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2013/08/31

先日降った待望の雨以来、大陸から秋の風が降りて来てようやく一息付けました。暦は「処暑」の第2候、「天地始めて寒し」の通り、明け方に田畑に入ると朝露が冷たく感じられるようになりました。秋冬野菜の種降ろしに再び畑で過ごす時間が長くなってきた、百姓見習いの川口です。

今日も南海上の台風と秋雨前線の影響で雨模様の1日です。これからしばらくは一雨降る毎に秋の色が濃くなってゆくのでしょうね。

こんな雨降りの日には、余程の事が無ければ田畑には入りません。稲の田植えだけは、元々水の入った田でする作業でもあり、梅雨時で晴天を待っていては作業が終えられないこともあるから雨中で作業をする事もありますが、それは例外で、普段の田畑の仕事は雨が降ったらお休みです。この辺りでは「雨休み」と呼ばれていたりします。

「雨休み」の1日は、読書に勤しむ「晴耕雨読」の生活です…、などといえたら格好が良いのですが、実際には文字通りこれ幸いにとゴロゴロしていたり、普段は手が回らない身の周りの整理に過ごすことが多いわたくしです。

そんな雨の日の過ごし方で、田舎暮らしを始めるまでは決してした事のなかった事の一つが、「繕いもの」です。

はい。あの、針と糸でちくちくする、縫い物のことですよ。

サラリーマン時代にはシャツのボタンを付け直す時を除くと、縫い針や糸に触る機会はありませんでしたが、田舎暮らし3年目位からは結構な頻度で縫い物をしているわたくしです。

何故に3年目位からか?というと、その頃から農作業用の服がボロボロと破れ始めたからです。

特に作業用のモンペ(作務衣のズボン)やシャツの襤褸(ボロ)化は激しいものがあります。

田植えや草刈り仕事の多い時期には酷使される事もあって、特にモンペの膝やお尻周りは擦り切れてどんどん破れ始めます。

当初はかつての都会暮らしの常識に沿って、破れたら買い替えるしかないんじゃない?と想っていました。

ところが、偶然にもその頃に木綿絣の端切れを沢山手にする事になったのです。

精確に云いますと…、

こちらに来てから知り合った木綿絣織り工場をなさっていた方が廃業されることになった。

で、そちらの工場で使っていた織機に懸ける経糸(タテイト)を巻く為の木製の芯(「チキリ」と謂うのですが…)を大量に廃棄する事になった。

そのチキリを大量に譲って戴いた。

その芯(チキリ)にかなりの量の古絣布が巻きつけられていた。

戴いた当初はその端切れ布の使い道も想い付かぬままに、芯に巻かれていた綿埃だらけの古布を外し、洗濯だけして畳んで置いたのですが、上記のように大量の襤褸が発生するに至り、当て布として使う事を想い付いた訳です。

元々絣布は、製作に大変な手間と技術を要する、とても貴重なものです。

以前ご紹介しました通り、私は出来る事なら「衣」についても身の周りの自然のめぐみを使って自立したいという重度の妄想を持っていますが、今の私の実力では、無地のフンドシや縞のマフラーくらいまでは何とか織れても、自ら絣布を織り出して服に仕立てる、というのは至難の業です。

戴いた(チキリに巻きつけられていた)木綿絣の端切れ布は、自動織機で工業的に生産された布ではありますが、それでも普通の布に比べたらとてつもない手間と技術無しには作られ得なかった布なのです。

そんな貴重な布の切れ端が手元にある。

日々、破れて襤褸になって行く服がある。

ちょっと当ててみると何だかとってもお洒落(笑)な感じに。。。

これは繕わない手は無かろう、と想ったのでした。

それ以来、破れてしまった部分に絣布を選んでは繕いを当て、しばらくするとまた破れ、また繕う、という事を重ねています。

そろそろ、当てた絣布の方が元の生地よりも多い程になり、立派な襤褸布と化しつつあります。

それでも、破れた穴や擦り切れて薄くなった部分を丁寧に繕った服を来て作業に出て行く心持ちはとても爽やかで気持ちの良いものです。特にこんな素晴らしい布を当てると、繕う前よりも寧ろ繕った後の方が格好良い位なので、いっそ特別な日の農作業用の盛装としてもっと大事にしようかしら、と想う程です!

今の私にとって、モンペはサラリーマン時代のスーツのようなモノで、この絣布を中てたモンペは、スーツで謂えば、嘗てのセルッティ、アルマーニやゼーニャ並み、いや、イギリスでオーダーメイドしたもの並みに想えて来るのであります(笑)
そもそも、日本で今日のような大量消費社会が成立する前、数十年前までは、庶民が身に着けられる布は、畑で作った棉や山の草木などの天然繊維からのみ作り出される貴重品で、最初は服や夜具に、傷んで来たら当て布に、そしてやがて赤ちゃんの襁褓に、そして最後は雑巾にと何年も掛けて使い廻されて最後は地に戻って往くものでした。

ですから、戴き物の絣布の端切れが手元にあって、その布を繕いに使える今の自分の状況に感謝すると共に、改めて、これからもずっと、天然繊維の布は無駄にすることなく、大切に継ぎを当てては使って行こう、そして、いつかは自分で育てた綿を紡いだ糸で織った布を身に纏えるようになりたい。

などと想いつつ、今日も雨音を聴きながらチクチクするのです。

2012/09/30

今日は大型の台風が本州を襲っていますが、この谷間ではお昼過ぎには雨雲が去って吸い込まれそうに高い秋の青空が拡がっています。今夜は中秋の名月、美しいお月様を拝めそうな、お百姓を目指す、川口です。

さて、我が家の自然農の畑の一角では、今年も和棉たちの莢が弾けて綿を吹き始めました。 こちらは弓ヶ浜棉の在来種の茶棉です。

所謂、「コットンボール」ですが、元々の英語では Cotton boll と綴ります。実は、ball (球)ではないのです。bollとは「莢」(さや)の事なのですね。

上の写真の右上に緑色をした桃の果実のようなモノが見えますよね。実はこれが弾ける前の棉の莢なのです。開花、受粉から10日程でこのような実を膨らませ、40日程して種が成熟するとこの莢が弾けて左側のように綿が吹き出すのです。

英語的には、どちらも綿の莢、コットンボール、という事になるのでしょうが、日本では昔は綿が弾ける前の緑色をして垂れている莢を「桃(モモ)」とか、「朔(サク)」と呼んで弾けて垂れている「綿」とは区別していたようです。

戦後すぐの頃の小学一年生の「いろはにほへと」を教える教科書の「わ」の所には絵付きで、弾けた棉の実を「わた」、そして弾ける前の朔を、「もも」、などと書いて区別して教えていたのを博物館などの展示で見た事があります。

江戸時代頃からその頃までは日本人にとってそれ程に身近なものだったのに、今は知ってる人の方が珍しいですよねw

最近はお花屋さんなどでドライフラワーとして綿の枝が売られているのを目にするようになりましたが、それらは米綿などの新大陸綿で、旧大陸のアジア綿に属するこの写真の和棉とは随分風情が違います。米綿の方が大きさもずっと大きいのですが、一番の違いはその綿の吹き出す様です。米綿は、莢が弾けても莢と綿は上(空)を向いたままで、莢と綿も殆どくっ付いたままなのです。

それに対して、和棉の場合は写真のように綿が下方向に吹き出して、しばらくすると垂れ下がって綿がぶらぶらと揺れるようになるのですね。

これは、元々熱帯地方の植物であった棉が長い期間をかけて多雨のモンスーン気候に適応する種へと人の手で選別されて来た結果だと想われます。莢を下に向ける事で種が水で痛まないように守っているのでしょう。

実は、室町時代までは、まだ日本の気候で育つ棉はなかった為に、木綿布は輸入品の超高級品があるのみで、庶民には決して手の届かないものでした。

そんな辺りの事情を、民俗学の創設者柳田國男は『木綿以前の事』に書いています。

今では夢のようなお話です。

そんな訳で、「和棉」、ぜひぜひ、大切にしてゆきたいものです。

私はこの棉を収穫し、繰り、打って、糸を紡いで、自家製の布を織る、という贅沢極まりない作業もしています。

糸を紡ぐのにはこんな手作りの独楽(コマ)をもっぱら使っています。

立て簾越しに差し込む、すっかり穏やかになった秋の陽を浴びつつ、独楽で紡ぐそのスピードは糸車(チャルカ)の数百分の一、紡績機械と比べたら数千億分の一かな…。でも、その歓びは無限大なのです。

06:38 | 和棉 | 1 Comment
2010/07/14

まだまだ飽きずに田植をしている、川口です。

まだ、6畝(約6アール)強の田の1/3程の田植が残っています。

去年、初めての田植をしていた間は、このままでは他所の田で稲刈りが始まる頃になってもまだ田植をしているのではないか?と、大いに焦っていたものでした。今年は、更に遅れているような気もします。大丈夫なんでしょうかね?

が、苗を植え足しながらも、並行して既に植えた苗が負けずに育ってくれるよう雑草も除いていかねばなりません。気は焦れども、ままならぬものなのです。

しかも、田だけではありません。田の仕事をしている間も、畑や山ではもの凄いスピードで、容赦なく、雑草が生い茂っていきますから、そちらも放って置く訳にはいかない。梅雨時はあらゆる植物達にとって太陽の光をなるべく多く受けるべく、葉を大きく、高く伸ばし、生存場所を確保するとても大事な時、皆、一刻を争って少しでも競争相手よりも大きくなろうと必死なのです。野菜や果樹達が、そんな競争相手に負けずに育つ事が出来るように手を貸す事が、彼らの命を分けて頂いて生きる「百姓」の仕事です。

実に忙しい時期なのです。

私、川口はこちらのコラムの内容からご想像頂ける通り、広い意味で「食べ物を確保する為」だけで殆ど全ての時間を使い切ってしまう、という人類史上においても恐らく最も贅沢な暮らしをさせて頂いて居る訳(*)で、かつ、今はその根幹を為すお米作りだけにも悲鳴を上げて居るのですが、そんな状態の中でも、「食べられないもの」の為にも少しは時間を使っています。

その一つが、棉(ワタ)を育てる事。

こちらが、生い茂っていた雑草の中から救い出した、今の棉(ワタ)の様子です。

7月の和棉畑

5月初めに播いた種からようやく本葉が数枚出るまでに育った状態。棉(ワタ)は、ここまでは地上部は殆ど成長せず、必死に地中へと根を伸ばしているのですが、これからは一雨毎にぐんぐんと伸びてゆきます。8月に入ると可憐な花を付け始め、その花から緑のコットンボールが実ります。お彼岸の頃からはそのコットンボールが弾けて真っ白いワタが吹き出すのです。

そんな棉の成長の様子も継続してお伝えしてゆきたいと思っています。

私が棉(ワタ)を育てているのは、綿花を収穫し、その綿花を加工して糸にし、染め、布に織り、身に纏う、そんな「仕事」も百姓としての暮らしの大事な部分として行きたい、と考えているからです。

「仕事」と言っても、「お金」には全くなりません。ただ、自分や家族が身に付けるものを自ら用意する、という事はどういう事なのか?を知っておきたい、というだけの事です。

こちらが、そんな「仕事」の数少ない成果の一つ、絣(かすり)のマフラーです。
畑で育てた棉を綿に打ち、自分で糸に紡ぎ、糸を括って藍で染め分けて、原始的な機で織った絣(かすり)です。

絣のマフラー

ちなみに、木綿が日本人の生活に広く使われるようになったのは、実は江戸時代以降、つまり結構最近のことなのです。もともとは熱帯性の植物である棉は、日本の気候では育ちませんでしたので、戦国時代までは木綿の布は全て超高級な輸入品であり、極一部の上流階級だけに許された嗜好品でした。その頃までの庶民の衣類は、藤、楮などの山に自生する植物繊維から糸を作り手織りしたものが主で、暖かい絹や棉の衣類などとても手に出来るものではなかったそうです。さぞ、冬は寒かった事でしょうね。。。

そんな棉が、中国大陸、朝鮮半島の人々の手によって数百年間もの長い時間を掛けて改良され、ようやく日本国内で栽培できるようになったのが江戸時代初期だったのだそうです。江戸時代の中期までには東北地方以南の殆どあらゆる地域で棉は栽培されるようになり、明治時代の初期には日本国内で利用される綿は全て国内で自給されていました。が、今では国内では全く商業的には生産されておらず、全て輸入されています。

全く時代に逆行する行為ですが、私、川口は、いつかはここで育てた棉から採ったワタで作った布団に包まって眠り、自分で紡いだ糸で織った布を身に纏ってみたい、そんな野望を持って暮らしています。

さて、次回までには田植を終えていられますように。

*) こんな暮らしをしてみて本当に驚嘆するのは、ご先祖様方は本当に働き者でいらしたのだなぁ、という事。食事の仕度だけでも、炊事毎に薪をくべて火を焚き、 水は井戸で汲む。お米の精米も手作業。その他の家事も全て手作業で、洗濯機も掃除機もない。その上、衣類も自分達で織り、縫い、繕って用意していたので す。とても真似出来ることではないなぁ、と思うのです。私はその何れの仕事も免れて暮らしているのに、こんなに忙しく感じているのですから。

01:18 | 和棉 | No Comments