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2010/10/23

昨年の東京国際映画祭で見事サクラグランプリに輝いた

『イースタン・プレイ』(邦題『ソフィアの夜明け』)が

渋谷の「シアター・イメージフォーラム」で本日10月23日より公開された。

大阪、京都、名古屋その他の都市でも順を追って公開される予定だ。

original1.jpg

©Waterfront Film, The Chimney Pot, Film I Väst AB

『ソフィアの夜明け』公式サイト

http://www.eiganokuni.com/sofia

昨年このコラムでも取り上げたが、心にしみる作品だったので、
配給がついて日本で公開されることになってほんとうに嬉しい!

まだご覧になっていない方はぜひ、

イツォ役で主演の故フリスト・フリストフ氏が抱えた生への緊張と

そのほとばしりが生み出す迫力を目の当たりにしていただきたい。

以下は私の批評です。

『ソフィアの夜明け』映画評 

監督のカメン・カレフは幼馴染でドラッグ依存症に苦しむ彫刻家フリスト・フリストフからこのストーリーの着想を得て、同じ設定のイツォという人物をつくり、その役にフリストフ本人を起用したという。ドキュメンタリーではなくフィクションで、彼の本質を損なわぬままイツォという衣装を重ね着した魂の行方を追う野心的な試みがこの映画に込められている。
カレフ監督はイツォについて表現する手段として、過去の回想シーンを挿入するといった類の直接的な手法を用いない。代わりに他の登場人物の行為を、あるいはイツォの傍に彼らを置いてその関わりを、淡々と描写する。それが観客の感性を刺激し、イツォについて様々なイマジネーションを喚起させている。
ネオナチ集団に入る反抗期の弟ゲオルギの繰り広げる行為は、イツォのトラウマの回想ともみなせる。実父と継母への不信と反発。将来への希望を捨て荒む友人から感染する絶望感。現代と前近代が混在するソフィアの街並みが生み出すカオス。これらがゲオルギの精神を蝕んでいく過程を描写することでイツォの苦難が腑に落ちる。
また、ゲオルギの集団が襲ったトルコ人一家の娘ウシュルとの交流を描く中から、イツォと同じ不安を乗り越えた彼女の軌跡の向こうにイツォの辿る未来の可能性を連想することもできるのだ。
この抑制された描写によって豊かなイマジネーションが喚起される象徴的なシークエンスがある。ドラッグの症状のため一晩中街を徘徊するイツォをハンディカメラが背後からマークするように追いかけ、ぶれるフレームが彼の不安定な魂を緊迫した臨場感を伴って立ち上がらせる。徘徊の果てに夜明けの街頭で出くわした老いた男にイツォは荷物を運ぶ手伝いを頼まれる。アパートの老人の室まで運んだ彼は、老人と向かい合って肘掛椅子に坐ると、疲労のためそのまま寝入ってしまう。イツォが目覚めると、椅子には老人ではなく乳児が坐っている。
カレフ監督はこれだけの情報しか観客に与えない。しかし、そのうっかり見落としてしまうくらい淡い描写から様々なイメージが立ち上がってくる。老人をイツォの辿る未来、乳児を苦難が浄化された過去とみなす、魂の再生。あるいは、老人を病みつかれたイツォの現在、乳児を苦難の取り除かれた爽やかな未来とみなす、魂の浄化。その崇高なドラマがもたらす時間の遡行と早送り。シンプルな描写の背後に時間の圧縮による異空間が映し出される。それは演出の絶妙な抑制によって、フレーム外で雄弁に観客の感性を鼓舞した結果、生まれるものだ。
あえて語らない、あえて隠す。それによってスクリーンを飛び越えてイツォの魂が我々観客の胸に深く届き、多彩なイマジネーションを投げかける。映画が撮影した素材を二次元のスクリーンを通して観る者各々の頭の中に幻想として蘇らせるものだとすると、この作品はその醍醐味を堪能できる逸品である。

2010/10/23 10:17 | 映画 | No Comments

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