2011/04/01

『川の底からこんにちは』

ストーリー 
上京して5年のOL、佐和子(満島ひかり)は、
仕事も恋愛もぱっとしない毎日を送っている。
佐和子の口癖は、「どうせ私なんて中の下の女ですから」
そんな自虐が生み出す妥協の人生が、父親の急病の知らせを受けて一変する。
一人娘の佐和子が帰郷して父親のしじみ加工工場を継ぐことになるのだった。
しかし、従業員のおばさんたちには受け入れてもらえず、
会社の経営も悪化の一途をたどり、おまけに工場までついてきた彼氏にも浮気されてしまう。 
そんなまさに八方塞がりのどん底のさ中、
佐和子は開き直って彼女に立ちふさがる障害に立ち向かっていく。

自己評価が低いんだか謙虚なんだかわかんない佐和子の曖昧さは、
私たちのまわりをうっとうしくまとっている清々しさとは無縁の空気そのものだ。 
若さに似合わない悟ったようなあきらめたような独特の彼女の気だるさは
周囲をいたずらに萎えさせ、力を奪っていく。
 私も佐和子のことを笑えない。
斜に構えてやたら低く自分を見積もって嘆いてばかりいるからだ。 
映画の佐和子は嘆くかわりに淡々とクールに自分をやんわりと否定する。
しかし、キャパを超えたときには開き直りという梯子を立ちふさがる壁にかけて、
かっと眼を見開いて登っていく。 
自分のキャパを超えたと感じる逆転層に突入した瞬間、
私は佐和子と同じく開き直る。
そして、自己評価が低く弱ければ弱いほど、
それを逆にした全能感や強さに反転できるのだ。
ほんの一瞬だけ。

2011/04/01 12:00 | 映画 | No Comments
2011/03/17

11日に東北、関東は未曾有の大震災に見舞われました。

お亡くなりになられた方々に対して
心からお悔やみ申し上げますとともに、
被害を受けられた皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

地震発生当時、私は本業の施設管理業務のために地下の居室でPCに向かっていました。
ゆっくりと大きな揺れが1分ほど続いたかと思うと
激しく小刻みな揺れにかわりました。

机の真後ろにあるスチール架台の最上段に収納してあったダンボールが
飛び跳ねて落下しそうになり、咄嗟に手を差しのべました。
居室の外では排気ダクトが頭上でキシキシときしみながら大きくうねっていました。

階段を駆け下りて外へ避難する人を目の当たりにして
これは尋常ではない。
そんな気がかりな思いが頭をよぎりましたが、
施設その周囲で被害はなく、
すぐまた抱えている案件が頭の中を占めていきました。
後で東北、関東地方の被害の状況を目の当たりにするや、
胸をかきむしられるような傷みを覚え、
案件のことはまるで薄らいでしまったのです。

しかし、社会人として大人として
本業も取り組んでいる案件もそのままにしておくわけにはいきません。

今、私にできることを考えました。
引き続きツイッターで少しでも被災された方々、
不安な思いを抱えて毎日過ごされている方々にとって
有益だと思われる情報を見かけたらシェアさせていただく。
心ばかりですが、被災地へ寄付させていただく。

私はえらそうなことをいう資格も何もありません。
時間とやりくりしながら微々たることかもしれませんが、
それを実行していきたいと思います。
痛みをともに感じながら、ともに笑える日がくることを信じて。

2011/03/17 08:50 | 未分類 | No Comments
2011/02/28

おすすめドキュメンタリー

今回は私のおすすめ映画を紹介したい。
知的障害者の僧侶とプロミュージシャンからなる異色バンド「ギャーテーズ」をおったドキュメンタリー『FREAKOUT』。
日本人住職と韓国人設立者の間に生まれる確執に対して偏らない迫り方が斬新。3月5日より新宿K’scinema、渋谷UPLINKにてロードショー公開、全国順次公開予定。
http://www.freakout-movie.com 
『FREAKOUT フリークアウト』公式サイト

C) TRICKSTER FILM

<ストーリ―>
静岡県富士宮市にたたずむ超教派の寺、弘願寺。二代目住職の角田大龍は元ロッカーでもあり、95年に寺で暮らす3人の清僧(弘願寺で修行する知的障害をもつ僧侶)たちと「ギャーテーズ」というバンドを結成する。高橋ヨーカイ(ex.裸のラリーズ)、石塚俊明(from頭脳警察)ら実力派ミュージシャンたちとともに構成されるその演奏は、インプロビゼーション(即興音楽)を中心に清僧3人がフロントにたつアバンギャルドなスタイルで話題となり、その活動範囲は大きく広がっていった。
02年、大龍の恩師であり弘願寺の創設者でもある韓国人僧侶、釋弘元(和上)がニューヨークから突然帰国。苦境にあえぐ寺の再建の過程で、次第に韓国人の和上と日本人僧侶の大龍との間に違和感と確執が露わになっていく。それは単なる考え方の違いではなく、『日朝日韓問題』という歴史的背景が絡んだあまりに複雑な文化意識の差から生じたものだった。)
監督は鬼才・故石井輝男の愛弟子である矢口将樹。(05年故石井監督の遺作となった『盲獣VS一寸法師』の撮影風景を収めた『石井輝男FAN CLUB』を監督)本作『FREAKOUT フリークアウト』が監督第二作目。新進気鋭の若手監督だ。

冒頭からいきなりギャーテーズのライブの模様ではじまる。3人の知的障害の清僧さんたちははじけていてとても楽しそうだ。このギャテーズの3人の清僧さんたちがどうも映画の核になっているようだ。
彼らへの接し方は激情型の韓国人和上と温厚でアバウトな日本人の大龍で大きく異なる。3人の清僧さんの感情の動きに注目すると、彼らの希望の行きつく先が見える気がした。                                                                         いったいスタンスとはなんだろう。スタンスというものはどんな善意がくっついていてもそれは差別といういやらしいものを生み出す妖怪なのだろうか。正しさなんてむしろ幸せとは関係ないのかもしれない。
そんな独り言をふともらしてしまう際どさがこの映画にはある。

2011/02/28 11:38 | 未分類 | No Comments
2011/02/09

『華氏911』

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この映画でムーアはアメリカのイラク攻撃を批判するためにある戦略を使っている。
彼はこう推論する。ブッシュが同時多発テロとサダム・フセインとを
強引に結びつけてイラク戦争を起こしたと。
この推論を正当化するのに都合のよいシーンだけカッティングし、
時系列を無視して貼り付けていく。

そう。この映画は一種のパズルなのだ。
あらかじめこうに違いないというムーアの思い込みがあって、
このフレームにアトランダムに集められたピースをはめ込んでいくと
イラク戦争反対のプロパガンダの出来上がりというわけだ。

ある演説でのブッシュの「サダム」というセリフ。
別の演説での「アルカイダ」というセリフ。
この関係ない二つのピースを隣あわせにはめ込むと別の「真実」に変化する。
さらに「サダム」「アルカイダ」「サダム」「アルカイダ」と繰り返すことで
観客の思考を麻痺させ、「ムーアの真実」を刷り込んでしまう。

ムーアをこの映画に駆り立てた動機はいったい何だろう。
それはカンヌのインタビューでもいっているように
アメリカ人に真実を知らせたいというムーアの使命感にも似た情熱だ。

アメリカはダブル・スタンダードで動いている。
表のスタンダードが世界平和への貢献、裏のスタンダードが覇権主義。
これまでアメリカは一貫して表のスタンダードを国際世論にアピールしながら
裏のスタンダードの実現に邁進してきた。
これもまた紛れのない真実である。
ベトナム、湾岸、コソボ。時代が下るにつれ裏のスタンダードが顕在化するようになり、
イラク戦争で真実が決定的に露見してしまう。

ムーアはここぞとばかりに裏のスタンダードというパンドラの箱を開けた。
しかし箱から出てきた真実は皮肉にも彼の仕掛けたパズルの中で
歪曲された「真実」となっていくのだ。
せっかくの真実が観客にそう受け取られてしまうならば、
過剰な彼の戦略がかえってブッシュを擁護することになってしまう。
反ブッシュ反イラク戦争プロパガンダとなるかその逆となるかが
観客の眼力しだいだとしたらせっかくの戦略もいささか毒気が強すぎたといえるだろう。

2011/02/09 09:49 | 映画 | No Comments
2011/01/25

実話に基づいた映画 (Based on a true story movie)

『モンスター』

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アメリカ初の女性連続殺人犯がヒロインだが、

悲劇のヒロイニズムに惑溺することなく権力闘争という

一歩引いた神の視点から俯瞰的に描かれている。

虐待、レイプ、売春と幼少時からあらゆる辛酸を舐めてきたアイリーンは

セルビーに出逢って自殺を思いとどまり生きる希望を見出す。

 女同士の濃密な関係は閉ざされた空間の中で徐々にアイリーンを変質させてゆく。

自殺から他殺への変質のきっかけがセルビーだとしても

最初の殺人は正当防衛に当たると思われるが、

不運にも殺人という一線を越えてしまったことにより

無意識のなかに蓄積されてきた男に対する憎悪にスイッチが入ってしまう。

「レイプ魔や暴力男は殺してもよい」 

このアイリーンの哲学は教育の機会を奪われたことに起因する短絡性の象徴でもあるが、

セルビーというアンプを通して増幅されていく。

 アイリーンの哲学こそ権力闘争の原型である。

彼女は性的虐待を受けてきたなかで

法が自分を守ってはくれないという冷厳な事実を学習してきた。

法は男性性の象徴であるから社会的弱者の娼婦を擁護しはしない。

法(男)は男を厳しく罰しない。

それならば力で邪悪な男を倒し正義のありかを神に示すしかない。

「神様に対して何も恥ずかしくない。例外があるの」

 セルビーに切々と訴えるアイリーン。

しかし父親に反抗しながらも「パパが救ってくれる」という甘えを内包しているセルビーの胸には届かない。

それは二人のトラウマのレベルに大きな隔たりがあるためだ。

アイリーンはセルビーにそそのかされ車を手にいれるために善良な男までも殺してしまう。

ついに例外を踏み越えてしまったことによって彼女の哲学は破綻する。

もはや聖戦(ジハード)としての大義を持ちえず彼女の権力闘争は挫折し、

ただの殺人鬼に成り下がってしまう。

セルビーはアイリーンの元を去りパパ(法)の元へ帰っていく。

愛のために哲学を踏み外すアイリーン。

保身のために法の手先になってしまうセルビー。

監督のパティ・ジェンキンスはこの二つの弱さをバランスよく配分することで

アメリカの抱える権力闘争のあり方に一つの重要なメッセージを投げかけている。

2011/01/25 09:21 | 映画 | No Comments
2011/01/10

渋谷アップリンクで日本で未公開の刺激的なドキュメンタリー映画をあつめた

未公開映画祭なるものをやっていたが、

そこでの一本が私の心にピッと引っかかった。

『ビン・ラディンを探せ!』である

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自らビッグマックを食べ続ける実験台になり、
ジャンクフードがもたらす健康への影響について検証した
『スーパーサイズ・ミー』。
アメリカの食のあり方に一石を投じた前作に引き続き、
またもや監督兼俳優のモーガン・スパーロックが
体当たり取材を刊行したドキュメンタリー。

今回はアメリカ同時多発テロの首謀者と目され指名手配中のテロリストに
立ち向かうヒーローに頼まれもしないのに立候補したスパーロック監督。
ビン・ラディンはどこにいるのかという素朴な疑問に突き動かされるように
妊娠した妻をおいて中東へ旅立つ決意をする。
思わずそれでいいんかいとツッコんでしまいたくなるが、
ロケ前にテロ対策の護身術を習うスパーロック。
時折自虐を垣間見せながらも真剣に取り組む姿に、
硬軟織り交ぜた対象へのせまり方を暗示しているようだ。

映画はエジプトを皮切りに、
モロッコ、イスラエル、ヨルダン、サウジ、アフガン、パキスタンと
精力的にイスラムの国々を突撃取材する。
各国でアメリカ人についてどう思うかを聞いて回るのだが、
スパーロックの気のいいあんちゃんといった気さくな雰囲気が
功を奏してはじめは警戒している人々も次第に口が滑らかになってくる。
イスラエルでは、もっとも戒律の厳しいユダヤ教徒地区に侵入し、
いざこざを起こすが、スパーロック監督は固まることもなく、
余裕をかまして撤退する。
おふざマジな彼のスタンスを貫いている様は見ていて小気味がよい。
同時にアメリカだけでなく、中東にもさまざまな歪があることを
カメラは容赦なくとらえる。

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はたしてビン・ラディンはいたのか? 
その問いに対して長い旅路の末にスパーロックが見つけた答え。
それはこの複雑怪奇な世の中をつくってしまった我々の心に
ずしりとのしかかってくる。
(C) 2008 WHERE IN THE WORLD, LLC AND WILD BUNCH S.A., ALL RIGHTS RESERVED

2011/01/10 01:00 | 映画 | 2 Comments
2010/12/19

引き続き、東京国際映画祭のコンペティション部門の問題作。
『ビューティフル・ボーイ』

公式サイト
http://www.beautifulboythemovie.com/

ストーリー
倦怠期を迎え離婚の危機に直面する中年夫婦。
ぎくしゃくした毎日の中、大学生の一人息子が
大学で銃を乱射して無差別殺人を引き起こす。
夫婦はたちまち奈落の底に突き落とされる。
二人は世間やマスコミの目を逃れるため逃亡生活を余儀なくされ、
皮肉にもそれが壊れかけた夫婦の絆を結び付ける役割を果たすのだが…

ショーン・クー監督は両親の母校バージニア工科大で
2007年に起きた銃乱射事件にショックを受けた。
犯人の親は住んでいた町から姿を消して隠遁生活を送っていたという。
無差別殺人犯の親という絶望の雲間から見えるのが
ラブストーリーであってほしい。
そんな想いが胸にこみあげ、犯人でも被害者でもなく、
犯人の親側から事件を見つめたくてメガホンを執ったと語る。

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ショーン・クー監督

撮影に際して監督はカメラにパーソナリティを与えるようにした。
ドキュメンタリーを撮っていたところで予期せぬ事件が起きた時、
居合わせたらカメラはどうとるのか?

感情をカメラに与えることで、
単なる撮影ツールを超えて場の空気と共鳴できるのだ。

両親はニュースで息子の通う大学で起こった惨事を知って、
自宅から息子の携帯にかけるがいっこうにつながらない。
自宅に現れた警察に身構える両親。
息子が死んだことを告げられても両親は「平常心」で涙を流す。
十分に予期しうることだから。
しかし、銃乱射したのが息子で自殺したことを付け加えられると、
静止していたカメラが揺れはじめる。
そして感情を爆発させる母親。

真実とはこんなふうに突然ナイフを
のど元に突きつけられる残酷さをはらんでいる。
このぶれ方は恐いくらいリアルだ。

絶望する両親のわずかな心の揺れもカメラは見逃さずに共鳴する。
そのワンショットが不意にきたとき私の鼓動も両親と同じ速さに達するのだ。

【警告】当コラム内に掲載されているすべての文章、画像の無断転載、転用を禁止します。

2010/12/19 10:04 | 映画 | No Comments
2010/12/08

『サラの鍵』

今年度の観客賞と最優秀監督賞はフランス映画『サラの鍵』だった。
監督のジル・パケ・ブレネールは三年半ほど前に
ミリオンセラーになったタチアナ・ド・ロネの小説に出会い、
惹きつける力を持ったプロットに感嘆したという。
家族の中にホロコーストの犠牲者がいるという監督は
ヒットの前だったから権利が買えたと感慨深げに回想する。

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ジル・パケ=ブレネール監督

映画は二人の女性の視点が交互に切り替わる形で進んでいく。
現代のパリでフランス人の夫の間に一人娘をもち、
ジャーナリストとして働くアメリカ人ジュリアの視点。
もうひとつは、第二次大戦中のドイツ占領下パリ、
両親と幼い弟と暮らすユダヤ系フランス人少女サラの視点。

ジュリアは1942年にフランスのヴェルディヴで起こった
フランス警察によるユダヤ人の一斉検挙を調べていくうちに
60年前に自分のアパルトマンで起こったユダヤ人一家の悲劇を知る。
当時10歳だった一家の長女サラは、警察から隠すために
幼い弟をクローゼットに入れて鍵をかけてしまう。
サラは鍵を持ったまま両親と屋内競技場へ連行されていく。

ジュリアとサラ。
二つの視点が交互に切り替わり、
サラの人生を追跡するうちにジュリアの人生も影響を受けて
大きくかわっていく。

サラの視点で強く印象に残ったのが、
収容所で連行されたユダヤ人の親と子が隔離されるシーン。
高さといいアングルといい、まさに少女サラの視線そのものだ。
手持ちワイドレンズのカメラで撮影することで
あたかも自分が警察と逃げ惑う親と子の阿鼻叫喚地獄の中心にいるような
錯覚を引き起こす。
攪拌機の中に放りこまれたようにぐるぐる走り逃げ惑う人々。
夏の日差しの下でたちこめる土ぼこり。
彼らの熱気と臭気と絶望が眼の前にある。

ブレネール監督は映画の撮影に当たって、
そこに投げ込まれたような臨場感をもう一度作り直すことを心がけたというが、
この五感を刺激するカメラワークはその意向に十分こたえていた。

2010/12/08 11:30 | 映画 | No Comments
2010/12/01

さくらグランプリ受賞!『僕の心の奥の文法』

見事、本年度のさくらグランプリに輝いたのが、
イスラエルからやってきたこの作品だった。
ニル・ベルグマン監督は02年『ブロークン・ウィング』に続いて
二度目のグランプリ受賞という快挙を成し遂げた。

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左から監督のニル・ベルグマン、アハロンの母親を演じたオルリ・ジルベルシャッツ

舞台となったのは、1963年のイスラエルの首都エルサレム。
第二次中東戦争(1956年)から第三次中東戦争(1967年)勃発まで
戦火とは奇跡的に無縁だった時代を
感受性豊かなユダヤ人少年の視点で照らすと、
ユダヤ対パレスチナのモノクロ世界が
カラフルでリアルな世界に変貌するから不思議だ。

アハロン少年は、両親と姉、痴呆症の祖母と平和な毎日を送っている。
家族だけではなく、友人や初恋の女の子、騒々しい隣人たちに囲まれながら、
彼は常に最後ひとりになる。
人の輪から自ら弾けるように出たり、あるいは弾きだされたり。
異物のように沈んだり浮いたり。
そして文字通り、アハロンだけ成長が止まる。
友人たちの背がグングン伸びていくのに、
彼の壁に標した背丈は二年前と同じままだ。
身長だけではない。体重も筋肉も……

「この人たちはすでに死に向かっている」
人々がイスラエルの建国を祝っておどり騒ぐ独立記念祭。
彼はその楽しげで華やかな雰囲気の奥に潜むはかなさと虚しさを感じとる。
ユダヤ人の視点しか持たない周囲からポツンと浮かんで俯瞰するアハロン。
友人の家の車に投石するパレスチナ人らしき男を目撃したときも
彼の独特なセンサーは男の行為の背後に隠れている何千何万もの負の感情を
キャッチしてアハロンを恐れわななかせる。

また、アハロンは英語を勉強するうちにヘブライ語にない現在進行形に
泡の中にいるような感覚を抱いて魅せられていく。
そして、アハロンイング という自分だけのヘブライ語をつくり出す。

彼が発明した文法をニル・ベルグマン監督は
大人になりたくない、子供のままでいたいという思いを
示していると語る。

アハロンは違和感をおぼえる場所にいくと、
この独自の文法を使って心の中で自分と対話する。

ただ、彼が大人になりたくないというのは
単に安全で快適な世界にとどまっていたいという願望から
生まれた気持ちではないように私には思える。

むしろ逆のようだ。
ユダヤ人のホロコーストを盾にとったアラブ、パレスチナ人への過剰防衛。
自分たちがかつて味わった苦しみを
パレスチナ人に与えていることに気づいて、
彼は大人になることを拒否したのだろう。

批判を許さない好戦的な人間に取り囲まれて
アハロンは窒息しそうになる。
その度に泡の中で息継ぎするように
内なる自分と現在進行形で話す。

敏感すぎるセンサーが取り込む強い刺激を中和するための
彼なりの工夫なのかもしれない。
そうしなければやり過ごせない日常が確かにあるのだ。

2010/12/01 07:53 | 映画 | No Comments
2010/11/24

『一粒の麦』
コンペティション部門のこのルーマニア映画も
様々な切り口が考えられる多面的な映画だった。

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シニツァ・ドラギン監督

司祭が教会の入り口で一心に遠くを見つめている。水は彼のひざ下まできている。浸水ではない。教会がドナウ川に浮かんでいるのだ。にもかかわらず司祭は動じる素振りもない。そう。この水上の教会は現代の世界に浮かぶ「異界への入り口」なのだ。

映画は二人の父親の子探しの旅とこの不思議な教会にまつわる二百年前の伝説がパラレルで展開していく。その伝説とは、ルーマニアで二百年前に教会の建築を禁じられた村人たちが、力を合わせて人力で木造の教会を自分たちの村へ移動する物語である。舞台となった東欧はもともと多くの民族が混住する複雑な政治事情を抱えていた。それが共産主義体制の崩壊後、経済が混乱して無秩序な状態に陥ってしまった。民族主義が台頭し、民族間の対立が紛争を呼んで銃火の途絶える暇もない。

ルーマニアで事故死した息子を探すセルビア人の父親も、旧ユーゴ崩壊に伴ってそれまで信じてきたイデオロギーも国家もなくなり、大きな喪失感に苛まれている。だからこそ旧ユーゴ時代の勲章を肌身離さず持っている。友人に諭されようが罵られようが、捨てられないのだ。勲章を捨てることは自分の人生を否定することだからだ。しかし、息子の遺体を辿っていくうちに彼の内面が変わっていく。信じてきた正義がぐらつきはじめる。その辛さは酒でまぎらわしてもかえって膨らむばかり。苦労の末に息子の遺体を取り戻したのもつかの間、ある事件がきっかけとなって彼は軍隊を離れた息子の気持ちをはじめて理解する。同時に彼の人生を支えてきた信条と決別しなければならない。彼の葛藤がヒリヒリと胸の奥に沁み込んでくるようで痛い。そして息子の遺体はまた父親の手を離れていってしまう。
もう一人のルーマニア人の父親は、売春させられている娘を取り戻しに国連管理下のコソボへ潜入する。手を尽くして娘との再会を果たすも、親子は新たな試練に直面する。売春元締めのアルバニアマフィアが出した交換条件に父親の葛藤は極限にまで高まる。それと呼応するかのようにドナウの水位も極限を超える。村へ運ぶ途中の伝説の教会を増水が呑み込んでしまう。

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ルーマニア人娘役のイオアナ・バルブ

はたして、この伝説は厳しい現代のバルカン情勢をなぞらえただけのものだろうか?
その答えは司祭が立っている「異界への入り口」にある。それまでパラレルで展開していた現代と異界とが結びついて、やがて息をのむクライマックスを迎える。司祭が教会の入り口に立っていた意味。監督が教会の入り口を「異界への入り口」にした意味。それらがストンと胸に落ちる。せつなさとほのかな希望。9対1くらいの比率で心をかき混ぜる独特な苦さにしびれた。

2010/11/24 08:02 | 映画 | No Comments

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