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2011/04/08

大規模災害時の情報ツールの活用について、
語られだしたのは、いつの頃からだろう。

1995年「阪神淡路大震災」のとき。
インターネット元年と呼ばれたのがちょうどこの年ではあるが、
まだ、そういった話は、うすぼんやりと影があるだけだった。

2004年「新潟県中越地震」のとき。
携帯電話やインターネットはある程度普及してきていたが、
まだまだ、マスメディアが支配的な地位を占めていた。

おそらく、世界的に見て、
情報化と災害を結びつけて語るようになったのは、
2010年「ハイチ地震」あたりからではないだろうか。

酷く曖昧な根拠になるのだが、一応目安として、
単純にGoogleの検索件数を拾ってみると、以下のようになった。
(全て、2011年4月7日時点)

「関東大震災」 約 16,400,000 件
「阪神淡路大震災」 約 74,900,000 件
「新潟県中越地震」 約 1,100,000 件

「スマトラ沖地震」 約 408,000 件
「Indian Ocean earthquake」 約 1,020,000 件

「ハイチ地震」 約 1,210,000 件
「Haiti earthquake」約 31,300,000 件

「東日本大震災」 約 60,500,000 件
「東北地方太平洋沖地震」 約 184,000,000 件

「新潟県中越地震」に比べて、「阪神淡路大震災」の件数が多いのは、
その当時に多くの情報が飛び交ったわけではなく、
日本においては、この15年間、災害についてのあらゆる調査や研究が、
「阪神淡路大震災」をベースに構築されているためであろう。
さらに遡れば、1995年以前、その地位は「関東大震災」が担っていた。

この数字から見て取れるように、今回の震災の情報の拡散ぶりは、
発災からわずか1ヵ月足らずにも関わらず、群を抜いている。
発災直後の「東北地方太平洋沖地震」という名称と、
4月1日に命名された「東日本大震災」という名称を合わせると、
実に、2億5千万件もの情報が、ネット上に掲げられていることになる。

ただし、これには、発災直後だからこそ、という側面もあるだろう。
個人の日記から何から、あらゆる場面で、今回の震災に触れるのが、
ある種の約束事のようになってしまっている。
これは、時間が経てばやがて収束し、件数も減っていくものと思われる。

本来ならば、「阪神淡路大震災」等も同じ時間が経過した段階で、
検索件数が拾えていれば比較のしようもあったのだが、
いまとなっては、それも難しい。

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さて、情報、情報、と何の気無しに使ってきたこの単語。
もちろん、その内容はピンからキリまで。

まだ落ち着きを取り戻したとは到底言えない今においてなお、
海の物とも山の物ともつかない情報が溢れては消えていっている。

twitterは、今回、そんな泡のような情報の発生装置のひとつとなった。

例えば、「#prayforjapan」のハッシュタグは、
瞬く間に全世界を駆け巡り、秒速10tweetを超えたとかなんとか。
気が付けば、prayforjapan.jp なるサイトが立ち上がっていた。

あるいは、「#edano_nero」なんてハッシュタグも登場。
震災前には見向きもされなかった枝野官房長官が、
何故か俄然人気になり、不眠不休のヒーローとしてもてはやされた。

被災者の切実な声、安否情報、避難所、給水所、支援物資etc…
急を要する多くの声が、叫ばれ、拡散されていった。

さらには、
節電を呼びかける「ヤシマ作戦」や、
買い占めへ警鐘を鳴らす「ウエシマ作戦」など、
twitter発のさまざまな試みが、同じように、拡散されていった。

ここまでは、それはそれは、美しい話。
日本人は世界一モラルが高い、などと海外メディアからも称賛を浴びた。
そして、その裏側で、歪みが少しずつ広がっていた。

節電は、最初は純粋な善意からスタートした。
計画停電も不発に終わるほど、想定外の善意の輪が広がった。
しかし、やがて節電が当たり前のことになり、
節電をしなければ国賊のような扱いを受けるようになる。
煌々と灯りをつけて営業するパチンコ店は目の敵にされ、
プロ野球セ・リーグは開幕延期に追い込まれた。

いつしか、合言葉は節電から自粛に代わり、
卒業式、花見、結婚式、祭り、花火、あらゆるものが中止になった。
これじゃあまるで、自粛じゃなくて萎縮だと誰かが言った。
何をやるにも、周りの目を気にしなければ動けなくなっていった。

twitterで何か発言をする。
自身のフォロワーはさほど多くなかったとしても、
フォロワーのフォロワーのそのまたフォロワーへ伝わるうちに、
その数はねずみ算式に大きくなる。
うかつなことを言えば、1億総スカンを食う羽目になりかねない。

この、現代版「隣組」の仕掛けは、自由に情報を発信できる傍らで、
密かに思想統制が行われる可能性を孕んだ諸刃の剣にもなる。

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震災後、いろんな支援サイトが立ち上がった。
何万人ものヒトが、それを「いいね」と言った。

これみよがしに、新しいメディアの誕生と祝福する声が上がった。

ただ、自分は、どうしても手放しでこれを受け入れられない。
イイモノだ。
なくてはならないモノだ。
と、どうしても胸を張って言えない。

情報科学を研究している一人として、
人一倍、情報の果たす役割には懐疑的でありたい、とも思う。

ただ、古いタイプの人間だから、かもしれない。

今回の震災で、インターネットが活用された、と口々に言われているが、
「インターネットを通して情報が広まった」ことと、
「インターネットが震災時に有効なツールである」ことは、
似て非なるモノ。

拡散し、やがて集積し、綺麗に整ったところで満足している。
なんてことはないだろうか。
情報は、時間財なので、
綺麗に整った段階では、実はもう役に立たないことも多い。

ところで。
今回、被災者の多くはお年寄りだった。
当然、ITリテラシーの低さは言うまでもない。
彼らにとって、twitterも災害伝言板も、役に立ったとは思えない。
これからも、たぶんそうなるだろう。
技術が進めば進むほど、情報格差は確実に発生する。

ITリテラシーが高かった者がより多く助かったのか。
これが一つ目の問題。

ITリテラシーが高かった者だけが助かればいいのか。
これが二つめの問題。

いずれも、やがて、そう遠くない未来に、
解決すべき大きな問題となって立ちはだかることになるはずだ。

2011/04/08 12:00 | 情報科学 | No Comments

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