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昨年考えたことシリーズ、第3弾(おそらく最後)はミャンマー編。
昨夏、ブータン、インドに続いて足を踏み入れたミャンマー。
急速に開発が進むこの国を、できるだけ昔の趣のあるうちに一目見たいと、
かねてより考えていたのだが、このたび、念願叶って初訪問となった。
まず、タイのバンコクからヤンゴンへ飛ぶ。
しかし、当地に降り立ってからしばらくの間は、
そこが思い描いていたミャンマーであることが認識できなかった。
それぐらい、ヤンゴンは、ほとんどリトルバンコクと言ってもいいほどに、
「あの」東南アジア独特の熱気と喧騒に満ちた街だった。
もちろん、昔のヤンゴンを知っているわけではないが、
もうここも開発が進んで、「あの」空気に呑まれてしまったのか、と、
勝手に残念な気持ちになったりもした。
その気持ちは、翌日、観光地巡りをはじめて、より深まることになる。
ミャンマーといえば、タイ同様、敬虔な仏教国であり、
観光地といえば、そのほとんどが寺院やそれに類するものだ。
そして、寺院を訪れて、驚くのは、そのあまりの煌びやかさ、であった。
悪く言えば、カネの匂いがしすぎるのだ。
これでもかというほど電飾を施された仏像。
寺院の中にこれ見よがしに置かれたATM。
ドル札が汚いという理由で入場料を上乗せしようとするがめつい門番。
金箔を貼ったり、電飾でギラギラにして、仏像を美しく輝かせることが、
信者の徳を積むことにつながっているらしく、
敬虔な仏教徒であるミャンマー人は、信心の深い者ほど、
より多くのお布施を支払う。
もちろん、その信心を否定するつもりはさらさらないのだが、
「『信じる』の横に『者』を付け足すと『儲け』になる」
とはよく言ったもので…
(写真:金ピカの仏塔がそびえるシュエダゴォン・パヤー@ヤンゴン)
いや、あるいは、日本だって、坊主がカネに汚い、という話はよくある。
むしろ、堂々とカネを無心してくる分、マシだと言えるのかもしれないが…
そんなミャンマーでは、やはり東南アジアあたりに蔓延している、
「擦れた」観光商売が幅をきかせつつある。
観光客と見るや、料金をふっかけてくるタクシー。
これ見よがしに芸を披露して小金をせしめようとする輩。
「幸運の仏像を拝め」とか何とか勝手に案内しようとするガイド。
などなど、次から次にやってきて、なかなか不快指数が高い。
しかしながら、直接面識のある方はご存知かと思うが、
筆者は、どうも、国籍年齢不詳な顔立ちをしているようで、
この点では、少々得をさせてもらったりもした。
簡単に言うと、現地人に間違われることが多々あった。
観光客扱いされないので、上記のような輩は大概スルー。
本当は地元の人しか入れないお寺に普通に入ってしまっていて、
後からその事実に気付く、なんていう事態も起きた。
ロンジー(男女ともに履く巻きスカートのようなもの)が、
なかなか快適そうだったので、1着仕入れようかと思ったのだが、
いよいよ現地人化待ったなし、となりそうで躊躇したりもした。
そういう意味では、擦れてしまった面と、擦れていない面と、
その両面を見ることができて、大変有意義な旅だった、とも言える。
そんなミャンマーではあったが、
一方で、まだまだ素朴な雰囲気も残る場所であったことは間違いない。
国内線の航空券チケットは手書きで、
機内では「好きなところに座ってもいい」とかいう適当さを味わう。
案内もなにもない洞窟寺院を拝観していたら、
いつの間にか観光客が全く居ない山中に迷い込む。
水上集落で思いがけず、地元民だけのお祭りに参加する。
煙草づくり工房見学していたら、タダでお土産をもらう。
(絶対カネを請求されると思ったら、本当にタダだった)
etc…
もちろん、たった10日間程度の滞在で、
ミャンマーを分かった気にはとてもなれないが、
この国の今昔と、そして裏表とを垣間見ながら、
いま、この時期のミャンマーを見ることができて良かった、
と素直に思った。
また、10年後くらいに、その変貌ぶりを見てみたい国の一つだ。
昨年考えたことシリーズ、今回はインド編。
昨年は、2010年以来となるインド訪問を果たした。
といっても、ブータンへ陸路で出入国するための足がかりとして、
丸2日ほどの滞在でしかなかったのだが。
それでも、久しぶりにインドの雑踏と喧騒にまみれているうちに、
以前も気になった幾つかの疑問が、改めて沸々とわき上がってきた。
まず真っ先に浮かんだのは、「なぜ牛や犬は路上で寝るのか?」という問い。
インドに限らず、アジアの国々で車を走らせていると、
交通量の多い道路のど真ん中に悠然と牛や犬が寝そべっている光景に出くわす。
道路の脇には、広大な土地があるにも関わらず、である。
もちろん、牧草地で優雅に草を食んでいる牛もたくさんいるが、
一定数の牛は、なぜか必ず道路へと出てくる。
彼らにとっても、車を運転するヒトにとっても、お互いに危険極まりない。
どう考えても、Lose-Loseの関係だ。
それなのに、いったい何が、
彼らをあのような「寝そべり行為」へと駆り立てるのか?
インド、ということで、牛が神聖視されているため、
どこに居ても、彼らの安全が脅かされることはない、という意見もあるだろう。
だが、それはあくまでもインドの牛に限っての話。
他の国の例や、ましてや犬については全く説明になっていない。
動物行動学に詳しい人で、誰か説明してくれる人はいないだろうか。
もう一つの疑問は、交通事情について。
特に踏切などの場面で顕著に見られるのが、狭い道幅に対して、
「扇状にあらゆる方向から我先に車が突っ込もうとしている」光景だ。
そこには、「道に沿って順番に並ぼう」などという意識は皆無である。
これに関しては、なぜ彼らがそういった暴挙に及ぶのか、
といった部分には、実はそれほど興味は無い。
たぶん、国民性とか、そういう言葉で説明されてしまいそうだからだ。
むしろ気になっているのは、交通工学の観点から、
真面目に順番に並んだ場合と、誰もが思い思いに突入した場合とで、
都市交通シミュレーション上、どちらがより効率が良いのか、
という疑問である。
これ、分解すると、2つの疑問を含んでいる。
より効率的に「全体が通過できる」方はどちらか、という問題と、
より効率的に「ある個人が通過できる」方はどちらか、という問題。
前者の疑問は、おそらく、順番に並んだ方が早いだろう、と思う。
というか、そうでなければ、あまりにも衝撃的すぎる事実だ。
世界中の交通事情がエラいことになる。
問題は後者だ。
おそらく、多くのインド人は「いかに自分が早く通過するか」を考えており、
渋滞全体の解消なんてのは知ったこっちゃない。
このとき、自身のいる位置が後ろであればあるほど、
大人しく待つより突っ込んだ方が、通過スピードの期待値は高まりそうだ。
結果、後ろにいるやつほど、前へ前へと迫り出してきて、あの事態を招く。
ここまでの推論が仮に正しいとするならば、どこかに閾値があるはずだ。
そう、どこかのラインより後ろの人たちは、
無闇に突っ込むよりも、きちんと列を作った方が、
通過時間が短くて済むはずなのだ。
ただし。
そこで真面目に、じゃあ自分は待とう、というのは愚策でしかない。
そんなことをしても、どんどん後ろから追い抜かれるからだ。
全員が右に倣えで列を作らない限りは、この論理には意味がない。
そもそも、いったいインドの教習所では何を教えているのだろうか?
インドの教本にどんな規則が書かれていて、
どこまでが守るべきで、どこからが「暗黙知」に頼る部分なのか、
そういうことは、どこまで教えているのだろうか?
これは道路事情に依るところも大きいのだが、
インド人ドライバーは、数センチの隙間もすり抜けるような、
抜群のドライビングテクニックの持ち主ばかりだ。
というより、そうでなければあの国でハンドルを握る資格が無い。
少なくとも、技術面に関しては、かなり凄腕の教官が多そうだが…
以上。
特に学問的な考察も裏付けも何も無い、ただの雑文なので、
何を馬鹿なことを真面目に考えてんだ、とご笑読いただきたいのだが、
もし、上述の内容に触れた論文等を見かけたことがあるという方は、
どうぞご紹介いただきたい。
相変わらず遅筆で申し訳ない限りです。
早、年度末、ということもあり、今年度の負債はきっちり精算せねば、
とばかりに筆をとっています。
そう、半年以上前のセブ島留学記を、なんとか完成させねば、と。
今更感もありますが…
というわけで。
最後はバカンス編で締めようかと。
セブ島留学を決めた目的の第一は、もちろん、語学の習得であったわけだが、
半分、バカンスを満喫しよう、というつもりで行った感も否めないわけで。
働いてもいないヤツが、バカンスとはけしからん、と怒られそうだが…
なにはともあれ、学校の選択の際に、
可能な限り自由を満喫できる学校を選択することに。
というのも、セブ島の語学学校は、意外と、と言っては失礼かもしれないが、
割と校則が厳しめの学校が多い。
例えば、寮の室内での飲食(もちろんアルコール含む)禁止であったり、
門限が設定されていたり、クラブやカジノへの出入りが禁止されていたり。
たしかに、セブ島は誘惑も多い島なので、こうでもしないと、
語学学校としての質が維持できない、ということなのだろうが、
こちとらいい歳したおっさんなので、今更校則とか言われても、ちと辛い。
そんな中、語学学校の中で「自由な校風」を売りにしている学校を発見。
門限無し、寮内で飲酒可、全ては自己責任、という願ってもない環境。
ほぼ、選択の余地は無かった、と言ってもいい。
ただ、若い学生連中(自分も一応学生だが…)は、
門限が無いのをいいことに、遊び狂っている輩も散見され、
ここらへんは良し悪しが分かれる部分だろう。
自分のカネで来ているなら、いくら遊ぼうと自由だが、
親のカネで来ているなら、もう少し厳しい校風の学校に入るべき、
と、至極真っ当なことを言ってみる。
—–
セブ島といえば、島巡りも大きな魅力。
セブ自体が島なのだが、周りに大小さまざまな島があり、それぞれ特色が違う。
セブを訪れる前は、あまり興味を持っていなかったのだが、
たまたま、語学学校で仲良くなった方が、そのあたりに詳しかったこともあり、
彼の案内で、週末を利用してボホール島やカモテス諸島といった島を訪れた。
このあたりの話は、文章で書くよりも、写真を見てもらったほうがよほど伝わるだろう。
©Hitoshi Fujiwara / ボホール島にて(左:チョコレートヒルズと呼ばれる丘、中央:島名物のターシャという猿、右:FOODの写真が怖い)
©Hitoshi Fujiwara / カモテス諸島にて(左:島の足はバイク、中央:ローカルビーチ、右:リゾートホテルにて夕陽を望む)
また、セブはダイビングをする人間にとっても魅力的な場所だと思う。
かくいう自分は、実は学部生時代になぜかダイビングのライセンスを取ったものの、
その後さっぱり潜る機会がなく…
あまりにもったいないことをしたので、ここで取り返さんとばかりに、
このJunkStageで連載中のセブ島在住ダイバー・二瓶立行さんに連絡を取り、
語学学校の友人とともに、ダイビングツアーに参加させてもらった。
©Hitoshi Fujiwara / ダイビングツアー(左:出港(ちなみに写真中央の方が二瓶さん)、中央:ダイビングポイントに向かう船上にて、右:パンダノン島の砂州)
—–
最後に、フィリピン留学の費用対効果、のようなものを少し書き記しておきたい。
航空券、授業料、そして現地での滞在費(娯楽費)まで含めても、
1ヶ月で30万円程度という安さが魅力なのは間違いない。
何よりも、公共交通や食事、マッサージ等の価格が、日本に比べてとても安いので、
長く居れば居るほど得した気持ちになる。
そして、肝心の語学学校の質と授業料のバランスだが、こればかりは、
残念ながら欧米の語学学校留学や、日本での駅前留学経験が無いもので、
他と比べようがないわけだが、少なくとも自分としては満足できるレベルだった。
そんなわけで、長々と書き綴ってきたセブ島留学記も、ここらで幕引き。
もし、このコラムを読んでセブ島留学に興味を持った方がいれば、
お気軽に問合せいただければ、多少のアドバイスはできると思う。
語学学校編つづき。
授業内容や教師の質についても、触れておこう。
多くの人がフィリピン留学に懸念を覚える要素の一つが、
英語の発音ではないかと思う。
たしかに、語学学校の教師といえども、フィリピン訛りはかなり強い。
ネイティブ教師の授業は、1日2時間程度しか組まれないため、
必然的に、アジアンイングリッシュのシャワーを浴びることになる。
個人的には、この発音の問題はむしろプラスになると思っていた。
というのは、今後、アジア人と英語で会話をする機会が増えることはもはや必然。
ならば、アジアンイングリッシュが聞き取れたほうが良い、と考えていたからだ。
日本のビジネスマンにとって、これから英語が必要になるとは言っても、
そのターゲットはアジア圏、というケースが多いのではないだろうか。
アジア市場においては、非ネイティブの人たち相手に、
お互いの国訛りの英語でコミュニケーションしなければならない。
であれば、ネイティブの発音にこだわる意味は、実はあまりないのでは?
というのが、ごく私的な見解である。
発音の面でジャパニーズイングリッシュの域を脱するためには、
相当の努力が必要だろう。
それよりも、きちんとした構文で喋れること、を優先させた方が、
当面の実用性は高いのではないか、とも思う。
…異論はあるだろうが。
—–
フィリピン留学をする前から強く思っていたのは、
ある程度語学力の基礎ができている状態(あるいは、外国人と喋ることにそれほど
抵抗がない状態)であれば、お互いカタコトの英語でその場しのぎをする英会話は、
かえって英語力を落とす、ということ。
非英語圏の旅先で現地人と喋る場合、きちんと構文をつくってしまうと逆に通じず、
単語だけ羅列した方がコミュニケーションが取りやすい、というケースがよくある。
これに慣れてしまうと、最低限の旅行会話程度はいいけれど、
フォーマルな場面での滑らかな英会話が全くできなくなってしまう。
自分自身、一番鍛え直したいと考えていたのが、このポイントである。
セブ留学の唯一の目的だった、と言ってもいい。
留学当初は、実は、この部分で、少なからず不満を抱えていた。
というのも、良い意味でも悪い意味でも、こちらのちょっとしたミスを、
そのまま流してしまう教師が多かった、ためだ。
もちろん、その意図はわからなくはない。
あまり細かい動詞の活用などに拘るよりは、兎に角、通じる英語を喋ること、
のほうが、通常は役に立つ。
何より、そういった細かい文法学習に嫌気がさして、
英語が苦手になった日本人も多いだろう。
が、正にそこが鍛えたいところだった自分としては、
ある程度こなれてきたところで、教師側に、
「単語のスペリングや構文、時制など、誤りがあったら指摘してほしい」
という注文を出してみることにした。
結果的には、これが奏功し、ほぼ4週間みっちりと、
文法的に正しい英語を喋る訓練を受けることができた。
裏を返せば、それぐらいはできるレベルの教師陣が揃っているとも言える。
ただし、教師の質にはかなりバラつきがあるようなので、
たまたま運が良かった、面も否めないが。
また、例えば、語学学校の他の生徒達と無理矢理でも英会話をしてみる、
ということを推奨される場合がある。
自分としては、これに大いに違和感を覚える。
基礎固め、というか、外国人と会話することの抵抗感を減らす、
という段階では、そこそこ効果的なのかもしれないが、
それ以上を求める場合には、逆に足かせになることもある、とさえ思う。
英語を喋れない人達が留学に来ているので、
当然、生徒間の会話はカタコト英会話に近い状態になる。
前述の通り、このカタコト英会話は、兎に角、通じることが第一なので、
TPOに応じた英語を鍛えることはあまり期待できない。
—–
とまあ、あくまでも自分の留学目的に沿ってつらつらと書き綴ってきたが、
当然、英語を学びたい目的は人それぞれで、留学に求めるものもそれぞれ違う。
自分とは全く逆で、文法は通じさえすれば良いので、正しい発音で喋りたい、
という人もいるだろう。
セブ(フィリピン)留学は、あらゆる目的に対応できる留学先、ではないが、
相応の下調べをしていけば、それに見合う成果は得られる場所だとは思う。
問題はむしろ帰国後に、実際にその英語を利用する機会があるかどうか…
基礎学力向上というよりは、一時的な英語脳の活性化(ほぼドーピング)、
という状態なので、その点はご注意いただいたほうが良いかもしれない。
初回を書いたまま放置してしまっていた、セブ島留学記。
もうかれこれ半年近くも前の話になってしまったが、
書きっぱなしも寝覚めが悪いので、ちゃんと最後まで書き切ろう。
という、やや昨年を引きずった形で、今年の初回をば。
もはや前回記事は忘却の彼方だと思うので、
念のため、リンクを再掲しておく。
73.セブ島留学記(1)
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=395
—–
さて、改めて、語学学校編。
そんなこんなで、はじまった学生生活。
「朝8時から授業とか、小学生か」と愚痴をこぼしながらも、教室へ。
1日の流れとしては、下記の通り。
08:00 – 09:00 1 on 1 授業(フィリピン人)
10:00 – 11:50 1 on 4 授業(フィリピン人)
12:40 – 14:30 1 on 8 授業(ネイティブ)
16:40 – 18:30 1 on 1 授業(フィリピン人)
この時間割の順序は人によって異なるが、
概ね、8時から18時半の間に、計6〜7時間の授業が組まれる。
上記のように、授業ごとに1〜2時間の休憩が取れるパターンもあれば、
朝から授業がびっしり入って、午後は3時には終わってしまう人もいる。
前者は、あまり詰め込まれたくない人向きで、
後者は、とにかく早く終わって遊びに行きたい人向き、
ではあるのだが、この時間割、基本的にはあまり選択の余地は無い。
多少の融通は利くが、あくまでも、先生の空き状況によって決まるので、
特に生徒数が多く混雑する夏休みの時期等は、希望が叶わない場合もある。
セブ留学の大きなメリットとしてしきりに謳われているのが、1 on 1 授業の多さだ。
ネイティブではなく、フィリピン人教師が相手になるのだが、
それでも、日本で毎日3時間 1 on 1 を受けようとしたら、
それはもう、どエラい金額になってしまう。
ちなみに、コースによっては、全て 1 on 1 授業にすることもできる。
また、ほとんどの語学学校が寮を併設しており、
必然的に、他生徒(外国人生徒・日本人生徒)との共同生活になる。
自分が留学した8月はというと、日本の夏休み期間だったこともあり、
生徒の過半数が日本人だったが、学校や時期によって、その割合はまちまち。
なお、セブの語学学校は韓国資本の学校が多い。
これは、韓国が国を挙げて英語力のある人材育成に取り組んでおり、
安くて近い英語圏としてセブ(フィリピン)に白羽の矢が立ったため、
なのだが、そのため、どの学校にも韓国人がやたら多い。
聞いた話では、日本人2人と残り全て韓国人、なんてケースもあるとか。
ちなみに、自分の通っていた学校は、アメリカ資本。
自由な校風が売りの学校で、通常、どの学校にもある門限は無し。
寮内での飲酒も可能、というか、寮の中庭の売店でビールが買える。
という天国のような環境。
当然、決め手はそこだったのは言うまでもない。
フィリピンビールの Sun Miguel は、昔からアジア諸国でお世話になってきたが、
本場では、1杯たったの30ペソ(約60円)で飲めるとあって、
ほぼ毎日、一人で(たまに誰かと)晩酌するのが日課になってしまった。
おかげで、滞在後半になると、校内で “Mr. Sun Miguel” という、
有難いのか有難くないのかわからない愛称で呼ばれるようになったのは内緒だ。
©Hitoshi Fujiwara / 溜まりに溜まった Sun MIguel の空き瓶
—–
寮生活については、個人的には、ほとんど不安は無かった。
中学から高校までかれこれ6年間も寮・下宿生活を経験したので、
プライバシーが無い、ということに対するストレスもほぼゼロ。
ただ、こればかりは、経験したことが無ければ、
その微妙なニュアンスを説明することは極めて難しい。
どうしても不安がある人は、多少割高にはなるが、
1人部屋を選べば、ある程度のプライベート空間は確保できる。
設備についても、元々アジア旅行に慣れていたので、全く不満が無いレベル。
高級ホテル並みの設備はもちろん期待できないが、
格安のバックパッカー宿よりは、はるかに格上だ。
温水シャワーもちゃんと出る。
が、これは2階までの部屋に限ったことのようで、
3階以上になるとお湯の出が悪くなるとの報告も。
(水を汲み上げる仕組みの問題と思われる)
食事も概ね問題無い内容で、味も平均点以上
ただ、ときどき外れが…
こればっかりは、体験してもらわなければわかるまいが。
無理して日本人向けの味付けをしようとして失敗する、
ということが往々にして起こるようだ。
南国なので、マンゴーなどのトロピカルフルーツを、
カットしてそのまま出してくれるのが、実際、一番美味かったりする。
なお、韓国資本の学校では、連日キムチ責めに遭うそうなので、
辛いものが苦手な場合は、学校の選択は慎重にすることをオススメする。
もちろん、寮の食事が口に合わなかったり、長期滞在で飽きがきたり、
という場合には、外食も可能。
物価は非常に安いので、日本の1/3程度の価格で十分満足行く食事ができる。
外食は、日本人同士で行くのもいいが、外国人と連れ立って行けば、
異文化コミュニケーションの場にもなる。
もっとも、相手も英語を勉強しに来ているレベルなので、
さほど語学力向上の効果は期待できないが。
そのほか、部屋の掃除は毎日入るし、ベッドメイキングもされる。
アメニティの類は一切無いが、バスタオルは支給(週2回交換)される。
洗濯は、週に3回出すことができ、2営業日後に受け取ることができる。
どの程度のレベルを期待して行くかにもよるが、
よほどの温室育ちでなければ、おそらく生活には支障が無い。
特に、一人暮らしをしている人にとっては、至れり尽くせりで快適だろう。
最近では、日本人向けのハイクオリティな生活環境を提供してくれる、
そんな語学学校も登場していると聞く。
ああ、ただし、南国故に、虫は多いので、苦手な方はご注意を…
ご無沙汰しております。
随分とコラムを放置してしまい、編集部からもお叱りを受け、
さあ、そろそろ、と思い立ったはいいものの、
さて、大学院生というものは、なんとネタが少ないことか。
という言い訳はさておき、今週から何度かに分けて、
大学院生活「セブ島留学編」をお届けしたいと思う。
まず初回は、留学決定〜出国〜留学生活スタートまでを描いていこう。
—–
思い返せば、セブ島が格安英語留学のメッカになりつつある、
という情報を得たのは、今年2月頃のこと。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=363
博士課程入試で、嫌という程、自分の英語力の無さを痛感したため、
さすがにこれはテコ入れをせねば、という意識はあったものの、
さて、御歳三十にもなって、欧米へ語学留学、というのは、
なかなかどうしてハードルが高い。
大学で交換留学の制度でも利用できれば良いのだが、
博士課程ともなってしまうと、単純に語学力向上を目的にした留学、
というコースは皆無で、「流体力学についてバリバリ英語で講義するよ!」
みたいな、激しく専門性が要求される形式しか有り得ない。
もちろん、前提条件として、TOEICだかTOEFLだかの点数も、
激しく高い点数が要求される。
や、そもそもその点が取れねえから留学すんだよ…と言いたいところだが、
そういうことは学部時代に済ませておくべきもの、らしい。
げに日本社会は道を外した者に優しくない。
閑話休題、そんな自分にとって、セブ島留学は、まさに渡りに船。
自分の懐をさほど痛めず格安で留学ができ、
社会人も多いということで、三十路でも浮かずに済み、
そして、何より、1対1授業なので、ちゃんと英語力が身に付く!
(意外と三番目が重要だ。英語が身に付かない留学も五万とある)
善は急げと、セブ島の語学学校の調査をはじめ、
いくつかの留学エージェントからの情報を元に検討を重ね、
ついに、留学を決めたのが、今年の5月のこと。
留学期間は、もろもろ勘案して、8月いっぱいの4週間となった。
—–
出国は、7月29日(日)。
前日の酒も抜け切らぬ中、早朝5時起きで成田へ向かう。
成田からフィリピンの首都マニラを経由して、一路セブへ。
フィリピンは雨期ということもあり、マニラはあいにくの雨。
というか、スコール。完全に豪雨。
仕方なく雨に濡れながら国内線ターミナルに移動し、乗り継ぎ便を待つ。
すると、何故か、搭乗口前で自分の名前がコールされる。
「なんかやらかしたかなあ」と怯えながらカウンターへ行くと、
なにやら、「オーバーブッキングしてしまったので、お前の席を
アップグレードしてやるぜこんちくしょう」と言っている。
かくして、マニラ→セブ間が、ビジネスクラスになり、
超絶快適な1時間半を過ごすことができた。
幸先が良すぎる。
セブに着くと、語学学校の迎えのスタッフと合流。
車に乗ること約10分で、学校に到着した。
その間、目にしたのは、実にアジアらしい、喧噪とそして小汚さ。
「セブをリゾートだと思って行くと酷い目に遭う」
と聞いてはいたが、なるほど、これはハネムーンで来たカップルには、
大層堪える光景だろう、などと旅慣れた余裕を吹いてみる。
さて、語学学校のフロントで早速チェックインをしたわけだが、
ここでもまた、アジアらしい洗礼を受けることになる。
そう、フィリピン人もご多分に漏れず、「適当」なのだ。
フロントでは、どう考えても使い回しの用紙に必要事項を書かされ、
「明日8時にこのへんに来てね」とだけ言われて放置される。
飯食う場所くらい教えてくれよ、と思いつつも、
いよいよ、アジアに来た実感が涌いてくる不思議。
自分の足でぶらついて、何となく、どこに何があるかを把握する。
ひとまず、食堂の場所だけわかっておけば、飢えることはなさそうだ。
翌朝。
オリエンテーション。
比較的日本人の少ない学校を選んだ…はずだったのだが、
オリエンに出席してるのは、どう見ても全員日本人だ。
しかも、親子連れや学生らしき子などなど、全て…女性。
これは予期していなかった展開。
そんな動揺を尻目に、スタッフがユルい流れでオリエンを進めていく。
レベルチェックテスト、健康診断、写真撮影を終えて校内ツアーへ。
この学校、寮と教室が一体化した建物で、授業中であっても、
その時間帯に授業が無い学生があちこちうろうろしている。
うろうろしているだけではなく、お子様達が元気に駆け回ったりもしている。
いろいろ予想外ではあったが、これはこれで楽しむほかない。
午後、オリエンを受けたメンバーで買い物へ。
とはいえ、食事は三食付いているし、
洗面用具は、以前ホテルから調達したアメニティを持参したし、
さほど喫緊で必要なものもない。
が、女性陣はそうでもないらしく、
我先にとショッピングセンターの中へ消えて行った。
寮へ戻ってきて、夕食を摂る。
和歌山から来たという母娘と同席することに。
小学校6年生で夏休みを利用して連れてきてるのだという。
いやはや、小学生でセブ島に留学するとは、凄い時代になったもんだ。
そんなこんなで、留学生活は騒がしくスタートした。
(続く)
長い長い春休みが終わった。
大震災後の計画停電等の影響を受け、授業開始が延期されていたのだが、
GW明けに、ようやく再開される運びとなった。
で、大学再開で慌てふためく。
そういえば、3月、あの地震が起きた、まさにあのとき、
自分は、バングラデシュに居た。
(そのあたりの経緯は、過去の本コラム参照)
で、バングラデシュで何をしていたのかというと、
日本の一大事を傍目に、呑気に観光を…していたのも事実だが、
一応、大義名分としては、JICAが推進する、
「ICTを活用したBOP層農民所得向上プロジェクト」
なるモノを見学しに行く、ということだった。
で、その見学した結果をまとめ…
なければならないのを、すっかりしっかり放置していたわけだ。
もうかれこれ2ヵ月余りが過ぎてしまったが、
なんとか思い出しながらレポートしてみることにしよう。
………………………………………………………………………
バングラデシュの首都、ダッカ。
本来あるべきサイズの何倍もの人口を呑み込んだこの街では、
至るところでクラクションと怒号が響き、
異様な喧噪と熱気に満ち満ちていた。
そんなダッカの中では珍しく閑静な住宅街の一室に、
目指す、プロジェクトのオフィスがあった。
まずは、JICAのコーディネーター(日本人)から説明を聞く。
話によると、まだプロジェクトが立ち上がって半年と日が浅く、
現時点では準備がようやくメドが立ってきた、という段階らしい。
というわけで、プロジェクトサイト(実際の農地)には足を運ばず、
「ひとつ、プロジェクトの会議に出てみませんか?」
という提案を受けた。
有難い申し出と、即、快諾してしまったのだが、結果として、
何故か、6人のバングラデシュ人と卓を囲んで会議をすることに…
もちろん、話されている言葉は、現地の言葉(ベンガル語)。
かろうじて資料だけは英語で配られたので、
パワーポイントと資料とを食い入るように見つめること1時間半。
自分も相当、狐につままれたような心境だったが、
同席のバングラ人たちは、おそらく、より一層、
「あのジャパニーズはなんだったんだ?」状態に陥ったことだろう。
何はともあれ、
その後、改めてプロジェクトマネージャー(バングラ人)から、
プロジェクトのあらましについてじっくり話を聞くことができた。
それによると、要するに、
「農業専門のソーシャルネットワークを構築し、
農民は、各農村に置かれたテレセンター(通信端末)、
または、個人の携帯電話等からアクセスすることができるようにする。
農民の他に、研究者、卸業者も参加し、
農民からの質問に答えたり、実際に作物の取引をすることもできる」
というものを作ろうとしているようだ。
もちろん、まだプロジェクトは軌道にすら乗っていない状況。
現時点では、何らかの評価を下せる状態では無い。
素人考えでは、農民、特に貧困層の人々の間では、
コンピュータリテラシーがまだまだ低く、
こうしたシステムを果たして使いこなせるのか、大いに不安も感じた。
とはいえ、バングラデシュの人々は、案外簡単にICTを習得し、
そんな心配は杞憂に終わるかもしれない。
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さて、ここで日本の農業にも少し触れておこう。
日本の農業(水産業も含む)は、
今回の大震災で、計り知れないダメージを負った。
6月に結論を出すと言われていたTPPについても、
どうやら先送りとなりそうな情勢だ。
既に各所で議論が噴出しているが、
特に、東北地方の農業は、これを機に、
一気に大規模化に舵を切ろうかとか、若返りを図ろうとか、
そんな抜本的な案も飛び出してきているようだ。
個人的には、大規模化にはだいぶ抵抗があるが、
若返りは、必要不可欠であろうと思う。
例えば、
これまで、農業に従事してきたお年寄りの元に、
農業に就きたい若者を就労させる、
いわゆる、徒弟制度のようなモノを制度化してもいいかもしれない。
あくまでもフラッシュアイデアでしかないが、
もしかしたら、バングラデシュで立ち上がろうとしているシステムは、
これからの日本で、これから農業に従事する若者を主体とした、
有用な農村コミュニティを構築できるかもしれない。
全ては机上の空論でしかないが、
ふと、そんなことを考えてみた。
最初の一報は、バスの中で聞いた。
そのバスは、バングラデシュ南西の街クルナから、首都ダッカへ向かう、
およそ9時間の行程の、だいたい中間地点に差し掛かっていた。
友人からのメール着信を示すランプが灯る。
「緊急」と書かれたタイトルと、
「震源地は三陸沖、宮城県北部で震度7」の文字。
すぐさま、仙台の実家の番号をダイヤルする。
が、繋がらず。
その後も、数回に渡り電話をかけるが、コール音は鳴らない。
メールを入れてはみたが、やはり返事は無い。
ただ、このときはまだ、
これほどまでに甚大な被害が出ていようとは、想像だにしていなかった。
オンボロのバスは、対向車との正面衝突の危機を何度も迎えながら、
そんなことは日常茶飯事と言わんばかりに、
のどかな田園風景に囲まれた一本道を、猪突猛進していた。
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ダッカでは、ある程度まともな宿を確保することにした。
状況を確認するために、テレビくらいは見れた方がいいだろう、
そう思ったからだ。
はじめに映ったのは、CNNが地震を伝える様子。
「世界で五本の指に入る巨大地震が日本を襲った」
そう繰り返し報じていた。
かろうじてネットが繋がり、NHKも受信できるようになり、
さらに情報を集める。
わかってきたのは、とにかく地震後の津波の被害が大きいこと。
被災地域は非常に広範囲に渡り、ライフラインも壊滅状態であること。
仙台の実家は、海からは多少離れた地域にあるものの、
それでも、隣の地区で数百人の遺体が発見されたという報には、
やはり一瞬、息を呑んだ。
このときはまだ、仙台から、無事の報は届いていなかった。
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翌朝。
昨夜は結局、夕食のことも忘れてテレビに見入っていたので、
ホテルの朝食を摂りにロビーへ下りる。
すぐさま、バングラデシュ人の従業員が、声をかけてくる。
「おい、ジャパニーズ、昨日の地震は知ってるか?」
朝食の間も、他の滞在客、給仕たちが、次々と言葉を投げかけてくる。
「ごめんなさい、お悔やみを申し上げることしかできなくて」
「大丈夫。俺たちも去年、酷い洪水があったが、こうして立ち直った」
温かい言葉のシャワーを浴びながら、
ああ、この旅はこれで切り上げよう、と密かに思った。
元々、この日はマレーシアのクアラルンプールへ発つ予定の日だった。
そのままマレーシアに1週間ほど滞在し、その後帰国、
というのが当初のスケジュール。
2月末日に研究旅行に出てから、2週間が経とうとしていた。
残り1週間、このまま、旅を続けることもできただろう。
ただ、直観的に、それは難しいだろうな、と感じていた。
まだ、家族の無事が確認できていなかったことも勿論だが、
この、大きな “Pray for Japan” のうねりの中で、
一人の Japanese として、
安穏と旅を続けることへの、強い抵抗感が芽生えはじめていた。
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クアラルンプールから成田への便はすぐに手配することができた。
ダッカからクアラルンプールに飛び、一泊して、翌朝成田へ飛ぶことに。
成田便の欠航や遅延が頻発していることや、
首都圏の交通網も相当マヒしていることは伝え聞いていたが、
一昼夜空ければ多少回復しているだろうという希望的観測と、
それでもなお、足を止めるよりはマシだろう、という思いが背中を押した。
遠いバングラデシュの地から、
たしかにそのとき、生まれて以来、一番強く、
日本へ、そして3年間過ごした第二の故郷への思いが溢れていた。
その後、
実家からの無事の連絡は、成田便に搭乗する直前に入った。
今月末から、昨夏につづき、ブータンを再訪する。
このコラムでは脱線することが常ではあるが、
いちおう、「ブータンの情報化」が研究テーマであることを、
読者のみなさまにも、今一度、思い出していただこう。
さて、前回は、初めてのブータン行だったこともあり、
調査2割、観光8割、くらいのユルい旅だったのだが、
今回は、どうやらそういうわけにもいかない。
なにぶん、修士論文提出まであと1年と迫り、
本格的なフィールドワークを行わなければならない時期に来ている。
が、ブータン研究には、いかんせん、カネがかかって仕方無い。
公定料金として、1泊200ドルを納めることが義務づけられ、
滞在期間も最長15日間と、フィールドワーカーにはちと辛い。
いや、単純計算で、15×200=3,000ドル(≒250,000円)の時点で、
既に鼻血が出そうだ。
15日間フルで滞在するのも、正直しんどい。
大学院生も、博士課程ともなれば、研究費のひとつも出るものだが、
修士課程の身としては、全ての調査が自腹というのが手厳しい。
もちろん、修士でも研究費が取れないこともないのだが、
ちょっとニッチ過ぎる分野なので、審査を通る気がしない。
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そんなブータンの話が、この1月から産経新聞で連載されていたので、
せっかくなので、ここで紹介しておこう。
記事の論旨はこうだ。
ブータンは、とても便利になった。
と同時に、もしかしたら、かけがえのない何かを失いつつある。
溢れるゴミ、就職難、ホームレス、物乞い。
たしかに、周囲の、いわゆる途上国が体験してきた多くの逆風を、
ブータンもまた、その身に受けている。
もちろん、一朝一夕には変わらない。
しかし、確実に、着実に、変わっていく景色。
そして人々。
無意識な「幸せ」から、意識した「幸せ」へ。
変わった後も、「幸せ」でいるために、いま何をするべきか。
そんなお話。
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(1)「昔」が離れていく
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110123/asi11012312000028-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(2)山肌を駆け上るビル群
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110130/asi11013012010001-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(3)揺らぐ「幸せ者率97%」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110206/asi11020612010000-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(4)止まらぬ「外国化」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110213/asi11021312010000-n1.htm
【変わりゆくブータン~桃源郷の今】(5完)当たり前すぎる「幸福の方程式」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110220/asi11022012000001-n1.htm
幾分、先入観が入り込みすぎているきらいはあるが、
丁寧に取材された良質なブータン紹介文になっていると思う。
ただ、しかし。
流されず、踊らされず、自分の目で、見定めてきたい。
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ちなみに。
今回の研究旅行では、もう一ヶ所、
腰を据えて訪れてみようと思っている場所がある。
それは、バングラデシュ。
インドの東。
かつて、東パキスタンと呼ばれたイスラム国家。
あれよあれよという間に、人口は日本を抜き去り、
首都ダッカは、世界一人口密度の高い首都、とも言われる。
そんなバングラデシュは、実は、
NGOや、最近流行りの社会的起業家の巣窟でもある。
世界最大のNGO「BRAC (Bangladesh Rural Advancement Committee)」や、
ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ヤヌス率いる「グラミン銀行」など、
世界の貧困を救うための智恵と資金が集積している。
ただし、智恵やカネは、
貧困を救うための必要条件であって、十分条件ではない。
そのあたり。
いま、バングラデシュで何が起きているのかを見に行くのが、
今回の旅のもうひとつの目的。
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思うに、好奇心には善悪が無い。
ただ、知りたいと思ったら、躊躇わずに、前へ。
旅をしていて、いつも頭の片隅をよぎること。
それは、「貧困」という問題についてである。
道は舗装されておらず、絶えず埃が舞い上がる。
そんな道を、子供たちは裸足で駆け回る。
勿論、学校にも行けず、立派な労働力として店番に立つ。
そして、次々と現れる、客引き、物乞い、etc…
そんな光景を見ると、
件の問題が、むくむくと頭をもたげてくる。
同時に、何もできないやるせなさもこみあげてくる。
だが、はたと思いとどまる。
「貧困」という文字のいびつさについて。
貧しいということは、即ち、困っているということなのか。
貧しくとも充実した生活、というものはありえないのか。
そんなことを考える。
彼らの目に宿る、生への渇望を思う。
我々の目には、それが凄く尊いことのように思える。
そんなことを考える。
例えば、ブータンを訪れたときのこと。
農家の暮らしは、牛と犬と田畑に囲まれた、自給自足生活。
質素だが、それでいて、屈託なく笑う姿が印象に残った。
彼らは、少なくとも、貧しさに苦しんでいるようには見えなかった。
もしかしたら、日本でそれなりの生活を送る自分が、
そんなことを考えること、それ自体が、
ある種の蔑視を孕んでいるのかもしれない。
あるいは、彼らの姿に、郷愁にも似た思いを重ね、
日本人が失った何かを探し求めているのかもしれない。
そうして、いつまでも答えの出ない問いが、
旅をしている間中、ずっと頭の片隅から離れなくなるのだ。
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彼らは、貧しいから困っているわけではない。
政治的圧力によって、貧しさを強要されて困っているのだ。
という論調もある。
曽野綾子さんという、世界の貧困を救うために尽力されている方の、
著書の中に、こんな一節がある。
今や誰が、アフリカその他のかつての植民地の困難な経営を引き受けたいものだろう、と私などは思う。その結果「強国」が撤収した後、土地の人々の手に委ねられた自由は、或る意味では惨憺たる、時には残忍な結果さえもたらした。そしてその原因はいまだにかつてこの土地を支配したヨーロッパの強国にあると言われている。独立して早くも数十年が経つ国も多いと言うのに。
ものごとはすべてオール・オア・ナッシングではない。完璧な政策も人もない。その不完全性をまともに承認できないあらゆる人たちの眼が、共に貧困なのである。
(出典:曽野綾子『貧困の光景』、新潮文庫、P201)
昔ながらの牧歌的な生活を進んで営む人たちは、
経済的には「貧しい」が、彼らを「貧困」とは呼べない。
「貧困」は、その背後に被いかぶさる、
ナニモノかによって「貧しさ」に押し止められている状態、
のことを指すのではないか。
それは、あるいは、
人種差別による隔離の結果かもしれないし、
階級制度による職業の制限かもしれないし、
森林伐採による農地の減少かもしれないし、
地球温暖化による干ばつかもしれない。
そう単純な問題ではないのは百も承知の上だが、
貧困とは、一方で富や権力が生まれる陰に必ず現れる。
そういう構造が世界のいたるところにあるのは事実であろう。
寄付によって、そうした貧困を救おうというのが、
日向者ができる、ツケの支払い方なのかもしれない。
だが、それは一時的な救済にしかなりえないし、
何より、途中でピンハネされてしまい、
本当に貧困な人にそのお金が届く可能性は限りなく低いともいう。
が、だからといって、じゃあ寄付をするのは止めよう、
というと、何もしないで口ばかりの偽善者ということにもなる。
どこかの大富豪が何の気なしに寄付する1億ドルのほうが、
凡百の議論よりも遥かに有益であることは疑う余地が無い。
本当に貧困を救いたいのならば、
学者になるよりも、立派なビジネスマンとして大成して、
稼いだ金を余すことなく、貧困撲滅のために使えばいいのだ。
極論を言うならば。
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たぶん、自分自身、本当の意味で「貧しい」ということを、
本質的に理解できていないし、この先も理解できないだろう。
貧しい者たちは、その日暮らしに懸命であろうとすればするほど、
自らが貧しい立場に追いやられていることに気付かず、
富める者たちは、貧しいとは何かを頭では理解できるが、
本当の意味での貧しさを知り得ない、というパラドックス。
ただ、一度足を踏み入れてしまったからには、
目を逸らすことができない現実も一方では存在している。
世界の人口はまもなく70億人に達しようとしている。
そして、世界の食料資源は、およそ50億人を養うことができるという。
目に見えた人口過多が、搾取する側とされる側を生む。
それが、世界のいまの構造なのだ。
それを理解することが、まずは出発点になる。
自分は、貧困を救うために何かしよう、
なんて、真っ直ぐな人間ではないことは百も承知の上であるが、
旅に出ると、少しだけ、そういう気持ちが頭をもたげてくる時がある。
そして、そういう自分も、きっと、
そんなに悪くない自分だと、最近はそんなふうに思うのだ。