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2009/05/07

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独立した直後にアトリエを構えていた、京都市右京区嵯峨地域の大沢池畔 早朝の色紙 

 オーダー絵画をはじめて、数ヶ月。 

 描いた作品を見た方や、お客さまからのリピートなどが続き、ホームページを立ち上げることになりました。   

 当初は、いつでも作品ファイルを持ち歩くわけにもいかないので、偶然に出会った方へのプレゼンテーション用でした。 

 アルバイトをしながら、一人暮らしのアトリエを維持する苦しい生活だったので、家にはパソコンもなく、ホームページは親友のウェブデザイナーが苦労してつくってくれました。

 弱冠24歳女子二人。 

 知恵を絞って苦心の末できた、今は無きホームページは、雅号のみでの、とても控えめなものでしたが、さすがにデザイナーの創作だけに、プロ仕様。

 直接お会いした方に見ていただくためにつくったホームページでしたが、なぜだか、時折、東京の出版関係から、掲載依頼や、小さなお仕事が来るようになりました。

 オーダーを頼んでくださる方も、徐々に出てきて、数ヵ月後には創作活動に専念するようになりました。

 その頃は、もう、無我夢中で、最後の一瞬まで、作品づくりに必死すぎて、撮影にまでは至れず、今は写真の残らない幻の作品も。 

 思えば、ずいぶん無茶な生活をしていたなあ、という感じですが、そういう、若さの情熱を、かっていただいていた部分も大きかったのだろうと思います。

 関西人の後進を育てる気概にも、ずいぶん助けていただきました。

 創作で独立した、その年の暮れ、日本画の師のもとへお話をしに行った年末、 

“暮れ近し 明日をもしれぬ わが身かな” という川柳めいたものを詠んで、 

 「がけっぷち人生です」と近況報告。

 「いいねえ、がけっぷち」などというやりとりをしていました。

 そんな生活も、四年を過ぎ、昨年より、京都をあとに、花の都東京へ。

  最近は、副業も含めて、なんとか生活も安定し、ようやく、長年の夢であった、公募展出品活動や、個展活動を行うことができるようになりました。 

 とても忙しく過ごしてはいますが、思う存分作品を描けて、個人の方々のご協力も得て、展示の機会をたくさんいただくことができたのが、とても嬉しく、勢いづいて描き続けています。 

 このJUNK STAGE にコラム掲載の場をいただいたことも、イベントでの展示の場をいただいたことも、大きなチャンスのひとつだと思っています。

 現在のホームページ  現在は作家が自作でデザイン、運営しています。

 ブログ          こちらも、作家本人の運営によります。

 今回をもって、作家紹介はひとまず終了し、次回より、“日本画の画材と技法”に入っていきたいと思います。

2009/04/19

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話が前回と前後しますが、今回は、初めて作品がお金になったときの話をしたいと思います。

 仁和寺に、修了制作を奉納してから、少ししたころ、ある日、知人のY氏に絵画を描いてほしいと頼まれました。 かつて滋賀大学の学生であったY氏は、証券会社に勤務をはじめ、ご兄弟の結婚式に、新居に飾る絵をプレゼントしたいと思ったそうなのですが、画廊をめぐると、とても自分の給料で買えるような作品はなく、わたしに描いてもらえないだろうか、ということでした。 

 予算は、少しよい額と画材代をひいたら、ほとんど残らないような金額でしたが、Y氏にとっても、わたしにとっても大きなお金。

 長い付き合いの知人だったこともあり、20代の男性が、兄弟の結婚式に絵を贈る、という素敵な話にのって、制作を決めました。  いざ、とりかかると、これが非常に難しい。 

 限られた期間で、一定以上の完成度に仕上げる。

 客観的に見て、誰もが素敵だなと思うような作品でなければならないわけです。 

 ましてや、結婚祝い 

 汚い絵や、暗い絵ではいけません。 子どもの成長とともにある作品としてふさわしい絵、というのが唯一のご注文事項でした。 

 1月半ほどで、2作品というお話だったのですが、その間、かなり、神経を消耗し、落ち込んだり、勉強したり、何度も何度も作品に手を入れなおしました。   苦しんで、頑張って、また、落ち込んで、七転八倒しながら、ようやく完成したのが、画像の作品です。  

 いま、見返すと、未熟なところが目立ちますが、小さな天道虫や蝶が飛んでいたり、最高級の画材をふんだんに使ったり。

 いろいろの努力がされていて、かわいい作品です。

 作品を出すときは、背筋も凍る思いだったのですが、とても気に入っていただけて、結婚式場にも飾っていただけました。 

  その後、Y氏が仕事を独立されたときに、応接に飾る作品をまたお願いされたりもしました。  また、その際、展示した作品を見たかたから、他の作品を頼まれたり。 

 こうして オーダー絵画が始まりました。

2009/04/13

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 芸術大学を卒業した駆け出しの画家たちは、通常、非常に厳しい修行時代を経ます。

生活苦の中で、アルバイトや契約社員などをしながら、大きな公募団体や新人展などに出品し、入選、入賞を目指すこととなります。

 

わたしの場合も、はじめから就職は、あまり考えていませんでした。

 

教員免許をいかして、教員を目指そうかとか、文化財保存修復の会社から、お話をいただいたり、ということはあったのですが、考えた末に、けっきょく、創作時間のもっとも自由になるアルバイトの道を選びました。

 卒業したての数年は、喫茶店に、朝、6時頃から出勤し、ランチタイムが終わると帰宅し創作、という日常でした。

 二年ほど、そんな生活を続け、なかなか入選できず、入選をねらえるレベルの作品を創作することすら難しく、苦しんでいたときに、たまたま、人を介して、修了制作に制作した御室の仁和寺の国宝『孔雀明王』の模写を、仁和寺に奉納させていただけるというお話がありました。

 当時のわたしには、分不相応なもったいないお話で、世間知らずでもあり、それがどういうことなのかもよくわかっていなかったのですが、仁和寺の孔雀明王が好きで、仁和寺に通いつめ模写をし、いま、普段は博物館に入っていてみられない国宝作品の代わりに自分の作品が使ってもらえることが嬉しくて、嬉しくて、破産するほどとらやのお菓子を買って仁和寺さんに持っていったことを懐かしく思い出します。

 ひとに本当に恵まれ、仁和寺の方々に、心づくしのおもてなしを受け、奉納式までしていただき、大切に手をかけて、展示していただき、作品は現在も、仁和寺の玄関に鎮座し参拝客を出迎えているようです。

 奉納は、お金を介したものではありませんでしたし、その当時、相談した中には、賛否両論ありましたが、自分では、心から素直に、もらってほしい、という気持ちでいっぱいでした。

 客観的な評価がひとつついたことがきっかけとなったのか、その後、少しずつ、友人知人から、絵がほしい、といっていただく機会を得るようになりました。

 絵は売るために描くものではない、描こうとするものは深いものでなければならず、人に媚びるような卑しい仕事をしてはいけない、と厳しく教わってきたせいもあり、自分でも売る行為自体に非常に抵抗があったのですが、普段、芸術に触れることなどまったくないのに絵がほしいといってくださった方々のご好意を受けて、作品をお譲りすることを始めました。

 はじめのうちは、なかなか思い通りに描くこともできず、一枚一枚、苦しみ抜いての創作でした。

 学生時代、模写ばかりしていて、ほとんど自分の創作ができないまま、大学を卒業したので、作品を完成にもっていくことすら、非常に困難でしたが、寝る間も惜しんで、材料と額は最高級、描き方も、これ以上はできない、というほど丁寧に必死で描きました。

 続けるうちに、同じ方からまた頼まれることが増えたり、とお願いされることも多くなり、作品ファイルを持ち歩く代わりに、ホームページを立ち上げました。

 ホームページの端に小さく掲載した一文が、

 「オーダー絵画承ります」

  いろいろなものを描いてみようという、少し気負ったキャッチフレーズでした。 予想外に東京の企業や出版社の方から、ご連絡があり、時々、雑誌に掲載していただく機会があるようになりました。

 出版物に掲載していただいたり、作品を飾って頂いたり、少しずつ、発表の場を頂くことで、作品も実力も、ひとに育てていただいたと思っています。

 作品を販売することは、意見のわかれるところで、“売画”を蔑む東洋絵画史上の伝統があるので、抵抗があったり、批判を受けることも多いのですが、わたしは、作品は人に求められたり、展示されたり、そういったことがあって、はじめて生きてくるものであると思います。

 ひとつずつの機会には慎重であるべきだと思うのですが、いい出会いであれば、日本画の若い学生さんも、もっと早いうちから表に出すことに積極的であってもいいと思います。

最近の東京の芸術系大学の学生さんは、進路を公募団体に定めるか、ギャラリーへの売り込みに向けるかを、学生時代から定め、外を意識した制作を行っているそうです。

まだまだ駆け出しで、公募展へも入選落選を繰り返していますが、少しずつ作品を発表する機会を与えていただきながら、いつか自分の見た、「牡丹」の花のように、人に感動を与えられる作品を創作できたら、と思っています。

2009/04/06

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 日本画をこころざしたきっかけは、高校時代、進路に思い悩んでいたときに、菱田春草さんという作家の白牡丹と出会ったことです。

 

 学区一の進学校であった、母校の府立高校は、入学当初から受験ムードで、なんとはなしに、周囲になじむことができませんでした。

 

 当時、倫理の藤田先生という方の哲学の授業が充実していて、哲学的に人生の目的について思い悩んでは、友人と語り合ったりしていました。

 

 自分にとっての“幸せ”とはなにか。

 “生きる”目的とはなにか。

 人生をいかに生きるか。

 生きていくなかで何を行うべきか。

 生きるべきか否か。

 

 答えのない答えを模索することで過ごした、暗い青春時代でした。

 

 モラトリアムな苛立ちのなか、さまざまなものにふれ、世界を広げ、刺激を受けることで、自分の可能性をさぐっていました。

  

 そのころは、古い映画をよく見て、アルバイトをしながら、ピアノに通ったり、画塾に通ったり。

 ひとりで、よく、旅もしました。

 随分たくさん本も読んで、学校の授業時間を利用し、一日三冊本を読むという目標をたてて実行にうつしていました。

 

 あれこれと、悩み、苦しみぬいた末、最後に、進路決定の時期が間近に迫るなか、大阪の中央図書館に行き、すべての書棚を数日かけてみて回りました。

 

 図書館には、すべての学問分野がそろっているので、その中から、自分にあったものを選び出そうと考えたのです。

 

 そのとき、“心理学”、“哲学”…と、自分の興味のある分野から、読破して歩きながら、ふと、足をとめた美術の書棚で、“日本画”という文字を目にし、はじめて日本画の画集を開きました。

 

 ぱらぱらと、何冊目かに開いた画集の、一ページに、運命の出会いが待っていました。

 

 その絵は、なんということはない、一輪の白牡丹を描いた作品ですが、非常に情感あふれる描き方がされていて、図書館の片隅で小さな画集を手に、座り込み、心に作品が流れ込んでくるような感動を覚え、「自分は、これを描きたい」とおもいました。

 

 自分の人生の足りないものを、すべて、その絵が満たしてくれるような感覚でした。

  

 それからは、反対する親に頭を下げ、美大受験をし、嵯峨美術短期大学、京都嵯峨芸術大学専攻科へと進学し、古画の模写修復を専門に、古典を研究し、学び、誰よりも描き続ける日々を送りました。二年が過ぎる頃には、主席となっていました。

 卒業後も、いくつかいただいた修復の就職のお話も辞退し、アルバイトをしながら創作を続け、作品を請われれば手放し、といった生活を続けています。

 

 不思議と、一度も、日本画をやめたいとおもったことはありません。

 

 幼い哲学的考察の行き着いた果ては、「“幸せ”とは、24時間、1分、1秒の連続であって、目の前の今をいかに過ごすかであり、目の前の今を“描く”ことで過ごせたら、自分自身は幸せなのであって、ほかには何もいらない。」

 

 刹那的な自己完結の論理ですが、いまも、この気持ちは揺らいではいないです。

 

 美大で国宝模写を行い、社会に出てさまざまな人や事柄にふれ、時間軸の延長線上の目標は多くできましたが、本質的には、“心に響く絵が描きたい”という気持ちひとつで、今も生きています。

2009/03/24

画室の窓に、しぼりの椿の花が咲き、光に舞った。

日一日と春に向かうころ、一通の電子メールを受けとりました。
 
聞けば、日本画についてのコラムを寄稿して欲しいというおはなし。
はじめは身にあまる大役におもわれましたが、自身の研究と精進をかね、お受けすることに致しました。

画道はまだ長く、険しく、入り口をようやくくぐりぬけたばかりのわたしに、このような場をいただいたことを感謝しています。

初心の方にもわかるよう、日本画の伝統画材と技法、日本画の古典作品の魅力について、日本画愛好の手引きとなり得るようなもの掲載していきたいとおもいます。

なお、はじめ数回は自己紹介もかね、自身の日本画をこころざしたきっかけや、これまで手がけた仕事のエピソードなどを求められております。
気恥ずかしいような思いもしますが、道なき道を歩んで十数年、このごろ人に訊ねられることも多いので、この場をお借りして、すこしだけ、おはなしできればとおもいます。
読者とともに成長し、思索を深め、世の美術愛好家と後進に有用な資料となるように、まとまったものを残したいと考えています。

2009年3月吉日  日本画家 池上紘子

作家略歴

1980年 岡山県生まれ 大阪府枚方市出身
1999年 大阪府立四条畷高等学校卒業
1999年 嵯峨美術短期大学日本画科入学
2000年 同校同学科 模写(研究)室へ
やまと絵、仏画を中心に模写をおこなう
2001年 嵯峨美術短期大学日本画科模写室卒業
     卒業制作 国宝「伴大納言絵巻 模写」教育後援会奨励賞受賞
2001年 京都嵯峨芸術大学短期大学部専攻科古画研究工房入学
     この年、奈良薬師寺の国宝「吉祥天画像」を写す
2003年 京都嵯峨芸術大学短期大学部専攻科古画研究工房修了
     修了制作 国宝「仁和寺孔雀明王画像 模写」大覚寺賞受賞
     
卒業後、模写・古画修復を退き、本格的な創作活動をはじめる

2004年 修了制作に写した、「仁和寺孔雀明王画像 模写」が世界遺産、総本山仁和寺に           
奉納される
2009年 イタリア ローマ『ART O』出品

そのほか日本画院展出品、薫風会日本画展出品、展覧会、雑誌掲載など多数

 ホームページ e-nihonga.jp

ブログ      hiroko1.exblog.jp