JunkStageをご覧の皆様、こんばんは。
いつもJunkStageをご訪問いただき、ありがとうございます。
「ビジョナリー・ワールド」を連載中のライター、映像作家・速水雄輔が、
現在多忙のため、本コラムを暫くお休みさせていただきます。
連載再開の際はこちらでお知らせいたしますので、どうぞお楽しみにお待ち
くださいますよう、お願い申しあげます。
(JunkStage編集部)
映像のフレーミングについて~ Part3 of3
映像は常にフレームの中にある。モニターの四角い中にある。当たり前のことのようだが、視聴者はそんなことを考えてみてはいない。
もうひとつフレーミングについてだが、日本ではあまり視聴者が意識しない部分(いやほぼ全くと言っていいほどと思うことがあるくらい)がある。それはセクシュアリティー。映像に裸の女性が映ればセクシャル、ということではない。映像そのものがセクシャルであるということだ。西洋で映像を学び西洋で映像に触れて育ったことで帰国時にそれを強く感じた。西洋の一般視聴者や制作する人間は‘映像はセクシュアルである’というメタファーというかシンボリックなものがあるということを知っている。思い込みでは?というぐらいのリアクションを見せることが日本に比べ圧倒的に多い。これはあくまで僕の視点での一般論なのですべてそうであると断言するわけでもない。しかしその傾向はあるように思われる。そしてこのメタファーは強烈な特定のメッセージを発する際に非常の有効なのだ。日本人の作家がこれを使っていないというのではない。むしろ逆で使っている。文化や風習を通してこれらを使っている。しかし無意識のうちにという場合が多い。そして作家が「こうありたい、こうあってほしい」と思うもの、または視聴者が「こうありたい、あってほしい」と願うものを先読みして作家が提示する。そのような場合にメタファーを文化、習慣、風習というものを通して(そしてそれらはすべて作家のキャパシティーによって大きく左右され)形になる。つまり作家のキャパシティー(映像は一人では作れない場合があり、この場合作家とは制作スタッフおよび制作環境のシステム)そのものがフレーミングにかかわっているということです。
フレーミングとカットによってよりわかりやすくインパクトのあるものを繋げることは一つ大事なのかもしれない。しかし作家が視聴者にインパクトを与えたいがためにわかりやすい演出(フレーミングなど)をすればそれは味気ないものになるのかもしれない。もちろん視聴者はそれが味気ないものとは思わないことがほとんど。それが映像作りの怖いところでもある。ある種のマインドコントロールもこういう隙間から始まっていくんだと常々思う。
そうならないためのいろいろな方法が考えられるだろう。しかし何より大事に僕が感じることは視聴者一人一人の教養。これはなにも学校教育とかIQの話をしているわけではない。これは感情のヒダというか感性の深さというか、そういったものに近い。そしてこれらは日常のいろいろな場面で磨くことができる。しかしあえて映像の世界の話だけでいうならば昔の映画にはそういったものを培うための深さがあったのかもしれません。テレビ世代が始まり、映像のめまぐるしいカットの連続。5秒から10秒で次のカットにどんどん移り変わる。視聴者が想像したりする猶予さえ与えない「作り込み」が浸透している。ドラマのセリフもそうで、物語を舞台のようにセリフで解説してしまう。演技もそうである。悲しいシーンは泣く。そんなことはないはずだ。悲しさを笑顔で絶えることだってある。涙さえ見せないことだってある。それらがどんどんフォーマット化されている傾向は強い。ニール・ポストマンの著書「Amusing ourselves to death」でニールはこれらのことについて多くを語っている。しかも1985年にだ。そんな時代にすでにテレビの「文化」にもたらす影響を考えていたすごい人がいたのだと思うと感心する。
テレビを全く否定するつもりもない。テレビの良さも多くある。まだ発展途上だ。しかしテレビが大きな変化をもたらしたのは事実であり、その変化に知らず知らずに飲み込まれていることはあまりいことではないのかもしれない。
フレーミングについて~ Part2 of 3
映像は常にフレームの中にある。モニターの四角い中にある。当たり前のことのようだが、視聴者はそんなことを考えてみてはいない。
映画の巨匠のひとりとして知られるアルフレッド・ヒッチコック監督はフレーミングとカット(Aの画がBの画に切り替わる意味)の執着した人だったといわれている。彼の有名な話だが:まず視聴者に中年男が無表情から笑顔になるシーンを見せる。そして続けざまに公園で子供と幸せそうに遊ぶ女性を見せる。視聴者はこの男が子供の好きな心の優しいジェントルマンだと感じる。実験はこれからだ。次に、先ほどと全く同じ男性の画を見せる。先ほど同様男は無表情から笑顔になる。男の笑顔の次にくるショットはビキニすがたの若い女性(実は先ほどの母約の女優)。視聴者は男をスケベな中年オヤジと思う。ここでヒッチコックは映像をカットする順番でオーディエンスに与える印象を操作できるということをある程度語っている。しかし僕は思う。カットの順番が大事という以前に何をフレーミングするかでその印象はさらに変わるのだ。その時ヒッチコックが例に出したビキニの女性はフルショット(全身が映った画)だった。しかしもし彼が女性のお尻にカメラをズームインさせたなら視聴者は中年男が女性のお尻の見つめていると思うのである。つまりこの中年男は若い女性のお尻が好き、という印象になる。これが女性のウナジだったりすると多少あからさまなスケベ根性が抑えられる可能性だってあるかもしれない。
続く
(次回27日 日曜日 )
映像のフレーミングについて~ Part1 of 3
映像は常にフレームの中にある。モニターの四角い中にある。当たり前のことのようだが、視聴者はそんなことを考えてみてはいない。たとえば舞台を見に行ったとすれば、数人の役者が同時進行で同じステージの上でそれぞれの演技をしている。カップルが喧嘩をするシーンならば男女がセリフでやりあう。たとえば女が「もう別れましょう。これ以上一緒に居てもうまくいかない」という。その言葉に男が何らかの反応をする。しかしオーディエンスは男の反応に一度は目が行くもののその後の展開が読めずハラハラしながら双方の顔を見る。このときオーディエンスには誰を見るかという選択肢が与えられている。もしかすると男女2人は公園でこのやり取りをしており、公園のベンチには見知らぬおじいちゃんが座ってたばこをふかしているかもしれない。僕ならばこのおじいちゃんに目をやるかもしれない。はたしておじいちゃんはこの二人のやり取りを盗み聞きしているのか?それともたばこを楽しんで誰かを待っているのか?映像となるとそうはいかない。作家が誰をフレーミングするのか決定しなければならない。わかりやすいのは、まず女がセリフを言うわけだからカメラは女一人を映す。そしてショットがカットし男一人のショットに切り替わる。リアクションを見せようという魂胆だ。こうして視聴者は作家の意図するものしか見せてもらえない。
話がそれるが、これだけ独裁的な手法で作られる映像なのだが、映像作家がミュージシャンや俳優、画家のように視聴者にアーティストとして見られることは少ない。通常ならば誰が出演しているのかということのほうに目が行くのである。写真家はそれらアーティストほどでないにせよ比較的アーティストとして認知されている人もおおい。それはもしかすると、映像作家は単独で存在することが難しいからかもしれない。映像を制作するには多くの人間がかかわる。つまりそれなりのお金も動く。責任が伴う。クオリティーという、あってないような目に見えないものを、あたかも見えているように、手探りながら「それなり」のものを作る。気分がのらないから作品がいつもよりとてつもなく悪くなることも比率としては少ない。モデルが悪くてもそれなりに見せる。コンディションによって左右されるクオリティーの劣化度を最小限にする仕組みが集団組織のなかでできている。映像作家とはとても不思議な生き物だと思う、存在の仕方も含めて。
続く
(次回20日 日曜日)
JUNKSTAGEのスタッフさまより映像作家のお仕事について書いてほしいとのことなので留学日記をやめ
映像作家の仕事とは何なのかを書きたいと思います。
しかしあくまでも僕の意見ですから映像クリエーターのすべてをまとめるようなことは
かけませんが、自分なりの思いを書いていこうと思います。いや、むしろ映像作家とは何なのかを僕も書きながら皆さんと
見つけていきたいというのが本当の心境です。そうなることを願っています。
●映像を創ることで生計を立てている人は多い。そしてそれぞれが様々ちがった形やスタイル、スタンスで映像を作っている。テレビディレクターといえば簡単にいえば番組を作っている人。映画監督といえば劇場でかかっている作品を作っている人。とだいたい見当がつく。あとはCMを専門にやってるディレクターもいる。今はCMといってもテレビにかぎったわけではなくインタネートや雑誌の付録DVD、店頭のモニター映像などさまざまだ。とにかく映像が世の中に今まで以上にあふれてきている。日常に浸透、侵入する映像は意識的にも無意識的にも多大な影響を視聴者に与える。気づかぬうちに意見を求められ、持たされ、意見の主張を要求するのが映像といっておいいかもしれない。そしてそんな映像をさまざまな映像ジャンルのディレクターが作っている。
僕自身は自分を映像作家という肩書にいしている。たいしたことでもないのだが映像で飯を食う人間としては意外に影響がある。たとえばテレビディレクターだ、と言ってしまえばテレビの仕事しかしない人、と思われる。フリーランスの僕としては大いに困る。企業向けのビデオプロモーションを作る専門ディレクターと名乗るのもテレビの仕事が来なくなりそうだし、音楽関係のミュージックビデオやドキュメンタリーの仕事もなくなりそうだ。しかし最近は映像の発信媒体が増えたこともあると思うのだが、映像作家という肩書を意外によく耳にする。昔のようにテレビや映画といった発信媒体だけではなくなってきている。
ディレクターと監督の違いもイマイチ僕の中では曖昧だ。どうやら映画をつくるクリエーター(つまり英語ではディレクターなのだが)は監督と呼ばれる。テレビディレクターをテレビ監督とは呼ばない。正式な差別化があるのかもしれないが多くの場合曖昧に使われることが多い。テレビドラマになるとまた監督という。現場で間違えてディレクターと僕が言ったことがあるが(本人に直接いったわけではない)怒られた。海外帰りの僕にとっては不当な扱いに思えたが監督はディレクターの格上であるような扱いを受けることはクリエーターの間では多いようだ。かといって監督と呼ばれる人間がディレクターを上目線で見ているかというとそうでもない。まったく違う職業であるような見方もある。
僕が映像作家という肩書にしたのはそういったいろいろな理由からだ。そのためドキュメンタリーの現場では監督と呼ばれる。ミュージックビデオの場合は監督もあればディレクターもある。テレビの場合はディレクターだ。
さて映像のクリエーター達はとにかく映像を作品として視聴者に見せることで何かを伝えている。大まかにいうとこういう役割で給料をもらっていることになると思う。
速水雄輔
www.actrs.co.jp
www.chibabay.com
あれから僕は映画学校を卒業し大学に進学した。そこでもさらに多くの出会いがあった。留学は今では当たり前のものになってしまっているがひとくくりに言えるほど簡単なものではない。そこでもいろいろな人間が様々な事情を抱えて共存している。同じ留学生でもシドニーと聞くと青空で楽しく、うれしい思い出があふれる人間もいれば、雨に打たれ路上の片隅で途方に暮れた者だっている。孤独と向き合い、異文化と真に向き合い勉学に励んだ者や真の異文化の中で築いた友情をはぐくんだ者も入れば、白人の彼氏や彼女をつくったが、向こうの社会にまったくなじんでいない「見た目が日本人」が取り柄の者も多い。
帰国後、僕は「帰国子女」というレッテルでしばらく苦しい時間をすごさなければならなかった。多くの会社は使い捨てのような人材を求めていたしそれを素直に面接で僕に伝えた。僕のような若くして海外のテレビ局で働いてきた人間を煙たがる風潮も少なからずあった。また外国人に弱い日本人があまりにも東京に多いことにも愕然とした。東京の外国人の多くが日本語をしゃべれない理由は少なからずここにもあるのではないか?精神性というかその意識レベルで。このようなジャンクが頭の中を渦巻くこともある。
僕がシドニー生活で感動した出来事の一つはやはり映画だった。映画学校の卒業制作のために教師のGは生徒全員から台本を集めた。その中で投票で台本を選ぶ。もちろん投票前に「ピッチ」の時間が与えられる。ピッチとはプレゼンのことだ。僕は自分の作品なぜ誰もクラスメイトは理解できないだろうと奴らをバカにしていた。しかし実際ピッチを聞きながら僕の台本に興味を持つ奴らがでてきた。そして卒業制作作品の2本うち一本は僕の台本になったのだ。あの時は感動というよりはあっけにとられた感じだった。しかしあの出来事が自信となった。芸術は国やことばを超えることができると。それから映画にさらにのめりこんでいった。
大学進学後、テレビ局での経験などなにかと刺激の多い生活が続いた。今にして思う、多くの人間とかかわり、時間を共にすることでそれは生きる活力になる。なぜか?人は出会った人間の数だけの人格や感性を自身の中に構築するからだ。出会ったすべての人間は僕になり、僕という人間から世界に発信される。そしてそれはまた多くの人間たちに出会っていくから。彼らは僕の中にいるし、彼らは僕自身なのだ。僕もそして彼らなのだと思う。
シドニーライフ編 終了
JやSと週末にJの父親の家のガレージに集まり作曲したりジャムったものだ。Jはヒッピーのような薄汚れた格好にロングヘアとサンタのようにもじゃもじゃな鬚の男だ。そんな男の父親などいったいどんな男なのかと初めて会うときは不安だった。しかし実際は弁護士で高級なリゾート風の造りのマンションに暮らしていた。部屋の中は奇麗な白いカーペットで上がるのに気がひけた。キッチンには何でもそろっていて廊下には家族の写真が額に入れられ飾られている。しかしそこに集まるのは僕のように金のない汚い格好の人間や、ジャンキー仲間、ヒッピー連中と個性豊かだ。Jの父はそれをいつも楽しんでいたように思う。僕の初めて撮影したS8フィルムはJの誕生日だった。学校からスタジオライトを借りて、音声のレコーディングデヴァイスも持ち込みクラッパーで「かちり」。そのころから思うようになった、映像は時間がたてばたつほどその美しさを放つと。どうしようもないと思っていたものでも十数年後にみるとはっとする。そこにはJとガールフレンドのKが映っている。たしか手にはウォッカをもっていた気がする。2人は誰もがうらやむ最高のカップルだったから。
学校でフィルムの勉強で欠かすことのできなかったものは35mmの写真だ。これも光やレンズの勉強でよく使われた。僕も中古のスチルカメラを購入しいろいろなフィルターを使ったり実験をしたものだ。さらにリバーサルをクロスプロセスしたりして色の変化を楽しんだり、S8フィルムの混ぜて映像でビジュアルエッセイを創ったりした。こういった創作の過程は今の自分をより広く、深くしたと思う。
僕は新しい世界にのめりこんでいった。それと同時に1人の時間には死ぬほど絶望的な孤独も味わった。1人海や森にいくと世界がゆっくりとしかし確実に変わっていく、時間の雄大な川のような流れを感じずにはいられない。自分ができることできないことを考え焦った。僕を絶望させたもう一つに要因がある。それは新しい映像の世界に入るために今までの世界から飛び出すということ。今まで暮らしてきた仲間と別れ、クラスメイトと別れ、価値観が徐々に変化していく自分に気が付いていた。欲張りなのかもしれないがすべてを愛しすべてを受け入れる。そんなことができたなら、と思ったりもした。しかし現実は違った、心でそう思っていても、変わってゆく自分を止められるものは僕を含めだれもいない。数年後偶然街で再会した仲間と話した時、2人の世界が完全にわかれてしまったことに気がついた。そんなことも多々。の変化、時間、これをすべて表現しているのが映画だった。時間の芸術。人はそして物事はかわってゆく。そしてその時の心情や光景は誰ともシェアすることさえもできない。映像を創ることで、たとえその映像がどんなものであっても自分のその時の気持ちが映し出される。
JとガールフレンドのKが映っている。しかし彼らはもういない。あれだけみんなに騒がれたカップル。終わるはずがない時間が切り取られたまま僕の押入れにつっこんである。その映像はときおり僕の青春の数秒をスクリーンに映し出される。
次回更新予定(2009年10月18日:日曜日)
シドニーの映画学校はとても新鮮な経験になった。学生がほとんど現地の人間である事ももちろんだし、ものづくりの姿勢に国籍は関係ない。
クラスの授業はほぼ全てテクニカルなもので、机の上で展開するものが少なかった。全てが実践的だった。
映画を作る体験を通じてクラスの人間との絆が出来ていった。ほとんどの場合が互いの意見の主張、ぶつかり合い。しかしいったん始まってしまうと、いがみ合っている暇がないほど忙しくなってしまう。そして気がつくと仲間になっている。
入学初日に教師のGに「みょうな外国人扱いはぜったに許さないぞ」と脅しめいた事を言ってしまった。今となれば恥ずかしい話だが。しかしそんな変わり者の僕を面白いとおもった人間も少なくはなかったようだ。
僕らクラスメイトは授業が終われば近くのバー・レストランでビリヤードの玉をついて、おしゃべりで過ごした。そこでは様々な映画の話があったと記憶している。シドニー独特の大雨が降ったときなんかはいつもより長くそこに居た。雨を見ながら飲むビールも悪くない。
特にクラスで仲のよかった連中がいる。SとJ。Sは当時すでに30歳を超えていたと思う。Jは僕と年齢は変わらず。3人はいつも音楽の話に明け暮れ、そのうちバンドを始めた。そして僕はS8フィルムに出会う。Sは大好きだったヴィム・ヴェンダースの「Paris Texas」を僕らによく勧めて、僕らはその中に映るナスターシャ・キンスキーに心惹かれたものだ。今思うと青春と映画とは別々の物のようには思えない。映画の中の世界はある種自分の人生の一部になる。その感覚、ペーシング、ムード、奥行き、それら全てが自分自身になる。だから僕がナスターシャとキャラバンで暮らした事がある、といったとしてもそれは間違いではない部分があるのかもしれない。その後僕は何回かキャラバンでの寝泊りを経験しそのつど彼女を思い出すからだ。あの映画に出てくるワンシーンがある。それはトラヴィスが昔のS8フィルムを見せられ、幸せだったころを再確認するシーンだ。金の無かった僕やJやS.しかし作品をフィルムで撮りたい。そんな想いからS8カメラを購入した。当時シドニーではS8カメラが中古屋に多く出ていて学派大体80ドルから200ドルの間だろう。買えない額ではなかった。
このおんぼろフィルムカメラとの出会いで僕の世界は大きく広がった。なぜなら撮影という名目は僕を普段経験できない世界へと平気で放り込んでくれたから。
僕はだんだんと映画の魅力に惹かれ始めていた。
次回更新予定(2009年10月4日:日曜日)
僕の人生の中でJとSとの出会いは何事にも代えがたいものだ。僕の青春の時間の第3部の始まりだ。1部は僕がやりたいことができずにいつも空ばかり見ていた、イライラしていた中学の頃。2部はシドニーでの孤独の日々。そしてそれがようやく彼らとの出会いで変わってゆく。
入学式の日。クラスに初めて案内され席に着く。今でも鮮明に覚えている。教室に入った僕はこれから一緒に勉強していく仲間を見渡した。そして最善列の席、しかも教壇の目の前の真ん中の席にドカリと腰を据えた。鮮やかな紫色の髪の毛をした奇妙な東洋人がオーストラリア人にはどのように映ったのかと思うと今でもおかしくなる。
あの当時まで僕は常に中指を立てて生きていたパンクで生意気な青年だったんだろうと思う。僕はすでに10カ月以上のシドニー生活で、移民や外国人留学生に対するが社会的位置、どのような扱いを受けるのか、などをなんとなく理解し始めていた。その決定的に嫌だった部分は移民や留学生が移民らしく、留学生らしく、ふるまっていることだった。僕は一対一の人間関係がもてないやつはどんな人種だろうが「ろくでなし」だと思っていた。
クラスルームに入ってまず気がついたのが東洋系の生徒が数人いたこと。しかし彼ら全員が一番後ろの列の席に座っていたことだった。こういう偶然とは思えないことが当たり前のようにあることがしばしばだ。「考えすぎ」といえばそれまでの話なのだが、僕は敏感にそういうことに反応した。まして一番授業料を払っているはずの留学生が一番後ろの席で満足しているその姿勢というかこだわりのなさというか、そういったものにも幻滅していた。もしかすると僕の中に人類は平等と思っている反面、東洋人に対する仲間意識を持っていた面があったのかもしれない。
少し遅れて僕らの担任のGが教室に入った。彼は自己紹介を簡単なこれからの流れを説明した。そして名簿をみながら一人一人の名前を呼んでいった。みな顔を覚えてもらうために名前を呼ばれると立ち上がった。僕の番が来た。僕は返事をして立ち上がった。「よろしく」といえばいいものを、僕はGにむかって「外国人扱いをしたらあんたを絶対許さない」といった。一瞬クラスが鎮まる。いまだにこのことを思い出すと恥ずかしくなる。しかしあの当時僕は率直に意見を述べた。新しい世界を目の前にしてのあせりだったに違いない。
あとで知った話だがGは学校でもかなりのクセモノ教師だったらしく、他の学生に敬遠されていた。「あいつはめんどくさいよ」とか「学生に非協力的だぜ」といった具合。しかしあの日の出会い以来僕とGの間にはなにやら不思議な尊敬の意識がめばえた。
僕の暴言のあとクラスを出て帰る時、男によび止められた。「やあ、はじめまして、名前をもう一度教えてくれないか?」。 彼がJだった。
青春は突き進む。日々の変わらぬ時間や風景に苛立ち。何か漠然と求めている。そういう時は様々な出来事に対し敏感で傷つきやすい。そしてわがままだ。さまざまな人間の人生の扉をノックし土足で中に上がる。そしてそれにも満足いかず、また次の人間へとかわっていく。今では付き合う人間や人間のタイプもそう変わらない。とはいえ職業柄一般的な事務の仕事や工場で働く方々に比べればさまざまな出会いがあるのも事実だが。当時ほどではない。
チェコ人、スロバキア人と暮らした日々も瞬間的な永遠だったのかもしれない。そしてそんな事にさえも実は気がついていて、そんな優柔不断な自分にも苛立っていた。連中はとにかく酒を飲む。毎晩のようにパーティーで、だれか知らない連中をアパートに連れ込み飲んだくれている。当時キッチンには小銭入れがありそこにコインを入れて冷蔵庫にあるビールをとる、とるというシステムが定着していた。つまり買う時はケースを2箱は購入していたぐらいの飲みっぷりだった。同居人のBはよくキッチンにシンクで小便をしていたっけ。裏にはで夏の乾いた空気を浴びて騒いだものだ。部屋ではなぜかアメリカのポルノビデオが大音量でかかっていた。そして美しいスロバキアの女たちがその音に合わせて踊っていた。どこからともなく風に乗って漂う大麻の香ばしい香り。海辺で誰かバカをやってるんだな?みんなバカになって笑ってた。あの時間が永遠に止まれば良いのに。そんな心境になる事がいまだにある。
そういえばBも孤独な男だった。言い換えれば考える時間には恵まれていた。「わざわざスロバキアから出てきて俺はいったいここで何をしてるんだ?」そんな不安と憤りが彼の表情には見て取れた。僕は様々な人間の人生を一時シェアしそこから多くを学んだと思う。Bは当時すでに30歳を超えていた。地元の仲間はみんな結婚し仕事も資格を持って真面目にやっている連中ばかり。一人国を飛び出し当てもなく孤独という苦しみに身を投じた。それはなぜなんだ?僕はいまだに分からない。しかし男には少なくともこういう時間が必要でもあるとも思うのだ。単なる一人の時間とか感情的な孤独ではない、山にこもるような断食をするようなそういう自分自身のアイデンティティからの離脱というか、なにかそういった成果のない、ゴールの見えない孤独。孤独をロンリーと履き違える人も多いが、ある人物が言っていた「ロンリーではなくソリテュードだ」と。
Bとはよくビールの飲んでバカをやった。飲みすぎて吐いたり、喧嘩したり。僕らの友情の絆もソリテュードによって固く結ばれていたんだろうと思う。二人で怪しいインドネシア人から女を買った夜は二人笑顔でプレイの詳細を朝まで話したものだ。分かり合えるものって何だ?そんなものいなかった。それが事実ではないか?だって自分自身のことさえも何も分かっていないのだから。
進学前の晩、語学学校のヒッピー先生ビリーと酒を飲んだ。かれとプールの玉をつきながらゆっくりと流れる時間をすごした。人生とは意外の連続。そして滑稽でパロディーだ。当時金のない僕は黒いパンツに黒い靴で格好よく決めていたつもりが靴下を買う金がなくありものの真っ白な靴下を履いていた。それはオージーからみれば格好悪い、の代名詞みたいなものだ。マイケルなら許されるが。それにさえも気がつかず自分の虚栄心だけで生きられるのもまた愉快である。そしてそんな馬鹿げた僕を「CUTE」と思った女がいた。そして酔った彼女にキスを迫られビリーに笑われた。なんて人生はふざけた順番と理屈で構成されてるんだろう?台本や小説とは別の芸術だ。そしてさらに馬鹿げた事にその女のキスほどエロティックなキスをそれ以来経験した事がない。あの女はきっと真珠に違いない。いやそれはまちがいない。「ラッキーナンバーを最初に引いちまった、まぁこんなもんか…」
映画学校へ進んだ僕はそこで新しい世界を体験した。そして簡単にBを捨てて新しいその世界に没頭した。あの時は生きることに必死だった、貪欲だった。だからBや今まで支えてくれた多くの友人を結果として捨てることになった。「またな」なんて言葉をいってもみんな分かってる。本当は「さようなら」なんだ。不思議なものだ、人はたった隣街に移るというだけで今までの人生にけりをつけてしまうことが出来る。
僕は髪を鮮やかな紫に染めて入学式へ出かけていった。ハーバーブリッジを超えノースシドニーへ渡るとき綺麗な海が見える。それは僕に新しい世界への予感を与えていた。
次回更新予定:8月30日(日)










