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2013/05/07

今回、気仙沼を訪れた大きな目的は、新年度の挨拶回りだ。
昨年度、当研究室で行ってきた、復興まちづくりのための支援活動。
それを、今年も継続させてもらいたい、という行脚の旅。

まずは、現状把握のためのヒアリングを行う。
それを受けて、企画を持ち込み、先方へぶつけてみる。
向こう側の思惑を感じ取りながら、企画を微修正していく。
根本的なズレが生じていれば、改めて打合せの時間を持ちましょう、
ということになる。
時には、時間外の飲みニュケーションも必要になる。

なんのことはない。
サラリーマンをやっていたときに、やっていた「仕事」と、
何ら変わらない、日常的な業務が、そこにはある。
研究や支援と名を変えたからといって、それが変わるわけではない。

—–

違いがあるとすれば、それは、
「お金の流れ」と「責任の所在」の2点に集約されると思う。

オフィシャルとプライベートの線引きをする上で、
一番明確なラインは、対象からお金をもらっているか否か、だろう。
当然、金銭が発生していれば、プロとして仕事をしなければならない。
お金=責任、という構図がはっきりしている。

しかし、今回の活動は、気仙沼市からお金をもらっているわけではないし、
もちろん、支援をしている地元の人達からお金を受け取ることも有り得ない。

専門家(教授)であれば、話は少しわかりやすい。
研究計画を立て、それが承認されれば、研究費という形でお金が下りる。
今回のようなケースでは、専門家派遣、という枠組みで、活動資金を得ることもできる。

一方、大学院生という立場は、極めて曖昧だ。
自身の研究室が、研究資金を潤沢に持っていれば、その範囲内で活動することもある。
しかし、多くの場合、院生のフィールドワークは手弁当で行われるのが現実だ。

好きでやっているのだから…、とか、社会貢献がうんぬん…、とか、
思いだけで突き進んでいけるのは、最初のうちだけ。

ごく個人的な研究ならまだしも、支援活動という形を取っている以上、
手元に残るお金はなくてもいいから、せめて交通費と宿泊費だけでも…
と思うのは、長く活動を続ける上では、ごく当たり前の発想だと思う。
そうでなければ、いつまでも、オフィシャルとプライベートの境界線が、
はっきりしないままに、ずるずると流されていくことになる。
このような状態では、良い活動はできないし、双方にとってよろしくない。

さて、そんなぐるぐる回る思考を、自分自身の立場に当てはめてみると、
どうやら、いまここに至っても、活動資金の出所は安定しているとは言い難い。
オフィシャルな「仕事」として請け負って当地を訪れたのは、
おそらく片手の指で数えられるほどだろう。

つまり、「仕事」ではないから、「趣味」だと言っているのか、
というと、話はそれほど単純でもない。
その言い方だと、「責任」も放棄することになる。

自らを突き動かすもの。
それは、「仕事」であれば、「責任」だろう。
しかし、このケースにおいても、責任が生じないわけじゃない。
請け負ったことは、たとえお金が発生していないとしても、
「責任」を持って、きっちりこなす。
そうでない人を、地域が受け入れてくれるはずが無い。

でも、「責任」だけでは、説明できない、モチベーションの源泉が別に無ければ、
自分の行動原理を上手く説明できそうにない。

—–

そんな悶々とした自分をあざわらうかのように、
4月末の気仙沼では、東京から1ヶ月遅れの桜が見頃を迎えていた。

今回の訪問の顛末をまとめると、ざっと以下のようになる。

気仙沼に密着して活動を続けるNPOの職員と、打合せの後で、
打合せ時間の軽く3倍近い時間、飲んで歩いたりする羽目になる。

気仙沼で絶大な購読者数を誇る地域紙、三陸新報社の編集者と会えば、
「一緒に昼食をとる」という約束だったはずが、たっぷり3時間も定食屋に居座って、
店のおっちゃんに、笑いながら「帰れ」と言われたりする。

気仙沼出身の友人の紹介で会った、地元高校の元教員(というか友人の父親)と会えば、
毎回、「お土産を持って帰れ」と言われて、荷物が増える。

気仙沼で有名なコーヒーショップで、大学関係者と打合せをしていれば、
ふらっと、地元の有力企業の社長が現れて、声をかけてくれたりする。

仮設住宅で行われるお花見会に飛び入りで参加させてもらっていたら、
親しい自治会長さんからビールを勧められ、「車なんで…」と断ると、
今度はノンアルコールビールを持ってきてくれたりする。

などなど…

こんなふうに関わることができている地域と、
一緒に、同じ方向を向いて、未来を考えることができる愉しさ。
それを味わうために、自腹を切って、現地に通う。

これが、「趣味」でなくて、いったいなんだろう。

行動原理は何か、と問われたら、たぶん自分は、「知的好奇心」と答えるだろう。
そしてきっと、「知的好奇心」にもとづく活動を、人は「趣味」と呼ぶのだろう。

—–

最近でこそ、「気仙沼へは趣味で来ています」なんて、軽口を叩けるようになってきた。

たぶん、ここには、自分が「職を捨てて」やりたかったことが詰まっている。
そんな予感を覚えながら、また1年、気仙沼にお世話になろうと改めて思う。

2013/04/30

宮城県気仙沼市。
人口約7万人。宮城県の東北部、岩手県に隣接する港町。

この地域を訪れるようになって、2年近くが経とうとしている。
初めての訪問は、2011年6月だったと記憶している。

あの震災がなければ、もしかしたら、一生訪れることのない場所だったかもしれない。
今回の訪問は、そんな思いを抱えながら、街を歩くことからスタートした。

—–

さて。
いま、の話をする前に、まず、なぜ気仙沼をたびたび訪れることになったのか、
その話からせねばなるまい。
おそらく、JunkStageでは、これまでそのことについて、口を閉ざしてきた。

あえて話題にしなかったのか、それとも、たまたまなのか。
たぶん、前者だと思うが、その理由は、自分の中でもはっきりとしていない。
自分のやっている活動を上手く説明できないもどかしさであったり、
現場の、いままさに直面している課題であるがゆえに、公にできないことであったり、
そういう理由で、そういう理由をつけて、避けてきたのだと思う。

いずれにせよ、いくつかの偶然が重なって、あの日、気仙沼の地を踏むことになった。
それだけは確かなことだ。

震災からわずか3ヶ月後の気仙沼へ、実家のある仙台から、バスで3時間。
降り立った場所は、海から少し離れた気仙沼駅。
かすかに潮の香りがするものの、見渡す限り、山に囲まれた街の風景が広がっていた。

第一印象は、海の街、というよりも、山の街。
地震による多少の被害はあっただろうが、多くの家屋はその原型をしっかり留めていた。
しかし、そこに流れる、人気のない、静かな重苦しい空気。

ゆっくりと、海に向かって歩みを進める。
駅前通りから、市役所前通りを抜けて、商店街の角を曲がった瞬間、

景色が一変する。

津波の爪痕、と一言で片付けるには、あまりにも、痛々しい街の姿が、そこにはあった。

崩れかけた家々。
冠水した道路。
捻じ曲がった電柱。
打上げられた漁船。
鼻を突く腐臭。

既に、仙台市内で、津波の被害に遭った場所を見ていたから良かったものの、
もし、初めてあれを見ていたなら、そのまま、踵を返してしまっていたかもしれない。
正視できない現実が、いまでも時折、脳裏に甦ってくる。

外から来た、しかも3ヶ月も後に訪れた自分ですらそうなのだから、
あの日、あの場所で、そのときを迎えた人々の、目に焼き付いた光景は、
胸を掻きむしるほどの痛みとして、深く刻まれているのだろう。
そして、それは、2年経ったいまでも、決して共有できない大きな溝になっている。

—–

そもそも、気仙沼に関心を持ったきっかけは、
自分の所属する研究室の担当教授の一言だった。

「今回の被災地で、どこかひとつ、(支援活動を)やるとしたら、気仙沼だろう」

教授自身、それは直感に近いものだった、と思う。
多くの場所がダメージを受けている中で、
とはいえ、こちらの持つリソースは限られている中で、
どこに手をつけるべきか、選択肢はたぶん、無数にあった。

自分たちができることと、かの地が求めていることとが、
上手くマッチしなければ、支援活動というものは本来成り立たない。
その意味で、その後、2年間に渡って活動を続けられていること、
それ自体が、気仙沼を選んだことが間違いではなかったことの、一つの証明だとは思う。

しかしながら、それらが本当に繋がっているかどうかは、実のところよくわからない。
彼らの痛みが共有できないように、彼らの望みもまた、本当の意味では共有できない。
どこまで行っても、自分たちのやっていることは、自己満足の域を出るものではない。

昨年1年間、活動を続ける中で出会った多くの支援者たち、
とりわけ、学生のボランティアたちは、口を揃えて、
「ボランティアとはなにか」を、あるときから猛烈に思い悩みはじめていた。

それはきっと、上述の問いに対して、上手な回答が出せずにいたからだろう。
真剣に現地と向き合っていればいるほど、自分の行為が彼らの為になっているのか、
気になってしまう気持ちがわからなくもない。

ただ、誤解を恐れずに言えば、
個人的には、気仙沼での活動は、「趣味」でやっているのだと思う。
そして、今回の訪問では、その認識を改めて深めることになった。

(続く)

2013/03/31

相変わらず遅筆で申し訳ない限りです。
早、年度末、ということもあり、今年度の負債はきっちり精算せねば、
とばかりに筆をとっています。
そう、半年以上前のセブ島留学記を、なんとか完成させねば、と。
今更感もありますが…

というわけで。
最後はバカンス編で締めようかと。

セブ島留学を決めた目的の第一は、もちろん、語学の習得であったわけだが、
半分、バカンスを満喫しよう、というつもりで行った感も否めないわけで。
働いてもいないヤツが、バカンスとはけしからん、と怒られそうだが…

なにはともあれ、学校の選択の際に、
可能な限り自由を満喫できる学校を選択することに。

というのも、セブ島の語学学校は、意外と、と言っては失礼かもしれないが、
割と校則が厳しめの学校が多い。
例えば、寮の室内での飲食(もちろんアルコール含む)禁止であったり、
門限が設定されていたり、クラブやカジノへの出入りが禁止されていたり。
たしかに、セブ島は誘惑も多い島なので、こうでもしないと、
語学学校としての質が維持できない、ということなのだろうが、
こちとらいい歳したおっさんなので、今更校則とか言われても、ちと辛い。

そんな中、語学学校の中で「自由な校風」を売りにしている学校を発見。
門限無し、寮内で飲酒可、全ては自己責任、という願ってもない環境。
ほぼ、選択の余地は無かった、と言ってもいい。

ただ、若い学生連中(自分も一応学生だが…)は、
門限が無いのをいいことに、遊び狂っている輩も散見され、
ここらへんは良し悪しが分かれる部分だろう。
自分のカネで来ているなら、いくら遊ぼうと自由だが、
親のカネで来ているなら、もう少し厳しい校風の学校に入るべき、
と、至極真っ当なことを言ってみる。

—–

セブ島といえば、島巡りも大きな魅力。
セブ自体が島なのだが、周りに大小さまざまな島があり、それぞれ特色が違う。
セブを訪れる前は、あまり興味を持っていなかったのだが、
たまたま、語学学校で仲良くなった方が、そのあたりに詳しかったこともあり、
彼の案内で、週末を利用してボホール島やカモテス諸島といった島を訪れた。
このあたりの話は、文章で書くよりも、写真を見てもらったほうがよほど伝わるだろう。


©Hitoshi Fujiwara / ボホール島にて(左:チョコレートヒルズと呼ばれる丘、中央:島名物のターシャという猿、右:FOODの写真が怖い)


©Hitoshi Fujiwara / カモテス諸島にて(左:島の足はバイク、中央:ローカルビーチ、右:リゾートホテルにて夕陽を望む)

また、セブはダイビングをする人間にとっても魅力的な場所だと思う。
かくいう自分は、実は学部生時代になぜかダイビングのライセンスを取ったものの、
その後さっぱり潜る機会がなく…

あまりにもったいないことをしたので、ここで取り返さんとばかりに、
このJunkStageで連載中のセブ島在住ダイバー・二瓶立行さんに連絡を取り、
語学学校の友人とともに、ダイビングツアーに参加させてもらった。


©Hitoshi Fujiwara / ダイビングツアー(左:出港(ちなみに写真中央の方が二瓶さん)、中央:ダイビングポイントに向かう船上にて、右:パンダノン島の砂州)

—–

最後に、フィリピン留学の費用対効果、のようなものを少し書き記しておきたい。

航空券、授業料、そして現地での滞在費(娯楽費)まで含めても、
1ヶ月で30万円程度という安さが魅力なのは間違いない。
何よりも、公共交通や食事、マッサージ等の価格が、日本に比べてとても安いので、
長く居れば居るほど得した気持ちになる。

そして、肝心の語学学校の質と授業料のバランスだが、こればかりは、
残念ながら欧米の語学学校留学や、日本での駅前留学経験が無いもので、
他と比べようがないわけだが、少なくとも自分としては満足できるレベルだった。

そんなわけで、長々と書き綴ってきたセブ島留学記も、ここらで幕引き。
もし、このコラムを読んでセブ島留学に興味を持った方がいれば、
お気軽に問合せいただければ、多少のアドバイスはできると思う。

2013/01/16

語学学校編つづき。

授業内容や教師の質についても、触れておこう。

多くの人がフィリピン留学に懸念を覚える要素の一つが、
英語の発音ではないかと思う。
たしかに、語学学校の教師といえども、フィリピン訛りはかなり強い。
ネイティブ教師の授業は、1日2時間程度しか組まれないため、
必然的に、アジアンイングリッシュのシャワーを浴びることになる。

個人的には、この発音の問題はむしろプラスになると思っていた。
というのは、今後、アジア人と英語で会話をする機会が増えることはもはや必然。
ならば、アジアンイングリッシュが聞き取れたほうが良い、と考えていたからだ。

日本のビジネスマンにとって、これから英語が必要になるとは言っても、
そのターゲットはアジア圏、というケースが多いのではないだろうか。
アジア市場においては、非ネイティブの人たち相手に、
お互いの国訛りの英語でコミュニケーションしなければならない。

であれば、ネイティブの発音にこだわる意味は、実はあまりないのでは?
というのが、ごく私的な見解である。

発音の面でジャパニーズイングリッシュの域を脱するためには、
相当の努力が必要だろう。
それよりも、きちんとした構文で喋れること、を優先させた方が、
当面の実用性は高いのではないか、とも思う。

…異論はあるだろうが。

—–

フィリピン留学をする前から強く思っていたのは、
ある程度語学力の基礎ができている状態(あるいは、外国人と喋ることにそれほど
抵抗がない状態)であれば、お互いカタコトの英語でその場しのぎをする英会話は、
かえって英語力を落とす、ということ。

非英語圏の旅先で現地人と喋る場合、きちんと構文をつくってしまうと逆に通じず、
単語だけ羅列した方がコミュニケーションが取りやすい、というケースがよくある。
これに慣れてしまうと、最低限の旅行会話程度はいいけれど、
フォーマルな場面での滑らかな英会話が全くできなくなってしまう。
自分自身、一番鍛え直したいと考えていたのが、このポイントである。
セブ留学の唯一の目的だった、と言ってもいい。

留学当初は、実は、この部分で、少なからず不満を抱えていた。
というのも、良い意味でも悪い意味でも、こちらのちょっとしたミスを、
そのまま流してしまう教師が多かった、ためだ。

もちろん、その意図はわからなくはない。
あまり細かい動詞の活用などに拘るよりは、兎に角、通じる英語を喋ること、
のほうが、通常は役に立つ。
何より、そういった細かい文法学習に嫌気がさして、
英語が苦手になった日本人も多いだろう。

が、正にそこが鍛えたいところだった自分としては、
ある程度こなれてきたところで、教師側に、
「単語のスペリングや構文、時制など、誤りがあったら指摘してほしい」
という注文を出してみることにした。
結果的には、これが奏功し、ほぼ4週間みっちりと、
文法的に正しい英語を喋る訓練を受けることができた。

裏を返せば、それぐらいはできるレベルの教師陣が揃っているとも言える。
ただし、教師の質にはかなりバラつきがあるようなので、
たまたま運が良かった、面も否めないが。

また、例えば、語学学校の他の生徒達と無理矢理でも英会話をしてみる、
ということを推奨される場合がある。
自分としては、これに大いに違和感を覚える。

基礎固め、というか、外国人と会話することの抵抗感を減らす、
という段階では、そこそこ効果的なのかもしれないが、
それ以上を求める場合には、逆に足かせになることもある、とさえ思う。

英語を喋れない人達が留学に来ているので、
当然、生徒間の会話はカタコト英会話に近い状態になる。
前述の通り、このカタコト英会話は、兎に角、通じることが第一なので、
TPOに応じた英語を鍛えることはあまり期待できない。

—–

とまあ、あくまでも自分の留学目的に沿ってつらつらと書き綴ってきたが、
当然、英語を学びたい目的は人それぞれで、留学に求めるものもそれぞれ違う。
自分とは全く逆で、文法は通じさえすれば良いので、正しい発音で喋りたい、
という人もいるだろう。

セブ(フィリピン)留学は、あらゆる目的に対応できる留学先、ではないが、
相応の下調べをしていけば、それに見合う成果は得られる場所だとは思う。

問題はむしろ帰国後に、実際にその英語を利用する機会があるかどうか…
基礎学力向上というよりは、一時的な英語脳の活性化(ほぼドーピング)、
という状態なので、その点はご注意いただいたほうが良いかもしれない。

2013/01/11

初回を書いたまま放置してしまっていた、セブ島留学記。
もうかれこれ半年近くも前の話になってしまったが、
書きっぱなしも寝覚めが悪いので、ちゃんと最後まで書き切ろう。
という、やや昨年を引きずった形で、今年の初回をば。

もはや前回記事は忘却の彼方だと思うので、
念のため、リンクを再掲しておく。

73.セブ島留学記(1)
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=395

—–

さて、改めて、語学学校編。

そんなこんなで、はじまった学生生活。
「朝8時から授業とか、小学生か」と愚痴をこぼしながらも、教室へ。

1日の流れとしては、下記の通り。
08:00 – 09:00 1 on 1 授業(フィリピン人)
10:00 – 11:50 1 on 4 授業(フィリピン人)
12:40 – 14:30 1 on 8 授業(ネイティブ)
16:40 – 18:30 1 on 1 授業(フィリピン人)

この時間割の順序は人によって異なるが、
概ね、8時から18時半の間に、計6〜7時間の授業が組まれる。
上記のように、授業ごとに1〜2時間の休憩が取れるパターンもあれば、
朝から授業がびっしり入って、午後は3時には終わってしまう人もいる。

前者は、あまり詰め込まれたくない人向きで、
後者は、とにかく早く終わって遊びに行きたい人向き、
ではあるのだが、この時間割、基本的にはあまり選択の余地は無い。
多少の融通は利くが、あくまでも、先生の空き状況によって決まるので、
特に生徒数が多く混雑する夏休みの時期等は、希望が叶わない場合もある。

セブ留学の大きなメリットとしてしきりに謳われているのが、1 on 1 授業の多さだ。
ネイティブではなく、フィリピン人教師が相手になるのだが、
それでも、日本で毎日3時間 1 on 1 を受けようとしたら、
それはもう、どエラい金額になってしまう。
ちなみに、コースによっては、全て 1 on 1 授業にすることもできる。

また、ほとんどの語学学校が寮を併設しており、
必然的に、他生徒(外国人生徒・日本人生徒)との共同生活になる。
自分が留学した8月はというと、日本の夏休み期間だったこともあり、
生徒の過半数が日本人だったが、学校や時期によって、その割合はまちまち。

なお、セブの語学学校は韓国資本の学校が多い。
これは、韓国が国を挙げて英語力のある人材育成に取り組んでおり、
安くて近い英語圏としてセブ(フィリピン)に白羽の矢が立ったため、
なのだが、そのため、どの学校にも韓国人がやたら多い。
聞いた話では、日本人2人と残り全て韓国人、なんてケースもあるとか。

ちなみに、自分の通っていた学校は、アメリカ資本。
自由な校風が売りの学校で、通常、どの学校にもある門限は無し。
寮内での飲酒も可能、というか、寮の中庭の売店でビールが買える。
という天国のような環境。
当然、決め手はそこだったのは言うまでもない。

フィリピンビールの Sun Miguel は、昔からアジア諸国でお世話になってきたが、
本場では、1杯たったの30ペソ(約60円)で飲めるとあって、
ほぼ毎日、一人で(たまに誰かと)晩酌するのが日課になってしまった。
おかげで、滞在後半になると、校内で “Mr. Sun Miguel” という、
有難いのか有難くないのかわからない愛称で呼ばれるようになったのは内緒だ。


©Hitoshi Fujiwara / 溜まりに溜まった Sun MIguel の空き瓶

—–

寮生活については、個人的には、ほとんど不安は無かった。
中学から高校までかれこれ6年間も寮・下宿生活を経験したので、
プライバシーが無い、ということに対するストレスもほぼゼロ。

ただ、こればかりは、経験したことが無ければ、
その微妙なニュアンスを説明することは極めて難しい。
どうしても不安がある人は、多少割高にはなるが、
1人部屋を選べば、ある程度のプライベート空間は確保できる。

設備についても、元々アジア旅行に慣れていたので、全く不満が無いレベル。
高級ホテル並みの設備はもちろん期待できないが、
格安のバックパッカー宿よりは、はるかに格上だ。
温水シャワーもちゃんと出る。
が、これは2階までの部屋に限ったことのようで、
3階以上になるとお湯の出が悪くなるとの報告も。
(水を汲み上げる仕組みの問題と思われる)

食事も概ね問題無い内容で、味も平均点以上
ただ、ときどき外れが…
こればっかりは、体験してもらわなければわかるまいが。
無理して日本人向けの味付けをしようとして失敗する、
ということが往々にして起こるようだ。
南国なので、マンゴーなどのトロピカルフルーツを、
カットしてそのまま出してくれるのが、実際、一番美味かったりする。

なお、韓国資本の学校では、連日キムチ責めに遭うそうなので、
辛いものが苦手な場合は、学校の選択は慎重にすることをオススメする。

もちろん、寮の食事が口に合わなかったり、長期滞在で飽きがきたり、
という場合には、外食も可能。
物価は非常に安いので、日本の1/3程度の価格で十分満足行く食事ができる。

外食は、日本人同士で行くのもいいが、外国人と連れ立って行けば、
異文化コミュニケーションの場にもなる。
もっとも、相手も英語を勉強しに来ているレベルなので、
さほど語学力向上の効果は期待できないが。

そのほか、部屋の掃除は毎日入るし、ベッドメイキングもされる。
アメニティの類は一切無いが、バスタオルは支給(週2回交換)される。
洗濯は、週に3回出すことができ、2営業日後に受け取ることができる。

どの程度のレベルを期待して行くかにもよるが、
よほどの温室育ちでなければ、おそらく生活には支障が無い。
特に、一人暮らしをしている人にとっては、至れり尽くせりで快適だろう。
最近では、日本人向けのハイクオリティな生活環境を提供してくれる、
そんな語学学校も登場していると聞く。

ああ、ただし、南国故に、虫は多いので、苦手な方はご注意を…


©Hitoshi Fujiwara / 語学学校の部屋および中庭の様子

2012/12/31

この4月に、大学院博士課程に進学して、早9ヶ月。
そして、会社員を辞め、大学へ戻ってから、もうすぐ3年。

いつも、3年というのが、一つの節目になってきたように思う。
悪く言えば、3年で飽きる。
その繰り返し。

博士課程まで進学したことで、「教授を目指すの?」と、
聞かれることが多くなった。
その度に、実は、ほんの少し、答えに詰まる。

結論から言えば、
教授に「なる」可能性はあると思うが、「目指す」ことは多分無い。
それは、似て非なるもの。

なのだが、自分の中のどこかに、
「三十路にもなって、まだ目指すものも無いのか」
という、引け目のようなものがあるのも確か。
それに、「目指し」てもいないヤツが「なれ」るほど、
大学教授という職は甘いものではないのも確か。

しかし、それでも、
アカデミックな世界で生きていく、と肚をくくるでもなく、
ビジネスの現場への未練を捨て去るわけでもなく。
たぶん、まだしばらくは、ふらふらとするのだろう。

あらゆる可能性に貪欲で居たい。
きっと、ただそれだけが、自分自身の行動原理。
2012年は、それを、再確認した一年でもあった。

—–

三十路にもなれば、もう少し、世の中が分かるようになる、
そんなふうに思っていた。
もう、いいオトナじゃないかと。

だが、実際になってみると、わからないことだらけだ。
わからないことをわからないままに諦めることが増えていくだけだ。
ということがわかった。

全く、人生ってやつは難解だ。

わからないことって、減らないもんなんだな
扉を開けたら、また、次の扉があるだけ

Go!Go!7188「ふたしかたしか」より

果てのない、そして、たいした意味もない禅問答を繰り返しながら、
まもなく、三十一歳の扉が開く。(元旦が誕生日なので)

あらゆる可能性を広げるための努力を惜しまない。
2013年は、そんな一年になりますように。

2012/12/22

去る、12月16日、ブータンシンポジウムが開催された。
ブータンに関わりはじめて、早3年。
これまで、多くのブータン関係者と交流を深めてきたが、
今回は、初めてといってもいい、大規模イベントである。
総勢、およそ130名が、「ブータン」だけを目当てに集まった。

(いや、規模で言えば、昨年のブータン国王来日レセプションは、
 400名以上が集まったのだが、それはさておき…)

実は今回、企画の段階からスタッフとして関わらせていただいた。
日本ブータン友好協会から、「ぜひ若手に」とお声がけいただき、
登壇者への連絡から、広報活動まで、裏方を務めさせてもらった。

準備期間は、およそ半年間。
当初は、まだまだ時間があると思っていたものの…
あれよあれよと時間は経ち、
おまけに、自分も分科会で発表いただくことになり、
最後の1ヶ月は、まさに怒濤のように過ぎていった。

当日は、有難いことに満員御礼。
おそらく数々の不手際があったとは思うが、
大きなトラブルも無く、閉会までこぎつけることができた。
この場を借りて、ご参加いただいたみなさまに御礼申し上げたい。

世は「ブータン」ブームと言われてはいるものの、
シンポジウムまで参加してみよう、という方はおそらく稀だとは思う。

しかしながら、今回、個人的にお声かけさせていただいた、
多くの知人、友人が、「行きたい」と手をあげてくれたことが、
何よりも、支えとなって、なんとか走り切ることができた。

大学の授業で出会ったブータン…のお隣のインド研究者。
元勤め先で、同じく脱サラ大学院生をやっている先輩。
セブ島留学中に出会った女子大生。
そして、ブータンで出会い、日本で再会した方々。

改めて、みなさんに、心から感謝の気持ちを伝えたい。
そんなふうに思えた一日だった。

どうやら、普段はこんなひねくれた人間でも、
「ブータン」と関わっているときだけは、素直で居られるらしい。

もちろん、ホスト側なので、「有難い」というのは自然な態度なのだが、
なんだか、ブータン側の目線に立ったような、
そんな不思議な面映さを感じながら、家路についた。

—–

ちなみに。
翌12月17日は、ブータンナショナルデイ(建国記念日)。
例年、日ブ友好協会は、都内で祝賀パーティを開いているのだが、
今年は、もちろん、シンポジウム懇親会を兼ねて開催、と相成った。
(というか、そもそもこの日程はそこから決まった)

思えば、去年は、当日無茶振りで司会を任された、因縁の日。
参照) http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=346

今年は、スタッフ統括という立場を利用して、若者に大役を押し付け、
悠々とビールにありつくことができた。
彼には申し訳ないことをしたが、
きっと彼もああいう役回りが好き…なはずだ。
きっとそうだ。

本会議までは張りつめていたので、なかなか落ち着けなかったが、
ようやく一息ついて、参加者のみなさんとも、ゆっくり話ができた。
しばらくぶりに再会した面々も多く、さながら同窓会のような雰囲気だった。

それにしても、写真の一枚も撮らなかったことが悔やまれる…

—–

今年は、残念ながらブータンを訪れることができずじまいだったが、
年の瀬に、大いにブータンを感じるイベントに参加することができ、
また新たに、自分自身の研究もがんばらねば、という気にさせられた。

さて、この熱が冷めないうちに、次のフィールドワークの計画を立てねば…

2012/11/15

ご無沙汰しております。
随分とコラムを放置してしまい、編集部からもお叱りを受け、
さあ、そろそろ、と思い立ったはいいものの、
さて、大学院生というものは、なんとネタが少ないことか。

という言い訳はさておき、今週から何度かに分けて、
大学院生活「セブ島留学編」をお届けしたいと思う。

まず初回は、留学決定〜出国〜留学生活スタートまでを描いていこう。

—–

思い返せば、セブ島が格安英語留学のメッカになりつつある、
という情報を得たのは、今年2月頃のこと。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=363

博士課程入試で、嫌という程、自分の英語力の無さを痛感したため、
さすがにこれはテコ入れをせねば、という意識はあったものの、
さて、御歳三十にもなって、欧米へ語学留学、というのは、
なかなかどうしてハードルが高い。

大学で交換留学の制度でも利用できれば良いのだが、
博士課程ともなってしまうと、単純に語学力向上を目的にした留学、
というコースは皆無で、「流体力学についてバリバリ英語で講義するよ!」
みたいな、激しく専門性が要求される形式しか有り得ない。

もちろん、前提条件として、TOEICだかTOEFLだかの点数も、
激しく高い点数が要求される。
や、そもそもその点が取れねえから留学すんだよ…と言いたいところだが、
そういうことは学部時代に済ませておくべきもの、らしい。
げに日本社会は道を外した者に優しくない。

閑話休題、そんな自分にとって、セブ島留学は、まさに渡りに船。
自分の懐をさほど痛めず格安で留学ができ、
社会人も多いということで、三十路でも浮かずに済み、
そして、何より、1対1授業なので、ちゃんと英語力が身に付く!
(意外と三番目が重要だ。英語が身に付かない留学も五万とある)

善は急げと、セブ島の語学学校の調査をはじめ、
いくつかの留学エージェントからの情報を元に検討を重ね、
ついに、留学を決めたのが、今年の5月のこと。
留学期間は、もろもろ勘案して、8月いっぱいの4週間となった。

—–

出国は、7月29日(日)。
前日の酒も抜け切らぬ中、早朝5時起きで成田へ向かう。
成田からフィリピンの首都マニラを経由して、一路セブへ。

フィリピンは雨期ということもあり、マニラはあいにくの雨。
というか、スコール。完全に豪雨。

仕方なく雨に濡れながら国内線ターミナルに移動し、乗り継ぎ便を待つ。
すると、何故か、搭乗口前で自分の名前がコールされる。
「なんかやらかしたかなあ」と怯えながらカウンターへ行くと、
なにやら、「オーバーブッキングしてしまったので、お前の席を
アップグレードしてやるぜこんちくしょう」と言っている。
かくして、マニラ→セブ間が、ビジネスクラスになり、
超絶快適な1時間半を過ごすことができた。
幸先が良すぎる。

セブに着くと、語学学校の迎えのスタッフと合流。
車に乗ること約10分で、学校に到着した。
その間、目にしたのは、実にアジアらしい、喧噪とそして小汚さ。
「セブをリゾートだと思って行くと酷い目に遭う」
と聞いてはいたが、なるほど、これはハネムーンで来たカップルには、
大層堪える光景だろう、などと旅慣れた余裕を吹いてみる。

さて、語学学校のフロントで早速チェックインをしたわけだが、
ここでもまた、アジアらしい洗礼を受けることになる。
そう、フィリピン人もご多分に漏れず、「適当」なのだ。
フロントでは、どう考えても使い回しの用紙に必要事項を書かされ、
「明日8時にこのへんに来てね」とだけ言われて放置される。
飯食う場所くらい教えてくれよ、と思いつつも、
いよいよ、アジアに来た実感が涌いてくる不思議。
自分の足でぶらついて、何となく、どこに何があるかを把握する。
ひとまず、食堂の場所だけわかっておけば、飢えることはなさそうだ。

翌朝。
オリエンテーション。
比較的日本人の少ない学校を選んだ…はずだったのだが、
オリエンに出席してるのは、どう見ても全員日本人だ。
しかも、親子連れや学生らしき子などなど、全て…女性。
これは予期していなかった展開。

そんな動揺を尻目に、スタッフがユルい流れでオリエンを進めていく。
レベルチェックテスト、健康診断、写真撮影を終えて校内ツアーへ。
この学校、寮と教室が一体化した建物で、授業中であっても、
その時間帯に授業が無い学生があちこちうろうろしている。
うろうろしているだけではなく、お子様達が元気に駆け回ったりもしている。
いろいろ予想外ではあったが、これはこれで楽しむほかない。

午後、オリエンを受けたメンバーで買い物へ。
とはいえ、食事は三食付いているし、
洗面用具は、以前ホテルから調達したアメニティを持参したし、
さほど喫緊で必要なものもない。
が、女性陣はそうでもないらしく、
我先にとショッピングセンターの中へ消えて行った。

寮へ戻ってきて、夕食を摂る。
和歌山から来たという母娘と同席することに。
小学校6年生で夏休みを利用して連れてきてるのだという。
いやはや、小学生でセブ島に留学するとは、凄い時代になったもんだ。

そんなこんなで、留学生活は騒がしくスタートした。

(続く)

2012/06/28

最近、個人的にツボにハマった論文がある。

なぜ、蚊は雨で死んでしまわないのか?┃WIRED.jp
http://wired.jp/2012/06/18/mosquito-rain/

目の付け所が秀逸であることもさることながら、
より「いいね!」と言えるポイントは、
1本の論文の内容を、わずか3分弱の映像に昇華させていること。
視覚的に働きかけることによって、ズブの素人にも、
その科学的根拠が肚落ちできるような仕掛けが施されている。

自分自身、研究畑に片足を突っ込んでいる人間にも関わらず、
活字を読むのがあまり得意ではない。
どちらかといえば、脳内にヴィジュアルで記録するタイプだ。
本を読む時も、1ページ、1ページを写真に撮るようにして記憶する。

手前味噌ながら、昔は記憶力が良い方だったと自負している。
高校時代、友人のノートを試験前の15分だけ貸してもらって、
当の友人よりも良い点数を取ってしまったことがあり、
それ以来、その友人がノートを貸してくれなくなったのは、
いまとなっては懐かしい思い出だ。

だが、時が経つごとに記憶力が弱っているという閉塞感は否めない。
というより、もう記憶容量がいっぱいでこれ以上入らない、
という感覚に近いようにも思う。
そして、それは、単純な老化、というだけではない気がする。

1ページ、1ページが、テキストデータであれば、
脳内に占める容量は小さくて済む。
しかしながら、それが画像データになった途端に、
ファイルサイズは何十倍にもなる。
脳内HDDはあっという間に容量オーバーで、
新しいものを覚えるために、古い記憶を消去しなければならない。
なんだか、そんなデジタルな解釈がしっくりきてしまう。

だから、ヴィジュアルインプット型のヒトは、
記憶の鮮明度(解像度)は高いが、
あまりたくさん記憶できないのではないか。
そんなことにまで考えが及んでしまう。
本当のところは定かではないが。

勿論、そういう人間の方が特異なのは承知の上なのだが。

ちなみに、「数字が風景に見える」で一世を風靡した、
サヴァン症候群という症例があるが、
自分の能力は、とてもじゃないが、あんなレベルには達していない。
幸か不幸か。

………………………………………………………………………

ヒトのインプット型とアウトプット型を大別すると、
概ね、以下のようになると思われる。

テキストインプット→テキストアウトプット(=TT型)
テキストインプット→ヴィジュアルアウトプット(=TV型)
ヴィジュアルインプット→テキストアウトプット(=VT型)
ヴィジュアルインプット→ヴィジュアルアウトプット(=VV型)

これを研究者に置き換えた場合、
テキストインプット型の代表格は、文献研究、
ヴィジュアルインプット型といえば、フィールドワークを、
それぞれ研究手法として用いる人々、ということになろうか。

しかし一方で、研究者のアウトプットは、
テキストアウトプット型、すなわち論文執筆が大前提である。
自分としては、この部分に引っ掛かりを覚えて仕方ない。

できることなら、
一言、あるいは、一枚のヴィジュアルで全てを表すような、
そんなアウトプットこそが、究極のあるべき姿だとさえ思っている。
そんな自分は、たぶん、研究者としては既に異端なのだろう。
それこそ、コピーライターでも目指せよ、という話なのかもしれない。
そもそも、ここでこんなコラムを書いている場合ですらない。

ただ、文章が書けないから、ヴィジュアルに頼る、
というふうに思われるのも、なんだか癪だ。

テキストとヴィジュアル、それぞれに向き不向きがある。
どちらかに拘泥するのではなく、状況に応じて使い分ける、
そういう柔軟性が、これからの研究者には求められるようになる、
そんな、ささやかな予感がある。

2012/06/21

脱サラから早2年。
博士課程に進んだことで、いよいよ、研究者、という生き方を、
割と真剣に考え始めた。
いや、本来は、博士課程に進む前に考えておくべきなのだが…

奨学金や研究費を得るための書類を書いたり、
助手などの研究職の募集をちらほらと眺めていると、
「研究」という領域において求められる「実績」というのは、
一にも二にも「論文を書くこと」、だということがわかる。

もちろん、その論文を発表したりという場が無い訳ではないが、
どちらかというと、論文の副産物として、発表の場が設けられる、
というパターンが圧倒的に多く、
どんなに素晴らしい発表をしたとしても、あくまでも評価されるのは、
論文の出来であって、プレゼンテーションの上手さではない。

結果、論理的整合性のあるテキストを書く、というスキルのみが、
日々強化されていくことになる。

そんな事情もあってか、
自分のことを棚に上げて言うのも憚られるのだが、
アカデミックな領域で生きてきた人達というのは、
正直言って、プレゼンテーションがあまり上手くない。

大学の授業で教壇に立つ教授たちを想像してもらえばいいのだが、
ダラダラと長い文章が書かれたパワーポイントをただひたすら読む、
という単調さに、ついうたた寝をしてしまった経験がないだろうか。

文章構成力や聴衆の前で話す能力には長けているので、
説得力のある授業をする先生、というのはいないわけではないが、
ヴィジュアルに訴える力は総じて弱い、と言わざるを得ない。

学部の学生時代には、よくこんなんで教授になれるものだ、
と思っていたものだが、院生という立場になって改めて考えると、
どうやら、あんな「だからこそ」教授になれるのだ、
ということがだんだんとわかってきた。

………………………………………………………………………

ただ、個人的には、そうした論文書きの研究者には物足りなさもある。

せっかく良い研究をしていても、どんなに革新的な論文を書いても、
悲しいかな、世間がそれを知る場というのは非常に少ない。
万が一そのような機会を得たとしても、プレゼンがヘタで上手く伝わらない。
というのでは、実に勿体無い。

クリエイティブなプレゼンなんて、広告屋に任せておけばいい。
自分の研究がどう世の中に活かされるかは、
世の中次第であって、自分の知ったことではない。
というのが研究者の共通理解なのかもしれないが、
さて、本当にそうだろうか。

「研究」とはいったい何のためのものなのか。
「人間は考える葦」なのだから、結局は自分自身の好奇心を満たすため、
というのは一つの真理ではあるのだが、
そんな哲学問答ばかりで世の中まわっているわけではない。

「研究」によって、世界というものをよりよく知るため、
そして、少しでも社会を上手く前に進めていくため。
世界を変えるため、と言い換えてもいい。
それが、研究者の本分であろうと、個人的には思う。
綺麗事であることは承知の上だが。

そして、そうであるならば、研究成果というのは、
研究者の閉じたコミュニティの中だけで流通させるのではなく、
社会一般に伝える義務が研究者にはある、というのが持論。

一方で、研究成果を外に伝えるのは、研究者の責務ではなく、
また別の誰かの仕事だ、という人もいるかもしれない。

たしかに、これまでの研究者というものは、縁の下の力持ちであり、
メディアからの依頼があれば出向いて解説する、というスタンスだった。
あるいは、出版社からの依頼があれば、書籍を書く、
というアウトプットが選択されることも多かった。

ただ、1億総メディア化時代に突入したいま、
そうした受身の姿勢で、果たしてどこまで食いつないでいけるだろうか。

(続く)

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