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2014/03/20

2010年以来、4年振りに、東京で3月11日という日を迎えた。
震災以降、気仙沼で活動を続けているわけだが、
だからといって、その日を気仙沼で迎えたことも、また無い。

この日。
これまでに過ごした3.11を少しだけ振り返ってみることにした。


2011年3月11日
バングラデシュ

あの日、遠い異国の地で、日本の大災害の報を聞いた。
当時の詳しい状況は、以下の記事を開いてみていただきたい。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=176

海外のニュースが伝える惨状を、ただ呆然と、ホテルの一室で眺めていた。
日本人、と分かると、多くの現地人が慰めの言葉をかけてくれる。
でも、それが、どことなく自分に向けられているものでは無いように響く。

自分は被災していない。
その自分が、慰められる謂れはない。
むしろ、こんなところにいる場合ではない。
そんな気持ちを抱く。

東京の地でも、地震の影響で交通機関がマヒし、
多くの友人・知人が、「その日は帰宅できなかった」と話した。
その混乱すら共有できない自分。

とにかく感じたことは、今にして思えば、
「無力感」と呼ばれるものだったのだろう。


2012年3月11日
仙台

1年目の節目は、仙台の実家に居た。
その前後で気仙沼を訪れていたものの、震災の追悼式典が催される当日は、
手持ち無沙汰で、実家に引き揚げてきていた。

たぶん、現地に居ても、その深い哀しみを共有できない自分は、
また、言い知れない無力感を味わうことになっていただろう。

そういう意味では、1年が経っても、
その心のうちは、遠い異国の地に置き去りにしてきてしまったような、
そんな感覚で溢れていた。


2013年3月11日
マレーシア

奇しくも、再びアジアの地で迎えた、2度目の3.11。
あえて異国の地を目指した。
というつもりはなかったが、いま思えば、その気持ちはゼロでは無かったと思う。

奇しくも、あのときと同じく、長距離バスのなかで、その時間を迎えた。
賑わう車内で、一人、黙祷を捧げる。
もちろん、もう誰も慰めの言葉をかけてきたりしない。

もしかしたら、追悼を強要するような、そんな国内の雰囲気が嫌で、
一人静かにその日を過ごすために、逆に被災地から離れたのかもしれない。


2014年3月11日
東京

東京メトロ東西線に乗車中、アナウンスが入る。
「本日、14時46分。東日本大震災から3年を迎えます。
 東京メトロは、全線で一旦停車し、黙祷を捧げます。
 みなさまのご理解とご協力をお願いいたします…」

3月11日を前に、テレビでは震災関連のドキュメンタリーなどが急増。
ある番組は、3年目の復興の現状を伝え、
ある番組は、震災当時の状況を再検証していた。

それから一週間が過ぎた。
3月11日を境に、再び、震災を伝える報道は急速に減った。
それでいい、と個人的には思っている。

あの日、テレビのキャスターは、「忘れない」と声高に繰り返した。
誤解を恐れずに言えば、このフレーズに、実は凄く違和感がある。
そこには、裏を返せば、「忘れる」者を責める響きが混じっていた。
悲しまない者、黙祷を捧げない者を、非難する響きが混じっていた。

現地を訪れていれば、自ずと感じる。
身近な誰かを亡くした人達にとっては、
「忘れない」のではなく、「忘れられない」のだと。

毎年、この日は、国中が喪に服す、そんな雰囲気が、
しばらくの間は続いていくのだろう。
ただ、本来、喪に服すことと、被災地の復興を願うことは、
全く別の次元の話だ。
兎角、そこを混同した話が多過ぎる。

ときどき思い出したならば、
そのとき何かしたくなったのならば、
街角で募金でもすればいい。
それ以外は、普通に日常生活を送ればいい。

買い物に行けばいい。
誕生日を祝えばいい。
晩酌をするのもいい。
それが、東京で、普通に生きる者の務めだろう。

3年経って、改めてそんなことを思っていた。

2014/03/20 12:00 | 雑記 | No Comments

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