桐朋はソルフェージュも難しいから桐朋の先生に
一度見てもらいなさい」とその日(大晦日)のうちにソルフェージュのレッスン
を受ける事になりました。
ソルフェージュの先生のお宅へ伺い過去問をやることに。メロディー聴音(旋律
)、ハーモニー聴音(和音)、新曲視唱(初見)。各それぞれが80点以上で合格
。結果…メロディー14点、ハーモニー0点、新曲お話しになりませんと告げられる

そのほかに楽典のテストもあるらしい。楽典なんてやったこともない。唯一ピア
ノだけは問題なかった。
このような絶望的な状態にもかかわらず僕の気持ちは前向きでした。やりたいこ
とや決めたことはやるだけ。迷うこと事態がないのです。ピンチの時はチャンス
。こんな経験はなかなかできない。まだ二ヶ月もあると考えひたすら努力しまし
た。
結果…もちろん不合格。実技でのミスが致命的だったようです。しかしそれ以外
の楽典やらソルフェージュは合格点がとれていたようです。
もう悔しくて悔しくて諦めきれませんでしたが高校に行かない訳にいかないので
地元愛知県の明和高校音楽科を受験。
この学校も公立では日本の音楽高校ではトップ5くらいに入るところらしい。馬鹿
だと思われたらしゃくなので学科やソルフェージュの試験はちゃんとやりました
。しかしバイオリン実技に関しては桐朋以外行く気はなかったのでかなり乱暴に
弾きました。
結果…合格。あれ?なんで?落ちるつもりで弾き散らかしたのに。
評価を後で聞いたら「強引で雑な部分もあったが男らしい演奏でよかった」……
しまった。裏目にでた。
つねに上をみて日本一のレベルの学校を目指し努力したためそれなりに実力がつ
いたようだ。
僕は明和高校音楽科の一年生になることになった。自動的に桐朋は高校からでは
なく大学を目指すことになりそうだった。
ずっと心の奥で「これでいいのか?」といつも悩んでいた。

2010/09/12

今回は高校入試までのことを書こうと思います。僕は愛知県半田市に生まれ2歳か
ら豊橋で16歳まで生活しました。
才能教育の鈴木メソッドでバイオリンを2歳から初めました。
初めの一年半僕は一切バイオリンを弾こうとしなかったようです。僕の順番は1
時で1番最初。二歳の僕はちょうどお昼寝の時間。きっと眠かったのでしょう。
先生が「しょうがない、じゃ挨拶だけして終わりにしようか」と言ったらパッと
立ち上がりお辞儀だけして帰ったそうです。
そんなのを一年半も我慢した両親はよほどの馬鹿かお人よしです。しかしそれで
辞めさせてたら今の自分はないですね。
引っ越しをきっかけに豊橋の教室に通うことになりました。そこで出会った故近
藤富雄先生が僕の人生を変えました。
また1時からのレッスンだった僕は眠かったのでしょう、また前の先生と同じよ
うに先生の前で寝転がりました。
そしたら抱き起こされ頬っぺたをバチン!とビンタされました。
「レッスンに来たならちゃんと弾いて帰りなさい!泣き止むまでそこに立ってな
さい!」と怒鳴られたそうです。
三歳の僕はおそらく両親以外の人から怒られ叩かれたことなどなかったのでしょ
う。びっくりして大泣き。一時間ほど泣き続けそれでも恐くてその場から逃げた
かった僕は「おしっこ!」とトイレに逃げました。
観念した僕は泣き止みそれから先生はレッスンをみて下さったそうです。
故近藤先生には15歳までレッスンをうけましたがとても優しい先生で怒られたの
は三歳の一度だけだったと記憶しています。
今の時代にはあまりないことかも知れませんが信念を持って子供と向かい合う。
子供が道をそれたら全力で正しい方向に戻す。僕は恵まれていたのだと思います

同じバイオリン教室にライバルがいました。一つ上の男の子健一郎君。普段は仲
良しなのですがバイオリンに関してはお互いに負けたくなかったのだと思います
。つねに競り合ってました。
今の社会では運動会などで順位をつけないところもあるそうですね。僕は経験か
ら本当の友達とは張り合いながらお互い成長していくものと考えます。競える環
境、ライバルがいたことに感謝します。健一郎君は高校は普通科に進みましたが
音楽への情熱が消えることなく大学は音大へ進み今は地元愛知県豊橋でバイオリ
ンの先生と演奏活動をしてます。
僕は悪ガキ軍団がまわりにいてがき大将がいて山あり川ありの自然の中で育ちま
した。なのでバイオリンのようなお坊ちゃまお嬢さまのやるようなことはあわな
かったかも知れませんがなにしろ負けず嫌い。自分に出来ないことがあると気に
入らない。そして両親がバンドをやってたせいか生活の中心にいつも音楽があっ
たように思います。そして他の人には出来ないことを自分はやっているという自
負からやめる気はありませんでした。僕のバイオリンを聴いていただいた方はわ
かると思いますがテクニックがあまりなく楽譜通り弾かない(弾けない)僕は音
に対してこだわりを持ちます。自分の感情を表すのにとても優れたパートナーが
バイオリンだったのです。
父親がサッカーをやっていたこともあり小学生の時はサッカー部に入ってました

中学生になり母親が「この子が将来バイオリンやりたいと思ったらここできちん
と練習させないといけない」と思ったらしく運動部への入部をダメだと言ってき
ました。もともと運動が得意な僕に文化部系を選ぶのはとても酷な話しでした。
運動部を選ぶかバイオリンを選ぶかどちらかにしろ!と強引な二者択一を強要さ
れどうせやるなら皆がそう簡単にできないバイオリンを選ぶことに。そして文化
部である三回しか行かなかった美術部にしました。今思えばこの反動もボクサー
への道の一つだったと思います。
そして高校受験。希望は音楽高校。どうせ受けるならレベルの日本一高いところ
。この時の僕は日本一の音楽高校のレベルの高さを全くわかっていませんでした
。次回は音楽高校受験からの事を書きます