2009/10/31

TIFF(東京国際映画祭)へ行ってきやした! 

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今年で22回目を迎える東京国際映画祭(TIFF)が
六本木ヒルズとシネマート六本木をメイン会場として、
10月17日から開催されていたが、
25日にフィナーレを迎え、各賞が決定した。

私はこの映画祭には恥ずかしながら今回が初めての参加だったが、
映画祭の花形、コンペティション部門の作品に絞って9本を熱烈鑑賞した。

さすがに81の国・地域から集まった743本の中で
厳選された15本だけあって
観賞した作品ではずしたと思ったものは1本もなかった。

そしてコンペ部門の15本の中から
栄えある‘東京 サクラ グランプリ’を
ブルガリア映画『イースタン・プレイ』が見事、受賞!
満場一致だったそうな。
また同作品は、最優秀監督賞(カメン・カレフ)と
最優秀男優賞(フリスト・フリストフ)も受賞し、合わせて三冠を獲得した。
おめでとう!

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プロデューサーのステファン・ピリョフとカメン・カレフ監督(右)

『イースタン・プレイ』は疎遠だった兄弟を軸に、
現在の閉塞感に満ちた状況を乾いた画で活写していく。
そのもたらす余韻は、まるで二日酔いのようにさめにくく
いつまでも心に留まってしびれさせる。

舞台は近代化されゆくブルガリアの首都ソフィア。
そこには人種差別と暴力がはびこり、
その荒波の中を孤独な魂が翻弄されるかのように
あてどもなく漂い流されていく。

反抗期の少年ゲオルギ(オヴァネス・ドゥロシャン)は、
ネオナチのグループに入り、旅行中のトルコ人ファミリーを襲撃する。
その場に居合わせて、ネオナチからファミリーを救ったのは、
長い間疎遠だった少年の兄イツォ(フリスト・フリストフ)だった。
二人の兄弟は襲う側と救う側に分かれる。

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ネオナチに入るゲオルギ

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依存症に苦しむイツォ

救う側に立った兄は、実は誰よりも救いを求めていた。
アルコールとドラッグの両依存症を抱える画家イツォは、
やり場のない鬱屈した感情をどうにか手なずけながら生きている。
そんな孤独な魂を持つ彼は、自分が助けたファミリーの美しい娘
ウシュル(サーデット・ウシュル・アクソイ)に惹かれていく。
違うかたちで痛めつけられた二人の相互の救いのやり取りを通して
イツォの混乱した心がゆるやかに秩序を取り戻していく。
襲う側に立ったゲオルギも、ネオナチのカラ―に染まることができず、
その行動に疑問を感じはじめて、徐々に覚醒に向かう。

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トルコ人ファミリーの娘 ウシュル

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実は主人公の破滅型の画家イツォにはモデルがある。
カレフ監督の幼いころからの友人で、
実際にこの映画のなかでイツォを演じたフリスト・フリストフがそうだ。
監督はこの幼馴染の存在にインスパイアされてストーリーを組み立てた。
フリストフは主人公の設定そのまま
ドラッグとアルコール依存をかかえた画家であり、
いくつかのエレメントは加味されたが
彼の本質はこの映画に忠実に反映されたという。

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最優秀男優賞に輝いたフリストフ

©Waterfront Film, The Chimney Pot, Film I Väst AB

その独特の存在感で見事、最優秀男優賞に輝いたが、
残念にもクランクアップ前日にドラッグのためにあの世に旅立ってしまった。
ご冥福を祈りたい。

「僕はギリギリのところにいる」
フリストフは、フランスの芸術学院を卒業して帰国したカレフ監督にそう告白した。
演技経験のない彼は、まさに「ギリギリ」の自分を誠実に体当たりで生きている。

この「ギリギリ」の自分は私にもあった。
むろんドラッグにもアルコールにも頼りはしなかったが、心がマヒした状態だった。
それを自分なりに必死に手なずけてどうにかリカバリーできた。

しかし、それは私が彼よりタフだったというわけではない。
私は深淵まで行って、まわれ右をしたにすぎない。
だから生きている。
フリストフは勇敢にも深淵を覗き込んだ。
だから深淵に取り込まれた。
僅かの運の違いにすぎない。
断じて弱い魂ではない。

果てしない淵にギリギリいっぱいまで自分の顔を映し続けた彼の大胆さを
この映画でみてほしい。

東京国際映画祭がアジアンプレミアだが、
日本配給がつくことを願ってやまない。
 

2009/10/31 07:48 | 映画 | No Comments
2009/10/03

21世紀のカルトヒーローは、ナポレオン・ボナパルトではなくダイナマイト!

今回は2004年にアメリカのミニシアターで公開され、
やがて口コミで全米公開される人気を呼んだ『ナポレオン・ダイナマイト』を紹介したい。
日本では劇場未公開で、『バス男』という邦題でビデオ映画として発表された。

邦題からアメリカ版『電車男』を連想してしまうが全く関連はなく、
原題の『ナポレオン・ダイナマイト』の方がしっくりくる。

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ナポレオン・ダイナマイト(ジョン・ヘダー)は、
小学生のスクールバスに同乗して通学しているダサダサな高校生。
強烈な名前とは裏腹に、勉強もスポーツもルックスもダメダメな三重苦を背負い、
ライガー(トラとライオンのミックスで魔法が使える魔獣?)の絵を描くのが唯一の特技?で、
クラスのフィジカル・エデュケーションではバスケのメンバーに入れてもらえない、いじめられキャラ。

32才になるひきこもりで格闘家を夢見ている兄のキップ(アーロン・ルーエル)は、
全身画像を見せてくれないデトロイトの女とのネット恋愛にのめりこんでいる。

このダウナー兄弟はバイク好きのガバイ系ばあちゃんに面倒をみてもらいながら、
アイダホの田舎でまったりとした日々を送っている。

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 ナポレオン  腹式呼吸度0 特技は妄想ドローイング

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ライガー BY ナポレオン

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兄キップ 32歳  腹式呼吸度10  特技は妄想恋愛

 © 2009 Fox and its related entities. All rights reserved.

そんな平和なある日、ばあちゃんがバイク事故で骨折して入院となり、
叔父のリコ(ジョン・グリース)が
代わりに兄弟の面倒をみるためにダイナマイト家にやってくる。
元アメフト選手のリコはとっくの昔に40を過ぎているにも関わらず、
家族もなくキャンピングカーで放浪するプータロー。
荒野で自分のプレーをビデオ撮影して自分で見て悦に入っては
試合のメンバーに選ばれなかった82年ばかり振り返っている。
挙句には通販で売られているタイムマシンを買って
82年にタイムスリップして夢をかなえようと、
キップを誘って怪しげな訪問セールスに手を出す始末……。

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 リコおじさん  腹式呼吸度100  特技は妄想プレー

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IDカード用フォト FOR 訪問セールス

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タイムマシンに乗るナポレオン

© 2009 Fox and its related entities. All rights reserved.

「残念道 脱力坊 初代家元」の私としては、
残念さにおいて自分の右に出る者はないと自負してきたが、
このナポレオン青年を見てショックを受けた。

そのくだけっぷりは堂にいっており、
「やるな、わかいの!」とジェラシーすら感じてしまった。

我が残念道の真髄である、ため息のつき方に並はずれた才能を感じさせる。

彼がいじめっ子に首を絞められて気分が悪くなり、
学校の事務室からキップに迎えに来てくれるよう電話するが、にべもなく断られてしまう。                                                             そのとき、ほんのり口もとをわななかせて、
目をつむって受話器を握力2キロくらいで耳にはりつけたまま深いため息をつく。

胸式呼吸で横隔膜を心臓に密着させんとばかりに胸腔を極限まで縮め、
舌を口蓋につけて「オー」と発するため息は、
その長さといい、そのか細さといい、そのペーソスといい、
依存心と裏切られた怒りとやるせなさが見事に調和して表現されており、
類まれな技術を感じさせる。
芸術の域に達しているといってよい。

ただ、若さだろうか。
眉の寄せ方と手の位置取りにまだ修業の足りなさが垣間見える。

口もとを弛緩させると同時に、
メガネのフレーム越しに眉を9時10分の形に寄せているが、
より残念臭を濃く漂わせるためには、8時17分の角度を保たなければならない。
その際、片手は必ず髪の毛に触れているというのが、残念道の基本である。

 その基本を念頭において精進すれば、かめはめ波ならぬグダグダ波を会得し、
必ずや半径10メートル以内の生きものを脱力させるパワーが備わるにちがいない。

それにしても残念臭ただようこのカルトムービーを劇場でみたかった~。

 ざんねん!

2009/10/03 02:24 | 映画 | No Comments
2009/09/23

映画を見て涙腺がゆるんだことは数えるほどだ。そして、この作品は数少ないその1つである。

第二次大戦が勃発した1939年、北イタリアのトスカーナ。

本屋を開業するためにやってきたユダヤ系イタリア人グイド(ロベルト・ベニーニ)は小学校教師のドーラ(ニコレッタ・ブラスキ)に一目ぼれし、猛烈なアプローチの末に結ばれ、かわいい息子ジョズエ(ジョルジオ・カンタリーニ)に恵まれる。

しかし幸福な暮らしも束の間、ナチスのエスニック・クレンジング(民族浄化)政策のために、一家は強制収容所に連行される……。

 グイドは幼い息子に突然投げ込まれた地獄絵を見せまいと、機転を利かせてウソをつき、収容所の生活をゲームだと信じ込ませる。1000点取ったら一等賞で、本物の戦車で家に帰れる、と。 

途中、かくれんぼをしているドイツ人の子供たちのところへジョズエをつれていって給仕係に見つかったり。他の囚人から自分たちは殺されて石けんやボタンにされると聞かされたり。あるいは「潜伏ごっこ」にあきたジョズエが家に帰りたいと駄々をこねたり。幾度か危機が訪れ「ゲーム」は破たんしかける。 

 その都度、グイドは息子のために身体を張ってウソのゲームを懸命にマネージメントする。自身の恐怖心をも抑えて命がけで過酷な生活をゲームに見せかける。

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 自分の親父を思い浮かべた。

まだ三重の田舎で生きているが、グイドが放つユーモアとはおよそ無縁で謹厳実直が取り柄の男だ。もし映画と同じ状況におかれたら、その謹言実直な責任感で強制労働に従事し、私を叱咤激励して守ろうとはしてくれるだろう。しかし楽しくゲームに興じるふりをするなんて一瞬たりとも思い浮かばないにちがいないと断言できる。

また、もし私がグイドの立場だったらと想像してみる。子供を持ったことがないので確信は持てないが、何が子供を「守る」ことになるのか堂々巡りに苛まれるかもしれない。冷たく薄汚れたコンクリートに囲まれドイツの負けが込んでいることを知らないなかで、勝利を信じて子供のために現実を隠し通すことがベストの選択だと察知する嗅覚はとても持たないだろう 

民族性も関係するのかもしれないが、次の瞬間にも殺されるかもしれないという極限状況下で、それをゲームにしたてるという複雑な思考を維持するには相当にタフな精神が要るのだ。 

そしてタフな精神が最善の判断を生み出す。 

突然突き落とされた逃れようのない悲惨な状況をゲームという非現実なものにすることで、絶望の海の中に溺れることなく、うまく水面に顔を出して息継ぎすることができるのだ。 
その証に他の捕虜たちは男も女も硬く思いつめた不機嫌そうな表情をしているが、グイドとジョズエの二人だけ笑顔があり、表情に生気が宿っている。

ウソをついているグイド本人もゲームを組み立てることに気持ちを集中することで醜くゆがめられた現実を思いつめることから免れている。 

グイドの懸命についたウソが、やがてマコトをつれてくる。

現実の見方を変えるだけで、ナチスの造り上げたアグリーな世界がビューティフルになる。

これが驚きでなくてなんだろうか。

2009/09/23 07:20 | 映画 | No Comments
2009/08/30

先週、三重県の実家に帰省していました。

今回はいつもの映画の話題からそれてしまうが、
我が故郷、三重県について書いてみたい。

じつは何を隠そう、いつも実家に帰省する度に奇妙なカオス感におそわれてしまう。
そして、東京から名古屋まで新幹線を使い、名古屋駅で降りて乗り換えの近鉄に向かうとき、
そのカオスのもやは徐々に膨らみつつある。

私は名古屋から実家に向かうのに近鉄を利用するが、
近鉄の正式名称は近畿日本鉄道である。
近畿の鉄道会社だ。
しかし、私が乗るのは名古屋線なのだ。
近畿日本鉄道なのに、名古屋線?
その路線に乗ると同時に、カオスも最大曲線を描くのである。

それは、近鉄がというよりわが故郷の三重県が地理的、文化的に
ゴタゴタした立ち位置にあるからだ。

東海地方と関西地方。
三重はこのどちらにも含まれるのだ。
この2つの地方は地理的にも、文化的にも別物である。

その2つの地方に三重は入って(入れられて?)いる。

三重ちゃんは二股かけて(かけられて?)いるのである。
なんてやつなんだ。(だれだ、こんなひどいことするやつは! 国土交通省のヤローか?)

非難はさておき、
名古屋線の特急の車内に入ると座席のあちこちから関西弁が飛び交っている。

ちょうどお昼時で腹が減っていたので、名古屋駅で買った弁当を開けた。
好物のみそカツ弁当だ。(うまいのでみなさんもぜひどうぞ!)

関西弁の談笑を耳にはさみながら、カオス状態の頭で居心地悪く箸を運んでいると、
「お前、どっちやねん。食わんかい!」
と完全なる関西人、大阪フータローからみそカツの上にお好み焼きをトッピングされる。

それを目にした純粋東海セレブ愛知の名古屋嬢からは、
「なにー、なに食べとるの、あんた! トロくしゃーことしとったらイカンがー」
と味噌煮込みうどんをみそカツお好み弁当の上に流し込まれる。

この二人が争っているうちに、脳内カオス曲線もゆるやかになり、
いつの間にか、みそカツ弁当を平らげてしまっているのだった。

このようにいつも帰省の旅はイコール「カオスと妄想の旅」になってしまうのである。

とほほ。

しかし、手前味噌になるが、
ボーダーレスが生み出す豊饒さが三重ちゃんにはあることにも気づいた。

使用言語は関西弁、プロ野球はドラゴンズ。(サッカーは知らん)
テレビやラジオなどのマスメディアは名古屋から傍受。(一部は関西からも)
食文化は、両方から摂取し、キホンなんでもあり。

二股かけていると、コウモリだと誤解されやすいが、
三重ちゃんちは、ちょうど両文化の緩衝地帯に建っていて、
風通しがよく、カギもかけずに常に開けっぴろげである。

時にはよからぬ闖入者もあるが、
両方から往来するお客さんがいろんな置き土産をしてくれるのだ。

そう。 わが故郷、三重ちゃんはまさにJunKの申し子だったのだ。

これからも妄想の旅を続けます。
 

2009/08/30 11:59 | 未分類 | No Comments
2009/08/16

ダメダメな自分と不器用だが真摯に向き合う中年レスラーに完全フォール。

ザ・ラム(お羊)というニックネームのランディ(ミッキー・ローク)は

かつてはチャンピオンベルトをしてガッツポーズを決めていたが、

今や場末のリングを回るしがない中年レスラーだ。

カメラはマジソン・スクエア・ガーデンを満杯にした

80年代の絶頂期の新聞、雑誌の記事をなめた後、

折りたたみ椅子に肩を落として座り込む

20年後のランディの姿をフォーカスする。

栄光の過去は瞬く間に去り、

あせた現在がずっと停滞している様が如実に伝わってくる。

20年前の栄光とは裏腹に、

今やトレーラーハウスの家賃の支払いにさえことかくありさま。

長年にわたるステロイド使用の影響で、

心臓発作を起こして引退を余儀なくされる。

プロレス界から身を引いたランディは、

疎遠になっていた娘のステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と

苦心して仲直りしかけるが、ヘマをして絶縁されてしまう。

クラブのひいきのストリッパー、キャシディ(マリサ・トメイ)との間も

うまく行きかけるが、想いは通じない。

生活のためのバイト先、スーパーでも上司からは見下され客からは振り回され、

ついにキレて仕事を放り出してしまう。

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© Niko Tavernise for all Wrestler photo

ステファニー、キャシディ、アルバイト、健康、プロレス……

去られ自ら手放した揚句にすべてをなくしたランディは、

プロレスに復帰することを決意する。

現実世界に存在する他の4つではなく、

プロレスという虚構世界を人生の最後の賭け場に選ぶ。

虚構の中でしか輝けない、冴えない中年レスラーのランディ。

そして、同じく冴えない42歳のものかきの端くれの私。

私もライターだけでは食えず、食べるための仕事を持っている。

というよりもそっちの方が本業に近いかもしれない。

そこでの私もランディほど不器用ではないが、

けして器用に立ちまわれているとはいいがたい。

一時的にせよランディにあった栄光とも扶養家族とも私には縁がない。

世間一般の指標からすると、

ランディも私もいい年こいた「イタい」やつかもしれない。

しかし、そこで自己憐憫に思考停止させない「待てよ」を

この映画は最後に私に向かって痛烈に突きつけてきた。

ランディは自らプロモーターに掛け合い、生命に引き換える覚悟で

80年代にマジソン・スクエア・ガーデンを沸かせたライバル、

アヤトッラー(アーネスト・ミラー)と20年ぶりに試合を行う。

自分の気持ちに気付いたキャシディが試合開始直前、会場に駆けつけ、

ランディに想いを伝え、現実世界へ連れ戻そうとするが、

決意が揺るぐことはなく、

ランディは自分の居場所(ホーム)である歓声のこだまするリングに上がる。

心臓が壊れそうになりながらもアヤトッラーをフォール寸前に追い込み、

トップロープにのぼりガッツポーズを決めるランディ。

まるで全身が心臓となって拍動しているように、鬼気迫る。

それは現実世界での欠落を自業自得と認めて

虚構の世界で完全燃焼しようとしたランディの

おセンチな自己憐憫の入る隙間のない潔さが放つ、

雄たけびにも似た命の輝きだ。

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© Niko Tavernise for all Wrestler photo

倒れているアヤトッラーにダイビングするランディ。

いつしか傷だらけの彼と一体になり血のたぎりを感じて

マットを飛んでいる自分がいる。

アヤトッラーにダイブする私のハートには後悔ではなく、

充実の鼓動がたしかに脈打っていた。

もちろん「イタさ」など感じない。

そして、わかったのだ。

ランディや私が「イタい」かどうかなんて、他人が決めるのではない。

自分が決めることなのだと。

仕事や家庭でぽっかりと穴が開いたとき

あくまでもその穴を埋めることにこだわるのか。

その穴を上手にふさぐ能力がないと知ったら

別の場所にその穴の欠片を持っていくのか。

持っていって、ただそこに無造作に積み重ねるだけなのか。

はたまた、はっきりと意味ある形をその場所に付け加えるのか。

欠落への向い方のサンプルをランディが身体を張って示してくれた。

私も映画について表現するというホームに欠片を携え、

それを組み合わせて全くオリジナルのモニュメントを造ろう。

そんなエネルギーをランディはくれたのだ。

ありがとう、ランディ!

2009/08/16 07:34 | 映画 | No Comments
2009/07/27

 「おまいはタン・ロンか~」を探せ!

  

ブルース・リーが監督から主演まで務めた『ドラゴンへの道』は、
他の作品とは一味違ったユーモラスなリーがみられるのが新鮮だ。

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若い女性オーナーのチェン(ノラ・ミャオ)が経営する
ローマのチャイニーズレストランが地元のマフィアに脅されている。
彼女のレストランを守るため、腕に自信のある従兄のタン・ロン(ブルース・リー)が
はるばる香港から助っ人にやってくるところから物語ははじまる。
タン・ロンは我中国朴訥田舎上京的青年といった出で立ちでローマ空港に現れ、
腹ぺこで言葉も分からずに入ったレストランでスープばかり頼むなど、
数々のお上りさん的行動がほほえましい。

リーの映画にはよく敵役として日本人が登場するが、
この『ドラ道』でもご多分にもれず、
マフィアが送り込んだ刺客の一人が日本人空手家という設定。
ただ、問題は他の作品でもありがちなのだが、
この刺客を演じているのが日本人ではなく、
ウォン・インシックという韓国人武道家なのだ。

そのため、この刺客がタン・ロンと戦う場面で、
「おまえはタン・ロンか」と平板に念を押すべき日本語が、
「お、ま、い、は、タン・ロンか~」とこぶしが回っていて、
思わずサブちゃんのお弟子さんですか、ここはコマ劇ですかと
ツッコミを入れてしまいたくなるくらい浮いているのである。

しかもウォン・インシックは
ジャッキー・チェンの代表作の一つ『ヤング・マスター/師弟出馬』で
最強の敵としてジャッキーと壮絶なバトルを展開する韓国合気道の猛者なのに、

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この『ドラ道』ではあっけないほど弱い設定になっている。

タン・ロンになんなく倒されて
「アアーイタ! オオーイタ!」と
また奇妙なこぶしをまわしながらうめいて消える意味不明キャラとなっている。

このように、シリアスなシークエンスの中で
思わず失笑を誘うようなシーンを
勝手に「おまいはタン・ロンか~」と名付けてみた。

この「おまいはタン・ロンか~」を、
リーの他の作品で見つけたら、またお伝えしたい。

2009/07/27 10:21 | 映画 | No Comments
2009/07/20

 

オリジナルサントラで寝ながらバーチャル リー体験‼ 

原因不明で突然消えた前回のコラムを再アップしました! 

 

 高校受験が間近に迫った中三の冬。のんびり屋で怠け者の私は、墜落する一方の英語の成績にさすがにまずいと感じ、ドラゴンヌンチャクを見つけたコミック雑誌の背表紙に載っていた、寝ながらどんどん賢くなるという睡眠学習機なるものを、ワラにもすがる思いで購入した。 

早速寝しなに、広告のマンガのように朝起きたら奇跡のように英単語や熟語がスラスラ口から出てくる聡明ボーイに変身した自分を思い浮かべて、ワクワクしてエンドレステープに自声で吹き込んだ。そして枕の形をした機械にテープをセットして、スイッチオン。 

夜中に薄気味の悪い男に呼ばれ、追いかけられている悪夢をみて目がさめた。頭の下からはまだその男の声がする。 

ビ~エイブル~ツゥ~」 

それは、エンドレステープに収録された自分の声だった。生まれて初めて、自分の声にうなされて眼がさめたのだ。自分の声に起こされることがこんなに鳥肌ものだとはしらなかった。 

で、肝心の英単語・熟語はというと、記憶されたのは、うなされて起きた後に聞こえたbe able to一個だけ。あとのは夢の中で変な男の意味不明な言葉に変換されてしまったのであった。 

やっぱり楽して頭よくなろうとしたことがマチガイだった。世の中そんなに甘くない。 

がっくりと頭を垂れて睡眠学習機を押入れにしまいかけたとき、天啓が下りたかのようにポローンと頭のなかで琴が鳴った。 

「ひょっとしたら、これでブルース・リーになれるかも……」 

喉元過ぎれば熱さ忘れる。 

というが我ながら忘れるのが早すぎるほど学習能力のない中坊だった。 

夢のなかでトラックスーツを着たリーになりたい。私は次の日、ワクワクしながら『死亡遊戯』のサントラテープをエンドレステープにダビングし、睡眠学習機に頭を沈めた。 

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 知らない読者のために『死亡遊戯』について簡単に説明しよう。『死亡遊戯』は、リーの急逝から5年後の1978年に、リーの未使用フィルムを使って公開された作品。 

故人となったリー本人が登場するのは、五重塔内でシンジケートが送り込む刺客たちと戦うラスト11分だけで、映画の大半はそっくりさんを代役にしてのアクションや、合成、古いフィルムからのつぎはぎでむりやり一本の作品にしてしまったのだ。そのラスト11分間のリーとの再会のためだけに残りのサッカーの前後半に匹敵する時間を我慢させるじらし技をつかっている。それだけに本物のリーが登場すると、真打ち登場か横綱土俵入りのような「いよー、待ってました大将」感で胸がいっぱいになり、思わず座布団なげたくなるなるようなカタルシスを一気に感じる映画だ。 

頭の下から死亡遊戯のテーマが聞こえてきた。かえって眠れない。目をつむって聞いているうちにこれは誤算だったかも……といやな予感がただよいはじめた。 

楽曲は007のジョン・バリーが手掛けているのでもちろんクールなのだけど、統一がとれていない。 

テーマ曲は勇壮でサスペンステイストに満ちたアドレナリン分泌系なのだ。だけど、リーの恋人アン・モリスを演じるコリーン・キャンプが歌う切ないバラードのエンドタイトル曲は、ハピネスホルモンといわれるベータエンドルフィンをドバドバ出してくれるので、興奮と快楽が交互にやってくるのだった。 

アドレナリンが出ては消え、ベータエンドルフィンが出ては消え、もうわけがわからん!の状態に陥ってしまう。それでもボリュームを絞っているに、いつの間にか眠ってしまったらしい。 

黄色に黒のストライプの入ったトラックスーツを着て、私はマフィアが送り込んだ最強の刺客ハキムと息をのんで向かい合っていた。(ハキムにはリーのジーグンドーの門下生である元NBAのカリーム・アブドゥール・ジャバールが演じている) 

息詰まる間合を経ていざ勝負というとき、ハキムが消えて唐突にアンが現れた。私はすっかり戦意を喪失して、思わずにやけ顔になってアンに近づく。そして、熱い抱擁をかわそうとした瞬間、アンがいなくなった。対象を失ってよろけた私の眼前に、別の刺客パスカル(ダニー・イノサント)が赤ヌンチャクを構えてほくそ笑んでいる。パスカルと戦おうとすると、またアンが、アンに抱きつこうとすると、またハキムが……果てしないループ地獄のドツボにはまってしまった。 

「どーなっとるんじゃ~っ」 

 頭を抱えたとき、はっと目が覚め、見覚えのある天井のシミがななめに映ったと同時に、ベッドからずり落ちそうになっている自分に気付いた。睡眠学習機はベッドの下に転がっていて、テープは止まっていた。 

さすがに今回でようやく学習できた私は、この魔性の機械を断腸の思いで、妹に譲ってやることに決めた。 

2009/07/20 04:19 | 映画 | No Comments
2009/07/18

秦滅亡へのトリガーを引いた男の一瞬の夏


前回、前々回と取り上げたブルース・リーに似た匂いをもつ人物に
古代中国 秦代末期のカリスマ革命家 陳勝がいる。

中国出身という以外、片や古代の革命家、
片や現代のアクションスターと、
まったく時代も仕事も異なる二人だがパイオニアという点で一致している。

陳勝は、若い頃に日雇い農夫を生業にしていた。
あるとき農作業の手を休めて、
将来は金持ちになって出世すると仲間に語ってバカにされる。
しかし、陳勝はスズメやツバメには鳳凰の志はわかるまいと意に介さなかった。

時は過ぎて紀元前209年。
陳勝は秦の官吏の下で兵士に駆り出されていた。
命じられていた人夫の護送が大雨のため期日に間に合わなくなり、
ペナルティとして科せられる死刑が免れられなくなってきた。
そこで陳勝は呉広と策を巡らして指揮官を殺害し、
反乱軍を率いて楚の国を占領後、王となる。
しかし、王位はわずか半年しか持たず、
最後はクーデターに遭って御者に殺されてしまう。
この陳勝と呉広が起こした反乱は、
中国史上、いや世界史上初の農民反乱といわれている。

参考文献   漢文読本 大修館書店 十八史略 明徳出版社 
参考サイト 金岡新 世界史講義録

護送に携わっていた農民たちは、
生前の始皇帝の強烈なカリスマ性におびえ、
皇帝の亡き後でさえその幻影にとらわれ
死刑を甘んじて受けるほかないという思考停止状態に陥っていた。
農民たちは純粋であったが故に、自分たちはどうせ何もできないのだ。
もともと生まれが、生まれ持った遺伝子が違って
自分たちが兵士に逆らうことなどとてもできないのだという
あきらめの呪縛にとらわれてがんじがらめになっていた。
そこで陳勝と呉広は、
その十重二十重にも巻かれたマインドコントロールの鎖を
ていねいに解きほぐしていく。

そして、ガチガチに凝り固まっていた彼らの奴隷根性が、
十二分にほぐれてきた頃合いを見計らってゲキをとばす。

「王候将相いずくんぞ種あらんや」

「王さま? 将軍さま? それがなんだっちゅーの。あほらしい! 
あいつらなんて自分は特別だとカン違いしたおめでたいやつらなだけさ。
あいつらとおれたちの生まれ持った違いなんて実は幻影にすぎないのさ」

意訳するとこんな調子だろうか。(意訳しすぎか!)

頑丈なカギのかかった扉を内側から吹き飛ばすような
強い陽圧のセリフに農民たちのビビりも吹き飛んでしまう。
陳勝自身も農民たちのマインドコントロールを解きながら、
自らにかけられたマインドコントロールも同時に解いていったのかもれない。

このあたりのことは想像で補うしかないのだが、
陳勝も常に自信に満ちていたわけではなく、
われわれと同じようにブレることもあったのかもしれない。

陳勝が日雇い農夫のころ、手を休めて将来の抱負を仲間に語ったとき、
鳳凰を気取って威勢よく言い放ったとしても、
それは社会の底辺にいてそこから逃れられないかもしれないという
辛い現実から目をそらすための妄想、
あるいはその場限りのはったりだったのかもしれない。

決意表明は見栄の一種だといわれる。
本人でさえ妄想なのか、はたまた実現可能性を帯びた「目標」なのか、
その心象風景は限りなくグレーだったのかもしれない。

陳勝の心情を記録した資料がない以上、
その心のうちは、たくさんの「かもしれない」カードで上がるしかない。

しかし妄想のようなものが、はっきりと「目標」として脈打ちはじめたのが、
死刑という外圧に追い詰められて秦政府への反乱を決意した瞬間だろう。
「目標」に生命が宿ってからの陳勝は、
極限状況で冷静に計算して農民たちの負け犬マインドを一掃し、
反乱を成功へと導く。

この、妄想から目標に切り替わる瞬間の陳勝に惹きつけられる。
たとえるなら陳勝はセミだ。
何年もの間、土中深く潜んでいたセミの幼虫が、
さなぎの姿で夜明け前に地上に出て木に登り、
成虫へと羽化して折りたたまれた羽をいっぱいに伸ばす。
そして地上で思う存分に木々の間を飛び回って鳴きたいだけ鳴いて、
わずか一週間だけの命を燃焼させる。

日雇い農夫の頃から、あるいはそのはるか前からか、
漠然と脳内に漂っていたものがスーッと集まって明瞭に形づくられたとき、
さなぎだった陳勝は羽化を迎えたのだ。

その目立たないさなぎから見事な王様ゼミへと羽化した瞬間の陳勝を
映画で再現してみたいというのが、私の願いだ。
彼を描いた映画は、私の乏しい知識では残念ながらぱっと思い浮かばない。
(もし知っている人がいるならば、おしえてください)

陳勝の生涯を映画化するとしたら、彼にふさわしい俳優はだれだろう。
こちらの独断で選ぶなら、トニー・レオンなんかおもしろそうだ。

『花様年華』ではベッドシーンを一切使わない
手をつなぐだけのプラトニックな演出で、
マギー・チャンとの道ならぬ愛に陥るジャーナリストを艶っぽく演じた。

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香港沢東電影有限公司 Copyright by Block 2 Pictures Inc.

その傍ら、
『ラスト、コーション』では、
対照的に新星タン・ウェイと過激なベッドシーンで
空虚な内面をさらけ出すニヒルな特務機関の顔役に
ひんやりとした凄みを付け加えて注目を集めた。

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香港沢東電影有限公司 Ⓒ 2008 WISEPOLICY 
このとらえどころのない俳優が、常識で推し量れなかった怪人 陳勝を演じたらどうなるだろう。
考えただけでもワクワクしてしまう。
企画書を書こうかな。
妄想に終わったら、陳勝が化けて出るかも!

2009/07/18 11:21 | 映画 | No Comments
2009/06/08

① 今なおアセない、ロックなマーシャルアーティスト。

一時期下火になっていたが、ここ最近、またクンフーアクションものが復活のきざしをみせはじめたのが
ファンとしてはうれしい。
今やクンフースターは、香港だけでなくジャッキー・チェンやジェット・リーなどが
ハリウッドでも確固たる地位を築いている。
その現在の隆盛は、ブルース・リーというパイオニアが存在したからこそである。

1973年。
ワーナーブラザースの配給で世界中に公開された『燃えよドラゴン』は、
世界中で空前のクンフーブームを巻きおこした。
まだ小学校に入ったばかりで、ドラえもんにはまっていた私は、
残念ながらリアルタイムではみていない。
そのうえ、あまのじゃくなひねくれ小僧だった私は、
『燃えドラ』をみた友達が口をそろえてブルース・リーってすげーというのを 

「けっ、あほらしい。ブルー・スリーがどんだけのもんや。ぼくの親戚の兄ちゃんの方が強いわ!」

と、格闘技どころか、なわとびすらあやしいメタボな兄ちゃんをひっぱり出して対抗していた。

そんなかわいげゼロなガキだった私も、
テレビや劇場でのリバイバル公開でみなにおくれてブルースー・リーデビューとなった。
またまたあまのじゃくな私は、見終わるやいなやジークンドーに帰依した。
※ ジークンドーとはブルース・リーが創設した武術のことである。

以来、劇場、テレビ、ビデオ、DVDで数えきれないくらいみたが、
今みてもエッジが立ちまくっていて、ロックンローラーのようなオーラ全開である。
あの、アチョーッという怪鳥音は、
ライヴ中にのってきたヴォーカルのオーイエーベイベーみたいなものだ。

『燃えドラ』はもうすでにクラシックの域に突入しているため、
若い人はしらない人が多いかもしれない。
香港の裏社会の黒幕、ハン(シー・キエン)が主催する武術大会に
世界中から名だたる武術家が招待されるところから、物語は動き出す。
アメリカからウィリアムス(ジム・ケリー)とローパー(ジョン・サクソン)。
そして少林拳を極めたリー(ブルース・リー)には、秘密情報局のブレースウェートから

 スパイとしてハンの麻薬製造密売の機密をつかむよう出場の要請を受ける。
はじめはブレースウェートの要請をしぶっていたリーだが、
妹がハンの手下オハラの犠牲になったこと、
ハンが少林寺の教えにそむいて拳法を悪用していることをしり、
復讐心を胸にたぎらせて大会に参加を決意する。

この作品でリーはビリビリとこわいくらいにディストーションを効かせて
文字通り全身をめいっぱい使ってロックビートをかき鳴らして暴れまわる。

鍛え上げられた上半身をむき出しにして、ハンやその手下どもを次々と怪鳥音を発しながら打ち倒すリー。
その姿は私たち日本人にはもちろん、世界中の人にとっても衝撃だった。

その迫力たるや、上映館からアドレナリン発生注意報が出されたくらいである。
なお、ひと月後には警報に格上げされたらしいが保証はできない。

とりわけ、目にもとまらぬ早業でヌンチャクを自在に操って手下どもをぶっ倒すリーに、
うぶな私はアドレナリンを副腎髄質だけでたりずに、目から耳から鼻から出しまくってもだえていた。

中学になってようやく長年の夢かない、
少年ジャンプだかマガジンだかの広告に出ていたドラゴンヌンチャクを
通信販売で手に入れることができた。

中学から帰ってきたらブツが届いていた日のことは、今でも忘れない。

学ランのまま、ダッシュで部屋にこもって開封すると、
まさしく、『燃えドラ』でアチョーっという雄たけびとともに、
リーがクールに振り回していた黒塗りの武具が小さな紙箱に収められていた。
なんと、ヌンチャク技法の解説書まで同封されている!

待ちに待ったリーグッズを前にして、三日間エサ抜きはらぺこノラいぬ状態の私。
ペラッペラの解説を見るのももどかしく、
まだほんのりとニスの匂いがする硬い木製のヌンチャクを手にとると、
さっそくハンの手下と格闘する地下のシーンをイメージして、
ズボン一丁の上半身裸になり、ヌンチャクをかまえた。

びゅんびゅん。
ガシャーン!
蛍光灯のカサに命中して、
ハンの手下の血の雨どころか、あやうくガラスの雨を降らせるところだった。

家具を壊す危険があり、部屋の中では思いっきりできないので、外でやることにした。
しかーし、外でするにはべつのリスクがあった。
うちの家は三重のド田舎だったため、庭も畑も田んぼもまる見え全開なのだ。
隠れるところがどこにもない。

庭に出るとあんのじょう、
近所のおばちゃんやじいさんやノラネコやコオロギが
庭先の道をひっきりなしに往復している。

エーイ。

かまわずに上半身はだかでヌンチャク振り回そうか。
ただ、なにしろ情報過疎でヒマな田舎のこと、
そんなことをしたらたちまち

「ヒガシデさんところのムスコ、とうとうキツネにとりつかれてしもたで。
前から、ちょっとあれやったけどやっぱりなあ」

というグッドニュースを回覧版で流されるのがオチだ。

ハヤる気持ちをなんとかこらえて、陽がとっぷりと暮れて夜になるのを待った。
午後10時。田舎の夜は寝静まるのが異常にはやい。

人通りがぱったりと途絶え、ただコオロギの鳴き声が闇を満たしていた。
九月末で夜になるとすこし肌寒かったが、
私は電信柱のあかりだけを頼りに上半身裸になった。

やっと、我に至福のときが来たれり! フ、フ、フ。

私はアチョーッと雄たけびを上げながら、
ブルース・リーのごとくヌンチャクを身体に巻きつけるように旋回した。

ゴキッという鈍い音とともに右ひじに激痛がはしり、
私はヌンチャクを放り捨てると、左手でひじを押さえた。
痛みはやがてしびれに変わった。
痛覚のまひした右ひじをもんだ。
その時、隣のおばちゃんが犬をつれて庭先の道を横切った。
おばちゃんは目に涙を浮かべてひじをさする私を一瞥すると、
こっちをみて、カタまったままのイヌを引っ張ってそそくさと家に入って行った。

次の日、おふくろが

「あんた、なにか悩みでもあんのか?」

と心配そうに私の顔をのぞき込んだ。

「なんか、庭で裸になってタコおどりしとったって、〇〇さんから聞いたぞ」

おふくろは憐れむような目で私をみながらつぶやいた。

その瞬間、私の思い描いていたクールなブルース・リー像は
コッパみじんになってあさっての方向にけし飛び、
『燃えよタコおどり』のタコおど・リーとして図らずもデビューしてしまったことに気づいた。

ローマは一日にしてならず。
ドラゴンへの道は果てしなく遠い。

そんな格言が身にしみた日だった。
ああ。

2009/06/08 07:38 | 映画 | No Comments
2009/05/24

『サウンド・オブ・ミュージック』    
                     ふたつの戦いへの臨み方。
ミュージカルものはこれまであまり観てこなかった……。
いわば食わず嫌いの状態でずっときていた。

ところが、我が映画評論の師匠からチケットをいただき『ドリームガールズ』を観て、
良質のミュージカルものって、もしかすると映画の中のドリアンなのかもと味見もろくにしなかった自分を反省した。

食わず嫌いから解き放たれた舌はドリアンの味よ再びとばかりに、

ミュージカルの金字塔といわれている『サウンド・オブ・ミュージック』に求め、DVDを借りた。

それは、デリシャスだけどちょっぴり苦味が効いた特別な味わいだった。
なにしろ画面の向こうに情けなかった自分の姿がはっきりと映し出されていたのだから。

物語の舞台は1938年、オーストリアのザルツブルク。
ナチスドイツによる併合の魔の手が差し迫った、まさに混乱の真っただ中。
主人公マリア(ジュリー・アンドリュース)は、
まだ修道女とは認められていない見習いの身だった。

おてんばで修道院の問題児でもあったマリアを、
院長(ペギー・ウッド)はトラップ大佐の家へ家庭教師に行かせる。
海軍退役軍人のトラップ大佐(クリストファー・プラマー)は、
家でも7人の子供たちにセーラー服を着せて軍隊式に厳しくしつけようとするが、
音楽を使った自由な教育をさずけようとするマリアとの間で衝突が絶えない。
子どもたちは朗らかでサービス精神旺盛なマリアにすぐになついていく。
妻に先立たれて以来かたくなに閉ざされていた大佐の心も次第に癒され、
いつしかマリアにひかれていく。
そしてマリアも大佐にひかれていく自分に気づくが、
大佐にはエルザ男爵夫人(エリノア・パーカー)との再婚話が持ち上がっており、
マリアは大佐への感情をどうすればよいのかもてあまし、
逃げるように修道院へ帰ってしまう。

心配した院長はマリアに、
自分の気持ちを確かめに戻って自分の道を探すよう叱咤激励する。
トラップ家に戻ったマリアは大佐との想いを成就し、
子供たちや修道女たちに祝福されて、めでたく大佐と結婚を成し遂げる。
しかし、幸せの絶頂のマリアたち一家にひたひたとファシズムの魔の手が迫っていた。
そして大佐のもとへ第三帝国海軍からの出頭命令が届く。
オーストリア併合に怒り悲しむ大佐は中立国スイスへの亡命を決行する……。

この映画のなかで、マリアは2種類の戦争に直面している。
一つ目の戦争は、マリアが大佐への想いに耐え切れず修道院へいったん逃げ帰るが
院長に励まされて自分の気持ちを確かめにトラップ家に戻る、いわば自分との戦い(内的戦争)。
そしてもう一つは、ヒットラー(ナチスドイツ)の侵略に対する戦い(外的戦争)だ。

この映画の見所は、監督ロバート・ワイズが
それぞれの戦争に対して全く異なる処し方を示してくれているところだ。

一つ目の戦争に対しては、
自分の気持ちをごまかさずにきちんと向き合って
立ち向かわなければならないというメッセージ。

二つ目のリアルな戦争には、
逃げてもいい戦い、いや、逃げなければならない戦いがあるのだということを。

とくに、偏った思想をもつ邪悪な権力がじわじわと国民を洗脳して、
やがて感染爆発のように大多数の者が邪な思想を正義だと信じ込んでしまう
末期症状に至った場合は「逃げる」という選択肢がガゼン輝きを放ちだす。

何とかの意地とか周囲の目とかに囚われた「立ち向かう」姿勢が、
多勢に無勢では結局犬死という結果になりかねない。

それよりも、一見臆病にみえてかっこ悪かろうがなんだろうが、
権力を倒すために何ひとつ貢献できない破目に陥ろうが、
三十六計逃げるにしかずとスタコラさっさと中立地帯に逃げ込んでいいのだ。

おぞましい思想に洗脳されてしまった母国なんぞクソくらえだ。
どうせ権力者なぞ、国民のためにと勝手に戦争をはじめておいて、
国民のせいにして勝手に戦争を放棄するのだから。

ワイズがくれたこの二つのメッセージは、
それと一緒に私にほろ苦い思い出を届けてくれた。

10年前、私は本業の仕事にも、ものかきになるという目標にも、すべてに行き詰まり、
八方塞がりになって、アパートを引き払って日本から逃げたのだ。

逃亡先は、どこでもよかった。
とりあえずイギリスに逃げた。

留学だのなんだのと、まっとうな理由をこじつけてはいたが、
自分のことを誰ひとり知っている人がいない外国だったらどこでもよかった。
とにかく、だれも私の存在を知らない世界に身をおきたかったのだ。

ロンドンで安フラットの一室を借りて、
いわばひきこもりならぬ「外こもり」となっていた。
そして金がつきるまで、とにかく歩きまわって自分探しをしているつもりだった。

ロンドンだけで飽き足らずにドイツのミュンヘンをほっつき歩いたついでに、
オーストリアのザルツブルクまで足を延ばし、でたらめに歩き回った。

その当時はもちろんこの映画を観ていないので、
自分がどの戦争に今おかれていてどの選択をすべきか、知る由もなかった。
ただ、新しい自分の陽炎を、つかめるはずのない陽炎を、
バカみたいに追いかけていたのかもしれない。
実はそれが逃げ水だとはしらずに……。

マリアがトラップ家からノンベルク修道院へ逃げ帰るシーンが、
真冬のザルツァッハ川のほとりを、馬車の行きかうレジデンツ広場を、
根雪の残るホーエンザルツブルク城塞を、
スニーカーの底からはっきり伝わる冷気を受けながらさまよった自分と、
画面のなかで重なっていた。

あの時の私は、モーツァルトの生家がどこだろうとそんなことはどうでもよくて、
ただ新しい自分の姿を見学したかったのだ。
まるで新しい生き方のヒントがひょっこりと見知らぬ土地に落ちているかのように、
うろつきまわった。

そこには、なにもないんだ!

画面に浮かんだ昔の自分に声をかけたくなった。
マリアのように、踵を返して現実と立ち向かえ、と。
お前が直面している戦いは、逃げてはいけない戦争なのだ、と。

院長の歌う『すべての山に登れ』に後押しされて、
修道院から郊外のトラップ邸へと勇んでもどるマリアの姿を、
あの時の自分に見せたかった。

お前がぼろいスニーカーを履いて
必死でさがしている新しい自分の姿がここにある、と。

2009/05/24 12:40 | 映画 | No Comments

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