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2014/04/03

一連のSTAP細胞論文問題に端を発する、科学界への猜疑の眼差し。
4月1日の理化学研究所の会見で、改竄、捏造の不正があったとの認識が示され、
歴史的な大発見は、一転、白紙に戻ることがほぼ確実になった。

自分も、異端であるという自覚はあるものの、
一応、アカデミック界隈の端くれに身を置く者として、
この問題について口を開くべき責任を感じ、筆をとっている。

前編では、論文の評価(査読)において、
現在の、「暗黙の作法」に頼った評価手法が限界を迎えつつあるのではないか、
という問題提起をした。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=559

今回は、研究の可否をどのように問うか、という問題について触れようと思う。


まず、前提として、ある一つの厳然たる「暗黙の了解」が存在する。

それは、他人の研究を、論理的な手段を用いずに否定しない、ということ。
研究者個人の人格や属性、あるいは、それに付随するあらゆる感情論は、
研究自体には何ら影響も及ぼすものではない。

つまり、何の根拠も無いダメ出しをしてはいけない、ということだ。
あいつは駆け出しのペーペーだから、とか、女癖が悪いから、とか、
そういう色眼鏡は、研究の真偽にとっては何の意味も持たない。
もちろん、あくまでも建前としては。

加えて、その「暗黙の了解」は、
さらにもう一つの「暗黙の了解」の上に成り立っている。

それは、研究者は等しく皆、「新たな知の探求」を目指している、ということ。
これは、前回触れた、研究者の最も根源的な姿勢を示している。
裏を返せば、知を求めない研究者は、研究者ではない、ということだ。
つまり、ごまかしたり、嘘をついたりするような研究者が存在するはずがない、
という、ある種、非常に楽観的な見方とも言える。

そのような、二つの「暗黙の了解」に基づいて、
提出された論文の可否を問う、とは、いったいどういうことだろう。

研究の手順に誤りは無いか、論理の飛躍は無いか、
集められたデータは適切な方法で処理されているか。
など、細かく挙げればキリが無いが、一言で言うならば、
「論理的であるかどうか」ということに尽きる。
論理の組み立てに問題が無ければ、論文は「可」とみなすことができる。

この場合、論文が「否」であるという意味は、
論理的ではない、証明が不十分である、ということを指す。
決して、「ニセモノ」だとか、「デタラメ」だと、全否定しているわけではない。
研究者はその結果を受けて、再トライをする権利を有している。

今回のSTAP細胞論文で疑われたのは、こうした「可否」以前の問題だ。
それは、「論文が不正によるものか」という、前提条件を根本から覆す問題。
研究の可否を問う問題ではなく、研究者の善悪を問う問題、とも言える。

カギとなるのは、そこに「悪意」が介在していたかどうか。
研究者が、故意に、あたかも真実であるかのような研究成果を発表した場合、
その研究が専門的な内容であればあるほど、それを見破ることは困難になる。

かつて、ゴッドハンドと呼ばれた考古学者が手を染めた捏造事件を、
記憶している方もいることだろう。
別の地層で発見された土器を、他の場所で発見したかのように見せかけ、
考古学史的な大発見をでっちあげた、あの事件。

万が一、その学問分野で最も優れた第一人者が、何らかの作為を行ったとしたら、
彼以上に優れた者がいない以上、誰もその真偽を確かめられないことになる。
「彼だからこそ、成功した」と言われてしまえば、それ以上追求できない。
それは、科学にとって、絶望的なほどに手の施しようが無い事態だ。

屋台骨であるはずの、
研究者はすべからく、共通の倫理に則って研究をしている、
という「暗黙の了解」が崩れてしまうと、
論文の論理性だけでは、その清濁を判断できなくなってしまう。

だからこそ、改竄、捏造、そして、剽窃は、研究界隈では、最も忌み嫌われる。

(ちなみに、それぞれ、大辞林によれば以下のような定義になる)
「改竄」=文書の字句などを書き直してしまうこと。普通、悪用する場合にいう。
「捏造」=実際にはありもしない事柄を、事実であるかのようにつくり上げること。
「剽窃」=他人の作品学説などを自分のものとして発表すること。


STAP論文には、改竄、捏造があった、との最終報告がまとめられた。
もう一つの問題である、STAP細胞は存在するのか否か、という点については、
時間はかかるだろうが、いずれ何らかの結論が出るだろう。

しかし、ここに至ってもなお、この問題が、
研究者としての資質が足りない者による過失なのか、
そこに何らかの「悪意」が介在したものなのかは、
依然として闇に包まれたままだ。

本人が「悪意」を否定しているだけに、泥沼化の様相も呈している。
何より、故意の不正であったかどうかは、当の本人以外に知りようが無い。
しかし、これだけ公然と、研究者としての資質が足りないことが明るみになった以上、
彼女の研究者としての再起は、極めて難しいと言わざるを得ない。

ただし、一つ間違えてはいけないのは、
彼女一人を「悪」と断定し、尻尾切りをして問題を片付けてはいけない、ということ。
このままでは、また第二第三の同じような問題が出てくるだろう。
いまの科学界には、それほど、自浄作用が期待できないところまで来ていると思う。

そもそも、「悪意」の無い「不正」とはいったいなんだろう。
もっと言えば、「悪意」の無い「不正」が生まれてくる背景とはなんだろう。
「知」の根幹が揺らいでいる、としか言いようが無い事態が、そこにはある。
「悪意」が無くても「不正」に相当するような稚拙な論文ができあがってしまう、
そして、そんな論文が、堂々と世界に冠たる科学誌に掲載されてしまう。

今回のケースは、まさに、
近代科学界そのものが陥っているジレンマが表出した、と言える。
学問の世界に横たわる暗い陰の、その一端を垣間見た、そんな気がしてならない。

2014/04/03 12:00 | 大学院生活 | No Comments

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